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絡まる謎
拾 前夜
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明日は寛善院様の祥月命日ということで、その夜は精進日であった。
佳穂は久しぶりに、おくらとおくめの話を聞いた。彼女達はだいぶ勤めに慣れたようだった。佳穂は安堵すると同時に、彼女達の未来を思った。お清の中臈となるのか、佳穂のように寵愛されるのか、あるいはおたまのような失態をしてしまわないか。女の運命はわからぬもの、いや男もそうかもしれない。又四郎もよもや分家の部屋住みから本家の世継ぎになるとは思ってもいなかったであろう。
佳穂は一人になると、父に文を書いた。これまでは年に数度しか書いていない。けれど、自分のことが他の者の文にも書かれているとなると、そちらから佳穂の今の立場が父に伝えられることだろう。他人から聞けば父はどのように思うであろうか。やはり自分で書いて伝えるべきだと思い、筆をとったのだった。
といっても、ただ若殿様から名まえを問われ、夜侍ったことしか書けなかった。そこであったことなど語れない。
それよりも、若殿様と食事をしたことや、犬のシロのことをたくさん書いた。
初めて見た時に比べ一回り身体が大きくなっていたこと。頭の位置が佳穂の腰のあたりにあったこと。頭や胸、足の膝やくるぶしの部分、尾の先以外すべて毛を刈られたこと。その絵も文の中に書いた。兄が知ったらなんと言うだろうか。
英吉利の言葉のことも書こうと思った時だった。行灯の油が少なくなってきたのか、暗くなってきた。
続きは明日書こうと筆を擱いた。
お喜多もお三奈もすでに部屋に帰していた。一人床に入ると、ふと寂しさを感じるのは、又四郎と一緒に眠る穏やかさを知ったためであろうか。
又四郎もまた一人で同じ思いでいるのであろうか。わからない。けれど、そうあって欲しいと願うのは佳穂の我儘であろうか。
明日は法事である。奥方様の支度がある。早く休まねばと思ったものの、なぜか目が冴えて仕方なかった。
又四郎の言葉があれこれ思い出されてしまう。
甘いささやき。
「ほおむ」への渇望。
佳穂だけを望むという言葉。
だが、又四郎も男である。「あやつ」という物に操られてしまうのかもしれぬ。
思えば父もそうだったのかもしれない。家老の家に主婦がいなければならぬという理由だけでなく、父は「あやつ」に操られてあの若いお春という女を家に迎えたのかもしれなかった。
だとしたら、父を単に責めるというのはお門違いなのではないか。男は皆「あやつ」を手なずけねばならないと言うなら、父は手なずけそこなったのかもしれないのだ。
そう言えば、又四郎が豚肉をいただいた某家では、殿様は正室から生まれた長男ではなく、側室から生まれた息子を世継ぎにしたがっているらしいと奥女中の間でも噂になっていた。あのような大藩の殿様も「あやつ」に動かされているのだろうか。
ふと、又四郎の言葉を思い出した。
『家臣もまた、蘭癖の若君は金使いが荒いと申して他の弟君を推している』
蘭癖の若君は金使いが荒いので他の弟君を世継ぎにと考えている、家臣がそう思っているということは、某家では家臣が若殿様をよく思ってはいないということであろう。
だとすると、又四郎のことを分家の家臣はどのように思っていたのだろうか。
叔母は言っていた。
『殿は、案じておられる。又四郎様が凡庸な方であればよかったのですけれど、文武に優れておられるゆえ。そのため、江戸屋敷の中では又四郎様を世継ぎにという家臣がいる』
又四郎は日常でも英吉利の言葉を突然使ったりする。また異国の本を書き写して小遣い稼ぎをし、蘭学者、蘭癖の殿様方と交流がある。そういう部屋住みの又四郎を一万石の石高しかない家中の家臣はどのように思っていたか。十万石の本家でさえ、殿様自ら倹約を呼びかけているというのに。
世継ぎにと思う者が果たしてどれほどいるのか。
佳穂は叔母の言葉をもう一度思い出していた。
おかしい。
『瑠璃姫様はよい顔をされぬゆえ』
叔母はそう言っていた。瑠璃姫様は又四郎をよく思っていないと佳穂も思っていた。だから、又四郎を襲ったお志麻、お志麻を唆した尼、尼に依頼した貴人というのが瑠璃姫様に仕える奥女中の誰かではないかと思っていた。
それに瑠璃姫様は叔母の川村を通じて子流しの薬を佳穂に贈っている。佳穂が子を産まぬようにと思うほど、若殿様は瑠璃姫様に恨まれておいでのようだった。
美しい瑠璃姫様がそのようなことをするなど想像できない。だが、叔母の話や又四郎から聞いた目付の調べの結果から導かれるのは、瑠璃姫様が事件の背後にいるかもしれぬということだった。
自分の血を引いていない又四郎を嫌い、命を狙う。決してありえない話ではない。
それならななぜ、本家に入った後に命を狙ったのか。分家の部屋住みの時であれば、警護もおらず、簡単に又四郎の命を奪うことができたのではないか。
しかも、お志麻は町方の出。武芸の嗜みはないに等しい。
何かがおかしい。
佳穂の胸に、疑問が兆した。
ここは月野家分家上屋敷の奥の一室である。
行灯の光を受けて上座に座る女の打掛の模様が光った。
「お佳穂の方は相変わらず、お清とのこと」
女に報告しているのは、ふだんは分家の奥で御末として働くおもんだった。彼女はたびたび分家からの使いとして本家の奥の台所にも顔を出しており、様々な噂話を耳にしていた。なにしろ御末には口入屋から来た者も多い。彼女たちはあちこちの家で働いた経験から、ちょっとした変化から奥に起きた出来事を察知することができた。彼女達の噂話を総合すれば、かなりの精度で奥の出来事、うまくすれば表御殿での出来事までも知ることができた。
しかも、今回は不心得で小姓から御末に降格されたおたまという娘がネタ元である。御末の中年女は不平不満を口にする彼女に取り入って、奥の情報を手に入れたのだった。
「であろうな」
女は笑みを浮かべた。酷薄なその表情に、おもんは寒気を覚えた。己の欲望を満たすためにこれまでなんでもやってきた女の望む情報を調べることができなくなったら、その時は己も始末される。
「実は、出戻って来た淑姫様もあちらの殿とさようなことがなかったとか。淑姫様は小姓を怒鳴りつけるような御気性、あれではうまくゆかぬかと」
「そうか。表はどうなっておる」
「お志麻と尼はまだ番所の座敷牢に入っております。お志麻は近々実家に戻されるらしく、今朝母親が表御殿の役人に呼び出されております。尼はことによると寺社奉行に引き渡されるということです」
女は寺社奉行の顔ぶれを思い出した。尼が寺社奉行に引き渡されて下手なことを言えば、こちらに類が及ぶかもしれなかった。
「尼をなんとかできぬか」
「書院番や大番の者が交替で夜中も見張っております」
「見張りか。わかった。ならば別の方法をとろう」
おもんは安堵した。殺しだけはしたくなかった。これまでも殺さずにきたのだ。この先も避けたかった。
「それと、おみちは姫様についています」
「そうか」
女は小娘のことなど気にしていなかった。あんな小娘に何ができようか。
「ところで、浪人について何か耳にしなかったか」
「奥まではその件は伝わっておりません。男どもは口をつぐんでおるようで。ただ、目付の部屋に若殿とお佳穂の方が入ったことは判明しております。袱紗を見たらしいと聞いています」
「そうか」
女は手文庫から銭緡を出した。紐に一文銭九十六枚が差してあり、百文として通用するものだった。
「この先も頼むぞ」
そう言うと女は銭緡二つを女の目の前に投げるように置いた。おもんはそれを押しいただいた。
「いつもありがとうございます」
二百文であっても、おもんには自由に使える大切な銭だった。
おもんが去った後、女はこれからのことを考えた。今までは彼女の思惑通りに進んでいる。
