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絡まる謎
弐 御前様激怒
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翌日も朝から表御殿では重職たちの話し合いが行われた。
目付の吉井采女から浪人の詳細についての報告があった。
浪人赤岩半兵衛は若殿様の側用人の佐野覚兵衛の玄武館での知り合いということで現在、覚兵衛から赤岩について話を聞いているとのことだった。
家老の高橋弥右衛門はううんとうなって黙り込んでしまった。浪人が元星川家に勤めていた上に若殿の側用人と知り合いとはいかなることか。
「尼の調べはどうなっておる」
「昨日から引き続き、今朝も調べております。正直に言わねば不埒の行ないありと寺社奉行に訴えると言いましたので、そろそろ、白状する頃かと」
吉井采女は落ち着いた顔で言う。白状という言葉にしばし一同は沈黙した。
「勿論、奥の者も控えさせております。今日は別式女の堀井貞です」
堀井貞は堀井麻乃の夫の妹で、柔術のたしなみがあった。
「して、袱紗の件はどうなったのだ」
「あの紋と刺繍は確かに分家の奥方様のものと確認できました」
ほおっと言う声が一斉に漏れた。
「なれど、浪人がなぜそれを持っていたのかわかりません」
「赤岩は星川家に元は勤めておったのだろう。ならば、星川家から入った奥方様やそのまわりの奥女中らからではないか」
「そうも考えられますが、これという確かな証がありません。ただ、袱紗に分家のさる奥女中の使っている香と同じ香りがすると証言した者がおります」
皆、目の色を変えた。
「ただ、匂いというものは他のものの匂いが移ったり、時と共に変化することもあります。ですから確証たりえません」
吉井は皆の興奮を抑えるために言った。
「やはり、分家に問い合わせるべきか」
「御家老、それはまだ早計に過ぎましょう。それは最後の手段。分家に疑いをかけて万が一間違いがあれば、大変なことになります」
「とりあえず、尼の調べを終えてから殿に報告をしよう」
いったん、この件の話は終わり、国許や勘定方からの報告が続いた。
最後に留守居役桂木がこの場を借りて、重大な報告があると切り出した。
「実は、皆様もご存知の通り、姫様の離縁の手続きについて、花尾家から御公儀に届けを提出するばかりになっております。ところが一向に提出されぬので、問い合わせたところ、あちらの留守居役より、殿様が届けに署名するのを渋っておられるとのこと」
一同ははあっと声をあげていた。
「言いだしたのは向こうではないか」
家老は気色ばんだ。今回の離縁の騒動で、姫の所行について他家からも呆れられていることを家老は知っている。姫様は確かに少々胡乱な振舞はあるが、意地の悪いところのない姫で、子どもの頃から知っている家老としては今回の離縁はまことにいたわしいことと思っていたのだ。
「どうやら、そばからいなくなってお寂しいということのようで」
「まるで子どもではないか」
そう言ってから家老は、そういえばまだ子どもだったと思い出した。表向きは十九歳ということになっているが、実際は十四であったはずである。
「姫様も今更戻りたくはありますまい」
吉井は内心呆れていた。昨夜佳穂から聞いた薬の件もある。
「それで、数日のうちに、あちらの殿様がじかに御前様に会って姫様を家に戻したいと仰せと」
桂木も半ば呆れた口調だった。
「犬猫の子のやり取りではあるまいし」
家老はつぶやいた。
吉井は言った。
「桂木殿、その話、無理ではないか。姫様は、あちらの家を信用されてはおらぬぞ」
「それがしもあちらの留守居役に、無理な話と申した。だが、殿様がの一点張りでな」
「実は、ここだけの話なのだが」
吉井は意を決して、昨日佳穂から聞いた薬の一件を伝えた。
皆、しばし押し黙ってしまった。
「薬について医師からまだ結果を聞いておらず、確実なことではないゆえ、話すべきではないと思ったのだが。ただ、姫様があちらの家でさような嫌がらせを受けていたことだけは確かなこと」
吉井はできるだけ穏やかに話したが、家老は明らかに憤っていた。
「まことになんということを。姫様をあちらに戻すなど、できぬ」
桂木はうなずいた。
「吉井様、その話よくぞ教えてくださった。あちらの留守居役に伝えれば、恐らくあちらも諦めましょう」
「いや、それがしも昨日お佳穂の方様から聞いたばかりゆえ」
「それにしても、お佳穂の方様にもし、まことに子流しの薬を贈ったとしたら、これは分家の奥方様は」
家老だけでなく、その場の全員が眉をひそめた。
「まだ薬の調べの結果がわかっておりませんので、皆様、早まらぬように」
吉井はそれだけは言っておかねばならなかった。
