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第23章-1 気分転換
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翌朝、気持ちを立て直した祐樹は鉄壁のポーカーフェイスを装着してレストランに向かった。孝弘はすでに席について食事を始めていた。
避けるのも不自然なので今まで通りに同じテーブルにつき、お互いゆうべのことなどなかったかのように、穏やかに挨拶を交わした。
「おはよう、上野くん」
「おはようございます、高橋さん」
控えめな笑みを浮かべた孝弘の表情からは何も読み取れない。
そこに5年間の時間の経過を感じる。
以前の孝弘は、こんなふうに感情を取り繕ったりしなかった。
告白を断った祐樹の前で泣くまいと歯を食いしばって「帰ります」と部屋を出て行った背中を、今も覚えている。
現在の孝弘は、あんなことがあった翌朝にこうして顔を突き合わせても、平然と食事ができるのだ。
朝食が終わるころ、運転手がやって来て道路の復旧は昼ごろになりそうだと報告してくれた。
孝弘はそのまま運転手と打合わせをつづけ、祐樹は食後の紅茶を取りに立った。
中国でも最近は多少まともなコーヒーを飲めるようになってきたが、やはり紅茶や中国茶のほうが安心だ。
ふと、初めてのコーヒー体験を思い出す。
孝弘と出会った日の北京の街。連れて行かれた王府井の五つ星ホテルのカフェ。
驚きの連続だった一日。
今も大切にしまってある思い出だ。
「どうしたの?」
「何が?」
「なんか、笑ってるから」
知らないうちに、思い出し笑いをしていたようだ。
「やらしいことでも考えた?」
「残念ながら。衝撃のコーヒーの思い出がよみがえったとこ」
セクハラ発言を軽くかわして答えると、孝弘が一拍おいて、ああ、とうなずいた。
「北京飯店の激甘コーヒー?」
「そう。体験学習の日々だったな」
半年間の北京研修。孝弘や彼の友人たちとの付き合いのなかで、駐在員が知らない世界をいくつも見せてもらった。
駐在員社会だけでは知ることのできない、素顔の北京をたくさん体験させてくれたのだ。
懐かしい思い出に引き込まれそうになるのを止めて、祐樹はきょうの予定を訊ねた。青木はオフにしていいといったが、夕方までには戻りたいところだ。
運転手が出ていくと、孝弘は祐樹にデートしようと持ちかけてきた。
「デート?」
うろんな顔をする祐樹にしゃあしゃあと孝弘は言う。
「そう。二人で出かける機会なんか、めったにないだろ」
口説きモードは健在らしい。
諦める気はないと宣言されたが、きのうの発言をこんなにもスルーされるとは思っていなかった。
懲りないなとため息をつくべきなのか、ほっとするところなのか。諦めがつかないのは、自分のほうかもしれないと苦い思いをかみしめる。
「ずっとホテルにこもっててもいいけど」とあまく微笑みながら言うので、祐樹も負けじとにっこり笑って返した。
「いや、やっぱり外に行こう。部屋にこもりきりはよくないよ」
観光地などに興味はなかったが、下手に部屋に押しかけられても困るし、それくらいなら外に出たほうがましかと思っただけだ。
チェックアウトをしてロビーで待つと、ほどなく孝弘も降りて来た。
車寄せで待っていたタクシーに乗ると運転手はなにも言わず車を出した。朝食の席で打合わせは済んでいたらしい。孝弘は最初から行き先を決めていたようだ。
車に乗ってすぐにたばこ屋で停めてもらい、中華(ヂョンフォア)を3カートン買い求めている。そのあとで酒も買っていた。
手土産持参で観光?
ふしぎに思ったが、孝弘はとくに説明しなかった。
舗装されていない郊外の道路を1時間ばかり走る。
真正面から対向車が来るのももう慣れた。センターラインがないので、適当に走っているのだ。
交通事故死が海外駐在でもっとも多い死因の一つだと納得させられる光景だった。
こうして地方に来ると、あらためて中国は黄色い大地だと思う。地平線までまっすぐに見通せる荒れ地のような広大な大地。乾いていて色彩の乏しい世界だ。
一本しかない道路を牛も馬車も人も自転車も車もなにもかも無秩序に走っているようでいて、それなのに通行には暗黙の了解がある。
日本人にはわからないルール。
暗黙の了解か、とついため息がでた。
中国での取引の難しさにこの暗黙の了解というのか、おおっぴらにならない裏事情というものがある。
それはときに、政治的な問題だったり人間関係やコネにまつわる事柄だったり、金銭的利権的なものだったりするが、総じて言えるのは、それらが表沙汰になることなく噂話として流布し、事情を知らない人間には極めて真実をつかみにくい状態になっているということだった。
社会主義特有の情報統制もあり、本音と建て前社会であるという事情もあり、何より金とコネが優先されるという現代の情勢もあり、とにかく一筋縄ではいかないのだ。
今回の出張はその裏事情に振り回されている状態だ。
プロジェクトの大枠はできているのに、肝心の中国側の肝が据わっていないというか、のらりくらりと躱されている。
候補地の選定から根本的に考え直すことになるだろう。
プロジェクトの責任者は青木なので彼がどう本社から指示をもらうかにもよるが、この進行具合では本社の責任者である緒方部長が、計画の見直しを言い出すのも時間の問題かと思われた。
社内でもまだ一部にしか知らされていないが、今回のプロジェクトは向こう2年はかかる大規模なものだった。
商品をそのまま買い付けて、あるいは既存の工場に注文生産させて日本に輸出するといった今までのやり方ではなく、商品開発から生産、販売まで一貫して自社で行うというもので、初めての企画にスタッフの戸惑いも大きい。
どこの特区を選んだとしても、結局は資材調達と物流の確保がやはりいちばんネックになってくる。
やはり内陸地はだめだな…そうなると必然的に港に近い町ということになる。
避けるのも不自然なので今まで通りに同じテーブルにつき、お互いゆうべのことなどなかったかのように、穏やかに挨拶を交わした。
「おはよう、上野くん」
「おはようございます、高橋さん」
控えめな笑みを浮かべた孝弘の表情からは何も読み取れない。
そこに5年間の時間の経過を感じる。
以前の孝弘は、こんなふうに感情を取り繕ったりしなかった。
告白を断った祐樹の前で泣くまいと歯を食いしばって「帰ります」と部屋を出て行った背中を、今も覚えている。
現在の孝弘は、あんなことがあった翌朝にこうして顔を突き合わせても、平然と食事ができるのだ。
朝食が終わるころ、運転手がやって来て道路の復旧は昼ごろになりそうだと報告してくれた。
孝弘はそのまま運転手と打合わせをつづけ、祐樹は食後の紅茶を取りに立った。
中国でも最近は多少まともなコーヒーを飲めるようになってきたが、やはり紅茶や中国茶のほうが安心だ。
ふと、初めてのコーヒー体験を思い出す。
孝弘と出会った日の北京の街。連れて行かれた王府井の五つ星ホテルのカフェ。
驚きの連続だった一日。
今も大切にしまってある思い出だ。
「どうしたの?」
「何が?」
「なんか、笑ってるから」
知らないうちに、思い出し笑いをしていたようだ。
「やらしいことでも考えた?」
「残念ながら。衝撃のコーヒーの思い出がよみがえったとこ」
セクハラ発言を軽くかわして答えると、孝弘が一拍おいて、ああ、とうなずいた。
「北京飯店の激甘コーヒー?」
「そう。体験学習の日々だったな」
半年間の北京研修。孝弘や彼の友人たちとの付き合いのなかで、駐在員が知らない世界をいくつも見せてもらった。
駐在員社会だけでは知ることのできない、素顔の北京をたくさん体験させてくれたのだ。
懐かしい思い出に引き込まれそうになるのを止めて、祐樹はきょうの予定を訊ねた。青木はオフにしていいといったが、夕方までには戻りたいところだ。
運転手が出ていくと、孝弘は祐樹にデートしようと持ちかけてきた。
「デート?」
うろんな顔をする祐樹にしゃあしゃあと孝弘は言う。
「そう。二人で出かける機会なんか、めったにないだろ」
口説きモードは健在らしい。
諦める気はないと宣言されたが、きのうの発言をこんなにもスルーされるとは思っていなかった。
懲りないなとため息をつくべきなのか、ほっとするところなのか。諦めがつかないのは、自分のほうかもしれないと苦い思いをかみしめる。
「ずっとホテルにこもっててもいいけど」とあまく微笑みながら言うので、祐樹も負けじとにっこり笑って返した。
「いや、やっぱり外に行こう。部屋にこもりきりはよくないよ」
観光地などに興味はなかったが、下手に部屋に押しかけられても困るし、それくらいなら外に出たほうがましかと思っただけだ。
チェックアウトをしてロビーで待つと、ほどなく孝弘も降りて来た。
車寄せで待っていたタクシーに乗ると運転手はなにも言わず車を出した。朝食の席で打合わせは済んでいたらしい。孝弘は最初から行き先を決めていたようだ。
車に乗ってすぐにたばこ屋で停めてもらい、中華(ヂョンフォア)を3カートン買い求めている。そのあとで酒も買っていた。
手土産持参で観光?
ふしぎに思ったが、孝弘はとくに説明しなかった。
舗装されていない郊外の道路を1時間ばかり走る。
真正面から対向車が来るのももう慣れた。センターラインがないので、適当に走っているのだ。
交通事故死が海外駐在でもっとも多い死因の一つだと納得させられる光景だった。
こうして地方に来ると、あらためて中国は黄色い大地だと思う。地平線までまっすぐに見通せる荒れ地のような広大な大地。乾いていて色彩の乏しい世界だ。
一本しかない道路を牛も馬車も人も自転車も車もなにもかも無秩序に走っているようでいて、それなのに通行には暗黙の了解がある。
日本人にはわからないルール。
暗黙の了解か、とついため息がでた。
中国での取引の難しさにこの暗黙の了解というのか、おおっぴらにならない裏事情というものがある。
それはときに、政治的な問題だったり人間関係やコネにまつわる事柄だったり、金銭的利権的なものだったりするが、総じて言えるのは、それらが表沙汰になることなく噂話として流布し、事情を知らない人間には極めて真実をつかみにくい状態になっているということだった。
社会主義特有の情報統制もあり、本音と建て前社会であるという事情もあり、何より金とコネが優先されるという現代の情勢もあり、とにかく一筋縄ではいかないのだ。
今回の出張はその裏事情に振り回されている状態だ。
プロジェクトの大枠はできているのに、肝心の中国側の肝が据わっていないというか、のらりくらりと躱されている。
候補地の選定から根本的に考え直すことになるだろう。
プロジェクトの責任者は青木なので彼がどう本社から指示をもらうかにもよるが、この進行具合では本社の責任者である緒方部長が、計画の見直しを言い出すのも時間の問題かと思われた。
社内でもまだ一部にしか知らされていないが、今回のプロジェクトは向こう2年はかかる大規模なものだった。
商品をそのまま買い付けて、あるいは既存の工場に注文生産させて日本に輸出するといった今までのやり方ではなく、商品開発から生産、販売まで一貫して自社で行うというもので、初めての企画にスタッフの戸惑いも大きい。
どこの特区を選んだとしても、結局は資材調達と物流の確保がやはりいちばんネックになってくる。
やはり内陸地はだめだな…そうなると必然的に港に近い町ということになる。
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