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われてもすゑに
弐 身を捨ててこそ
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「光信院様がさようなことを」
瑠璃姫は不思議そうに又四郎を見上げた。
「はい。お亡くなりになる前日に、中屋敷に伺った際、光信院様は、私とお佳穂との縁組を本家の奥方様に話すと仰せになってくださいました。なれど、その夜の急な病で話は立ち消えになりました。私は諦めておりましたが、不思議なめぐりあわせで本家に養子として迎えられ、お佳穂に会うことがかないました。これは光信院様の御導きかと思い、佳穂を側仕えにすることに決めたのです。なれど、光信院様はお佳穂を私の妻にすることを願われておいででした。側室では光信院様のお気持ちに添えぬかと」
初めて聞く話に佳穂は不思議を感じていた。とても出まかせとは思えなかった。
思えば、光信院は生前、兄のように佳穂を見守っていた。奥の母に挨拶に来る時に控えている佳穂たち中臈や小姓を気にかけ、土産に桜餅や団子を持って来たりするのは勿論、世間の噂話なども語ってくれた。歌会があれば参加し、おおらかな歌を詠み皆を喜ばせた。
大名の子息には奥の女を己の寵愛の対象としか見なさない者がいたり、横暴なことをする者もいるという噂があったが、光信院はいつも女達に朗らかな態度で接し、決して無体なことはしなかった。又四郎ならば恐らく「ジェントルマン」と表現するだろう。
そんな光信院ならば、又四郎の気持ちを汲んでそういう話をしてもおかしくないだろう。
「お佳穂は知っていたのか」
「初めて伺いました」
それまで黙っていた登美姫が言った。
「光信院様はなぜさようなことをお決めになられたのですか」
「それは、私がお佳穂の話をしたからです。シロが本家に迷い込んだ時に、シロを背負って梯子を上って壁の向こうにいた私に返した時のことを。その話しぶりを見て、お決めになったのです」
光信院にあの時の話をしたのかと佳穂は恥ずかしくなった。後になって少々はしたなかったかもしれぬと思ったのだ。
だが、恥かしく思う一方で、又四郎は一体いかなる気持ちで光信院に己の話をしたのかと想像し、佳穂はいたたまれなかった。光信院が縁組を考えるような話しぶりとは一体どんなものだったのか。想像するだけで身をよじりたくなるような面映ゆさを感じた。
「梯子を上ったのか、お佳穂は」
瑠璃姫もやはり驚いていた。
「お恥ずかしいことにございます」
「なんと勇ましきこと。火消しのようじゃのう」
微笑んだ瑠璃姫は又四郎を見た。
「又四郎殿、わかっておるのか。正室は江戸住まい。国許に連れてゆくことはできぬ。側室であれば、国許にも連れて行ける。江戸にも。いつも一緒にいられるのだぞ」
「それは承知しております。なれど、正室でなければならぬ理由がございます」
「理由とは」
佳穂も知りたかった。光信院の遺志だけとは思えない。
「佳穂が側室であれば、異国の者に侮られますゆえ」
「はあ」
瑠璃姫も登美姫も佳穂も同時に声を発していた。
「奥方様、いずれ、我が国は国を開き異国と交際することになります」
「なんと」
「異国では足の速い船が作られておりますゆえ、我が国にすぐ来れるようになります。種子島などとは比べものにはならぬほどの大砲も作られております。もし戦船を仕立ててくれば、大変なことになりましょう。実際に清は英吉利と戦い敗れております。我が国もいつまでも異国を拒んでいては、滅ぼされます。ですから、恐らく三十年もせぬうちに御公儀は国を開くことになるでしょう。その際、我らは異国の者と交際することになります。異国では夫は一人の妻だけを持ち側室や妾を持たぬそうです。そのような国の者から見れば側室というのは妻ではありません。彼らは妻としてお佳穂を扱わないのです。それは私にとっては屈辱です。愛する女子が妻と認められぬというのは」
