33 / 60
絡まる謎
参 力が欲しい
しおりを挟む
同じ日、佳穂は淑姫の部屋に呼ばれた。
いつもいる小姓はおらず、おみちだけが淑姫のそばに控えていた。
お志麻の一件で一時行方知らずになったおみちが、無事にそこにいる姿を見て、佳穂は安堵した。おみちも知っている顔を見て、緊張が緩んだようだった。
「そなた、部屋子が二人しかおらぬであろう。おみちが小姓としてつけばずいぶん助かるのではないか」
淑姫の言葉はありがたかった。佳穂自身はさほど不便はないと思うものの、お喜多とお三奈の二人にこの先負担がかかるのは予想された。すでに、目ざとい出入りの商人がお喜多にお佳穂の方様にと菓子折を渡そうとしたことがあった。お喜多は表使いのお登利に相談し、菓子折を返却している。今後関わりを持とうとする商人への応対等で人が必要になるのは時間の問題だった。
「よろしいのでしょうか」
「鳴滝には今朝言うたゆえ。もう少し落ち着いたら、そなた付きということにする」
もう少し落ち着いたら。恐らくお志麻の罪が定まったらということだろう。おみちにとってはつらいことかもしれなかった。事態は落着しても気持ちが落ち着くまでは時間がかかりそうだった。
「畏まりました。助かります」
「わらわや母上が中屋敷に行けば、他にもそなた付きの小姓になる者がおろう。おみちは江戸には係累がおらぬゆえ、よしなにな」
おみちの父は今は城代家老の側近だが、元は作事方である。本家の望月領だけでなく、分家の月影領内にも堤防工事等の応援で来たことがあると以前おみちから聞いていた。国家老は領内の土木建設工事も監督しているので、佳穂にとってはおみちは身内も同様だった。
「よろしくお願いします」
おみちは丁寧に頭を下げた。
「こちらこそよろしく」
淑姫は、母上から呼ばれているのであとは二人で話をと席を外した。
「御方様、よろしいでしょうか」
淑姫の足音が完全に消えると、おみちはおずおずと口を開いた。
「なにかしら」
「畏れながら、お志麻の方様に何があったのでしょうか」
佳穂はおみちの真剣なまなざしに驚いた。無理もない。お志麻の方が本家の中にいると聞かされても奥に姿がなければ不審に思うに違いない。奥では、お志麻が又四郎を襲った話は公表されていないし、表の役人と話ができるのは鳴滝や松村、吉野らだけである。取り調べに立ち会った別式女も口が堅い。奥方も淑姫もこの件については堅く口を閉ざし、小姓にも言わない。お志麻に何があったかなど、おみちが知る手段はない。
本当のことを教えてやれたらと思うが、それはできない。信じていないわけではないが、万が一にもおみちの口から事件が奥女中の間に広まれば、大ごとになってしまう。何より、おみちがどれほど衝撃を受けるか。
「お志麻の方様は御無事です」
「淑姫様も鳴滝様もそう仰せです。でも、それならなぜ奥においでにならないのでしょうか」
真摯なまなざしが鋭い矢のように胸に刺さった。けれど、それに耐えねばならない。
「わらわにもわからぬ」
「御方様は中奥にお上がりにもなられるのでしょう。噂の一つもないのでしょうか」
「噂は噂。真実ではない。何かはっきりしたことがわかったら、鳴滝様からお話があるはず。今はそれを待つのです」
「待つしかできぬのですか。それでは、目隠しをされたままのようなもの」
おみちにとって今の状態は閉じ込められた時と似たようなものなのかもしれない。
佳穂はなんとかしてやりたいと思うものの、事件の重大さを思えばきっとまた会えるなどという下手な気休めも言えない。
しばらく俯いていたおみちは顔を上げた。
「御方様、文をお志麻の方様に届けてくださいますか」
「え」
「文を読むことはできるのでございましょう」
それはわからない。目付の吉井が許すかどうか。だが、読むことは許されずとも、文がおみちからあったことは伝えてくれるはずである。昨夜取り調べを受けた時には冷酷なだけの目付とは思えなかった。
「わかりました。文使いをいたしましょう」
