53 / 70
第二章 マリーハイツ公約編
第三十三話 心強さ
しおりを挟む
「軍師室に呼び出されて、机の上に飯が並んでるときは、たいていろくな話じゃないんだよな」
扉をくぐるなり、カイはそう言った。
石造りの小部屋――もとは物置だった軍師室の真ん中に、古びた机が一つ。
その上に、黒く硬化した保存パンと、塩を噴いた干し魚、そして木皿が二枚。
片方の皿にはパンがひとかけ。もう片方には、パンの残りと干し魚、それから握りこぶしほどの石が三つ、妙に整った間隔で並べられている。
カイは扉を背中で押して閉め、内側から鍵をかけた。カチャリ、と小さな金属音が、二人きりの空間を区切る。
「朝っぱらからごちそう……には見えねえな」
窓際の椅子を引き寄せて腰を下ろし、机を覗き込む。
保存パン。干し魚。二枚の皿。そして冷たく鈍い光を放つ石。
「見た目だけなら、囚人の昼食ですね」
机の向こう側で、シュアラが静かに答えた。
彼女の前にも椅子があるが、座ってはいない。背筋を伸ばし、いつでも書類を差し出せる姿勢で立っている。
「ただ、今日は味より分かりやすさが必要なので」
「分かりやすさ?」
「はい。北方海路と、帝都の腹の中の話です」
シュアラは、パンがひとかけ乗った方の皿を、カイの手元へ押しやった。
「まず、こちらがヴァルム砦」
「パン一個かよ」
「冬を越えたあと倉に残った粉を、一つに固めたと考えてください」
ひび割れたパンの端を爪で軽く叩く。コツ、と乾いた音がした。
「三つの村と砦の兵の胃袋。団長が毎朝倉の在庫表を見て、こっそり溜息をついていた分です」
「こっそり、だったはずなんだが」
「石壁はよく響きますから」
返しは淡々としているが、皮肉の温度は低い。
カイの口元がわずかにだけ緩んだ。
「で、その魚と石が乗ってる方が?」
「マリーハイツと帝都です」
シュアラは、もう一枚の皿を自分のほうに引き寄せる。
「パンと魚が、丘の上の港町マリーハイツ。海からの魚と、対岸大陸からの交易品。ヴァルムよりは、多少なりとも余裕のある食卓です」
「見た目は確かにこっちがマシだな」
「そして――」
彼女は石の一つを指先でつついた。こつ、と石同士が当たる。
「この無機質な石が帝都です。海務院。財務院。それから、彼らが『零札』という記号で呼ぶ労働力」
「零札」という言葉のところで、カイの瞳が一瞬だけ鋭く光る。
「昨日読んでいた予算書の話か」
「はい」
シュアラは懐から一枚の紙を取り出した。父――死の商人の癖のある筆跡と、海務院の整った官僚文字が、同じ紙に押し込まれている。
「『北方海路を防衛するため、零札を補助人員として投入する。今年一年で想定される損耗率は、財務上の許容範囲内』」
淡々と読み上げ、それを机の端に置いた。
「つまり、『このくらい死ぬなら許される』と、あらかじめ線が引かれているわけです」
「言い方を変えると、許容される死者、だな」
カイの声は、低いところで硬く響いた。
「帝都の帳簿の上では、マリーハイツの魚と、ヴァルムの粉と、零札の命が同じ行に並びます」
シュアラはそう言って、皿の上の石を一つつまみ上げる。
「財務官の仕事は、その行からどの項目をどれだけ削れば、最終的な数字がきれいになるか計算すること」
つまんでいた石を、皿の外――冷たい机板の上にぽとりと落とした。
「その削る対象の中に、『零札の命』が含まれている。それが昨夜の予算書でした」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「……零札棟の前を通った時にな」
カイが、ぽつりと言った。
「あいつら、くだらねえ冗談言ってたぞ。『海に捨てられる』だの、『数字上ちょうどいい減り具合』だの」
「聞きました」
シュアラは頷く。
「笑っているのに、頬の筋肉が凍りついたように動いていませんでした」
あの硬い横顔。
笑い声と、その後の沈黙の落差。
「冗談にしておかないと、自分が『数字の一桁』として扱われている事実に耐えられないのだと思います」
彼女は、一拍置いて言葉を変えた。
「そして、その桁を決めているのが、帝都の帳簿です」
「……まあ、分からんでもねえな」
カイの顎に、雪山の撤退戦の記憶がわずかに影を落とす。
何人かを切り捨てる線を、自分の手で引きかけたあの感覚。
「だからこそ、先に数字のほうを縛ります」
シュアラは机の隅から薄い青表紙の帳面を引き寄せた。
表紙には、自分の字で「ゲーム1:試験国家ヴァルム」と書かれている。
その次の白紙を開き、ペン先にインクを含ませる。
「帝都は私に、『北方海路防衛に死人文官の頭脳を貸せ』と言ってきました。ならば、こちらも対価として条件を出せます」
さらりと、一行目を書きつける。
『ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家』
インクが紙に染みていくのを待たず、次の行へ進む。
『条件:ヴァルム砦より出航する零札の損耗率=0名』
「今回の条件は一つです」
数字の「0」を、ほんの少し太くなぞる。
「この砦から海に出す零札の損耗率はゼロ。『一人も死なせない』ことを、最初にルールとして書かせます」
カイは、書かれた数字をじっと見た。
「ゼロ」
口の中で転がす。
「向こうの想定が、八十人とかだったな」
「はい。今年一年で八十名。それが、帝都の言う『許容損耗』です」
「八十対、ゼロか」
