死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第二章 マリーハイツ公約編

第三十二話 ドーパミン

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 夜の食堂は、昼とは別の音で満ちていた。

 昼間、泥と雪にまみれて走り回っていた子どもたちの声は消え、代わりに聞こえるのは、兵士たちの笑い声と、木製の器が机に当たる乾いた音。それでも去年の冬と比べれば、その笑いはずいぶん軽くなっている。

 天井の梁から吊るされたランプは、半分ほどしか灯っていない。丸く切り取られた光の輪の内側だけが、器やパンの輪郭を浮かび上がらせ、その外側はすぐに影へと沈んでいた。

 その影の縁、光のちょうど届きにくい隅の席に、シュアラは腰を下ろしていた。

 手元の器の中身は、昼の「何でも煮込み」の残りだ。
 冷めかけたスープの表面には、白く固まりかけた脂の輪がいくつも浮いている。木のスプーンで一口すくい、舌の上に乗せる。塩気と脂のざらつく冷たさだけがはっきりしていて、味というより成分の確認に近い。

(……塩分過多。明日、倉庫の在庫を再確認ですね)

 味について頭の中で採点をつけながらも、表情はほとんど動かない。器の重みと、手のひらに触れる木の冷たさ――それさえ確認できれば十分だった。

 少し離れた長机から、ひときわ大きな笑い声が弾けた。

「見たかよ、ボルグさんのやつ。あの量、全部いったんだぞ」

 若い兵の声だ。まだ砦に来て日が浅い、山の猟師上がり――リオの声に聞こえる。

「……腹が減ってただけだ」

 短く返す、押し殺したような低い声。ボルグだ。元刑徒兵の一団の中でも体格のいい男。声だけで、肩幅の広さと無駄の少ない動きが目に浮かぶ。

 そこに別の男の声が割り込んだ。歯が何本か欠けた、中年の兵だ。

「さすがだなあ、ボルグ。あの冷めたスープ、俺は三口目で心折れたぞ」

「贅沢ぬかすな。タダで腹がふくれるなら、多少まずくても飲んどけ」

「タダって……俺らの胃袋はそんな安くねえよ」

 からからと笑いがこぼれ、薄く割った酒の匂いがそこから広がる。

 去年の冬にはなかった軽さが、その輪にはあった。
 寒さと飢えに追いつめられていたときには出てこなかった、「まずい」「きつい」といった贅沢な文句。それを言い合えるだけの余裕が、彼らの顔に戻っている。

 シュアラは、器を両手で包んだまま、目線だけをそちらに向けた。ランプから遠い位置のため、表情までは見えない。だが、身なりで正規兵か元刑徒かはだいたい分かる。

 革鎧の色が揃っていない。袖の長さも、縫い目もばらばらだ。帝都支給品のきっちりした軍服ではなく、「どこからか回ってきた衣」と、砦で支給された防寒具を継ぎ合わせた格好。

 ――元刑徒兵、ですね。

 紙の上で見た言葉と、目の前の体温が結びつく。帝都から送られてきた人員リストの隅に、「刑徒部隊より編入」と注記されていた一団だ。

「なあ、ボルグ」

 リオの声が、酔いで少し伸びた調子で続いた。

「前にさ。ボルグさんの前の仲間の話、してたろ?
 あいつ、今どこにいるんだって。なんか……番号で呼ばれるとこに落っこちたって」

 ボルグの返事は、すぐには返ってこなかった。

 長机のあたりのざわめきが、ふっと落ちる。ランプの火が、その沈黙ごとゆらいだ気がした。

「どの話だ。俺の前の仲間なんて、山ほどいる」

 ようやく絞り出された声は、普段よりも少し低い。

「ほら。札、取り上げられてさ。名前の代わりに番号ぶら下げられて、って」

 リオが、机の縁を指でたたきながら言葉を続けようとすると、歯欠けの男が先に口を挟んだ。

「ああ、零札になった奴のことか」

 その言葉に、シュアラの指がぴたりと止まった。

 零札――。

 昼間、自分の執務室の机の上で見たばかりの、印刷された文字列が、今度は酒場の隅で、ごく普通の雑談の一部として転がった。

「リオ、お前知らねえのか」

 歯欠けの兵が笑う。酒カップの縁で歯がこつんと鳴った。

「お坊ちゃんだな。山の猟師は、海の底の話までは聞こえてこねえか」

「……悪いかよ」

 リオがむっとしたのか、椅子の足を少しきしませる音がする。だが、椅子はその場を離れない。聞く気はある。聞かずにいられないのだろう。

「零札ってのはな」

 男は一本の指を立て、卓上の空の器の縁でとん、とんとリズムをとった。

「まず、罪人がいる。刑徒って呼ばれて、札をぶら下げてる奴らだ。木だか金属だかの札に、名前と罪状がちゃんと書いてある。真面目に身を粉にして働きゃ、運が良けりゃ何年か先には札が戻ることもある」