分家の奥方様が悪いという思い込みがあれば、真実を見逃す恐れがあった。目付として、それだけは避けねばならなかった。
「この一件、白黒はっきりするまでは御前様や奥方様のお耳に入れぬように」
「若殿様はご存知なのか」
「はい。たいそう御立腹で。しかしながら、まだ調べの結果はわかりませんので」
吉井は若殿の昨夜の言動については口にしなかった。この場で言うべきことではなかった。
「あいわかった。それでは、御前様には薬の一件は伝えぬことにしよう。姫様の件については桂木殿から御前様へ頼む」
家老はそう言って、話し合いを締めた。
ちょうどその頃合いを見計らったかのように、伶観の取り調べの報告が目付の配下からあった。
重職らはその場に残り、報告を聞いた。
「伶観の元へ訪れた貴人は昨年の春頃から、占いを依頼しに来たとのこと。本人ではなく仕えている方のことを占って欲しいということで、生まれた干支と月日、場所だけを伝えたということです。それによれば丙寅年の水無月八日の江戸生まれ」
丙寅年。
「文化三年か。では、今年で四十」
文化八年辛未生まれの桂木にはすぐわかった。
皆息を呑んだ。今年四十になると言えば、分家の奥方瑠璃姫である。
「だが、水無月の生まれなのか」
目付の問いに桂木は懐から覚え書きを出した。彼は本家分家の人々の生没年月日などを書いた覚え書きを常に携帯していた。
「星川美作守妹瑠璃姫様、文化三年丙寅水無月八日に江戸中屋敷で誕生、母は側室お蘭の方」
偶然の一致と皆思いたかった。だが、生まれた場所まで一致するというのは。
「もし、それが瑠璃姫様なら、伶観を尋ねたのは分家の奥の者ということになる。やはり、分家の目付を呼んで探索させるしかあるまいな。薬の一件はおいても」
吉井はそれに対してなおも慎重な態度を崩さなかった。
「御家老様、とにかく証拠を固めなければなりません。分家とはいえ、瑠璃姫様は星川美作守様の妹。はっきりした証拠が必要です」
譜代の星川家の出の瑠璃姫を確たる証拠もないのに責めることはできない。皆、それには同意した。
目付の吉井采女はいったん仕事部屋の奥にある控えの間に戻った。仕事部屋の配下の半数は取り調べと浪人赤岩半兵衛探索に動いている。といっても実際の探索に動くのはさらにその下にいる者達である。彼らの大半は江戸の者で町に詳しく、後ろ暗い者達が潜む場所を把握していた。
なんとしても町奉行所よりも早く赤岩を見つけねばならなかった。浪人が尼を襲った理由を町方が取り調べたら、当然屋敷にいる尼のことにも目を向けるだろう。尼のことを調べるという口実で屋敷に入り込まれるのは避けたかった。
「吉井様、よろしいでしょうか」
配下の一人で佐野の調べを担当している小田が入って来た。どうやら昼飯の休憩に入ったらしい。若殿からは無理な取り調べはせぬようにと言われているので、食事はきちんととらせることになっている。といっても、のどを通るものではなかろうが。
「して、どうであった」
「赤岩半兵衛とは玄武館で知り合ったとのこと。ただ、赤岩は佐野が入った一年後に、不義密通で星川家を放逐されたとのことで、道場に姿を見せなくなったそうです。しばらくして佐野に神田小川町にいると知らせがあり、時折尋ねていたとのこと。女房となった密通相手の奥女中が病で亡くなったのは二年ほど前のことで、赤岩はかなり気落ちしていたようです」
「そうか。他には」
「最近は十日前に赤岩を訪ねています。赤岩の身内は江戸にはおりません。女房も親がすでに亡くなっております。頼りにする者はいないようです」
「それだけか」
吉井は小田をじろりと見た。小田の背筋に寒気が走った。
「赤岩とはどのような話をしたのか、赤岩の懐具合はどうであったか、いくらでも調べることはあろうが」
「は、はい。では早速」
小田は逃げるように部屋を出て行った。
「まったく、あの程度のことなら、子どもでも調べられる」
吉井はつぶやいた。
子どもといえば、若殿である。
文武に優秀といっても、育ちがいいだけあって、まだまだ腹芸などできぬようだった。昨夜も吉井の目論見通り、いろいろと話してくれた。いや、吉井の想像を超えていたと言っていい。
それにしても、あの青さはとてつもなかった。あまりに青い考えに吉井は我が息子が同じことを口走ったら、木刀で叩きのめして性根を入れ替えるものをと思ったほどである。
時代は変わった、欧米の文明は発展している、清のようなことになるやもしれぬ、今のままの日の本ではいけない、この世になくてはならぬ人だ、彼の知識と語学力は月野家にとっても必要だ、言葉で言うのはたやすい。だが、それだからといって、危険な人物を放置していいはずがない。町奉行所の者たちが他国にまで手配書をまわして探しているお尋ね者に資金を援助するなど、あまりに危険な振舞だった。蘭癖の若殿様というだけでも、勘定奉行が癪の痛みを起こしそうになっているというのに、これでは御家まで危うくなってしまう。
