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解ける謎
壱 シロ走る
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十八日となった。
この日は寛善院こと月野丹後守宗能の祥月命日である。
宗能は寛延元年(一七四八年)文月十八日、五十六歳で江戸で亡くなった。前の年に隠居し、長男に家督を譲り悠々自適の日々を送ろうと思っていた矢先の急死で、江戸、国許では多くの人々がその死を悼み、功績をたたえた。
宗能の言行をまとめた「寛善院様伝書」は三回忌の寛延三年(一七五〇年)に元側用人であった平野由斎が当時の御前様に献上した。以来、伝書は代々の本家・分家の世継ぎの必読の書となった。また国許の藩校では学生達が筆写し、教えを暗誦するほどまでに読まれた。
そういうわけで、寛善院の命日は特別な日であった。祥月命日の七月十八日には本家、分家ともに江戸の菩提寺に参詣し、本家の座敷に一族・重臣が集まり、亡き人を偲んだ。また、今年は明和年間以前に亡くなった他の方々の法要もまとめて行うということで、寺への寄進も例年以上のものとなった。僧侶たちは心なしか例年より念入りに読経したのであった。
その後は場所を本家の上屋敷に移し、精進の膳を囲むことになった。
寺に女性たちは参列しないが、上屋敷の座敷には本家・分家の奥方、姫、年寄も加わり、華やかなものであった。
今年も奥の人々が並んだ。法要ということで派手な色柄ではないものの、女性が居並ぶ姿は圧巻であった。
鳴滝は久しぶりに会う分家の年寄梅枝と話が弾んでいた。
例年と変わりなく会食は何事もなく進んだ。通常なら、この後懇談をして男性は中奥で、女性は奥で夕食をともにして日程は終了する。
だが、いつもと違い、御前様が間もなく隠居するので茶室でお茶を共にということで、分家の殿様夫妻を呼んだ。残された斉陽と登美姫の相手をするのは淑姫だった。
又四郎慶温はすっと立ち上がり、茶室に向かった。といっても彼は茶室には入らない。その後を小姓と書院番頭と数名の番士が続いた。目付の吉井采女もさりげない顔で席を立って茶室に向かった。
彼らは茶室の外で出番を待つことになっている。
何も知らない斉陽は、何であろうかと立ち上がったが、淑姫に止められた。
「若殿様、落ち着きなさいませ。誰ぞ、碁盤を持って参れ」
すぐに小姓が碁盤を持って来た。斉陽は武道だけでなく碁にも目がなかった。勝負事が好きなのである。淑姫はいざ勝負と石を置いたのだった。
控えていた桂木はその様子を見ていた。そこへ部下が早足でやって来て小声で伝えた。
「例の方がお見えです」
桂木は顔色を変えた。
「なにゆえ、今日」
「恐らく今日であれば、屋敷に御前様もおいでと思われたのでしょう」
「玄関か」
「はい」
桂木は慌てて立ち上がり、玄関に向かった。こんな日に一体、何を考えているのか。だから子どもは嫌なのだと桂木は心の中でつぶやいていた。
淑姫は慌ただしく部屋を出る桂木の後ろ姿を確認すると、すぐに碁盤に視線を戻した。
奥では佳穂ら女達は精進の膳を食べ終えて片付けをしていた。
昨夜あれこれ考えたものの、結論が出ぬまま、佳穂は朝を迎えた。
又四郎は鳴滝を通じて佳穂に伝えていた。今日、殿様が分家の奥方瑠璃姫に袱紗を見せて、一連の事件について尋ねると。奥方様と鳴滝にだけ事件の概要は伝えられている。
分家の人々には今回のことはまったく知らされていない。年寄の梅枝も知らない。
今頃、茶室には本家と分家の殿様夫妻四人が入っていることだろう。
佳穂は手が空いたのでお園の部屋へ向かった。鳴滝から許しは得ていた。
「佳穂です。入ります」
どうぞと返事が聞こえた。
中に入ると、お園は膳の前で正座していた。今日は癪がないようだった。膳の上の料理はほぼ食べられている。
「御身体は」
「おかげさまで」
お園はそう言うと、佳穂を見た。昨夜、鳴滝から今日法要の行事がすべて終わった後に、梶田仁右衛門の処罰が決まると伝えられていた。それ次第ではお園はここから出なければならない。お園にとって佳穂に会えるのは最後かもしれなかった。