カイは、椅子の背にもたれたまま天井を一度見上げ、それから視線をシュアラに戻した。
「確認する」
「どうぞ」
「そのゼロは、お前の願望じゃねえのか。帳面に書かせるつもりの、本物の数字か」
「紙に書かせます」
即答だった。
「帝都の公的帳簿に、『この航路での許容損耗率はゼロ』と明記させます。そうすれば、現場で誰かが死んだ時、その死は『予定どおりの消費』ではなく、『重大な規則違反(エラー)』になります」
「現場の意識も変えさせる気か」
「はい」
シュアラは、帳面の余白を指先で押さえた。
「『このくらいは仕方ない』という線を、先に論理の方から潰しておきたいのです。誰かが死んだ瞬間、それはゼロからイチになる。ごまかしのきかない数字として」
「……なるほどな」
カイは机の上の皿へ視線を落とす。
パンと魚と石。
ただの残飯と河原の石ころだったものが、砦と港町と帝都、そしてそれぞれにくっついている命の重さに見えてくる。
「で、二つ目の質問だ」
「どうぞ」
「どうやって守る?」
カイの声が少し低くなる。
「海は気まぐれだ。嵐もあれば座礁もある。敵船だけじゃねえ。見えない岩も流氷もある。どうやって『一人も死なせない』なんて、神様みたいな条件を現実に落とし込むつもりだ」
「手段はいくつか組み合わせます」
シュアラは別紙を引き寄せた。細かい字で、すでに無数の条件分岐が書き込まれている。
「まず、航海の回数を極限まで減らします。本来なら三往復させたいところを、一往復か二往復に抑える」
「帝都は輸送効率が落ちるのを嫌がる」
「はい。そこで名目を変えます」
指で紙の一行を示した。
「『安全基準策定のための試験航路』という扱いに」
「試験、ね」
「損耗ゼロで往復した記録がひとつあれば、帝都はそれを『成功モデル』として利用できます」
声色は淡々としているのに、言っていることは冷たい。
「もし別の航路で大事故が起きた場合――『この基準を守っていれば防げた』と、誰かに責任を押しつける材料にもなります」
「性格の悪さ込みで計算してるのが、腹立つな」
カイは鼻で笑った。
「でも、あいつらなら本当に喜びそうだ」
「ですから、その性格の悪さごと利用します」
シュアラは、紙に並んだ項目を指で追っていく。
「針路の幅、出航の気象条件、撤退に切り替えるタイミング。全部、『ゼロを守るための条件』として書き出し、そのまま帝都に突きつけます」
「向こうは、自分たちの保身のためにもそれを飲むしかなくなる、か」
「そういう算段です」
カイはしばらく黙り込み、やがて三つ目の問いを口にした。
「じゃあ、最後」
「はい」
「それでも帝都が条件を拒んだらどうする?」
避けて通れない問いだった。
「向こうからすれば、安く死んでくれる駒の損耗率を、わざわざゼロに縛られる理由はない。死人文官一人を潰すリスクと、零札を湯水のように使える自由。どっちを取るか分からん」
「その場合は――」
シュアラは一度、視線を手元に落とした。
「ヴァレン商会と父の名で、『今の計画をやった場合にどれだけ損をするか』の損益試算書を出します」
「損?」
「はい」
ペン先が紙を叩く。
「零札を使い捨てにした場合の補充費用、反乱のリスク、砦や港が機能不全に陥ったときの再編費用。全部まとめて、『人を殺す方が高くつきます』と数字で示します」
父の悪名高い署名と、死の商人の看板。
帝都にとっては、軽く扱うと火傷する札だ。
「それでも飲まなかったら?」
「そのときは、この砦から零札を一歩も出しません」
短いが、冷えた刃物のように固い言葉だった。
「帝都が、私一人の首を飛ばした方が得だと判断するなら、その時点でゲーム2は終了です。そのあとは砦の防衛だけに頭を使います」
カイは、しばらくシュアラから目を逸らさなかった。
石壁の向こうからは、訓練場の掛け声がかすかに聞こえてくる。ここだけが別の世界のように静かだ。
「……お前さ」
ようやく呟くように言う。
「本気で、そこまでやるつもりなんだな」
「はい」
またも即答だった。
「こっちは『ゼロ』って数字で自分の首を縛る」
シュアラは青い帳面の表紙を軽く叩いた。
「帝都は『赤字』って数字で帝都の首を縛りに行く。そういう話です」
「分かった」
カイは椅子から立ち上がる。
最初に部屋へ入ってきたときより、足取りは軽くなっていた。
「じゃあ次だ。海に出る前に、砦の手綱を誰に預けるか決める」
机の端に置かれた真鍮の小さな鐘を手に取り、軽く鳴らす。
澄んだ音が、よどんだ空気を少しだけ揺らした。
しばらくして、廊下から軍靴の音が近づいてくる。
ぞんざいなノックが一度、扉がきしんで開いた。
「呼んだか、若」
ゲルトが顔を出した。
岩のように分厚い肩。警戒心の抜けない目。この砦の副団長だ。
「軍師室か。珍しい組み合わせだな」
「中に入れ。鍵を閉めろ」
「物騒な注文だ」
言いながらも、ゲルトは扉を閉め、内側から鍵を回した。動きに迷いはない。
「で、なんだ。石垣の点検なら、来週までの段取りはもう決めてあるぞ」
「順番を変える」
カイは短く告げた。
「ゲルト。しばらく砦の代行をやれ」
「はあ?」
素っ頓狂な声が、狭い部屋に跳ね返る。
「代行って、お前……」
「帝都から、海の仕事が回ってきた」
カイは事務的に続けた。
「死人文官と、選抜した兵を数人。それに零札を何人かと、斥候のフィンを連れて、マリーハイツって港町の様子を見てこい、だとさ。北方海路がどれだけ使えるか、現場の目で確認しろって話だ」