その上、話せばわかってくれると思っているとは、大間違いもはなはだしい。お尋ね者に渡している金子は領民の血と汗で育てた米を売って得たものなのだ。領民が許すはずがない。無論、吉井も許せない。
だが、そこは吉井も大人である。とりあえず話は聞いた。
『なるほど、若殿様の御意見はごもっとも。なれど、町方が当家に調べに入るようならば、その時は、長岡という者のことはお諦めください。若殿様は望月領の民を守らねばならぬ身。たった一人の不埒者のために、家臣や民を路頭に迷わせていかがします。亡き光信院様も嘆かれることでしょう』
だが、若殿又四郎は言ったのだ。
『光信院様も長岡のことをお助けになってくださった。それを見捨ててはそれこそ光信院様に申し開きが立たぬ』
光信院様の人の良さに付け込むとは、ああ言えばこう言うし、まったくかわいげのないと吉井は内心思った。が、そんなことはおくびにも出さなかった。
『なるほど。ではしばらくは私は知らぬことにいたしましょう。なれど、町方がこの屋敷に入ることになったらその時は』
『町方が入ってこなければよいのだな。では、采女、赤岩半兵衛を早急に探し出し、当家で捕えよ。町方に知られてはならぬ』
『畏まりました』
そう答えるしかなかった。
実際、今の状況からして、浪人を町方より先に見つけねばならなかった。分家の奥方の物と思われる袱紗を持っていた浪人が町方に捕まって、万が一分家の奥方が関わっていることがわかれば、事は町奉行所だけでは済まなくなる。
南町の遠山奉行は、鳥居耀蔵の策略で北町奉行から閑職の大目付に異動させられたが、失脚せずに南町奉行に返り咲いた。それは公方様の覚えがめでたいからだと言われている。公方様の威光をもってすれば、大名屋敷の内情を調べるのはさほど苦労しないであろう。
もし分家と本家の間の御家騒動とされたら、下手をすれば評定所での評定となる。そうなればよくて減封、下手をすれば国替え、最悪分家ともども本家取り潰しとなりかねない。
吉井は常に最悪のことを考えて行動していた。最悪の事態にならぬように、事が起きていないふだんから目を付ける。それが目付の仕事だと先代の目付から教えられた。
事が起きている今はなおさらである。とにかく町方を入れぬため、赤岩を見つけて捕縛する。それが何よりも優先すべきことだった。
長岡の件はその次である。いざとなったら、密告すればいいだけのことである。麻布に妻子とともに隠れ住んでいると。
午後、家老の高橋と目付の吉井、留守居役の桂木は御前様と若殿様に経緯を説明した。無論、確証がないので薬の話も袱紗の香りの話もしなかった。お志麻とおみち、尼伶観と浪人赤岩の話に終始した。
御前様はうなずいた。
「そうか。して、おみちは健やかに過ごしておるのか」
「鳴滝の話では、今朝は普通に起き、食事もしっかりととったとのこと。淑姫様が気遣いをよくされているようで」
家老は鳴滝からの報告を嬉しそうに語った。淑姫様は変わってはいるが、やはり奥方様に似て貴婦人になられたと思う。立場の弱い年少の者を思いやることができる姫様は嫁ぎ先でさぞかし苦労したに違いなかった。
「ほう、淑が気遣いとは。ならば分家にやってもよいかもしれぬな」
その場にいた又四郎も家老も目付も、御前様の発言に首をひねった。家老は尋ねた。
「畏れながら、分家にとは」
「昨夜、奥から聞いたのだ。先日、お佳穂の叔母の川村が来てな。分家の斉陽殿に淑を娶らせたいと瑠璃姫様が思し召しだと。まだ留守居役には話しておらぬが、内々に意思を確かめたいとな」
思いもかけない縁組話であった。斉陽は十九で二十一の淑姫とは悪くない年の差である。だがどちらも気性はまっすぐで、ぶつかれば大事になるのは、十分想像できた。似た物同士だから性格が合うなどと思ったら大間違いだった。
「まことにございますか」
桂木の問う声が震えているように聞こえたので、皆一瞬怪訝な表情になった。
「そなたの頭越しになってしまい、気に障るやもしれぬが、奥を通じての話ゆえな」
留守居役の自尊心を傷付けてしまったと思ったのか、御前様は申し訳なさそうに言った。
「それだけはなりません」
桂木は静かだが、気迫のある声で言った。
「分家は、お佳穂の方様に」
「桂木殿」
吉井は慌てて止めた。まだまことのことはわからぬのだ。
御前様は不思議そうに吉井を見た。吉井は言うわけにはいかなかった。家老もうつむいた。
「御前様、よろしいでしょうか」
又四郎は口を開いた。
「実は先日、恐らくその縁談の話のあった日に、川村はお佳穂に子宝の薬なるものを贈りました。分家の奥方様からと申して。それを後で見た淑姫様がこれは子流しの薬と中身を捨てたのです。花尾家でも同じ匂いのするものを贈られたと。まことに子流しの薬かどうかはわからぬので、目付が医師に残った薬を調べさせております」
みるみるうちに御前様の顔色が変わった。
「奥は気が進まぬと申していたが。分家は何を考えておるのだ。淑も花尾の家でさようなことがあったとは」
「奥方様には御内密に。まだ薬の調べは終わっておりません」
「なんということぞ」
めったに怒らぬ御前様の赤ら顔に皆これはまずいと感じた。
「御前様、落ち着いてください」
家老の言葉に御前様は言い放った。
「落ち着くなどできようか。ああ、もうすぐ寛善院様の御命日だというのに」
分家を作った寛善院の命日は本家にとっても分家にとっても大切な法要の日であった。しかも七月は祥月なのだ。
「お佳穂は月影藩国家老川村の娘。川村家は寛善院様の側室明星院様の実家ぞ。明星院様の御腹から生まれた二人の男子が本家、分家をそれぞれ継がれている。当家にとっては身内も同様。それを」
御前様は又四郎を見た。
「此度の一件、これは余が取り仕切らねばならぬ。分家に星川家の瑠璃姫を娶らせることになったは、余の我儘ゆえ。余は元は星川家の姫と縁組をするはずであった。だが、余は分家の聡が愛しくてどうしても娶りたかった。ゆえに、星川家との縁組は分家に譲ったのだ。だが相手の兄上は祝言の前に亡くなられ、弟の斉理殿が瑠璃姫を娶ることになった。始まりは余の我儘であったがために、このようなことになったのかもしれぬ。
この一件を解決せねば、余は隠居などできぬ。余にすべてを任せてくれぬか」
御前様の思いがけない告白に、皆何も言えなかった。家老は当時の事情を知っていたものの、これほどまでに御前様が気にしておいでだったとは思ってもいなかった。
又四郎はうなずいた。
「かしこまりました。なれど、御無理はなさらぬように」
「大丈夫じゃ。そなたに、そなたの義理とはいえ母親を裁かせるなどさせるわけにはゆかぬ。余がすべての責めは負う。よいな」
御前様は若殿様とご実家の関係も心配されているのかと、吉井は改めて御前様の深い心持ちに感じ入ったのだった。
「寛善院様の御法要は十八日であったな。今日は十五日。三日ある。寺での法要の後、分家の者らも当家に参るゆえ、その場で此度の一件の始末をつけることとする。高橋、吉井、桂木、それまで此度のこと漏らさぬようにな。
それから、赤岩なる浪人を早く見つけよ。その者が何か知っておるはず。
お志麻と尼は万が一自裁せぬように警護をしっかりつけよ。梶田もな。奥には梶田の縁者がおったはず。そちらも身体など壊さぬように」
細かい配慮に家老は御前様はさすがと頭を垂れるばかりであった。
小姓が失礼しますと廊下から声をかけた。
「吉井様、森山周軒が参りました」
小姓が告げた名を聞き、吉井はここへ連れて参れと言った。薬の調べを依頼した出入りの医師である。奥方様ののぼせの薬も調合していて、婦人薬に詳しかった。
すぐに医師はやって来た。御前様、若殿様も御臨席ということで少々驚いたが、それでも仕事であるから落ち着いた表情である。
「早速だが、薬の中身はいかがであったのか」
吉井の問いに周軒は冷静な口調で答えた。
「結論から申しますと、これは子流しの薬かと存じます。成分は……」
漢方の知識のさほどない又四郎にも、それが強い効き目を持つ生薬だとわかった。目付の吉井も仕事柄知識があり、最初の成分を聞いただけで、怖気を覚えた。
「懐妊しておらねばただの下剤なれど、これを習慣的に服用すれば、懐妊しにくくなりましょう」
一同は顔を見合わせた。もうこれはただではすまない。
吉井は周軒に礼を言い、この件は他言無用とだけ伝えた。周軒もそれはわかっていた。大名屋敷の出来事は御前様の部屋を一歩出たら語ってはならないのだ。
周軒が御座の間を出た後、御前様は言った。
「お佳穂の叔母は図られたのやもしれぬな。実の叔母にかようなものを贈らせるとはなんという」
家老も吉井も何も言えなかった。
「さような薬にお気づきになった姫様もまたおいたわしいこと」
桂木の言葉に御前様はうなずいた。
「復縁など、絶対にさせぬ。あちらには淑の受けた仕打ちを伝えて、あきらめさせよ」
「かしこまりました」
桂木の返事が妙に力強いと家老は思ったものの、法要の日の段取りを変えねばならぬことに気付き、頭はそちらにまわっていた。
又四郎の胸にも怒りが湧いていた。佳穂の叔母が知らされずに子流しの薬を贈ることになってしまったとすると、袱紗の匂いも彼女に罪を押し付けようとするものなのかもしれない。
だが、彼の心の奥底では何かすっきりしないものがわだかまっていた。一体、これは何なのか。
自分は一体あの香りをどこでかいだのか、それが思い出せぬのがもどかしかった。それがわかれば、すっきりしないものが晴れるように思われた。
目付の吉井采女から浪人の詳細についての報告があった。
浪人赤岩半兵衛は若殿様の側用人の佐野覚兵衛の玄武館での知り合いということで現在、覚兵衛から赤岩について話を聞いているとのことだった。
家老の高橋弥右衛門はううんとうなって黙り込んでしまった。浪人が元星川家に勤めていた上に若殿の側用人と知り合いとはいかなることか。
「尼の調べはどうなっておる」
「昨日から引き続き、今朝も調べております。正直に言わねば不埒の行ないありと寺社奉行に訴えると言いましたので、そろそろ、白状する頃かと」
吉井采女は落ち着いた顔で言う。白状という言葉にしばし一同は沈黙した。
「勿論、奥の者も控えさせております。今日は別式女の堀井貞です」
堀井貞は堀井麻乃の夫の妹で、柔術のたしなみがあった。
「して、袱紗の件はどうなったのだ」
「あの紋と刺繍は確かに分家の奥方様のものと確認できました」
ほおっと言う声が一斉に漏れた。
「なれど、浪人がなぜそれを持っていたのかわかりません」
「赤岩は星川家に元は勤めておったのだろう。ならば、星川家から入った奥方様やそのまわりの奥女中らからではないか」
「そうも考えられますが、これという確かな証がありません。ただ、袱紗に分家のさる奥女中の使っている香と同じ香りがすると証言した者がおります」
皆、目の色を変えた。
「ただ、匂いというものは他のものの匂いが移ったり、時と共に変化することもあります。ですから確証たりえません」
吉井は皆の興奮を抑えるために言った。
「やはり、分家に問い合わせるべきか」
「御家老、それはまだ早計に過ぎましょう。それは最後の手段。分家に疑いをかけて万が一間違いがあれば、大変なことになります」
「とりあえず、尼の調べを終えてから殿に報告をしよう」
いったん、この件の話は終わり、国許や勘定方からの報告が続いた。
最後に留守居役桂木がこの場を借りて、重大な報告があると切り出した。
「実は、皆様もご存知の通り、姫様の離縁の手続きについて、花尾家から御公儀に届けを提出するばかりになっております。ところが一向に提出されぬので、問い合わせたところ、あちらの留守居役より、殿様が届けに署名するのを渋っておられるとのこと」
一同ははあっと声をあげていた。
「言いだしたのは向こうではないか」
家老は気色ばんだ。今回の離縁の騒動で、姫の所行について他家からも呆れられていることを家老は知っている。姫様は確かに少々胡乱な振舞はあるが、意地の悪いところのない姫で、子どもの頃から知っている家老としては今回の離縁はまことにいたわしいことと思っていたのだ。
「どうやら、そばからいなくなってお寂しいということのようで」
「まるで子どもではないか」
そう言ってから家老は、そういえばまだ子どもだったと思い出した。表向きは十九歳ということになっているが、実際は十四であったはずである。
「姫様も今更戻りたくはありますまい」
吉井は内心呆れていた。昨夜佳穂から聞いた薬の件もある。
「それで、数日のうちに、あちらの殿様がじかに御前様に会って姫様を家に戻したいと仰せと」
桂木も半ば呆れた口調だった。
「犬猫の子のやり取りではあるまいし」
家老はつぶやいた。
吉井は言った。
「桂木殿、その話、無理ではないか。姫様は、あちらの家を信用されてはおらぬぞ」
「それがしもあちらの留守居役に、無理な話と申した。だが、殿様がの一点張りでな」
「実は、ここだけの話なのだが」
吉井は意を決して、昨日佳穂から聞いた薬の一件を伝えた。
皆、しばし押し黙ってしまった。
「薬について医師からまだ結果を聞いておらず、確実なことではないゆえ、話すべきではないと思ったのだが。ただ、姫様があちらの家でさような嫌がらせを受けていたことだけは確かなこと」
吉井はできるだけ穏やかに話したが、家老は明らかに憤っていた。
「まことになんということを。姫様をあちらに戻すなど、できぬ」
桂木はうなずいた。
「吉井様、その話よくぞ教えてくださった。あちらの留守居役に伝えれば、恐らくあちらも諦めましょう」
「いや、それがしも昨日お佳穂の方様から聞いたばかりゆえ」
「それにしても、お佳穂の方様にもし、まことに子流しの薬を贈ったとしたら、これは分家の奥方様は」
家老だけでなく、その場の全員が眉をひそめた。
「まだ薬の調べの結果がわかっておりませんので、皆様、早まらぬように」
吉井はそれだけは言っておかねばならなかった。
分家の奥方様が悪いという思い込みがあれば、真実を見逃す恐れがあった。目付として、それだけは避けねばならなかった。
「この一件、白黒はっきりするまでは御前様や奥方様のお耳に入れぬように」
「若殿様はご存知なのか」
「はい。たいそう御立腹で。しかしながら、まだ調べの結果はわかりませんので」
吉井は若殿の昨夜の言動については口にしなかった。この場で言うべきことではなかった。
「あいわかった。それでは、御前様には薬の一件は伝えぬことにしよう。姫様の件については桂木殿から御前様へ頼む」
家老はそう言って、話し合いを締めた。
ちょうどその頃合いを見計らったかのように、伶観の取り調べの報告が目付の配下からあった。
重職らはその場に残り、報告を聞いた。
「伶観の元へ訪れた貴人は昨年の春頃から、占いを依頼しに来たとのこと。本人ではなく仕えている方のことを占って欲しいということで、生まれた干支と月日、場所だけを伝えたということです。それによれば丙寅年の水無月八日の江戸生まれ」
丙寅年。
「文化三年か。では、今年で四十」
文化八年辛未生まれの桂木にはすぐわかった。
皆息を呑んだ。今年四十になると言えば、分家の奥方瑠璃姫である。
「だが、水無月の生まれなのか」
目付の問いに桂木は懐から覚え書きを出した。彼は本家分家の人々の生没年月日などを書いた覚え書きを常に携帯していた。
「星川美作守妹瑠璃姫様、文化三年丙寅水無月八日に江戸中屋敷で誕生、母は側室お蘭の方」
偶然の一致と皆思いたかった。だが、生まれた場所まで一致するというのは。
「もし、それが瑠璃姫様なら、伶観を尋ねたのは分家の奥の者ということになる。やはり、分家の目付を呼んで探索させるしかあるまいな。薬の一件はおいても」
吉井はそれに対してなおも慎重な態度を崩さなかった。
「御家老様、とにかく証拠を固めなければなりません。分家とはいえ、瑠璃姫様は星川美作守様の妹。はっきりした証拠が必要です」
譜代の星川家の出の瑠璃姫を確たる証拠もないのに責めることはできない。皆、それには同意した。
目付の吉井采女はいったん仕事部屋の奥にある控えの間に戻った。仕事部屋の配下の半数は取り調べと浪人赤岩半兵衛探索に動いている。といっても実際の探索に動くのはさらにその下にいる者達である。彼らの大半は江戸の者で町に詳しく、後ろ暗い者達が潜む場所を把握していた。
なんとしても町奉行所よりも早く赤岩を見つけねばならなかった。浪人が尼を襲った理由を町方が取り調べたら、当然屋敷にいる尼のことにも目を向けるだろう。尼のことを調べるという口実で屋敷に入り込まれるのは避けたかった。
「吉井様、よろしいでしょうか」
配下の一人で佐野の調べを担当している小田が入って来た。どうやら昼飯の休憩に入ったらしい。若殿からは無理な取り調べはせぬようにと言われているので、食事はきちんととらせることになっている。といっても、のどを通るものではなかろうが。
「して、どうであった」
「赤岩半兵衛とは玄武館で知り合ったとのこと。ただ、赤岩は佐野が入った一年後に、不義密通で星川家を放逐されたとのことで、道場に姿を見せなくなったそうです。しばらくして佐野に神田小川町にいると知らせがあり、時折尋ねていたとのこと。女房となった密通相手の奥女中が病で亡くなったのは二年ほど前のことで、赤岩はかなり気落ちしていたようです」
「そうか。他には」
「最近は十日前に赤岩を訪ねています。赤岩の身内は江戸にはおりません。女房も親がすでに亡くなっております。頼りにする者はいないようです」
「それだけか」
吉井は小田をじろりと見た。小田の背筋に寒気が走った。
「赤岩とはどのような話をしたのか、赤岩の懐具合はどうであったか、いくらでも調べることはあろうが」
「は、はい。では早速」
小田は逃げるように部屋を出て行った。
「まったく、あの程度のことなら、子どもでも調べられる」
吉井はつぶやいた。
子どもといえば、若殿である。
文武に優秀といっても、育ちがいいだけあって、まだまだ腹芸などできぬようだった。昨夜も吉井の目論見通り、いろいろと話してくれた。いや、吉井の想像を超えていたと言っていい。
それにしても、あの青さはとてつもなかった。あまりに青い考えに吉井は我が息子が同じことを口走ったら、木刀で叩きのめして性根を入れ替えるものをと思ったほどである。
時代は変わった、欧米の文明は発展している、清のようなことになるやもしれぬ、今のままの日の本ではいけない、この世になくてはならぬ人だ、彼の知識と語学力は月野家にとっても必要だ、言葉で言うのはたやすい。だが、それだからといって、危険な人物を放置していいはずがない。町奉行所の者たちが他国にまで手配書をまわして探しているお尋ね者に資金を援助するなど、あまりに危険な振舞だった。蘭癖の若殿様というだけでも、勘定奉行が癪の痛みを起こしそうになっているというのに、これでは御家まで危うくなってしまう。
その上、話せばわかってくれると思っているとは、大間違いもはなはだしい。お尋ね者に渡している金子は領民の血と汗で育てた米を売って得たものなのだ。領民が許すはずがない。無論、吉井も許せない。
だが、そこは吉井も大人である。とりあえず話は聞いた。
『なるほど、若殿様の御意見はごもっとも。なれど、町方が当家に調べに入るようならば、その時は、長岡という者のことはお諦めください。若殿様は望月領の民を守らねばならぬ身。たった一人の不埒者のために、家臣や民を路頭に迷わせていかがします。亡き光信院様も嘆かれることでしょう』
だが、若殿又四郎は言ったのだ。
『光信院様も長岡のことをお助けになってくださった。それを見捨ててはそれこそ光信院様に申し開きが立たぬ』
光信院様の人の良さに付け込むとは、ああ言えばこう言うし、まったくかわいげのないと吉井は内心思った。が、そんなことはおくびにも出さなかった。
『なるほど。ではしばらくは私は知らぬことにいたしましょう。なれど、町方がこの屋敷に入ることになったらその時は』
『町方が入ってこなければよいのだな。では、采女、赤岩半兵衛を早急に探し出し、当家で捕えよ。町方に知られてはならぬ』
『畏まりました』
そう答えるしかなかった。
実際、今の状況からして、浪人を町方より先に見つけねばならなかった。分家の奥方の物と思われる袱紗を持っていた浪人が町方に捕まって、万が一分家の奥方が関わっていることがわかれば、事は町奉行所だけでは済まなくなる。
南町の遠山奉行は、鳥居耀蔵の策略で北町奉行から閑職の大目付に異動させられたが、失脚せずに南町奉行に返り咲いた。それは公方様の覚えがめでたいからだと言われている。公方様の威光をもってすれば、大名屋敷の内情を調べるのはさほど苦労しないであろう。
もし分家と本家の間の御家騒動とされたら、下手をすれば評定所での評定となる。そうなればよくて減封、下手をすれば国替え、最悪分家ともども本家取り潰しとなりかねない。
吉井は常に最悪のことを考えて行動していた。最悪の事態にならぬように、事が起きていないふだんから目を付ける。それが目付の仕事だと先代の目付から教えられた。
事が起きている今はなおさらである。とにかく町方を入れぬため、赤岩を見つけて捕縛する。それが何よりも優先すべきことだった。
長岡の件はその次である。いざとなったら、密告すればいいだけのことである。麻布に妻子とともに隠れ住んでいると。
午後、家老の高橋と目付の吉井、留守居役の桂木は御前様と若殿様に経緯を説明した。無論、確証がないので薬の話も袱紗の香りの話もしなかった。お志麻とおみち、尼伶観と浪人赤岩の話に終始した。
御前様はうなずいた。
「そうか。して、おみちは健やかに過ごしておるのか」
「鳴滝の話では、今朝は普通に起き、食事もしっかりととったとのこと。淑姫様が気遣いをよくされているようで」
家老は鳴滝からの報告を嬉しそうに語った。淑姫様は変わってはいるが、やはり奥方様に似て貴婦人になられたと思う。立場の弱い年少の者を思いやることができる姫様は嫁ぎ先でさぞかし苦労したに違いなかった。
「ほう、淑が気遣いとは。ならば分家にやってもよいかもしれぬな」
その場にいた又四郎も家老も目付も、御前様の発言に首をひねった。家老は尋ねた。
「畏れながら、分家にとは」
「昨夜、奥から聞いたのだ。先日、お佳穂の叔母の川村が来てな。分家の斉陽殿に淑を娶らせたいと瑠璃姫様が思し召しだと。まだ留守居役には話しておらぬが、内々に意思を確かめたいとな」
思いもかけない縁組話であった。斉陽は十九で二十一の淑姫とは悪くない年の差である。だがどちらも気性はまっすぐで、ぶつかれば大事になるのは、十分想像できた。似た物同士だから性格が合うなどと思ったら大間違いだった。
「まことにございますか」
桂木の問う声が震えているように聞こえたので、皆一瞬怪訝な表情になった。
「そなたの頭越しになってしまい、気に障るやもしれぬが、奥を通じての話ゆえな」
留守居役の自尊心を傷付けてしまったと思ったのか、御前様は申し訳なさそうに言った。
「それだけはなりません」
桂木は静かだが、気迫のある声で言った。
「分家は、お佳穂の方様に」
「桂木殿」
吉井は慌てて止めた。まだまことのことはわからぬのだ。
御前様は不思議そうに吉井を見た。吉井は言うわけにはいかなかった。家老もうつむいた。
「御前様、よろしいでしょうか」
又四郎は口を開いた。
「実は先日、恐らくその縁談の話のあった日に、川村はお佳穂に子宝の薬なるものを贈りました。分家の奥方様からと申して。それを後で見た淑姫様がこれは子流しの薬と中身を捨てたのです。花尾家でも同じ匂いのするものを贈られたと。まことに子流しの薬かどうかはわからぬので、目付が医師に残った薬を調べさせております」
