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第二章 マリーハイツ公約編
第三十四話 出航の朝
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馬車の車輪が、砦の石畳の上で低くきしんだ。
まだ空は青とも黒ともつかない色だ。砦の塔の上には、夜の名残りの星が二つ三つ、かろうじて張り付いている。吐く息は白いが、真冬ほど鋭くはない。雪が溶けて露わになった石畳には、薄く泥水が光っていた。
「荷はこれで全部か?」
馬の首筋を撫でながら、ゲルトが短く問いかけた。
門前には、二台の馬車と、その周りを取り巻くようにして兵と零札たちが集まっている。その少し外側には、見送りに来た村の代表たちも肩を並べていた。干し肉と干し魚の樽、穀物袋、予備の武具。零札棟から出てきた男たちは、肩から薄い外套を引き寄せながら、積み込みを手伝っている。
砦の猫が一匹、場違いなほどのんびりと、その様子を眺めていた。
冬のあいだ勝手に砦に居着いた、灰色縞のやせた猫だ。今は荷車の脇の木箱に前足を揃えて座り、尾だけをゆっくりと揺らしている。
「団長、積み込み終わりました」
兵の一人が、荷台から顔を出して報告した。
カイが「分かった」と短く答える。
その声を合図にしたように、零札たちがざわめいた。
彼らの首には、冬のあいだ砦で配られていた木札が、相変わらずぶら下がっている。零札――帝都の帳簿上では一度死んだことにされ、ここで働かされている者たちだ。
「本当に、海に行くんだな」
「冗談だと思ってたんですか」
誰かの呟きに、別の誰かが笑い混じりに返す。
「だってよ、冬のあいだずっと『どうせ役人の机の上でひっくり返る話だ』って、皆で言ってたじゃないですか」
「そう言ってないとやってられなかったんだよ」
そんなやりとりを聞きながら、シュアラは布で顔を覆ったまま、静かに馬車のそばに立っていた。
布は、砦の倉から見繕ってきた薄手の麻布だ。顔の下半分を隠すように巻き、頭の後ろで結んでいる。帝都から来た官吏の顔をそのまま晒すには、あまりにも目立ちすぎるからだ。
「息苦しくないか」
隣に立ったカイが、小声で尋ねた。
「多少は」
シュアラは正直に答える。
「ですが、この程度でごまかせるのなら」
「役に立つって言い方やめろ」
カイは苦笑した。
「俺が嫌なだけだ。お前が苦しそうにしてるの見るのが」
「では、なるべく苦しそうに見えないようにします」
「そういう問題でもねえんだがな」
そんな会話をしていると、ゲルトがこちらに歩いてきた。
「若」
彼はカイを呼び止め、ちらりと零札たちの方を見る。
「こいつら、全員、自分で『行く』と言ったんだな」
「ああ」
カイは頷いた。
「無理やり連れてくつもりはねえ。行きたくないなら、ここに残って雪かきでもしてろって言った。でも――」
彼は零札たちの列を見渡す。
「誰も、残るって言わなかった」
零札の中の一人が、シュアラと目を合わせた。
冬のあいだ、倉の帳簿の付け方を教えた男だ。彼は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからすぐに目を逸らした。
「聞いたよ」
ゲルトはうなずき、零札たちを一人ひとり見回した。
「お前ら。団長たちの顔を立てに行くつもりなら、まず自分の足をちゃんと残して帰ってこい。いいな」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていない。
零札の一人が、乾いた喉で「了解しました」と答えた。
「……よし。言うことは言った」
ゲルトはカイの方へ向き直る。
「若。こっちは任せろ」
「ああ。こっちもなるべく、殴られないようにしてくる」
「殴られたくないなら、全員連れて帰ってこい」
荷の紐を締めていたフィンが、ひゅっと口笛を鳴らした。
「無茶言いますね、団長。帰りの分の酒、帳簿に載ってなくても請求しますよ」
ゲルトは、フィンの軽口を聞き流すようにして、わざとらしく咳払いをした。
「それから――」
彼は、シュアラの方をちらりと見やった。
「死人文官様。帳簿に書けない分まで、ちゃんと見てこい。海の数字と、人間の顔をよ」
「承知しました」
布の下で、シュアラの目がほんの少しだけ細くなる。
「では、行きましょうか」
カイが馬車の荷台に足をかけた。
「先に乗れ」
「いえ、団長が先に」
「いいから」
軽く押される形で、シュアラは馬車の後ろから上がる。荷の隙間に腰を下ろし、布で覆った顔を少しだけ外に向けた。砦の猫がこちらを一瞥し、あくびをひとつしてから、門の上の方へと歩き出す。
「帰ってきたら飯やるからな」
ボルグの野太い声に、猫は答えの代わりに尻尾を一度だけ振った。
門が開く。
石と鉄のこすれる音が、まだ柔らかい朝の空気を切り裂いた。
馬車が動き出す。
車輪が泥と石の境目を渡るたび、車体が大きく揺れる。そのたびに、荷の間で干し肉と穀物袋がかすかにきしむ。零札たちの笑いとも溜息ともつかない声が漏れた。
砦から港までは、馬で半刻ほどの道のりだった。
雪の名残がまだらに残る丘を下り、やがて潮風が鼻を刺し始める。冷たいはずなのに、砦の風とは違う湿り気を含んだ匂いだ。
「……塩の匂い」
シュアラは布の下で、小さく呟いた。
「海を見るのは初めてか?」
カイが尋ねる。
「ええ。帝都は内陸ですし、わたしの部署は海とは縁がありませんでしたから」
「そうか」
カイは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、初任地が海ってわけだな。死人文官の」
「縁起でもない言い方をしないでください」
そう言いつつも、シュアラは自分の胸の内に、わずかな高鳴りがあるのを自覚していた。
帝都の帳簿には、海の匂いは載っていない。
用紙の汚れや、インクのにじみから想像することはできても、本物は違う。
(数字の裏側にある現物を、ようやく見に行ける)
そう思うと、布の下で自然と息が深くなる。
御者台では、砦の馬を預かっている年配の男が手綱を操っていた。
もともと近くの村で馬車を走らせていた男だ。今回は荷馬車を借りる代わりに、港までの道案内も引き受けてくれたらしい。
「嬢ちゃんは、どこの出だ」
振り返らずに、御者が言った。
「帝都から来ました」
シュアラが答える。
「何しに」
「帳簿をつけに、です」
「……変わった嬢ちゃんだな」
御者は鼻を鳴らした。
「顔、隠してるのも、その仕事の一環かい」
「そういうことにしておいていただけると助かります」
「ふうん」
御者は興味なさそうに相槌を打ったが、その口元には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「団長さんの方は、見慣れた顔だがな」
「俺はただの荷物持ちだ」
カイが肩をすくめる。
「行った先で怒鳴られねえように、頭を下げに行くだけさ」
「怒鳴られに行く団長なんて、世の中そう多くねえよ」
御者はそう言って、馬の首を軽く叩いた。
「まあ、嬢ちゃんも団長さんも、無事に帰ってきな。あんたらが帰ってきた方が、この辺りの飯はうまくなる」
「飯……ですか」
「冬のあいだ、腹いっぱい食えたの、ここ十年で初めてだ」
御者の声が、少しだけ真面目になる。
「あんたらが砦で倉をひっくり返してくれなきゃ、何人かは餓死してたろうさ」
「それは、砦の判断で」
「その砦を動かしたのは誰だって話よ」
御者はそう言って、ちらりとカイを振り返った。
「村の年寄りどもが、まるで若い頃に戻ったみてえに喋ってたぞ。『あの若は、昔の戦で死んだ誰それに似てる』だの、『いや、もっとタチが悪い』だのってな」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
「褒めてるに決まってるだろ」
御者は短く笑った。
「腹がふくれりゃ、人間、機嫌もよくなる。そういう当たり前のことを、帳簿と倉の鍵でやってくれたんだ。あんたらは」
シュアラは、布の下で瞬きをした。
(帳簿と倉の鍵)
それは、彼女が帝都で扱っていたものと同じ言葉だ。
だが、意味はまるで違う。帝都では人間を削るための道具だったものが、ここでは人間を生かすための道具になっている。
「……恐縮です」
彼女は小さく頭を下げた。
「わたしたちは、ただ自分たちの仕事をしているだけです」
「そういう仕事が、こっちには足りてなかったんだよ」
御者はそう言って、前を向き直る。
「だから、生きて帰ってこい。嬢ちゃんも、団長さんも。あんたらが帰ってこねえと、砦の飯がまたまずくなる」
「海から帰ってきたときには、もっといいの食わせてやるからさ」
「ありがとうございます」
ちょうどその頃、湯気の立つ包みが荷台に回ってきた。村からの差し入れだろう。
シュアラはそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
布で顔を隠しているせいで、熱い湯気が頬にこもる。じゃがいもを一口かじると、芯の部分にまだ少しだけ固さが残っていた。だが、その素朴な甘みは、砦の「何でも煮込み」とはまた違う温かさを持っている。
「団長、これ、うまいっすね」
干し肉を齧りながら、フィンが感心したように言った。
「こんなまともな飯食ったあとに戦に出たら、胃袋が帰りたがりますよ」
「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」
シュアラが、さらりと返す。
「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削っていきます」
「勘弁してくれ」
カイが苦笑し、零札たちから小さな笑い声が漏れた。
その笑いには、まだ少し緊張が混じっている。見知らぬ海に向かうという事実が、彼らの背中を強ばらせているのだ。
(この人たちを、誰一人欠けさせずに連れ帰る)
シュアラは、布の下で小さく息を吸った。
帝都の帳簿に載らないなら、自分で書くしかない。
馬車が丘を下りきる頃、潮の匂いは一気に濃くなった。
小さな入江に造られた港は、すでに賑やかだった。
雪解け水を集めた川が海へと注ぎ込む手前、岩場を削って作られた簡素な桟橋が数本。そこに、荷船が二隻と、小型の漁船が十隻ほど。朝の薄い光が、水面で割れてきらきらと揺れている。
「団長ーっ!」
声が飛んだ。
村の子どもたちが、土の道を駆け下りてくる。昨日まで泥遊びをしていた顔だ。手を振りながら、馬車を追いかけてくる。
「港まで走るな、こけるぞ!」
砦の若い兵が、子どもたちの背中に向かって声を張り上げる。それでも足取りはほとんど緩まない。
「だって、海、初めてなんだもん!」
「魚、写真じゃなくて実物で見せてくださいって言ったじゃないですか、団長!」
一番前を走っていた少年が、馬車の荷台にいるカイの方へ向かって叫んだ。カイは思わず肩をすくめる。
「写真なんて高級なもん、こっちにはねえよ」
「じゃあ、本物を!」
「分かった分かった。帰りに、できるだけでっけえの持って帰る」
そう答えると、子どもたちの歓声が一斉に上がった。
桟橋のそばでは、村の代表たちが荷積みを手伝っていた。
冬のあいだ、カイとゲルトと一緒に倉の算段をしていた顔ぶれだ。頬に刻まれた皺は深いが、その目には冬を越えた者たちの強さがある。積み込みが終われば、彼らはまた陸に戻り、村と砦を守る番だ。
「本当に、いいのかい、若」
村長の一人が、カイに声をかけた。
「うちの零札になった息子まで連れて行っても」
「いいとも」
カイははっきりと言った。
「行きたい奴だけだ。行きたくない奴を無理に乗せても、海の上じゃ足手まといになる」
零札たちの方へも、同じ目を向ける。
「ここで留守番していた方がいいと思う奴は、今なら引き返してもいい。誰も責めねえ」
しばしの沈黙。
だが、誰一人動かなかった。
その様子を見ていたボルグが、鼻を鳴らした。
「聞いたか、若」
「聞いた」
カイはうなずく。
「じゃあ、行こうか」
船は、砦からの荷を積み終えていた。
冬のあいだはほとんど動いていなかった小型の貨物船だ。塗料はところどころ剥げているが、船体そのものはまだしっかりしている。
甲板に上がるための板が、桟橋から渡される。
零札たちが順番に乗り込んでいく。足元を確かめるように一歩ずつ。誰も、冗談を言わない。さっきまで子どもたちと一緒に笑っていた男でさえ、今は真面目な顔で板のきしみを聞いている。
「死人文官様」
ボルグが、シュアラの方を振り向いた。
「先にどうぞ」
「いえ、最後で構いません」
シュアラは首を振る。
「わたしは、人員の管理をしますので」
「人員、ねえ」
ボルグは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
シュアラは、桟橋の上から、船と港を一度見渡した。
雪解け水を運んでくる川。
その両岸に張り付くように建つ、石と木の家々。
まだ寒さの残る空気の中で、朝の光だけが少しずつ強さを増している。
(ここから、帝国の海に接続される。この砦からマリーハイツまでは、一度海に出てしまうのが昔からの決まりらしい)
帝都の地図でしか見てこなかった線が、今は目の前にある。
ガタリ、と板が鳴った。
「死人文官様」
カイの声がした。
「行くぞ」
「はい」
シュアラは、青い帳面を胸に抱え直し、船へと足を踏み出した。
甲板に上がった瞬間、足の裏に伝わる感覚が変わる。
固い石ではなく、わずかにたわむ木の感触。波の動きに合わせて、船全体がかすかに揺れている。
「船酔いしそうか?」
隣でカイが尋ねる。
「今のところは、まだ何とも」
「そうか」
カイは前を向いたまま、片手で手すりを叩いた。
「嫌になったら、すぐ言えよ。無理して吐かれると、後片付けするのはだいたい俺だ」
「経験者の言葉ですね」
「若い頃にな」
カイは苦笑する。
「よく分かった。『慣れれば平気だ』って言葉ほど当てにならねえもんはない」
「肝に銘じておきます」
シュアラは、青い帳面を開いた。
昨夜、「ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家」と題をつけ、「零札損耗率ゼロ」と書き込んだ同じ帳面だ。
その次のページを開き、上部に新しい行を書く。
『航路記録第1便/出発地:ヴァルム小港/目的地:マリーハイツ港』
ペン先が、船の揺れに合わせてわずかに震える。
『乗船予定:第七騎士団兵×○名/零札補助人員×○名/死人文官×1名』
最後の「死人文官」のところで、一瞬だけペンが止まった。
(死人、ですか)
自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の底で小さく渦を巻く。
だが、それもすぐに押し込めた。今は、この船の上にいる人間たちの数字が、何よりも優先される。
桟橋の方では、ボルグが最後の荷を確認していた。
砦から来た兵たちも、それぞれの持ち場に散っていく。フィンはマストの根元に立ち、港と海の境をじっと見ている。
砦の猫が、いつの間にか船に乗り込んでいた。
誰が連れてきたのか分からない。気付けば、甲板のロープの束の上で丸くなっている。人々の足元をするりと抜けて、桟橋へ伸びる太い係船ロープの方へ歩いていく。
「おい、猫」
フィンが呼び止めるが、猫はそ知らぬ顔だ。
ロープに前足を伸ばし、爪を立てて遊び始める。こんなところで綱を傷められてはかなわないと、ボルグが慌てて抱き上げようとした。その瞬間――猫は身をひるがえし、ひょいと桟橋の方へ飛び降りた。
軽い着地の音。
猫は何事もなかったかのように尻尾を立て、港の石段の方へ歩いていく。
「……海には乗らねえって顔だな、あいつ」
カイが、感心とも呆れともつかない声で言った。
「沈みたくないなら、最初から海になど乗らない。猫の方が、理にかなっています」
シュアラは、無意識にそう答えていた。
(人間は、それでも船を見れば乗ってしまう)
そんな思いを、布の下でそっと飲み込む。
「乗員、全員乗船!」
甲板の上で、誰かが声を張り上げた。
砦から来た兵たちと零札たち。全員がそれぞれの持ち場に立つ。
シュアラは、手すりのそばに位置を取った。海を見渡せる場所であり、同時に、船全体の動きを把握しやすい位置だ。
港の方では、子どもたちがまだ手を振り続けている。
「団長ー! 魚、忘れないでねー!」
「海の話、いっぱい聞かせてくださいー!」
その声の洪水の向こうで、ゲルトが腕を組んで立っていた。
彼は何も言わない。ただ、短く顎をしゃくり上げる。
カイがそれに応えるように片手を上げた。
「錨、上げろ!」
船長の声が飛ぶ。
係船ロープが外され、錨が引き上げられる音が、船底から鈍く響いてきた。
ゆっくりと、船が動き出す。
足元の木の板が、かすかに鳴る。
港の景色が、少しずつ後ろへ滑っていく。雪解け水の流れが白い筋になり、その先で灰色の海と混じり合っていく。
「怖いか?」
カイが、小さな声で尋ねた。
「……少しだけ」
シュアラは正直に答える。
「ですが、それ以上に――」
彼女は帳面を開き、空いている行に新しい文字を書き込んだ。
『出航時刻:○月○日/出航時零札損耗数:0名』
「それ以上に、この数字を守れるかどうかの方が、よほど怖いです」
カイが、その帳面を覗き込む。
「ゼロから先を書き足さないように、ってことか」
「はい」
シュアラはうなずいた。
「ここに『1』と書くことになった瞬間、わたしは、自分の仕事を失敗したと認めることになります」
「厳しいな」
「死人文官ですから」
シュアラは、布の下で口元を引き結んだ。
「一度死んだことにされた人たちを、二度目はちゃんと生かして返す。それが、わたしが勝手に決めた今回の仕事です」
「勝手に決めた、ねえ」
カイは小さく笑った。
「そういう勝手なら、いくらでも歓迎する」
「団長も、勝手な人でしょう」
「お互い様だ」
カイは肩をすくめる。
「怖いのは同じだよ。海も、帝国も。だけど――」
彼は、港が遠ざかっていくのを見つめながら続けた。
「怖えからって、何もしないでいるのが一番たちが悪い。俺たちが行かなきゃ、誰か別の奴らが行って、その分だけ無駄に死ぬ」
「……そうかもしれません」
「だから、せめて今回くらいは、ゼロで帰ろうぜ」
カイは、帳面の「零札損耗数:0名」の文字を指先で軽く叩いた。
「お前のゼロと、俺のゼロ、合わせてな」
「了解しました」
シュアラは、布の下でわずかに微笑んだ。
「その約束は、帳簿にも記しておきます」
「やめろ。後で帝都の誰かに読まれたら、くすぐったくて仕方ねえ」
「では、わたしの私物の帳面にだけ、こっそりと」
「それならまあ……」
カイは言葉を濁し、海の方を見た。
港が、さらに小さくなる。
やがて、雪解けの川が流れ込むラインも見えなくなり、代わりに、果てのない灰色の海と空が広がった。
風が頬を打つ。
塩の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。
まだ空は青とも黒ともつかない色だ。砦の塔の上には、夜の名残りの星が二つ三つ、かろうじて張り付いている。吐く息は白いが、真冬ほど鋭くはない。雪が溶けて露わになった石畳には、薄く泥水が光っていた。
「荷はこれで全部か?」
馬の首筋を撫でながら、ゲルトが短く問いかけた。
門前には、二台の馬車と、その周りを取り巻くようにして兵と零札たちが集まっている。その少し外側には、見送りに来た村の代表たちも肩を並べていた。干し肉と干し魚の樽、穀物袋、予備の武具。零札棟から出てきた男たちは、肩から薄い外套を引き寄せながら、積み込みを手伝っている。
砦の猫が一匹、場違いなほどのんびりと、その様子を眺めていた。
冬のあいだ勝手に砦に居着いた、灰色縞のやせた猫だ。今は荷車の脇の木箱に前足を揃えて座り、尾だけをゆっくりと揺らしている。
「団長、積み込み終わりました」
兵の一人が、荷台から顔を出して報告した。
カイが「分かった」と短く答える。
その声を合図にしたように、零札たちがざわめいた。
彼らの首には、冬のあいだ砦で配られていた木札が、相変わらずぶら下がっている。零札――帝都の帳簿上では一度死んだことにされ、ここで働かされている者たちだ。
「本当に、海に行くんだな」
「冗談だと思ってたんですか」
誰かの呟きに、別の誰かが笑い混じりに返す。
「だってよ、冬のあいだずっと『どうせ役人の机の上でひっくり返る話だ』って、皆で言ってたじゃないですか」
「そう言ってないとやってられなかったんだよ」
そんなやりとりを聞きながら、シュアラは布で顔を覆ったまま、静かに馬車のそばに立っていた。
布は、砦の倉から見繕ってきた薄手の麻布だ。顔の下半分を隠すように巻き、頭の後ろで結んでいる。帝都から来た官吏の顔をそのまま晒すには、あまりにも目立ちすぎるからだ。
「息苦しくないか」
隣に立ったカイが、小声で尋ねた。
「多少は」
シュアラは正直に答える。
「ですが、この程度でごまかせるのなら」
「役に立つって言い方やめろ」
カイは苦笑した。
「俺が嫌なだけだ。お前が苦しそうにしてるの見るのが」
「では、なるべく苦しそうに見えないようにします」
「そういう問題でもねえんだがな」
そんな会話をしていると、ゲルトがこちらに歩いてきた。
「若」
彼はカイを呼び止め、ちらりと零札たちの方を見る。
「こいつら、全員、自分で『行く』と言ったんだな」
「ああ」
カイは頷いた。
「無理やり連れてくつもりはねえ。行きたくないなら、ここに残って雪かきでもしてろって言った。でも――」
彼は零札たちの列を見渡す。
「誰も、残るって言わなかった」
零札の中の一人が、シュアラと目を合わせた。
冬のあいだ、倉の帳簿の付け方を教えた男だ。彼は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからすぐに目を逸らした。
「聞いたよ」
ゲルトはうなずき、零札たちを一人ひとり見回した。
「お前ら。団長たちの顔を立てに行くつもりなら、まず自分の足をちゃんと残して帰ってこい。いいな」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていない。
零札の一人が、乾いた喉で「了解しました」と答えた。
「……よし。言うことは言った」
ゲルトはカイの方へ向き直る。
「若。こっちは任せろ」
「ああ。こっちもなるべく、殴られないようにしてくる」
「殴られたくないなら、全員連れて帰ってこい」
荷の紐を締めていたフィンが、ひゅっと口笛を鳴らした。
「無茶言いますね、団長。帰りの分の酒、帳簿に載ってなくても請求しますよ」
ゲルトは、フィンの軽口を聞き流すようにして、わざとらしく咳払いをした。
「それから――」
彼は、シュアラの方をちらりと見やった。
「死人文官様。帳簿に書けない分まで、ちゃんと見てこい。海の数字と、人間の顔をよ」
「承知しました」
布の下で、シュアラの目がほんの少しだけ細くなる。
「では、行きましょうか」
カイが馬車の荷台に足をかけた。
「先に乗れ」
「いえ、団長が先に」
「いいから」
軽く押される形で、シュアラは馬車の後ろから上がる。荷の隙間に腰を下ろし、布で覆った顔を少しだけ外に向けた。砦の猫がこちらを一瞥し、あくびをひとつしてから、門の上の方へと歩き出す。
「帰ってきたら飯やるからな」
ボルグの野太い声に、猫は答えの代わりに尻尾を一度だけ振った。
門が開く。
石と鉄のこすれる音が、まだ柔らかい朝の空気を切り裂いた。
馬車が動き出す。
車輪が泥と石の境目を渡るたび、車体が大きく揺れる。そのたびに、荷の間で干し肉と穀物袋がかすかにきしむ。零札たちの笑いとも溜息ともつかない声が漏れた。
砦から港までは、馬で半刻ほどの道のりだった。
雪の名残がまだらに残る丘を下り、やがて潮風が鼻を刺し始める。冷たいはずなのに、砦の風とは違う湿り気を含んだ匂いだ。
「……塩の匂い」
シュアラは布の下で、小さく呟いた。
「海を見るのは初めてか?」
カイが尋ねる。
「ええ。帝都は内陸ですし、わたしの部署は海とは縁がありませんでしたから」
「そうか」
カイは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、初任地が海ってわけだな。死人文官の」
「縁起でもない言い方をしないでください」
そう言いつつも、シュアラは自分の胸の内に、わずかな高鳴りがあるのを自覚していた。
帝都の帳簿には、海の匂いは載っていない。
用紙の汚れや、インクのにじみから想像することはできても、本物は違う。
(数字の裏側にある現物を、ようやく見に行ける)
そう思うと、布の下で自然と息が深くなる。
御者台では、砦の馬を預かっている年配の男が手綱を操っていた。
もともと近くの村で馬車を走らせていた男だ。今回は荷馬車を借りる代わりに、港までの道案内も引き受けてくれたらしい。
「嬢ちゃんは、どこの出だ」
振り返らずに、御者が言った。
「帝都から来ました」
シュアラが答える。
「何しに」
「帳簿をつけに、です」
「……変わった嬢ちゃんだな」
御者は鼻を鳴らした。
「顔、隠してるのも、その仕事の一環かい」
「そういうことにしておいていただけると助かります」
「ふうん」
御者は興味なさそうに相槌を打ったが、その口元には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「団長さんの方は、見慣れた顔だがな」
「俺はただの荷物持ちだ」
カイが肩をすくめる。
「行った先で怒鳴られねえように、頭を下げに行くだけさ」
「怒鳴られに行く団長なんて、世の中そう多くねえよ」
御者はそう言って、馬の首を軽く叩いた。
「まあ、嬢ちゃんも団長さんも、無事に帰ってきな。あんたらが帰ってきた方が、この辺りの飯はうまくなる」
「飯……ですか」
「冬のあいだ、腹いっぱい食えたの、ここ十年で初めてだ」
御者の声が、少しだけ真面目になる。
「あんたらが砦で倉をひっくり返してくれなきゃ、何人かは餓死してたろうさ」
「それは、砦の判断で」
「その砦を動かしたのは誰だって話よ」
御者はそう言って、ちらりとカイを振り返った。
「村の年寄りどもが、まるで若い頃に戻ったみてえに喋ってたぞ。『あの若は、昔の戦で死んだ誰それに似てる』だの、『いや、もっとタチが悪い』だのってな」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
「褒めてるに決まってるだろ」
御者は短く笑った。
「腹がふくれりゃ、人間、機嫌もよくなる。そういう当たり前のことを、帳簿と倉の鍵でやってくれたんだ。あんたらは」
シュアラは、布の下で瞬きをした。
(帳簿と倉の鍵)
それは、彼女が帝都で扱っていたものと同じ言葉だ。
だが、意味はまるで違う。帝都では人間を削るための道具だったものが、ここでは人間を生かすための道具になっている。
「……恐縮です」
彼女は小さく頭を下げた。
「わたしたちは、ただ自分たちの仕事をしているだけです」
「そういう仕事が、こっちには足りてなかったんだよ」
御者はそう言って、前を向き直る。
「だから、生きて帰ってこい。嬢ちゃんも、団長さんも。あんたらが帰ってこねえと、砦の飯がまたまずくなる」
「海から帰ってきたときには、もっといいの食わせてやるからさ」
「ありがとうございます」
ちょうどその頃、湯気の立つ包みが荷台に回ってきた。村からの差し入れだろう。
シュアラはそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
布で顔を隠しているせいで、熱い湯気が頬にこもる。じゃがいもを一口かじると、芯の部分にまだ少しだけ固さが残っていた。だが、その素朴な甘みは、砦の「何でも煮込み」とはまた違う温かさを持っている。
「団長、これ、うまいっすね」
干し肉を齧りながら、フィンが感心したように言った。
「こんなまともな飯食ったあとに戦に出たら、胃袋が帰りたがりますよ」
「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」
シュアラが、さらりと返す。
「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削っていきます」
「勘弁してくれ」
カイが苦笑し、零札たちから小さな笑い声が漏れた。
その笑いには、まだ少し緊張が混じっている。見知らぬ海に向かうという事実が、彼らの背中を強ばらせているのだ。
(この人たちを、誰一人欠けさせずに連れ帰る)
シュアラは、布の下で小さく息を吸った。
帝都の帳簿に載らないなら、自分で書くしかない。
馬車が丘を下りきる頃、潮の匂いは一気に濃くなった。
小さな入江に造られた港は、すでに賑やかだった。
雪解け水を集めた川が海へと注ぎ込む手前、岩場を削って作られた簡素な桟橋が数本。そこに、荷船が二隻と、小型の漁船が十隻ほど。朝の薄い光が、水面で割れてきらきらと揺れている。
「団長ーっ!」
声が飛んだ。
村の子どもたちが、土の道を駆け下りてくる。昨日まで泥遊びをしていた顔だ。手を振りながら、馬車を追いかけてくる。
「港まで走るな、こけるぞ!」
砦の若い兵が、子どもたちの背中に向かって声を張り上げる。それでも足取りはほとんど緩まない。
「だって、海、初めてなんだもん!」
「魚、写真じゃなくて実物で見せてくださいって言ったじゃないですか、団長!」
一番前を走っていた少年が、馬車の荷台にいるカイの方へ向かって叫んだ。カイは思わず肩をすくめる。
「写真なんて高級なもん、こっちにはねえよ」
「じゃあ、本物を!」
「分かった分かった。帰りに、できるだけでっけえの持って帰る」
そう答えると、子どもたちの歓声が一斉に上がった。
桟橋のそばでは、村の代表たちが荷積みを手伝っていた。
冬のあいだ、カイとゲルトと一緒に倉の算段をしていた顔ぶれだ。頬に刻まれた皺は深いが、その目には冬を越えた者たちの強さがある。積み込みが終われば、彼らはまた陸に戻り、村と砦を守る番だ。
「本当に、いいのかい、若」
村長の一人が、カイに声をかけた。
「うちの零札になった息子まで連れて行っても」
「いいとも」
カイははっきりと言った。
「行きたい奴だけだ。行きたくない奴を無理に乗せても、海の上じゃ足手まといになる」
零札たちの方へも、同じ目を向ける。
「ここで留守番していた方がいいと思う奴は、今なら引き返してもいい。誰も責めねえ」
しばしの沈黙。
だが、誰一人動かなかった。
その様子を見ていたボルグが、鼻を鳴らした。
「聞いたか、若」
「聞いた」
カイはうなずく。
「じゃあ、行こうか」
船は、砦からの荷を積み終えていた。
冬のあいだはほとんど動いていなかった小型の貨物船だ。塗料はところどころ剥げているが、船体そのものはまだしっかりしている。
甲板に上がるための板が、桟橋から渡される。
零札たちが順番に乗り込んでいく。足元を確かめるように一歩ずつ。誰も、冗談を言わない。さっきまで子どもたちと一緒に笑っていた男でさえ、今は真面目な顔で板のきしみを聞いている。
「死人文官様」
ボルグが、シュアラの方を振り向いた。
「先にどうぞ」
「いえ、最後で構いません」
シュアラは首を振る。
「わたしは、人員の管理をしますので」
「人員、ねえ」
ボルグは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
シュアラは、桟橋の上から、船と港を一度見渡した。
雪解け水を運んでくる川。
その両岸に張り付くように建つ、石と木の家々。
まだ寒さの残る空気の中で、朝の光だけが少しずつ強さを増している。
(ここから、帝国の海に接続される。この砦からマリーハイツまでは、一度海に出てしまうのが昔からの決まりらしい)
帝都の地図でしか見てこなかった線が、今は目の前にある。
ガタリ、と板が鳴った。
「死人文官様」
カイの声がした。
「行くぞ」
「はい」
シュアラは、青い帳面を胸に抱え直し、船へと足を踏み出した。
甲板に上がった瞬間、足の裏に伝わる感覚が変わる。
固い石ではなく、わずかにたわむ木の感触。波の動きに合わせて、船全体がかすかに揺れている。
「船酔いしそうか?」
隣でカイが尋ねる。
「今のところは、まだ何とも」
「そうか」
カイは前を向いたまま、片手で手すりを叩いた。
「嫌になったら、すぐ言えよ。無理して吐かれると、後片付けするのはだいたい俺だ」
「経験者の言葉ですね」
「若い頃にな」
カイは苦笑する。
「よく分かった。『慣れれば平気だ』って言葉ほど当てにならねえもんはない」
「肝に銘じておきます」
シュアラは、青い帳面を開いた。
昨夜、「ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家」と題をつけ、「零札損耗率ゼロ」と書き込んだ同じ帳面だ。
その次のページを開き、上部に新しい行を書く。
『航路記録第1便/出発地:ヴァルム小港/目的地:マリーハイツ港』
ペン先が、船の揺れに合わせてわずかに震える。
『乗船予定:第七騎士団兵×○名/零札補助人員×○名/死人文官×1名』
最後の「死人文官」のところで、一瞬だけペンが止まった。
(死人、ですか)
自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の底で小さく渦を巻く。
だが、それもすぐに押し込めた。今は、この船の上にいる人間たちの数字が、何よりも優先される。
桟橋の方では、ボルグが最後の荷を確認していた。
砦から来た兵たちも、それぞれの持ち場に散っていく。フィンはマストの根元に立ち、港と海の境をじっと見ている。
砦の猫が、いつの間にか船に乗り込んでいた。
誰が連れてきたのか分からない。気付けば、甲板のロープの束の上で丸くなっている。人々の足元をするりと抜けて、桟橋へ伸びる太い係船ロープの方へ歩いていく。
「おい、猫」
フィンが呼び止めるが、猫はそ知らぬ顔だ。
ロープに前足を伸ばし、爪を立てて遊び始める。こんなところで綱を傷められてはかなわないと、ボルグが慌てて抱き上げようとした。その瞬間――猫は身をひるがえし、ひょいと桟橋の方へ飛び降りた。
軽い着地の音。
猫は何事もなかったかのように尻尾を立て、港の石段の方へ歩いていく。
「……海には乗らねえって顔だな、あいつ」
カイが、感心とも呆れともつかない声で言った。
「沈みたくないなら、最初から海になど乗らない。猫の方が、理にかなっています」
シュアラは、無意識にそう答えていた。
(人間は、それでも船を見れば乗ってしまう)
そんな思いを、布の下でそっと飲み込む。
「乗員、全員乗船!」
甲板の上で、誰かが声を張り上げた。
砦から来た兵たちと零札たち。全員がそれぞれの持ち場に立つ。
シュアラは、手すりのそばに位置を取った。海を見渡せる場所であり、同時に、船全体の動きを把握しやすい位置だ。
港の方では、子どもたちがまだ手を振り続けている。
「団長ー! 魚、忘れないでねー!」
「海の話、いっぱい聞かせてくださいー!」
その声の洪水の向こうで、ゲルトが腕を組んで立っていた。
彼は何も言わない。ただ、短く顎をしゃくり上げる。
カイがそれに応えるように片手を上げた。
「錨、上げろ!」
船長の声が飛ぶ。
係船ロープが外され、錨が引き上げられる音が、船底から鈍く響いてきた。
ゆっくりと、船が動き出す。
足元の木の板が、かすかに鳴る。
港の景色が、少しずつ後ろへ滑っていく。雪解け水の流れが白い筋になり、その先で灰色の海と混じり合っていく。
「怖いか?」
カイが、小さな声で尋ねた。
「……少しだけ」
シュアラは正直に答える。
「ですが、それ以上に――」
彼女は帳面を開き、空いている行に新しい文字を書き込んだ。
『出航時刻:○月○日/出航時零札損耗数:0名』
「それ以上に、この数字を守れるかどうかの方が、よほど怖いです」
カイが、その帳面を覗き込む。
「ゼロから先を書き足さないように、ってことか」
「はい」
シュアラはうなずいた。
「ここに『1』と書くことになった瞬間、わたしは、自分の仕事を失敗したと認めることになります」
「厳しいな」
「死人文官ですから」
シュアラは、布の下で口元を引き結んだ。
「一度死んだことにされた人たちを、二度目はちゃんと生かして返す。それが、わたしが勝手に決めた今回の仕事です」
「勝手に決めた、ねえ」
カイは小さく笑った。
「そういう勝手なら、いくらでも歓迎する」
「団長も、勝手な人でしょう」
「お互い様だ」
カイは肩をすくめる。
「怖いのは同じだよ。海も、帝国も。だけど――」
彼は、港が遠ざかっていくのを見つめながら続けた。
「怖えからって、何もしないでいるのが一番たちが悪い。俺たちが行かなきゃ、誰か別の奴らが行って、その分だけ無駄に死ぬ」
「……そうかもしれません」
「だから、せめて今回くらいは、ゼロで帰ろうぜ」
カイは、帳面の「零札損耗数:0名」の文字を指先で軽く叩いた。
「お前のゼロと、俺のゼロ、合わせてな」
「了解しました」
シュアラは、布の下でわずかに微笑んだ。
「その約束は、帳簿にも記しておきます」
「やめろ。後で帝都の誰かに読まれたら、くすぐったくて仕方ねえ」
「では、わたしの私物の帳面にだけ、こっそりと」
「それならまあ……」
カイは言葉を濁し、海の方を見た。
港が、さらに小さくなる。
やがて、雪解けの川が流れ込むラインも見えなくなり、代わりに、果てのない灰色の海と空が広がった。
風が頬を打つ。
塩の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。
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