57 / 66
清次郎と鷹女
こいこく
しおりを挟む
夕餉の前に、赤松弘は手酌で飲んだ五勺の酒に心地よく酔った。
清次郎は酒が得意ではないというので、仕方なく、これもさほど強くない妻きぬに猪口二つほどを飲ませた。
弘の養父・巨助は江戸勤番の経験があるが、弘自身は江戸に出府したことがない。それ故に、清次郎が語る江戸の様子が珍しく面白く楽しくてならない。
亡父が観たであろう景色、亡父も知らなかったであろう名所。信濃の山底の田舎と大都会との違いを、
「語れ」
と乞うた。せがんだ。強いた。
その後に運ばれてきた夕餉の膳には、白飯に味噌汁と小梅を硬く漬けたもの、そこに丸々太った子持鯉の濃漿が付いていた。
普段は麦飯か糅飯と汁物と漬物だけであることを考えれば、大層なご馳走といってよい。
その膳が四つ並んだ夕餉の時間を、弘は上機嫌で過ごした。
「旦那様が心から笑ったお顔を観るのは、久しぶりな気がしますね」
膳を下げるきぬは酒精で耳先まで赤くなっていた。
「そうでしょうか」
鷹女は父に対していつも愛想良く笑っている心象を抱いていた。
弘が常日頃柔和そうにしているのは、過分に徒目付けというお役目柄のことがあるだろう。親しげな顔をしているほうが聞き込み調査はしやすいであろう。取り調べ――拷問を伴うような――にも笑顔は有効かもしれない。
弘が家族の前でも被っていた笑顔の仮面を、妻はしっかり見透かしていた。しかし娘は見破ることができなかった。
「男衆はいつでも素直に内面を顔に出すとは限らないのです。そういった殿方が夫になったなら、その裏側の顔を見抜かないと、女房は務まりませんよ」
きぬは一人娘に笑いかけている。カラカラとした明るい笑顔だ。猪口二つ分の酒の酔いが残っている。
母の言葉を聞いて鷹女は首を傾げた。
鷹女は、藩主・松平公が奨励する養蚕や製織を行っていない。
それらを行っていれば、蚕種の買い付けから桑の葉の採取、繭や生糸、反物の売買の時に、立場の違う人々と接して世間を見る事ができよう。
だが彼女は、家の都合で河合家老屋敷の奥向きという、女ばかりの職場に詰めきっていた。そして剣術に打ち込んでいた。
そのために開かれた社会での経験が少ないのかもしれない。
鷹女は少し考えたが、やはり首を傾げた。
奥様とお嬢様と下女とが並んで洗い物をした。
件の懐剣は、鷹女の帯に挟まれている。水仕事の間であろうと、ほんの少し手元から放したくないのだ。
やがて灯を落とす刻限になった。
弘は煎餅布団に潜り込んで、行儀悪く寝煙草を一服呑んだ。
『明日から新しい日々が始まる』
煙管の雁首で灰落しを叩くと、天井を見上げて薄く笑い、息をついて寝た。
清次郎は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
行燈に単衣が掛けられることはなく、火は完全に消えている。
室内は深く暖かい闇に満たされていた。
同じ部屋に秀助がいないおかげだ。
秀助は赤松家の下男下女とすっかり馴染んでいた。彼らが使っている板間に一緒に床を延べてもらって、心地よさげに寝息をたてている。
秀助もここ十日の間すっかり習慣になっていた「夜中の読書」から己を解放していた。
熱心に勉学に励んだここ十日ほどの日々は実に楽しいものであっただろうが、それはそれとして、半ば徹夜のような夜更かしを続けたことで過労も蓄積しきっていたのだろう。
きぬと鷹女は一つ部屋に布団を並べて横になった。
母親は幾度も娘の方を窺見た。
胸の辺りが一段盛り上がっている。胸の上で懐剣を抱きしめていた。
幸せそうな顔をして、穏やかに寝ている、と、きぬには見えた。見えはしたが、どういったわけか不安を覚えた。
何度も見返したが、鷹女の様子に変化はない。
そのうちに、きぬも眠りに落ちた。
清次郎は酒が得意ではないというので、仕方なく、これもさほど強くない妻きぬに猪口二つほどを飲ませた。
弘の養父・巨助は江戸勤番の経験があるが、弘自身は江戸に出府したことがない。それ故に、清次郎が語る江戸の様子が珍しく面白く楽しくてならない。
亡父が観たであろう景色、亡父も知らなかったであろう名所。信濃の山底の田舎と大都会との違いを、
「語れ」
と乞うた。せがんだ。強いた。
その後に運ばれてきた夕餉の膳には、白飯に味噌汁と小梅を硬く漬けたもの、そこに丸々太った子持鯉の濃漿が付いていた。
普段は麦飯か糅飯と汁物と漬物だけであることを考えれば、大層なご馳走といってよい。
その膳が四つ並んだ夕餉の時間を、弘は上機嫌で過ごした。
「旦那様が心から笑ったお顔を観るのは、久しぶりな気がしますね」
膳を下げるきぬは酒精で耳先まで赤くなっていた。
「そうでしょうか」
鷹女は父に対していつも愛想良く笑っている心象を抱いていた。
弘が常日頃柔和そうにしているのは、過分に徒目付けというお役目柄のことがあるだろう。親しげな顔をしているほうが聞き込み調査はしやすいであろう。取り調べ――拷問を伴うような――にも笑顔は有効かもしれない。