みるみるうちに御前様の顔色が変わった。
「奥は気が進まぬと申していたが。分家は何を考えておるのだ。淑も花尾の家でさようなことがあったとは」
「奥方様には御内密に。まだ薬の調べは終わっておりません」
「なんということぞ」
めったに怒らぬ御前様の赤ら顔に皆これはまずいと感じた。
「御前様、落ち着いてください」
家老の言葉に御前様は言い放った。
「落ち着くなどできようか。ああ、もうすぐ寛善院様の御命日だというのに」
分家を作った寛善院の命日は本家にとっても分家にとっても大切な法要の日であった。しかも七月は祥月なのだ。
「お佳穂は月影藩国家老川村の娘。川村家は寛善院様の側室明星院様の実家ぞ。明星院様の御腹から生まれた二人の男子が本家、分家をそれぞれ継がれている。当家にとっては身内も同様。それを」
御前様は又四郎を見た。
「此度の一件、これは余が取り仕切らねばならぬ。分家に星川家の瑠璃姫を娶らせることになったは、余の我儘ゆえ。余は元は星川家の姫と縁組をするはずであった。だが、余は分家の聡が愛しくてどうしても娶りたかった。ゆえに、星川家との縁組は分家に譲ったのだ。だが相手の兄上は祝言の前に亡くなられ、弟の斉理殿が瑠璃姫を娶ることになった。始まりは余の我儘であったがために、このようなことになったのかもしれぬ。
この一件を解決せねば、余は隠居などできぬ。余にすべてを任せてくれぬか」
御前様の思いがけない告白に、皆何も言えなかった。家老は当時の事情を知っていたものの、これほどまでに御前様が気にしておいでだったとは思ってもいなかった。
又四郎はうなずいた。
「かしこまりました。なれど、御無理はなさらぬように」
「大丈夫じゃ。そなたに、そなたの義理とはいえ母親を裁かせるなどさせるわけにはゆかぬ。余がすべての責めは負う。よいな」
御前様は若殿様とご実家の関係も心配されているのかと、吉井は改めて御前様の深い心持ちに感じ入ったのだった。
「寛善院様の御法要は十八日であったな。今日は十五日。三日ある。寺での法要の後、分家の者らも当家に参るゆえ、その場で此度の一件の始末をつけることとする。高橋、吉井、桂木、それまで此度のこと漏らさぬようにな。
それから、赤岩なる浪人を早く見つけよ。その者が何か知っておるはず。
お志麻と尼は万が一自裁せぬように警護をしっかりつけよ。梶田もな。奥には梶田の縁者がおったはず。そちらも身体など壊さぬように」
細かい配慮に家老は御前様はさすがと頭を垂れるばかりであった。
小姓が失礼しますと廊下から声をかけた。
「吉井様、森山周軒が参りました」
小姓が告げた名を聞き、吉井はここへ連れて参れと言った。薬の調べを依頼した出入りの医師である。奥方様ののぼせの薬も調合していて、婦人薬に詳しかった。
すぐに医師はやって来た。御前様、若殿様も御臨席ということで少々驚いたが、それでも仕事であるから落ち着いた表情である。
「早速だが、薬の中身はいかがであったのか」
吉井の問いに周軒は冷静な口調で答えた。
「結論から申しますと、これは子流しの薬かと存じます。成分は……」
漢方の知識のさほどない又四郎にも、それが強い効き目を持つ生薬だとわかった。目付の吉井も仕事柄知識があり、最初の成分を聞いただけで、怖気を覚えた。
「懐妊しておらねばただの下剤なれど、これを習慣的に服用すれば、懐妊しにくくなりましょう」
一同は顔を見合わせた。もうこれはただではすまない。
吉井は周軒に礼を言い、この件は他言無用とだけ伝えた。周軒もそれはわかっていた。大名屋敷の出来事は御前様の部屋を一歩出たら語ってはならないのだ。
周軒が御座の間を出た後、御前様は言った。
「お佳穂の叔母は図られたのやもしれぬな。実の叔母にかようなものを贈らせるとはなんという」
家老も吉井も何も言えなかった。
「さような薬にお気づきになった姫様もまたおいたわしいこと」
桂木の言葉に御前様はうなずいた。
「復縁など、絶対にさせぬ。あちらには淑の受けた仕打ちを伝えて、あきらめさせよ」
「かしこまりました」
桂木の返事が妙に力強いと家老は思ったものの、法要の日の段取りを変えねばならぬことに気付き、頭はそちらにまわっていた。
又四郎の胸にも怒りが湧いていた。佳穂の叔母が知らされずに子流しの薬を贈ることになってしまったとすると、袱紗の匂いも彼女に罪を押し付けようとするものなのかもしれない。
だが、彼の心の奥底では何かすっきりしないものがわだかまっていた。一体、これは何なのか。
自分は一体あの香りをどこでかいだのか、それが思い出せぬのがもどかしかった。それがわかれば、すっきりしないものが晴れるように思われた。
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