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名を書けるようになったあの日から数年。
アラキノは十四の歳を迎えていた。本当の年齢はわからないからほとんどユーダレウスの見立て、つまりは適当だ。
幼さはまだ残るものの精悍な顔立ちになり、身長はぐんぐん伸びて、今やユーダレウスと肩を並べている。しかし、アラキノが目指すところは兄弟子であるロタンだ。それを知っているのかいないのか、ロタンに唆されて家中の力仕事を競うようにしてやっていた結果、アラキノは成長期の少年らしいしなやかな筋肉をも身に着けていた。
あの痩せこけた奴隷の子供と今のアラキノを結びつけるものといえば、相変わらずぼさぼさに傷んだ月色の銀髪と、抜き身の刃のような鋭い目つきだけだった。
魔術師というものは年をとらない。
アラキノの身長は伸びた。しかし、ユーダレウスもジルもロタンも、初めて会った時と比べて、ほとんど見た目が変わらない。
三人とも、もうすっかり大人である。身長はもう伸びないにしても、例えば、日に焼けるだとか、髪が伸びるだとか、老けるだとか、多少なりとも変化はあるはずだ。しかし、彼らにはそれが見えない。
そのことは、時が流れれば流れるほど違和感にしかならなかった。まさか、本当に道理に外れた良からぬ術でも使っているのだろうか。
不安になったアラキノは、薬を煮ている師に尋ねることにした。馬鹿正直に「良からぬ術」の話までしたら、師は息が切れるほど笑い転げた。
ようやく笑いの波が引いた師曰く、魔術師が年をとらない理由は精霊の加護なのだという。
精霊は、契約した魔術師が生きる時間を引き延ばす。さらに、病にもかからず、怪我を負ってもすぐに治るように魔術師を守ってくれる。
すべて、精霊と契約し、魔術師となったが故に起きることだと、笑いすぎて震えた声でユーダレウスは言った。
「年をとらないわけではないんだよ。死なないわけでもない。ゆっくりと、それこそ人の何倍もの時間をかけて、我ら魔術師の身体は老いていくんだ」
三年経っても四年経っても、何一つ変わらない顔をしたユーダレウスは、火にかけた鉄鍋から杓子を引き上げた。異様に青い液が杓子の先から滴り、液面に落ちてシュウと音を立てた。
カタン、と杓子がテーブルに寝かされ、同時に、どこか、憂いを含んだ眼差しがアラキノに向けられた。
「それゆえに、魔術師を化け物と呼ぶ者もいるんだよ……アラキノは、恐ろしいと思うかい?」
「全く思わない、です」
平凡な、けれど温かな青い色の瞳をじっと見て、アラキノははっきりとそう答えた。
人より長く生きるからなんだというのか。魔術師であるユーダレウスや兄弟子たちが何者か、アラキノは自らの目で見て知っている。決して化け物などではない。血の通った人間だと知っている。
アラキノは魔術師になる。そこが揺らぐことはない。
それに生きる時間が延びるということは、ユーダレウスと共にある時間がそれだけ長くなるということだ。望むことはあっても、拒もうとは思わなかった。
その年。森が秋の色に染まる頃。アラキノは精霊と契約する決心を固めた。
「それでは、魔術師になるにあたって、頭の端っこに入れといた方が良いことを教えよう」
アラキノが受けた一番始めの講義は、魔術師の最大の禁忌についてだった。
それは、契約した精霊に名を付けてはいけないということ。
正直拍子抜けした。もっと厳しい禁止事項があるのかと思っていたのだ。肩の力を抜くアラキノの様子を見て、師は珍しく険しい顔をした。
「アラキノ。これは、とても重要なことなんだ。精霊に勝手に名を付けられた魔術師はね、死んでしまうと言われている」
「しぬ……」
「そう。魔術師に名を付けられた精霊はね、消えてなくなってしまうんだ。それに伴って名を付けた魔術師がどうなるのか、詳しいことは伝承されてはいないけれど、恐ろしいことが起きると言われている、少なくとも魔術師に戻ることは不可能だ。多くの魔術師はそれを死ぬということだと捉えている」
曖昧な情報に思えたが、それ故にどこか真実味があった。