「かたじけないことにございます」
そう言うと、おみちは早速墨の用意を始めた。佳穂はその懸命な様子に、涙が出そうになった。健気なおみちにこれほど思われてお志麻はなんと幸せなことか。それなのに、なんと愚かなことをしてしまったのか。
お志麻の一件で梶田仁右衛門は謹慎となり、妹のお園も謹慎状態となってしまった。
お園の今の状態を少しでもよくしたかった。それには力がいる。おみちもまたお志麻に仕えていたことで責められることがあるかもしれぬ。おみちを守るためにも力が欲しかった。
もんは来ないのだろうか。おたまは水を運びながらふと思った。
昨夜はあれこれ思い悩みながら眠った。
今朝目覚めた時に思い浮かんだのは、話すか話さぬか悩むくらいならぶちまけてしまえばいいということだった。
どうせ、分家の御末である。分家の御末仲間で面白おかしく笑い話にするのがオチだろう。
もんが来たら、世間話のような顔をして、淑姫のももんじ屋のことや、お佳穂の方のあばたのことや若殿様とはまだ契っていないことなどぶちまけてやろう。淑姫の夫だった花尾の殿様の話も。花尾勘太夫などというふざけた名まえの殿様なのだから。
そう思うと笑いが込み上げてきて、重い水桶を運ぶ仕事も苦にならなかった。
そんなおたまの表情を見た御末の頭は少しは慣れてきたようだと安堵していた。
その日の夕刻、佳穂は若殿様からお召しを受けた。夕食と夜伽である。お喜多が夕餉の毒見についた。
食事の前に、又四郎は薬の件を伝えた。医師の見立てではやはり子流しの薬だったと言う。予想していたとはいえ、佳穂の衝撃は少なくなかった。瑠璃姫という方は何を考えているのか。恐怖と同時に叔母は知っていたのか、それとも知らぬのか、気にかかった。
「この一件も含め、御前様が今度分家に直接お尋ねするとのこと。心配はいらぬ」
そう言われても、心から安堵はできなかった。
とはいっても、佳穂の健やかな体は夕餉を求めていた。
夕餉は昨日と同じく一汁二菜だが、飯は麦を混ぜたものだった。殿様の倹約の方針で五日に一度は麦を混ぜた飯を食べることになっていた。望月家中は名目は十万石だが、温暖な気候に恵まれ新田開発や肥料の普及で実質は十二万石の石高である。だが、農民はいつでも白米を食べられるわけではない。主食を麦にしている者はまだまだ多い。従って殿様は百姓の苦労を忘れぬよう、江戸でも国許でも日を決めて麦入りの飯を食べることに決めていた。
当時は脚気の原因が白米の食べ過ぎによるビタミンB1の不足とは知られていなかったが、この麦飯のおかげで望月家中の者に脚気にかかる者は皆無だった。
また、奥では密かに麦は有り難がれていた。女性に多い便秘が麦飯のおかげか緩和されるのである。
佳穂も噛みしめれば味のある麦飯が嫌いではなかった。
もっとも白米を食べつけている江戸育ちの奉公人には評判はあまりよくないのだが。
食事の後、酒もたばこもとらず、佳穂は目付の吉井に目通りできぬか、又四郎に尋ねた。
「薬のことなら、話したはずだが」
「実はおみちのことで」
佳穂はおみちがお志麻のことを案じ、せめて文だけでもと託したことを話した。
「それは確かに可哀想なことだな。主のことを案じる気持ち、まことに健気。わかった。文を私から吉井を通じてお志麻に渡そう。吉井も奥女中の文を無下にはできまい」
「よろしくお願いします」
佳穂は文の入った封書を又四郎に渡した。
佳穂がお喜多とともにいったん奥に下がった後、又四郎は表御殿の目付の仕事部屋に向かった。
「これは若殿様」
一人小田だけが部屋にいた。他の配下の姿はなかった。
「目付はいかがした」
「つい今しがた、用があるとのことで出られました」
「どこへ出たのだ」
「吉井は出先をいつも言わずに出ますので、わかりかねます」
目付の職務上言えぬということらしい。
「いつ頃戻るかわからぬか」
「それもわかりませぬ」
まるで子どもの留守番だった。この男に文を託すのはやめにした。吉井に直接渡したほうがよい。
