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4話
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あれから数日。相変わらず離れは、わたくしとニールだけ。静かで平和な日々が続いている。
先日のお茶会の一件以来、旦那様とマーガレットさんの姿もぱったりと見なくなった。
『ニールのお陰で、侯爵家が恥を晒さずに済んだのですね』
そう言いながらニールの背を撫でると、彼はご機嫌な様子で喉を鳴らしていた。ところが
「シャーッ!」
突然、背を丸めて威嚇の声を上げた。
驚いてその視線の先を見ると、そこには、よりにもよって旦那様が立っていた。
「どうかなさいましたか?」
わたくしが問いかけると、旦那様は気の抜けた笑みを浮かべて
「いや、マーガレットが出かけていてな。暇だから遊びに来てやった」
「はい? 仰っている意味が、まるで分かりませんが」
「いや、たまにはお前の相手でもしてやろうと思っただけだ」
その言葉に、背筋がぞわりとした。
わたくしは深く息を吐き、できる限り上品な声で応じた。
「わたくしはニールと楽しく過ごしておりますので、どうぞお構いなく」
「まあそう言うな。本当は寂しいのではないのか?」
わたくしが盛大に溜息をついたその瞬間、旦那様が唐突に背後から腕を伸ばしてきた。
しかし、その間に割って入った黒い影がある。ニールだ。
小さな牙が旦那様の腕にがっしりと噛み付いた。
「いってぇ!」
旦那様は慌てて腕を振り払い、その勢いでニールが床に叩き落とされた。
「ニール! 大丈夫?!」
わたくしは駆け寄って抱き上げる。
ニールの細い体が震えているのを感じ、胸が痛んだ。
「そんな不吉な猫、いつまで飼っている! 今すぐ捨てろ!」
怒鳴る旦那様に、わたくしは凍りつくような笑みを浮かべた。
「旦那様、このような真似、許しませんわ。
マーガレットさんが帰って来たら、旦那様に襲われかけたとお伝えいたします」
「な、なにっ!? そ、それだけはやめてくれ! 何をされるか分からん!」
「でしたら、すぐにお引き取りを。
二度とこのようなことはしないと誓ってくださるなら、黙っていて差し上げます」
「わ、分かった! 絶対にマーガレットには何も言うなよ!」
旦那様は青ざめた顔で、慌てて離れを出て行った。
わたくしは小さく肩をすくめ、ニールを抱きしめた。
「ニール、ありがとう。旦那様はよほどマーガレットさんが怖いのね。彼女のことは好きになれないけれど、今日のところは感謝だわ」
そう呟くと、ニールは得意げに尻尾を揺らした。
その後、昼食のために本宅へ向かうと、執事のトーマスさんが帳簿を前に難しい顔をしていた。
「トーマスさん、どうかされましたか?」
「あ、奥様。いえ、今月も大変な赤字でして、どうしたものかと考えておりました」
「もしよろしければ、わたくしにも見せていただけますか?」
「勿論でございます」
彼は帳簿を差し出し、現状を説明してくれた。
ページをめくるごとに、わたくしの眉がひそめられていく。
「確かにこれは、かなり不味いわね」
「さようでございましょう。しかし、これ以上は削るところがなくて困っているのです」
「あら? この支出は何かしら。見慣れない名目ですわね」
わたくしが指先で欄を示すと、トーマスさんは言いにくそうに口を開いた。
「実は、マーガレット様の香水店の赤字でして」
「は? なぜそれを領地の税収から補填しているのです?」
トーマスさんは観念したように、小声で語り始めた。
それは先日メイド長が話した昔の話、七、八年ほど前の離れでの不幸な出来事の続きだった。
当時、離れに住んでいた乳母夫妻にマーガレットさんは香水用の保存剤の調合を依頼した。
離れは実質、彼女の実験室と化し、様々な薬品が持ち込まれたという。