佳穂には少しだけ理解できる話だった。
海外の事情を知らぬ瑠璃姫にとっては少々難解な話のようだった。
「異国の者と交際するとは。そんな時がくるのか」
「はい。いずれ来ます。それに参勤交代もなくなりましょう。かかる費用は莫大でどの家中も苦労しております。そんな無理がいつまでも続くものでしょうか。恐らく遠方にある家中は不満を持っておりましょう。彼らがきっかけになれば、いずれはなくなります」
「なんとまあ」
しばらく黙っていた瑠璃姫はわかったと言った。
「又四郎殿、お佳穂をわらわに預けてくれぬか。わらわの実家星川家か親類の家の養女にすればよい。さすればお佳穂は姫様。そなたの正室になろうぞ」
佳穂はあまりのことに何も言えなくなってしまった。途方もない話だった。
「願ってもないお話、かたじけないことです」
又四郎は喜んでいた。佳穂はどんな顔をすればいいものかわからず、又四郎の横顔を見た。
又四郎はそれに気付き、微笑んだ。
「そなたとの婚礼が楽しみだ」
そんな日がまことに来るのか、佳穂には信じられなかった。
自分は瑠璃姫の夫斉理を奪った川村千勢の姪なのだ。瑠璃姫にとっては憎い女の姪なのに。
「奥方様、私の叔母は殿様と密通したのです。さようなことがあったのに、よろしいのですか」
瑠璃姫は小首をかしげた。
「そうじゃな。なれど、そなたは何もしておらぬであろう」
「縁座がございます」
罪は本人だけでなく家族もその責めを負うのが通常の考えである。
「そなたは子流しの薬まで贈られたではないか。何もしておらぬどころか、川村のために迷惑しておる。その上、縁座などとは。わらわにはどうもわからぬ。目付が文句を言うてきたら、その時はその時ぞ」
「奥方様……なんと、かたじけないこと……」
佳穂は深々と頭を下げた。
瑠璃姫は顔を上げよと言うと、佳穂ににっこり笑って見せた。
「それでは、お佳穂、まずはわらわの実家へ参ろうか」
「母上、まさか星川に戻られるのですか」
登美姫の声には年相応のとまどいがあった。
「殿が離縁を望んでおいでゆえな。わらわがいなくとも、本家の皆様がそなたらのことを後見してくださるはず。それに殿のおらぬ家にいてもつまらぬ。登美、よいか、女子は思い切りも大切。いつまでも一つことにこだわっては楽しくはないぞ。そうと決まれば、すぐに乗り物を支度させねばな。お佳穂、身一つでよいからな」
登美姫は外に控えている小姓を呼びつけ、テキパキと指示を与えた。
なぜこんなに賢く美しく情深い妻がいるのに、分家の殿様は叔母に惹かれたのか佳穂にはわからなかった。
「お佳穂、待っておるからな」
又四郎はいつの間にか佳穂のそばに座り、その手を握った。登美姫はそれを見て恥ずかし気に顔を伏せた。
「若殿様、まことによいのでしょうか」
「よいのだ。そなたは川村佳穂ではなくなり、生まれ変わるのだ」
「生まれ変わる……」
「お佳穂、案ずるな」
瑠璃姫は言った。
「たいていの大名の家には御公儀に届けを出しておらぬ姫がいるもの。わらわなど、生まれてから数か月、届けがなかったゆえ、もし届けの前に死んでおったら生まれたことさえなかったことになっておるところであった」
つまり、佳穂を別の大名家の死んだ姫君に成り代わらせるということである。その代り、月野家分家月影藩城代家老の娘川村佳穂はこの世から存在を消される。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、じゃ」
