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アラキノが瞼を開くと、そこに見慣れた部屋はなく、見覚えのない平原が広がっていた。
足元はまばゆいばかりに白いが、雪ではない。からりと乾燥しているその割にヒビひとつなく、坂も穴もなく、ただひたすらに平らだった。草木はなく、それどころか生きているものはアラキノ自身以外にいないように思われた。
視線を上げても地平線以外に何も見えない。晴れた秋の日を思わせる高い空が、恐ろしいほどに青かった。太陽はどこにも見えないが明るく、陽に照らされているときの温もりがあった。
雲一つない空というものは、逆に薄気味が悪い。だがその薄気味の悪さすら、今は好ましい。
心がどうしようもなく浮き立っている。アラキノにはその自覚があった。歌の一つも知っていたら、今ここで大声で歌っていたことだろう。
シャン、と鈴束が鳴らされる音が後ろから聞こえ、アラキノは振り返る。
「なんだ、あれ」
遥か遠方に、光の柱がまっすぐ、天高く昇っているのが見えた。目を凝らすと、蛍のような小さな光が集まって柱を成していた。
あの光は何か。どこまで昇っていくのか。興味が惹かれたアラキノは一歩踏み出そうとして、そしてそれが叶わないことに気が付いた。
足に何かが絡みついている。視線を下ろすと、純白の包帯のようなものが幾本も絡みついていた。
雷光の精霊かと思ったが、今足に縋り付いている彼らは柔らかく儚げで、あの活発な精霊とは似ても似つかないほど頼りない。
手を伸ばし、触れてみる。弱弱しい振る舞いとは裏腹に、びくともしない。きつく絡んでいるわけでもないのに、何か意思を感じるその包帯は、アラキノの足をしっかりと掴み、解ける気配がなかった。
ふいに、伸ばした手の指先に、獣の湿った鼻先が触れる。
顔を上げれば、いつの間にやって来たのか、それぞれ、金と銀、そして青白く輝く毛並みを持った三匹の狼がそこにいた。
「――……それが、お前たちの本当の姿か?」
問いかけへの返事の代わりに、狼たちはアラキノにぴたりと身を寄せ、しきりに鼻や胴をこすりつけた。
アラキノは少しだけ笑むと、一匹ずつ順番に耳の後ろをかいてやる。狼たちは一様に耳を伏せ、嬉し気に鼻を鳴らしたり、尻が左右に揺れるほどぶんぶんと尻尾を振った。
青白い毛並みの狼が舌を出し、アラキノの足を捕まえている包帯をべろりと舐めた。包帯は諦めたようにぐったりと力を失くしたが、絡みついている足を解放することはなかった。
起きること全てが好ましく、愉快だと思えた。
酩酊する、とはこんな感じなのだろうか。酒に酔ったことのないアラキノは、ふわふわとした心地で口元を緩める。頭の中身が覚束ないにもかかわらず、それを不安に思うこともなく、むしろ気分が高揚していく。
自分がどうしてこんな不可思議なところにいるのか。どうして精霊たちが狼の姿でいるのか。それを知ろうとすることも、些末なことに思えた。
アラキノは何も考えずに、奇妙で幻想的な大地と、美しい狼たちに見惚れていた。
これが、精霊との繋がった結果なのだろうか。確信はない。けれど、この大地にいる限り、どんな魔術も不可能はないように思えた。
だって、自分は精霊の名を呼んだのだ。精霊を殺すことなく、自らの命を捧げることなく、精霊たちの力を最大限に引き出す力を得たのだ。
よく磨かれた貴石のように輝く三対の瞳が、こちらをじっと見つめていた。
――望みを叶えるならば今。言葉はもう既に知っている。
誰かに、あるいは自分自身に唆されるようにして、アラキノは美しい狼たちに向けて唇を開いた。
「アロ マルアィエ クァル」
その望みに応じて、三匹の光り輝く狼たちがそろって喉を逸らし、遠吠えをした。
澄んだ声が、何もない蒼天へ向かって駆け昇る。足に絡まっていた純白の包帯は、遠吠えに怯えた様子でひらひらとなびき、しまいにはアラキノの足を解放して消え去った。
狼たちの姿が尾の先、足の先から解けて、細かな光の粒になっていく。三色の光は次第に細い糸となり、絡み合って網となり、布となり、アラキノの身体を覆っていく。それらはどんどん密度を高め、ついにアラキノは光り輝く繭に包まれた。
――温かい。
アラキノは繭の中、眠るように目を閉じる。この温もりと、無性に安堵する感覚を、自分は知っている。そんな気がした。
春の昼間の日なた。
夏の夜の水辺。
秋の夕暮れの色。
冬の朝の寝床の中。
どれも似ている。だが、違う。
微笑んでいるあの人の腕の中。
それが一番近い。けれどまだ違う。
ここは何だろうか。
自問するが答えはない。泣きたくなるような懐かしさだけがそこにあった。
ずっとここにいたい。アラキノがそう思った瞬間、唐突に光が収まった。
白い平原も、恐ろしいほどの青もない。眩暈がするほどに幻想的な光景は消え、見慣れた部屋にアラキノは呆然と立っていた。
今のは非現実か現実か。曖昧な世界から覚醒したばかりでぼーっとする頭で、アラキノは自分の手のひらを見つめる。
何も変わりはない。少しかさついた、無骨な男の手だ。けれど、アラキノの中には確かに「できた」という感触があった。
できた。できたのだ。あの人に近づいた。
アラキノは身体を巡る喜びと興奮を、手のひらをぎゅっと握りしめて閉じ込めた。
《ユーダレウス》
「あ……?」
いつもの帯のような姿に戻った雷光の精霊が、唐突に師の名を呼ぶ。アラキノは首をかしげた。部屋を見回してみるが、どこにもユーダレウスはいなかった。
ゆっくりと、気が付かないうちに縊られていくような、恐ろしい違和感を喉元に感じ、アラキノの呼吸の感覚が狭まっていく。
何故、不老不死などという、大それた術が成功してしまったのか。
《ユーダレウス》
何故、ここにいる精霊たちは、揃いも揃って、自分のことをあの人の名で呼ぶのか。
《ユーダ レウ ス》
――なぜ、俺はあの時、あの人の精霊の名まで呼んだ?
いつも師の傍らにいたふたりの精霊たちが、悪だくみが成功した子供のように、あるいは、愛しい子を目の前にした親のように、おっとりとアラキノに向けて笑んだ気がした。
全てを理解した瞬間、アラキノは走り出した。
足元はまばゆいばかりに白いが、雪ではない。からりと乾燥しているその割にヒビひとつなく、坂も穴もなく、ただひたすらに平らだった。草木はなく、それどころか生きているものはアラキノ自身以外にいないように思われた。
視線を上げても地平線以外に何も見えない。晴れた秋の日を思わせる高い空が、恐ろしいほどに青かった。太陽はどこにも見えないが明るく、陽に照らされているときの温もりがあった。
雲一つない空というものは、逆に薄気味が悪い。だがその薄気味の悪さすら、今は好ましい。
心がどうしようもなく浮き立っている。アラキノにはその自覚があった。歌の一つも知っていたら、今ここで大声で歌っていたことだろう。
シャン、と鈴束が鳴らされる音が後ろから聞こえ、アラキノは振り返る。
「なんだ、あれ」
遥か遠方に、光の柱がまっすぐ、天高く昇っているのが見えた。目を凝らすと、蛍のような小さな光が集まって柱を成していた。
あの光は何か。どこまで昇っていくのか。興味が惹かれたアラキノは一歩踏み出そうとして、そしてそれが叶わないことに気が付いた。
足に何かが絡みついている。視線を下ろすと、純白の包帯のようなものが幾本も絡みついていた。
雷光の精霊かと思ったが、今足に縋り付いている彼らは柔らかく儚げで、あの活発な精霊とは似ても似つかないほど頼りない。
手を伸ばし、触れてみる。弱弱しい振る舞いとは裏腹に、びくともしない。きつく絡んでいるわけでもないのに、何か意思を感じるその包帯は、アラキノの足をしっかりと掴み、解ける気配がなかった。
ふいに、伸ばした手の指先に、獣の湿った鼻先が触れる。
顔を上げれば、いつの間にやって来たのか、それぞれ、金と銀、そして青白く輝く毛並みを持った三匹の狼がそこにいた。
「――……それが、お前たちの本当の姿か?」
問いかけへの返事の代わりに、狼たちはアラキノにぴたりと身を寄せ、しきりに鼻や胴をこすりつけた。
アラキノは少しだけ笑むと、一匹ずつ順番に耳の後ろをかいてやる。狼たちは一様に耳を伏せ、嬉し気に鼻を鳴らしたり、尻が左右に揺れるほどぶんぶんと尻尾を振った。
青白い毛並みの狼が舌を出し、アラキノの足を捕まえている包帯をべろりと舐めた。包帯は諦めたようにぐったりと力を失くしたが、絡みついている足を解放することはなかった。
起きること全てが好ましく、愉快だと思えた。
酩酊する、とはこんな感じなのだろうか。酒に酔ったことのないアラキノは、ふわふわとした心地で口元を緩める。頭の中身が覚束ないにもかかわらず、それを不安に思うこともなく、むしろ気分が高揚していく。
自分がどうしてこんな不可思議なところにいるのか。どうして精霊たちが狼の姿でいるのか。それを知ろうとすることも、些末なことに思えた。
アラキノは何も考えずに、奇妙で幻想的な大地と、美しい狼たちに見惚れていた。
これが、精霊との繋がった結果なのだろうか。確信はない。けれど、この大地にいる限り、どんな魔術も不可能はないように思えた。
だって、自分は精霊の名を呼んだのだ。精霊を殺すことなく、自らの命を捧げることなく、精霊たちの力を最大限に引き出す力を得たのだ。
よく磨かれた貴石のように輝く三対の瞳が、こちらをじっと見つめていた。
――望みを叶えるならば今。言葉はもう既に知っている。
誰かに、あるいは自分自身に唆されるようにして、アラキノは美しい狼たちに向けて唇を開いた。
「アロ マルアィエ クァル」
その望みに応じて、三匹の光り輝く狼たちがそろって喉を逸らし、遠吠えをした。
澄んだ声が、何もない蒼天へ向かって駆け昇る。足に絡まっていた純白の包帯は、遠吠えに怯えた様子でひらひらとなびき、しまいにはアラキノの足を解放して消え去った。
狼たちの姿が尾の先、足の先から解けて、細かな光の粒になっていく。三色の光は次第に細い糸となり、絡み合って網となり、布となり、アラキノの身体を覆っていく。それらはどんどん密度を高め、ついにアラキノは光り輝く繭に包まれた。
――温かい。
アラキノは繭の中、眠るように目を閉じる。この温もりと、無性に安堵する感覚を、自分は知っている。そんな気がした。
春の昼間の日なた。
夏の夜の水辺。
秋の夕暮れの色。
冬の朝の寝床の中。
どれも似ている。だが、違う。
微笑んでいるあの人の腕の中。
それが一番近い。けれどまだ違う。
ここは何だろうか。
自問するが答えはない。泣きたくなるような懐かしさだけがそこにあった。
ずっとここにいたい。アラキノがそう思った瞬間、唐突に光が収まった。
白い平原も、恐ろしいほどの青もない。眩暈がするほどに幻想的な光景は消え、見慣れた部屋にアラキノは呆然と立っていた。
今のは非現実か現実か。曖昧な世界から覚醒したばかりでぼーっとする頭で、アラキノは自分の手のひらを見つめる。
何も変わりはない。少しかさついた、無骨な男の手だ。けれど、アラキノの中には確かに「できた」という感触があった。
できた。できたのだ。あの人に近づいた。
アラキノは身体を巡る喜びと興奮を、手のひらをぎゅっと握りしめて閉じ込めた。
《ユーダレウス》
「あ……?」
いつもの帯のような姿に戻った雷光の精霊が、唐突に師の名を呼ぶ。アラキノは首をかしげた。部屋を見回してみるが、どこにもユーダレウスはいなかった。
ゆっくりと、気が付かないうちに縊られていくような、恐ろしい違和感を喉元に感じ、アラキノの呼吸の感覚が狭まっていく。
何故、不老不死などという、大それた術が成功してしまったのか。
《ユーダレウス》
何故、ここにいる精霊たちは、揃いも揃って、自分のことをあの人の名で呼ぶのか。
《ユーダ レウ ス》
――なぜ、俺はあの時、あの人の精霊の名まで呼んだ?
いつも師の傍らにいたふたりの精霊たちが、悪だくみが成功した子供のように、あるいは、愛しい子を目の前にした親のように、おっとりとアラキノに向けて笑んだ気がした。
全てを理解した瞬間、アラキノは走り出した。
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