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しおりを挟むアラキノは、割れた陶器の細かな欠片を、一番大きな破片に重ねていく。その隣には、同じく壊れてしまったガラスの瓶や表紙が破れてしまった本があった。まだ直せる物は、まとめておいて後で魔術をかけるつもりだった。
――名前。名前。名前。
叱られたばかりの、あの馬鹿げた考えを捨ててしまいたいというのに。それは尚もしつこくアラキノの頭の中を巡っていた。
足の下で、見落としていた陶器の欠片がパキリと砕け、我に返ったアラキノは慌てて足を退けて拾い上げる。粉々になって手では拾いきれない欠片は箒で掃いて壊れ物の山に寄せた。
師が置いていった陽光と月光の精霊は、アラキノが片付けを手伝わせる気がないとわかるや否や、ふたり仲良くアラキノの肩に留まり、月色の髪を撫でるように身を寄せながら片付けの様子を眺めている。自ら進んで手伝うという選択肢は知らないようだった。
じっとするのが苦手な雷光の精霊は、ふたりの精霊を警戒しながら天上の辺りをくるくると回っていた。ふいに急降下してはアラキノの目の前を通りかかる。まるで「わたしのこともみて」と確認しに来る幼い子供のようだ。
アラキノは手を伸ばし、青白い帯のような雷光の精霊をちょっと撫でてやった。
――名をつけると精霊は死ぬ。それは何故か。
名がないものに、名を付ける。それは人間の文化においては必要不可欠であり、当たり前すぎて誰も疑問を抱かない。
人間は、名がないものを個として認識しない。
澄んだ朝の空気や風に流れる千切れた雲、炎の揺らめきの形や、降り注いだ雨の一滴。
名がないものは全て、ただそこにあるものとして、誰の目にも自然と見落とされていく。
だから人は、生まれた子や愛玩する動物、大切な物や場所などあらゆるものに名を付ける。自分が見落とさないように、そして、誰かに見落とされないように。
人は名を名乗ることで信頼を得ようとし、名を呼ばれれば振り返り、名を刻むことで自らの物だと主張し、名を呼ばれることで愛を感じ、そして、死んでなお遺った名を誉れと思う。
また、あらゆる植物や生物、それを内包する森や山、川や湖、あるいは、村や町、国という人の集合体そのものにも、人は名を付ける。
生活を害した天変地異や、自らが踏む広大な大地にすら名を付ける。名を付け、人の記憶に刻み、有益な情報を後世に残すためなのだろう。
病を治す薬草に名があれば、求めるのが楽になる。栄養価が高く、美味な木の実に名があれば、皆がそれを見つけて食べられる。天変地異に固有の名をつければ、その甚大な被害を効率よく後世に語り継ぐことができる。
しかし、アラキノは人は名に縛られているようだとも思う。
可憐な花の名を与えられた娘が、花のような淑やかさを期待され。古の英雄の名を貰った少年が勇ましさを求められるようなことも往々にして起こり得る。
かつて自らに加害した者と同じ名だと言うだけで、赤の他人を忌避する者もいる。伝染病の蔓延った町の名を告げられただけで侮蔑する者もいる。愛する者を殺した獣の名を死ぬまで恐れる者もいる。全てを奪い去った天災の名に嘆き苦しむ者もいる。
小さな村から徴兵された若者は、戦場で生まれた郷や国の名を叫び、栄光あれと願いながら命を散らす。
名があるというだけで、人は苦しむこともある。それでも、人は名を持つということ、そして名を付けることそのものを捨てようとしない。
ただし、いずれ肉になる家畜には名が付けられることはない。肉となる生き物をを個として認識してしまったら、ともに生まれた感情が仕事の邪魔になるからだ。
奴隷も、それと同じように名を持たない。奴隷を個として認識することをだれも望まないからだ。名をつけたがる者もいるかもしれないが、それは相当な変わり者だろう。
アラキノが生まれた時に、愛を込めて名を付けた者はいたのだろうか。あったとして、結局は自分を売り、奴隷に貶めた人間だ。それが付けた名ならば、相当な変わり者が付けた『アラキノ』のままで良い。
あの日、木の下で蹲っていた奴隷の少年は、あの月の美しい晩に生を受けたようなものなのだから。
不意に、アラキノの前に月光の精霊がふわりふわりと躍り出た。思考に沈んで動きを止めたことを、不思議に思ったのかもしれない。同じ『月』の名をもつ精霊に指を伸ばす。白銀色に輝く精霊は、心地よい冷たさを持ってアラキノの指を受け止めた。
精霊は、共にあることで穏やかな気持ちにしてくれる。
精霊は、家畜ではない。奴隷でもない。
なのに、人は、自分は、精霊の総称でしか彼らを呼べない。
「なあ、お前。お前らにも、名前があったら呼んでやれるのに、な……」
冗談のつもりでそう言って、アラキノは精霊に触れたまま動きを止めた。背骨の中を雷光の精霊が通り過ぎたのかと思うような衝撃があった。
この安易な思い付きが、正解であるはずがない。とんでもないことだ。
そう思いながらも、頭の端ではこれはまごうことなき正解であるという不思議な確信があった。
人が『人間』という生物としての名とは別に、ひとりひとりに名を持つように、彼ら精霊も、種の総称とは別にそれぞれの名前を持っているのではないだろうか。
それで呼びかけること、それすなわち、精霊と繋がるということなのではないか。
アラキノは逸る心を抑えるために、机に手をついて長く細く息を吐いた。
この思い付きには、不足がある。
そもそも精霊の真の名をどうやって知ると言うのか。もし検討違いの名で彼らを呼んでしまったら、勝手に名を付けたことになってしまうのではないか。
瞬間、精霊の水鏡の情景がアラキノの脳裏に鮮明に蘇る。
ひらめいてしまったそれは、とても簡単なことだった。
何故、気が付かなかったのかと笑い出したくなるほどに。
なんとはなしに動かした視線の先には、虫のかごの中で、色とりどりのふわふわとした生き物が蠢いていた。その脇には、黒ずんだ石ころのような亡骸が、いくつも箱に納まっていた。今まで自分がしてきたことがあまりにも愚かに思えて、アラキノはとうとう渇いた声を上げて笑った。
アラキノにとって、そして、多くの魔術師にとって、精霊に語り掛けるための言葉は、奇跡の力を精霊から引き出すための交渉の道具であり、誰かと心を伴ったやり取りをするための言語ではなかった。
それが間違いなのだ。
魔術師はただ、いつも通り、求めれば良かった。初めて会った者にそうするように。共に生きるために、必要なそれを教えてくれと。
彼らと初めて言葉を交わしたその日に、彼らが自分に尋ねてくれたように。
アラキノはそっと手を伸ばす。雷光の精霊が我先にとその指先にとまった。師から預けられた精霊たちが雷光の精霊の近くに寄ってくる。
アラキノは、興奮と緊張でからからに乾いた口を開く。
「コード 二 ユーダ チィルィエ」
その瞬間、指に停まっていた雷光の精霊が飛び立ち、光の粒を部屋中に撒いた。陽光の精霊は月色の髪に口づけるように、何度も触れては離れてを繰り返す。月光の精霊が冬の星よりも激しく瞬いていた。
精霊たちがそれぞれに歓喜を表現する中、アラキノは確かに声を聴いた。
《レウ ディスセラ》
《レウ ディスセラ》
三つの声は、歌うようにアラキノに請い願う。
《レウ ディスセラ アラキノ》 私を呼んで アラキノ
男でも、女でもない声に誘われるままに、アラキノは聞こえた三つの名を心の奥に刻んだ。
そして、愛しい者にするように、親しい友にするように、彼らの名を呼んだ。
「ヴォルトゥ二カ?」
言い終わる前に、アラキノの頭上で揺蕩っていた青白い精霊が動き出す。部屋中、壁や天井にぶつかりながらジグザグに忙しなく飛び回る。粉雪のような光の粒子がその軌跡を作っている。まるで、贈り物に興奮した幼い子供のようで、アラキノは思わず笑みをこぼす。
「ヒパケル」
黄金色の光の玉が膨れ上がり、蕾が花開くように広がった。アラキノが手を差し伸べると、その手の上で金の光の花弁は集束し、また綺麗な光の玉に戻った。ほのかに温かな精霊は、彼らには存在しないはずの、「生命」の脈動すら感じさせた。
「シャヨル」
名を呼ばれることを、今か今かと待っていたのだろう。激しく明滅していた白銀の光がふっと消えた。アラキノが慌てる間もなく、爆発するように煌々とした白い光を放つ。まばゆいばかりの清廉な光が部屋を満たした。
名を呼ばれた精霊たちが、ひとところに集まった。
精霊たちは、小さなその身体から各々の色の光の粒を溢れさせる。混じり合い、どんどん膨れ上がった光は、ついにアラキノの身体を包み込んだ。
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