それを聞いたわたくしは『なるほど初めて離れに入った時に見た、あの沢山のガラスの瓶はその時の残骸だったのね』と納得した。
やがて、ついに満足のいく保存剤を完成させたマーガレットさんはその日、ひとりで喜びに酔いしれていたが、それから数日後、離れで悲劇が起きた。先日のメイド長の話だ。
離れに遊びに来ていた旦那様の弟君が忽然と姿を消し、行方不明になり、それから暫くの間に次々に、乳母夫妻とその息子は、急死。
マーガレットさんは流行病と言って、保存剤の完成は偶然だと装っていたが、彼女が用いた保存剤には強い毒性があったらしい。
飼われていた猫たちも姿を消し、ただ、一匹の黒猫だけが少ししてから戻って来たという。
当時、マーガレットさんは二十四歳、旦那様はまだ十六歳の少年。
彼女に言われるまま実験には目をつむり、乳母一家を巻き込んだ。そうして、あの事件は幕を閉じたのだ。流行病という言葉だけで。
彼女の香水事業は初めこそ上手くいっていたが、その後、衰退。それでも尚、店の経営は諦めずに現在に至っている。
今では仕入れ過ぎた香水の山だけが残り、莫大な赤字が侯爵家を圧迫している。
しかもその香水店は、旦那様と知り合う前に別の貴族から資金提供を受けて始めたものだという。
「つまり、その保存剤が、乳母家族と旦那様の弟君を……」
「証拠はございません。しかし、あの薬が相当な毒物だったことは間違いないでしょう。何故なら乳母家族は日毎弱っていき、保存剤が原因だと口にしていました。私が実験を止めようとした時にはもう全てが遅すぎました」
トーマスさんは重々しく言葉を落とした。
「すみませんでした。先日のメイド長の話の際、途中で、黙り込んでしまい真実を申し上げなかったことお許し下さい」
わたくしは黙って帳簿を閉じ、静かに微笑んだ。
「いいえ、よいのです。話して下さりありがとうございます。先日のお話にはこんな続きがあったのですね。全ての収支は、わたくしの方で整理いたします。
少しばかりの精算が必要なようですものね」
わたくしは微笑み、瞳の奥に、氷よりも冷たい光を宿した。
先日のお茶会の一件以来、旦那様とマーガレットさんの姿もぱったりと見なくなった。
『ニールのお陰で、侯爵家が恥を晒さずに済んだのですね』
そう言いながらニールの背を撫でると、彼はご機嫌な様子で喉を鳴らしていた。ところが
「シャーッ!」
突然、背を丸めて威嚇の声を上げた。
驚いてその視線の先を見ると、そこには、よりにもよって旦那様が立っていた。
「どうかなさいましたか?」
わたくしが問いかけると、旦那様は気の抜けた笑みを浮かべて
「いや、マーガレットが出かけていてな。暇だから遊びに来てやった」
「はい? 仰っている意味が、まるで分かりませんが」
「いや、たまにはお前の相手でもしてやろうと思っただけだ」
その言葉に、背筋がぞわりとした。
わたくしは深く息を吐き、できる限り上品な声で応じた。
「わたくしはニールと楽しく過ごしておりますので、どうぞお構いなく」
「まあそう言うな。本当は寂しいのではないのか?」
わたくしが盛大に溜息をついたその瞬間、旦那様が唐突に背後から腕を伸ばしてきた。
しかし、その間に割って入った黒い影がある。ニールだ。
小さな牙が旦那様の腕にがっしりと噛み付いた。
「いってぇ!」
旦那様は慌てて腕を振り払い、その勢いでニールが床に叩き落とされた。
「ニール! 大丈夫?!」
わたくしは駆け寄って抱き上げる。
ニールの細い体が震えているのを感じ、胸が痛んだ。
「そんな不吉な猫、いつまで飼っている! 今すぐ捨てろ!」
怒鳴る旦那様に、わたくしは凍りつくような笑みを浮かべた。
「旦那様、このような真似、許しませんわ。
マーガレットさんが帰って来たら、旦那様に襲われかけたとお伝えいたします」
「な、なにっ!? そ、それだけはやめてくれ! 何をされるか分からん!」
「でしたら、すぐにお引き取りを。
二度とこのようなことはしないと誓ってくださるなら、黙っていて差し上げます」
「わ、分かった! 絶対にマーガレットには何も言うなよ!」
旦那様は青ざめた顔で、慌てて離れを出て行った。
わたくしは小さく肩をすくめ、ニールを抱きしめた。
「ニール、ありがとう。旦那様はよほどマーガレットさんが怖いのね。彼女のことは好きになれないけれど、今日のところは感謝だわ」
そう呟くと、ニールは得意げに尻尾を揺らした。
その後、昼食のために本宅へ向かうと、執事のトーマスさんが帳簿を前に難しい顔をしていた。
「トーマスさん、どうかされましたか?」
「あ、奥様。いえ、今月も大変な赤字でして、どうしたものかと考えておりました」
「もしよろしければ、わたくしにも見せていただけますか?」
「勿論でございます」
彼は帳簿を差し出し、現状を説明してくれた。
ページをめくるごとに、わたくしの眉がひそめられていく。
「確かにこれは、かなり不味いわね」
「さようでございましょう。しかし、これ以上は削るところがなくて困っているのです」
「あら? この支出は何かしら。見慣れない名目ですわね」
わたくしが指先で欄を示すと、トーマスさんは言いにくそうに口を開いた。
「実は、マーガレット様の香水店の赤字でして」
「は? なぜそれを領地の税収から補填しているのです?」
トーマスさんは観念したように、小声で語り始めた。
それは先日メイド長が話した昔の話、七、八年ほど前の離れでの不幸な出来事の続きだった。
当時、離れに住んでいた乳母夫妻にマーガレットさんは香水用の保存剤の調合を依頼した。
離れは実質、彼女の実験室と化し、様々な薬品が持ち込まれたという。
それを聞いたわたくしは『なるほど初めて離れに入った時に見た、あの沢山のガラスの瓶はその時の残骸だったのね』と納得した。
やがて、ついに満足のいく保存剤を完成させたマーガレットさんはその日、ひとりで喜びに酔いしれていたが、それから数日後、離れで悲劇が起きた。先日のメイド長の話だ。
離れに遊びに来ていた旦那様の弟君が忽然と姿を消し、行方不明になり、それから暫くの間に次々に、乳母夫妻とその息子は、急死。
マーガレットさんは流行病と言って、保存剤の完成は偶然だと装っていたが、彼女が用いた保存剤には強い毒性があったらしい。
飼われていた猫たちも姿を消し、ただ、一匹の黒猫だけが少ししてから戻って来たという。
当時、マーガレットさんは二十四歳、旦那様はまだ十六歳の少年。
彼女に言われるまま実験には目をつむり、乳母一家を巻き込んだ。そうして、あの事件は幕を閉じたのだ。流行病という言葉だけで。
彼女の香水事業は初めこそ上手くいっていたが、その後、衰退。それでも尚、店の経営は諦めずに現在に至っている。
今では仕入れ過ぎた香水の山だけが残り、莫大な赤字が侯爵家を圧迫している。
しかもその香水店は、旦那様と知り合う前に別の貴族から資金提供を受けて始めたものだという。
「つまり、その保存剤が、乳母家族と旦那様の弟君を……」
「証拠はございません。しかし、あの薬が相当な毒物だったことは間違いないでしょう。何故なら乳母家族は日毎弱っていき、保存剤が原因だと口にしていました。私が実験を止めようとした時にはもう全てが遅すぎました」
トーマスさんは重々しく言葉を落とした。
「すみませんでした。先日のメイド長の話の際、途中で、黙り込んでしまい真実を申し上げなかったことお許し下さい」
わたくしは黙って帳簿を閉じ、静かに微笑んだ。
「いいえ、よいのです。話して下さりありがとうございます。先日のお話にはこんな続きがあったのですね。全ての収支は、わたくしの方で整理いたします。
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わたくしは微笑み、瞳の奥に、氷よりも冷たい光を宿した。
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