問題は用済みの尼と目の上のたんこぶである。
あの尼をいかに始末するか。警備が厳しくては浪人のようにはいかぬ。本家には幾人か他にも忍ばせている者がいる。彼らを使うとしよう。
目の上のたんこぶは、明日は分家で留守居である。ならば、たやすいことである。
女はほくそ笑んだ。
吉井は分家から出されたこの三か月の外出の記録を見て、うなっていた。
奥の女達は意外と外出をしない。特に御目見え以上の奥女中は。
浪人赤岩が殺された十五日も一人だけしか外出していない。中年寄の呉竹とお供の小姓が年寄の梅枝の使いでさる家中の年寄の元を訪れている。本来は七つ(午後四時頃)までに戻ることになっているのだが、この時は許可を事前に得て五つ半(午後九時頃)に戻っていた。呉竹の弟がその家中の広敷の役人で、もてなしを受けたということだった。どうやら梅枝が呉竹に使いと称して休みを与えたものらしい。呉竹は次の御年寄と目されており、梅枝にも気に入られているという話を聞いたことがあった。
御目見え以下は、頻繁に出入りしている。特に御末は本家とよく往来している。だが、こちらは時間を厳格に守っている。口入屋を通じて雇い入れているので、少しでも不始末があれば屋敷から苦情が入って二度と雇われぬからである。
御末のおもんが突出して多かった。三日に一度というのは多い。
ついでに表の外出の記録も提出させていた。こちらは若い男どもが多い。主君斉理について外出する者もいる。大半は暮れ六つまでには戻っている。中には間に合わなかった者がいたが、いずれも一刻を過ぎることはなかった。
十五日は斉理が午後から友人の旗本の家を訪問している。帰って来たのは四つ(午後十時頃)とずいぶん遅い時間だった。同行したのは用人と中間二人である。一万石とはいえ大名の外出としてはいささか供が少な過ぎた。これに乗り物を担ぐ六尺の四人を加えても十人もいない。お忍びというにしても少ないと吉井は思った。
見るとその前にも数回その程度の規模で外出しており、いくらなんでもこれはと吉井は思った。分家の者にもう少し体裁を整えるように注意せねばなるまい。まるで大名と気づかれぬようにしているようだった。手元が苦しいといっても、これはない。相手方の家に対しても失礼ではないか。
「失礼します」
何やら覇気のない声が聞こえてきた。小田だった。今日は一日中、喜久乃屋儀兵衛のことを調べてあちこちかけずり回って疲れたのだろう。
入れと言うと、おずおずと御用部屋に入って来た。
「喜久乃屋のことですが」
大方何の収穫もなかったのであろう。期待などしていない。
「喜久乃屋儀兵衛は偽名でまことは浅草猿若町の呉服屋喜久屋利兵衛という者です」
「なに」
よもや小田がさようなことまで調べたとは。吉井は身を乗り出した。
「まことか」
「はい。町方の同心から聞きました」
「なんだと」
いくら調べるに事欠いたとしても、町奉行所の者に訊くとは。吉井は呆れた。大体、町方がなぜ教えたりするのか。
小田も実はよくわかりませんがと前置きして言った。
「日本橋の呉服屋をしらみつぶしに見ていた時に、ばったり会った同心に、月野家家中かと問われまして、そうだと言ったら、いいことを教えてやると言われまして。どうも、町方も赤岩のことを探していたようですが、奉行からこの件に一切構うなと命令があったとかで。それで、喜久屋利兵衛のこともこれ以上は調べられぬということで、せっかくだから教えてやると」
「まさか、おぬし、当家の紋の羽織を着ておったのか」
「はい。あ、申し訳ありません。忘れておりました」
小田はしまったとばかりに頭を下げた。
月野家の月に兎の紋は珍しい紋だった。その紋の入った羽織を着ていれば月野家家中であることは一目瞭然だった。探索をする際は替え紋の羽織を着ろと言っていたはずなのに。相変わらず迂闊な男である。だが、そのおかげで同心が気づいたのだから、怪我の功名と言うべきか。