佳穂もまたお園のことを鳴滝から聞いていた。
「いろいろお世話になったのに、何もお返しができず、申し訳ありません」
お園はそう言って頭を下げた。
「お園さん、そんなこと言わないで。これからも一緒に働きましょう」
佳穂は又四郎の言葉を信じている。又四郎ならなんとかしてくれると。
お園はううんと首を振った。
「わかってるの。兄がしたことは許されないこと。お佳穂さんにも、お志麻の方にも。勿論若殿様にとっても。妹の私も兄とともに罪を償う覚悟はできている。だから、お佳穂さんは私のこと忘れて、若殿様と幸せになって」
「私だけが幸せになるなんてできない。お園さんも皆幸せにならなければ、本当の幸せではない」
佳穂は膳を横にのけて、お園の前に座り、その手を握った。お園は目を丸くして佳穂を見つめた。
「お佳穂さん」
「お園さん、諦めないで。私だけじゃない、皆がお園さんがここを出て来るの待ってる。淑姫様も奥方様も。部屋子のおりんもおつたも」
「お佳穂さん……」
お園はうつむいた。涙を見られるのは恥ずかしかった。佳穂は黙って懐紙を渡した。お園はそれを受け取り、そっと目の周りに当てた。
「お佳穂様、ここですか」
突然、襖が開いた。振り返ると、そこにいたのは部屋子のお喜多だった。
「大変です」
「何を慌てておる。落ち着け」
お喜多は髪を振り乱している。その狼狽ぶりはただごとではないが、まずは落ち着かせねばならなかった。お喜多は息を整えて、一気に言った。
「中奥で飼っている若殿様のお犬様が奥に迷い込み騒ぎになっております」
犬の鳴き声が遠くで聞こえた。悲鳴も聞こえた。
シロは外から鍵のかかる三畳ほどの広さの立派な小屋におり、又四郎の指示をきちんと聞く賢い犬のはずだった。佐野覚兵衛に指示された小姓が念入りに世話をしているというのに。
あの小屋からいかにして出たのか、怪しく思ったものの、小犬の時ならともかく大きく成長した犬を見れば皆怯えるはずだった。
「どこにいる」
「私が見た時は奥方様の部屋の前の庭に」
「わかった」
佳穂はお園にまた後でと言って部屋を出た。庭に面した廊下に出ると打掛を脱ぎ、裾をはしょり、沓脱石に足をかけ裸足で庭に出た。後からお喜多が草履を持ってついて来た。
庭にも廊下にも誰もいない。皆、建物の中に隠れてしまったのだ。
だが、お三奈の声が庭から聞こえた。
「おやめください」
その声を頼りに駆けると、お三奈がいた。そこは淑姫の部屋の前だった。
堀江麻乃ら別式女三人が刀を抜いて、シロを取り囲んでいた。
先日、佳穂とシロを見ていたお三奈はシロが人に危害を与えぬことを知っていたので、ここまで追って来たのだった。
「堀江様、刀をお納めください」
佳穂は叫んだ。シロは賢い犬なので、刀が何をするかわかっている。ゆえに、囲まれて恐怖で尻尾を後ろ足の間に巻き込んでいた。
「だが、奥に侵入したのは二度目だというではないか」
麻乃は刀を納めようとしない。
「この犬は賢い犬ゆえ、命令すれば言うことをきくのです」
佳穂は麻乃達の囲みの中に入り、シロに近づいた。別式女らは固唾をのんで佳穂とシロを見つめた。
シロは腰を落とし、両足の間に挟んでいた尻尾を出して大きく振った。
「シロ、大丈夫じゃ」
佳穂は安心させるように首回りを撫でた。ふと見ると首輪についた縄に切られた跡があった。まっすぐに刀物で切ったような跡だった。犬が引きちぎったものではない。
麻乃も犬の気配が変わったことに気付き、刀を納めた。部下二人も刀を納めた。
「すいっと」
又四郎から習った命令の言葉を告げると、シロはお座りをした。
「おお、なんと賢いこと」
シロの振舞に麻乃は驚き、部下らに囲みを解かせた。そこへお喜多が来て草履を出し、持って来た手ぬぐいで佳穂の足を拭き履かせた。
「後は私がこの犬を連れて参ります。慣れておりますので」
その時だった。わらわらと男達が駆けて来た。大番組の者達だった。中奥と奥を仕切る塀に取り付けられた戸を御末が叩き表に助けを求めたのである。
「犬はいずこに」