「そうか。四つ(午後十時頃)までは起きておるゆえ、それまでに戻って来たら来るように伝えよ。それ以降ならば明日の朝に」
小田は畏まりましたと言って、又四郎を見送った
佳穂が支度をして再び中奥に上がったのは一刻ほど後、添い寝役は淑姫付きの中臈淡路と奥方様付きの中臈奥山という四十過ぎの女達である。
佳穂は小座敷に入って来た又四郎に添い寝役の控えの間は元の通りにして欲しいと訴えた。
「何故」
又四郎は不思議でならないようだった。
「添い寝役が何も伝えられぬ場合、私が自分で年寄にここでのことを語らねばならないのです」
「なんと」
又四郎は想像もしていなかったらしく、驚きを隠さなかった。
「さようなことをそなたが」
「はい。記録をせねばならぬのです。それが奥の大事な仕事」
「参ったな」
又四郎はうなってしまった。
「そのような慣習はやめよと言っても、簡単にはやめぬであろうな」
そう言うと、又四郎は添い寝役のいる部屋の襖に向かって言った。
「そなたら、そこに控えても構わぬが、今宵も期待には添えられぬゆえ」
佳穂は内心、それは困ると思った。鳴滝は今夜こそと期待しているのだ。中奥に入る際、頼むぞと言われている。佳穂自身も、お園をなんとかして救いたかった。それには寵愛を受けて男子を産まねばならぬのだ。
だが、やはりこの夜も又四郎はすぐには口づけには及ばず、英吉利の女王の話を始めた。
「王はキング、女王はクインという。従って今の女王はクイン・ビクトリアと言う」
「女王は結婚はしていないのですか」
「している。夫君はアルバアトという名で独逸の公家の者で従兄にあたる。同じ英吉利の者ではない」
「いとこが独逸人とは。他国の者と祝言を挙げたのですか」
「異国ではそのようなことは珍しくない。女王の母も独逸人だ」
「言葉が通じないのでは」
「王族は、他の国の言語も学んでいるのだ」
「なんと」
所変わればしきたりも変わるものである。日の本の公方様が清や朝鮮の王族と祝言を挙げることなどありえない。公方様の縁組相手は皇女か五摂家の姫君と決まっている。今の公方様の亡くなられた御台所も親王の皇女であった。
「西洋では他の国の者とも縁組ができるのだから、同じ国のうちの者と縁組をするのは何の不思議もないはずなのに、我が国では大名は大名の姫としか結婚できぬ。御三家も将軍の姫か公家の姫とだ。おかしな話だ」
実際は西洋でも王族や貴族の身分違いの結婚は許されぬのだが、又四郎はその事実を隠して、佳穂に語っている。
そんなことを知らない佳穂には、なんだか雲行きが怪しくなってきたように思われた。
「若殿様、そういう話は」
「お佳穂、私はな、身分関係なく縁組できればよいと願っている。そなたを妻にしたくとも、今の世では、そなたは側室にしかなれぬ。おかしなことだ」
またも危うい発言である。「今の世では」とは別の世ならばと徳川の世が変わることを願っているも同様の言葉である。
「そういうことをもし御庭番にでも聞かれたら」
「天井や床下にでも忍んでおると思っておるのか」
「そういう話を聞いたことがあります」
又四郎は笑った。
「お佳穂、御庭番はそこまでの仕事はせぬのだ。あの者達は確かに身をやつして、遠国や江戸の町の事情を調べておるが、大名家の床下天井にまでは入れぬ。あの者らは遠国から戻ると、同じ御庭番仲間に仕事の手伝いをしてもらったからと、土産を渡すのだぞ。まるで江戸に参勤の供で参った者が国に戻って江戸土産を家族や近所の者にやるようにだ。天井床下に忍んでいたら土産どころではあるまいよ」
「まあ」
佳穂は驚いた。御庭番というのは土産まで買って戻るのかと。
「まるで御庭番から聞いたようなお話ですね」
「高輪の若殿様がおっしゃっていたのだ。かの家など御公儀から目を付けられてもおかしくない家ぞ。だが、屋敷の天井などにのこのこ入る御庭番などおらぬそうだ。鼠小僧とかいう盗人が奥に入ったそうだが、五両しか盗めなかったそうだ。奥の女子も手強いからな」
