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しおりを挟む月のない晩だった。代わりに空に散らばった星々が、静かに瞬いては世界を見守っていた。
兄弟子の横にアラキノは改めて跪く。ランプの橙色の光が彼の不気味な姿を闇に浮き上がらせた。
「ロタン……」
アラキノは、兄弟子の木の幹のようになった頬に触れる。じゃれ合いの延長で殴ったこともあるその頬は、人らしい柔らかさを失い、見た目通り木の幹そのままの手触りだった。
耳を澄ますと、ひゅー、ひゅー、と隙間風の音がした。ロタンの喉の中央、大抵の男が隆起しているその部分に、鮮やかな青い水晶が生えており、それがロタンの呼吸を阻害しているようだった。その周りの肌は、青々とした苔に覆われている。緑の中には小さな白い花が点々と咲いていた。
土台が人間であると知らなければ、幻想的で美しい箱庭だと思ったかもしれない。だが知っているアラキノにとっては、目の前のそれは、ただひたすらにおぞましかった。
干からびた粘土でできたロタンの手に触れる。ぼろぼろと爪らしき部分が崩れ、アラキノは反射的にそこから手を離した。
治る見込みはない。誰も、何もせずに自然と死ぬことも、おそらくないのだろう。
生きながらの苦しみ。これが、精霊を殺したものへの罰。
ロタンに何か言おうと口を開く。しかし何を言っても気休めにもならない気がして、諦めた。代わりに、アラキノは後ろで息を潜めて見守っていた姉弟子を見上げた。
「……アラキノ。頼みがある」
「……なんだ」
「せめて……せめて、彼らが最期に人の姿であれるようにしてやりたい」
苦しい声を絞り出したジルが震えていた。先ほど言いかけたことは、これだったのだと、アラキノにはよくわかった。
こんなおぞましい姿であっても、ロタンはまだ生きている。生かされ続けている。
ロタン達の身体をもとに戻すためには、治癒の魔術が必要だ。しかし治癒の魔術をかけると、通常、かけられる側の寿命が短くなる。それを魔術師は寿命を使って治癒させているのだと解釈していた。
そして、治癒の魔術は、対象の状態の重さで使われる寿命の長さが変わる。ロタンはどう見ても重症を超えている。それに対して、ロタンの寿命はほとんど残っていないだろう。精霊たちが怒ることに飽きれば、その瞬間に死ぬはずだ。
そんな状態で治癒の魔術をかければ、どうなるのか。
それを、アラキノに頼むということが、どういうことか。
聡い姉弟子が、気が付いていないはずがない。
ジルの表情を伺えば、師のお手製の熱さまし薬を飲まされた人の様に渋い顔をしていた。
ロタン達に与えられた、永劫続く罰の姿。それを長年見続けてきた彼女が、彼らを解放してやりたいと願うのはもっともなことだろう。けれど、ジル自身にそれを可能にするだけの力はもうないのだ。
苦しみ続けるその人たちは、こちらを見ない。アラキノにはそれで十分だった。
「……わかった」
ごく密やかな声で了承すると、ジルは瞳を瞼の下に隠して「……頼む」と呟いた。
彼女は、アラキノがまだまともな魔術師であると思って、アラキノに頼んだのだろう。けれど、精霊の怒りを覆すほどの力、それを持っている者は、おそらくこの世界に一人しかいない。
とどのつまり、アラキノの外に、彼らを解放できる者はいないのだ。
「せ、ン……せ、ぃ……」
兄弟子の唇から零れた掠れた呻き声は、そう言ったように聞こえた。
アラキノは歯を食いしばると、かつて師のものだった杖を手にロタンの枕元に立った。揺れたカンテラが杖に当たり、カランと音を立てた。
「……っ、会えると良いな、ロタン」
アラキノはふたりの精霊を呼んだ。声が震えるのは、どうしようもなかった。
言葉を選び、カツン、と音を立てて、カンテラのついた杖の先を床に突く。すぐさまロタンだったものを柔らかな白い光が包んだ。
「お前の、旅路の先に、光あれ」
アラキノが静かに祈りの言葉を捧げると、ジルは堪らずその場に泣き崩れた。ランプの甘い明かりで壁に映し出された影が揺れる。
すっかり見慣れた姿に戻ったロタンからは、風の抜ける音はもうしない。
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