アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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われてもすゑに

壱 千代と又四郎

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 御錠口の前まで来た佳穂は又四郎の手を振りほどいた。

「お佳穂、待て」

 その声を背に佳穂は御錠口から奥へ小走りに駆け込んだ。振り返ってはならない。未練がましいことはしたくなかった。
 御錠口を管理するおさよは、そのさまを唖然とした顔で見ていたが、出入りが終われば速やかに閉めねばならぬことを思い出し、急いで戸を立てた。





 佳穂はそのまま鳴滝の部屋に向かい、分家奥でのこと、座敷に戻ってからのことを報告した。できるだけ私情を交えず冷静に語ろうとしたが、時折言葉が詰まってしまった。それでも鳴滝は何も言葉を挟まず聞いていた。

「御前様の命で広座敷を出て、御錠口からこちらへ戻って参りました。以上です」
「さようなことになっていたとは」

 あまりのことに鳴滝の口からはそれ以外の言葉が出てこなかった。
 分家の川村は鳴滝もよく知っていた。年の頃も近く、時々仕事で顔を合わせると、丸い身体でころころと笑っていた。朗らかな性質は御客応答にふさわしいと思っていた。
 だが、それは外面のことで、内面は夜叉であったのかと思うと、寒気を覚えた。そういえば、鳴滝と年の近い分家の小姓や中臈が数名不審な死を遂げていたことを思い出す。まさかとは思うが。恐らく梅枝か目付から問い合わせもあろう。鳴滝はその時のために当時の日記を葛籠つづらの奥から出しておかねばなるまいと思った。

「川村は我が叔母、しかも不義を行なっておりました。若殿様のお召しは遠慮させてください」

 致し方ないが、佳穂の言うことは当然のことだった。

「そなたの言うことはわかった。なれど、裁くのは御前様。すべてが決まるまで、部屋に控えておれ」

 佳穂は畏まりましたと鳴滝の部屋を出た。さて、こちらはどうしたものかと鳴滝はため息をついた。





「御方様、御茶を」

 部屋に戻ると、お喜多は何も聞かずに湯呑を持って来た。

「ありがとう。済まぬが、謹慎の身ゆえ白湯にしてもらえぬか。茶はそなたらで飲むがいい」

 お喜多は何故とつぶやいたが、すぐに畏まりましたと部屋を出た。
 やっと一人になり、佳穂は大きく息を吐いた。
 まだ夕刻にもなっていないが、あまりに多くのことが起きた一日であった。小机の上を見れば、昨夜書きかけの文が畳まれたまま置かれている。
 続きを何と書けばよいのだろうか。今日あったことをなかったことにはできない。けれど、それを書く事はできない。父の悲しみを思うと筆を執る気にもなれなかった。妹が不義密通し、人を殺めようとしたことなど、信じたくはないはずである。
 文で思い出した。目付に叔母の文を提出せねばならなかった。
 急いで手文庫から叔母の文を二通ほど出した。当たり障りのない季節のやり取りである。「候」の文字もいくつも使われていた。この文がよもや叔母の罪の証となるなど、叔母は思ってもいなかったであろう。
 しばらくするとお喜多が白湯を持って入って来た。お三奈も一緒だった。お三奈はおたまを番所まで連れて来た後、奥に戻っていた。

「御方様、なんとおいたわしい。お三奈から話は聞きました。おたまは一体何をしたのですか」
「おたまは、利用されただけじゃ。本当に悪い者は別の者。おたまを責めてはならぬ」

 そう答えた佳穂は「悪い者」と言いながら、果たして分家の殿と叔母の川村を一方的に悪いと言っていいものかとも感じていた。言い切るには少し戸惑いがあった。

「畏れながら、皆、分家の奥方様が悪いと申しておりますが」

 どうやら奥にもすでにどこからか噂が紛れ込んでいるらしい。

「分家の奥方様は潔白。悪いのは他の者。その一人は、我が叔母の川村じゃ」

 お喜多もお三奈もえっと叫んでいた。

「それでは、私が見たのはやはり川村様なのですね」

 お三奈はちらりとだが、分家から番所に連行される川村の姿を見ていたのだった。

「ゆえに、わらわは身を慎む。そなたたちにはまことに申し訳ない。いろいろ噂が入ってくるかもしれぬが、惑わされぬように。鳴滝様から話があるまでは軽々しく話をせぬように」