 器の中のスープが小さく揺れた。
 数字の単位としてしか見てこなかった「年」が、そこで初めて人の時間として立ち上がる。

「で、そっからさらに落ちた奴がいる」

 男は、空の器を逆さにした。底が、乾いた音で机を叩く。

「それが零札だ。札を全部取り上げられて、名前も剥がされる。代わりに、番号だけを首からぶら下げられる。『〇七八三』とか、『二一一五』とか。そういう数字だ」

「番号だけ……?」

 自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。

 零札という単語に引き寄せられていた耳が、そのまま口になったかのように、言葉が漏れていた。数人分の視線が、一瞬だけこちらに流れる気配がして、シュアラは器を持つ手にわずかに力を込める。

 リオが「文官さん」と気まずそうに笑って手を振る。歯欠けの男が「ああ」と小さくうなずいた。

「名前は、なくなる」

 低い声が、シュアラの質問に答えた。

 ボルグだ。卓の上の一点から目を上げず、手元の器を親指で撫でるようにしながら、ぼそりと続ける。

「帳簿にはな、『零札が何十人か減っても予定どおり』って具合に書かれる」

「予定……?」

 リオが顔をしかめる音が、聞こえるような気がした。

「何人まで死んでも、って数字がちゃんと書いてあんだとよ」

 歯欠けの男が、酒をあおってから、わざとらしく肩をすくめる。

「俺らじゃ読めねえけどな。札持ちの監督が一回見せてくれた。数字の横に『損失なし』って。笑えるだろ」

 笑いは起きなかった。

「損失、なし……?」

 リオの声は、小さく、かすれていた。

「人、なのに」

「人かどうかを決めるのは、上だ」

 ボルグが、器の縁を指でなぞりながら言う。

「札があるうちは、ギリギリ人間。零札になったら、壊しても怒られない道具。そんな具合だ」

「道具なら、壊れても買い直すだろ」

 リオが思わず言い返す。
 その言葉を聞いた何人かが、びくりと肩を震わせた。

 ボルグは、そこでようやく顔を上げた。

「そうだ。道具なら、壊せば買い直す。壊れた分だけ、金がかかる」

 その目は、笑っていなかった。

「でも零札は、買い直さねえ。最初から『このくらい減るもんだ』って決めて運ばれる。壊れた分は、元から無いものとして計算される」

 歯欠けの男が、空のカップを指でつつく。

「俺の前の仲間にな。零札に落ちる前の晩、『俺たちだって人間だよな』って笑いながら言った奴がいた」

 そのときのことを思い出したのか、男の声が少しだけ掠れる。

「『人間だって証拠に、怖がってる』ってよ。顔は真っ青なのに、歯だけ見せて笑っててな。あの笑い方は……あんまり、見たくない」

 机の周りの兵たちが、それぞれ自分の手元を見る。
 自分の胸元にぶら下がる札に触れる者もいれば、無意味にスープをかき回す者もいた。

「帝都はすげえぞ」

 誰かがぽつりと呟く。不意に出たのか、自分で驚いたような声だった。

「人の名前を削って、数字にして、何人まで死んでも平気か、紙の上で決めちまう。札の色一枚変えるだけで、『お前は明日から壊していい側だ』って言えるんだ」

「ここでも、やるのかな」

 リオが、ほとんど聞き取れない声で言う。

「この砦でも、誰かがしくじったら……」

 言いかけて、口を閉じた。
 その先を言葉にした瞬間、自分の札の色が変わるような気がしたのだろう。

 兵たちの表情から、笑みの形だけが抜け落ちる。
 頬の筋肉が強張り、こわばった口元だけが残った。笑っているのに、目が笑っていない顔。さっきまで冬を越えた実感を分かち合っていた顔が、一斉に「いつ自分の札が裏返るか」を測っている顔に変わっていく。

