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第九章「海神編」
東の国と神様と
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朝、俺は日の出すぐの林の中を一人、歩いた。
特に道がある訳じゃない。
畑に向かう小道をそれてしまえば、そこがどの辺か何か目印でも決めて歩かなければわからなくなる。
でも不思議と俺は何もしなくてもそれが林のどの辺かいつもわかっていた。
義父さんは俺がいつも林の中で迷っていたと思っているが、そうじゃない。
小さい俺はいつだってわかっていたのだ。
だからフラフラと訳もなく彷徨っていたつもりは全くないのだ。
それは裏山も同じだった。
ただ裏山はここと違って、何か障害物と言うか邪魔をするものがあって、わかっているのに進めなくなったり、妙にこっちと誘われたりする事が多くて、ここほど自由にできなかっただけだ。
その感覚は他の場所でも多少はあるけれど、やっぱり言葉にするほど認識できるのはこの林と裏山くらいだった。
どちらも大きく見れば教会の敷地内なんだけれども、それが関係しているのだろうか。
「あれ?ヴィオール、ウィルはおいてきたのか??」
気づいたら小さなヴィオールが来ていて、俺の側を楽しそうに飛び回っている。
何となく、ヴィオールは俺が感じているのと同じものを感じているのだと思った。
「おいで、ヴィオール。」
腕を翳すと、ヴィオールは素直にそこに降りた。
甘えるように喉をキュルクルならして顔を擦りつけてくる。
「お前が俺と同じものを感じているなら、この感覚は精霊のものなんだろうな……。」
自分が感じている他の人には理解されない感覚。
それをヴィオールは感じ取っている。
精霊にしたヴィオールが感じ取っていると言う事は、これは精霊の感覚なのだ。
それまで意識した事はなかったが、俺の中には精霊としての感覚があるのだろう。
「……本当に、俺は完全な人間という訳じゃないんだな……。」
幼い時から持っていたその感覚が精霊のものだと理解して、初めて自分の生まれの秘密を実感する。
血の魔術が使えても、ドラゴンゾンビに血を分けたとしても、自分が人間じゃないと言われても、驚いたしショックだったけど、どこか上の空で信じていない部分があった。
でも、こうして幼い頃から自分の持っていた感覚が人のそれではなく精霊のものだと理解すると、ストンと実感した。
俺は何なんだろう?
なんでここにいるんだろう?
それを理解すると共に、そんな気持ちが芽生えた。
「……サク、また迷っているのかい??」
穏やかな声が聞こえて俺は振り返った。
ヴィオールが翼をはためかせ、その人の周りを楽しそうに飛び回る。
「義父さん……。」
「おはよう、サク。良い朝だね。」
「おはようございます。義父さん。」
ヴィオールは俺の所に戻ってくると、肩に乗って丸くなった。
ちょっと猫っぽい。
俺は笑ってその体を撫でてやった。
「義父さんはどうしたの?こんな朝早く?」
「畑に味噌汁の具を取りに行こうと思ってね。大根と菜っ葉とどっちが良い??」
「大根かな。と言うか、大根の葉っぱの油炒めが食べたい。」
「あはは、お前はあれが好きだったね。作るとご飯をいつもより食べるから大変だったよ。」
「だって美味しいから。作り方教えてよ。」
「ああ、良いよ。なら今日の朝ごはんは大根づくしといこうかね。」
義父さんはそう言って畑に向かって歩き出した。
そういえば義父さんも林の中を躊躇なく歩くよな。
俺はその隣に並んで歩き始めた。
「義父さんは林の中で場所がわかるの?」
「わかるね。住んで長いというのもあるし、迷っても聞けば教えてくれるから。」
「教えてくれる??」
「小さな神様達がね。」
義父さんは静かにそう言って笑った。