大番組の男達は、佳穂のそばで大人しくお座りをしている犬を見て驚いた。暴れていないではないか。
「ご苦労様でございます。犬は庭を少々荒らしましたが人を傷つけてはおりません」
麻乃の言葉に男達はほっと安堵したようだった。
「一体、誰が犬を逃したのでしょう。この縄は刀で切られています」
佳穂はシロの首輪を年長の頭らしい番士に見せた。男達は顔を見合わせた。皆、犬を触ったことはないので心当たりはない。
「おかしなことだ」
年長の番士は首をひねった。
「まあ、とりあえずは大丈夫だな。皆、すぐに番屋に戻れ」
男達は元来た道を引き返し中奥に戻った。
佳穂はシロの縄をつかんで、お三奈を伴い、年長の男の先導で中奥への戸をくぐった。
そんな彼らの一番最後におみちがついて行ったことに気付いた者はいなかった。
中奥の庭の犬小屋へ向かっていると、何やら騒がしい。男達が小姓らしい少年を取り囲み、早まるなと叫んでいる。
「どうか、死なせてください」
声変わりもしていない声が響くと、シロの足が速くなった。縄を持つ佳穂も必然的に駆けざるを得ない。男達を追い抜いてしまった。
ついに、シロの縄は佳穂の手を離れてしまった。犬は少年に向かって一目散に駆けだした。
それを追う佳穂が見たのは、小屋の前に片肌脱ぎになって座り、脇差を掴む少年とそれを止めようとする大人たちであった。
少年は今しも脇差を己に突き立てようとする。それを奪おうと年長の小姓が近づくが、少年は抵抗して鞘を抜いた脇差を振り回した。これでは止めに入った者まで怪我をすると思った時だった。
ウォンン。
一声吼えたシロは少年に飛びかかった。驚いた少年の手から脇差が落ち、咄嗟に他の小姓が拾った。
少年はシロにのしかかられ、仰向けに倒れてしまった。
「シロ、おぬし」
少年は泣きそうな顔でシロのふわふわとした首回りを抱き締めた。
「犬は帰って来たではないか。そなたが死ぬことはない」
「そうじゃ、そうじゃ」
シロは周囲の声などお構いなく、少年の顔をべろべろと舐めた。
「シロ、シロ」
少年はそれしか言えず、涙を流した。
番士らは何事かと年長の小姓に尋ねた。
「この小姓が犬の世話をしておるのですが、犬の毛をくしけずろうと小屋へ来たところ、小屋の前につないでいた犬の姿はなく。己の不始末の責任をとって、ここで自害しようとしたのです」
「なんと」
犬一頭のために死ぬことなどあるまいと番士らは思い、犬が見つかってよかったと安堵した。
小姓は起き上がって装束を整えた。シロは小姓の後ろでお座りをしている。まるで反省しているように見えた。
「犬はいつも小屋の前につないでおるのか」
「はい。小屋の中だけでは運動が不足するので、朝餉の後にそちらの柱に縄をくくりつけております。ちょうど今は小屋の近くの松で日陰になるので、いつもはそちらで涼んでおりました」
年長の番士の問いに小姓が答えた。
「これはそなたの不始末ではない。そなたは死んではならぬ」
「なれど」
「まことの罪人は縄を切った者。裁きのなきうちに勝手に自裁してはならぬ」
佳穂は小姓がまだ申し訳なさそうしているのを見るのがしのびなかった。
「犬は情け深き生き物。飼い主や世話をする者がいなくなったら嘆き、ことによっては餌も食べずに後を追うこともある。そなたは佐野がここにいない今、シロにとっては大切な人。決して死んではならぬ。シロがどれほど悲しむか。なにより、シロはそなたらが大切に世話をしてくれたおかげで、奥に迷い込んでも人を害することはなかった。それを思えば、そなたに罪があろうはずがない」
佳穂の言葉に小姓は深く腰を折った。
「ありがたきお言葉、いたみいります」
周囲の人々はどうやらこれで小姓は自害せぬだろうと安堵の表情を浮かべた。
そんな人々を横目に、おみちは中奥からさらに表御殿に庭伝いに走った。小柄なおみちは植え込みに隠れて庭を警護する男達の目を逃れた。
彼女の脳裏には昼前に偶然台所で会ったおたまの言葉がこだましていた。
