嘘つき師匠と弟子

聖 みいけ

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 それから、アラキノは数日をかけて魔術の部屋にいた人々を元の姿に戻し、そしてジルと共に一人一人丁寧に弔っていった。
 秋の始めだった季節は深まり、赤、黄色、橙など、美しく色づいた木々が彼らの静かな旅立ちに彩りを添えてくれた。

 最後の一人を見送ったその日の晩。アラキノは、時折咳を零すジルの為に台所で薬草茶を淹れた。
 アラキノも相変わらず絶妙に薬くさいそれをひと口含む。ほんのりとした苦みが懐かしかった。風邪の始まりに効果のあるそれは身体を温める効果があり、たちまち腹の底からぽかぽかと温まっていく。

「……ジル。その、どれくらいのことならできるんだ?」

 ジルはもはや魔術師ではなくなっていたが、希望が無くなったわけではなかった。
 もう、頭に精霊へ向けた言葉を思い浮かべても、勝手に精霊の言語に変換されることはない。だが、何度も使った術に使う言葉は身に沁みて覚えていたのだ。幼子のようなたどたどしい発音であってもジルの精霊は反応し、なんとかその力を貸そうとしてくれるという。

 薬草茶をひと口飲んだジルは、微かなため息をつくと陶器のカップを両手で包み、冷えた指先を温める。

「そう……軽い守り、例えば獣除けなんかは、まだ結構しっかりしている。綻びも多いから、時折賢い獣なんかにはすり抜けられることもあるけれど」

 普通、魔術師の守りの術は完全だ。獣除けを例に挙げれば、かけた瞬間から獣が一切寄り付かなくなる。
 試しに、とジルは桶に目掛けて魔術を使った。熱湯をもたらす言葉だったが、現れたのは湯気もでないほどぬるい湯だった。

「どうかしたの、アラキノ」
「いや……」

 ジルのペンダントから現れた、姿の安定しない、煙のような精霊が『ユーダレウス』を興味深げに見ていた。
 これはまずい、と思っているうちに、決まった形を持たない精霊がゆらりゆらりと近づいてくる。

「ジル、精霊を寝床に帰してくれ」
「え? ええ、わかった」

 ジルが一声、精霊の言葉で寝床に戻ってくるように声をかける。
 相変わらずたどたどしいそれと『ユーダレウス』を比べているのだろう。精霊は強い迷いを見せた。

「どうしたの、帰ろうとしないなんて……」

 困惑したジルが、もう一度精霊を寝床へと呼ぶ。
 アラキノがわざと精霊から視線を顔ごと逸らすと、煙のような姿の精霊は大人しくジルのペンダントの石に吸い込まれていった。

「……こんな簡単なことも、できなくなってきているということか……」

 ぬるま湯を指でかき混ぜながら、ジルが自嘲する。
 そうではなく『ユーダレウス』のせいだと言って、信じてもらえるだろうか。アラキノが逡巡しているうちに、ジルの話題は変わってしまった。

「この不完全な術を、私たちは『まじない』と呼んでいる」
「……呼び名なんか付けてどうする」

 今度はアラキノは困惑する番だった。綻びだらけの完璧ではない技術に名を付けたところで、使い道はないように思えたからだ。
 ジルは目を細め、桶から指を離す。布巾で湿った指を拭くと、ゆっくりとした動作で立ち上がった。暖炉の中で、パチン、と薪がはぜた。外で暴れ狂う木枯らしが窓を揺らす。

 歳を重ねたジルの顔。暖炉に宿った炎の光が、目元や口元にある細かな陰影を強くしていた。白と黒の毛が混じって、灰色になった髪が温かい色の光に照らされている。ジルは、静かに口を開いた。

「私は――いや、私たち『まじない師』は、魔術師の代用品になろうと思っている」

 アラキノに背を向けたまま「この若い身体がもつ限り」と下手な冗談で締めくくった姉弟子に、アラキノは眉を顰めた。

「その技術は不完全なんだぞ、ジル」
「失敗の謗りを受ける覚悟くらいある」

 そう言う顔には、歳を重ねた人間だけが持つ根拠のない余裕が見て取れた。ここではない遠い場所を見ていた瞳が、現在にいるアラキノを捉える。

「私は、あの馬鹿を止められなかった。世界から魔術師を奪ったも同然。だから――」
「そんな自己犠牲が何になる」
「……何にもならないかも知れないし、何かを成せるかもしれない」

 アラキノをまっすぐに見るその焦げ茶の眼差しだけは、昔と同じく生き生きとして生命に満ちていた。それに安堵すると同時に、どうしてか、姉弟子までもが遠くに行ってしまったような気がした。
 そんな胸中を知ってか知らずか、ジルは穏やかに微笑んだ。それが、かつての師の笑みをアラキノに思い出させる。

