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第一章 ヴァルム試験国家編
第八話 死人文官の処方箋(2)
しおりを挟むペン先が紙の上で止まる。インクの匂いが、急に強くなった気がした。
『冬の終わりまでの死亡率:五割以下』
数字を書き、カイの方へ紙を押し出す。
──五割。
声に出す前に、その言葉の重さを測ろうとして、喉の奥で言葉が一度つかえた。
十人のうち五人。あるいは、生き残る五人。別の言い方を探す。だが、どの表現も等しく残酷で、どこか嘘くさい。
迷いごと、喉の苦味と一緒に飲み込んで、ようやく言葉にする。
「七割を、五割以下に下げることを約束します」
音になった瞬間、自分の声が少しだけ軽く聞こえた。中身が軽いのではなく、包装の方が薄すぎる感覚だ。
沈黙。
長い沈黙。
カイは紙から目を離さない。視線が数字の上を行き来するあいだに、蝋燭の蝋が一筋垂れ落ちる。
「……つまり」
低い声が落ちた。
「お前は五人を選ぶのか」
「え?」
思考が一瞬、空白になる。
「十人のうち、どの五人を生かすか、お前が決めるってことだ」
背筋が凍った。
「違います」
反射で否定する。
「何が違う」
「私は『誰を生かすか』ではなく、『どうすれば死者が減るか』を──」
「同じだろうが」
カイの声が、一段低くなる。
「結果的に、お前の判断で生き死にが決まる」
その通りだ、という言葉が喉まで上がってきて、そこで止まる。
違う、と言い切れない。なぜなら、事実だから。
「……はい」
ようやく出た声は、掠れていた。
「結果的には、そうなります」
カイは長く、重い息を吐いた。
「正直でいいじゃねえか」
さっきと同じ言葉。だが今度は、皮肉が混じっている。
それでも、嘘をついていない分だけ、まだましだとシュアラは自分に言い聞かせた。
「それが、三ヶ月間、私にこの盤面を任せたときに団長が受け取れる『利得』です」
「利得ねえ」
カイは紙から目を離し、椅子の背にもたれた。眠気の霞はもうそこにはない。戦場で敵勢を見渡すときと同じ、冷たい計算の気配があると、シュアラは判断する。
「お前は、その『五割』のうちに、自分を入れてるのか」
不意に投げられた問いに、再び思考が止まる。
「どういう意味でしょう」
「ここで死ぬかもしれねえ奴の中に、自分を入れて計算してるのかって聞いてる」
さっきとは違う種類の棘を含んだ声だった。
「死人文官だか何だか知らねえが、お前が倒れたら、そのゲームとやらはそこで終わりだろうが」
シュアラは右手の甲を一度握りしめ、それから胸元を軽く叩いた。
「私自身の死亡率は、別の帳簿で管理しています」
帝都の戸籍上、彼女はすでに死亡扱いだ。本来なら、もう一度死ぬことは統計上の誤差にしかならない。
「ただし、ここで倒れるつもりはありません。団長の部下に含めていただけるなら、その責任の一部はお預けします」
「勝手に部下にするな」
言葉ほどの拒絶は、声にはなかった。
カイはゆっくりと息を吐き、机の上の簡易盤面を指先で一つずつなぞった。パンの欠片。三つの小石。書き込まれた数字。
「……お前の言う『ゲーム』とやらは」
低く問う。
「俺にとっては、『賭け』にしか見えねえ」
「賭けです」
シュアラは頷いた。
「でも、いま団長が何もしないで座っているのも、別の賭けです」
窓の外の闇に視線をやる。風の音が石壁を叩いている。
「何もしない賭けの結果は、『ほぼ確実に七割が死ぬ』です。私が提案しているのは、『五割まで下げられるかもしれない三ヶ月間の賭け』」
そして、もう一つだけ付け加えた。
「もし失敗しても、『いまより少しマシな死に方』にはできます」
言ってから、自分で少しだけ眉をひそめる。慰めになどならない言い方だ。
「……慰めになってねえぞ」
カイが渋い顔で言う。
「慰めではなく、条件の説明です」
そう返した声は、妙に乾いていた。
カイはしばらく黙っていた。その沈黙は、「言葉を飲み込む」ためではなく、何かを選び取るための時間だと、シュアラは解釈する。
やがて。
「三ヶ月」
椅子から身を起こし、机越しに身を乗り出してきた。
「お前に賭ける」
短く、はっきりとした言葉だった。
「ただし」
続く声のほうが、むしろ重い。
「俺の部下を、数字だけで切り捨てたら、その瞬間に叩き出す」
森色の眼が、真っ直ぐに彼女を射抜く。
「七割だの五割だのって話を、兵の前で口にしたら殴る。あいつらの前では、一人でも多く生かすために動いてるって顔をしろ」
その条件は、数字以上に重い。
「団長がそう望むなら」
シュアラは頷いた。
「彼らには、『死者をゼロに近づけるための調整』だけを見せます。百人のうち何人死ぬかではなく、『今日一日誰も死んでいないか』の確認を」
言ってから、自分の言葉にちょっとした違和感を覚える。帝都の会議室では、こんな言い回しは決してしなかった。
「……言うじゃねえか」
カイの口元に、短い笑みが浮かんだ。勝利でも侮りでもなく、自分でも驚いているような、ぎこちない表情だ。
「財政権の一部、三ヶ月の解任禁止、兵と村人は『切り捨てなし』」
彼は指を折って条件をなぞった。
「それを守る代わりに、お前は『冬までの死亡率を五割以下にする』と」
「はい」
今度の即答には、あえて間を挟まなかった。ここで迷いを見せる方が、よほど非合理だ。
「……バカげた賭けだ」
ぽつりと零れた言葉に、シュアラはわずかに首を傾げる。
「七割の賭けに比べれば、期待値は高いと判断します」
「そういう意味じゃねえ」
カイは立ち上がった。机の端に手をつき、ぐるりと回り込んでくる。シュアラの目の前に、その影が落ちた。
至近距離から見上げると、彼の背はやはり高い。戦場仕様の鎧を脱いでいても、歩く城壁のような厚みがある。右手の甲には、剣だこで固くなった皮膚と、ところどころに残る古い傷跡が見える。
カイは右手を差し出した。
「カイ・フォン・ヴォルフ。ヴァルム砦第七騎士団団長として」
シュアラは、その手を見た。剣だこで硬くなった掌。古い傷跡。父の手とは、全く違う。
右手を上げかけて──止まる。
(握ったら、もう後戻りできません)
七割の死。五割への賭け。失敗すれば、この人の部下が死ぬ。
自分の右手を見下ろす。紙とペンに慣れた、細い指。崖下で父の手を離したときと同じ手。
──また、誰かを手放すことになるかもしれない。
「……おい」
カイの声が落ちる。
「やめるなら、今だぞ」
顔を上げる。
カイは、まだ手を差し出したままだった。その目には、諦めと、ほんの少しの期待が混ざっている。
(いいえ)
シュアラは、ゆっくりと手を伸ばした。
(今度は、離しません)
掌が触れた。
触れた瞬間、時間が少し伸びた気がした。
カイの手のひらは、思っていたより熱い。指先の節が、剣を握り続けた人間のそれだ。硬さがこちらの柔らかい掌に食い込んでくる。
扉の向こうで、誰かが笑う声が遠く響いた。この部屋だけ、別の時間が流れている。
蝋燭の炎が揺れ、その影が二人の手の上をゆっくりと横切る。影が過ぎ去るのと、握り返す力が強まるのが、ほとんど同時だった。
「死人文官シュアラ」
名乗る声は、驚くほど安定していた。
「三ヶ月間、団長の賭け金を預かります」
カイの手が、ぐっと握り返してきた。握力は、予想していたより少しだけ弱い。疲労と酒のせいかもしれない。それでも、その内側にある意志は、さっきまでより明らかに強くなっていると、シュアラは感じた。
「……いい顔になったな」
口から勝手に出た言葉に、自分でも一瞬驚く。帝都の会議室で上官に向かって、こんな言い方をしたことは一度もない。
カイが目を細める。
「何がだ」
「団長のことではありません。この砦です」
慌てて言い足しながら、少しだけ遅れて羞恥がやってくる。
手を離し、机の上の簡易盤面に視線を落とす。パンの欠片と、小石と、数字で描かれた小さな世界。
「ようやく、『手を入れる価値がある患者』の顔になりました」
「最初からそうだったろうが」
カイは鼻を鳴らした。
「お前がそれを認めるのに、帳簿を三冊も読ませやがって」
「確認には時間がかかります」
マントを手に取り、肩にかける。
「それでは、今日はこれで失礼します。明日から、在庫の棚卸しと人員の洗い出しを始めますので」
「ああ」
自分の椅子に戻りながら、カイは半ば自嘲気味に付け加えた。
「明日からは『うるさい文官がうろつき回る砦』ってわけか」
「はい。出血の位置を特定するためには、多少の騒がしさは必要です」
軽く一礼し、帳簿の一部と自分の小さな手帳を抱えて部屋を出る。
扉が閉じる直前、背中に低い声が届いた。
「おい、文官」
振り返る。
カイは椅子にもたれ、片手で頭を掻いていた。目だけが、こちらを真っ直ぐ見ている。
「……三ヶ月終わったあとも、死んだふりしてるつもりなら、そっちはそっちで考えとけ」
意味を測る。
「帝都が何を言おうが、ここで役に立つ駒なら、簡単には手放さん」
ほとんど独り言のような言い方だった。
「はい」
シュアラは短く答え、扉を閉めた。
◆
廊下に出ると、夜気が肌を刺した。石壁から伝わる冷たさと、階下からかすかに聞こえる酔いどれの笑い声。そのちぐはぐな響きが、この砦の現状をよく表していると、シュアラは判断する。
自室に戻るまでの間、誰ともすれ違わなかった。兵たちはそれぞれの寝台で眠るか、酒場代わりの一角で杯を傾けているのだろう。
薄い扉を開け、狭い部屋に入る。寝台。机。椅子。壁に打ち付けられた小さな棚。どれもこれも、どこか別の場所で使われていた頃の釘穴や傷が残っている。
机に帳簿の束を置き、その上に自分の小さな手帳を広げる。椅子に腰を下ろした瞬間、足の筋肉が抗議するように震えた。今日一日、思っていた以上に砦の中を歩き回っていたらしい。
最初のページには、すでに書き込まれている。
『ヴァルム砦 現状:防衛機能ほぼゼロ/再構成余地大』
その下に、父の筆跡を真似た細い字で、『第0ゲーム:試験国家ヴァルム』と記されている。
その行の余白に、新しい文字を足した。
『──三ヶ月契約ゲーム』
インクの光が消えていくのを待ちながら、さらに下へペン先を滑らせる。
『期間:今夜から三ヶ月』
『条件1:砦+三村の財政権限の一部を預かること』
『条件2:期間中、正当な理由なく解任されないこと』
『条件3:兵・村人を「切り捨て可能な数字」として扱わないこと』
『目標:冬の終わりまでの死亡率を五〇%以下に抑制』
最後の行だけ、ペン先が一瞬だけ迷った。七十という数字を書き消したい衝動が、確かにあった。だが、それは現実の否定でしかない。
(ここから始めるしかありません)
自分自身に向けて、そう書いているようなものだと、シュアラは認識する。
ちょうどそのとき、腹の奥で小さく音が鳴った。空っぽの胃袋が、ようやく自分の存在を主張し始める。
「……そういえば、夕食をまだでしたね」
誰もいない部屋で呟き、すぐに苦笑して口を閉じる。喉の奥が乾いたままなのを忘れていて、声が予想以上に掠れていた。
ペン先で、ページの隅に小さく印をつける。
『第0ゲーム開始』
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