『知らないの。お志麻の方、いや、咎人だからお志麻だけど。あの人、若殿様に襲い掛かったから座敷牢にいるのよ。あなたも不運ね。中屋敷の若殿様が亡くなった上に仕えていた方が罪人なんて。なんでも尼に唆されたらしいけど。尼も捕まったみたいね』
おたまがその朝早くこっそり訪れたおもんから聞いた話をそのままおみちに伝えたのは、嫌がらせだった。のうのうと奥御殿で姫様方の相手をして猫など可愛がっているおみちがおたまには妬ましく許せなかったのだ。おもんとしては、おたまから新たな情報を仕入れるための餌のつもりだったのだが。
だが、おみちはそんなおたまの嫉妬や羨望など知る由もなかった。
尼のことはおみちも知っていた。よくお志麻の方の元に通っていた。少しうさんくさいとは感じていた。だが、主の帰依する方だからと思い、いつも取次をしていた。人払いをするので何の話をしているのか知らなかったが、よもやお志麻の方様を唆すとは。
あの伶観という尼のせいで、お志麻の方様が座敷牢にいるのだ。許せない。
文の返事がないのもそのせいだったのかもしれぬ。おみちはお志麻の方様に一目会いたかった。そして、お志麻の方様を陥れた尼をこの手で。おみちは帯に挟んだ懐剣をぎゅっと握りしめた。
シロを小屋の前の木の柱に小姓がつなごうとした時、番士の一人が表御殿から走って来た。
「山本様、尼が、尼が」
尼と聞いて、佳穂は番屋の奥の座敷牢にいる尼のことだと気づいた。
「尼が斬られました」
小姓は驚きでシロの縄を離してしまった。
年長の番士は走った。シロが走り出した。佳穂はそれを追った。お三奈はお待ちをと言って佳穂を追いかけた。小姓もまたシロを追いかけた。
この日は寛善院こと月野丹後守宗能の祥月命日である。
宗能は寛延元年(一七四八年)文月十八日、五十六歳で江戸で亡くなった。前の年に隠居し、長男に家督を譲り悠々自適の日々を送ろうと思っていた矢先の急死で、江戸、国許では多くの人々がその死を悼み、功績をたたえた。
宗能の言行をまとめた「寛善院様伝書」は三回忌の寛延三年(一七五〇年)に元側用人であった平野由斎が当時の御前様に献上した。以来、伝書は代々の本家・分家の世継ぎの必読の書となった。また国許の藩校では学生達が筆写し、教えを暗誦するほどまでに読まれた。
そういうわけで、寛善院の命日は特別な日であった。祥月命日の七月十八日には本家、分家ともに江戸の菩提寺に参詣し、本家の座敷に一族・重臣が集まり、亡き人を偲んだ。また、今年は明和年間以前に亡くなった他の方々の法要もまとめて行うということで、寺への寄進も例年以上のものとなった。僧侶たちは心なしか例年より念入りに読経したのであった。
その後は場所を本家の上屋敷に移し、精進の膳を囲むことになった。
寺に女性たちは参列しないが、上屋敷の座敷には本家・分家の奥方、姫、年寄も加わり、華やかなものであった。
今年も奥の人々が並んだ。法要ということで派手な色柄ではないものの、女性が居並ぶ姿は圧巻であった。
鳴滝は久しぶりに会う分家の年寄梅枝と話が弾んでいた。
例年と変わりなく会食は何事もなく進んだ。通常なら、この後懇談をして男性は中奥で、女性は奥で夕食をともにして日程は終了する。
だが、いつもと違い、御前様が間もなく隠居するので茶室でお茶を共にということで、分家の殿様夫妻を呼んだ。残された斉陽と登美姫の相手をするのは淑姫だった。
又四郎慶温はすっと立ち上がり、茶室に向かった。といっても彼は茶室には入らない。その後を小姓と書院番頭と数名の番士が続いた。目付の吉井采女もさりげない顔で席を立って茶室に向かった。
彼らは茶室の外で出番を待つことになっている。
何も知らない斉陽は、何であろうかと立ち上がったが、淑姫に止められた。
「若殿様、落ち着きなさいませ。誰ぞ、碁盤を持って参れ」
すぐに小姓が碁盤を持って来た。斉陽は武道だけでなく碁にも目がなかった。勝負事が好きなのである。淑姫はいざ勝負と石を置いたのだった。
控えていた桂木はその様子を見ていた。そこへ部下が早足でやって来て小声で伝えた。
「例の方がお見えです」
桂木は顔色を変えた。
「なにゆえ、今日」
「恐らく今日であれば、屋敷に御前様もおいでと思われたのでしょう」