「……もしかしたら、終わりの時には、私は私をいくらか赦せるようになっているかもしれない。であれば、少なくとも、私の心はいくらか救われていることだろう」

 ジルも、自分と同じように自責の念に憑りつかれている。
 決定的に違うのは、彼女のその後悔を作ったのは自分があの日ついた嘘であるということだ。アラキノがそれを懺悔する機会は、今のように思えた。

 だというのに、吐露された深い悔恨の念よりも、老いた姉弟子が当たり前のように口にした『終わりの時』という言葉に、アラキノの胸は動揺し、言うべきを言う前に舌は凍り付いた。
 精霊による加護を失っているジルには、アラキノが想像するよりも早く、その時が訪れるのだろう。対して『ユーダレウス』として、不死を望んでしまったアラキノは、もう老いることも、怪我を負うこともないのだろう。
 かつてのアラキノを知る最後のひとりも、既にアラキノを置いていく定めにある。

 誰も、いなくなる。一人になる。

 それを思うだけで、途方もない孤独感が身体に纏わりついて離れない。アラキノは、縋るように暖炉の炎に目を向けた。緋色の舌先は鉄のヤカンの底を舐め、その中身を温めている。何も特別でない、しかし、穏やかな、人の生活の一部がそこにあった。

 アラキノは半分だけ瞼を伏せると、暗くなった部屋の隅に陣取った闇に目を向けた。

 何を渋っているのか。自分に人間の側にあるを求める資格はないと、知っているはずだろう。これはいずれ手放さなければならないものだろう。それが今だからと言って、困ることがあるものか。

 確かにそう納得しているはずなのに、唇は重たかった。

「……ジル」
「ん?」

 呼びかけると当たり前に返事が返ってくる温かさ。それを今から失うかもしれない。アラキノはやはり、口ごもった。

「なに、どうかしたの。アラキノ」

 ジルの瞳がたちまち冷たい色に変わることに内心怯えながら、アラキノは重たい口を開く。

「俺はあの日、ロタンの間違いをあえて正さなかった」

 沈黙の中を、木枯らしに吹かれた枯れ葉の音が通り過ぎる。ジルが静かに嘆息した。

「――なんだ、そんなことか」

 事の外簡単な返事に驚いてそちらに顔を向けると、彼女は暗闇を不安がる子供を揶揄うような笑みを浮かべて、アラキノを見ていた。

「お前が、師匠の精霊に名を付けていないことくらい、始めからわかってた……無論、ロタンも」

 ジルは昔語りをする老人のように、残り少ない薬草茶の入った茜色のカップを弄ぶ。

「だが……俺がちゃんと正していれば、ロタンは……」

 あれほど魔術師の禁忌に頑なだった兄弟子が、それを犯した。アラキノがあんな嘘をつかねば、精霊に名を付けることなど思いつきもしなかったかもしれない。

 しかし、姉弟子は首を横に振った。

「……それは違う。確かにお前のしたことは褒められない。けれど、この事態はアラキノのせいにはならない。言ったでしょう。ロタンはお前の言葉を始めから嘘とわかっていた」

 言葉を切ると、ジルは残った薬草茶を優雅に飲みほした。

「間違いと知りながら、その間違いの方を選んだのはロタン。もしかしたら師匠を死に追いやった精霊という存在を憎むようになっていたのかもしれない。だから、あんな……いや、憶測で話すのはやめておこう」

 黒に近い色の瞳がこちらに向けられる。アラキノがまっすぐに見返すと、それは数度の瞬きの間にばつが悪そうに背けられた。

「それに……目に見えた派手な成果だけを見て、ろくに考えもせずにあの馬鹿に追随した私たちの方が、余程質が悪い」

 ジルの老いた手が空のカップをくるりと回す。底に残った滓を観察するふりをして、見られることを遠まわしに拒んでいた。

「だから、私にはこの件に関して責がある。だから、まじない師として、代わりをする。それが、私の贖罪となることを願って」

 カップを手放した両手が固く組まれた。瞼を伏せたその姿は、何者か、得体のしれない大きな存在に向かって祈り、懺悔しているようだった。

「……さて、私はそろそろ休むよ。おやすみ、アラキノ」

 顔を上げたジルが立ち上がり、足早に部屋を出ていく。それを言葉もなく見送ったアラキノは、独特な風味のお茶をひと口含む。冷たくなったそれは喉をするりと落ち、渇きかけた喉を潤した。
 だというのに、アラキノの心に清々しさはなかった。

 ジルの言っていることが本当なら、アラキノがロタンの件に関して何か悔いることは身勝手な自己満足というものだ。
 それでも、どうしても、自分に非がないとは思えなかった。思いたくなかった。

 そしてもう一つ。
 終ぞ、精霊が本当の名を持っているという真実も、自分はそれを呼んでしまったのだという事実も、姉弟子に打ち明けることはできなかった。

 その理由を見定めきれないことが、もどかしかった。
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