神様、つまり精霊だ。
東の国では、精霊の事を神様と呼ぶ。
と言うか、不思議な現象や力のある何かは皆、神様だ。
目に見えないそういったものを神様として扱うのだ。
中には目に見えるものもあるから、ヴィオールなんかは義父さんにとったら神様にあたる。
神様と言っても、他の宗教のように絶対的に従わないとならないものと言う感覚じゃない。
目に見えないけれど確かにそこにいる隣人。
だから人様に気を使うように、それらにも気を使うのだ。
見えなくても挨拶をして、譲り合って、お互い気持ちよく過ごせるように気配りをする。
それが東の国で言う神様だ。
そしてどんなに小さなものにも神様が宿っていると考える。
だからどんな物も大切に扱わなければ罰が当たると教えられる。
独特な考えだし、物を粗末にしない為の教えなのかもしれない。
それでも、大事にしたものには神様がついて助けてくれると考えると、ものに対する愛着の意味が理解しやすい。
ものには皆神様が宿っていて、大事にするとその小さな神様も自分を好いて助けてくれる。
だからもっと好きになる。
物だと思わずそれを隣人と思えば、仲良くなっているからだと理解しやすい。
だから東の国では神様は特別な存在ではないのだ。
とても身近なフレンドリーな存在。
まぁ中にはあまり仲良くできない神様もいる。
それは人と人との関わりでも同じ事だ。
いい人もいれば、自分にとっては嫌な奴もいる。
そう言った神様と人とのトラブルの間に立つのが神仕えだ。
目に見えない神様の声や感情、気配などを感じ取って、人との橋渡しをする。
怒っている神様を宥めて鎮めたり、たまには叱りつけて抑えたりもする。
他の宗教で神様を叱りつけて抑え込んだり、軽く叱咤したりしたらそれこそ罰当たりなんだろうけれど、東の国では神様は隣人だ。
必要があれば文句だって言う。
それを行うのが、義父さんをはじめとする神仕えだ。
まぁ、東の国以外では「精霊師」や「精霊使い」と呼ばれる人達に近いんだと思う。
昔は精霊が人の手助けをする事が多かったから、精霊使いもそれなりにメジャーな職業だったらしいが、ある時を境に精霊は人と関わるのを殆どやめてしまったので今は希少な職業と言える。
どうやらその境目というのが王の種が盗まれた事らしいのだが、その前も海の王である海神を兵器にしたりもしてたんだし、遅かれ早かれ人と精霊は距離を置いていたんじゃないかなと思う。
そんな中でも東の国では今も昔も変わらずに神仕えはいるので、その辺はお国柄の差なのだろう。
「義父さん。」
「ん~?」
「義父さんは神仕えだよね?」
「そうだね?」
「……なら、初めから気づいていたの?俺が人間と精霊の間に生まれたものだって事。」
「気づいてたよ?それがどうしたんだい??」
俺が意を決して尋ねた事に、義父さんはあっけらかんと答えた。
あまりになんでもない事のように言うものだから、俺は拍子抜けしてしまった。
「え??いつから気づいてたの??」
「そんなの初めて見た時からだよ?当たり前じゃないか??こりゃまた、ずいぶん可愛い神様が来たなぁって思ったよ。」
「え?!義父さん、俺を初めから神様の類だと思って育ててたの?!」
「そうだよ?でもサクが全く自分を神様だって自覚がなくて、人間だと思っていたから、それはそれで良いんだと思っていたんだけど、違うのかい??」
俺は義父さんの感覚がわからず、何を言っていいのかわからなくなった。
いや、義父さんが神仕えで、ちょっと……いやかなりの天然でぽややんとしているのは知ってたよ?!
でも、預かった赤ん坊が完全な人間じゃないってわかってたのに、特に何の疑問も抱かず預かって育ててた訳?!
変な魔術とか使ってても、あぁそんな事もあるんだねぇって呑気に育ててたの?!
おおらかにも程があるだろ?!
義父さん?!
「……嘘だろ~?!」
「むしろ私は、お前は人と精霊の間に生まれたものというより、もっと純粋なものかと思っていたんだけどね。」
「純粋なもの??」
「うん。混じりっ気のないものかと。何らかの理由があって、人の姿を借りていて、人として生きないとならないのかなぁと思っていたんだけどね。」
「……何それ??さらに混乱するんだけど??」
「お前の力は強かったからそう思っていただけだよ。とても強いものと人との間に生まれたなら、そうなんだろうね??義父さんは何か見える訳じゃなくて何となく感じるだけだから、お前の生まれの詳しい事なんてわからないよ。義父さんにとって大事なのは、サクがここにいて私の可愛い息子の一人だって事だけだよ。それ以外は別にたいした事じゃないさ。」
「……義父さん……。」
「そんな事よりサク、どの大根が良いと思う??」
畑についた義父さんは、俺の生まれの話をそんな事とほっぽり投げて、朝食の大根をどれにするかを悩んでいた。
マジか、マジなのか……。
俺は少し頭を抱えた。
義父さんにとって、俺が何者であるかは本当にどうでもいいらしい。
そこまであっさりと投げ捨てられると、かえって清々しい。
何を悩んでいたのかと馬鹿らしくさえなる。
「ほら、サク!ぼさっとしていないで手伝っておくれ!」
「はいはい。俺の生まれよりも大事なお大根様ですからね、お手伝い致します。義父さん。」
「??何を拗ねているんだい??サクは??」
でもある意味、こういう義父さんだから俺はまともに育ったのかもなと思う。
義父さんは抜いた数本の大根を容赦なく俺に持たせた。
俺を神様の一種だと思っていた割には、泥付きの大根を平然と持たせるんですね、義父さん。
まぁこうやって特別扱いがないから良かったんだろうなぁ。
「そう言えば、お前は一度、死んだんだっけ?サク?」
「いや、死んではないよ、死にかけたんだって。」
「だから外れてしまったんだろうね。」
義父さんは腰をトントンしながら言った。
俺はまた目が点になる。
「は??外れたって……何が?!」
「お前に施していた封だよ。」
「封?!封って何か封印されてたの?!俺?!」
「そうだよ??お前が普通の子供ではなくて神様の類だとわかっていたから、そのままだと普通の子供として生きにくいと思ったからね、色々とね。」
「えっ?!ちょっと待って?!何それ?!聞いてないんだけど?!」
「話してないからね??ほら、帰るよ。」
義父さんはそう言って歩き出した。
ぽかんと固まっていた俺は、慌ててその背中を追った。
「え?え?!封って?!」
「うん。赤ん坊の頃は色々制御できていなかったからね?このままだとこの子は生きていくのが難しいなぁと思って、まず大掛かりな封をしたよ。でも力が強いから一度じゃ済まなくて何度かね。それから成長に伴って、お前が普通の子供として生きにくそうな部分は軽く封をしたよ。たまにやってただろ??」
「……え??もしかしてあの禊をするよ~とか言ってたあれ?!」
「うん。」
「え?!あれって俺だけにしてたの?!」
「そうだよ??」
俺は子供の頃に何度か受けていたお祈りのお手伝いが、自分の封印の儀式だった事を初めて知った。
「マジか~っ!!全く気づかなかった!!」
「でも血の力は封出来なくてね。弱められはしたけど。その頃にはお前も色々自覚できる歳だったし、封じるばかりでも仕方ないだろう??最終的には全部お前が自分で制御できるようにならないといけない事だし。だから注意だけして、自分で管理するようにさせたんだよ。」
「……そう言うのって……ある種、危険と隣り合わせだったんじゃ……。」
「だからお守りを持たせていただろう??」
「あ~……。」
「とは言え、魂につけていた封が外れてしまうとは思わなかったよ。まだ若かった義父さんの渾身の封だったのになぁ~。もうあんな封はできないよ、若くないからね。」
「それって、外れるとどうなるんですか??」
「別にどうって事はないね??お前は今、ちゃんと制御できているじゃないか??それに細かな封は残っているしね。それも段々と外しているみたいだけど。」
「外してる?!誰が?!」
「もちろんサクがだよ。自分で少しずつ外しているみたいだね??いい事だと思うよ。生きていくには結局、ぜんぶ自分で管理できるようにならないと駄目だから。」
「え?え?!どういう事?!」
「魂につけた封が外れたのは多分、偶然お前が死にかけたからだよ、サク。そこから色々変わっただろ?考え方や感覚とか、力が強くなったりしたと思うんだ。」
「ふぁっ?!あれって死にかけて封が取れたからなの?!」
俺はびっくりしてしまった。
あの後から俺の運命は目まぐるしく回りだした。
確かにそこから俺は色々変わった。
環境も、感情も、どんどん変わって物凄い勢いで流れ出したんだ。
「たぶんね。そこからお前は自分で自分の力を制御しようと色々始めただろう?それによって、段々と細かな封も外れていっているんだよ。」
「え……修行の成果かと思ってた……。」
「修行の成果だよ。その結果、自分で封じられていた部分を制御できるようになったから、封が要らなくなって外れたんだよ。」
魔力などの力が強くなったのも、修行によって俺が自分自身を制御できるようになったから、元々あった力が開放されていっているのだと義父さんが言った。
俺は驚きすぎて言葉が上手く出なかったが、ある意味とても納得できた。
修行の成果とはいえ、冷静に考察してみれば短期間で成長するには強すぎる変化があったと思う。
それが自分で制御可能になって、封じられていた部分が開放されていっているのだと考えればとても納得がいく。
「だとしたら……俺はどこまで強くなるんだろう……強くなるとして……俺は元々、どれほど強い力を持っているんだろう……。」
そう考えると少し怖い。
そして戻ってくるのだ。
俺は何者なのだろうという疑問に……。
「そうだな、最後に義父さんからサクに話せる事は……これかな??」
表情を暗くして黙った俺に、義父さんはなんでもない事のように言った。
「サク。お前は自分が何者か悩むかもしれない。」
「うん……。」
「でもそれは、お前でなくとも、誰もが持っている疑問だ。」
「…………。」
「自分が何者か、どうして生まれてきたのか、何の為に生きているのか……。」
「うん……。」
「そこに答えはないよ。」
「………え?!」
「だってそうだろう??この大根たちは、私達に食べられるけど、私達に食べられる為に生まれたんだなんて思ってないだろう??」
「そりゃ……そうですね??」
「それと同じだよ。自分が何者で、何の為にいるのかなんて、答えがないんだ。いや、答えはたくさんあるって言った方が良いのかな??」
「??」
「その答えはたくさんある。この大根は、大根自身は花を咲かせて種を残そうと思っていたかもしれない。それが大根自身の答えだ。でも私はこの大根を大事に育てて、いつか皆と美味しく食べようと思っていた。それが私の大根に対する答えだ。土は種から芽吹いた大根を、大きく育てと思っていたかもしれない。それが土から大根に対する答えだ。答えはたくさんあるんだよ。その中でサク、お前はどれが正解の答えだと思う??」
「え?ええ?!わからないよ、そんなの?!」
「うん、そうだね。わからないのさ。どれもその立場から見れば正しい答えだし、違う立場から見たら誤った答えだからね。だから答えは無限にある。そして正しい答えなんてないのさ。」
「……大根で哲学を語られるとは思わなかったです。義父さん。」
「哲学って訳じゃないんだけどね~。」
「でも、何か義父さんらしいです。」
俺は思わず笑ってしまった。
それを見つめながら、義父さんは頷いた。
「義父さんも悩んださ、自分が何者なのか、どうして生まれたのか、何で生きているのか……。」
そして遠くを見つめた。
あぁ、そうか、俺は自分が完全な人間じゃないからそれに悩むんだと思っていた。
でもそうじゃない。
たとえ俺が普通の両親から生まれた人間でも、それに悩んだんだ。
そう思ったら少しだけ気が楽になった。
「で、義父さんが悩んだ末に出したのがさっきの話だ。」
「うん。よくわかった。」
「だから別に、お前が同じように考える必要はないんだよ。だってこれは義父さんの答えだからね。」
「うん。」
「答えはいくつもある。それを周りに決めてもらうのも手だし、誰かに決めてもらうのも手だ。」
「うん。」
「でもおそらく、一番納得できる答えは、サク。お前の中にあるよ。」
「うん。」
「自分が何者かは、自分で自分が納得できる答えを持てばいい。正解なんてないのだからね。」
「うん。ありがとう、義父さん。」
「なら、悪いけど、井戸で大根を洗ってきてくれるかな?サク?義父さんは他の支度を進めておくから、終わったら一緒に大根葉の油炒めを作ろうね。」
「はい、義父さん。」
義父はなんでもない事のようにそう言った。
そんな風に朝食の話と変わらずに話してくれたその言葉が、俺の中でゆっくりと芽吹いていくのを感じていた。
特に道がある訳じゃない。
畑に向かう小道をそれてしまえば、そこがどの辺か何か目印でも決めて歩かなければわからなくなる。
でも不思議と俺は何もしなくてもそれが林のどの辺かいつもわかっていた。
義父さんは俺がいつも林の中で迷っていたと思っているが、そうじゃない。
小さい俺はいつだってわかっていたのだ。
だからフラフラと訳もなく彷徨っていたつもりは全くないのだ。
それは裏山も同じだった。
ただ裏山はここと違って、何か障害物と言うか邪魔をするものがあって、わかっているのに進めなくなったり、妙にこっちと誘われたりする事が多くて、ここほど自由にできなかっただけだ。
その感覚は他の場所でも多少はあるけれど、やっぱり言葉にするほど認識できるのはこの林と裏山くらいだった。
どちらも大きく見れば教会の敷地内なんだけれども、それが関係しているのだろうか。
「あれ?ヴィオール、ウィルはおいてきたのか??」
気づいたら小さなヴィオールが来ていて、俺の側を楽しそうに飛び回っている。
何となく、ヴィオールは俺が感じているのと同じものを感じているのだと思った。
「おいで、ヴィオール。」
腕を翳すと、ヴィオールは素直にそこに降りた。
甘えるように喉をキュルクルならして顔を擦りつけてくる。
「お前が俺と同じものを感じているなら、この感覚は精霊のものなんだろうな……。」
自分が感じている他の人には理解されない感覚。
それをヴィオールは感じ取っている。
精霊にしたヴィオールが感じ取っていると言う事は、これは精霊の感覚なのだ。
それまで意識した事はなかったが、俺の中には精霊としての感覚があるのだろう。
「……本当に、俺は完全な人間という訳じゃないんだな……。」
幼い時から持っていたその感覚が精霊のものだと理解して、初めて自分の生まれの秘密を実感する。
血の魔術が使えても、ドラゴンゾンビに血を分けたとしても、自分が人間じゃないと言われても、驚いたしショックだったけど、どこか上の空で信じていない部分があった。
でも、こうして幼い頃から自分の持っていた感覚が人のそれではなく精霊のものだと理解すると、ストンと実感した。
俺は何なんだろう?
なんでここにいるんだろう?
それを理解すると共に、そんな気持ちが芽生えた。
「……サク、また迷っているのかい??」
穏やかな声が聞こえて俺は振り返った。
ヴィオールが翼をはためかせ、その人の周りを楽しそうに飛び回る。
「義父さん……。」
「おはよう、サク。良い朝だね。」
「おはようございます。義父さん。」
ヴィオールは俺の所に戻ってくると、肩に乗って丸くなった。
ちょっと猫っぽい。
俺は笑ってその体を撫でてやった。
「義父さんはどうしたの?こんな朝早く?」
「畑に味噌汁の具を取りに行こうと思ってね。大根と菜っ葉とどっちが良い??」
「大根かな。と言うか、大根の葉っぱの油炒めが食べたい。」
「あはは、お前はあれが好きだったね。作るとご飯をいつもより食べるから大変だったよ。」
「だって美味しいから。作り方教えてよ。」
「ああ、良いよ。なら今日の朝ごはんは大根づくしといこうかね。」
義父さんはそう言って畑に向かって歩き出した。
そういえば義父さんも林の中を躊躇なく歩くよな。
俺はその隣に並んで歩き始めた。
「義父さんは林の中で場所がわかるの?」
「わかるね。住んで長いというのもあるし、迷っても聞けば教えてくれるから。」
「教えてくれる??」
「小さな神様達がね。」
義父さんは静かにそう言って笑った。
神様、つまり精霊だ。
東の国では、精霊の事を神様と呼ぶ。
と言うか、不思議な現象や力のある何かは皆、神様だ。
目に見えないそういったものを神様として扱うのだ。
中には目に見えるものもあるから、ヴィオールなんかは義父さんにとったら神様にあたる。
神様と言っても、他の宗教のように絶対的に従わないとならないものと言う感覚じゃない。
目に見えないけれど確かにそこにいる隣人。
だから人様に気を使うように、それらにも気を使うのだ。
見えなくても挨拶をして、譲り合って、お互い気持ちよく過ごせるように気配りをする。
それが東の国で言う神様だ。
そしてどんなに小さなものにも神様が宿っていると考える。
だからどんな物も大切に扱わなければ罰が当たると教えられる。
独特な考えだし、物を粗末にしない為の教えなのかもしれない。
それでも、大事にしたものには神様がついて助けてくれると考えると、ものに対する愛着の意味が理解しやすい。
ものには皆神様が宿っていて、大事にするとその小さな神様も自分を好いて助けてくれる。
だからもっと好きになる。
物だと思わずそれを隣人と思えば、仲良くなっているからだと理解しやすい。
だから東の国では神様は特別な存在ではないのだ。
とても身近なフレンドリーな存在。
まぁ中にはあまり仲良くできない神様もいる。
それは人と人との関わりでも同じ事だ。
いい人もいれば、自分にとっては嫌な奴もいる。
そう言った神様と人とのトラブルの間に立つのが神仕えだ。
目に見えない神様の声や感情、気配などを感じ取って、人との橋渡しをする。
怒っている神様を宥めて鎮めたり、たまには叱りつけて抑えたりもする。
他の宗教で神様を叱りつけて抑え込んだり、軽く叱咤したりしたらそれこそ罰当たりなんだろうけれど、東の国では神様は隣人だ。
必要があれば文句だって言う。
それを行うのが、義父さんをはじめとする神仕えだ。
まぁ、東の国以外では「精霊師」や「精霊使い」と呼ばれる人達に近いんだと思う。
昔は精霊が人の手助けをする事が多かったから、精霊使いもそれなりにメジャーな職業だったらしいが、ある時を境に精霊は人と関わるのを殆どやめてしまったので今は希少な職業と言える。
どうやらその境目というのが王の種が盗まれた事らしいのだが、その前も海の王である海神を兵器にしたりもしてたんだし、遅かれ早かれ人と精霊は距離を置いていたんじゃないかなと思う。
そんな中でも東の国では今も昔も変わらずに神仕えはいるので、その辺はお国柄の差なのだろう。
「義父さん。」
「ん~?」
「義父さんは神仕えだよね?」
「そうだね?」
「……なら、初めから気づいていたの?俺が人間と精霊の間に生まれたものだって事。」
「気づいてたよ?それがどうしたんだい??」
俺が意を決して尋ねた事に、義父さんはあっけらかんと答えた。
あまりになんでもない事のように言うものだから、俺は拍子抜けしてしまった。
「え??いつから気づいてたの??」
「そんなの初めて見た時からだよ?当たり前じゃないか??こりゃまた、ずいぶん可愛い神様が来たなぁって思ったよ。」
「え?!義父さん、俺を初めから神様の類だと思って育ててたの?!」
「そうだよ?でもサクが全く自分を神様だって自覚がなくて、人間だと思っていたから、それはそれで良いんだと思っていたんだけど、違うのかい??」
俺は義父さんの感覚がわからず、何を言っていいのかわからなくなった。
いや、義父さんが神仕えで、ちょっと……いやかなりの天然でぽややんとしているのは知ってたよ?!
でも、預かった赤ん坊が完全な人間じゃないってわかってたのに、特に何の疑問も抱かず預かって育ててた訳?!
変な魔術とか使ってても、あぁそんな事もあるんだねぇって呑気に育ててたの?!
おおらかにも程があるだろ?!
義父さん?!
「……嘘だろ~?!」
「むしろ私は、お前は人と精霊の間に生まれたものというより、もっと純粋なものかと思っていたんだけどね。」
「純粋なもの??」
「うん。混じりっ気のないものかと。何らかの理由があって、人の姿を借りていて、人として生きないとならないのかなぁと思っていたんだけどね。」
「……何それ??さらに混乱するんだけど??」
「お前の力は強かったからそう思っていただけだよ。とても強いものと人との間に生まれたなら、そうなんだろうね??義父さんは何か見える訳じゃなくて何となく感じるだけだから、お前の生まれの詳しい事なんてわからないよ。義父さんにとって大事なのは、サクがここにいて私の可愛い息子の一人だって事だけだよ。それ以外は別にたいした事じゃないさ。」
「……義父さん……。」
「そんな事よりサク、どの大根が良いと思う??」
畑についた義父さんは、俺の生まれの話をそんな事とほっぽり投げて、朝食の大根をどれにするかを悩んでいた。
マジか、マジなのか……。
俺は少し頭を抱えた。
義父さんにとって、俺が何者であるかは本当にどうでもいいらしい。
そこまであっさりと投げ捨てられると、かえって清々しい。
何を悩んでいたのかと馬鹿らしくさえなる。
「ほら、サク!ぼさっとしていないで手伝っておくれ!」
「はいはい。俺の生まれよりも大事なお大根様ですからね、お手伝い致します。義父さん。」
「??何を拗ねているんだい??サクは??」
でもある意味、こういう義父さんだから俺はまともに育ったのかもなと思う。
義父さんは抜いた数本の大根を容赦なく俺に持たせた。
俺を神様の一種だと思っていた割には、泥付きの大根を平然と持たせるんですね、義父さん。
まぁこうやって特別扱いがないから良かったんだろうなぁ。
「そう言えば、お前は一度、死んだんだっけ?サク?」
「いや、死んではないよ、死にかけたんだって。」
「だから外れてしまったんだろうね。」
義父さんは腰をトントンしながら言った。
俺はまた目が点になる。
「は??外れたって……何が?!」
「お前に施していた封だよ。」
「封?!封って何か封印されてたの?!俺?!」
「そうだよ??お前が普通の子供ではなくて神様の類だとわかっていたから、そのままだと普通の子供として生きにくいと思ったからね、色々とね。」
「えっ?!ちょっと待って?!何それ?!聞いてないんだけど?!」
「話してないからね??ほら、帰るよ。」
義父さんはそう言って歩き出した。
ぽかんと固まっていた俺は、慌ててその背中を追った。
「え?え?!封って?!」
「うん。赤ん坊の頃は色々制御できていなかったからね?このままだとこの子は生きていくのが難しいなぁと思って、まず大掛かりな封をしたよ。でも力が強いから一度じゃ済まなくて何度かね。それから成長に伴って、お前が普通の子供として生きにくそうな部分は軽く封をしたよ。たまにやってただろ??」
「……え??もしかしてあの禊をするよ~とか言ってたあれ?!」
「うん。」
「え?!あれって俺だけにしてたの?!」
「そうだよ??」
俺は子供の頃に何度か受けていたお祈りのお手伝いが、自分の封印の儀式だった事を初めて知った。
「マジか~っ!!全く気づかなかった!!」
「でも血の力は封出来なくてね。弱められはしたけど。その頃にはお前も色々自覚できる歳だったし、封じるばかりでも仕方ないだろう??最終的には全部お前が自分で制御できるようにならないといけない事だし。だから注意だけして、自分で管理するようにさせたんだよ。」
「……そう言うのって……ある種、危険と隣り合わせだったんじゃ……。」
「だからお守りを持たせていただろう??」
「あ~……。」
「とは言え、魂につけていた封が外れてしまうとは思わなかったよ。まだ若かった義父さんの渾身の封だったのになぁ~。もうあんな封はできないよ、若くないからね。」
「それって、外れるとどうなるんですか??」
「別にどうって事はないね??お前は今、ちゃんと制御できているじゃないか??それに細かな封は残っているしね。それも段々と外しているみたいだけど。」
「外してる?!誰が?!」
「もちろんサクがだよ。自分で少しずつ外しているみたいだね??いい事だと思うよ。生きていくには結局、ぜんぶ自分で管理できるようにならないと駄目だから。」
「え?え?!どういう事?!」
「魂につけた封が外れたのは多分、偶然お前が死にかけたからだよ、サク。そこから色々変わっただろ?考え方や感覚とか、力が強くなったりしたと思うんだ。」
「ふぁっ?!あれって死にかけて封が取れたからなの?!」
俺はびっくりしてしまった。
あの後から俺の運命は目まぐるしく回りだした。
確かにそこから俺は色々変わった。
環境も、感情も、どんどん変わって物凄い勢いで流れ出したんだ。
「たぶんね。そこからお前は自分で自分の力を制御しようと色々始めただろう?それによって、段々と細かな封も外れていっているんだよ。」
「え……修行の成果かと思ってた……。」
「修行の成果だよ。その結果、自分で封じられていた部分を制御できるようになったから、封が要らなくなって外れたんだよ。」
魔力などの力が強くなったのも、修行によって俺が自分自身を制御できるようになったから、元々あった力が開放されていっているのだと義父さんが言った。
俺は驚きすぎて言葉が上手く出なかったが、ある意味とても納得できた。
修行の成果とはいえ、冷静に考察してみれば短期間で成長するには強すぎる変化があったと思う。
それが自分で制御可能になって、封じられていた部分が開放されていっているのだと考えればとても納得がいく。
「だとしたら……俺はどこまで強くなるんだろう……強くなるとして……俺は元々、どれほど強い力を持っているんだろう……。」
そう考えると少し怖い。
そして戻ってくるのだ。
俺は何者なのだろうという疑問に……。
「そうだな、最後に義父さんからサクに話せる事は……これかな??」
表情を暗くして黙った俺に、義父さんはなんでもない事のように言った。
「サク。お前は自分が何者か悩むかもしれない。」
「うん……。」
「でもそれは、お前でなくとも、誰もが持っている疑問だ。」
「…………。」
「自分が何者か、どうして生まれてきたのか、何の為に生きているのか……。」
「うん……。」
「そこに答えはないよ。」
「………え?!」
「だってそうだろう??この大根たちは、私達に食べられるけど、私達に食べられる為に生まれたんだなんて思ってないだろう??」
「そりゃ……そうですね??」
「それと同じだよ。自分が何者で、何の為にいるのかなんて、答えがないんだ。いや、答えはたくさんあるって言った方が良いのかな??」
「??」
「その答えはたくさんある。この大根は、大根自身は花を咲かせて種を残そうと思っていたかもしれない。それが大根自身の答えだ。でも私はこの大根を大事に育てて、いつか皆と美味しく食べようと思っていた。それが私の大根に対する答えだ。土は種から芽吹いた大根を、大きく育てと思っていたかもしれない。それが土から大根に対する答えだ。答えはたくさんあるんだよ。その中でサク、お前はどれが正解の答えだと思う??」
「え?ええ?!わからないよ、そんなの?!」
「うん、そうだね。わからないのさ。どれもその立場から見れば正しい答えだし、違う立場から見たら誤った答えだからね。だから答えは無限にある。そして正しい答えなんてないのさ。」
「……大根で哲学を語られるとは思わなかったです。義父さん。」
「哲学って訳じゃないんだけどね~。」
「でも、何か義父さんらしいです。」
俺は思わず笑ってしまった。
それを見つめながら、義父さんは頷いた。
「義父さんも悩んださ、自分が何者なのか、どうして生まれたのか、何で生きているのか……。」
そして遠くを見つめた。
あぁ、そうか、俺は自分が完全な人間じゃないからそれに悩むんだと思っていた。
でもそうじゃない。
たとえ俺が普通の両親から生まれた人間でも、それに悩んだんだ。
そう思ったら少しだけ気が楽になった。
「で、義父さんが悩んだ末に出したのがさっきの話だ。」
「うん。よくわかった。」
「だから別に、お前が同じように考える必要はないんだよ。だってこれは義父さんの答えだからね。」
「うん。」
「答えはいくつもある。それを周りに決めてもらうのも手だし、誰かに決めてもらうのも手だ。」
「うん。」
「でもおそらく、一番納得できる答えは、サク。お前の中にあるよ。」
「うん。」
「自分が何者かは、自分で自分が納得できる答えを持てばいい。正解なんてないのだからね。」
「うん。ありがとう、義父さん。」
「なら、悪いけど、井戸で大根を洗ってきてくれるかな?サク?義父さんは他の支度を進めておくから、終わったら一緒に大根葉の油炒めを作ろうね。」
「はい、義父さん。」
義父はなんでもない事のようにそう言った。
そんな風に朝食の話と変わらずに話してくれたその言葉が、俺の中でゆっくりと芽吹いていくのを感じていた。
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満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
ふたなり治験棟 企画12月31公開
ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。
男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
氷の支配者と偽りのベータ。過労で倒れたら冷徹上司(銀狼)に拾われ、極上の溺愛生活が始まりました。
水凪しおん
BL
オメガであることを隠し、メガバンクで身を粉にして働く、水瀬湊。
※この作品には、性的描写の表現が含まれています。18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
過労と理不尽な扱いで、心身ともに限界を迎えた夜、彼を救ったのは、冷徹で知られる超エリートα、橘蓮だった。
「君はもう、頑張らなくていい」
――それは、運命の番との出会い。
圧倒的な庇護と、独占欲に戸惑いながらも、湊の凍てついた心は、次第に溶かされていく。
理不尽な会社への華麗なる逆転劇と、極上に甘いオメガバース・オフィスラブ!
年下幼馴染アルファの執着〜なかったことにはさせない〜
ひなた翠
BL
一年ぶりの再会。
成長した年下αは、もう"子ども"じゃなかった――。
「海ちゃんから距離を置きたかったのに――」
23歳のΩ・遥は、幼馴染のα・海斗への片思いを諦めるため、一人暮らしを始めた。
モテる海斗が自分なんかを選ぶはずがない。
そう思って逃げ出したのに、ある日突然、18歳になった海斗が「大学のオープンキャンパスに行くから泊めて」と転がり込んできて――。
「俺はずっと好きだったし、離れる気ないけど」
「十八歳になるまで我慢してた」
「なんのためにここから通える大学を探してると思ってるの?」
年下αの、計画的で一途な執着に、逃げ場をなくしていく遥。
夏休み限定の同居は、甘い溺愛の日々――。
年下αの執着は、想像以上に深くて、甘くて、重い。
これは、"なかったこと"にはできない恋だった――。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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