 佳穂の言葉に二人は唇を噛みしめ涙をぐっとこらえた。

「畏まりました」
「頼む」

 佳穂はお喜多に御錠口のおさよのところへ文を持って行くように頼んで、文を渡した。
 もうこれで何もかも終わると思った。
 だが、すぐにお喜多が戻って来た。

「御錠口から表の小姓に取り次いだところ、御方様本人が持って来なければ証拠にはならぬとのこと」

 大方、目付の吉井が言ったのであろう。吉井は何かと堅い男だった。
 わかったと佳穂は見苦しくないように打掛を着て御錠口に向かった。
 御錠口の前ではおさよが待っていた。係の小姓が戸を開けた。
 思わず、佳穂はえっと口に出していた。
 目の前に又四郎が立っていた。御錠口を挟んだ二人の距離は一間もなかった。

「吉井様に証拠の文を渡すのだな」
「はい」

 返事をするのがやっとだった。

「では、参れ」

 又四郎は佳穂に手を差し伸ばした。

「な、なりません」

 そう言った瞬間、背中を押され、足は中奥に入っていた。
 振り返ると、おさよが微笑んでいた。

「行ってらっしゃいませ」

 すぐに御錠口の戸は閉められた。出入りが終われば戸は速やかに閉めねばならぬのだ。
 佳穂は文を持ったまま、又四郎に腕を引かれていた。

「私は罪人の姪」
「そんな話よりも伝えたいことがある」

 又四郎はそう言うと、そばにいた吉井の配下に佳穂の持つ文を渡した。

「御用はこれでしまい」
「ではない。私の用がある」

 又四郎は佳穂の手を引いてずんずん進んでいく。
 廊下に控えていた小姓達は驚きの目で二人を見送った。佳穂はまだ日が出ているうちに中奥にいるなどとんでもないことだと思ったものの、手を振りほどけなかった。
 向かった先は又四郎の部屋だった。本の積まれた部屋に入ると、又四郎は真っ先に正座し、すまぬと頭を下げた。
 佳穂は何が何やらわからずとまどうばかりだった。

「お手をお上げくださいませ」

 又四郎はゆっくりと顔を上げた。

「先ほどの話で分かったと思うが、私は椿屋敷の千代だ。これまで思わせぶりのことを言い、はっきりと言わなんだ。そなたを惑わせたこと、申し訳なく思う」

 佳穂は又四郎の顔をじっと見つめていた。長いまつげ、怜悧な顔、優し気な声の響きも千代と一緒だった。なぜもっと早く気付かなかったのだろう。気付けなかった己のほうが恥ずかしい。

「気付けずに申し訳ありません」
「気付くほうが難しい。なにしろ、私は女子の姿をしていたのだから」
「まことに美しい方でしたので、よもや殿方とは。もしかすると江戸屋敷に御勤めになっているかもしれないと思っておりました」

 千代に会えるかもしれぬとわずかな期待を抱いて江戸に出て来たことを思い出す。

「あの時は別れの言葉も言えずにすまなかった」

 佳穂は椿屋敷を最後に訪れた日のことを思い出した。
 「われてもすゑにあはむとぞ思ふ」の短冊のことも。

「そなたと初めて会ったその日、私は父から江戸に出てくるようにと文を受け取ったのだ。だが、江戸に行きたくなくて、屋敷を出てふらふらと歩いていた。すると川辺に小さな女の子がいた。春先で雪解け水の多い頃ゆえ、川辺にいては危ないと思い、声をかけたのだ」

 気付かなかった。あの時、佳穂は亡き母のことばかり考えていて、そこが危険だとは思わなかった。

「それでは、私を助けてくださったのですね」
「助けたというより、私が助けられたのだ。そなたが母を亡くしたばかりと知り、私と同じ身の上だと知った。母はもっと昔に亡くなっているが。ただ、そなたの母御がそなたの看病をして亡くなったと聞き、私は思ったのだ。きっと私の母も生きていたら同じことをしてくださっただろう。私の看病どころか、襁褓を換えることも乳を与えることもできずに亡くなった母はどんなにか無念であっただろうかと。その私を懸命に育ててくれたのだ、父は。幼い頃、病になった時もそばにいてくれたのだ。そんな父なら私を温かく迎えてくださるだろうと思った。だから江戸に行こうと決めた。そなたがいなければ、私は故郷を離れる寂しさしか感じぬまま江戸へ出ていただろう。ただ、お佳穂は別の寂しさを教えてくれた。そなたのいない江戸に行くというな。そなたに会えぬようになることがあれほどつらいとは思わなかった。だから出立の朝、短冊を書いて託した」