咎人の姪がそんなことをしてもいいのだろうかと思った佳穂に又四郎は言った。
「私もまことは二十五なれど、御公儀では十七歳ということになっている。佳穂も若返ればよい」
「なれど」
「名は変わっても、そなたのまことの心は変わろうか。千代が又四郎に変わっても変わらぬのだから」
そうだった。又四郎は千代であった。そして恐らく一月もたたぬうちに丹後守慶温として正式に藩主となる。名が変わっても変わらぬ心を信じよう。
障子の外で小姓の支度が整いましたという声が聞こえた。
「支度ができたようじゃ。登美、そんな顔をするでない。女子は何があっても笑っておるものじゃ。夫の心変わりなどでいちいち泣いておられようか。そんなことよりも、我ら女子にはやることがたくさんある。そうじゃ、来月は仲秋、月見に星川の屋敷に来ればよい。屋敷からはよう月が見える」
佳穂ははっとした。もしや、奥方様は分家の殿の裏切りに気付いておいでだったのか。気付きながら、いつもと同じ顔で夫や子、又四郎の衣類の面倒をみておられたのか。だとしたら、なんという気丈な方であろうか。
お佳穂、さあ参るぞと言われ佳穂は立ち上がった。
又四郎が背後に立ちささやいた。
「続きは次に会う時に必ず」
言葉一つで抱き締められた時と同じように背筋を駆け抜けるものがあった。
「必ず」
佳穂もささやいた。
次の瞬間、信じられぬことが起きた。背後から佳穂は抱きしめられていた。
登美姫は真っ赤な顔で跳ねるように部屋を出た。瑠璃姫は先に行っておると言って廊下に出た。佳穂も部屋から逃げたかったが、腕の力は強かった。
「お佳穂、こちらを向け」
佳穂はわずかに緩んだ腕の輪の中で身体の向きを変え、又四郎を見上げた。間髪入れず、唇と唇が触れ合い、舌が口の中に入った。胸の鼓動が急に激しくなった。しばしの別れとわかっていても、何があるかわからぬ。これが最後にならないとも限らない。そうなったらと思うと、拒めなかった。着ている物を隔てていても互いの心の臓の鼓動が伝わってきた。ああ、又四郎様も同じ気持ちなのだと佳穂は思い、ぎゅっと両手を又四郎の身体にまわした。又四郎の腕の力も強くなった。
深い口づけが続いた。ずっとこのままでいたい。このまま時が止まればよいのにと佳穂は願った。
「御方様」
遅いので様子を見に来た小姓は腰を抜かしそうになった。が、気持ちを鎮めてもう一度御方様と呼んだ。
又四郎はやっと唇を離し、腕の力を緩めた。紅潮した顔を俯かせたまま、口元を押えて佳穂は逃げるように部屋を出て行った。
残された又四郎は佳穂の口から吸い取った唾液を呑み込んだ。佳穂の身体が己の一部になったように思えた。
蘭方医の話では人は身体に入れた飲物や食べ物を胃の腑で己の身体に取り入れ、己の身体の一部になすのだと言う。だとすれば、佳穂の唾液もまた己の身体の一部になるということだ。
佳穂に再び会える日まで己の身体の中に佳穂がいるのだと思える。その歓びに又四郎は頬を緩ませた。
正義とはいえ、実の父の悪行を暴露した後ろめたさはあるが、この先佳穂との生活に横槍を入れかねない者達を排除できたことは大きい。佳穂の叔母の川村千勢もそうだ。奥方の贈った滋養強壮の薬を子流しの薬と入れ替えて姪に贈るなど、言語道断の振舞だった。
彼らの影響を排し、佳穂を正室に迎える。又四郎の賭けともいえる行動はどうやら実を結びそうだった。その日まで己の中に佳穂がいると思い、耐えようと思う又四郎であった。
後は長岡一家のことである。町奉行所にとってはそちらのほうが重要なはずである。彼らを守る術を又四郎は考えていた。
