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15.名前
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馬車に揺られること二日。ようやく国境が見えてきた。
一昔前には、王都から国境まで馬車で移動するにはそれなりに時間がかかったらしい。町と町を繋ぐ道を舗装したりと工夫を重ね、だいぶ時間を短縮できるようになったとはいえ、まだまだ時間はかかる。
揺れが止まったのを確認してからぐっとこわばった体を伸ばす。
道中は宿に泊まりはしたけど、慣れないベッドでは満足に休めていなかったようで、少しだけ疲労感がある。
「国境を抜ければあと少しですので、もう少し我慢してくださいね」
向かいに座るアシュトン卿に頷いて返す。
国境を隔てる高い壁。その先にはクラルヴェインの国土が広がっている。まず最初に滞在するのは、クラルヴェインのミドガルド領だそうだ。アシュトン卿の親戚が統治しているわけではないが、仮住まいを構えているのでそこに世話になるのだとか。
そうして旅の疲れを癒してから、クラルヴェインの王都に向かう手筈になっているらしい。
――というのを、この二日で教えてもらった。
「まもなく国境警備の方が回ってくると思うので、こちらを出してください」
そう言って渡されたのは、身分を証明するための印。大き目の金貨のようなものにアルデルク侯爵家の家紋が刻まれ、隅のほうに個人の名前が掘られている。
だけど私の名前はそこにはない。あるのは――当然といえば当然だけど――エミールの名前。アシュトン卿の手の中にも似たようなものがあり、そこにはクリストフ家の家紋と彼の名前が記されているのだろう。
オリヴィアは今、城にいる。その彼女が国境を超えるはずがないのだから、エミールの証明書が渡されるのは当たり前だ。
だけどそれを実感すると、胸の奥に鈍い痛みが広がる気がした。
「昨日もお話したように、あなたのことは友人として先方に伝えてあります。侯爵家の――次期王妃を輩出する家の令嬢が来ると知られたら、驚かせてしまうと思うので」
「え、あ、はい。存じております」
私の胸の痛みに気づいたのか、気づいていないのか、くるりと話の方向性を変えたアシュトン卿に相槌を打つ。
「わざわざ隠す必要はありませんが、わざわざ言う必要もない、程度に覚えておいていただければ。下手に騒がれるのも面倒でしょうし」
そこで、コンコンと馬車の扉が叩かれる。警備が巡回してきたようだ。
アシュトン卿が差し出した身分証を確認し、私のも確認すると、警備の人は「よい旅路を」と言って去っていった。
「そこでお聞きしたいことがあるのですが」
扉を完全に閉めてから、アシュトン卿がちらりと私に視線を送った。
少し悩むようにさまよっている琥珀色の瞳に、なんだろうと首を傾げる。
「名前はどうしますか? オリヴィア……とはさすがに名乗れませんが、それ以外でしたらご希望の名前であちらに紹介しますよ」
「……名前、ですか」
「はい。エミールと呼ばれても、とっさには反応できないでしょう? 馴染みのある名前のほうが、なにかと都合がいいと思うので……呼ばれてすぐ反応のできるものであればなんでも構いませんよ」
馴染みのある名前と言われても、とっさには思いつかない。
何かないだろうかと考えて――ふと、幼少期の思い出がよみがえる。
「それでは……リヴィ、と呼んでいただければ。子供のころはよく、そう呼ばれていました」
たとえば家族や家老――親しい間柄の人には「リヴィ」や「リヴィお嬢さま」と呼ばれていた。
アルベルト殿下の婚約者になってからは、二歳も上の彼に見合うように大人びた呼び方をされることを望んだので、そう呼ばれる機会はめっきり減ったけど。
「そうですか……それでは、リヴィ嬢と……いえ、リヴィとお呼びしても? 一応、親しい友人ということになっているので」
「ええ、構いませんよ。それでは私も……アシュトン、と呼んだほうがいいですか?」
「そうですね。そのほうが、旅の道連れにするぐらい親しくみえると思います」
アシュトン卿が頷いたところで、ガタンと馬車が揺れた。
どうやら動き出したようだ。国境を越えるために。
一昔前には、王都から国境まで馬車で移動するにはそれなりに時間がかかったらしい。町と町を繋ぐ道を舗装したりと工夫を重ね、だいぶ時間を短縮できるようになったとはいえ、まだまだ時間はかかる。
揺れが止まったのを確認してからぐっとこわばった体を伸ばす。
道中は宿に泊まりはしたけど、慣れないベッドでは満足に休めていなかったようで、少しだけ疲労感がある。
「国境を抜ければあと少しですので、もう少し我慢してくださいね」
向かいに座るアシュトン卿に頷いて返す。
国境を隔てる高い壁。その先にはクラルヴェインの国土が広がっている。まず最初に滞在するのは、クラルヴェインのミドガルド領だそうだ。アシュトン卿の親戚が統治しているわけではないが、仮住まいを構えているのでそこに世話になるのだとか。
そうして旅の疲れを癒してから、クラルヴェインの王都に向かう手筈になっているらしい。
――というのを、この二日で教えてもらった。
「まもなく国境警備の方が回ってくると思うので、こちらを出してください」
そう言って渡されたのは、身分を証明するための印。大き目の金貨のようなものにアルデルク侯爵家の家紋が刻まれ、隅のほうに個人の名前が掘られている。
だけど私の名前はそこにはない。あるのは――当然といえば当然だけど――エミールの名前。アシュトン卿の手の中にも似たようなものがあり、そこにはクリストフ家の家紋と彼の名前が記されているのだろう。
オリヴィアは今、城にいる。その彼女が国境を超えるはずがないのだから、エミールの証明書が渡されるのは当たり前だ。
だけどそれを実感すると、胸の奥に鈍い痛みが広がる気がした。
「昨日もお話したように、あなたのことは友人として先方に伝えてあります。侯爵家の――次期王妃を輩出する家の令嬢が来ると知られたら、驚かせてしまうと思うので」
「え、あ、はい。存じております」
私の胸の痛みに気づいたのか、気づいていないのか、くるりと話の方向性を変えたアシュトン卿に相槌を打つ。
「わざわざ隠す必要はありませんが、わざわざ言う必要もない、程度に覚えておいていただければ。下手に騒がれるのも面倒でしょうし」
そこで、コンコンと馬車の扉が叩かれる。警備が巡回してきたようだ。
アシュトン卿が差し出した身分証を確認し、私のも確認すると、警備の人は「よい旅路を」と言って去っていった。
「そこでお聞きしたいことがあるのですが」
扉を完全に閉めてから、アシュトン卿がちらりと私に視線を送った。
少し悩むようにさまよっている琥珀色の瞳に、なんだろうと首を傾げる。
「名前はどうしますか? オリヴィア……とはさすがに名乗れませんが、それ以外でしたらご希望の名前であちらに紹介しますよ」
「……名前、ですか」
「はい。エミールと呼ばれても、とっさには反応できないでしょう? 馴染みのある名前のほうが、なにかと都合がいいと思うので……呼ばれてすぐ反応のできるものであればなんでも構いませんよ」
馴染みのある名前と言われても、とっさには思いつかない。
何かないだろうかと考えて――ふと、幼少期の思い出がよみがえる。
「それでは……リヴィ、と呼んでいただければ。子供のころはよく、そう呼ばれていました」
たとえば家族や家老――親しい間柄の人には「リヴィ」や「リヴィお嬢さま」と呼ばれていた。
アルベルト殿下の婚約者になってからは、二歳も上の彼に見合うように大人びた呼び方をされることを望んだので、そう呼ばれる機会はめっきり減ったけど。
「そうですか……それでは、リヴィ嬢と……いえ、リヴィとお呼びしても? 一応、親しい友人ということになっているので」
「ええ、構いませんよ。それでは私も……アシュトン、と呼んだほうがいいですか?」
「そうですね。そのほうが、旅の道連れにするぐらい親しくみえると思います」
アシュトン卿が頷いたところで、ガタンと馬車が揺れた。
どうやら動き出したようだ。国境を越えるために。
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