それにしても不審なのは奉行から赤岩の件の捜査の打ち切りが命じられたということだった。遠山景元がそういうことをする男とは思えぬのだが。彼が逆らえぬ筋からの圧力がかかったとすると、一体何者が阻んだのか。
「それで、喜久屋利兵衛のことを調べて参りました」
小田にしては気の利いたことだった。
「喜久屋は以前は木挽町にあり、河原崎座の役者に贔屓にされていました。芝居小屋が猿若町に移ったのを機にそちらに移転して以降は中村座や市村座の役者も贔屓筋になっています。また、武家にも出入りしております。呉服だけでなく古着や小間物も扱っており、芝居見物の者達もここで芝居で役者が着ていた物と同じ柄の物を仕立てる者が多く、商売は順調のようです」
「武家に出入りとは。どこだ」
「ええ、それは」
小田は手に持った覚え書きを開き、家名をいくつか読み上げた。いずれも大名、大身の旗本ばかりだった。
「大した物だな」
「畏れいります」
「何を勘違いしておる。そなたではない。喜久屋だ。役者相手の商売をしておりながら、武家にも出入りとは」
「すみません」
「で、他には」
「あの、実は分家にも出入りしております」
吉井ははっとした。
「まことか」
「はい」
これは何かある。吉井は他にも聞き出し、ご苦労とねぎらった。
小田は驚いて頭を下げた。吉井からご苦労と言われたことなどこれまでなかった。
「吉井様、これからも粉骨砕身頑張ります」
「いちいち骨が折れたり身が砕けては、身体がもたぬぞ。日誌を書いたら、後はゆっくり休め」
その日誌に時間がかかるので、ゆっくり休むなどできぬ話であったが。
小田が出て行った後、吉井は目の前の紙に喜久屋と書いた。その横に分家と書き、線でつなげた。何かがある。
もう一度、十五日に分家の殿が出かけた先の旗本の名を見た。喜久屋が出入りしている旗本であった。遠山奉行も旗本だが、それよりも大身だった。
これはもしかすると、何かとんでもないことが絡んでいるのかもしれぬ。吉井は興奮を覚える一方で、恐れも感じていた。
佳穂は久しぶりに、おくらとおくめの話を聞いた。彼女達はだいぶ勤めに慣れたようだった。佳穂は安堵すると同時に、彼女達の未来を思った。お清の中臈となるのか、佳穂のように寵愛されるのか、あるいはおたまのような失態をしてしまわないか。女の運命はわからぬもの、いや男もそうかもしれない。又四郎もよもや分家の部屋住みから本家の世継ぎになるとは思ってもいなかったであろう。
佳穂は一人になると、父に文を書いた。これまでは年に数度しか書いていない。けれど、自分のことが他の者の文にも書かれているとなると、そちらから佳穂の今の立場が父に伝えられることだろう。他人から聞けば父はどのように思うであろうか。やはり自分で書いて伝えるべきだと思い、筆をとったのだった。
といっても、ただ若殿様から名まえを問われ、夜侍ったことしか書けなかった。そこであったことなど語れない。
それよりも、若殿様と食事をしたことや、犬のシロのことをたくさん書いた。
初めて見た時に比べ一回り身体が大きくなっていたこと。頭の位置が佳穂の腰のあたりにあったこと。頭や胸、足の膝やくるぶしの部分、尾の先以外すべて毛を刈られたこと。その絵も文の中に書いた。兄が知ったらなんと言うだろうか。
英吉利の言葉のことも書こうと思った時だった。行灯の油が少なくなってきたのか、暗くなってきた。
続きは明日書こうと筆を擱いた。
お喜多もお三奈もすでに部屋に帰していた。一人床に入ると、ふと寂しさを感じるのは、又四郎と一緒に眠る穏やかさを知ったためであろうか。
又四郎もまた一人で同じ思いでいるのであろうか。わからない。けれど、そうあって欲しいと願うのは佳穂の我儘であろうか。
明日は法事である。奥方様の支度がある。早く休まねばと思ったものの、なぜか目が冴えて仕方なかった。
又四郎の言葉があれこれ思い出されてしまう。
甘いささやき。
「ほおむ」への渇望。
佳穂だけを望むという言葉。
だが、又四郎も男である。「あやつ」という物に操られてしまうのかもしれぬ。
思えば父もそうだったのかもしれない。家老の家に主婦がいなければならぬという理由だけでなく、父は「あやつ」に操られてあの若いお春という女を家に迎えたのかもしれなかった。
だとしたら、父を単に責めるというのはお門違いなのではないか。男は皆「あやつ」を手なずけねばならないと言うなら、父は手なずけそこなったのかもしれないのだ。
そう言えば、又四郎が豚肉をいただいた某家では、殿様は正室から生まれた長男ではなく、側室から生まれた息子を世継ぎにしたがっているらしいと奥女中の間でも噂になっていた。あのような大藩の殿様も「あやつ」に動かされているのだろうか。
ふと、又四郎の言葉を思い出した。
『家臣もまた、蘭癖の若君は金使いが荒いと申して他の弟君を推している』
蘭癖の若君は金使いが荒いので他の弟君を世継ぎにと考えている、家臣がそう思っているということは、某家では家臣が若殿様をよく思ってはいないということであろう。
だとすると、又四郎のことを分家の家臣はどのように思っていたのだろうか。
叔母は言っていた。
『殿は、案じておられる。又四郎様が凡庸な方であればよかったのですけれど、文武に優れておられるゆえ。そのため、江戸屋敷の中では又四郎様を世継ぎにという家臣がいる』
又四郎は日常でも英吉利の言葉を突然使ったりする。また異国の本を書き写して小遣い稼ぎをし、蘭学者、蘭癖の殿様方と交流がある。そういう部屋住みの又四郎を一万石の石高しかない家中の家臣はどのように思っていたか。十万石の本家でさえ、殿様自ら倹約を呼びかけているというのに。
世継ぎにと思う者が果たしてどれほどいるのか。
佳穂は叔母の言葉をもう一度思い出していた。
おかしい。
『瑠璃姫様はよい顔をされぬゆえ』
叔母はそう言っていた。瑠璃姫様は又四郎をよく思っていないと佳穂も思っていた。だから、又四郎を襲ったお志麻、お志麻を唆した尼、尼に依頼した貴人というのが瑠璃姫様に仕える奥女中の誰かではないかと思っていた。
それに瑠璃姫様は叔母の川村を通じて子流しの薬を佳穂に贈っている。佳穂が子を産まぬようにと思うほど、若殿様は瑠璃姫様に恨まれておいでのようだった。
美しい瑠璃姫様がそのようなことをするなど想像できない。だが、叔母の話や又四郎から聞いた目付の調べの結果から導かれるのは、瑠璃姫様が事件の背後にいるかもしれぬということだった。
自分の血を引いていない又四郎を嫌い、命を狙う。決してありえない話ではない。
それならななぜ、本家に入った後に命を狙ったのか。分家の部屋住みの時であれば、警護もおらず、簡単に又四郎の命を奪うことができたのではないか。
しかも、お志麻は町方の出。武芸の嗜みはないに等しい。
何かがおかしい。
佳穂の胸に、疑問が兆した。
ここは月野家分家上屋敷の奥の一室である。
行灯の光を受けて上座に座る女の打掛の模様が光った。
「お佳穂の方は相変わらず、お清とのこと」
女に報告しているのは、ふだんは分家の奥で御末として働くおもんだった。彼女はたびたび分家からの使いとして本家の奥の台所にも顔を出しており、様々な噂話を耳にしていた。なにしろ御末には口入屋から来た者も多い。彼女たちはあちこちの家で働いた経験から、ちょっとした変化から奥に起きた出来事を察知することができた。彼女達の噂話を総合すれば、かなりの精度で奥の出来事、うまくすれば表御殿での出来事までも知ることができた。
しかも、今回は不心得で小姓から御末に降格されたおたまという娘がネタ元である。御末の中年女は不平不満を口にする彼女に取り入って、奥の情報を手に入れたのだった。
「であろうな」
女は笑みを浮かべた。酷薄なその表情に、おもんは寒気を覚えた。己の欲望を満たすためにこれまでなんでもやってきた女の望む情報を調べることができなくなったら、その時は己も始末される。