いつも微笑みを浮かべているユーダレウスが、表情のない顔をしていたせいもあるかもしれない。
アラキノはもう、奴隷だった頃の様にいつ死んでも構わないとは思わない。
精霊に名を付けない。アラキノは忘れないように、諳んじれるようになるまで、しっかりと頭に刻み込んだ。
次に教わったのは、精霊と接するときの心構えだ。
精霊と魔術師との間には服従も使役もない。かといって恋人でも友人でも家族でもない。無論、家畜でもない。
精霊は、精霊だけでは魔術を使えない。そもそも、精霊たちに魔術を使うという概念がない。
光を放ったり、ふわふわと飛んだり、火の粉を飛ばしたり、魔術に似たことをやってはいるが、その力は魔術師の起こす術には遠く及ばない。
奇跡を起こす力を持っているのに、彼らは使い方を知らず、使おうとも思っていない。
そんな彼らに対して、魔術師たちは魔術を使うために、その持て余す力を貸してくれるよう働きかけるのだ。
「じゃあ、魔術ってどうやって使うんですか、師匠」
アラキノが問うと、師は眉間に皺をよせた難しい顔で両腕を組んだ。
「弟子とる度に毎回聞かれるんだけど、説明が難しいんだよなあ、それ……ジルの時は……でもあの子、賢いからなあ。同じ説明でわかるかな……うーんと、ロタンの時はなんて言ったんだっけ……?」
うんうん唸りながら返事を探しているのが申し訳なくなって、アラキノが質問を取り下げようとしたその時、俯いていたユーダレウスが勢いよく顔を上げた。
「思い出した! ええとね、アラキノ。魔術はね、明かりをつけるようなものなんだ」
普段は鋭い目を丸くして、アラキノはぎこちなく首を傾げた。
見るからにピンときていないらしい末弟子をよそに、ユーダレウスは嬉々として話を続ける。
「明かりをつける、ということは、マッチをただこすって小さな灯をともすのとは違う。それだけじゃ不十分だ。明かりを保ち続ける道具が必要になる」
ユーダレウスは机の上で甘い色の光を放っている小さなオイルランプに視線をやった。つられてアラキノもそちらを見る。
金属でできた平たい円柱の上に、雫型と筒を組み合わせたような形のガラスが乗っている。平たい円柱に燃料となる油を入れ、ガラス筒の中にある芯に火をつけるものだ。
何の変哲もないランプは、この部屋の視線を独り占めしているとも気づかずに、ひたすら柔らかな光を辺りにわけていた。
「今回はランプにしよう。まず最初の工程は、ランプそのものを頭の中に作ること。どんな形か、どれくらい明くなるのか、持ったらどんな重さか。隅々までしっかりと」
ユーダレウスの白い指先がランプを突いた。少々熱かったのか、離した指先にふっと息を吹きかける。
「……そのランプはね、精霊の力が油となるんだ。だから、精霊を呼んで、協力してくれと交渉する。力は彼らの持ち物だ。どれほど親しくとも、相手のものを使う前に使ってもいいか聞くのは当たり前だろう?」
ふと、心に落ちた疑問が気になって、アラキノは発言の許可を求めて手を上げた。穏やかな表情をした師は、それを許した。
「精霊たちが、力を貸してくれないことって、あんの?」
「あるよ。そうだなあ……例えば、あまりにも横柄な頼み方をすれば、精霊は力を渡さない。これは人間も同じだね。あとは……魔術師の言葉足らずで精霊に上手く伝わらなかった時だ」
「言葉足らず?」
「そう。ただ『あれをとって』と言うのと、『そこの分厚くておどろおどろしい表紙の本をとって』というのとでは違うだろう? 人間同士ならば身振りやなんかで察することができるかもしれないけれど、精霊でそれができる子は滅多にいない。精霊にもいろいろいるから、一概にみな同じとは言えないんだけどね」
アラキノが納得して頷くと、師は「続けるよ」と微笑んだ。
「魔術師の言葉が漠然とし過ぎていると、彼らはどんな風に力を貸せばいいのかわからなくなってしまう。その結果、欲しい力を貸してもらえないということが起きる。面倒がらずに、伝えるための言葉はきちんと使うこと」
「はい」
思い付きの質問だったが、かなり重要な話を聞いた気がした。