「玄関か」
「はい」
桂木は慌てて立ち上がり、玄関に向かった。こんな日に一体、何を考えているのか。だから子どもは嫌なのだと桂木は心の中でつぶやいていた。
淑姫は慌ただしく部屋を出る桂木の後ろ姿を確認すると、すぐに碁盤に視線を戻した。
奥では佳穂ら女達は精進の膳を食べ終えて片付けをしていた。
昨夜あれこれ考えたものの、結論が出ぬまま、佳穂は朝を迎えた。
又四郎は鳴滝を通じて佳穂に伝えていた。今日、殿様が分家の奥方瑠璃姫に袱紗を見せて、一連の事件について尋ねると。奥方様と鳴滝にだけ事件の概要は伝えられている。
分家の人々には今回のことはまったく知らされていない。年寄の梅枝も知らない。
今頃、茶室には本家と分家の殿様夫妻四人が入っていることだろう。
佳穂は手が空いたのでお園の部屋へ向かった。鳴滝から許しは得ていた。
「佳穂です。入ります」
どうぞと返事が聞こえた。
中に入ると、お園は膳の前で正座していた。今日は癪がないようだった。膳の上の料理はほぼ食べられている。
「御身体は」
「おかげさまで」
お園はそう言うと、佳穂を見た。昨夜、鳴滝から今日法要の行事がすべて終わった後に、梶田仁右衛門の処罰が決まると伝えられていた。それ次第ではお園はここから出なければならない。お園にとって佳穂に会えるのは最後かもしれなかった。
佳穂もまたお園のことを鳴滝から聞いていた。
「いろいろお世話になったのに、何もお返しができず、申し訳ありません」
お園はそう言って頭を下げた。
「お園さん、そんなこと言わないで。これからも一緒に働きましょう」
佳穂は又四郎の言葉を信じている。又四郎ならなんとかしてくれると。
お園はううんと首を振った。
「わかってるの。兄がしたことは許されないこと。お佳穂さんにも、お志麻の方にも。勿論若殿様にとっても。妹の私も兄とともに罪を償う覚悟はできている。だから、お佳穂さんは私のこと忘れて、若殿様と幸せになって」
「私だけが幸せになるなんてできない。お園さんも皆幸せにならなければ、本当の幸せではない」
佳穂は膳を横にのけて、お園の前に座り、その手を握った。お園は目を丸くして佳穂を見つめた。
「お佳穂さん」
「お園さん、諦めないで。私だけじゃない、皆がお園さんがここを出て来るの待ってる。淑姫様も奥方様も。部屋子のおりんもおつたも」
「お佳穂さん……」
お園はうつむいた。涙を見られるのは恥ずかしかった。佳穂は黙って懐紙を渡した。お園はそれを受け取り、そっと目の周りに当てた。
「お佳穂様、ここですか」
突然、襖が開いた。振り返ると、そこにいたのは部屋子のお喜多だった。
「大変です」
「何を慌てておる。落ち着け」
お喜多は髪を振り乱している。その狼狽ぶりはただごとではないが、まずは落ち着かせねばならなかった。お喜多は息を整えて、一気に言った。
「中奥で飼っている若殿様のお犬様が奥に迷い込み騒ぎになっております」
犬の鳴き声が遠くで聞こえた。悲鳴も聞こえた。
シロは外から鍵のかかる三畳ほどの広さの立派な小屋におり、又四郎の指示をきちんと聞く賢い犬のはずだった。佐野覚兵衛に指示された小姓が念入りに世話をしているというのに。
あの小屋からいかにして出たのか、怪しく思ったものの、小犬の時ならともかく大きく成長した犬を見れば皆怯えるはずだった。
「どこにいる」
「私が見た時は奥方様の部屋の前の庭に」
「わかった」
佳穂はお園にまた後でと言って部屋を出た。庭に面した廊下に出ると打掛を脱ぎ、裾をはしょり、沓脱石に足をかけ裸足で庭に出た。後からお喜多が草履を持ってついて来た。
庭にも廊下にも誰もいない。皆、建物の中に隠れてしまったのだ。
だが、お三奈の声が庭から聞こえた。
「おやめください」
その声を頼りに駆けると、お三奈がいた。そこは淑姫の部屋の前だった。
堀江麻乃ら別式女三人が刀を抜いて、シロを取り囲んでいた。
先日、佳穂とシロを見ていたお三奈はシロが人に危害を与えぬことを知っていたので、ここまで追って来たのだった。
「堀江様、刀をお納めください」
佳穂は叫んだ。シロは賢い犬なので、刀が何をするかわかっている。ゆえに、囲まれて恐怖で尻尾を後ろ足の間に巻き込んでいた。
「だが、奥に侵入したのは二度目だというではないか」
麻乃は刀を納めようとしない。
「この犬は賢い犬ゆえ、命令すれば言うことをきくのです」
佳穂は麻乃達の囲みの中に入り、シロに近づいた。別式女らは固唾をのんで佳穂とシロを見つめた。
シロは腰を落とし、両足の間に挟んでいた尻尾を出して大きく振った。
「シロ、大丈夫じゃ」
佳穂は安心させるように首回りを撫でた。ふと見ると首輪についた縄に切られた跡があった。まっすぐに刀物で切ったような跡だった。犬が引きちぎったものではない。
麻乃も犬の気配が変わったことに気付き、刀を納めた。部下二人も刀を納めた。
「すいっと」
又四郎から習った命令の言葉を告げると、シロはお座りをした。
「おお、なんと賢いこと」
シロの振舞に麻乃は驚き、部下らに囲みを解かせた。そこへお喜多が来て草履を出し、持って来た手ぬぐいで佳穂の足を拭き履かせた。
「後は私がこの犬を連れて参ります。慣れておりますので」
その時だった。わらわらと男達が駆けて来た。大番組の者達だった。中奥と奥を仕切る塀に取り付けられた戸を御末が叩き表に助けを求めたのである。
「犬はいずこに」
大番組の男達は、佳穂のそばで大人しくお座りをしている犬を見て驚いた。暴れていないではないか。
「ご苦労様でございます。犬は庭を少々荒らしましたが人を傷つけてはおりません」
麻乃の言葉に男達はほっと安堵したようだった。
「一体、誰が犬を逃したのでしょう。この縄は刀で切られています」
佳穂はシロの首輪を年長の頭らしい番士に見せた。男達は顔を見合わせた。皆、犬を触ったことはないので心当たりはない。
「おかしなことだ」
年長の番士は首をひねった。
「まあ、とりあえずは大丈夫だな。皆、すぐに番屋に戻れ」
男達は元来た道を引き返し中奥に戻った。
佳穂はシロの縄をつかんで、お三奈を伴い、年長の男の先導で中奥への戸をくぐった。
そんな彼らの一番最後におみちがついて行ったことに気付いた者はいなかった。
中奥の庭の犬小屋へ向かっていると、何やら騒がしい。男達が小姓らしい少年を取り囲み、早まるなと叫んでいる。
「どうか、死なせてください」
声変わりもしていない声が響くと、シロの足が速くなった。縄を持つ佳穂も必然的に駆けざるを得ない。男達を追い抜いてしまった。
ついに、シロの縄は佳穂の手を離れてしまった。犬は少年に向かって一目散に駆けだした。
それを追う佳穂が見たのは、小屋の前に片肌脱ぎになって座り、脇差を掴む少年とそれを止めようとする大人たちであった。
少年は今しも脇差を己に突き立てようとする。それを奪おうと年長の小姓が近づくが、少年は抵抗して鞘を抜いた脇差を振り回した。これでは止めに入った者まで怪我をすると思った時だった。
ウォンン。
一声吼えたシロは少年に飛びかかった。驚いた少年の手から脇差が落ち、咄嗟に他の小姓が拾った。
少年はシロにのしかかられ、仰向けに倒れてしまった。
「シロ、おぬし」
少年は泣きそうな顔でシロのふわふわとした首回りを抱き締めた。
「犬は帰って来たではないか。そなたが死ぬことはない」
「そうじゃ、そうじゃ」
シロは周囲の声などお構いなく、少年の顔をべろべろと舐めた。
「シロ、シロ」
少年はそれしか言えず、涙を流した。
番士らは何事かと年長の小姓に尋ねた。
「この小姓が犬の世話をしておるのですが、犬の毛をくしけずろうと小屋へ来たところ、小屋の前につないでいた犬の姿はなく。己の不始末の責任をとって、ここで自害しようとしたのです」
「なんと」
犬一頭のために死ぬことなどあるまいと番士らは思い、犬が見つかってよかったと安堵した。
小姓は起き上がって装束を整えた。シロは小姓の後ろでお座りをしている。まるで反省しているように見えた。
「犬はいつも小屋の前につないでおるのか」
「はい。小屋の中だけでは運動が不足するので、朝餉の後にそちらの柱に縄をくくりつけております。ちょうど今は小屋の近くの松で日陰になるので、いつもはそちらで涼んでおりました」