「実は、出戻って来た淑姫様もあちらの殿とさようなことがなかったとか。淑姫様は小姓を怒鳴りつけるような御気性、あれではうまくゆかぬかと」
「そうか。表はどうなっておる」
「お志麻と尼はまだ番所の座敷牢に入っております。お志麻は近々実家に戻されるらしく、今朝母親が表御殿の役人に呼び出されております。尼はことによると寺社奉行に引き渡されるということです」
女は寺社奉行の顔ぶれを思い出した。尼が寺社奉行に引き渡されて下手なことを言えば、こちらに類が及ぶかもしれなかった。
「尼をなんとかできぬか」
「書院番や大番の者が交替で夜中も見張っております」
「見張りか。わかった。ならば別の方法をとろう」
おもんは安堵した。殺しだけはしたくなかった。これまでも殺さずにきたのだ。この先も避けたかった。
「それと、おみちは姫様についています」
「そうか」
女は小娘のことなど気にしていなかった。あんな小娘に何ができようか。
「ところで、浪人について何か耳にしなかったか」
「奥まではその件は伝わっておりません。男どもは口をつぐんでおるようで。ただ、目付の部屋に若殿とお佳穂の方が入ったことは判明しております。袱紗を見たらしいと聞いています」
「そうか」
女は手文庫から銭緡を出した。紐に一文銭九十六枚が差してあり、百文として通用するものだった。
「この先も頼むぞ」
そう言うと女は銭緡二つを女の目の前に投げるように置いた。おもんはそれを押しいただいた。
「いつもありがとうございます」
二百文であっても、おもんには自由に使える大切な銭だった。
おもんが去った後、女はこれからのことを考えた。今までは彼女の思惑通りに進んでいる。
問題は用済みの尼と目の上のたんこぶである。
あの尼をいかに始末するか。警備が厳しくては浪人のようにはいかぬ。本家には幾人か他にも忍ばせている者がいる。彼らを使うとしよう。
目の上のたんこぶは、明日は分家で留守居である。ならば、たやすいことである。
女はほくそ笑んだ。
吉井は分家から出されたこの三か月の外出の記録を見て、うなっていた。
奥の女達は意外と外出をしない。特に御目見え以上の奥女中は。
浪人赤岩が殺された十五日も一人だけしか外出していない。中年寄の呉竹とお供の小姓が年寄の梅枝の使いでさる家中の年寄の元を訪れている。本来は七つ(午後四時頃)までに戻ることになっているのだが、この時は許可を事前に得て五つ半(午後九時頃)に戻っていた。呉竹の弟がその家中の広敷の役人で、もてなしを受けたということだった。どうやら梅枝が呉竹に使いと称して休みを与えたものらしい。呉竹は次の御年寄と目されており、梅枝にも気に入られているという話を聞いたことがあった。
御目見え以下は、頻繁に出入りしている。特に御末は本家とよく往来している。だが、こちらは時間を厳格に守っている。口入屋を通じて雇い入れているので、少しでも不始末があれば屋敷から苦情が入って二度と雇われぬからである。
御末のおもんが突出して多かった。三日に一度というのは多い。
ついでに表の外出の記録も提出させていた。こちらは若い男どもが多い。主君斉理について外出する者もいる。大半は暮れ六つまでには戻っている。中には間に合わなかった者がいたが、いずれも一刻を過ぎることはなかった。
十五日は斉理が午後から友人の旗本の家を訪問している。帰って来たのは四つ(午後十時頃)とずいぶん遅い時間だった。同行したのは用人と中間二人である。一万石とはいえ大名の外出としてはいささか供が少な過ぎた。これに乗り物を担ぐ六尺の四人を加えても十人もいない。お忍びというにしても少ないと吉井は思った。
見るとその前にも数回その程度の規模で外出しており、いくらなんでもこれはと吉井は思った。分家の者にもう少し体裁を整えるように注意せねばなるまい。まるで大名と気づかれぬようにしているようだった。手元が苦しいといっても、これはない。相手方の家に対しても失礼ではないか。
「失礼します」
何やら覇気のない声が聞こえてきた。小田だった。今日は一日中、喜久乃屋儀兵衛のことを調べてあちこちかけずり回って疲れたのだろう。
入れと言うと、おずおずと御用部屋に入って来た。
「喜久乃屋のことですが」
大方何の収穫もなかったのであろう。期待などしていない。
「喜久乃屋儀兵衛は偽名でまことは浅草猿若町の呉服屋喜久屋利兵衛という者です」
「なに」
よもや小田がさようなことまで調べたとは。吉井は身を乗り出した。
「まことか」
「はい。町方の同心から聞きました」
「なんだと」
いくら調べるに事欠いたとしても、町奉行所の者に訊くとは。吉井は呆れた。大体、町方がなぜ教えたりするのか。
小田も実はよくわかりませんがと前置きして言った。
「日本橋の呉服屋をしらみつぶしに見ていた時に、ばったり会った同心に、月野家家中かと問われまして、そうだと言ったら、いいことを教えてやると言われまして。どうも、町方も赤岩のことを探していたようですが、奉行からこの件に一切構うなと命令があったとかで。それで、喜久屋利兵衛のこともこれ以上は調べられぬということで、せっかくだから教えてやると」
「まさか、おぬし、当家の紋の羽織を着ておったのか」
「はい。あ、申し訳ありません。忘れておりました」
小田はしまったとばかりに頭を下げた。
月野家の月に兎の紋は珍しい紋だった。その紋の入った羽織を着ていれば月野家家中であることは一目瞭然だった。探索をする際は替え紋の羽織を着ろと言っていたはずなのに。相変わらず迂闊な男である。だが、そのおかげで同心が気づいたのだから、怪我の功名と言うべきか。
それにしても不審なのは奉行から赤岩の件の捜査の打ち切りが命じられたということだった。遠山景元がそういうことをする男とは思えぬのだが。彼が逆らえぬ筋からの圧力がかかったとすると、一体何者が阻んだのか。
「それで、喜久屋利兵衛のことを調べて参りました」
小田にしては気の利いたことだった。
「喜久屋は以前は木挽町にあり、河原崎座の役者に贔屓にされていました。芝居小屋が猿若町に移ったのを機にそちらに移転して以降は中村座や市村座の役者も贔屓筋になっています。また、武家にも出入りしております。呉服だけでなく古着や小間物も扱っており、芝居見物の者達もここで芝居で役者が着ていた物と同じ柄の物を仕立てる者が多く、商売は順調のようです」
「武家に出入りとは。どこだ」
「ええ、それは」
小田は手に持った覚え書きを開き、家名をいくつか読み上げた。いずれも大名、大身の旗本ばかりだった。
「大した物だな」
「畏れいります」
「何を勘違いしておる。そなたではない。喜久屋だ。役者相手の商売をしておりながら、武家にも出入りとは」
「すみません」
「で、他には」
「あの、実は分家にも出入りしております」
吉井ははっとした。
「まことか」
「はい」
これは何かある。吉井は他にも聞き出し、ご苦労とねぎらった。
小田は驚いて頭を下げた。吉井からご苦労と言われたことなどこれまでなかった。
「吉井様、これからも粉骨砕身頑張ります」
「いちいち骨が折れたり身が砕けては、身体がもたぬぞ。日誌を書いたら、後はゆっくり休め」
その日誌に時間がかかるので、ゆっくり休むなどできぬ話であったが。
小田が出て行った後、吉井は目の前の紙に喜久屋と書いた。その横に分家と書き、線でつなげた。何かがある。
もう一度、十五日に分家の殿が出かけた先の旗本の名を見た。喜久屋が出入りしている旗本であった。遠山奉行も旗本だが、それよりも大身だった。
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清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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