弘が家族の前でも被っていた笑顔の仮面を、妻はしっかり見透かしていた。しかし娘は見破ることができなかった。
「男衆はいつでも素直に内面を顔に出すとは限らないのです。そういった殿方が夫になったなら、その裏側の顔を見抜かないと、女房は務まりませんよ」
きぬは一人娘に笑いかけている。カラカラとした明るい笑顔だ。猪口二つ分の酒の酔いが残っている。
母の言葉を聞いて鷹女は首を傾げた。
鷹女は、藩主・松平公が奨励する養蚕や製織を行っていない。
それらを行っていれば、蚕種の買い付けから桑の葉の採取、繭や生糸、反物の売買の時に、立場の違う人々と接して世間を見る事ができよう。
だが彼女は、家の都合で河合家老屋敷の奥向きという、女ばかりの職場に詰めきっていた。そして剣術に打ち込んでいた。
そのために開かれた社会での経験が少ないのかもしれない。
鷹女は少し考えたが、やはり首を傾げた。
奥様とお嬢様と下女とが並んで洗い物をした。
件の懐剣は、鷹女の帯に挟まれている。水仕事の間であろうと、ほんの少し手元から放したくないのだ。
やがて灯を落とす刻限になった。
弘は煎餅布団に潜り込んで、行儀悪く寝煙草を一服呑んだ。
『明日から新しい日々が始まる』
煙管の雁首で灰落しを叩くと、天井を見上げて薄く笑い、息をついて寝た。
清次郎は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
行燈に単衣が掛けられることはなく、火は完全に消えている。
室内は深く暖かい闇に満たされていた。
同じ部屋に秀助がいないおかげだ。
秀助は赤松家の下男下女とすっかり馴染んでいた。彼らが使っている板間に一緒に床を延べてもらって、心地よさげに寝息をたてている。
秀助もここ十日の間すっかり習慣になっていた「夜中の読書」から己を解放していた。
熱心に勉学に励んだここ十日ほどの日々は実に楽しいものであっただろうが、それはそれとして、半ば徹夜のような夜更かしを続けたことで過労も蓄積しきっていたのだろう。
きぬと鷹女は一つ部屋に布団を並べて横になった。
母親は幾度も娘の方を窺見た。
胸の辺りが一段盛り上がっている。胸の上で懐剣を抱きしめていた。
幸せそうな顔をして、穏やかに寝ている、と、きぬには見えた。見えはしたが、どういったわけか不安を覚えた。
何度も見返したが、鷹女の様子に変化はない。
そのうちに、きぬも眠りに落ちた。
1
あなたにおすすめの小説
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
新選組の漢達
宵月葵
歴史・時代
オトコマエな新選組の漢たちでお魅せしましょう。
新選組好きさんに贈る、一話完結の短篇集。
別途連載中のジャンル混合型長編小説『碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。』から、
歴史小説の要素のみを幾つか抽出したスピンオフ的短篇小説です。もちろん、本編をお読みいただいている必要はありません。
恋愛等の他要素は無くていいから新選組の歴史小説が読みたい、そんな方向けに書き直した短篇集です。
(ちなみに、一話完結ですが流れは作ってあります)
楽しんでいただけますように。
★ 本小説では…のかわりに・を好んで使用しております ―もその場に応じ個数を変えて並べてます
江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』
藍舟めいな
歴史・時代
捨てられた道具に命を吹き込め。算盤娘と天才職人が贈る、痛快再生譚!
大坂の商才 × 長崎の技術 × 庄内の祈り。
神田お玉が池の古道具屋『藍凪屋(あいなぎや)』、本日開店。
文化十四年、江戸。 泥にまみれ、捨てられたガラクタを、異国の技で「勝色(かちいろ)」へと蘇らせる天才職人・徳三。 その価値を冷徹に見抜き、江戸の「粋」へとプロデュースする算盤娘・おめい。
吹き溜まりの裏長屋から、二人の「余所者」が江戸の価値観をひっくり返す! 捨てられた道具に新しい命を吹き込み、絶たれた「縁」を再び結ぶ、再生の物語。
「うちが売ってるんは物やなくて、職人の執念と、それを持つ人の『格』なんですわ」
どん底から江戸の頂点を目指す、痛快・職人再生サクセスストーリー!
※カクヨムで先読み可能です
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
失礼ながら殿下……私の目の前に姿を現すな!!
星野日菜
ファンタジー
転生したら……え? 前世で読んだ少女漫画のなか?
しかもヒロイン?
……あの王子変態すぎて嫌いだったんだけど……?
転生令嬢と国の第二王子のクエスチョンラブコメです。
本編完結済み
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる