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6話
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昼下がりの本宅は、静まり返っていた。
財政難のせいで人の出入りも少なく、廊下を渡る足音だけがかすかに響く。
応接室の中には、全員の使用人が集められていた。
執事のトーマスさんを筆頭に、メイド長、コック長、そして若いメイド二名。
保存剤により倒れたメイドは解毒香によりすぐに回復した。
(やはり保存剤が希釈されたためでしょう)
皆、緊張した面持ちでわたくしを見つめている。
「皆さま、急にお集まりいただいてありがとうございます」
わたくしは微笑を浮かべながらも、声には静かな張りを込めた。
「本日は、大切なお知らせがございますの」
わたくしの隣には、一人の青年が控えていた。
淡い栗色の髪に、どこか人懐こい黄金の瞳。
彼が一歩前に出ると、部屋の空気がすっと引き締まる。
「ご紹介いたします。こちらは、アラン・ポーレット様」
わたくしはゆっくりと言葉を続けた。
「旦那様の弟君にして、長らく行方不明とされていたお方です」
その瞬間、誰もが息を呑んだ。
トーマスさんが手にしていた帳簿を落とし、紙がぱさりと床を滑る。
「だ、旦那様の弟君、でございますか? では、貴方がアラン様?」
「ええ、そうなの。驚くのも無理はないわ」
わたくしは静かに頷き、少しだけ口元に笑みを浮かべる。
「なにしろつい先日まで、彼は猫の姿をしていたのですもの」
ざわ、と室内が揺れた。
トーマスさんの白い眉がわずかに上がる。
「まさか、あの黒猫が」
「ええ。わたくしがニールと名付けたあの子ですわ」
誰もが目を見開き、信じられないという顔をしている。
けれどニールいえ、アラン・ポーレット様は穏やかな微笑を浮かべ、深く頭を下げた。
「長いあいだご心配をおかけしました。このたび、ローズ嬢のお力で人の姿に戻ることができました」
その礼儀正しい言葉に、若いメイドが胸に手を当てた。
執事のトーマスさんも、深く一礼する。
「それは、まさしく奇跡でございますな」
わたくしは軽く首を振った。
「奇跡というより、少し危険な調香の実験の結果、ですわね。あの時の保存剤の毒を分解する解毒香が作用したようですの」
それ以上、誰も言葉を挟まなかった。
長年仕えてきた彼らの中には、八年前に乳母一家が亡くなった出来事を覚えている者もいる。
皆、何かを悟ったように、ただ静かに頭を垂れた。
「旦那様にはまだお話しておりません」
わたくしは念を押すように言った。
「ですから、この件は当面、この部屋だけの秘密に。よろしいですね?」
「承知いたしました、奥様」
トーマスさんの低い声が響く。
その瞬間、室内の全員が一斉に膝を折り、深く礼をした。
侯爵家の血を継ぐ者、アラン・ポーレット。
ようやく、静かな真実がこの屋敷に戻ってきたのだった。
ーーーー
使用人たちが退出したあと、応接室にはわたくしとアラン様、そしてトーマスさんだけが残った。
外では冷たい風が庭の薔薇を揺らしている。
「アラン様、良くぞご無事で。すべて、お話しするべき時が来たようですな」
トーマスさんは深く息を吐き、帳簿を抱えて机の上に置いた。
その表紙は擦り切れ、紙の端には古い香の匂いが染みついている。
「今から八年程前、侯爵家の財務記録に香料研究費という項目が突然追加されました。当時、マーガレット様がご自身の香水事業を始められ、領地の収入から援助金を回すよう命じられたのです」
「それが、あの香水店の赤字、ですわね」
わたくしが指先で頁を繰ると、細かい数字が目に飛び込んできた。
保存剤試験費、調香助手給与、実験用動物費。
どの行にも不自然な上書きがあり、誰かが帳簿を修正した痕跡が残っている。