 あの日の悲しみが佳穂の中で少しずつ溶けていくようだった。
 佳穂はゆっくりと上の句を口にした。

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」
「われてもすゑに 逢はむとぞ思ふ」

 又四郎は言い終わると、佳穂にいざり寄り抱き締めた。驚きと同時にその腕の力強さに声が出せなかった。決して離すまいとする意志の強さが佳穂の様々な思いを圧倒した。

「あれからずっとそなたに会いたかった。そなたに会うために分家の次男として月影に執政として帰るために努めた。そなたがいなければ、江戸で私は己を見失っていたかもしれぬ。そなたが支えてくれたのだ。そなたは光明だった」

 支えてくれたのは又四郎も同じである。あばたの痕を「病と闘って得た名誉の手傷」と言ってくれなければ、佳穂は外に出ることもできなかったかもしれない。気味悪がって見る者の視線に心が砕けそうになっても、千代の記憶が佳穂の心を支え続けていた。千代のようになろう。千代が奥女中になったら、こういうことをするだろう、そう考えて働いてきたのだ。佳穂にとっても千代は、いや又四郎は光明だったのだ。

「かたじけないことにございます」

 そう言うことしか佳穂にはできなかった。
 口づけが額に落とされた。すぐに離れた唇が佳穂の唇に触れた。

「若殿様、おいででしょうか」

 生真面目そうな小姓の声が襖の向こうから聞こえた。

「なんだ」

 不機嫌さを押し隠して又四郎は言った。

「お佳穂の方様とともに、広敷の座敷へお越しください。分家の奥方様がお話があると」

 無粋にもほどがあると又四郎は思ったものの、佳穂を抱く手を緩めた。

「続きは後で」

 佳穂はうなずいた。けれど、期待はしなかった。





 広敷の座敷には瑠璃姫だけでなく登美姫もいた。斉陽は先に分家の屋敷に戻っていた。父の不在により生じる混乱を防ぐためとのことだった。
 斉理は表向きは本家の法事出席の折に体調を崩し、本家で療養しているということになっていた。出来る限り早く病による隠居の届けを出し、斉陽が家督を相続する手続きをとることにするらしい。
 だが、実際は今度の一件の責任をとり本家下屋敷の一室に蟄居ということになるようだった。さすがに藩主を死罪にすることはできないのだ。
 まだ調べはすべて終わってはいないが、瑠璃姫の無実は明らかであった。

「そなた達とシロがいなければ、わらわは濡れ衣を着るところであった。まことにかたじけないこと。ついては、何か礼をしたい。できる限りのことをしよう。なんなりと望みを申せ」

 瑠璃姫はそう言って二人をねぎらった。
 佳穂としては叔母のこともあり、礼を言われるなど思いもしないことであった。ましてや望みなど何もない。が、この一件に巻き込まれたお園のことを思い出した。

「畏れながら、本家奥の中臈お園が中屋敷用人の兄梶田仁右衛門の縁でいまだ謹慎の身、兄妹ともども早いお許しをいただけるようにお口添え願えれば幸い」
「さようなことならいくらでも口添えしよう。だが、それだけでいいのか」

 それ以上を望めるわけがない。佳穂は咎人の姪なのだから。しかも、叔母は瑠璃姫の夫と不義の関係にあったのだ。己の望みを伝えるなど許されない。
 だが、又四郎は望みを告げた。

「お佳穂を側室ではなく正室にしたいと思っております。奥方様、御力をお貸し願えませんか」

 佳穂にはそれは不可能に思えた。そのようなことができるわけがない。佳穂は家臣の娘だから側室にしかなれない身分なのだ。大名の姫ではないから正室にはなれない。ましてや、叔母のことがある。 
 瑠璃姫も驚いていた。

「それはたやすいことではないぞ」
「なれど、これは、亡き光信院様の願いでもありました」

 又四郎の言葉にその場にいた女三人は驚きの余り、言葉が出なかった。



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