年長の番士の問いに小姓が答えた。
「これはそなたの不始末ではない。そなたは死んではならぬ」
「なれど」
「まことの罪人は縄を切った者。裁きのなきうちに勝手に自裁してはならぬ」
佳穂は小姓がまだ申し訳なさそうしているのを見るのがしのびなかった。
「犬は情け深き生き物。飼い主や世話をする者がいなくなったら嘆き、ことによっては餌も食べずに後を追うこともある。そなたは佐野がここにいない今、シロにとっては大切な人。決して死んではならぬ。シロがどれほど悲しむか。なにより、シロはそなたらが大切に世話をしてくれたおかげで、奥に迷い込んでも人を害することはなかった。それを思えば、そなたに罪があろうはずがない」
佳穂の言葉に小姓は深く腰を折った。
「ありがたきお言葉、いたみいります」
周囲の人々はどうやらこれで小姓は自害せぬだろうと安堵の表情を浮かべた。
そんな人々を横目に、おみちは中奥からさらに表御殿に庭伝いに走った。小柄なおみちは植え込みに隠れて庭を警護する男達の目を逃れた。
彼女の脳裏には昼前に偶然台所で会ったおたまの言葉がこだましていた。
『知らないの。お志麻の方、いや、咎人だからお志麻だけど。あの人、若殿様に襲い掛かったから座敷牢にいるのよ。あなたも不運ね。中屋敷の若殿様が亡くなった上に仕えていた方が罪人なんて。なんでも尼に唆されたらしいけど。尼も捕まったみたいね』
おたまがその朝早くこっそり訪れたおもんから聞いた話をそのままおみちに伝えたのは、嫌がらせだった。のうのうと奥御殿で姫様方の相手をして猫など可愛がっているおみちがおたまには妬ましく許せなかったのだ。おもんとしては、おたまから新たな情報を仕入れるための餌のつもりだったのだが。
だが、おみちはそんなおたまの嫉妬や羨望など知る由もなかった。
尼のことはおみちも知っていた。よくお志麻の方の元に通っていた。少しうさんくさいとは感じていた。だが、主の帰依する方だからと思い、いつも取次をしていた。人払いをするので何の話をしているのか知らなかったが、よもやお志麻の方様を唆すとは。
あの伶観という尼のせいで、お志麻の方様が座敷牢にいるのだ。許せない。
文の返事がないのもそのせいだったのかもしれぬ。おみちはお志麻の方様に一目会いたかった。そして、お志麻の方様を陥れた尼をこの手で。おみちは帯に挟んだ懐剣をぎゅっと握りしめた。
シロを小屋の前の木の柱に小姓がつなごうとした時、番士の一人が表御殿から走って来た。
「山本様、尼が、尼が」
尼と聞いて、佳穂は番屋の奥の座敷牢にいる尼のことだと気づいた。
「尼が斬られました」
小姓は驚きでシロの縄を離してしまった。
年長の番士は走った。シロが走り出した。佳穂はそれを追った。お三奈はお待ちをと言って佳穂を追いかけた。小姓もまたシロを追いかけた。
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還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
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全7話
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無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
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清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
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こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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