「トーマスさん、この助手とは?」
「当時、離れに住んでおられた乳母夫婦です」
彼の声が、ほんのわずかに震えた。
「ご記憶にございますか? 彼らが急病で亡くなられた、あの件でございます」
アラン様がわずかに顔を伏せた。
その指先が机の縁を掴み、白くなるほど力がこもっている。
「僕は猫の姿で全てを見ていた」
それを聞いたトーマスさんは驚きを隠せない。
「僕はあの実験に巻き込まれたのです。マーガレットさんの作った保存剤に、魔法触媒が混ざっていた。香りの永続性を得るために、魂の定着を試みたのでしょう。僕はその原液を浴びて猫の姿になってしまった」
更にトーマスさんは驚いている。
「人の声も失い、長い間、屋敷の片隅で生き延びていました。あの夜、貴女が実験室で新しい解毒香を試した時、わずかに残っていた触媒が反応して、封じられていた魔法が解けたのです」
トーマスさんは驚いた顔で、思わず拳を握りしめた。
わたくしは微笑を浮かべた。
帳簿を閉じる音が、部屋に小さく響いた。
「この帳簿は、旦那様にもお見せしても?」
トーマスさんが恐る恐る尋ねた。
「いいえ。まだ時期ではありません」
わたくしはきっぱりと首を振った。
「まずは香水店の実態を整理します。それからこの保存剤に関する記録を、すべて集めておきましょう」
アラン様が静かに頷く。
「僕も手伝います。僕自身の記憶も、断片的に戻ってきています。あの日、マーガレットさんが誰かから瓶を受け取っていた、恐らく資金提供者か、協力者です。それから乳母たちの死因を流行病と断言した医者も調べなければ」
「裏の出資者と医者ですか」
わたくしは目を細め、飲み物を一口含んだ。
香りは柔らかく、それでいて微かな苦味がある。
「まあいいわ。毒の混ざった香りには、解毒の風を通さなければ。侯爵家に再び清らかな香りを取り戻すのはわたくしたちの務めですもの」
アラン様の瞳に小さく灯がともる。
それは、長い夜を経て初めて見る希望の光のようだった。
財政難のせいで人の出入りも少なく、廊下を渡る足音だけがかすかに響く。
応接室の中には、全員の使用人が集められていた。
執事のトーマスさんを筆頭に、メイド長、コック長、そして若いメイド二名。
保存剤により倒れたメイドは解毒香によりすぐに回復した。
(やはり保存剤が希釈されたためでしょう)
皆、緊張した面持ちでわたくしを見つめている。
「皆さま、急にお集まりいただいてありがとうございます」
わたくしは微笑を浮かべながらも、声には静かな張りを込めた。
「本日は、大切なお知らせがございますの」
わたくしの隣には、一人の青年が控えていた。
淡い栗色の髪に、どこか人懐こい黄金の瞳。
彼が一歩前に出ると、部屋の空気がすっと引き締まる。
「ご紹介いたします。こちらは、アラン・ポーレット様」
わたくしはゆっくりと言葉を続けた。
「旦那様の弟君にして、長らく行方不明とされていたお方です」
その瞬間、誰もが息を呑んだ。
トーマスさんが手にしていた帳簿を落とし、紙がぱさりと床を滑る。
「だ、旦那様の弟君、でございますか? では、貴方がアラン様?」
「ええ、そうなの。驚くのも無理はないわ」
わたくしは静かに頷き、少しだけ口元に笑みを浮かべる。
「なにしろつい先日まで、彼は猫の姿をしていたのですもの」
ざわ、と室内が揺れた。
トーマスさんの白い眉がわずかに上がる。
「まさか、あの黒猫が」
「ええ。わたくしがニールと名付けたあの子ですわ」
誰もが目を見開き、信じられないという顔をしている。
けれどニールいえ、アラン・ポーレット様は穏やかな微笑を浮かべ、深く頭を下げた。
「長いあいだご心配をおかけしました。このたび、ローズ嬢のお力で人の姿に戻ることができました」
その礼儀正しい言葉に、若いメイドが胸に手を当てた。
執事のトーマスさんも、深く一礼する。
