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第3章
138.部族の信頼
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翌朝の集落は、昨夜よりも一段明るかった。朝霧は薄く、白樺の梢をくぐり抜けた光が、吊るされた骨飾りと乾いた薬草束を、淡く柔らかい色に染めてゆく。焚き火の煙は細く、匂いは軽い。昨日の『夜紺蠍王』の討伐が、空気から恐れの澱を一枚剥いだのだと、誰の顔を見ても分かった。
広場に出ると、すでにヒナは女性たちに簡易包帯の巻き方を教え、シャリスは子どもの擦り傷に小さな光の癒しを載せていた。アレスは弓の持ち方を年長の若者に見せ、的にする輪を樹皮で素早く編んで渡している。ルテラは大人たちと肩を並べ、倒木を運び、節を斧で落としては、さりげなく持ち重りを受け持って軽口を断っている。カイラは片手で薪を抱え、もう片手で素人が握った刃の角度を直し、「そこをこうだ」と一言だけ添える。言葉少なだが、誰も反発しない。説得ではなく、正確さで納得させる手つきだった。
そしてケニーは――相変わらずだった。いや、相変わらずだからこそ尊いのだが。
「よーし、勝負だぞー! ケニー先生と綱引きだー!」
縄一本に五人、いや六人の子どもがぶら下がり、ケニーがわざと少しずつ後ろへ引きずられる。
「ぐおおっ、つ、強い……! おまえら、昨日より強くなってるじゃねぇか……!」
「ちがうよ、ケニーが弱いだけだよ!」
「おい、そこは『君たちが強い』って言うところだ!」
「きみたちがつよい!」
「よし合格! じゃあ勝者には木の実の飴、敗者には……ケニーの渾身の変顔!」
「やだー! あめがいいー!」
「正直すぎるだろ!」
爆笑が弾ける。飴はサーシャの家から分けてもらった貴重品で、一人一粒。しかしケニーの変顔は無制限だ。需要は限りなく低いが。
そんな喧騒の端で、昨日輪の弧を見抜いた少年オルが、照れくさそうにリアへ近づいてきた。手には朝一番に摘んだらしい野草の束。
「……お、おはようございます。あの……これ、傷に効くやつ。おばあちゃんが言ってた」
「ありがとう、オル。」リアは少年の頭にそっと手を置く。
「昨日の『弧』の話、役に立った。今日も、目を貸してくれるか」
オルはこくんと頷き、目を輝かせた。ほんの少しの勇気が、きちんと『役に立った』へ変わると、子どもの背筋は見違えるほど伸びる。オルの背の伸びは、村の空気の伸びでもあった。
サーシャの父は、リアを見ると深々と会釈した。
「……昨夜は、よくぞ守ってくださった」
「こちらこそ。」リアは微笑み、肩のティグノーに視線を落とす。
「風が手を貸してくれました」
『ふむ。褒めよ、もっと褒めよ』と小さな神獣が鼻を鳴らし、子どもたちの指が可愛い悲鳴とともに伸びる。
「ちっちゃい……!」
「もふもふ……!」
『もふるでない。尊厳が減る』
「尊厳ってなに?」
『いずれ分かる。今は飴を寄こせ』
「さっき全部配っちゃ……あ、一本だけ残ってた!」
『よろしい、風は気前のよい者に味方する』
うっかり飴で神を買収する子が誕生してしまったが、ティグノーが満足げならそれでいいのかもしれない。
午前はそんなふうに、笑いと作業が重なり合いながら過ぎていった。リアは各所を回って短く助言し、必要なところで手を貸し、手を貸した以上に相手のやり方を尊重した。押しつけるのではなく、彼らのいつもの手の延長へ、少しだけ新しい角度を差し入れる。たとえば樹皮の編み方一つにしても、締めの向きを半段ずらすだけで、負荷の流れが変わる。リアは半段だけ差し入れた。
昼時、サーシャの母が木皿に温かい粥をよそい、戸外の長椅子に並べた。
「皆さん、ご一緒に」
「わーい!」ケニーが最速で座り、シャリスに耳をつねられる。
「客人は後ろから!」
「いててて! 修行では先陣、飯では殿のケニーです!」
「殿って最後の意味ではなく、偉い人のほうの殿に聞こえるので減点です」
「減点方式やめません?」
笑いは第二波、第三波と寄せては返す。笑う時間が伸びるほど、緊張の糸は自然に緩む。
――と、同時刻。
集落の外れ、白樺と岩が重なる陰。ラウラ族のティーダは、部下の二人と身を寄せていた。風の通らぬ藪の底で、彼の目は湿り気を帯びた鋭さで光り、口の端がぬるりと歪む。
「長老も耄碌した。外の火を家の中へ入れるなんざ、昔なら一族ごと追放もんだ」
浅黒い頬に傷のある男が、うつむいたまま頷く。
「……昨日の蠍王の件は、運が良かっただけかと」
もう一人の、痩せた若者が囁く。
「レオル族が頂に立ってから、俺たちは狩場を減らされた。禁足地だの、古い掟だの……干上がるのを待つだけじゃねぇか」
「そうだとも。」ティーダは小石を爪先で弾き飛ばし、舌で犬歯を舐めた。
「レオルの予言? 笑わせる。風の声を聞くって? 風なんざ、その日その日で顔を変える。信じるべきは力と血だ。俺たちの手だ」
そして、声を潜め、二人の耳元へ湿った息を落とす。
「――あの方の協力があれば、話は早い。長老の席は軽い。軽い椅子は、風がなくても倒れる」
二人は顔を見合わせ、表情をこわばらせた。やがて、恐れと期待の混じった声が、藪の底に沈む。
「……本当に、来るのか」
「来る。こちらから風の通り道を示せばな」
ティーダの笑いは、葉裏に潜む毒虫の羽音に似ていた。
広場に出ると、すでにヒナは女性たちに簡易包帯の巻き方を教え、シャリスは子どもの擦り傷に小さな光の癒しを載せていた。アレスは弓の持ち方を年長の若者に見せ、的にする輪を樹皮で素早く編んで渡している。ルテラは大人たちと肩を並べ、倒木を運び、節を斧で落としては、さりげなく持ち重りを受け持って軽口を断っている。カイラは片手で薪を抱え、もう片手で素人が握った刃の角度を直し、「そこをこうだ」と一言だけ添える。言葉少なだが、誰も反発しない。説得ではなく、正確さで納得させる手つきだった。
そしてケニーは――相変わらずだった。いや、相変わらずだからこそ尊いのだが。
「よーし、勝負だぞー! ケニー先生と綱引きだー!」
縄一本に五人、いや六人の子どもがぶら下がり、ケニーがわざと少しずつ後ろへ引きずられる。
「ぐおおっ、つ、強い……! おまえら、昨日より強くなってるじゃねぇか……!」
「ちがうよ、ケニーが弱いだけだよ!」
「おい、そこは『君たちが強い』って言うところだ!」
「きみたちがつよい!」
「よし合格! じゃあ勝者には木の実の飴、敗者には……ケニーの渾身の変顔!」
「やだー! あめがいいー!」
「正直すぎるだろ!」
爆笑が弾ける。飴はサーシャの家から分けてもらった貴重品で、一人一粒。しかしケニーの変顔は無制限だ。需要は限りなく低いが。
そんな喧騒の端で、昨日輪の弧を見抜いた少年オルが、照れくさそうにリアへ近づいてきた。手には朝一番に摘んだらしい野草の束。
「……お、おはようございます。あの……これ、傷に効くやつ。おばあちゃんが言ってた」
「ありがとう、オル。」リアは少年の頭にそっと手を置く。
「昨日の『弧』の話、役に立った。今日も、目を貸してくれるか」
オルはこくんと頷き、目を輝かせた。ほんの少しの勇気が、きちんと『役に立った』へ変わると、子どもの背筋は見違えるほど伸びる。オルの背の伸びは、村の空気の伸びでもあった。
サーシャの父は、リアを見ると深々と会釈した。
「……昨夜は、よくぞ守ってくださった」
「こちらこそ。」リアは微笑み、肩のティグノーに視線を落とす。
「風が手を貸してくれました」
『ふむ。褒めよ、もっと褒めよ』と小さな神獣が鼻を鳴らし、子どもたちの指が可愛い悲鳴とともに伸びる。
「ちっちゃい……!」
「もふもふ……!」
『もふるでない。尊厳が減る』
「尊厳ってなに?」
『いずれ分かる。今は飴を寄こせ』
「さっき全部配っちゃ……あ、一本だけ残ってた!」
『よろしい、風は気前のよい者に味方する』
うっかり飴で神を買収する子が誕生してしまったが、ティグノーが満足げならそれでいいのかもしれない。
午前はそんなふうに、笑いと作業が重なり合いながら過ぎていった。リアは各所を回って短く助言し、必要なところで手を貸し、手を貸した以上に相手のやり方を尊重した。押しつけるのではなく、彼らのいつもの手の延長へ、少しだけ新しい角度を差し入れる。たとえば樹皮の編み方一つにしても、締めの向きを半段ずらすだけで、負荷の流れが変わる。リアは半段だけ差し入れた。
昼時、サーシャの母が木皿に温かい粥をよそい、戸外の長椅子に並べた。
「皆さん、ご一緒に」
「わーい!」ケニーが最速で座り、シャリスに耳をつねられる。
「客人は後ろから!」
「いててて! 修行では先陣、飯では殿のケニーです!」
「殿って最後の意味ではなく、偉い人のほうの殿に聞こえるので減点です」
「減点方式やめません?」
笑いは第二波、第三波と寄せては返す。笑う時間が伸びるほど、緊張の糸は自然に緩む。
――と、同時刻。
集落の外れ、白樺と岩が重なる陰。ラウラ族のティーダは、部下の二人と身を寄せていた。風の通らぬ藪の底で、彼の目は湿り気を帯びた鋭さで光り、口の端がぬるりと歪む。
「長老も耄碌した。外の火を家の中へ入れるなんざ、昔なら一族ごと追放もんだ」
浅黒い頬に傷のある男が、うつむいたまま頷く。
「……昨日の蠍王の件は、運が良かっただけかと」
もう一人の、痩せた若者が囁く。
「レオル族が頂に立ってから、俺たちは狩場を減らされた。禁足地だの、古い掟だの……干上がるのを待つだけじゃねぇか」
「そうだとも。」ティーダは小石を爪先で弾き飛ばし、舌で犬歯を舐めた。
「レオルの予言? 笑わせる。風の声を聞くって? 風なんざ、その日その日で顔を変える。信じるべきは力と血だ。俺たちの手だ」
そして、声を潜め、二人の耳元へ湿った息を落とす。
「――あの方の協力があれば、話は早い。長老の席は軽い。軽い椅子は、風がなくても倒れる」
二人は顔を見合わせ、表情をこわばらせた。やがて、恐れと期待の混じった声が、藪の底に沈む。
「……本当に、来るのか」
「来る。こちらから風の通り道を示せばな」
ティーダの笑いは、葉裏に潜む毒虫の羽音に似ていた。
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