この一件がすべて片づけば吉井は密告する恐れがあった。その前に動かなければ。
なんと愚かなと佳穂は星川家へ向かう駕籠の中で赤面していた。
いくら、あの場に小姓が突然来たからといって、又四郎に何も言わずに出て来てしまうとは。きっと又四郎は呆れているに違いなかった。小姓も驚いたことだろう。
誰も見ていない駕籠の中で己の愚かさやら恥ずかしさやらで、身もだえせんばかりの佳穂であった。
星川家の奥に到着すると、客分として座敷に通された。
瑠璃姫が離縁されたから戻って来たと言うと、星川家の人々は騒然となった。二十年も連れ添いながら今更と兄の美作守は怒りに震えた。それを瑠璃姫はなんとかなだめ、佳穂の養女話を持ち出した。これにも皆驚いた。
佳穂の父が国家老であること、一族の女性が数代前に殿様の側室として世継ぎを生んだゆえ月野家の一族も同様であること等、瑠璃姫が丁寧に説得したのが効を奏したのか、それならばと美作守は許した。
ただ星川家としては瑠璃姫の離縁もあり月野家に嫁がせるなら養女にするわけにはいかないので、他家の養女にということになった。
それを聞き、佳穂は当然のことであろうと思った。星川家にしてみれば、妹が離縁され、その縁戚に嫁がせるために家老の娘を養女にしろというのは迷惑千万な話なのだから。
星川美作守は顔が広いこともあり、数日のうちにいくつかの家が候補になった。
その中で慶温と親しい若殿様の家が選ばれた。その家では月野家と縁組を望んでおり、現在適当な年齢の姫がいないということで縁組話に乗ってきた。
若殿様と腹違いの国許で生まれた妹が幼い頃病弱で届けを出していなかったが、丈夫に成長したのでということで御公儀に届けを出すことに決まり、佳穂は星川家からその家の奥に預けられ、姫様としての教育を一から受けることになった。
さて、こちらは月野家である。
広座敷での御前様立ち会いの尋問の後、吉井は斉理の取り調べを部下に任せ、長屋へ向かった。
部屋の前に立つ番士は吉井に気付き、頭を下げた。
戸を開けると、血の臭いが漏れた。中に入るとすぐに戸を閉めた。遺体には触れぬように言っていたので、村中はまだ前のめりの姿勢のままだった。
「拷問を恐れるとは。愚かな」
拷問は取り調べの手段であって、目的ではないのだ。取り調べで素直に自白さえすれば拷問などしたりしない。それに拷問は家老に相談した上で御前様の許しがいる。拷問を頻繁にするというのは、取り調べをする目付の無能を上司に晒しているようなものだった。吉井も若い頃は目付の同僚で不正をした者に対して少々部外者には厳しいと見える取り調べをしたことはあったが、拷問というほどではなかった。許しを必要とする拷問というのは、命を失う危険性のあるものくらいである。爪をはがすくらいは拷問とは言わないと吉井は思っている。
吉井はたすきをかけると、村中の重くなった身体を仰向けにした。吐き気を催しそうな臭いに耐えながら傷口を凝視した。傷からはみ出た臓物にどこから飛んできたのか蠅が止まった。
脇差は村中の右の手にしっかりと握られている。刃こぼれしているから、かなりの力で己の身体に切りつけたらしい。
吉井は表に立つ番士に医師を呼んでくるように告げた。
医師を待つ間、吉井は村中の身体を検めた。すでに首筋や手が硬くなっていた。
やって来た医師は、これはと言ったきり、しばし沈黙していたが、両手を合わせて村中の遺体を検分した。
それが終わるまで吉井は立ち会った。
「一つ伺いたいことがある」
吉井は医師に不審な点を尋ねた。医師は驚きつつも、それは恐らくこういうことであろうと話した。
「なるほど。合点がいき申した」
吉井はそう言うと、後のことを番士らに任せて控えの間に行き着替え、取り調べに向かった。