「それは、まさしく奇跡でございますな」
わたくしは軽く首を振った。
「奇跡というより、少し危険な調香の実験の結果、ですわね。あの時の保存剤の毒を分解する解毒香が作用したようですの」
それ以上、誰も言葉を挟まなかった。
長年仕えてきた彼らの中には、八年前に乳母一家が亡くなった出来事を覚えている者もいる。
皆、何かを悟ったように、ただ静かに頭を垂れた。
「旦那様にはまだお話しておりません」
わたくしは念を押すように言った。
「ですから、この件は当面、この部屋だけの秘密に。よろしいですね?」
「承知いたしました、奥様」
トーマスさんの低い声が響く。
その瞬間、室内の全員が一斉に膝を折り、深く礼をした。
侯爵家の血を継ぐ者、アラン・ポーレット。
ようやく、静かな真実がこの屋敷に戻ってきたのだった。
ーーーー
使用人たちが退出したあと、応接室にはわたくしとアラン様、そしてトーマスさんだけが残った。
外では冷たい風が庭の薔薇を揺らしている。
「アラン様、良くぞご無事で。すべて、お話しするべき時が来たようですな」
トーマスさんは深く息を吐き、帳簿を抱えて机の上に置いた。
その表紙は擦り切れ、紙の端には古い香の匂いが染みついている。
「今から八年程前、侯爵家の財務記録に香料研究費という項目が突然追加されました。当時、マーガレット様がご自身の香水事業を始められ、領地の収入から援助金を回すよう命じられたのです」
「それが、あの香水店の赤字、ですわね」
わたくしが指先で頁を繰ると、細かい数字が目に飛び込んできた。
保存剤試験費、調香助手給与、実験用動物費。
どの行にも不自然な上書きがあり、誰かが帳簿を修正した痕跡が残っている。
「トーマスさん、この助手とは?」
「当時、離れに住んでおられた乳母夫婦です」
彼の声が、ほんのわずかに震えた。
「ご記憶にございますか? 彼らが急病で亡くなられた、あの件でございます」
アラン様がわずかに顔を伏せた。
その指先が机の縁を掴み、白くなるほど力がこもっている。
「僕は猫の姿で全てを見ていた」
それを聞いたトーマスさんは驚きを隠せない。
「僕はあの実験に巻き込まれたのです。マーガレットさんの作った保存剤に、魔法触媒が混ざっていた。香りの永続性を得るために、魂の定着を試みたのでしょう。僕はその原液を浴びて猫の姿になってしまった」
更にトーマスさんは驚いている。
「人の声も失い、長い間、屋敷の片隅で生き延びていました。あの夜、貴女が実験室で新しい解毒香を試した時、わずかに残っていた触媒が反応して、封じられていた魔法が解けたのです」
トーマスさんは驚いた顔で、思わず拳を握りしめた。
わたくしは微笑を浮かべた。
帳簿を閉じる音が、部屋に小さく響いた。
「この帳簿は、旦那様にもお見せしても?」
トーマスさんが恐る恐る尋ねた。
「いいえ。まだ時期ではありません」
わたくしはきっぱりと首を振った。
「まずは香水店の実態を整理します。それからこの保存剤に関する記録を、すべて集めておきましょう」
アラン様が静かに頷く。
「僕も手伝います。僕自身の記憶も、断片的に戻ってきています。あの日、マーガレットさんが誰かから瓶を受け取っていた、恐らく資金提供者か、協力者です。それから乳母たちの死因を流行病と断言した医者も調べなければ」
「裏の出資者と医者ですか」
わたくしは目を細め、飲み物を一口含んだ。
香りは柔らかく、それでいて微かな苦味がある。
「まあいいわ。毒の混ざった香りには、解毒の風を通さなければ。侯爵家に再び清らかな香りを取り戻すのはわたくしたちの務めですもの」
アラン様の瞳に小さく灯がともる。
それは、長い夜を経て初めて見る希望の光のようだった。
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