「海ねえ」
ゲルトは露骨に顔をしかめ、短く舌打ちした。
「若、お前、船嫌いだろ」
「好きではねえ」
「嫌いどころか、前に川下りしたとき、上がった瞬間地面にキスしてただろうが」
「その記憶は今すぐ封印しろ」
カイが眉間に皺を寄せる。
それでもすぐ表情を戻し、真顔に切り替えた。
「冗談はそこまでだ」
ゲルトの視線を真正面から受け止める。
「俺とシュアラとフィンが海に出る。そのあいだ、この砦と三つの村を見ていられるのは、お前しかいない」
「……そういう逃げ道塞ぐ言い方をする」
ゲルトは頭をがりがりと掻いた。
「リオは?」
「砦だ」
カイは即答した。
「子どもと零札の間に顔出せるのは、あいつが一番だ。零札の聞き取りも、村との橋渡しも、リオに任せたい」
「ふむ。それはまあ、向いてるな」
ゲルトは小さく頷いた。
「フィンは連れてきゃいい。あいつは港町の裏通りの匂いを嗅ぎ分けるのが得意だ」
「そういう評価でいいのか、フィンは」
「よくねえが、当たってるだろ」
短いやりとりののち、ゲルトは息を吐いて言った。
「……話を聞かせろ」
カイは顎で合図し、バトンを渡す。
「軍師殿」
「はい」
シュアラは、パンと魚と石の皿をゲルトのほうへずらした。
「帝都から、北方海路を零札で埋め尽くす計画が降りてきました」
「零札を?」
「はい。『補助人員』という名目で」
ゲルトの表情から、軽口の色がすっと消える。
「……さっき兵舎の前で騒いでた連中か」
低く呟く。
「『海に捨てられる』だの何だの、くだらねえこと言ってたが」
「そのくだらない話が、帝都の予算書の中では極めて真面目な計画として進んでいます」
シュアラは皿の上の石をひとつ、指で弾いた。
「今年一年で、八十名。帝都はそれを『許容損耗』と呼んでいます」
「……クソが」
ゲルトの拳が音もなく握られる。骨が軋む気配が、空気越しに伝わった。
「それをこちらから書き換えます」
シュアラは青い帳面を開き、ゲルトに見せる。
「条件はひとつ。この砦から海に出す零札の損耗率はゼロ。一人も死なせないことを前提に、計画を根っこから作り変えます」
「また厄介な大博打を打ったな」
ゲルトは額に手を当て、深い皺を刻む。
「帝都がそれを飲むように、数字と条件で論理武装します。そのあいだ、砦と村を守っていただきたい――団長と私からのお願いです」
カイが補足する。
「冬のあいだ、お前がどれだけ兵と村に顔を出してたかは知ってる。書類は増えるが、死人文官が残した帳簿は、少なくともお前の首を絞めるようには書いちゃいねえ」
「妙な褒め方だな」
ゲルトは天井を仰ぎ、肺の空気を全部吐き出すように長く息をした。
「……断れねえ仕事だ」
しばしの沈黙ののち、観念したように言う。
「海に出るのがお前らで、ここに残るのが俺ってのが正しいかどうかは知らんが」
パンの皿を指先で示した。
「このパンを三つの村に公平に分けて、兵にも食わせて、春まで持たせろ。そういう話だろ。そのあいだに、お前らが海と帝都をどうにかしてくる」
「端的にまとめると、そうなります」
シュアラが頷いた。
「分かった」
ゲルトは短く、しかし力強く頭を下げる。
「ヴァルム砦代行、引き受ける。ただし――」
カイをじろりと睨んだ。
「帰ってきた時、兵でも零札でも、余計な穴が空いてたら一発じゃ済まさねえからな」
「殴られないように善処する」
カイもにらみ返す。
「だが、このゼロはお前にもかかってる。砦で変な無茶して死ぬなよ」
「言うようになったじゃねえか」
ゲルトは口の端をわずかに吊り上げた。
「じゃあ、お互い様ってことでいいな」
「ああ」
短い言葉のやり取りの中に、長い時間をかけて積み上げた鉄のような信頼が滲んでいた。
*
夜。砦のあちこちで篝火が揺れ、外気が一段と冷え込んできたころ。
軍師室の机の上からは、パンも魚も石も消えている。
代わりに、薄い青表紙の帳面だけが開かれていた。
「ゲーム1:試験国家ヴァルム」の次のページ。
シュアラは、そこに書いたばかりの文字を見直していた。
『ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家』
『条件:ヴァルム砦より出航する零札の損耗率=0名』
数字の「0」は、さっきなぞったばかりで、わずかにインクが濃い。
(机の上だけのきれいごとで終わらせない)
心の中でだけ、短く念を押す。
『補足:帝都帳簿とは別に、ヴァルム側基準を先に固定すること』
誰かが死んだとき、それを「誤差」として処理しないための数字。
ゼロからイチに変わる、その一歩を、安易に流してしまわないためのライン。
ペン先を止めたところで、控えめなノックが聞こえた。
「どうぞ」
扉が開き、カイが顔を覗かせる。
片手には、湯気の立つマグ。
「起きてると思った」
「書き物をしていただけです」
「もう遅いが、顔くらいは見に来てもいいだろ」
カイは部屋に入り、扉を閉める。今度は鍵はかけない。
シュアラの勧めた椅子には座らず、立ったまま机の上の帳面を覗き込んだ。
「ゲーム2、ね」
「はい」
「ゼロも、ちゃんと書いてあるな」
「はい」
短いやり取りのあと、しばし沈黙が落ちる。
ランプの芯が小さくはぜる音と、マグの中で揺れる液体の気配だけが部屋を満たした。
「……怖くないわけじゃねえよな」
先に口を開いたのはカイだった。
「怖いです」
シュアラは隠さなかった。
「失敗したときに何が起こるか、ある程度具体的に想像できてしまうぶんだけ」
「それでもやるのか」
「はい」
迷いのない答えだった。
「私は死人文官です。帳簿に誤魔化しを書きたくありません。団長はどうですか?」
「俺か」
カイはマグを机の端に置き、肩を一本鳴らした。
「正直に言うとだな。海は嫌いだ。できることなら、雪山で吹雪に巻かれて馬を追いかけてるほうが、まだマシだと思ってる」
「存じ上げています」
「だろうな」
カイは少し笑う。
「それでも行くのは、お前がゼロなんて無茶を言い出したからだ」
「すみません」
「謝るなら最初から言うな」
言葉は荒いが、声の底には怒りはない。
共犯として覚悟を決めた人間の、どうしようもない苦笑が混じっている。
「お前一人を海に出して、帝都の都合で使い潰されるのを黙って見てるくらいなら、一緒に船酔いで地獄を見てる方がまだ納得できる」
「……はい」
「だから、俺の条件もひとつだけだ」
カイは帳面の空いた余白を、指でとん、と叩いた。
「『団長カイ:可能な限り生きて帰ること』」
「それはすでに、ゲーム1のときに書いてあります」
「そうだったな」
カイは思わず噴き出した。
試験国家ヴァルムを始めたとき、シュアラは確かに書いていた。
――「団長カイの存命は、砦の安定の前提条件」と。
「じゃあ今回は、それをもう一度確認するだけか」
「はい。ゲーム2も、前提は同じです」
誰も死なせないこと。
団長が生きて帰ってくること。
自分も零札たちも、帝都の歯車として使い捨てにされないこと。
それらを全部、冷たい数字と条件に変えて武器にする。それが自分の役割だ。
「……明日から、忙しくなるな」
カイが窓の外に目をやる。
闇の向こうには、まだ見えない海がある。零札たちが本来送られるはずだった死地が、黒く横たわっている。
「忙しくなります」
シュアラも、同じ方向を見る。
「でも、ゲーム1よりは少しだけ条件がいいです」
「そうか?」
「はい。前回は、雪と飢えと、何もかもが敵でした。今回は、団長が最初から味方です」
「……そう言われると、逃げられねえな」
カイは、ばつが悪そうに頭をかいた。
「最初から逃がすつもりはありませんでした」
シュアラは淡々と言う。
ただ、その瞳の奥には、ランプの火よりも熱いものが灯っていた。恐怖でも不安でもなく、静かな覚悟と、揺るぎない信頼に近い何か。
「じゃあ、船の上で俺が盛大に吐いても、文句は言うなよ」
「はい。その現象は、条件には含めません」
くだらない軽口が、部屋の重さをほんの少しだけ軽くする。
それでも、背負うものの重さが消えるわけではない。
数字と命。
机の上の帳簿と、泥だらけの現場。
その両方を抱え込んだまま、まだ見ぬ海への「ゲーム2」が、静かに動き出そうとしていた。
扉をくぐるなり、カイはそう言った。
石造りの小部屋――もとは物置だった軍師室の真ん中に、古びた机が一つ。
その上に、黒く硬化した保存パンと、塩を噴いた干し魚、そして木皿が二枚。
片方の皿にはパンがひとかけ。もう片方には、パンの残りと干し魚、それから握りこぶしほどの石が三つ、妙に整った間隔で並べられている。
カイは扉を背中で押して閉め、内側から鍵をかけた。カチャリ、と小さな金属音が、二人きりの空間を区切る。
「朝っぱらからごちそう……には見えねえな」
窓際の椅子を引き寄せて腰を下ろし、机を覗き込む。
保存パン。干し魚。二枚の皿。そして冷たく鈍い光を放つ石。
「見た目だけなら、囚人の昼食ですね」
机の向こう側で、シュアラが静かに答えた。
彼女の前にも椅子があるが、座ってはいない。背筋を伸ばし、いつでも書類を差し出せる姿勢で立っている。
「ただ、今日は味より分かりやすさが必要なので」
「分かりやすさ?」
「はい。北方海路と、帝都の腹の中の話です」
シュアラは、パンがひとかけ乗った方の皿を、カイの手元へ押しやった。
「まず、こちらがヴァルム砦」
「パン一個かよ」
「冬を越えたあと倉に残った粉を、一つに固めたと考えてください」
ひび割れたパンの端を爪で軽く叩く。コツ、と乾いた音がした。
「三つの村と砦の兵の胃袋。団長が毎朝倉の在庫表を見て、こっそり溜息をついていた分です」
「こっそり、だったはずなんだが」
「石壁はよく響きますから」
返しは淡々としているが、皮肉の温度は低い。
カイの口元がわずかにだけ緩んだ。
「で、その魚と石が乗ってる方が?」
「マリーハイツと帝都です」
シュアラは、もう一枚の皿を自分のほうに引き寄せる。
「パンと魚が、丘の上の港町マリーハイツ。海からの魚と、対岸大陸からの交易品。ヴァルムよりは、多少なりとも余裕のある食卓です」
「見た目は確かにこっちがマシだな」
「そして――」
彼女は石の一つを指先でつついた。こつ、と石同士が当たる。
「この無機質な石が帝都です。海務院。財務院。それから、彼らが『零札』という記号で呼ぶ労働力」
「零札」という言葉のところで、カイの瞳が一瞬だけ鋭く光る。
「昨日読んでいた予算書の話か」
「はい」
シュアラは懐から一枚の紙を取り出した。父――死の商人の癖のある筆跡と、海務院の整った官僚文字が、同じ紙に押し込まれている。
「『北方海路を防衛するため、零札を補助人員として投入する。今年一年で想定される損耗率は、財務上の許容範囲内』」
淡々と読み上げ、それを机の端に置いた。
「つまり、『このくらい死ぬなら許される』と、あらかじめ線が引かれているわけです」
「言い方を変えると、許容される死者、だな」
カイの声は、低いところで硬く響いた。
「帝都の帳簿の上では、マリーハイツの魚と、ヴァルムの粉と、零札の命が同じ行に並びます」
シュアラはそう言って、皿の上の石を一つつまみ上げる。
「財務官の仕事は、その行からどの項目をどれだけ削れば、最終的な数字がきれいになるか計算すること」
つまんでいた石を、皿の外――冷たい机板の上にぽとりと落とした。
「その削る対象の中に、『零札の命』が含まれている。それが昨夜の予算書でした」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「……零札棟の前を通った時にな」
カイが、ぽつりと言った。
「あいつら、くだらねえ冗談言ってたぞ。『海に捨てられる』だの、『数字上ちょうどいい減り具合』だの」
「聞きました」
シュアラは頷く。
「笑っているのに、頬の筋肉が凍りついたように動いていませんでした」
あの硬い横顔。
笑い声と、その後の沈黙の落差。
「冗談にしておかないと、自分が『数字の一桁』として扱われている事実に耐えられないのだと思います」
彼女は、一拍置いて言葉を変えた。
「そして、その桁を決めているのが、帝都の帳簿です」
「……まあ、分からんでもねえな」
カイの顎に、雪山の撤退戦の記憶がわずかに影を落とす。
何人かを切り捨てる線を、自分の手で引きかけたあの感覚。
「だからこそ、先に数字のほうを縛ります」
シュアラは机の隅から薄い青表紙の帳面を引き寄せた。
表紙には、自分の字で「ゲーム1:試験国家ヴァルム」と書かれている。
その次の白紙を開き、ペン先にインクを含ませる。
「帝都は私に、『北方海路防衛に死人文官の頭脳を貸せ』と言ってきました。ならば、こちらも対価として条件を出せます」
さらりと、一行目を書きつける。
『ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家』
インクが紙に染みていくのを待たず、次の行へ進む。
『条件:ヴァルム砦より出航する零札の損耗率=0名』
「今回の条件は一つです」
数字の「0」を、ほんの少し太くなぞる。
「この砦から海に出す零札の損耗率はゼロ。『一人も死なせない』ことを、最初にルールとして書かせます」
カイは、書かれた数字をじっと見た。
「ゼロ」
口の中で転がす。
「向こうの想定が、八十人とかだったな」
「はい。今年一年で八十名。それが、帝都の言う『許容損耗』です」
「八十対、ゼロか」
カイは、椅子の背にもたれたまま天井を一度見上げ、それから視線をシュアラに戻した。
「確認する」
「どうぞ」
「そのゼロは、お前の願望じゃねえのか。帳面に書かせるつもりの、本物の数字か」
「紙に書かせます」
即答だった。
「帝都の公的帳簿に、『この航路での許容損耗率はゼロ』と明記させます。そうすれば、現場で誰かが死んだ時、その死は『予定どおりの消費』ではなく、『重大な規則違反(エラー)』になります」
「現場の意識も変えさせる気か」
「はい」
シュアラは、帳面の余白を指先で押さえた。
「『このくらいは仕方ない』という線を、先に論理の方から潰しておきたいのです。誰かが死んだ瞬間、それはゼロからイチになる。ごまかしのきかない数字として」
「……なるほどな」
カイは机の上の皿へ視線を落とす。
パンと魚と石。
ただの残飯と河原の石ころだったものが、砦と港町と帝都、そしてそれぞれにくっついている命の重さに見えてくる。
「で、二つ目の質問だ」
「どうぞ」
「どうやって守る?」
カイの声が少し低くなる。
「海は気まぐれだ。嵐もあれば座礁もある。敵船だけじゃねえ。見えない岩も流氷もある。どうやって『一人も死なせない』なんて、神様みたいな条件を現実に落とし込むつもりだ」
「手段はいくつか組み合わせます」
シュアラは別紙を引き寄せた。細かい字で、すでに無数の条件分岐が書き込まれている。
「まず、航海の回数を極限まで減らします。本来なら三往復させたいところを、一往復か二往復に抑える」
「帝都は輸送効率が落ちるのを嫌がる」
「はい。そこで名目を変えます」
指で紙の一行を示した。
「『安全基準策定のための試験航路』という扱いに」
「試験、ね」
「損耗ゼロで往復した記録がひとつあれば、帝都はそれを『成功モデル』として利用できます」
声色は淡々としているのに、言っていることは冷たい。
「もし別の航路で大事故が起きた場合――『この基準を守っていれば防げた』と、誰かに責任を押しつける材料にもなります」
「性格の悪さ込みで計算してるのが、腹立つな」
カイは鼻で笑った。
「でも、あいつらなら本当に喜びそうだ」
「ですから、その性格の悪さごと利用します」
シュアラは、紙に並んだ項目を指で追っていく。
「針路の幅、出航の気象条件、撤退に切り替えるタイミング。全部、『ゼロを守るための条件』として書き出し、そのまま帝都に突きつけます」
「向こうは、自分たちの保身のためにもそれを飲むしかなくなる、か」
「そういう算段です」
カイはしばらく黙り込み、やがて三つ目の問いを口にした。
「じゃあ、最後」
「はい」
「それでも帝都が条件を拒んだらどうする?」
避けて通れない問いだった。
「向こうからすれば、安く死んでくれる駒の損耗率を、わざわざゼロに縛られる理由はない。死人文官一人を潰すリスクと、零札を湯水のように使える自由。どっちを取るか分からん」
「その場合は――」
シュアラは一度、視線を手元に落とした。
「ヴァレン商会と父の名で、『今の計画をやった場合にどれだけ損をするか』の損益試算書を出します」
「損?」
「はい」
ペン先が紙を叩く。
「零札を使い捨てにした場合の補充費用、反乱のリスク、砦や港が機能不全に陥ったときの再編費用。全部まとめて、『人を殺す方が高くつきます』と数字で示します」
父の悪名高い署名と、死の商人の看板。
帝都にとっては、軽く扱うと火傷する札だ。
「それでも飲まなかったら?」
「そのときは、この砦から零札を一歩も出しません」
短いが、冷えた刃物のように固い言葉だった。
「帝都が、私一人の首を飛ばした方が得だと判断するなら、その時点でゲーム2は終了です。そのあとは砦の防衛だけに頭を使います」
カイは、しばらくシュアラから目を逸らさなかった。
石壁の向こうからは、訓練場の掛け声がかすかに聞こえてくる。ここだけが別の世界のように静かだ。
「……お前さ」
ようやく呟くように言う。
「本気で、そこまでやるつもりなんだな」
「はい」
またも即答だった。
「こっちは『ゼロ』って数字で自分の首を縛る」
シュアラは青い帳面の表紙を軽く叩いた。
「帝都は『赤字』って数字で帝都の首を縛りに行く。そういう話です」
「分かった」
カイは椅子から立ち上がる。
最初に部屋へ入ってきたときより、足取りは軽くなっていた。
「じゃあ次だ。海に出る前に、砦の手綱を誰に預けるか決める」
机の端に置かれた真鍮の小さな鐘を手に取り、軽く鳴らす。
澄んだ音が、よどんだ空気を少しだけ揺らした。
しばらくして、廊下から軍靴の音が近づいてくる。
ぞんざいなノックが一度、扉がきしんで開いた。
「呼んだか、若」
ゲルトが顔を出した。
岩のように分厚い肩。警戒心の抜けない目。この砦の副団長だ。
「軍師室か。珍しい組み合わせだな」
「中に入れ。鍵を閉めろ」
「物騒な注文だ」
言いながらも、ゲルトは扉を閉め、内側から鍵を回した。動きに迷いはない。
「で、なんだ。石垣の点検なら、来週までの段取りはもう決めてあるぞ」
「順番を変える」
カイは短く告げた。
「ゲルト。しばらく砦の代行をやれ」
「はあ?」
素っ頓狂な声が、狭い部屋に跳ね返る。
「代行って、お前……」
「帝都から、海の仕事が回ってきた」
カイは事務的に続けた。
「死人文官と、選抜した兵を数人。それに零札を何人かと、斥候のフィンを連れて、マリーハイツって港町の様子を見てこい、だとさ。北方海路がどれだけ使えるか、現場の目で確認しろって話だ」
「海ねえ」
ゲルトは露骨に顔をしかめ、短く舌打ちした。
「若、お前、船嫌いだろ」
「好きではねえ」
「嫌いどころか、前に川下りしたとき、上がった瞬間地面にキスしてただろうが」
「その記憶は今すぐ封印しろ」
カイが眉間に皺を寄せる。
それでもすぐ表情を戻し、真顔に切り替えた。
「冗談はそこまでだ」
ゲルトの視線を真正面から受け止める。
「俺とシュアラとフィンが海に出る。そのあいだ、この砦と三つの村を見ていられるのは、お前しかいない」
「……そういう逃げ道塞ぐ言い方をする」
ゲルトは頭をがりがりと掻いた。
「リオは?」
「砦だ」
カイは即答した。
「子どもと零札の間に顔出せるのは、あいつが一番だ。零札の聞き取りも、村との橋渡しも、リオに任せたい」
「ふむ。それはまあ、向いてるな」
ゲルトは小さく頷いた。
「フィンは連れてきゃいい。あいつは港町の裏通りの匂いを嗅ぎ分けるのが得意だ」
「そういう評価でいいのか、フィンは」
「よくねえが、当たってるだろ」
短いやりとりののち、ゲルトは息を吐いて言った。
「……話を聞かせろ」
カイは顎で合図し、バトンを渡す。
「軍師殿」
「はい」
シュアラは、パンと魚と石の皿をゲルトのほうへずらした。
「帝都から、北方海路を零札で埋め尽くす計画が降りてきました」
「零札を?」
「はい。『補助人員』という名目で」
ゲルトの表情から、軽口の色がすっと消える。
「……さっき兵舎の前で騒いでた連中か」
低く呟く。
「『海に捨てられる』だの何だの、くだらねえこと言ってたが」
「そのくだらない話が、帝都の予算書の中では極めて真面目な計画として進んでいます」
シュアラは皿の上の石をひとつ、指で弾いた。
「今年一年で、八十名。帝都はそれを『許容損耗』と呼んでいます」
「……クソが」
ゲルトの拳が音もなく握られる。骨が軋む気配が、空気越しに伝わった。
「それをこちらから書き換えます」
シュアラは青い帳面を開き、ゲルトに見せる。
「条件はひとつ。この砦から海に出す零札の損耗率はゼロ。一人も死なせないことを前提に、計画を根っこから作り変えます」
「また厄介な大博打を打ったな」
ゲルトは額に手を当て、深い皺を刻む。
「帝都がそれを飲むように、数字と条件で論理武装します。そのあいだ、砦と村を守っていただきたい――団長と私からのお願いです」
カイが補足する。
「冬のあいだ、お前がどれだけ兵と村に顔を出してたかは知ってる。書類は増えるが、死人文官が残した帳簿は、少なくともお前の首を絞めるようには書いちゃいねえ」
「妙な褒め方だな」
ゲルトは天井を仰ぎ、肺の空気を全部吐き出すように長く息をした。
「……断れねえ仕事だ」
しばしの沈黙ののち、観念したように言う。
「海に出るのがお前らで、ここに残るのが俺ってのが正しいかどうかは知らんが」
パンの皿を指先で示した。
「このパンを三つの村に公平に分けて、兵にも食わせて、春まで持たせろ。そういう話だろ。そのあいだに、お前らが海と帝都をどうにかしてくる」
「端的にまとめると、そうなります」
シュアラが頷いた。
「分かった」
ゲルトは短く、しかし力強く頭を下げる。
「ヴァルム砦代行、引き受ける。ただし――」
カイをじろりと睨んだ。
「帰ってきた時、兵でも零札でも、余計な穴が空いてたら一発じゃ済まさねえからな」
「殴られないように善処する」
カイもにらみ返す。
「だが、このゼロはお前にもかかってる。砦で変な無茶して死ぬなよ」
「言うようになったじゃねえか」
ゲルトは口の端をわずかに吊り上げた。
「じゃあ、お互い様ってことでいいな」
「ああ」
短い言葉のやり取りの中に、長い時間をかけて積み上げた鉄のような信頼が滲んでいた。
*
夜。砦のあちこちで篝火が揺れ、外気が一段と冷え込んできたころ。
軍師室の机の上からは、パンも魚も石も消えている。
代わりに、薄い青表紙の帳面だけが開かれていた。
「ゲーム1:試験国家ヴァルム」の次のページ。
シュアラは、そこに書いたばかりの文字を見直していた。
『ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家』
『条件:ヴァルム砦より出航する零札の損耗率=0名』
数字の「0」は、さっきなぞったばかりで、わずかにインクが濃い。
(机の上だけのきれいごとで終わらせない)
心の中でだけ、短く念を押す。
『補足:帝都帳簿とは別に、ヴァルム側基準を先に固定すること』
誰かが死んだとき、それを「誤差」として処理しないための数字。
ゼロからイチに変わる、その一歩を、安易に流してしまわないためのライン。
ペン先を止めたところで、控えめなノックが聞こえた。
「どうぞ」
扉が開き、カイが顔を覗かせる。
片手には、湯気の立つマグ。
「起きてると思った」
「書き物をしていただけです」
「もう遅いが、顔くらいは見に来てもいいだろ」
カイは部屋に入り、扉を閉める。今度は鍵はかけない。
シュアラの勧めた椅子には座らず、立ったまま机の上の帳面を覗き込んだ。
「ゲーム2、ね」
「はい」
「ゼロも、ちゃんと書いてあるな」
「はい」
短いやり取りのあと、しばし沈黙が落ちる。
ランプの芯が小さくはぜる音と、マグの中で揺れる液体の気配だけが部屋を満たした。
「……怖くないわけじゃねえよな」
先に口を開いたのはカイだった。
「怖いです」
シュアラは隠さなかった。
「失敗したときに何が起こるか、ある程度具体的に想像できてしまうぶんだけ」
「それでもやるのか」
「はい」
迷いのない答えだった。
「私は死人文官です。帳簿に誤魔化しを書きたくありません。団長はどうですか?」
「俺か」
カイはマグを机の端に置き、肩を一本鳴らした。
「正直に言うとだな。海は嫌いだ。できることなら、雪山で吹雪に巻かれて馬を追いかけてるほうが、まだマシだと思ってる」
「存じ上げています」
「だろうな」
カイは少し笑う。
「それでも行くのは、お前がゼロなんて無茶を言い出したからだ」
「すみません」
「謝るなら最初から言うな」
言葉は荒いが、声の底には怒りはない。
共犯として覚悟を決めた人間の、どうしようもない苦笑が混じっている。
「お前一人を海に出して、帝都の都合で使い潰されるのを黙って見てるくらいなら、一緒に船酔いで地獄を見てる方がまだ納得できる」
「……はい」
「だから、俺の条件もひとつだけだ」
カイは帳面の空いた余白を、指でとん、と叩いた。
「『団長カイ:可能な限り生きて帰ること』」
「それはすでに、ゲーム1のときに書いてあります」
「そうだったな」
カイは思わず噴き出した。
試験国家ヴァルムを始めたとき、シュアラは確かに書いていた。
――「団長カイの存命は、砦の安定の前提条件」と。
「じゃあ今回は、それをもう一度確認するだけか」
「はい。ゲーム2も、前提は同じです」
誰も死なせないこと。
団長が生きて帰ってくること。
自分も零札たちも、帝都の歯車として使い捨てにされないこと。
それらを全部、冷たい数字と条件に変えて武器にする。それが自分の役割だ。
「……明日から、忙しくなるな」
カイが窓の外に目をやる。
闇の向こうには、まだ見えない海がある。零札たちが本来送られるはずだった死地が、黒く横たわっている。
「忙しくなります」
シュアラも、同じ方向を見る。
「でも、ゲーム1よりは少しだけ条件がいいです」
「そうか?」
「はい。前回は、雪と飢えと、何もかもが敵でした。今回は、団長が最初から味方です」
「……そう言われると、逃げられねえな」
カイは、ばつが悪そうに頭をかいた。
「最初から逃がすつもりはありませんでした」
シュアラは淡々と言う。
ただ、その瞳の奥には、ランプの火よりも熱いものが灯っていた。恐怖でも不安でもなく、静かな覚悟と、揺るぎない信頼に近い何か。
「じゃあ、船の上で俺が盛大に吐いても、文句は言うなよ」
「はい。その現象は、条件には含めません」
くだらない軽口が、部屋の重さをほんの少しだけ軽くする。
それでも、背負うものの重さが消えるわけではない。
数字と命。
机の上の帳簿と、泥だらけの現場。
その両方を抱え込んだまま、まだ見ぬ海への「ゲーム2」が、静かに動き出そうとしていた。
11
あなたにおすすめの小説
感情の無い聖女様は、公爵への生贄にされてしまいました
九条 雛
恋愛
「――私など、ただの〝祈り人形〟でございます。人形に感情はありませぬ……」
悪逆非道の公爵の元へと生贄として捧げられてしまった聖女は、格子の付いた窓を見上げてそう呟く。
公爵は嗜虐に満ちた笑みを浮かべ言い放つ。
「これからは、三食きちんと食べてもらおう。こうして俺のモノとなったからには、今までのような生活を送れるとは思わぬことだな」
――これは、不幸な境遇で心を閉ざしてしまった少女と、その笑顔を取り戻そうとする男の物語。
一途に愛した1周目は殺されて終わったので、2周目は王子様を嫌いたいのに、なぜか婚約者がヤンデレ化して離してくれません!
夢咲 アメ
恋愛
「君の愛が煩わしいんだ」
婚約者である王太子の冷たい言葉に、私の心は砕け散った。
それから間もなく、私は謎の襲撃者に命を奪われ死んだ――はずだった。
死の間際に見えたのは、絶望に顔を歪ませ、私の名を叫びながら駆け寄る彼の姿。
……けれど、次に目を覚ました時、私は18歳の自分に戻っていた。
「今世こそ、彼を愛するのを辞めよう」
そう決意して距離を置く私。しかし、1周目であれほど冷酷だった彼は、なぜか焦ったように私を追いかけ、甘い言葉で縛り付けようとしてきて……?
「どこへ行くつもり? 君が愛してくれるまで、僕は君を離さないよ」
不器用すぎて愛を間違えたヤンデレ王子×今世こそ静かに暮らしたい令嬢。
死から始まる、執着愛の二周目が幕を開ける!
『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています
六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。
しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。
「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!
酔っぱらい令嬢の英雄譚 ~チョコレートを食べていたら、いつの間にか第三王子を救っていたようです!~
ゆずこしょう
恋愛
婚約者と共に参加するはずだった、
夜会当日──
婚約者は「馬車の予約ができなかった」という理由で、
迎えに来ることはなかった。
そして王宮で彼女が目にしたのは、
婚約者と、見知らぬ女性が寄り添う姿。
領地存続のために婿が必要だったエヴァンジェリンは、
感情に流されることもなく、
淡々と婚約破棄の算段を立て始める。
目の前にあった美味しいチョコレートをつまみながら、
頭の中で、今後の算段を考えていると
別の修羅場が始まって──!?
その夜、ほんの少しお酒を口にしたことで、
エヴァンジェリンの評価と人生は、
思いもよらぬ方向へ転がり始める──
2月11日 第一章完結
2月15日 第二章スタート予定
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
悪役令嬢を断罪したくせに、今さら溺愛とか都合が良すぎますわ!
nacat
恋愛
侯爵令嬢リディアは、無実の罪で婚約者の王太子に断罪された。
冷笑を浮かべ、すべてを捨てて国外へ去った彼女が、数年後、驚くべき姿で帰ってくる。
誰もが羨む天才魔導師として──。
今さら後悔する王太子、ざまぁを噛みしめる貴族令嬢たち。
そして、リディアをひそかに守ってきた公爵の青年が、ようやく想いを告げる時が来た。
これは、不当な断罪を受けた少女が、自分の誇りと愛を取り戻す溺愛系ロマンス。
すべての「裏切られた少女」たちに捧ぐ、痛快で甘く切ない逆転劇。
お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました
夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。
全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。
持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……?
これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。
【短編】婚約破棄?「喜んで!」食い気味に答えたら陛下に泣きつかれたけど、知らんがな
みねバイヤーン
恋愛
「タリーシャ・オーデリンド、そなたとの婚約を破棄す」「喜んで!」
タリーシャが食い気味で答えると、あと一歩で間に合わなかった陛下が、会場の入口で「ああー」と言いながら膝から崩れ落ちた。田舎領地で育ったタリーシャ子爵令嬢が、ヴィシャール第一王子殿下の婚約者に決まったとき、王国は揺れた。王子は荒ぶった。あんな少年のように色気のない体の女はいやだと。タリーシャは密かに陛下と約束を交わした。卒業式までに王子が婚約破棄を望めば、婚約は白紙に戻すと。田舎でのびのび暮らしたいタリーシャと、タリーシャをどうしても王妃にしたい陛下との熾烈を極めた攻防が始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる