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沈みゆく陽が遠くの空に浮かぶ雲の縁を黄金色に染めていく。地平から遠く離れた空は既に濃紺に染まり、気の早い星々が小さな輝きを放っている。
晩秋の夜は肌寒く、アラキノはロタンのおさがりである外套の襟をきっちりと閉じた。
「では諸君、出発だ」
アラキノの緊張を解そうとしたのか、少しおどけたユーダレウスの号令を合図にして、闇がぽかりと口を開ける暗い森へ足を踏み入れた。先頭をユーダレウスが歩き、アラキノの隣にはロタンが並び、その後ろにジルがつく。
不思議なことに、上を見れば木々の葉の隙間から空が見えるというのに、辺りは一切の光がない。自らのつま先も見えないほど黒い闇だった。そんな森をユーダレウスについた精霊たちと、各々が手にした小さなランプの明かりを頼りに、一行は進んでいく。
振り返ると、ジルの向こうにある入り口がやたらと遠くに見えた。今自分たちは精霊たちの領域にいる。寒さのせいだけではない震えが、アラキノの手に現れていた。
今宵、アラキノは精霊と契約し、魔術師となる。
アラキノは、師に、事前にとある文言を覚えるように言われた。教えられた耳慣れない言葉は、魔術師の呪文によく似ていた。
耳慣れないということはつまり、口に出すことも難しいということだ。
何故こんな重要そうなことを当日の朝に言うのか。時間ならばいくらでもあったのに。
あからさまにそういう顔をしていたのだろう。師は気まずげに視線を逸らし、そして誤魔化すように、にこっと愛嬌たっぷりに笑った。見かねたジルとロタンが肩をぽんと叩いて励ましてくれたが、おそらく師はすっかり忘れていたのだろう。
そのことを少々不満に思いながら、アラキノは必死でその言葉を何度も繰り返し練習した。どうやら、この言葉が精霊と契約するために必要らしいと、師の慌てた様子からわかっていたからだ。
昼間の内に散々練習したが、合っているのかどうかわからない。心配が現れたのか、アラキノは歩きながら無意識にその文言を呟いた。
すると、隣を歩いていたロタンが腹を抱えて笑い出す。
「うーわっ、すっげえ舌っ足らず! その生意気なツラでそんな赤ん坊みたいなっ……痛ってえ!!」
あまりにも馬鹿にするので、アラキノは兄弟子のつま先を強く踏んづけた。ただし、所詮は少年の体重だ。大した反撃にもならず、すぐに立ち直ったロタンは意趣返しのつもりか、からかうようにアラキノのつむじを突く。アラキノはその手を払いのけ、肘でロタンの腹に軽い一撃をお見舞いする。ちょうど鳩尾に入ったのか、ロタンは鈍いうめき声をあげた。
後ろの小競り合いの音に振り返ったユーダレウスが微笑む。
「うんうん、小さい子が一生懸命に話しているみたいで可愛いよねえ」
全く見当違いな意見に、二人の肩に入っていた力ががくりと抜けた。
殿を務めるジルが優しくアラキノの肩を叩く。
「大丈夫、精霊と契約してしまえば、発音の心配はなくなるから」
ランプの弱い光に照らされて、ジルの黒い瞳が未だににやにやと笑っているロタンをじっと見た。
「……それに、ロタンの時よりは圧倒的にマシ」
よく通る凛としたその声に、ロタンの笑みがようやくおさまった。
一行が歩き出してからかなりの時間が経った。陽はすっかり沈んだようで、空の高いところにはきっかり半分に割れた月が見えている。
「みんな、ついたよ」
ユーダレウスが、ガサリと藪を分けると目の前が急に開けた。アラキノは緊張と寒さで冷えきった手をぎゅっと握りしめた。
木々に囲まれたそこには、ごく浅く、広い池があった。水は澄んで底が見えている。深いところに行っても、せいぜい踝の上が浸る程度だろう。風にさざ波を立てることもなく、水鏡となって天に浮かぶ月と星々を映していた。