アラキノがしっかりと師の目を見て返事をすると、伸びて来た手がよしよしと頭をかき混ぜた。
なでられることは、師に限っては嫌いではないのだが、小さな子供の扱いをされているようで面映ゆく、アラキノの眉間に皺が寄る。
「ふふ、そうむくれないでアラキノ。悪かったよ、あまりにも良い子のお返事で、小さな頃を思い出して可愛らしくてね、つい……」
末の弟子の眉間にさらに一本増えた皺を見て、ユーダレウスは失言をしたと口を紡ぐ。あいにく、十四になったアラキノは、可愛らしいと言われて喜ぶ質ではなかった。
気まずい沈黙をかき消そうとする師の不自然な咳払いを聞きながら、アラキノは増えた皺を伸ばすように眉間をこする。
「……ええと、どこまで話したっけ?」
「……精霊に力を貸すよう交渉するとこまで」
「ああ、そうだそうだ。ここまで来たらもう仕上げだね。最後に、魔術師の手でランプに火をつけるんだ」
ユーダレウスはいつ出したのか、カンテラの揺れる杖の先で、床をカツンと突いた。いつも師に寄り添っている金銀の精霊がいない場でのそれは、静かな部屋の中に硬い音を響かせただけだったが、どこか厳かな響きで聞こえた。身が引き締まる思いでアラキノは背筋を伸ばし、居ずまいを正す。
「……あ、別に必ずしも音を立てる必要はないからね? 私がこうして音を立てるのは、そっちの方が『魔術使うぞ!』って気分になるってだけだから」
茶目っ気たっぷりに肩をすくめる師に、アラキノの肩からがくりと力が抜けた。
「えっと……今から魔術を使うっつー心構えをするってこと?」
「そうそう、そうだよ、その通り! そんなこんなでようやく灯った光が魔術そのものなんだ」
わかるような、わからないような。師の指南は独特だったが、きっとそれが魔術を使うということなのだろう。
ただ、それを完全に理解しきれないということは、魔術師の素養がないということになったりしないだろうか。急に不安になってきたアラキノは机の上に視線を落とす。
アラキノの心に芽吹こうとした不安を摘み取るように、温かな手が月の色の髪をかき混ぜた。
「まあ、こんなものは魔術を使っていくうちになんとなーく分かるようになるから、心配しないこと」
まるで、もう魔術師になれることが決まっているような口ぶりに、アラキノは困惑して師を見た。
何か言おうと口を開きかけたが、手櫛で髪を梳いてくれている師の指に髪が引っかかった拍子に言葉が詰まる。さらには「アラキノ、また洗いざらしにしただろう」という小言にすっかり遮られてしまった。
「せっかく綺麗な色なのに。こんなにぼろぼろにして……」
しょっちゅう髪を丁寧に扱えと言われるが、アラキノにとって、髪の手入れはこの上なく面倒で、意味が分からない行為だった。髪なんて、ぼさぼさだろうが艶やかだろうが、生死には全く関係がない。そう思って、ついつい蔑ろにしてしまうのだ。
けれども、ユーダレウスはそれを是としない。アラキノを始めとして、どの弟子にもめっぽう甘い人だが、これだけはどうも譲れないらしい。
引き出しから櫛を取り出したユーダレウスが、背後に回り込むのを見て、アラキノは椅子から立ちあがった。
「師匠、櫛はいい、です」
「だーめ。大人しくしてなさい」
逃げようと身を翻したところをあっさりとつかまった。渋い顔で師を見れば、その人はしたり顔でこう言った。
「まだ私の講義は終わっていないんだよ」
それを持ち出されては、アラキノは大人しくなるほかないということをわかっているのだからずるい。アラキノは逃げるのを諦めて、椅子に腰かけ、大人しく師の手に身を委ねることにした。
「いいかい、アラキノ。魔術とは、あくまで人間が生み出した、人間の為の技術だ。だというのに、それは他者である精霊の力を借りなければ絶対に成り立たない」
アラキノは師の言葉に耳を傾けた。時折耳に触れる指が擽ったい。
絡んだ髪が少しずつ丁寧に解されていくのがわかる。長さは肩を少し過ぎていた。