確かに大名屋敷というのは広くよほど勘のいい者でなければ、目当ての者のいる部屋に行きつくことはできないだろう。屋敷の者に身をやつしても、話をすればすぐに訛りでわかってしまう。望月藩も高輪の御家ほどではないが、国の訛りがあって一年程度の勤番でも抜けることはなかった。
「もっともここには御庭番より手ごわい添い寝役というのがおるが」
又四郎は小声で言った。
その時だった。遠くで四つの鐘が鳴り始めた。又四郎はもう今宵は吉井は来ぬだろうと思った。
「今宵はカレースの場所を広げるゆえ。もし嫌なら言うてくれ。痛いということがあるかもしれぬ」
佳穂は勇気を振り絞った。
「あの、かれいすだけでございますか」
「そうだが……」
又四郎の顔にわずかに困惑の色が見えた。
「その、よいのか」
「……はい」
逡巡するわけにはいかなかった。側室が奥で力を得るには、契りを結んで、男子を産むしかないのだ。
佳穂は思い切って、自分から又四郎の床に横になった。又四郎はますます困惑しているようだった。
「お佳穂、よいのか」
「はい。若殿様、佳穂をお好きなようにしてくださいませ」
言ってしまってから、なんとはしたないことをと思ったが、もう取り消すことはできない。
「ならば、城攻めだ」
又四郎は佳穂の身体の上に馬乗りになり、唇を寄せた。口を半開きにすると、舌が入ってきた。今までにないほど激しく、舌の先が佳穂の歯茎や頬の裏を突いた。佳穂も又四郎の舌を己が舌で舐った。絡み合う舌に佳穂は気が遠くなりそうだった。もうどうでもと思っていると、胸をはだけられ、口づけの場所が変わった。
あの痕の付くような口吸いだった。またお三奈が驚くに違いなかった。
いつもいる小姓はおらず、おみちだけが淑姫のそばに控えていた。
お志麻の一件で一時行方知らずになったおみちが、無事にそこにいる姿を見て、佳穂は安堵した。おみちも知っている顔を見て、緊張が緩んだようだった。
「そなた、部屋子が二人しかおらぬであろう。おみちが小姓としてつけばずいぶん助かるのではないか」
淑姫の言葉はありがたかった。佳穂自身はさほど不便はないと思うものの、お喜多とお三奈の二人にこの先負担がかかるのは予想された。すでに、目ざとい出入りの商人がお喜多にお佳穂の方様にと菓子折を渡そうとしたことがあった。お喜多は表使いのお登利に相談し、菓子折を返却している。今後関わりを持とうとする商人への応対等で人が必要になるのは時間の問題だった。
「よろしいのでしょうか」
「鳴滝には今朝言うたゆえ。もう少し落ち着いたら、そなた付きということにする」
もう少し落ち着いたら。恐らくお志麻の罪が定まったらということだろう。おみちにとってはつらいことかもしれなかった。事態は落着しても気持ちが落ち着くまでは時間がかかりそうだった。
「畏まりました。助かります」
「わらわや母上が中屋敷に行けば、他にもそなた付きの小姓になる者がおろう。おみちは江戸には係累がおらぬゆえ、よしなにな」
おみちの父は今は城代家老の側近だが、元は作事方である。本家の望月領だけでなく、分家の月影領内にも堤防工事等の応援で来たことがあると以前おみちから聞いていた。国家老は領内の土木建設工事も監督しているので、佳穂にとってはおみちは身内も同様だった。
「よろしくお願いします」
おみちは丁寧に頭を下げた。
「こちらこそよろしく」
淑姫は、母上から呼ばれているのであとは二人で話をと席を外した。
「御方様、よろしいでしょうか」
淑姫の足音が完全に消えると、おみちはおずおずと口を開いた。
「なにかしら」
「畏れながら、お志麻の方様に何があったのでしょうか」
佳穂はおみちの真剣なまなざしに驚いた。無理もない。お志麻の方が本家の中にいると聞かされても奥に姿がなければ不審に思うに違いない。奥では、お志麻が又四郎を襲った話は公表されていないし、表の役人と話ができるのは鳴滝や松村、吉野らだけである。取り調べに立ち会った別式女も口が堅い。奥方も淑姫もこの件については堅く口を閉ざし、小姓にも言わない。お志麻に何があったかなど、おみちが知る手段はない。