どうやら、また一人取り調べる者が増えそうだった。
瑠璃姫は不思議そうに又四郎を見上げた。
「はい。お亡くなりになる前日に、中屋敷に伺った際、光信院様は、私とお佳穂との縁組を本家の奥方様に話すと仰せになってくださいました。なれど、その夜の急な病で話は立ち消えになりました。私は諦めておりましたが、不思議なめぐりあわせで本家に養子として迎えられ、お佳穂に会うことがかないました。これは光信院様の御導きかと思い、佳穂を側仕えにすることに決めたのです。なれど、光信院様はお佳穂を私の妻にすることを願われておいででした。側室では光信院様のお気持ちに添えぬかと」
初めて聞く話に佳穂は不思議を感じていた。とても出まかせとは思えなかった。
思えば、光信院は生前、兄のように佳穂を見守っていた。奥の母に挨拶に来る時に控えている佳穂たち中臈や小姓を気にかけ、土産に桜餅や団子を持って来たりするのは勿論、世間の噂話なども語ってくれた。歌会があれば参加し、おおらかな歌を詠み皆を喜ばせた。
大名の子息には奥の女を己の寵愛の対象としか見なさない者がいたり、横暴なことをする者もいるという噂があったが、光信院はいつも女達に朗らかな態度で接し、決して無体なことはしなかった。又四郎ならば恐らく「ジェントルマン」と表現するだろう。
そんな光信院ならば、又四郎の気持ちを汲んでそういう話をしてもおかしくないだろう。
「お佳穂は知っていたのか」
「初めて伺いました」
それまで黙っていた登美姫が言った。
「光信院様はなぜさようなことをお決めになられたのですか」
「それは、私がお佳穂の話をしたからです。シロが本家に迷い込んだ時に、シロを背負って梯子を上って壁の向こうにいた私に返した時のことを。その話しぶりを見て、お決めになったのです」
光信院にあの時の話をしたのかと佳穂は恥ずかしくなった。後になって少々はしたなかったかもしれぬと思ったのだ。
だが、恥かしく思う一方で、又四郎は一体いかなる気持ちで光信院に己の話をしたのかと想像し、佳穂はいたたまれなかった。光信院が縁組を考えるような話しぶりとは一体どんなものだったのか。想像するだけで身をよじりたくなるような面映ゆさを感じた。
「梯子を上ったのか、お佳穂は」
瑠璃姫もやはり驚いていた。
「お恥ずかしいことにございます」
「なんと勇ましきこと。火消しのようじゃのう」
微笑んだ瑠璃姫は又四郎を見た。
「又四郎殿、わかっておるのか。正室は江戸住まい。国許に連れてゆくことはできぬ。側室であれば、国許にも連れて行ける。江戸にも。いつも一緒にいられるのだぞ」
「それは承知しております。なれど、正室でなければならぬ理由がございます」
「理由とは」
佳穂も知りたかった。光信院の遺志だけとは思えない。
「佳穂が側室であれば、異国の者に侮られますゆえ」
「はあ」
瑠璃姫も登美姫も佳穂も同時に声を発していた。
「奥方様、いずれ、我が国は国を開き異国と交際することになります」
「なんと」
「異国では足の速い船が作られておりますゆえ、我が国にすぐ来れるようになります。種子島などとは比べものにはならぬほどの大砲も作られております。もし戦船を仕立ててくれば、大変なことになりましょう。実際に清は英吉利と戦い敗れております。我が国もいつまでも異国を拒んでいては、滅ぼされます。ですから、恐らく三十年もせぬうちに御公儀は国を開くことになるでしょう。その際、我らは異国の者と交際することになります。異国では夫は一人の妻だけを持ち側室や妾を持たぬそうです。そのような国の者から見れば側室というのは妻ではありません。彼らは妻としてお佳穂を扱わないのです。それは私にとっては屈辱です。愛する女子が妻と認められぬというのは」
佳穂には少しだけ理解できる話だった。
海外の事情を知らぬ瑠璃姫にとっては少々難解な話のようだった。
「異国の者と交際するとは。そんな時がくるのか」
「はい。いずれ来ます。それに参勤交代もなくなりましょう。かかる費用は莫大でどの家中も苦労しております。そんな無理がいつまでも続くものでしょうか。恐らく遠方にある家中は不満を持っておりましょう。彼らがきっかけになれば、いずれはなくなります」
「なんとまあ」
しばらく黙っていた瑠璃姫はわかったと言った。
「又四郎殿、お佳穂をわらわに預けてくれぬか。わらわの実家星川家か親類の家の養女にすればよい。さすればお佳穂は姫様。そなたの正室になろうぞ」
佳穂はあまりのことに何も言えなくなってしまった。途方もない話だった。
「願ってもないお話、かたじけないことです」
又四郎は喜んでいた。佳穂はどんな顔をすればいいものかわからず、又四郎の横顔を見た。
又四郎はそれに気付き、微笑んだ。
「そなたとの婚礼が楽しみだ」
そんな日がまことに来るのか、佳穂には信じられなかった。
自分は瑠璃姫の夫斉理を奪った川村千勢の姪なのだ。瑠璃姫にとっては憎い女の姪なのに。
「奥方様、私の叔母は殿様と密通したのです。さようなことがあったのに、よろしいのですか」
瑠璃姫は小首をかしげた。
「そうじゃな。なれど、そなたは何もしておらぬであろう」
「縁座がございます」
罪は本人だけでなく家族もその責めを負うのが通常の考えである。
「そなたは子流しの薬まで贈られたではないか。何もしておらぬどころか、川村のために迷惑しておる。その上、縁座などとは。わらわにはどうもわからぬ。目付が文句を言うてきたら、その時はその時ぞ」
「奥方様……なんと、かたじけないこと……」
佳穂は深々と頭を下げた。
瑠璃姫は顔を上げよと言うと、佳穂ににっこり笑って見せた。
「それでは、お佳穂、まずはわらわの実家へ参ろうか」
「母上、まさか星川に戻られるのですか」
登美姫の声には年相応のとまどいがあった。
「殿が離縁を望んでおいでゆえな。わらわがいなくとも、本家の皆様がそなたらのことを後見してくださるはず。それに殿のおらぬ家にいてもつまらぬ。登美、よいか、女子は思い切りも大切。いつまでも一つことにこだわっては楽しくはないぞ。そうと決まれば、すぐに乗り物を支度させねばな。お佳穂、身一つでよいからな」
登美姫は外に控えている小姓を呼びつけ、テキパキと指示を与えた。
なぜこんなに賢く美しく情深い妻がいるのに、分家の殿様は叔母に惹かれたのか佳穂にはわからなかった。
「お佳穂、待っておるからな」
又四郎はいつの間にか佳穂のそばに座り、その手を握った。登美姫はそれを見て恥ずかし気に顔を伏せた。
「若殿様、まことによいのでしょうか」
「よいのだ。そなたは川村佳穂ではなくなり、生まれ変わるのだ」
「生まれ変わる……」
「お佳穂、案ずるな」
瑠璃姫は言った。
「たいていの大名の家には御公儀に届けを出しておらぬ姫がいるもの。わらわなど、生まれてから数か月、届けがなかったゆえ、もし届けの前に死んでおったら生まれたことさえなかったことになっておるところであった」
つまり、佳穂を別の大名家の死んだ姫君に成り代わらせるということである。その代り、月野家分家月影藩城代家老の娘川村佳穂はこの世から存在を消される。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、じゃ」
咎人の姪がそんなことをしてもいいのだろうかと思った佳穂に又四郎は言った。