アラキノの髪を切ってくれるのはジルだ。適当な長さになると、そろそろ切ろうかと尋ねてくれる。ただ、散髪の度にユーダレウスは子供のように唇を尖らせて拗ねる。それはもう大いに拗ねる。
尊敬している師のそんな姿はあまり見たくないという三人弟子会議の結果、余程伸びて邪魔にならない限り、アラキノは髪を切らないことになったのだった。
鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さで、ユーダレウスは末の弟子に向けて講義の言葉を紡いでいく。
「精霊たちは、人間に力を貸すことを基本的には嫌がらない。彼らは、天地万物いのちの子、つまり世界の全てと、人間を愛しているからね」
急に、師の手が止まった事を不審に思ったアラキノは、背後を振り仰いだ。師と目が合ったと思ったが、その青い瞳はどこにも焦点があっていないらしく、ぞくりと背中が粟立つ。
「――力の源は、精霊であり、己ではない。精霊の力とは、天地万物、いのちの子の為に存在する。己が為にのみ用いれば、その者は必ず破滅に進む。
――術師、人を助けよ。努々、驕るべからず」
静かな声で平坦に紡がれたその言葉は、いつもの柔らかな師の言いつけとは違って、何か厳粛な戒めのように聞こえた。
「師匠……?」
アラキノが呼びかけると、視線が自然にかみ合った。
戻ってきた、と思った。振り返っていた顔を元の位置に直されながら、アラキノは安堵した。
「――とはいえ、彼らはそもそもが自由な生き物だ。それこそ人間には考えられないほどにね。魔術師は自分の都合で、自由という彼らの本質を歪めてもらっている。だから決して、魔術を自分だけのものだと思ってはいけない」
「……はい」
「わざわざ不自由になってまで力を貸したのに、相手が自分を蔑ろにして『全部私一人でやりました!』なんて言い出したら、腹が立つだろう?」
なるほど確かに腹が立つ。アラキノは至極真面目に頷いた。その拍子に、端と端が絡まって結ばれてしまった二本の髪が、櫛の歯に引っかかり、そのままプツンと千切れた。
「こら、頭を動かさない」
「すみません」
厳しい声で窘められ、一応素振りだけは神妙に反省しているふりをした。たかが髪の一本や二本が、などと口答えをすると、面倒なお説教がやってくることをアラキノは既に知っている。
末の弟子のそんな内心を知りつくしているユーダレウスは、諦めたようなため息をつくとまた月色の銀の髪に櫛を通し始めた。
「……少なくとも、魔術師であり続けるには、精霊の心が離れないよう、決して驕らず、謙虚であり続けることが大事だよ。それは確かなことだ」
ユーダレウスはそう言うと、幾らか指通りが良くなった弟子の髪に満足したのか櫛を机に置いた。
「いくら素晴らしい術を思い付いたところで、精霊が力を貸さなければ、魔術師はただの夢想家になってしまう」
師は、その日の指南をそう締めくくると、アラキノの肩をぽんと叩いた。なんとなく身が引き締まった思いがして、アラキノは背筋を伸ばした。
その時、真夜中にだけ姿を見せる精霊が二人の前を横切った。宙に浮かぶ布切れのようなその姿に、ユーダレウスは「おや」と小さく声を上げた。
「もうそんな時間か。さあさあ、寝る時間だ」
ユーダレウスに促されながら、アラキノは部屋を出る。
もう寝ろというのなら、髪を梳く必要はなかっただろうに、と思ったことは秘密だ。
自室のベッドに入ると、ついてきたユーダレウスが身体にかかる上掛けの端を丁寧に直した。そしてとんとんとアラキノの胸元を叩き、幼い頃から寝物語の代わりに言い聞かせて来た、あの言いつけを話し出す。
弟子に迎えられてから早数年。アラキノはもう十四だ。少なくとも親に付き添われて寝かしつけられるような年齢ではない。むしろ、干渉を嫌がって避けるような年頃だ。
けれどアラキノには、師がそうすることを拒めない。
もう必要ないと拒んだら、ユーダレウスはアラキノの意思を尊重して、その日のうちに子供にするような寝かしつけをやめるだろう。
ただ一言「おやすみ」と言って、寂しい顔をして微笑むのだろう。
そのことを思えば、多少の気恥ずかしさなど、アラキノにとっては我慢のうちにも入らないのだから。
アラキノは十四の歳を迎えていた。本当の年齢はわからないからほとんどユーダレウスの見立て、つまりは適当だ。
幼さはまだ残るものの精悍な顔立ちになり、身長はぐんぐん伸びて、今やユーダレウスと肩を並べている。しかし、アラキノが目指すところは兄弟子であるロタンだ。それを知っているのかいないのか、ロタンに唆されて家中の力仕事を競うようにしてやっていた結果、アラキノは成長期の少年らしいしなやかな筋肉をも身に着けていた。
あの痩せこけた奴隷の子供と今のアラキノを結びつけるものといえば、相変わらずぼさぼさに傷んだ月色の銀髪と、抜き身の刃のような鋭い目つきだけだった。
魔術師というものは年をとらない。
アラキノの身長は伸びた。しかし、ユーダレウスもジルもロタンも、初めて会った時と比べて、ほとんど見た目が変わらない。
三人とも、もうすっかり大人である。身長はもう伸びないにしても、例えば、日に焼けるだとか、髪が伸びるだとか、老けるだとか、多少なりとも変化はあるはずだ。しかし、彼らにはそれが見えない。
そのことは、時が流れれば流れるほど違和感にしかならなかった。まさか、本当に道理に外れた良からぬ術でも使っているのだろうか。
不安になったアラキノは、薬を煮ている師に尋ねることにした。馬鹿正直に「良からぬ術」の話までしたら、師は息が切れるほど笑い転げた。
ようやく笑いの波が引いた師曰く、魔術師が年をとらない理由は精霊の加護なのだという。
精霊は、契約した魔術師が生きる時間を引き延ばす。さらに、病にもかからず、怪我を負ってもすぐに治るように魔術師を守ってくれる。
すべて、精霊と契約し、魔術師となったが故に起きることだと、笑いすぎて震えた声でユーダレウスは言った。
「年をとらないわけではないんだよ。死なないわけでもない。ゆっくりと、それこそ人の何倍もの時間をかけて、我ら魔術師の身体は老いていくんだ」
三年経っても四年経っても、何一つ変わらない顔をしたユーダレウスは、火にかけた鉄鍋から杓子を引き上げた。異様に青い液が杓子の先から滴り、液面に落ちてシュウと音を立てた。
カタン、と杓子がテーブルに寝かされ、同時に、どこか、憂いを含んだ眼差しがアラキノに向けられた。
「それゆえに、魔術師を化け物と呼ぶ者もいるんだよ……アラキノは、恐ろしいと思うかい?」
「全く思わない、です」
平凡な、けれど温かな青い色の瞳をじっと見て、アラキノははっきりとそう答えた。
人より長く生きるからなんだというのか。魔術師であるユーダレウスや兄弟子たちが何者か、アラキノは自らの目で見て知っている。決して化け物などではない。血の通った人間だと知っている。
アラキノは魔術師になる。そこが揺らぐことはない。
それに生きる時間が延びるということは、ユーダレウスと共にある時間がそれだけ長くなるということだ。望むことはあっても、拒もうとは思わなかった。
その年。森が秋の色に染まる頃。アラキノは精霊と契約する決心を固めた。
「それでは、魔術師になるにあたって、頭の端っこに入れといた方が良いことを教えよう」
アラキノが受けた一番始めの講義は、魔術師の最大の禁忌についてだった。
それは、契約した精霊に名を付けてはいけないということ。
正直拍子抜けした。もっと厳しい禁止事項があるのかと思っていたのだ。肩の力を抜くアラキノの様子を見て、師は珍しく険しい顔をした。
「アラキノ。これは、とても重要なことなんだ。精霊に勝手に名を付けられた魔術師はね、死んでしまうと言われている」
「しぬ……」
「そう。魔術師に名を付けられた精霊はね、消えてなくなってしまうんだ。それに伴って名を付けた魔術師がどうなるのか、詳しいことは伝承されてはいないけれど、恐ろしいことが起きると言われている、少なくとも魔術師に戻ることは不可能だ。多くの魔術師はそれを死ぬということだと捉えている」
曖昧な情報に思えたが、それ故にどこか真実味があった。
いつも微笑みを浮かべているユーダレウスが、表情のない顔をしていたせいもあるかもしれない。
アラキノはもう、奴隷だった頃の様にいつ死んでも構わないとは思わない。
精霊に名を付けない。アラキノは忘れないように、諳んじれるようになるまで、しっかりと頭に刻み込んだ。
次に教わったのは、精霊と接するときの心構えだ。
精霊と魔術師との間には服従も使役もない。かといって恋人でも友人でも家族でもない。無論、家畜でもない。
精霊は、精霊だけでは魔術を使えない。そもそも、精霊たちに魔術を使うという概念がない。
光を放ったり、ふわふわと飛んだり、火の粉を飛ばしたり、魔術に似たことをやってはいるが、その力は魔術師の起こす術には遠く及ばない。
奇跡を起こす力を持っているのに、彼らは使い方を知らず、使おうとも思っていない。
そんな彼らに対して、魔術師たちは魔術を使うために、その持て余す力を貸してくれるよう働きかけるのだ。
「じゃあ、魔術ってどうやって使うんですか、師匠」
アラキノが問うと、師は眉間に皺をよせた難しい顔で両腕を組んだ。
「弟子とる度に毎回聞かれるんだけど、説明が難しいんだよなあ、それ……ジルの時は……でもあの子、賢いからなあ。同じ説明でわかるかな……うーんと、ロタンの時はなんて言ったんだっけ……?」
うんうん唸りながら返事を探しているのが申し訳なくなって、アラキノが質問を取り下げようとしたその時、俯いていたユーダレウスが勢いよく顔を上げた。
「思い出した! ええとね、アラキノ。魔術はね、明かりをつけるようなものなんだ」
普段は鋭い目を丸くして、アラキノはぎこちなく首を傾げた。
見るからにピンときていないらしい末弟子をよそに、ユーダレウスは嬉々として話を続ける。
「明かりをつける、ということは、マッチをただこすって小さな灯をともすのとは違う。それだけじゃ不十分だ。明かりを保ち続ける道具が必要になる」
ユーダレウスは机の上で甘い色の光を放っている小さなオイルランプに視線をやった。つられてアラキノもそちらを見る。
金属でできた平たい円柱の上に、雫型と筒を組み合わせたような形のガラスが乗っている。平たい円柱に燃料となる油を入れ、ガラス筒の中にある芯に火をつけるものだ。
何の変哲もないランプは、この部屋の視線を独り占めしているとも気づかずに、ひたすら柔らかな光を辺りにわけていた。
「今回はランプにしよう。まず最初の工程は、ランプそのものを頭の中に作ること。どんな形か、どれくらい明くなるのか、持ったらどんな重さか。隅々までしっかりと」
ユーダレウスの白い指先がランプを突いた。少々熱かったのか、離した指先にふっと息を吹きかける。
「……そのランプはね、精霊の力が油となるんだ。だから、精霊を呼んで、協力してくれと交渉する。力は彼らの持ち物だ。どれほど親しくとも、相手のものを使う前に使ってもいいか聞くのは当たり前だろう?」
ふと、心に落ちた疑問が気になって、アラキノは発言の許可を求めて手を上げた。穏やかな表情をした師は、それを許した。
「精霊たちが、力を貸してくれないことって、あんの?」
「あるよ。そうだなあ……例えば、あまりにも横柄な頼み方をすれば、精霊は力を渡さない。これは人間も同じだね。あとは……魔術師の言葉足らずで精霊に上手く伝わらなかった時だ」
「言葉足らず?」
「そう。ただ『あれをとって』と言うのと、『そこの分厚くておどろおどろしい表紙の本をとって』というのとでは違うだろう? 人間同士ならば身振りやなんかで察することができるかもしれないけれど、精霊でそれができる子は滅多にいない。精霊にもいろいろいるから、一概にみな同じとは言えないんだけどね」
アラキノが納得して頷くと、師は「続けるよ」と微笑んだ。
「魔術師の言葉が漠然とし過ぎていると、彼らはどんな風に力を貸せばいいのかわからなくなってしまう。その結果、欲しい力を貸してもらえないということが起きる。面倒がらずに、伝えるための言葉はきちんと使うこと」
「はい」
思い付きの質問だったが、かなり重要な話を聞いた気がした。
アラキノがしっかりと師の目を見て返事をすると、伸びて来た手がよしよしと頭をかき混ぜた。
なでられることは、師に限っては嫌いではないのだが、小さな子供の扱いをされているようで面映ゆく、アラキノの眉間に皺が寄る。
「ふふ、そうむくれないでアラキノ。悪かったよ、あまりにも良い子のお返事で、小さな頃を思い出して可愛らしくてね、つい……」
末の弟子の眉間にさらに一本増えた皺を見て、ユーダレウスは失言をしたと口を紡ぐ。あいにく、十四になったアラキノは、可愛らしいと言われて喜ぶ質ではなかった。
気まずい沈黙をかき消そうとする師の不自然な咳払いを聞きながら、アラキノは増えた皺を伸ばすように眉間をこする。
「……ええと、どこまで話したっけ?」
「……精霊に力を貸すよう交渉するとこまで」
「ああ、そうだそうだ。ここまで来たらもう仕上げだね。最後に、魔術師の手でランプに火をつけるんだ」
ユーダレウスはいつ出したのか、カンテラの揺れる杖の先で、床をカツンと突いた。いつも師に寄り添っている金銀の精霊がいない場でのそれは、静かな部屋の中に硬い音を響かせただけだったが、どこか厳かな響きで聞こえた。身が引き締まる思いでアラキノは背筋を伸ばし、居ずまいを正す。
「……あ、別に必ずしも音を立てる必要はないからね? 私がこうして音を立てるのは、そっちの方が『魔術使うぞ!』って気分になるってだけだから」
茶目っ気たっぷりに肩をすくめる師に、アラキノの肩からがくりと力が抜けた。
「えっと……今から魔術を使うっつー心構えをするってこと?」
「そうそう、そうだよ、その通り! そんなこんなでようやく灯った光が魔術そのものなんだ」
わかるような、わからないような。師の指南は独特だったが、きっとそれが魔術を使うということなのだろう。
ただ、それを完全に理解しきれないということは、魔術師の素養がないということになったりしないだろうか。急に不安になってきたアラキノは机の上に視線を落とす。
アラキノの心に芽吹こうとした不安を摘み取るように、温かな手が月の色の髪をかき混ぜた。
「まあ、こんなものは魔術を使っていくうちになんとなーく分かるようになるから、心配しないこと」
まるで、もう魔術師になれることが決まっているような口ぶりに、アラキノは困惑して師を見た。
何か言おうと口を開きかけたが、手櫛で髪を梳いてくれている師の指に髪が引っかかった拍子に言葉が詰まる。さらには「アラキノ、また洗いざらしにしただろう」という小言にすっかり遮られてしまった。
「せっかく綺麗な色なのに。こんなにぼろぼろにして……」
しょっちゅう髪を丁寧に扱えと言われるが、アラキノにとって、髪の手入れはこの上なく面倒で、意味が分からない行為だった。髪なんて、ぼさぼさだろうが艶やかだろうが、生死には全く関係がない。そう思って、ついつい蔑ろにしてしまうのだ。
けれども、ユーダレウスはそれを是としない。アラキノを始めとして、どの弟子にもめっぽう甘い人だが、これだけはどうも譲れないらしい。
引き出しから櫛を取り出したユーダレウスが、背後に回り込むのを見て、アラキノは椅子から立ちあがった。
「師匠、櫛はいい、です」
「だーめ。大人しくしてなさい」
逃げようと身を翻したところをあっさりとつかまった。渋い顔で師を見れば、その人はしたり顔でこう言った。
「まだ私の講義は終わっていないんだよ」
それを持ち出されては、アラキノは大人しくなるほかないということをわかっているのだからずるい。アラキノは逃げるのを諦めて、椅子に腰かけ、大人しく師の手に身を委ねることにした。
「いいかい、アラキノ。魔術とは、あくまで人間が生み出した、人間の為の技術だ。だというのに、それは他者である精霊の力を借りなければ絶対に成り立たない」
アラキノは師の言葉に耳を傾けた。時折耳に触れる指が擽ったい。
絡んだ髪が少しずつ丁寧に解されていくのがわかる。長さは肩を少し過ぎていた。
アラキノの髪を切ってくれるのはジルだ。適当な長さになると、そろそろ切ろうかと尋ねてくれる。ただ、散髪の度にユーダレウスは子供のように唇を尖らせて拗ねる。それはもう大いに拗ねる。
尊敬している師のそんな姿はあまり見たくないという三人弟子会議の結果、余程伸びて邪魔にならない限り、アラキノは髪を切らないことになったのだった。
鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さで、ユーダレウスは末の弟子に向けて講義の言葉を紡いでいく。
「精霊たちは、人間に力を貸すことを基本的には嫌がらない。彼らは、天地万物いのちの子、つまり世界の全てと、人間を愛しているからね」
急に、師の手が止まった事を不審に思ったアラキノは、背後を振り仰いだ。師と目が合ったと思ったが、その青い瞳はどこにも焦点があっていないらしく、ぞくりと背中が粟立つ。
「――力の源は、精霊であり、己ではない。精霊の力とは、天地万物、いのちの子の為に存在する。己が為にのみ用いれば、その者は必ず破滅に進む。
――術師、人を助けよ。努々、驕るべからず」
静かな声で平坦に紡がれたその言葉は、いつもの柔らかな師の言いつけとは違って、何か厳粛な戒めのように聞こえた。
「師匠……?」
アラキノが呼びかけると、視線が自然にかみ合った。
戻ってきた、と思った。振り返っていた顔を元の位置に直されながら、アラキノは安堵した。
「――とはいえ、彼らはそもそもが自由な生き物だ。それこそ人間には考えられないほどにね。魔術師は自分の都合で、自由という彼らの本質を歪めてもらっている。だから決して、魔術を自分だけのものだと思ってはいけない」
「……はい」
「わざわざ不自由になってまで力を貸したのに、相手が自分を蔑ろにして『全部私一人でやりました!』なんて言い出したら、腹が立つだろう?」
なるほど確かに腹が立つ。アラキノは至極真面目に頷いた。その拍子に、端と端が絡まって結ばれてしまった二本の髪が、櫛の歯に引っかかり、そのままプツンと千切れた。
「こら、頭を動かさない」
「すみません」
厳しい声で窘められ、一応素振りだけは神妙に反省しているふりをした。たかが髪の一本や二本が、などと口答えをすると、面倒なお説教がやってくることをアラキノは既に知っている。
末の弟子のそんな内心を知りつくしているユーダレウスは、諦めたようなため息をつくとまた月色の銀の髪に櫛を通し始めた。
「……少なくとも、魔術師であり続けるには、精霊の心が離れないよう、決して驕らず、謙虚であり続けることが大事だよ。それは確かなことだ」
ユーダレウスはそう言うと、幾らか指通りが良くなった弟子の髪に満足したのか櫛を机に置いた。
「いくら素晴らしい術を思い付いたところで、精霊が力を貸さなければ、魔術師はただの夢想家になってしまう」
師は、その日の指南をそう締めくくると、アラキノの肩をぽんと叩いた。なんとなく身が引き締まった思いがして、アラキノは背筋を伸ばした。
その時、真夜中にだけ姿を見せる精霊が二人の前を横切った。宙に浮かぶ布切れのようなその姿に、ユーダレウスは「おや」と小さく声を上げた。
「もうそんな時間か。さあさあ、寝る時間だ」
ユーダレウスに促されながら、アラキノは部屋を出る。
もう寝ろというのなら、髪を梳く必要はなかっただろうに、と思ったことは秘密だ。
自室のベッドに入ると、ついてきたユーダレウスが身体にかかる上掛けの端を丁寧に直した。そしてとんとんとアラキノの胸元を叩き、幼い頃から寝物語の代わりに言い聞かせて来た、あの言いつけを話し出す。
弟子に迎えられてから早数年。アラキノはもう十四だ。少なくとも親に付き添われて寝かしつけられるような年齢ではない。むしろ、干渉を嫌がって避けるような年頃だ。
けれどアラキノには、師がそうすることを拒めない。
もう必要ないと拒んだら、ユーダレウスはアラキノの意思を尊重して、その日のうちに子供にするような寝かしつけをやめるだろう。
ただ一言「おやすみ」と言って、寂しい顔をして微笑むのだろう。
そのことを思えば、多少の気恥ずかしさなど、アラキノにとっては我慢のうちにも入らないのだから。
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