真田源三郎の休日

神光寺かをり

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今のところ

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「それで……慶次郎殿はどうなさるのですか?」

「儂がどうするか、だと?」

 そう尋ね返された慶次郎殿の目には、困惑の色が浮かんでいるように思われました。
 それも、疑念ぎねん懐疑かいぎではない困惑です。わずかに喜色きしょくが混じっているようにも見受けられました。

「今の儂がどう動くかを、今の儂が決められようはずもない。儂は滝川一益の家来だからな……今のところは」

 三度言った「」という言葉は、その全てが、他の言葉よりも強い音として、私の耳に突き刺さりました。
 薄目の奥の目の玉をわずかに動かすと、慶次郎殿は視線を私から外されたのです。細い視線の先には、滝川三九郎一積かずあつ殿がおいででした。
 私はその視線を追いませんでした。変わらず慶次郎殿の目を見、視線が合わぬのを知りつつ、問いました。

「今のところ、でございますか?」

 努めて穏やかに申したつもりでしたが、少しばかり……ささくれ程度のものではありましたが……とげのようなものがあったやも知れません。
 慶次郎殿はその棘さえも愛おし気に、うっすら微笑して、

「ああ、今のところ、な」

 しかし、視線を私に戻すことはありませんでした。
 私は己の肩越しに、ちらりと滝川一積殿の様子を窺い見ました。
 面頬の口の隙間から見える紫色に変じた唇が、ヒクリ、ヒクリ、と痙攣けいれんをしています。
 何か言いたいのに、言葉にならぬ。それがもどかしく、苦しくて堪らぬのでありましょう。
 あえぐように、

宗兵衛そうべえ……貴様……」

 と声を漏らすのが精一杯といったところでありました。おそらく続くのであろう、

「よもや裏切るつもりではあるまいな?」

 という、憤りと不安と否定を願う懇願こんがんの言葉が出てきません。

「世の中、何が起こるかわかりませぬ故」

 前田慶次郎殿のまぶたが、大きく開きました。眼は澄み渡っており、邪心のようなものは針の先ほどもありません。

「三九郎殿の祖父殿が儂を必要となさる限り、儂は付き従いますよ。ただ、儂をいらぬ者とおおせなら、儂は喜んで出てゆく。ま、結局それがしがどう動くかは、彦右衛門ひこえもんの伯父御がどう動くかによって決まるということですよ」

 三九郎殿の顔色が、ぱっと明るくなりました。

爺様じじさまが宗兵衛を手放すはずがないではないか」

 安堵あんどの息の音は誰の耳にもはっきりと聞き取れるものでした。
 それを聞いた慶次郎殿の眼の色が、わずかに曇りました。

 確かに、滝川一益が戦を続ける限り、天下一の槍使い前田利卓としたかを手放すことはありえません。
 しかし、戦うことをやめてしまったならどうでありましょうか。

 例えば、偉大な主人・織田信長を失ったことによって、己が戦う意義をなくしてしまったなら――。
 滝川一益という武将が、六十という歳相応に老けこんで、どこぞの山中の静かな場所に引きこもったなら。
 その時、この槍使いは……前田慶次郎という武人は、人も通わぬ静かな隠れ家に留まり続けることができるでしょうか。

 戦いが絶え滅びてしまった世であるならば、問題はありません。わざわざ自分で火種を起こし、焚き付け、煽るような人ではありません。――むしろ、それ故に「一国の主」には向かないともいえますが――。
 ともかく、世が太平であるならば、この教養あふるる方は、歌を謡い、舞を舞い、茶をて、書を読み、詩作にふける暮らしを不満なく送られるに違いはないでしょう。

 しかし、「」この時に、太平の世などありませんでした。そんなものは、夢のまた夢の絵空事でああったのです。

 誰かが誰かと槍を合わせている。
 馬が走り、鉄砲が火を吹いている。
 幾万の命が燃え、そして消えてゆく。
 その中で、前田慶次郎という仁が、じっと座っていることなど、果たしてできましょうか。

 外には戦があるのです。

 硝煙しょうえんにおい、ときの声が聞こえたなら、この男は嬉々として槍をい込み、あの黒鹿毛くろかげの胴をり、背後を一瞥いちべつすることさえなく、矢のように飛び出してゆくことでしょう。
 
 

 私は何やら背中に嘘寒うそさむいものを感じました。同時に、前田慶次郎に一種の同感を抱いている自分に気付いて、背筋の寒さは冷たさに変じました。
 私はその冷たさを振り切ろうと、努めて明るく問いかけました。

「それでは、上州に戻られるのですね」

 その時、そこに戦があったのです。慶次郎殿はニカリ、と笑われました。さながら、隣家に遊びに出かける子供のような笑顔でありました。

「滝川一益にはで戦をするつもりが無いからな。……これは儂が請け負うぞ」

 黒鹿毛がゆっくりと歩み始めました。私の横を通り過ぎ、三九郎殿の眼前で止まりました。

「馬上より失礼。さて若様、に帰りましょうかね」

 慶次郎殿の大きな手が、滝川三九郎一積殿の襟首に伸びたかと思うと、その決して小さくはない体が宙に浮きました。

「嫌だぞ宗兵衛! 俺は菊殿をお父上の処まで送る!」

 三九郎殿は駄々子だだっこの如く手足を打ち振るいましたが、その程度のことで慶次郎殿が手を離すことなく、また馬も歩みを止めることがありません。

「どのお父上ですか?」

 からかうような口ぶりでありました。襟首から吊り下げられた三九郎殿が口をへの字に曲げて、

「菊殿のお父上だ。真田安房あわ殿は、つまりは俺のお父上でもある」

 すこぶる真面目に大胆な答えを返すのを聞くと、慶次郎殿は馬上からチラリとこちらへ顔をお向けになりました。
 申し訳なさ気な苦笑いをしておいででした。私も苦笑いで返しました。
 傍らの於菊は、両の袖で顔を覆うようにして、

あたくしは、存じ上げません!」

 などと申しましたが、夕日よりも赤く変じた耳の先までは隠しきれぬものでありました。
 慶次郎殿はカラカラと乾いた声でお笑いになりました。

「先方からは半ばお断りのごときお返事を頂戴して、そのうえお相手の姫君からはあのように呆れられておるというのに、うちの若君のしつこいことといったら! まったく祖父殿によく似ておいでだ」

 三九郎殿のお体は、馬の鼻先を上州に向けた馬の背に載せられています。

「しつこくて何が悪かろうか! しつこいからこそ、爺様は、亡き御屋形様よりお預かりしたこの関東を守り通そうというのだ! そのために、於菊殿には暫時ざんじ戦火の及ばぬ場所へ退いてもらうという事であろうが」

 こちらへ振り返った三九朗殿の顔には、決死の覚悟が浮いておりました。
 泣き出しそうな赤い目を一度固く閉じ、また、握り締める音が聞こえてきそうなほど、手綱を強く握りしめました。
 馬腹を軽く蹴ると、馬は小さく足を前へ出しました。

 上州へ、上州へ。

「暫時だ、暫時! 誠にわずかな間のことだ」

 強情な若武者はこちらへ背を向けたまま、叫びながら峠を下って行きますす。
 於菊の、顔を覆う両の袖の下から、

「殿方は皆、嘘吐きです」

 小さくつぶやく声が、私の耳に聞こえました。
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