「私もまことは二十五なれど、御公儀では十七歳ということになっている。佳穂も若返ればよい」
「なれど」
「名は変わっても、そなたのまことの心は変わろうか。千代が又四郎に変わっても変わらぬのだから」
そうだった。又四郎は千代であった。そして恐らく一月もたたぬうちに丹後守慶温として正式に藩主となる。名が変わっても変わらぬ心を信じよう。
障子の外で小姓の支度が整いましたという声が聞こえた。
「支度ができたようじゃ。登美、そんな顔をするでない。女子は何があっても笑っておるものじゃ。夫の心変わりなどでいちいち泣いておられようか。そんなことよりも、我ら女子にはやることがたくさんある。そうじゃ、来月は仲秋、月見に星川の屋敷に来ればよい。屋敷からはよう月が見える」
佳穂ははっとした。もしや、奥方様は分家の殿の裏切りに気付いておいでだったのか。気付きながら、いつもと同じ顔で夫や子、又四郎の衣類の面倒をみておられたのか。だとしたら、なんという気丈な方であろうか。
お佳穂、さあ参るぞと言われ佳穂は立ち上がった。
又四郎が背後に立ちささやいた。
「続きは次に会う時に必ず」
言葉一つで抱き締められた時と同じように背筋を駆け抜けるものがあった。
「必ず」
佳穂もささやいた。
次の瞬間、信じられぬことが起きた。背後から佳穂は抱きしめられていた。
登美姫は真っ赤な顔で跳ねるように部屋を出た。瑠璃姫は先に行っておると言って廊下に出た。佳穂も部屋から逃げたかったが、腕の力は強かった。
「お佳穂、こちらを向け」
佳穂はわずかに緩んだ腕の輪の中で身体の向きを変え、又四郎を見上げた。間髪入れず、唇と唇が触れ合い、舌が口の中に入った。胸の鼓動が急に激しくなった。しばしの別れとわかっていても、何があるかわからぬ。これが最後にならないとも限らない。そうなったらと思うと、拒めなかった。着ている物を隔てていても互いの心の臓の鼓動が伝わってきた。ああ、又四郎様も同じ気持ちなのだと佳穂は思い、ぎゅっと両手を又四郎の身体にまわした。又四郎の腕の力も強くなった。
深い口づけが続いた。ずっとこのままでいたい。このまま時が止まればよいのにと佳穂は願った。
「御方様」
遅いので様子を見に来た小姓は腰を抜かしそうになった。が、気持ちを鎮めてもう一度御方様と呼んだ。
又四郎はやっと唇を離し、腕の力を緩めた。紅潮した顔を俯かせたまま、口元を押えて佳穂は逃げるように部屋を出て行った。
残された又四郎は佳穂の口から吸い取った唾液を呑み込んだ。佳穂の身体が己の一部になったように思えた。
蘭方医の話では人は身体に入れた飲物や食べ物を胃の腑で己の身体に取り入れ、己の身体の一部になすのだと言う。だとすれば、佳穂の唾液もまた己の身体の一部になるということだ。
佳穂に再び会える日まで己の身体の中に佳穂がいるのだと思える。その歓びに又四郎は頬を緩ませた。
正義とはいえ、実の父の悪行を暴露した後ろめたさはあるが、この先佳穂との生活に横槍を入れかねない者達を排除できたことは大きい。佳穂の叔母の川村千勢もそうだ。奥方の贈った滋養強壮の薬を子流しの薬と入れ替えて姪に贈るなど、言語道断の振舞だった。
彼らの影響を排し、佳穂を正室に迎える。又四郎の賭けともいえる行動はどうやら実を結びそうだった。その日まで己の中に佳穂がいると思い、耐えようと思う又四郎であった。
後は長岡一家のことである。町奉行所にとってはそちらのほうが重要なはずである。彼らを守る術を又四郎は考えていた。
この一件がすべて片づけば吉井は密告する恐れがあった。その前に動かなければ。
なんと愚かなと佳穂は星川家へ向かう駕籠の中で赤面していた。
いくら、あの場に小姓が突然来たからといって、又四郎に何も言わずに出て来てしまうとは。きっと又四郎は呆れているに違いなかった。小姓も驚いたことだろう。
誰も見ていない駕籠の中で己の愚かさやら恥ずかしさやらで、身もだえせんばかりの佳穂であった。
星川家の奥に到着すると、客分として座敷に通された。
瑠璃姫が離縁されたから戻って来たと言うと、星川家の人々は騒然となった。二十年も連れ添いながら今更と兄の美作守は怒りに震えた。それを瑠璃姫はなんとかなだめ、佳穂の養女話を持ち出した。これにも皆驚いた。
佳穂の父が国家老であること、一族の女性が数代前に殿様の側室として世継ぎを生んだゆえ月野家の一族も同様であること等、瑠璃姫が丁寧に説得したのが効を奏したのか、それならばと美作守は許した。
ただ星川家としては瑠璃姫の離縁もあり月野家に嫁がせるなら養女にするわけにはいかないので、他家の養女にということになった。
それを聞き、佳穂は当然のことであろうと思った。星川家にしてみれば、妹が離縁され、その縁戚に嫁がせるために家老の娘を養女にしろというのは迷惑千万な話なのだから。
星川美作守は顔が広いこともあり、数日のうちにいくつかの家が候補になった。
その中で慶温と親しい若殿様の家が選ばれた。その家では月野家と縁組を望んでおり、現在適当な年齢の姫がいないということで縁組話に乗ってきた。
若殿様と腹違いの国許で生まれた妹が幼い頃病弱で届けを出していなかったが、丈夫に成長したのでということで御公儀に届けを出すことに決まり、佳穂は星川家からその家の奥に預けられ、姫様としての教育を一から受けることになった。
さて、こちらは月野家である。
広座敷での御前様立ち会いの尋問の後、吉井は斉理の取り調べを部下に任せ、長屋へ向かった。
部屋の前に立つ番士は吉井に気付き、頭を下げた。
戸を開けると、血の臭いが漏れた。中に入るとすぐに戸を閉めた。遺体には触れぬように言っていたので、村中はまだ前のめりの姿勢のままだった。
「拷問を恐れるとは。愚かな」
拷問は取り調べの手段であって、目的ではないのだ。取り調べで素直に自白さえすれば拷問などしたりしない。それに拷問は家老に相談した上で御前様の許しがいる。拷問を頻繁にするというのは、取り調べをする目付の無能を上司に晒しているようなものだった。吉井も若い頃は目付の同僚で不正をした者に対して少々部外者には厳しいと見える取り調べをしたことはあったが、拷問というほどではなかった。許しを必要とする拷問というのは、命を失う危険性のあるものくらいである。爪をはがすくらいは拷問とは言わないと吉井は思っている。
吉井はたすきをかけると、村中の重くなった身体を仰向けにした。吐き気を催しそうな臭いに耐えながら傷口を凝視した。傷からはみ出た臓物にどこから飛んできたのか蠅が止まった。
脇差は村中の右の手にしっかりと握られている。刃こぼれしているから、かなりの力で己の身体に切りつけたらしい。
吉井は表に立つ番士に医師を呼んでくるように告げた。
医師を待つ間、吉井は村中の身体を検めた。すでに首筋や手が硬くなっていた。
やって来た医師は、これはと言ったきり、しばし沈黙していたが、両手を合わせて村中の遺体を検分した。
それが終わるまで吉井は立ち会った。
「一つ伺いたいことがある」
吉井は医師に不審な点を尋ねた。医師は驚きつつも、それは恐らくこういうことであろうと話した。
「なるほど。合点がいき申した」
吉井はそう言うと、後のことを番士らに任せて控えの間に行き着替え、取り調べに向かった。
どうやら、また一人取り調べる者が増えそうだった。
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