池の中央には背の低い木が生えている。葉が一枚も残っていないが、幹は太く、大人が四、五人手を繋いでやっと回れるほどだ。うろのあるどっしりとした幹の下には、人の手首ほどの太さの根が互いに複雑に絡み合いながらその先を水に浸していた。
その姿は立ち枯れているようにも見えた。しかし、何本もの逞しい枝を空に向けて雄大に広げている様は、確かに生きている木であることを物語っていた。
ここは精霊たちの集う『精霊の水鏡』と呼ばれる場所であると、事前にユーダレウスから聞いていた。特に禁足地というわけではないが、むやみに入らないのが精霊たちへの礼儀らしい。
「……綺麗」
ジルのため息のような呟きに、アラキノも同意する。
周辺の木や池の周りには、様々な姿で輝く精霊たちが多く集まっていた。木々や草むら、水辺に至るまで、そこらじゅうが色とりどりの光に溢れて、闇に慣れた目には眩しさを感じるほどだ。
精霊というものはどこにでもいる。各々好きなところに漂ったり、佇んだり、転がったり、思い思いに過ごしているが、基本的には種類ごとに集まっている。こうして、様々な種の精霊がひとところに集っているのは珍しく、壮観だった。
《アロニ ロク チェ》
「あ……?」
近くを通った淡い黄色のネズミの精霊がアラキノに声をかける。何を言われたのかわからず、まごつくアラキノの背にユーダレウスの手が添えられた。
「こんばんは、だってさ」
「あ、こ、こんばんは」
アラキノが人の言葉で返事をすると、ネズミの精霊は嬉しそうにくるりとその場で回って仲間のところへと駆けていった。
揺れる細い尾を見送りながら、アラキノはいつかの師の講義を思い出す。
精霊と人は、古来より互いの生活を邪魔せず、お互いにそこに自然にいるものとして共存してきた。
人間から精霊たちに話しかけ、意思の疎通を図ることはできても、人間が彼らの言葉を理解することはない。
だというのに、時折、気まぐれのように精霊は人間に話しかけてくる。
言葉として認識することすら難しいその言語を理解できるのは、精霊と契約した魔術師のみである。
「精霊は心で言葉を聞く。精霊は言語なんてもの、そもそも必要じゃない。なのに、人間の耳に聞こえる言葉を使ってまで声をかけてくる。きっと、よほど伝えたいことがあるんだと、私は思う。私はそれを知りたいから、師匠のところにいるの」
いつだったか、師に何を学んでいるのか尋ねたアラキノに、ジルはそう教えてくれた。傍にいたユーダレウスが満足気に頷いていたから、それはきっと真理に近いのだろう。
「すごい……まだ集まってくる」
ジルが感嘆の声を上げ、アラキノは記憶を辿る旅から現実に戻る。顔の横を、精霊がまた一匹、光の軌跡を残して木へと向かって飛んでいく。
今宵、ここに集っているのは魔術師と契約していない精霊たちである。森を歩く間、アラキノに興味を持った精霊が中央の木に集まってくるのだ。
「さあ、木のところへ行こうか」
ユーダレウスに促され、アラキノ達は水に根差した大木へと近づいていく。
一歩ごとに次々に精霊が中央の大木へと向かい、そしてその枝に留まりそれぞれに明滅した。裸だった大木は、あっという間に光り輝く葉を茂らせた大樹となった。
「こりゃ、よりどりみどりなんじゃねえ?」
「ほんと、あんたの時とは大違い」
ジルの軽口にぐっと言葉を詰まらせたロタンが、話を変えようと、ひきつった笑顔でアラキノを振り返った。
「アラキノ、精霊の『寝床』はどうするんだ?」
魔術師と契約した精霊は、何か、寝床となるものに宿る。
厳密には精霊は眠らないので、寝床というには語弊があるのだが、古くからの通称として寝床と呼ばれていた。
寝床となるものは、精霊が気に入りさえすればなんでも良い。大抵の場合は、指輪などの装飾品にはめられるような、光る程に磨かれた鉱石を好む。ユーダレウスのように、杖の先にぶら下げたカンテラというのはかなり珍しい部類だ。
魔術師たちは、それらの寝床をいつも身に着け、持ち歩き、魔術を使う時にそなえるのだ。
「あー……一応、持ってきてはいるけど……」
「なんだよ、歯切れわりぃな」
アラキノは元々奴隷だ。元から持っていた持ち物など何もない。そこから抜け出して数年の月日が経ったが、自分の物を増やすことにさして興味は生まれなかった。服はロタンのおさがりで事足りたし、装飾品に至っては身に着けようという考えすら浮かばなかった。無論、石ころを拾ってきて磨く趣味もない。
一応、寝床の候補になればと思ったものを入れてきた巾着の口をくつろげ、中をロタンとジルに見せる。
幼い頃に川辺で拾ったつるりとした青白い石に、やたらと堅い木の実、角が削れて滑らかになった緑色のガラス片。あとは、安物の金属でできた指輪とも呼べないような輪だ。
小さなガラクタたちを見るなり、ジルとロタンは二人揃って「これはちょっと……」と言いたげな顔をした。
アラキノは困り果て、ついユーダレウスを見た。精霊たちに挨拶をしているのか挨拶されているのか、何やらやり取りをしているその人は、いつも通り人を無条件で安心させる笑みを浮かべていた。
「せーんせー、アラキノのやつ、寝床になりそうなモン、なにも持ってねーみたいです」
「おや、そうなの?」
ロタンに呼ばれて振り返ったユーダレウスは、アラキノの手から巾着をそっと取り上げると、ふむふむと鼻を鳴らしながら中を吟味し始めた。
「よし、これとこれにしよう」
何やら楽しそうな師は、その手に青白い石と、金属の輪をのせていた。
一体何をするつもりなのか。弟子たちは顔を見合わせる。
「アラキノツール・セラ」
杖にゆらりとぶら下がるカンテラから、白銀の光の玉が躍り出る。
その場でふわりと優雅に舞った精霊は、一同の周囲を旋回し、アラキノの頬を励ますように撫でて、ユーダレウスの側に戻っていった。
「コード ディスレセ タプロ」
師が杖の先で地面を突く。カンテラが杖にぶつかり、カン、という音がした。
光の玉がほどけ、きらめく霧となった。それは放射状に螺旋を描いて魔術師の手のひらに乗った二つのガラクタに収束していく。
夜の森には眩しすぎる光が治まると、ユーダレウスの手の上には、青白い石がはめ込まれた大ぶりな指輪がのっていた。
「お見事です。師匠」
「どうもありがとう、ジル」
ジルの素直な賛辞に、照れた顔で返したユーダレウスは、末の弟子の右手をとった。出来立ての指輪がアラキノの中指に通される。
が、しかし、指輪はアラキノの指には大きすぎた。
「……詰めが甘いです、師匠」
額を抱えるジルをよそに、ユーダレウスは浮かべていた笑みを変えることはなかった。
「大丈夫、ほら、親指なら!」
そう言いながら中指から指輪を引っこ抜いたユーダレウスは、今度はアラキノの親指に指輪を嵌めた。中指よりはまだましだが、まだ少し緩く、気を抜けばすっぽ抜けてしまいそうだ。
「私、直しましょうか?」
ジルが、自身の精霊が眠るペンダントに手をかけた。しかし、ユーダレウスは思案するように首を傾げた。
「……うーん。ちょっと大きいけど、まあ、そのうちぴったりになるよ。何しろ、男の子の成長は早いからね!」
ユーダレウスの手が背の高い弟子の背をパシンと叩いた。そんな師の前向きすぎる言い草に、ロタンは苦笑いを零すとひょいと肩をすくめた。
一方、アラキノはそれどころではなかった。
大きさが合っていないことはともかく、指輪はとても立派なものに見えた。材料がガラクタとはいえ、本当に自分が受け取ってもいいのだろうか。ランプの小さな光に青白い石が艶めいた。
「師匠、これ」
「私からの前祝いだよ。使っておくれ、アラキノ」
そう言われてしまったら、アラキノは断れない。
ユーダレウスに引き寄せられ、アラキノは緩い指輪がすり抜けないように右手をぎゅっと握りしめた。腕に抱き込まれる感覚と、慣れた温もり。緊張しすぎた身体から少しだけ力が抜けた。
「精霊は、ほんとに俺なんかと契約してくれんのかな……」
俯くアラキノの口から弱音がこぼれた。それを聞いたユーダレウスが、吐息だけで笑うと煌々と輝く大樹に顔を向けた。
「あんなにいっぱい集まってるのに?」
「みんな、ひやかしかもしれない」
師の手がアラキノの背をゆっくりと二度叩く。
まるでほんの小さな子供の扱いだ。長い時を生きる魔術師からしたら、大抵の人間がほんの子供に見えるのだろう。まだ十四のアラキノなど、尚更だ。
けれどアラキノはその慈しみの手を厭わしいとは少しも思わない。おそらく、ジルもロタンも思わないのだろう。それが、ユーダレウスという人だった。
背中から伝わる振動に、ゆっくりと不安が解かれていく。
「私の弟子が望むのだから、大丈夫だよ」
その自信の理由さえ分かれば、今頃こんなに不安になることもなかったのに。多分、今問うても、未来で問うても、アラキノに理解できる答えをくれないだろう。
アラキノは消えきらない不安に苛まれる心が、情けなく師に縋りつこうとするのを叱咤し、温かい腕の囲いから身を離した。
晩秋の夜は肌寒く、アラキノはロタンのおさがりである外套の襟をきっちりと閉じた。
「では諸君、出発だ」
アラキノの緊張を解そうとしたのか、少しおどけたユーダレウスの号令を合図にして、闇がぽかりと口を開ける暗い森へ足を踏み入れた。先頭をユーダレウスが歩き、アラキノの隣にはロタンが並び、その後ろにジルがつく。
不思議なことに、上を見れば木々の葉の隙間から空が見えるというのに、辺りは一切の光がない。自らのつま先も見えないほど黒い闇だった。そんな森をユーダレウスについた精霊たちと、各々が手にした小さなランプの明かりを頼りに、一行は進んでいく。
振り返ると、ジルの向こうにある入り口がやたらと遠くに見えた。今自分たちは精霊たちの領域にいる。寒さのせいだけではない震えが、アラキノの手に現れていた。
今宵、アラキノは精霊と契約し、魔術師となる。
アラキノは、師に、事前にとある文言を覚えるように言われた。教えられた耳慣れない言葉は、魔術師の呪文によく似ていた。
耳慣れないということはつまり、口に出すことも難しいということだ。
何故こんな重要そうなことを当日の朝に言うのか。時間ならばいくらでもあったのに。
あからさまにそういう顔をしていたのだろう。師は気まずげに視線を逸らし、そして誤魔化すように、にこっと愛嬌たっぷりに笑った。見かねたジルとロタンが肩をぽんと叩いて励ましてくれたが、おそらく師はすっかり忘れていたのだろう。
そのことを少々不満に思いながら、アラキノは必死でその言葉を何度も繰り返し練習した。どうやら、この言葉が精霊と契約するために必要らしいと、師の慌てた様子からわかっていたからだ。
昼間の内に散々練習したが、合っているのかどうかわからない。心配が現れたのか、アラキノは歩きながら無意識にその文言を呟いた。
すると、隣を歩いていたロタンが腹を抱えて笑い出す。
「うーわっ、すっげえ舌っ足らず! その生意気なツラでそんな赤ん坊みたいなっ……痛ってえ!!」
あまりにも馬鹿にするので、アラキノは兄弟子のつま先を強く踏んづけた。ただし、所詮は少年の体重だ。大した反撃にもならず、すぐに立ち直ったロタンは意趣返しのつもりか、からかうようにアラキノのつむじを突く。アラキノはその手を払いのけ、肘でロタンの腹に軽い一撃をお見舞いする。ちょうど鳩尾に入ったのか、ロタンは鈍いうめき声をあげた。
後ろの小競り合いの音に振り返ったユーダレウスが微笑む。
「うんうん、小さい子が一生懸命に話しているみたいで可愛いよねえ」
全く見当違いな意見に、二人の肩に入っていた力ががくりと抜けた。
殿を務めるジルが優しくアラキノの肩を叩く。
「大丈夫、精霊と契約してしまえば、発音の心配はなくなるから」
ランプの弱い光に照らされて、ジルの黒い瞳が未だににやにやと笑っているロタンをじっと見た。
「……それに、ロタンの時よりは圧倒的にマシ」
よく通る凛としたその声に、ロタンの笑みがようやくおさまった。
一行が歩き出してからかなりの時間が経った。陽はすっかり沈んだようで、空の高いところにはきっかり半分に割れた月が見えている。
「みんな、ついたよ」
ユーダレウスが、ガサリと藪を分けると目の前が急に開けた。アラキノは緊張と寒さで冷えきった手をぎゅっと握りしめた。
木々に囲まれたそこには、ごく浅く、広い池があった。水は澄んで底が見えている。深いところに行っても、せいぜい踝の上が浸る程度だろう。風にさざ波を立てることもなく、水鏡となって天に浮かぶ月と星々を映していた。
池の中央には背の低い木が生えている。葉が一枚も残っていないが、幹は太く、大人が四、五人手を繋いでやっと回れるほどだ。うろのあるどっしりとした幹の下には、人の手首ほどの太さの根が互いに複雑に絡み合いながらその先を水に浸していた。
その姿は立ち枯れているようにも見えた。しかし、何本もの逞しい枝を空に向けて雄大に広げている様は、確かに生きている木であることを物語っていた。
ここは精霊たちの集う『精霊の水鏡』と呼ばれる場所であると、事前にユーダレウスから聞いていた。特に禁足地というわけではないが、むやみに入らないのが精霊たちへの礼儀らしい。
「……綺麗」
ジルのため息のような呟きに、アラキノも同意する。
周辺の木や池の周りには、様々な姿で輝く精霊たちが多く集まっていた。木々や草むら、水辺に至るまで、そこらじゅうが色とりどりの光に溢れて、闇に慣れた目には眩しさを感じるほどだ。
精霊というものはどこにでもいる。各々好きなところに漂ったり、佇んだり、転がったり、思い思いに過ごしているが、基本的には種類ごとに集まっている。こうして、様々な種の精霊がひとところに集っているのは珍しく、壮観だった。
《アロニ ロク チェ》
「あ……?」
近くを通った淡い黄色のネズミの精霊がアラキノに声をかける。何を言われたのかわからず、まごつくアラキノの背にユーダレウスの手が添えられた。
「こんばんは、だってさ」
「あ、こ、こんばんは」
アラキノが人の言葉で返事をすると、ネズミの精霊は嬉しそうにくるりとその場で回って仲間のところへと駆けていった。
揺れる細い尾を見送りながら、アラキノはいつかの師の講義を思い出す。
精霊と人は、古来より互いの生活を邪魔せず、お互いにそこに自然にいるものとして共存してきた。
人間から精霊たちに話しかけ、意思の疎通を図ることはできても、人間が彼らの言葉を理解することはない。
だというのに、時折、気まぐれのように精霊は人間に話しかけてくる。
言葉として認識することすら難しいその言語を理解できるのは、精霊と契約した魔術師のみである。
「精霊は心で言葉を聞く。精霊は言語なんてもの、そもそも必要じゃない。なのに、人間の耳に聞こえる言葉を使ってまで声をかけてくる。きっと、よほど伝えたいことがあるんだと、私は思う。私はそれを知りたいから、師匠のところにいるの」
いつだったか、師に何を学んでいるのか尋ねたアラキノに、ジルはそう教えてくれた。傍にいたユーダレウスが満足気に頷いていたから、それはきっと真理に近いのだろう。
「すごい……まだ集まってくる」
ジルが感嘆の声を上げ、アラキノは記憶を辿る旅から現実に戻る。顔の横を、精霊がまた一匹、光の軌跡を残して木へと向かって飛んでいく。
今宵、ここに集っているのは魔術師と契約していない精霊たちである。森を歩く間、アラキノに興味を持った精霊が中央の木に集まってくるのだ。
「さあ、木のところへ行こうか」
ユーダレウスに促され、アラキノ達は水に根差した大木へと近づいていく。
一歩ごとに次々に精霊が中央の大木へと向かい、そしてその枝に留まりそれぞれに明滅した。裸だった大木は、あっという間に光り輝く葉を茂らせた大樹となった。
「こりゃ、よりどりみどりなんじゃねえ?」
「ほんと、あんたの時とは大違い」
ジルの軽口にぐっと言葉を詰まらせたロタンが、話を変えようと、ひきつった笑顔でアラキノを振り返った。
「アラキノ、精霊の『寝床』はどうするんだ?」
魔術師と契約した精霊は、何か、寝床となるものに宿る。
厳密には精霊は眠らないので、寝床というには語弊があるのだが、古くからの通称として寝床と呼ばれていた。
寝床となるものは、精霊が気に入りさえすればなんでも良い。大抵の場合は、指輪などの装飾品にはめられるような、光る程に磨かれた鉱石を好む。ユーダレウスのように、杖の先にぶら下げたカンテラというのはかなり珍しい部類だ。
魔術師たちは、それらの寝床をいつも身に着け、持ち歩き、魔術を使う時にそなえるのだ。
「あー……一応、持ってきてはいるけど……」
「なんだよ、歯切れわりぃな」
アラキノは元々奴隷だ。元から持っていた持ち物など何もない。そこから抜け出して数年の月日が経ったが、自分の物を増やすことにさして興味は生まれなかった。服はロタンのおさがりで事足りたし、装飾品に至っては身に着けようという考えすら浮かばなかった。無論、石ころを拾ってきて磨く趣味もない。
一応、寝床の候補になればと思ったものを入れてきた巾着の口をくつろげ、中をロタンとジルに見せる。
幼い頃に川辺で拾ったつるりとした青白い石に、やたらと堅い木の実、角が削れて滑らかになった緑色のガラス片。あとは、安物の金属でできた指輪とも呼べないような輪だ。
小さなガラクタたちを見るなり、ジルとロタンは二人揃って「これはちょっと……」と言いたげな顔をした。
アラキノは困り果て、ついユーダレウスを見た。精霊たちに挨拶をしているのか挨拶されているのか、何やらやり取りをしているその人は、いつも通り人を無条件で安心させる笑みを浮かべていた。
「せーんせー、アラキノのやつ、寝床になりそうなモン、なにも持ってねーみたいです」
「おや、そうなの?」
ロタンに呼ばれて振り返ったユーダレウスは、アラキノの手から巾着をそっと取り上げると、ふむふむと鼻を鳴らしながら中を吟味し始めた。
「よし、これとこれにしよう」
何やら楽しそうな師は、その手に青白い石と、金属の輪をのせていた。
一体何をするつもりなのか。弟子たちは顔を見合わせる。
「アラキノツール・セラ」
杖にゆらりとぶら下がるカンテラから、白銀の光の玉が躍り出る。
その場でふわりと優雅に舞った精霊は、一同の周囲を旋回し、アラキノの頬を励ますように撫でて、ユーダレウスの側に戻っていった。
「コード ディスレセ タプロ」
師が杖の先で地面を突く。カンテラが杖にぶつかり、カン、という音がした。
光の玉がほどけ、きらめく霧となった。それは放射状に螺旋を描いて魔術師の手のひらに乗った二つのガラクタに収束していく。
夜の森には眩しすぎる光が治まると、ユーダレウスの手の上には、青白い石がはめ込まれた大ぶりな指輪がのっていた。
「お見事です。師匠」
「どうもありがとう、ジル」
ジルの素直な賛辞に、照れた顔で返したユーダレウスは、末の弟子の右手をとった。出来立ての指輪がアラキノの中指に通される。
が、しかし、指輪はアラキノの指には大きすぎた。
「……詰めが甘いです、師匠」
額を抱えるジルをよそに、ユーダレウスは浮かべていた笑みを変えることはなかった。
「大丈夫、ほら、親指なら!」
そう言いながら中指から指輪を引っこ抜いたユーダレウスは、今度はアラキノの親指に指輪を嵌めた。中指よりはまだましだが、まだ少し緩く、気を抜けばすっぽ抜けてしまいそうだ。
「私、直しましょうか?」
ジルが、自身の精霊が眠るペンダントに手をかけた。しかし、ユーダレウスは思案するように首を傾げた。
「……うーん。ちょっと大きいけど、まあ、そのうちぴったりになるよ。何しろ、男の子の成長は早いからね!」
ユーダレウスの手が背の高い弟子の背をパシンと叩いた。そんな師の前向きすぎる言い草に、ロタンは苦笑いを零すとひょいと肩をすくめた。
一方、アラキノはそれどころではなかった。
大きさが合っていないことはともかく、指輪はとても立派なものに見えた。材料がガラクタとはいえ、本当に自分が受け取ってもいいのだろうか。ランプの小さな光に青白い石が艶めいた。
「師匠、これ」
「私からの前祝いだよ。使っておくれ、アラキノ」
そう言われてしまったら、アラキノは断れない。
ユーダレウスに引き寄せられ、アラキノは緩い指輪がすり抜けないように右手をぎゅっと握りしめた。腕に抱き込まれる感覚と、慣れた温もり。緊張しすぎた身体から少しだけ力が抜けた。
「精霊は、ほんとに俺なんかと契約してくれんのかな……」
俯くアラキノの口から弱音がこぼれた。それを聞いたユーダレウスが、吐息だけで笑うと煌々と輝く大樹に顔を向けた。
「あんなにいっぱい集まってるのに?」
「みんな、ひやかしかもしれない」
師の手がアラキノの背をゆっくりと二度叩く。
まるでほんの小さな子供の扱いだ。長い時を生きる魔術師からしたら、大抵の人間がほんの子供に見えるのだろう。まだ十四のアラキノなど、尚更だ。
けれどアラキノはその慈しみの手を厭わしいとは少しも思わない。おそらく、ジルもロタンも思わないのだろう。それが、ユーダレウスという人だった。
背中から伝わる振動に、ゆっくりと不安が解かれていく。
「私の弟子が望むのだから、大丈夫だよ」
その自信の理由さえ分かれば、今頃こんなに不安になることもなかったのに。多分、今問うても、未来で問うても、アラキノに理解できる答えをくれないだろう。
アラキノは消えきらない不安に苛まれる心が、情けなく師に縋りつこうとするのを叱咤し、温かい腕の囲いから身を離した。
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捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。
腕には、守るべきメイドの少女。
眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。
―――それは、ただの不運な落下のはずだった。
崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。
その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。
死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。
だが、その力の代償は、あまりにも大きい。
彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”――
つまり平和で自堕落な生活そのものだった。
これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、
守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、
いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。
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