「おい」

 ボルグが、不意に声を低くした。

「あんまり若ぇのに聞かせる話じゃねえ」

「でも――」

「リオ」

 ボルグの声は、怒鳴りではなく、ゆっくりと押し止めるような響きだった。

「飯が、余計にまずくなるだろう」

「あ、もう十分まずいです」

 リオが無理やり笑いに変える。スプーンが器の底に当たり、からん、と乾いた音を立てた。

「でも……知らないままの方が、もっとまずい気がするんで」

 歯欠けの男が「へえ、生意気な」と笑い、周囲もそれに合わせて僅かに口角を上げる。だが、その笑みにさっきのような軽さはない。

 兵士たちの顔には、昼間よりも確かに明るさが戻っている。
 それでも、零札という言葉が落ちた途端、そこだけが別の季節になったように暗くなった。

(……この空気のまま、零札がここに来たら、どうなるでしょう)

 哀れみか、軽蔑か、面倒の種か。
 どれにしても、「自分は壊れても構わない」と思っている労働力と、「上がそう決めたなら」と思っている兵士たちでは、まともな仕事にならない。

 それは、数字としても損失だ。

 シュアラは、器を持ち上げ、最後の一口を飲み込んだ。冷たい塩水のようなスープが喉を滑り落ちる。

 器を片手に持ったまま、静かに席を立つ。
 誰も、わざわざ引き止めはしない。ただ、リオの視線が一瞬だけこちらに流れてきて、すぐに卓上へと戻った。

 食器を返すふりをして厨房を通り抜け、そのまま食堂を出る。

 扉が閉まる瞬間、「俺たちだって人間だよな」という言葉と、「壊しても怒られない道具」という言葉が、耳の奥に絡みついた。

 それは、感傷でも同情でもない。
 あまりにも「非効率な使い捨て」を連想させる言葉だった。

*

 執務室に戻ると、紙とインクの匂いがすぐに鼻を刺した。

 さっきまで大勢がいた食堂と違い、この部屋は静かだ。外では雪解けの水が石畳を叩いているはずだが、厚い石壁が音をほとんど遮っている。聞こえるのは、ランプの芯が小さく弾ける音と、自分の足音だけ。

 机の上には、昼間に広げたままの紙束が残っていた。

 帝都から届いた、本年度の標準予算書。帝国各地の税収、支出、軍備計画。びっしりと並んだ細い文字と数字の列。

 シュアラは椅子に腰を下ろし、予算書を手元に引き寄せた。

 とある頁の端に、折り目がついている。昼間つけた印だ。

 海路防衛の項目。その中に紛れ込むようにして、「補助人員」の行がある。
 零札という語と、人数の欄。さらに、その横に小さく、許容される「減り」の割合が記されていた。

 昼間は、その数字の異様さに眩暈がした。
 今は、そこに食堂で聞いた声が重なる。

(何人か減っても『損失なし』――)

 指先で、その行を軽くなぞる。紙の表面のざらつきと、インクのわずかな盛り上がりを確かめるように。

(本当は、食費、輸送費、装備費。さらに、監督に必要な人件費……)

 頭の中で、自然と数字が並び替えられていく。

(それだけのコストをかけた労働力を、最初から一定数は「戻らない前提」で扱う。愚かですね)

 倫理の話ではない。純粋な収支計算として、悪手だ。

 父の帳簿には、こう書かれていた。

 ――安価な労働力を「使い捨て可能」と見なした瞬間から、現場の人間はそれを本当に使い捨て始める。
 ――結果として、補填コストと反乱リスクが跳ね上がり、財務的には「高くつく」。

(救済ではなく、回収です)

 心の中で、言葉を置き換える。

 零札を「元の生活に戻す」ことを目標にするつもりは、今のところない。
 ただ、彼らに最低限の「見返り」を提示し、やる気を引き出し、その結果としてこの砦と海路の利益を最大化する――それなら、話は別だ。

 やる気のない労働力ほど、役に立たないものはない。
 逆に言えば、動機づけさえできれば、零札であれ何であれ、数字以上の働きを引き出せる可能性がある。

(そのためには、何を「餌」にすればいいでしょう)

 減刑の希望か、まともな寝床か、飢えない食事か。「名前」を取り戻す約束か。
 どれにどれだけ効き目があるかは、人によって違うだろう。

 棚の隅に、薄い冊子が立てかけてあるのが目に入った。

 帝都時代に、退屈しのぎに読んだ学者の論文をまとめたものだ。
 『心と脳の働きについての覚え書き』。複雑な数式と、素人にも分かるように噛み砕かれた例え話が混在している。

 ページをめくると、墨で線を引いた箇所が出てきた。

 ――人は、「危険を避ける」時よりも、「自分の選択が何かを変えた」と実感した時に、強い興奮を覚える。
 ――そのとき、脳のある部分が短く強く働き、それが「また同じことをしよう」という学習を促す。

(……つまり、「選ばされた」より、「自分で選んだ」の方が、長く動いてくれる、ということですね)

 別の頁には、こんなことも書かれていた。

 ――人は、強い恐怖のもとでは、目の前の危険以外に意識を向けにくくなる。
 ――長期の計画や協力行動には、「恐怖」よりも、「小さな褒美」と「仲間の視線」が有効である。

 恐怖だけで縛られた零札は、逃げるか、固まるか、壊れるかのどれかになりやすい。
 それでは、帝都の思惑どおりの「消耗品」にしかならない。

(この砦だけは、もう少しマシな使い方をしましょう)

 予算書を閉じる。代わりに、机の端に置いていた、まだ真新しい青い帳面を引き寄せた。

 表紙の革は、まだ柔らかく、手に吸い付くようだ。角は丸まっていない。中身はほとんど白紙――昼間、「このゲームの帳簿はこちらでつける」と宣言したばかりの帳簿だ。

 インク壺からペン先に墨を含ませ、最初のページを開く。

 昼間書いた最初の一行が、ランプの光を受けて浮かび上がる。

『この砦に配属される零札は、「使い捨て」ではなく、「回収可能な投資」として扱うこと。』

 それは、道徳ではなく、方針だ。

 その下に、新しく行を開き、さらさらと書き足していく。

 〈一、零札が到着したら、できる限り早い段階で簡易な聞き取りを行うこと。技能(船、荷役、工事、雑役)、嗜好(寒さへの耐性、人付き合いの得意・不得意)、「嫌ではない仕事」を把握する〉

 〈二、聞き取り結果をもとに、マリーハイツおよびヴァルム砦内での配置案を作成すること。本人の希望と、こちらの必要を「七対三」で折り合いをつける〉

 〈三、成果に応じた「見返り」を設定すること。減刑の余地がない者には、労働環境(寝床、食事、危険度)の改善を報酬とする〉

 〈四、零札の一部を、今後の海路再編に関わる「情報源」として扱うこと。現場の不満と状況を定期的に吸い上げ、反乱の兆候を予防する〉

 〈五、聞き取りと配置の結果を、必ず本人に口頭で伝えること。「自分の言葉が反映された」という実感を与えること〉

(「自分の選択が何かを変えた」と感じさせる――)

 さきほど読んだ脳の覚え書きの文と、帳面の文字が重なる。

 恐怖ではなく、「予想より少しだけ良い結果」が、人をよく働かせる。
 その仕組みを利用することに、何の罪悪感もなかった。むしろ、帝都の雑なやり方よりよほど誠実だとさえ思う。

(全員と話すのは、さすがに時間が足りませんね)

 三百近い人数――具体的な数は書類に記されているが、あえて数字を思い浮かべるのをやめる。
 数字にすると、「何人まで減ってよい」という帝都の考え方に引きずられる気がした。

(ならば、サンプルを)

 到着直後の零札の中から何人かを抽出して直接話を聞き、残りは「砦側」の人間に聞き取りを任せる。
 その方が、数字の精度と時間のバランスがよい。

 ちょうどそのとき、扉が二度、一定の間隔で叩かれた。

「入っています」

 返事をすると、扉が軋む音を立てて開く。

「おう。灯りついてたか」

 入ってきたのはカイだった。

 寝癖のついた黒髪に、外套の肩口には雪解けの水が黒い染みを作っている。片手には食堂から持ってきたらしい大きなマグカップ。湯気はほとんど立っていない。

「また一人で帳簿とにらめっこか」

 いつものように、彼は部屋の主のような顔でソファにどかっと腰を下ろした。

「はい」

 シュアラは、青い帳面の上にそっと手を置いた。自然と守るような形になる。

「零札に、どうやって働いてもらうかを考えていました」

「働いてもらう、ねえ」

 カイが片眉を上げる。マグを口に運びながら、視線だけをシュアラに向けた。

「てっきり、『かわいそうな連中をどう守るか』って話でもしてるのかと思ったが」

「救済は、私の専門外です」

 即答すると、カイの動きが一瞬止まった。

「私は財務官ですから。
 わざわざ輸送費をかけて送ってくる労働力を、最初から捨てていい前提で受け取るほど、計算が苦手ではありません」

「……言い方ァ、お前らしいな」

 カイは苦笑し、マグを机に置いた。

「で、その計算上、零札はどう扱うのが得なんだ?」

「最大限、働いてもらうことです」

 シュアラは、ためらいなく言う。

「そのためには、壊される前提の『道具』ではなく、『壊すとこちらが損をする労働力』だと思ってもらう必要がある。本人にも、周囲にも」

「思ってもらう、ねえ。どうやってだ」

「簡単です。本人たちに、まず何が『嫌ではない』か聞きます」

 青い帳面を少し回し、そこに書いた項目を指で示す。

「どんな仕事なら自分の力を使ってもいいと思えるか。
 何を条件にすれば、今より少しだけ頑張ろうと思えるか。人間の脳は、『自分で選んだ』と思った時の方が、長く動き続けるそうですから」

「は?」

 カイが間の抜けた声を出す。

「誰がそんなこと言ってた」

「帝都の学者です。難しい図がたくさん載っていましたが、要は『自分の選択が何かを変えたと感じるとき、人は気持ちよくなる』らしいです」

「……気持ちよくさせて働かせる、ってのは、なんか性質悪く聞こえるな」

「恐怖で縛るよりは、安上がりです」

 シュアラは淡々と返す。

「恐怖ばかり強くすると、人は目の前のことしか見えなくなる。逃げるか固まるかで精一杯になって、長く働いてくれません。それも、学者の本に書いてありました」

「本当に何でも帳簿か本で話をつけようとするな、お前は」

 カイは頭をかき、溜息をついた。

「明日、マリーハイツに向かいますね」

 シュアラは話題を繋げる。

「はいよ。港の連中に顔見せだ。零札を押し付けられる前に、向こうの腹も探っとかねえと」

「その件で、お願いがあります」

 シュアラは姿勢を正し、まっすぐカイを見る。

「零札が配属されたら、そのうち何人かを、マリーハイツ行きの便に同行させたいのです」

「……零札を、か?」

「はい。到着したばかりの彼らから、直接話を聞きたい。
 どのくらい泳げるのか、船に乗った経験はあるか、人前で話すのは得意か、寒さは平気か。そういう細かい情報は、紙の上の経歴だけでは分かりません」

 カイは腕を組み、少し目を細める。

「お前、零札をお飾りに連れて行く気じゃねえよな」

「飾っても意味がありません。
 彼らには、いずれ本当に海に出てもらいます。その前に、『自分の言葉がどこまで届くか』を試させる場としても、マリーハイツは都合がいい」

「……試す?」

「ええ。こちらが一方的に命令するだけでは、やる気は出ません。
 ですが、自分が話した内容が配置や待遇に反映されたと分かれば、『言えば変わる』という実感が生まれます。さきほどの本によれば、その瞬間に脳が喜ぶそうです」

「脳が喜ぶ、ねえ」

 カイは、どこか居心地悪そうに頭をかいた。

「残りの零札については、砦に残しておきます」

 シュアラは続けた。

「元刑徒兵たちに協力してもらい、砦内で何をしたいか、どんな作業なら続けられそうかを聞いてもらう。
 例えば、荷役が得意な者は倉庫と港の連絡役に、土仕事に慣れている者は補修班に。本人の希望を七割、砦の必要を三割として配分する計算です」

「七対三って、妙に具体的だな」

「五対五にすると、本人の『嫌』が勝って逃げます。
 九対一にすると、砦の側が不満を言います。中庸が最もコストが低いのは、たいてい七対三か六対四です」

「……お前、本当に零札のこと、数字にしか見えてねえだろ」

 カイは呆れたように笑った。

「道具として見ている帝都とは、違う種類の『数字』です」

 シュアラは、さも当然のように返す。

「壊しても怒られない道具は、壊れるたびにこちらの損失が増えます。
 だから私は、壊される前提の使い方をやめたい。彼らを大事に思っているからではなく、もったいないからです」

「もったいない、ねえ」

 カイはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。

「……聞きようによっちゃあ、帝都よりよっぽど人間らしい扱いだな、それは」

「評価ありがとうございます」

「褒めてねえよ」

 そう言いつつも、カイの声にはどこか力が抜けていた。

「で、その同行させる零札だが」

 彼は椅子から少し身を乗り出す。

「何人くらい、どんな顔ぶれを連れて行きてえ」

「十人前後を想定しています。
 全体の中から、できるだけばらけた経歴になるように抽出したいですね。年齢、出身地、元の職業……それと、できれば『まだ自分を人間だと思っている顔』を選びたい」

「顔で選ぶのかよ」

「脳の本に書いてありました」

 シュアラは淡々と嘘をついた。

「『自分を物だと思っている者の脳と、自分を人間だと思っている者の脳は、働き方が違う』そうです。前者は壊れやすいので、なるべく後者を残したい」

「……それは本じゃなくてお前の意見だろ」

「そうかもしれません」

 シュアラはわずかに口元を緩めた。

 カイは立ち上がり、青い帳面の方に歩み寄った。

「見せていいのか。それ、お前の新しいゲーム帳簿だろ」

「一部なら」

 シュアラは帳面を回し、先ほど書いた項目のところを開いてみせた。

 零札を「回収可能な投資」とする方針。
 聞き取りの項目。マリーハイツ同行組と砦残留組の扱い。

 カイは目で追いながら、しばらく黙っていた。

「……本気だな」

「もちろんです。零札をうまく使えれば、帝都の海路再編計画は、こちらにとっても悪い話ではありません。
 彼らのやる気を引き出せるかどうかが、こちら側の勝負どころです」

「人を『使う』って言い方、嫌いな奴もいるぞ」

「言葉を変えましょうか?」

 シュアラは首をかしげる。

「『最大限に活かす』では、甘すぎますか」

「……いや、そのままでいい」

 カイは苦笑し、帳面をそっと閉じた。

「甘くねえところが、お前のいいところなんだろうな。たぶん」

 彼はドアの方へ向かいかけて、ふと足を止める。

「そうだ。明日のことだ」

「マリーハイツですね」

「ああ」

 カイは振り返り、シュアラの顔を見た。

「港の連中も、帝都から来る役人も、零札も。みんな、『どう使えるか』って目で俺たちを見るはずだ。
 そのとき――」

 ほんの一瞬だけ、彼の表情が硬くなる。
 食堂で見た兵たちの顔と、同じ種類のこわばりだった。

「お前の帳簿の数字が、俺たちの首を守ってくれるなら、それでいい。救うとか救わねえとかは、その次でいい」

「団長の首は高価ですから」

 シュアラは、ごく真面目な声で返した。

「できるだけ長く、利子を生み続けていただかないと困ります」

「利子つけて返せるほど、いい人生送った覚えねえけどな」

 ぼやきとともに、扉が閉まる。

 部屋に再び静寂が戻った。ランプの火が、小さく揺れる。

 シュアラは、青い帳面に視線を落とす。

 マリーハイツ。零札。やる気。労働力。
 救済ではなく、回収。だが、その過程で、彼らが少しだけ「人間らしく」扱われるなら、それはそれで構わない。

(結果として、損失が減るなら)

 インク壺にペン先を戻し、蓋を閉める。

 分厚い石壁の向こう側で、雪解けの水が、ぽた、ぽたと落ちる音がする。規則的なようで、微妙にずれている。そのばらつきが、妙に心地よかった。

 ゼロではない音だ、とシュアラは思う。

 帝都の帳簿の上では、「何人か減っても損失なし」と書かれる零札たち。
 だが、この砦の帳簿の上だけは、減った分だけ確かに損失として記されるように――。

 青い帳面に手を置いたまま、シュアラはゆっくりと目を閉じた。明日の港町の騒音と、まだ見ぬ零札たちの顔を、数字の向こう側に思い描きながら。
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