公爵家の五男坊はあきらめない

三矢由巳

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25 愛する者を手離してはいけない

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 寝室に入ったグスタフは館に入った後エルンストにまったく会っていないことに気付いた。食事も何もかも別だった。確かにエルンストは使用人だから当然のことである。けれど、落ち着かなかった。
 呼び鈴を鳴らすと中年の侍女が来た。エルンストを呼ぶように命じた。侍女がはいと言って五分もせぬうちにエルンストが現われた。使用人の着るトラウザーズ姿だった。
 エルンストは公爵家の使用人なのだと思い知らされたような気がした。

「若様、お呼びでしょうか」
「グスタフでいい」
「おそれながら、私は使用人です。お名前を呼ぶわけには参りません」

 伏し目がちに言うエルンストの姿にグスタフはため息をついた。いずれ、この屋敷を出て王宮に入ることになれば、公爵家使用人のエルンストと別れねばならない。エルンストはすでに覚悟をしているのだろう。ならば自分も覚悟をして、彼を使用人として扱わねばならないのだろう。
 あきらめることには慣れている。だからエルンストと今までのように話すのをあきらめよう。グスタフはわかったと言おうとした。
 けれどグスタフの心の奥ではあきらめることを良しとしなかった。彼の口は理性を裏切った。

「いやだ」
「若様?」

 とまどうエルンストの目は湖の色だった。そこに映るのはグスタフだけだった。
 駄目だ。諦めきれない。グスタフは叫んだ。

「俺は、いやだ。俺はおまえを王宮に連れて行く」

 あきらめたら死が待っている。肉体の死ではなく、心の死だ。
 あきらめて愛する者を手離した父の人としての心は死んだのだ。だから父は悔いていたのではないか。

「エルンスト、おまえを離さない」

 グスタフはとまどい立ちすくむエルンストに駆け寄り抱き締めた。

 そのまま、勢いで口づけた。
 馬車の中で口づけされた時に感じた欲望を思い出す。グスタフは舌で唇をこじ開け、舌で舌に触れた。エルンストの舌は柔らかく温かだった。ぬるりと湿った感触は艶めかしく、身体が熱くなってきた。
 エルンストは呆然としたまま、口づけを受け入れたものの、グスタフの唇が離れるとつぶやいた。

「いけません」

 エルンストの言うことは正しいのかもしれない。世間の人々はグスタフの行ないを非常識と言うだろう。けれど、グスタフにとってエルンストだけが手離してはならぬ者だった。

「おまえが遠くなってゆくのが嫌なんだ」
「遠くなるのではありません。私は乳母の子、公爵家の使用人です。本来の身分に戻るだけです」
「それが遠くなるということだ」

 グスタフはそう言うと腕の力を強めた。エルンストは離れようともがいた。勢い余ってグスタフの胸を押してしまった。グスタフは身体の均衡を崩し、床に尻もちをついた。
 あっと叫んだエルンストは慌ててグスタフの傍に跪いた。

「申し訳ありません」

 グスタフはエルンストの瞳の湖があふれそうになっているのに気付いた。

「お許しください」
「そんなに嫌だったのか」

 グスタフは思う。自分はなんと傲慢だったのか。エルンストの誇りを傷つけてしまったのかもしれない。これでは、父やエリーゼ達のやったことと同じではないか。

「嫌とかそういう問題ではありません。若様はこの先お妃様を娶り御世継を儲けねばなりません。私などにさようなことをしてはなりません」

 エルンストは一息に言った。

「嫌ではないということか」
「私は男です。御世継は産めないのです。離さないと言われてさようなことをされても、何の実りもないのです。国のためにはなりません。ですから、どうかお忘れください。忘れて即位して、お妃様と幸せになってくださいませ」
「妃や世継ぎは関係ない。おまえの気持ちを尋ねているんだ。嫌なのか、それとも嫌ではないのか」

 グスタフにはそれが一番の問題だった。妃や世継ぎなどは先の話だ。それに本当に自分が国王になるのか、まだ決まってはいないのだ。不確実な未来より大切なのは今目の前にいるエルンストだった。

「勘弁してください」
「それは選択肢にはない。嫌か、嫌ではないか、どちらか一つだ」

 グスタフはそれだけが知りたかった。嫌なら嫌でいい。その時は自分の気持ちを伝えるだけだ。あきらめたらエルンストは遠ざかるだけだ。もし嫌ではなかったら、もっと自分の気持ちを伝えてみせる。言葉だけでなく身体でも。
 しばし沈黙の時が過ぎた。グスタフは耐えねばならぬと思った。エルンストがまことの気持ちを伝えるまで。

「若様、私は汚らわしい男なのです」

 唐突なエルンストの告白だった。グスタフは結論を聞くのも忘れていた。

「どこが汚らわしいんだ。エルンストの髪はきれいだし、目も湖のように美しい。唇もみずみずしい。どこも汚くはない」
「心です。私は口にするのもおぞましい穢れた心の持ち主です。主であるあなたさまを心の中で幾度も汚したのです。あなたさまを手に掛けようとした方々となんら変わりありません」
「汚したとは、どういうことだ。わかるように言ってくれ。おまえはいつも難しいことを言う。もっとわかりやすく言ってくれないと困る」
「それは……」

 エルンストの白い頬に朱が差した。グスタフは思わず生唾を呑み込んでしまった。

「お気に障ったら、どうか何も言わず私を成敗してください。死骸はどこかの共同墓地にでも投げ捨ててください」

 一体、エルンストは何を語ろうとしているのか、グスタフは耳を傾けた。

「私は、物ごころつく前から若様と共に育ち、身の程をわきまえず、一緒に勉強し剣を習い、村に行き畑仕事を手伝ったり、猪や鹿狩りに興じていました。それが私を勘違いさせたのです。ただの使用人であるのに、私はいつしか、若様を夢の中で汚すようになりました。口にもできぬようなおぞましいことを私はしていたのです。冬至の夜の一件の後、若様が私を目覚めさせてくださった後も、私はおぞましい夢を見、己を慰めていたのです。なんと罰当たりなと我ながら思います。レームブルックから一緒に馬車で出る時も、私はあなた様がそばにいるのが嬉しかった。命がかかっているというのに。馬車が揺れてあなたの身体が私に触れるたびに、私は歓びを感じていたのです。あの口づけにも。若様にとっては厳しくもつらい旅であったはずなのに。もうおわかりでしょう。私は穢れているのです。汚らわしい男です。こうして同じ場所にいて話をするのも許されぬほどに」

 エルンストの顔は涙に濡れていた。
 グスタフはまるで鏡に映った自分のようだと思った。

「俺も同じだ。俺もずっとおまえを思い、己を慰めていたし、馬車の中でおまえの身体が触れる度に歓びを感じていた。馬車の中でのあの口づけは嬉しかった。おまえが穢れているなら、俺も穢れている」
「私がお傍にいるからそうなったのです。なおさら私はお傍にいるわけには参りません」

 エルンストは口を引き結んだ。悲愴な表情が、グスタフの感情を乱す。こんな時でもエルンストは美しい。

「改めて言う。おまえを離さない。ずっと一緒にいてくれ。父が言っていたのだ。愛する者を手離してはいけないと。おまえも私を愛してくれているのならなおさら」
「愛ではありません。愛とはもっと崇高なもののはず。私のは肉欲です」
「俺とともに戦い、傷付くことを厭わなかったおまえに愛がなかったとしたら、この世のどこに愛があるのだ」
「ございます。いつかあなた様を愛することになるお妃様ならば」
「俺は、女を愛したことはない。女に愛されたいとも思わない。だが、おまえから嫌われたら、離れなければならなくなったら生きていけない。公爵家の者達とは血の繋がりはあるが、あの家は地獄だ。畑を荒らす猪でさえ、家族を大事にしているのに、あの家ではゲオルグが父に毒を盛り、父はゲオルグとアデリナに毒を盛っていた。猪にも劣る者達など、家族ではない。公爵家が頼れない俺に本当の味方はいない。とても王など務まらぬ。だが、おまえが傍にいてくれれば、俺は王としてこの国のために、おまえを生み育ててくれた国のために務めを果たしたいと思う」

 半ば脅しのような口説きだった。エルンストが傍にいなければ王にならぬと言っているようなものである。

「それは我儘というものです」

 エルンストの涙は乾いていた。子どもの頃、村でいたずらをしたグスタフをたしなめた時と同じ顔だった。

「私情で王の義務を放棄するなど許されません」
「まだ俺は王ではない。おまえがともに王宮に行かないのなら俺も行かぬ」
「なんという身勝手な」
「身勝手結構。俺はお前以外何もいらぬのだ。おまえさえいれば、たとえ国庫が空になって食べるパンがなくなっても王になる。王になって国庫を満たしてみせる」
「グスタフ様……」

 跪いていたエルンストは床に手をついた。

「私は公爵家の使用人です。そのような言葉をかけられる資格もないのです。どうか、お忘れになってください。王となって新しい道をお進みください。これまで共に過ごした日々だけで私には十分なのです」

 そう言うとエルンストはさっと立ち上がり、ドアへ向かった。



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