本当のことを教えてやれたらと思うが、それはできない。信じていないわけではないが、万が一にもおみちの口から事件が奥女中の間に広まれば、大ごとになってしまう。何より、おみちがどれほど衝撃を受けるか。
「お志麻の方様は御無事です」
「淑姫様も鳴滝様もそう仰せです。でも、それならなぜ奥においでにならないのでしょうか」
真摯なまなざしが鋭い矢のように胸に刺さった。けれど、それに耐えねばならない。
「わらわにもわからぬ」
「御方様は中奥にお上がりにもなられるのでしょう。噂の一つもないのでしょうか」
「噂は噂。真実ではない。何かはっきりしたことがわかったら、鳴滝様からお話があるはず。今はそれを待つのです」
「待つしかできぬのですか。それでは、目隠しをされたままのようなもの」
おみちにとって今の状態は閉じ込められた時と似たようなものなのかもしれない。
佳穂はなんとかしてやりたいと思うものの、事件の重大さを思えばきっとまた会えるなどという下手な気休めも言えない。
しばらく俯いていたおみちは顔を上げた。
「御方様、文をお志麻の方様に届けてくださいますか」
「え」
「文を読むことはできるのでございましょう」
それはわからない。目付の吉井が許すかどうか。だが、読むことは許されずとも、文がおみちからあったことは伝えてくれるはずである。昨夜取り調べを受けた時には冷酷なだけの目付とは思えなかった。
「わかりました。文使いをいたしましょう」
「かたじけないことにございます」
そう言うと、おみちは早速墨の用意を始めた。佳穂はその懸命な様子に、涙が出そうになった。健気なおみちにこれほど思われてお志麻はなんと幸せなことか。それなのに、なんと愚かなことをしてしまったのか。
お志麻の一件で梶田仁右衛門は謹慎となり、妹のお園も謹慎状態となってしまった。
お園の今の状態を少しでもよくしたかった。それには力がいる。おみちもまたお志麻に仕えていたことで責められることがあるかもしれぬ。おみちを守るためにも力が欲しかった。
もんは来ないのだろうか。おたまは水を運びながらふと思った。
昨夜はあれこれ思い悩みながら眠った。
今朝目覚めた時に思い浮かんだのは、話すか話さぬか悩むくらいならぶちまけてしまえばいいということだった。
どうせ、分家の御末である。分家の御末仲間で面白おかしく笑い話にするのがオチだろう。
もんが来たら、世間話のような顔をして、淑姫のももんじ屋のことや、お佳穂の方のあばたのことや若殿様とはまだ契っていないことなどぶちまけてやろう。淑姫の夫だった花尾の殿様の話も。花尾勘太夫などというふざけた名まえの殿様なのだから。
そう思うと笑いが込み上げてきて、重い水桶を運ぶ仕事も苦にならなかった。
そんなおたまの表情を見た御末の頭は少しは慣れてきたようだと安堵していた。
その日の夕刻、佳穂は若殿様からお召しを受けた。夕食と夜伽である。お喜多が夕餉の毒見についた。
食事の前に、又四郎は薬の件を伝えた。医師の見立てではやはり子流しの薬だったと言う。予想していたとはいえ、佳穂の衝撃は少なくなかった。瑠璃姫という方は何を考えているのか。恐怖と同時に叔母は知っていたのか、それとも知らぬのか、気にかかった。
「この一件も含め、御前様が今度分家に直接お尋ねするとのこと。心配はいらぬ」
そう言われても、心から安堵はできなかった。
とはいっても、佳穂の健やかな体は夕餉を求めていた。
夕餉は昨日と同じく一汁二菜だが、飯は麦を混ぜたものだった。殿様の倹約の方針で五日に一度は麦を混ぜた飯を食べることになっていた。望月家中は名目は十万石だが、温暖な気候に恵まれ新田開発や肥料の普及で実質は十二万石の石高である。だが、農民はいつでも白米を食べられるわけではない。主食を麦にしている者はまだまだ多い。従って殿様は百姓の苦労を忘れぬよう、江戸でも国許でも日を決めて麦入りの飯を食べることに決めていた。
当時は脚気の原因が白米の食べ過ぎによるビタミンB1の不足とは知られていなかったが、この麦飯のおかげで望月家中の者に脚気にかかる者は皆無だった。
また、奥では密かに麦は有り難がれていた。女性に多い便秘が麦飯のおかげか緩和されるのである。
佳穂も噛みしめれば味のある麦飯が嫌いではなかった。
もっとも白米を食べつけている江戸育ちの奉公人には評判はあまりよくないのだが。
食事の後、酒もたばこもとらず、佳穂は目付の吉井に目通りできぬか、又四郎に尋ねた。
「薬のことなら、話したはずだが」
「実はおみちのことで」
佳穂はおみちがお志麻のことを案じ、せめて文だけでもと託したことを話した。
「それは確かに可哀想なことだな。主のことを案じる気持ち、まことに健気。わかった。文を私から吉井を通じてお志麻に渡そう。吉井も奥女中の文を無下にはできまい」
「よろしくお願いします」
佳穂は文の入った封書を又四郎に渡した。
佳穂がお喜多とともにいったん奥に下がった後、又四郎は表御殿の目付の仕事部屋に向かった。
「これは若殿様」
一人小田だけが部屋にいた。他の配下の姿はなかった。
「目付はいかがした」
「つい今しがた、用があるとのことで出られました」
「どこへ出たのだ」
「吉井は出先をいつも言わずに出ますので、わかりかねます」
目付の職務上言えぬということらしい。
「いつ頃戻るかわからぬか」
「それもわかりませぬ」
まるで子どもの留守番だった。この男に文を託すのはやめにした。吉井に直接渡したほうがよい。
「そうか。四つ(午後十時頃)までは起きておるゆえ、それまでに戻って来たら来るように伝えよ。それ以降ならば明日の朝に」
小田は畏まりましたと言って、又四郎を見送った
佳穂が支度をして再び中奥に上がったのは一刻ほど後、添い寝役は淑姫付きの中臈淡路と奥方様付きの中臈奥山という四十過ぎの女達である。
佳穂は小座敷に入って来た又四郎に添い寝役の控えの間は元の通りにして欲しいと訴えた。
「何故」
又四郎は不思議でならないようだった。
「添い寝役が何も伝えられぬ場合、私が自分で年寄にここでのことを語らねばならないのです」
「なんと」
又四郎は想像もしていなかったらしく、驚きを隠さなかった。
「さようなことをそなたが」
「はい。記録をせねばならぬのです。それが奥の大事な仕事」
「参ったな」
又四郎はうなってしまった。
「そのような慣習はやめよと言っても、簡単にはやめぬであろうな」
そう言うと、又四郎は添い寝役のいる部屋の襖に向かって言った。
「そなたら、そこに控えても構わぬが、今宵も期待には添えられぬゆえ」
佳穂は内心、それは困ると思った。鳴滝は今夜こそと期待しているのだ。中奥に入る際、頼むぞと言われている。佳穂自身も、お園をなんとかして救いたかった。それには寵愛を受けて男子を産まねばならぬのだ。
だが、やはりこの夜も又四郎はすぐには口づけには及ばず、英吉利の女王の話を始めた。
「王はキング、女王はクインという。従って今の女王はクイン・ビクトリアと言う」
「女王は結婚はしていないのですか」
「している。夫君はアルバアトという名で独逸の公家の者で従兄にあたる。同じ英吉利の者ではない」
「いとこが独逸人とは。他国の者と祝言を挙げたのですか」
「異国ではそのようなことは珍しくない。女王の母も独逸人だ」
「言葉が通じないのでは」
「王族は、他の国の言語も学んでいるのだ」
「なんと」
所変わればしきたりも変わるものである。日の本の公方様が清や朝鮮の王族と祝言を挙げることなどありえない。公方様の縁組相手は皇女か五摂家の姫君と決まっている。今の公方様の亡くなられた御台所も親王の皇女であった。
「西洋では他の国の者とも縁組ができるのだから、同じ国のうちの者と縁組をするのは何の不思議もないはずなのに、我が国では大名は大名の姫としか結婚できぬ。御三家も将軍の姫か公家の姫とだ。おかしな話だ」
実際は西洋でも王族や貴族の身分違いの結婚は許されぬのだが、又四郎はその事実を隠して、佳穂に語っている。
