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第一章
2-2
しおりを挟む公爵家の使用人たちは日々騒然としていた。
理由は単純――この家の次男坊の周りで不可解な出来事が、次々と起こっているからである。
この日も朝から様子がおかしかった。
「おはようございます、シオン様。今日もお目覚めが早いですね」
部屋に入った若いメイドがそう声をかけた瞬間、ふわりと空気が揺れた。
「……あれ? 窓、開いてませんよね……?」
メイドが首をかしげる間に、部屋のカーテンがふわりと舞い、書類がひらりと浮いた。
床に並んでいた積み木までもが、何かに押されたようにフワ……と浮遊する。
「うぇ……うぉぉお!? な、なんですのこれ!!」
慌てて積み木を押さえようとしたメイドだったが、体の方が先に浮かびかけた。
彼女は慌てて机につかまり、ようやく体を落ち着けたが、顔は真っ青だ。
「……また……また、妙なることに……なりしか……」
部屋の中央には、幼い姿のシオンがぽつんと座っていた。
長い睫毛を伏せ、両手をぎゅっと握りしめたまま、体を震わせている。
「すまぬ……またしても……余の力が……抑えられなんだ……」
「い、いえ! いいんです! ご無事でさえあれば!」
そう返しながらも、メイドの手は震えていた。
そのとき――
ひゅうぅぅぅぅっ……
窓が閉まっているにも関わらず、部屋に冷たい風が流れ込んできた。
真夏の朝だというのに、空気は一気に冷え込み、白い息がほうっと浮かぶ。
「……さむ……っ。な、なんで……?」
従者が戸惑いながら腕をさすっていると、今度は逆に、空気が熱を帯びたように歪み始めた。
「ひっ……!? あっつ……っ!? え、え?ええええ!?」
天井に吊るされたシャンデリアがミシミシ……と音を立てて揺れだす。
机に置かれたインク瓶がカタカタ震え、床に転がる丸い積み木が勝手に転がり始めた。
「シオン様!? しっかり……!」
「あかぬ……止まらぬ……! なにゆえ……なにゆえ沈まぬのじゃ……っ」
震える声が、真っ白な唇からこぼれる。
「これ以上は……ならぬ……これ以上、出でてはならぬぞ……!」
目を閉じ、シオンは必死に息を整える。
その幼い体から、見えない波のようなものがじわじわと広がっていった。
やがて、ぱんっ!と何かが弾ける音がして――
宙に浮かんでいた本やカーテン、机の上の小物たちが、一斉に床へ落ちた。
しん、と静まり返る部屋。
「……お、終わった……?」
メイドがそっと手を離すと、今度は、部屋の空気がまるで春の陽気のように穏やかに包み込む。
「……また……仕出かしてしもうた……そなた、わらわに……腹を立てておるのか……?」
シオンは小さく呟いた。
そう、彼は怒られると思っていた。
力を暴走させてしまったこと。
屋敷の物を勝手に浮かせてしまったこと。
温度をめちゃくちゃにして、メイドを怖がらせてしまったこと――
でも。
「……いえ、怒ったりなど、いたしません」
メイドはゆっくりと膝をつき、同じ目線にしゃがみこんだ。
「シオン様は……ご無事でいらっしゃいますから。それだけで……私どもは嬉しゅうございます」
その言葉に、シオンは目を丸くして彼女を見上げた。
「まことか...?」
「ええ。ほんとうです」
メイドの笑顔は、どこまでもあたたかかった。
その姿を見て、シオンはようやく微笑んだ――まるで、迷子の神様が少しだけ人の優しさを思い出したように。
別日、部屋に入ったメイドが、蝋燭の火を見て首を傾げた。
昨夜から灯していたはずの蝋燭が、まったく減っていない。芯も蝋もそのまま、まるで時間が止まったかのようだった。
「……おかしいわね。こんなに綺麗なままなんて」
メイドは火消し帽を手に取り、ゆっくりと炎にかぶせる。だが、炎は消えなかった。
「……あれ?」
帽をもう一度深く押し当て、布巾で覆い、さらには息を吹きかけるが、それでも炎はゆらゆらと揺れ続ける。
「なんで消えないの……?」
背後から、ちいさな足音が聞こえた。
「また、蝋燭が言うこと聞かんのかえ?」
くすぐったいような響きを持つ声に振り返れば、シオンがゆっくりと近づいてくる。
小さな手がそっと蝋燭に向けられた瞬間、ふっと、何事もなかったかのように火が消えた。
「……」
メイドはしばらく固まったまま動けなかった。
またある日は、廊下に据えられた大きな鏡の前での出来事だった。
その鏡は古く、装飾も見事な年代物。来客用として磨き込まれたそれに、通りかかったシオンがふと足を止めた。
自分の姿が映った瞬間、彼はむず痒そうに眉をひそめる。
「……やっぱり、この装束、どうにも着づらいのう……」
鏡の中に映るのは、淡いクリーム色の上質なチュニックと、膝丈のズボン。
繊細な刺繍が施された高級子供服は、貴族の子息らしく品があり、仕立ても良い。けれど――
「すそが短いし、帯も細いし……この肩の空き具合、なんや、落ち着かん……」
袖をそっと引っ張ってみるが、もちろん布は足されるわけもなく、シオンはうっすらとため息をついた。
「わらわ、もっとこう……裾がひらひらして、白ぅて、重たくて……あれの方がしっくりきたんやが……」
神としてあった頃、彼がまとっていたのは、重厚な白装束に金の縁取り。
衣擦れの音さえ神聖に感じられるような、威厳を纏った衣であった。
いまの服は、軽い。柔らかく、肌触りもいいが――どこか、心もとない。
「……どこかが足りひんのやけどなぁ……」
そうぼやく子供の瞳は金色に輝いている。
その様子を背後から見ていたメイドたちは、息を呑んだ。
「……また……金色……」
「ええ……やっぱり、黒じゃない……」
鏡の中でだけ、まばゆいほどの金色に光る瞳。
けれど、実際に見えている彼の瞳は、深く黒い。
「シオン様、そのお召し物、とてもよくお似合いですよ」
メイドのひとりが慌てて声をかける。
「まことか? されど、似合うと申されても……なんとも落ち着かぬて、裾がすうすうして敵わぬのじゃ……」
シオンはそう言って眉を寄せたまま、袖口をそっと掴み直すのだった。
そして、フォルシェンド家を騒然とさせた事件が起きたのは、その翌朝だった。
「……シオン様の部屋が……ない!?」
いつも通り朝の支度に向かったメイドが叫んだ。
彼の部屋があったはずの場所には、ただの壁があるだけだった。ドアも、窓も、家具の影もない。
まるで、最初からそこに部屋など存在しなかったかのように――
「これは……一体……?」
「まさか、そんなことあり得るの……?」
クローヴィスは顔色を変えて駆けつけ、魔導士たちを呼び、グラーヴェも剣を腰に屋敷中を駆け回る。
「シオン! どこだ!」と必死の声が響く。
屋敷中が混乱の渦に包まれる中、使用人たちも涙を浮かべて探し続けた。
そんな中――
台所の奥で、甘い香りと共に、とある少年がクッキーをかじっていた。
「ふふ、これは誠にうまきのう……」
椅子によじ登り、器用にお菓子をつまんでいるのは、他でもないシオンその人だった。
「……シオン様ぁぁぁぁぁぁああああっ!!」
台所に駆け込んできたメイドの絶叫が響き渡る。
「ど、どこにいらしたんですか!? みんな屋敷中を探し回って……!」
「ん? よき香りがしたゆえに、つい匂ひを頼りて参りしが……」
ぽつりと答えたシオンは、さして悪びれる様子もない。
「ここの甘味、なんとも美味なり。昔口にしておった菓子とは、まるで趣きが異なるのう……されど、うまきことこの上なし。まことに美味じゃ。」
彼のそばには、汗をかきながらも苦笑いを浮かべる料理人の姿があった。
「……申し訳ありません。おやつの準備をしていたところに、シオン様がふらりと現れて……。クッキーに興味を持たれたようなので、少しだけ渡したのです。まさか、そんな大騒ぎになっていたなんて……」
その言葉に、周囲は脱力し、安堵と疲労でその場に崩れ落ちる者もいた。
そんなこととはつゆ知らず、シオンはクッキーを口に含み、ほっとため息をつく。
「んま……♡」
シオンは気付かない。
ただ彼が歩いただけで、空間が歪み、時が揺らぎ、世界が静かに跪いていることに――
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