そんなことを知らない佳穂には、なんだか雲行きが怪しくなってきたように思われた。
「若殿様、そういう話は」
「お佳穂、私はな、身分関係なく縁組できればよいと願っている。そなたを妻にしたくとも、今の世では、そなたは側室にしかなれぬ。おかしなことだ」
またも危うい発言である。「今の世では」とは別の世ならばと徳川の世が変わることを願っているも同様の言葉である。
「そういうことをもし御庭番にでも聞かれたら」
「天井や床下にでも忍んでおると思っておるのか」
「そういう話を聞いたことがあります」
又四郎は笑った。
「お佳穂、御庭番はそこまでの仕事はせぬのだ。あの者達は確かに身をやつして、遠国や江戸の町の事情を調べておるが、大名家の床下天井にまでは入れぬ。あの者らは遠国から戻ると、同じ御庭番仲間に仕事の手伝いをしてもらったからと、土産を渡すのだぞ。まるで江戸に参勤の供で参った者が国に戻って江戸土産を家族や近所の者にやるようにだ。天井床下に忍んでいたら土産どころではあるまいよ」
「まあ」
佳穂は驚いた。御庭番というのは土産まで買って戻るのかと。
「まるで御庭番から聞いたようなお話ですね」
「高輪の若殿様がおっしゃっていたのだ。かの家など御公儀から目を付けられてもおかしくない家ぞ。だが、屋敷の天井などにのこのこ入る御庭番などおらぬそうだ。鼠小僧とかいう盗人が奥に入ったそうだが、五両しか盗めなかったそうだ。奥の女子も手強いからな」
確かに大名屋敷というのは広くよほど勘のいい者でなければ、目当ての者のいる部屋に行きつくことはできないだろう。屋敷の者に身をやつしても、話をすればすぐに訛りでわかってしまう。望月藩も高輪の御家ほどではないが、国の訛りがあって一年程度の勤番でも抜けることはなかった。
「もっともここには御庭番より手ごわい添い寝役というのがおるが」
又四郎は小声で言った。
その時だった。遠くで四つの鐘が鳴り始めた。又四郎はもう今宵は吉井は来ぬだろうと思った。
「今宵はカレースの場所を広げるゆえ。もし嫌なら言うてくれ。痛いということがあるかもしれぬ」
佳穂は勇気を振り絞った。
「あの、かれいすだけでございますか」
「そうだが……」
又四郎の顔にわずかに困惑の色が見えた。
「その、よいのか」
「……はい」
逡巡するわけにはいかなかった。側室が奥で力を得るには、契りを結んで、男子を産むしかないのだ。
佳穂は思い切って、自分から又四郎の床に横になった。又四郎はますます困惑しているようだった。
「お佳穂、よいのか」
「はい。若殿様、佳穂をお好きなようにしてくださいませ」
言ってしまってから、なんとはしたないことをと思ったが、もう取り消すことはできない。
「ならば、城攻めだ」
又四郎は佳穂の身体の上に馬乗りになり、唇を寄せた。口を半開きにすると、舌が入ってきた。今までにないほど激しく、舌の先が佳穂の歯茎や頬の裏を突いた。佳穂も又四郎の舌を己が舌で舐った。絡み合う舌に佳穂は気が遠くなりそうだった。もうどうでもと思っていると、胸をはだけられ、口づけの場所が変わった。
あの痕の付くような口吸いだった。またお三奈が驚くに違いなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
会社員の青年と清掃員の老婆の超越した愛
MisakiNonagase
恋愛
二十六歳のレンが働くオフィスビルには、清掃員として七十歳のカズコも従事している。カズコは愛嬌のある笑顔と真面目な仕事ぶりで誰からも好かれていた。ある日の仕事帰りにレンがよく行く立ち飲み屋に入ると、カズコもいた。清掃員の青い作業服姿しか見たことのなかったレンは、ごく普通の装いだったがカズコの姿が輝いて見えた。それから少しづつ話すようになり、二人は年の差を越えて恋を育んでいくストーリーです。不倫は情事かもしれないが、この二人には情状という言葉がふさわしい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる