54 / 70
第二章 マリーハイツ公約編
第三十四話 出航の朝
しおりを挟む
馬車の車輪が、砦の石畳の上で低くきしんだ。
まだ空は青とも黒ともつかない色だ。砦の塔の上には、夜の名残りの星が二つ三つ、かろうじて張り付いている。吐く息は白いが、真冬ほど鋭くはない。雪が溶けて露わになった石畳には、薄く泥水が光っていた。
「荷はこれで全部か?」
馬の首筋を撫でながら、ゲルトが短く問いかけた。
門前には、二台の馬車と、その周りを取り巻くようにして兵と零札たちが集まっている。その少し外側には、見送りに来た村の代表たちも肩を並べていた。干し肉と干し魚の樽、穀物袋、予備の武具。零札棟から出てきた男たちは、肩から薄い外套を引き寄せながら、積み込みを手伝っている。
砦の猫が一匹、場違いなほどのんびりと、その様子を眺めていた。
冬のあいだ勝手に砦に居着いた、灰色縞のやせた猫だ。今は荷車の脇の木箱に前足を揃えて座り、尾だけをゆっくりと揺らしている。
「団長、積み込み終わりました」
兵の一人が、荷台から顔を出して報告した。
カイが「分かった」と短く答える。
その声を合図にしたように、零札たちがざわめいた。
彼らの首には、冬のあいだ砦で配られていた木札が、相変わらずぶら下がっている。零札――帝都の帳簿上では一度死んだことにされ、ここで働かされている者たちだ。
「本当に、海に行くんだな」
「冗談だと思ってたんですか」
誰かの呟きに、別の誰かが笑い混じりに返す。
「だってよ、冬のあいだずっと『どうせ役人の机の上でひっくり返る話だ』って、皆で言ってたじゃないですか」
「そう言ってないとやってられなかったんだよ」
そんなやりとりを聞きながら、シュアラは布で顔を覆ったまま、静かに馬車のそばに立っていた。
布は、砦の倉から見繕ってきた薄手の麻布だ。顔の下半分を隠すように巻き、頭の後ろで結んでいる。帝都から来た官吏の顔をそのまま晒すには、あまりにも目立ちすぎるからだ。
「息苦しくないか」
隣に立ったカイが、小声で尋ねた。
「多少は」
シュアラは正直に答える。
「ですが、この程度でごまかせるのなら」
「役に立つって言い方やめろ」
カイは苦笑した。
「俺が嫌なだけだ。お前が苦しそうにしてるの見るのが」
「では、なるべく苦しそうに見えないようにします」
「そういう問題でもねえんだがな」
そんな会話をしていると、ゲルトがこちらに歩いてきた。
「若」
彼はカイを呼び止め、ちらりと零札たちの方を見る。
「こいつら、全員、自分で『行く』と言ったんだな」
「ああ」
カイは頷いた。
「無理やり連れてくつもりはねえ。行きたくないなら、ここに残って雪かきでもしてろって言った。でも――」
彼は零札たちの列を見渡す。
「誰も、残るって言わなかった」
零札の中の一人が、シュアラと目を合わせた。
冬のあいだ、倉の帳簿の付け方を教えた男だ。彼は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからすぐに目を逸らした。
「聞いたよ」
ゲルトはうなずき、零札たちを一人ひとり見回した。
「お前ら。団長たちの顔を立てに行くつもりなら、まず自分の足をちゃんと残して帰ってこい。いいな」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていない。
零札の一人が、乾いた喉で「了解しました」と答えた。
「……よし。言うことは言った」
ゲルトはカイの方へ向き直る。
「若。こっちは任せろ」
「ああ。こっちもなるべく、殴られないようにしてくる」
「殴られたくないなら、全員連れて帰ってこい」
荷の紐を締めていたフィンが、ひゅっと口笛を鳴らした。
「無茶言いますね、団長。帰りの分の酒、帳簿に載ってなくても請求しますよ」
ゲルトは、フィンの軽口を聞き流すようにして、わざとらしく咳払いをした。
「それから――」
彼は、シュアラの方をちらりと見やった。
「死人文官様。帳簿に書けない分まで、ちゃんと見てこい。海の数字と、人間の顔をよ」
「承知しました」
布の下で、シュアラの目がほんの少しだけ細くなる。
「では、行きましょうか」
カイが馬車の荷台に足をかけた。
「先に乗れ」
「いえ、団長が先に」
「いいから」
軽く押される形で、シュアラは馬車の後ろから上がる。荷の隙間に腰を下ろし、布で覆った顔を少しだけ外に向けた。砦の猫がこちらを一瞥し、あくびをひとつしてから、門の上の方へと歩き出す。
「帰ってきたら飯やるからな」
ボルグの野太い声に、猫は答えの代わりに尻尾を一度だけ振った。
門が開く。
石と鉄のこすれる音が、まだ柔らかい朝の空気を切り裂いた。
馬車が動き出す。
車輪が泥と石の境目を渡るたび、車体が大きく揺れる。そのたびに、荷の間で干し肉と穀物袋がかすかにきしむ。零札たちの笑いとも溜息ともつかない声が漏れた。
砦から港までは、馬で半刻ほどの道のりだった。
雪の名残がまだらに残る丘を下り、やがて潮風が鼻を刺し始める。冷たいはずなのに、砦の風とは違う湿り気を含んだ匂いだ。
「……塩の匂い」
シュアラは布の下で、小さく呟いた。
「海を見るのは初めてか?」
カイが尋ねる。
「ええ。帝都は内陸ですし、わたしの部署は海とは縁がありませんでしたから」
「そうか」
カイは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、初任地が海ってわけだな。死人文官の」
「縁起でもない言い方をしないでください」
そう言いつつも、シュアラは自分の胸の内に、わずかな高鳴りがあるのを自覚していた。
帝都の帳簿には、海の匂いは載っていない。
用紙の汚れや、インクのにじみから想像することはできても、本物は違う。
(数字の裏側にある現物を、ようやく見に行ける)
そう思うと、布の下で自然と息が深くなる。
御者台では、砦の馬を預かっている年配の男が手綱を操っていた。
もともと近くの村で馬車を走らせていた男だ。今回は荷馬車を借りる代わりに、港までの道案内も引き受けてくれたらしい。
「嬢ちゃんは、どこの出だ」
振り返らずに、御者が言った。
「帝都から来ました」
シュアラが答える。
「何しに」
「帳簿をつけに、です」
「……変わった嬢ちゃんだな」
御者は鼻を鳴らした。
「顔、隠してるのも、その仕事の一環かい」
「そういうことにしておいていただけると助かります」
「ふうん」
御者は興味なさそうに相槌を打ったが、その口元には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「団長さんの方は、見慣れた顔だがな」
「俺はただの荷物持ちだ」
カイが肩をすくめる。
「行った先で怒鳴られねえように、頭を下げに行くだけさ」
「怒鳴られに行く団長なんて、世の中そう多くねえよ」
御者はそう言って、馬の首を軽く叩いた。
「まあ、嬢ちゃんも団長さんも、無事に帰ってきな。あんたらが帰ってきた方が、この辺りの飯はうまくなる」
「飯……ですか」
「冬のあいだ、腹いっぱい食えたの、ここ十年で初めてだ」
御者の声が、少しだけ真面目になる。
「あんたらが砦で倉をひっくり返してくれなきゃ、何人かは餓死してたろうさ」
「それは、砦の判断で」
「その砦を動かしたのは誰だって話よ」
御者はそう言って、ちらりとカイを振り返った。
「村の年寄りどもが、まるで若い頃に戻ったみてえに喋ってたぞ。『あの若は、昔の戦で死んだ誰それに似てる』だの、『いや、もっとタチが悪い』だのってな」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
「褒めてるに決まってるだろ」
御者は短く笑った。
「腹がふくれりゃ、人間、機嫌もよくなる。そういう当たり前のことを、帳簿と倉の鍵でやってくれたんだ。あんたらは」
シュアラは、布の下で瞬きをした。
(帳簿と倉の鍵)
それは、彼女が帝都で扱っていたものと同じ言葉だ。
だが、意味はまるで違う。帝都では人間を削るための道具だったものが、ここでは人間を生かすための道具になっている。
「……恐縮です」
彼女は小さく頭を下げた。
「わたしたちは、ただ自分たちの仕事をしているだけです」
「そういう仕事が、こっちには足りてなかったんだよ」
御者はそう言って、前を向き直る。
「だから、生きて帰ってこい。嬢ちゃんも、団長さんも。あんたらが帰ってこねえと、砦の飯がまたまずくなる」
「海から帰ってきたときには、もっといいの食わせてやるからさ」
「ありがとうございます」
ちょうどその頃、湯気の立つ包みが荷台に回ってきた。村からの差し入れだろう。
シュアラはそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
布で顔を隠しているせいで、熱い湯気が頬にこもる。じゃがいもを一口かじると、芯の部分にまだ少しだけ固さが残っていた。だが、その素朴な甘みは、砦の「何でも煮込み」とはまた違う温かさを持っている。
「団長、これ、うまいっすね」
干し肉を齧りながら、フィンが感心したように言った。
「こんなまともな飯食ったあとに戦に出たら、胃袋が帰りたがりますよ」
「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」
シュアラが、さらりと返す。
「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削っていきます」
「勘弁してくれ」
カイが苦笑し、零札たちから小さな笑い声が漏れた。
その笑いには、まだ少し緊張が混じっている。見知らぬ海に向かうという事実が、彼らの背中を強ばらせているのだ。
(この人たちを、誰一人欠けさせずに連れ帰る)
シュアラは、布の下で小さく息を吸った。
帝都の帳簿に載らないなら、自分で書くしかない。
馬車が丘を下りきる頃、潮の匂いは一気に濃くなった。
小さな入江に造られた港は、すでに賑やかだった。
雪解け水を集めた川が海へと注ぎ込む手前、岩場を削って作られた簡素な桟橋が数本。そこに、荷船が二隻と、小型の漁船が十隻ほど。朝の薄い光が、水面で割れてきらきらと揺れている。
「団長ーっ!」
声が飛んだ。
村の子どもたちが、土の道を駆け下りてくる。昨日まで泥遊びをしていた顔だ。手を振りながら、馬車を追いかけてくる。
「港まで走るな、こけるぞ!」
砦の若い兵が、子どもたちの背中に向かって声を張り上げる。それでも足取りはほとんど緩まない。
「だって、海、初めてなんだもん!」
「魚、写真じゃなくて実物で見せてくださいって言ったじゃないですか、団長!」
一番前を走っていた少年が、馬車の荷台にいるカイの方へ向かって叫んだ。カイは思わず肩をすくめる。
「写真なんて高級なもん、こっちにはねえよ」
「じゃあ、本物を!」
「分かった分かった。帰りに、できるだけでっけえの持って帰る」
そう答えると、子どもたちの歓声が一斉に上がった。
桟橋のそばでは、村の代表たちが荷積みを手伝っていた。
冬のあいだ、カイとゲルトと一緒に倉の算段をしていた顔ぶれだ。頬に刻まれた皺は深いが、その目には冬を越えた者たちの強さがある。積み込みが終われば、彼らはまた陸に戻り、村と砦を守る番だ。
「本当に、いいのかい、若」
村長の一人が、カイに声をかけた。
「うちの零札になった息子まで連れて行っても」
「いいとも」
カイははっきりと言った。
「行きたい奴だけだ。行きたくない奴を無理に乗せても、海の上じゃ足手まといになる」
零札たちの方へも、同じ目を向ける。
「ここで留守番していた方がいいと思う奴は、今なら引き返してもいい。誰も責めねえ」
しばしの沈黙。
だが、誰一人動かなかった。
その様子を見ていたボルグが、鼻を鳴らした。
「聞いたか、若」
「聞いた」
カイはうなずく。
「じゃあ、行こうか」
船は、砦からの荷を積み終えていた。
冬のあいだはほとんど動いていなかった小型の貨物船だ。塗料はところどころ剥げているが、船体そのものはまだしっかりしている。
甲板に上がるための板が、桟橋から渡される。
零札たちが順番に乗り込んでいく。足元を確かめるように一歩ずつ。誰も、冗談を言わない。さっきまで子どもたちと一緒に笑っていた男でさえ、今は真面目な顔で板のきしみを聞いている。
「死人文官様」
ボルグが、シュアラの方を振り向いた。
「先にどうぞ」
「いえ、最後で構いません」
シュアラは首を振る。
「わたしは、人員の管理をしますので」
「人員、ねえ」
ボルグは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
シュアラは、桟橋の上から、船と港を一度見渡した。
雪解け水を運んでくる川。
その両岸に張り付くように建つ、石と木の家々。
まだ寒さの残る空気の中で、朝の光だけが少しずつ強さを増している。
(ここから、帝国の海に接続される。この砦からマリーハイツまでは、一度海に出てしまうのが昔からの決まりらしい)
帝都の地図でしか見てこなかった線が、今は目の前にある。
ガタリ、と板が鳴った。
「死人文官様」
カイの声がした。
「行くぞ」
「はい」
シュアラは、青い帳面を胸に抱え直し、船へと足を踏み出した。
甲板に上がった瞬間、足の裏に伝わる感覚が変わる。
固い石ではなく、わずかにたわむ木の感触。波の動きに合わせて、船全体がかすかに揺れている。
「船酔いしそうか?」
隣でカイが尋ねる。
「今のところは、まだ何とも」
「そうか」
カイは前を向いたまま、片手で手すりを叩いた。
「嫌になったら、すぐ言えよ。無理して吐かれると、後片付けするのはだいたい俺だ」
「経験者の言葉ですね」
「若い頃にな」
カイは苦笑する。
「よく分かった。『慣れれば平気だ』って言葉ほど当てにならねえもんはない」
「肝に銘じておきます」
シュアラは、青い帳面を開いた。
昨夜、「ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家」と題をつけ、「零札損耗率ゼロ」と書き込んだ同じ帳面だ。
その次のページを開き、上部に新しい行を書く。
『航路記録第1便/出発地:ヴァルム小港/目的地:マリーハイツ港』
ペン先が、船の揺れに合わせてわずかに震える。
『乗船予定:第七騎士団兵×○名/零札補助人員×○名/死人文官×1名』
最後の「死人文官」のところで、一瞬だけペンが止まった。
(死人、ですか)
自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の底で小さく渦を巻く。
だが、それもすぐに押し込めた。今は、この船の上にいる人間たちの数字が、何よりも優先される。
桟橋の方では、ボルグが最後の荷を確認していた。
砦から来た兵たちも、それぞれの持ち場に散っていく。フィンはマストの根元に立ち、港と海の境をじっと見ている。
砦の猫が、いつの間にか船に乗り込んでいた。
誰が連れてきたのか分からない。気付けば、甲板のロープの束の上で丸くなっている。人々の足元をするりと抜けて、桟橋へ伸びる太い係船ロープの方へ歩いていく。
「おい、猫」
フィンが呼び止めるが、猫はそ知らぬ顔だ。
ロープに前足を伸ばし、爪を立てて遊び始める。こんなところで綱を傷められてはかなわないと、ボルグが慌てて抱き上げようとした。その瞬間――猫は身をひるがえし、ひょいと桟橋の方へ飛び降りた。
軽い着地の音。
猫は何事もなかったかのように尻尾を立て、港の石段の方へ歩いていく。
「……海には乗らねえって顔だな、あいつ」
カイが、感心とも呆れともつかない声で言った。
「沈みたくないなら、最初から海になど乗らない。猫の方が、理にかなっています」
シュアラは、無意識にそう答えていた。
(人間は、それでも船を見れば乗ってしまう)
そんな思いを、布の下でそっと飲み込む。
「乗員、全員乗船!」
甲板の上で、誰かが声を張り上げた。
砦から来た兵たちと零札たち。全員がそれぞれの持ち場に立つ。
シュアラは、手すりのそばに位置を取った。海を見渡せる場所であり、同時に、船全体の動きを把握しやすい位置だ。
港の方では、子どもたちがまだ手を振り続けている。
「団長ー! 魚、忘れないでねー!」
「海の話、いっぱい聞かせてくださいー!」
その声の洪水の向こうで、ゲルトが腕を組んで立っていた。
彼は何も言わない。ただ、短く顎をしゃくり上げる。
カイがそれに応えるように片手を上げた。
「錨、上げろ!」
船長の声が飛ぶ。
係船ロープが外され、錨が引き上げられる音が、船底から鈍く響いてきた。
ゆっくりと、船が動き出す。
足元の木の板が、かすかに鳴る。
港の景色が、少しずつ後ろへ滑っていく。雪解け水の流れが白い筋になり、その先で灰色の海と混じり合っていく。
「怖いか?」
カイが、小さな声で尋ねた。
「……少しだけ」
シュアラは正直に答える。
「ですが、それ以上に――」
彼女は帳面を開き、空いている行に新しい文字を書き込んだ。
『出航時刻:○月○日/出航時零札損耗数:0名』
「それ以上に、この数字を守れるかどうかの方が、よほど怖いです」
カイが、その帳面を覗き込む。
「ゼロから先を書き足さないように、ってことか」
「はい」
シュアラはうなずいた。
「ここに『1』と書くことになった瞬間、わたしは、自分の仕事を失敗したと認めることになります」
「厳しいな」
「死人文官ですから」
シュアラは、布の下で口元を引き結んだ。
「一度死んだことにされた人たちを、二度目はちゃんと生かして返す。それが、わたしが勝手に決めた今回の仕事です」
「勝手に決めた、ねえ」
カイは小さく笑った。
「そういう勝手なら、いくらでも歓迎する」
「団長も、勝手な人でしょう」
「お互い様だ」
カイは肩をすくめる。
「怖いのは同じだよ。海も、帝国も。だけど――」
彼は、港が遠ざかっていくのを見つめながら続けた。
「怖えからって、何もしないでいるのが一番たちが悪い。俺たちが行かなきゃ、誰か別の奴らが行って、その分だけ無駄に死ぬ」
「……そうかもしれません」
「だから、せめて今回くらいは、ゼロで帰ろうぜ」
カイは、帳面の「零札損耗数:0名」の文字を指先で軽く叩いた。
「お前のゼロと、俺のゼロ、合わせてな」
「了解しました」
シュアラは、布の下でわずかに微笑んだ。
「その約束は、帳簿にも記しておきます」
「やめろ。後で帝都の誰かに読まれたら、くすぐったくて仕方ねえ」
「では、わたしの私物の帳面にだけ、こっそりと」
「それならまあ……」
カイは言葉を濁し、海の方を見た。
港が、さらに小さくなる。
やがて、雪解けの川が流れ込むラインも見えなくなり、代わりに、果てのない灰色の海と空が広がった。
風が頬を打つ。
塩の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。
まだ空は青とも黒ともつかない色だ。砦の塔の上には、夜の名残りの星が二つ三つ、かろうじて張り付いている。吐く息は白いが、真冬ほど鋭くはない。雪が溶けて露わになった石畳には、薄く泥水が光っていた。
「荷はこれで全部か?」
馬の首筋を撫でながら、ゲルトが短く問いかけた。
門前には、二台の馬車と、その周りを取り巻くようにして兵と零札たちが集まっている。その少し外側には、見送りに来た村の代表たちも肩を並べていた。干し肉と干し魚の樽、穀物袋、予備の武具。零札棟から出てきた男たちは、肩から薄い外套を引き寄せながら、積み込みを手伝っている。
砦の猫が一匹、場違いなほどのんびりと、その様子を眺めていた。
冬のあいだ勝手に砦に居着いた、灰色縞のやせた猫だ。今は荷車の脇の木箱に前足を揃えて座り、尾だけをゆっくりと揺らしている。
「団長、積み込み終わりました」
兵の一人が、荷台から顔を出して報告した。
カイが「分かった」と短く答える。
その声を合図にしたように、零札たちがざわめいた。
彼らの首には、冬のあいだ砦で配られていた木札が、相変わらずぶら下がっている。零札――帝都の帳簿上では一度死んだことにされ、ここで働かされている者たちだ。
「本当に、海に行くんだな」
「冗談だと思ってたんですか」
誰かの呟きに、別の誰かが笑い混じりに返す。
「だってよ、冬のあいだずっと『どうせ役人の机の上でひっくり返る話だ』って、皆で言ってたじゃないですか」
「そう言ってないとやってられなかったんだよ」
そんなやりとりを聞きながら、シュアラは布で顔を覆ったまま、静かに馬車のそばに立っていた。
布は、砦の倉から見繕ってきた薄手の麻布だ。顔の下半分を隠すように巻き、頭の後ろで結んでいる。帝都から来た官吏の顔をそのまま晒すには、あまりにも目立ちすぎるからだ。
「息苦しくないか」
隣に立ったカイが、小声で尋ねた。
「多少は」
シュアラは正直に答える。
「ですが、この程度でごまかせるのなら」
「役に立つって言い方やめろ」
カイは苦笑した。
「俺が嫌なだけだ。お前が苦しそうにしてるの見るのが」
「では、なるべく苦しそうに見えないようにします」
「そういう問題でもねえんだがな」
そんな会話をしていると、ゲルトがこちらに歩いてきた。
「若」
彼はカイを呼び止め、ちらりと零札たちの方を見る。
「こいつら、全員、自分で『行く』と言ったんだな」
「ああ」
カイは頷いた。
「無理やり連れてくつもりはねえ。行きたくないなら、ここに残って雪かきでもしてろって言った。でも――」
彼は零札たちの列を見渡す。
「誰も、残るって言わなかった」
零札の中の一人が、シュアラと目を合わせた。
冬のあいだ、倉の帳簿の付け方を教えた男だ。彼は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからすぐに目を逸らした。
「聞いたよ」
ゲルトはうなずき、零札たちを一人ひとり見回した。
「お前ら。団長たちの顔を立てに行くつもりなら、まず自分の足をちゃんと残して帰ってこい。いいな」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていない。
零札の一人が、乾いた喉で「了解しました」と答えた。
「……よし。言うことは言った」
ゲルトはカイの方へ向き直る。
「若。こっちは任せろ」
「ああ。こっちもなるべく、殴られないようにしてくる」
「殴られたくないなら、全員連れて帰ってこい」
荷の紐を締めていたフィンが、ひゅっと口笛を鳴らした。
「無茶言いますね、団長。帰りの分の酒、帳簿に載ってなくても請求しますよ」
ゲルトは、フィンの軽口を聞き流すようにして、わざとらしく咳払いをした。
「それから――」
彼は、シュアラの方をちらりと見やった。
「死人文官様。帳簿に書けない分まで、ちゃんと見てこい。海の数字と、人間の顔をよ」
「承知しました」
布の下で、シュアラの目がほんの少しだけ細くなる。
「では、行きましょうか」
カイが馬車の荷台に足をかけた。
「先に乗れ」
「いえ、団長が先に」
「いいから」
軽く押される形で、シュアラは馬車の後ろから上がる。荷の隙間に腰を下ろし、布で覆った顔を少しだけ外に向けた。砦の猫がこちらを一瞥し、あくびをひとつしてから、門の上の方へと歩き出す。
「帰ってきたら飯やるからな」
ボルグの野太い声に、猫は答えの代わりに尻尾を一度だけ振った。
門が開く。
石と鉄のこすれる音が、まだ柔らかい朝の空気を切り裂いた。
馬車が動き出す。
車輪が泥と石の境目を渡るたび、車体が大きく揺れる。そのたびに、荷の間で干し肉と穀物袋がかすかにきしむ。零札たちの笑いとも溜息ともつかない声が漏れた。
砦から港までは、馬で半刻ほどの道のりだった。
雪の名残がまだらに残る丘を下り、やがて潮風が鼻を刺し始める。冷たいはずなのに、砦の風とは違う湿り気を含んだ匂いだ。
「……塩の匂い」
シュアラは布の下で、小さく呟いた。
「海を見るのは初めてか?」
カイが尋ねる。
「ええ。帝都は内陸ですし、わたしの部署は海とは縁がありませんでしたから」
「そうか」
カイは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、初任地が海ってわけだな。死人文官の」
「縁起でもない言い方をしないでください」
そう言いつつも、シュアラは自分の胸の内に、わずかな高鳴りがあるのを自覚していた。
帝都の帳簿には、海の匂いは載っていない。
用紙の汚れや、インクのにじみから想像することはできても、本物は違う。
(数字の裏側にある現物を、ようやく見に行ける)
そう思うと、布の下で自然と息が深くなる。
御者台では、砦の馬を預かっている年配の男が手綱を操っていた。
もともと近くの村で馬車を走らせていた男だ。今回は荷馬車を借りる代わりに、港までの道案内も引き受けてくれたらしい。
「嬢ちゃんは、どこの出だ」
振り返らずに、御者が言った。
「帝都から来ました」
シュアラが答える。
「何しに」
「帳簿をつけに、です」
「……変わった嬢ちゃんだな」
御者は鼻を鳴らした。
「顔、隠してるのも、その仕事の一環かい」
「そういうことにしておいていただけると助かります」
「ふうん」
御者は興味なさそうに相槌を打ったが、その口元には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「団長さんの方は、見慣れた顔だがな」
「俺はただの荷物持ちだ」
カイが肩をすくめる。
「行った先で怒鳴られねえように、頭を下げに行くだけさ」
「怒鳴られに行く団長なんて、世の中そう多くねえよ」
御者はそう言って、馬の首を軽く叩いた。
「まあ、嬢ちゃんも団長さんも、無事に帰ってきな。あんたらが帰ってきた方が、この辺りの飯はうまくなる」
「飯……ですか」
「冬のあいだ、腹いっぱい食えたの、ここ十年で初めてだ」
御者の声が、少しだけ真面目になる。
「あんたらが砦で倉をひっくり返してくれなきゃ、何人かは餓死してたろうさ」
「それは、砦の判断で」
「その砦を動かしたのは誰だって話よ」
御者はそう言って、ちらりとカイを振り返った。
「村の年寄りどもが、まるで若い頃に戻ったみてえに喋ってたぞ。『あの若は、昔の戦で死んだ誰それに似てる』だの、『いや、もっとタチが悪い』だのってな」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
「褒めてるに決まってるだろ」
御者は短く笑った。
「腹がふくれりゃ、人間、機嫌もよくなる。そういう当たり前のことを、帳簿と倉の鍵でやってくれたんだ。あんたらは」
シュアラは、布の下で瞬きをした。
(帳簿と倉の鍵)
それは、彼女が帝都で扱っていたものと同じ言葉だ。
だが、意味はまるで違う。帝都では人間を削るための道具だったものが、ここでは人間を生かすための道具になっている。
「……恐縮です」
彼女は小さく頭を下げた。
「わたしたちは、ただ自分たちの仕事をしているだけです」
「そういう仕事が、こっちには足りてなかったんだよ」
御者はそう言って、前を向き直る。
「だから、生きて帰ってこい。嬢ちゃんも、団長さんも。あんたらが帰ってこねえと、砦の飯がまたまずくなる」
「海から帰ってきたときには、もっといいの食わせてやるからさ」
「ありがとうございます」
ちょうどその頃、湯気の立つ包みが荷台に回ってきた。村からの差し入れだろう。
シュアラはそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
布で顔を隠しているせいで、熱い湯気が頬にこもる。じゃがいもを一口かじると、芯の部分にまだ少しだけ固さが残っていた。だが、その素朴な甘みは、砦の「何でも煮込み」とはまた違う温かさを持っている。
「団長、これ、うまいっすね」
干し肉を齧りながら、フィンが感心したように言った。
「こんなまともな飯食ったあとに戦に出たら、胃袋が帰りたがりますよ」
「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」
シュアラが、さらりと返す。
「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削っていきます」
「勘弁してくれ」
カイが苦笑し、零札たちから小さな笑い声が漏れた。
その笑いには、まだ少し緊張が混じっている。見知らぬ海に向かうという事実が、彼らの背中を強ばらせているのだ。
(この人たちを、誰一人欠けさせずに連れ帰る)
シュアラは、布の下で小さく息を吸った。
帝都の帳簿に載らないなら、自分で書くしかない。
馬車が丘を下りきる頃、潮の匂いは一気に濃くなった。
小さな入江に造られた港は、すでに賑やかだった。
雪解け水を集めた川が海へと注ぎ込む手前、岩場を削って作られた簡素な桟橋が数本。そこに、荷船が二隻と、小型の漁船が十隻ほど。朝の薄い光が、水面で割れてきらきらと揺れている。
「団長ーっ!」
声が飛んだ。
村の子どもたちが、土の道を駆け下りてくる。昨日まで泥遊びをしていた顔だ。手を振りながら、馬車を追いかけてくる。
「港まで走るな、こけるぞ!」
砦の若い兵が、子どもたちの背中に向かって声を張り上げる。それでも足取りはほとんど緩まない。
「だって、海、初めてなんだもん!」
「魚、写真じゃなくて実物で見せてくださいって言ったじゃないですか、団長!」
一番前を走っていた少年が、馬車の荷台にいるカイの方へ向かって叫んだ。カイは思わず肩をすくめる。
「写真なんて高級なもん、こっちにはねえよ」
「じゃあ、本物を!」
「分かった分かった。帰りに、できるだけでっけえの持って帰る」
そう答えると、子どもたちの歓声が一斉に上がった。
桟橋のそばでは、村の代表たちが荷積みを手伝っていた。
冬のあいだ、カイとゲルトと一緒に倉の算段をしていた顔ぶれだ。頬に刻まれた皺は深いが、その目には冬を越えた者たちの強さがある。積み込みが終われば、彼らはまた陸に戻り、村と砦を守る番だ。
「本当に、いいのかい、若」
村長の一人が、カイに声をかけた。
「うちの零札になった息子まで連れて行っても」
「いいとも」
カイははっきりと言った。
「行きたい奴だけだ。行きたくない奴を無理に乗せても、海の上じゃ足手まといになる」
零札たちの方へも、同じ目を向ける。
「ここで留守番していた方がいいと思う奴は、今なら引き返してもいい。誰も責めねえ」
しばしの沈黙。
だが、誰一人動かなかった。
その様子を見ていたボルグが、鼻を鳴らした。
「聞いたか、若」
「聞いた」
カイはうなずく。
「じゃあ、行こうか」
船は、砦からの荷を積み終えていた。
冬のあいだはほとんど動いていなかった小型の貨物船だ。塗料はところどころ剥げているが、船体そのものはまだしっかりしている。
甲板に上がるための板が、桟橋から渡される。
零札たちが順番に乗り込んでいく。足元を確かめるように一歩ずつ。誰も、冗談を言わない。さっきまで子どもたちと一緒に笑っていた男でさえ、今は真面目な顔で板のきしみを聞いている。
「死人文官様」
ボルグが、シュアラの方を振り向いた。
「先にどうぞ」
「いえ、最後で構いません」
シュアラは首を振る。
「わたしは、人員の管理をしますので」
「人員、ねえ」
ボルグは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
シュアラは、桟橋の上から、船と港を一度見渡した。
雪解け水を運んでくる川。
その両岸に張り付くように建つ、石と木の家々。
まだ寒さの残る空気の中で、朝の光だけが少しずつ強さを増している。
(ここから、帝国の海に接続される。この砦からマリーハイツまでは、一度海に出てしまうのが昔からの決まりらしい)
帝都の地図でしか見てこなかった線が、今は目の前にある。
ガタリ、と板が鳴った。
「死人文官様」
カイの声がした。
「行くぞ」
「はい」
シュアラは、青い帳面を胸に抱え直し、船へと足を踏み出した。
甲板に上がった瞬間、足の裏に伝わる感覚が変わる。
固い石ではなく、わずかにたわむ木の感触。波の動きに合わせて、船全体がかすかに揺れている。
「船酔いしそうか?」
隣でカイが尋ねる。
「今のところは、まだ何とも」
「そうか」
カイは前を向いたまま、片手で手すりを叩いた。
「嫌になったら、すぐ言えよ。無理して吐かれると、後片付けするのはだいたい俺だ」
「経験者の言葉ですね」
「若い頃にな」
カイは苦笑する。
「よく分かった。『慣れれば平気だ』って言葉ほど当てにならねえもんはない」
「肝に銘じておきます」
シュアラは、青い帳面を開いた。
昨夜、「ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家」と題をつけ、「零札損耗率ゼロ」と書き込んだ同じ帳面だ。
その次のページを開き、上部に新しい行を書く。
『航路記録第1便/出発地:ヴァルム小港/目的地:マリーハイツ港』
ペン先が、船の揺れに合わせてわずかに震える。
『乗船予定:第七騎士団兵×○名/零札補助人員×○名/死人文官×1名』
最後の「死人文官」のところで、一瞬だけペンが止まった。
(死人、ですか)
自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の底で小さく渦を巻く。
だが、それもすぐに押し込めた。今は、この船の上にいる人間たちの数字が、何よりも優先される。
桟橋の方では、ボルグが最後の荷を確認していた。
砦から来た兵たちも、それぞれの持ち場に散っていく。フィンはマストの根元に立ち、港と海の境をじっと見ている。
砦の猫が、いつの間にか船に乗り込んでいた。
誰が連れてきたのか分からない。気付けば、甲板のロープの束の上で丸くなっている。人々の足元をするりと抜けて、桟橋へ伸びる太い係船ロープの方へ歩いていく。
「おい、猫」
フィンが呼び止めるが、猫はそ知らぬ顔だ。
ロープに前足を伸ばし、爪を立てて遊び始める。こんなところで綱を傷められてはかなわないと、ボルグが慌てて抱き上げようとした。その瞬間――猫は身をひるがえし、ひょいと桟橋の方へ飛び降りた。
軽い着地の音。
猫は何事もなかったかのように尻尾を立て、港の石段の方へ歩いていく。
「……海には乗らねえって顔だな、あいつ」
カイが、感心とも呆れともつかない声で言った。
「沈みたくないなら、最初から海になど乗らない。猫の方が、理にかなっています」
シュアラは、無意識にそう答えていた。
(人間は、それでも船を見れば乗ってしまう)
そんな思いを、布の下でそっと飲み込む。
「乗員、全員乗船!」
甲板の上で、誰かが声を張り上げた。
砦から来た兵たちと零札たち。全員がそれぞれの持ち場に立つ。
シュアラは、手すりのそばに位置を取った。海を見渡せる場所であり、同時に、船全体の動きを把握しやすい位置だ。
港の方では、子どもたちがまだ手を振り続けている。
「団長ー! 魚、忘れないでねー!」
「海の話、いっぱい聞かせてくださいー!」
その声の洪水の向こうで、ゲルトが腕を組んで立っていた。
彼は何も言わない。ただ、短く顎をしゃくり上げる。
カイがそれに応えるように片手を上げた。
「錨、上げろ!」
船長の声が飛ぶ。
係船ロープが外され、錨が引き上げられる音が、船底から鈍く響いてきた。
ゆっくりと、船が動き出す。
足元の木の板が、かすかに鳴る。
港の景色が、少しずつ後ろへ滑っていく。雪解け水の流れが白い筋になり、その先で灰色の海と混じり合っていく。
「怖いか?」
カイが、小さな声で尋ねた。
「……少しだけ」
シュアラは正直に答える。
「ですが、それ以上に――」
彼女は帳面を開き、空いている行に新しい文字を書き込んだ。
『出航時刻:○月○日/出航時零札損耗数:0名』
「それ以上に、この数字を守れるかどうかの方が、よほど怖いです」
カイが、その帳面を覗き込む。
「ゼロから先を書き足さないように、ってことか」
「はい」
シュアラはうなずいた。
「ここに『1』と書くことになった瞬間、わたしは、自分の仕事を失敗したと認めることになります」
「厳しいな」
「死人文官ですから」
シュアラは、布の下で口元を引き結んだ。
「一度死んだことにされた人たちを、二度目はちゃんと生かして返す。それが、わたしが勝手に決めた今回の仕事です」
「勝手に決めた、ねえ」
カイは小さく笑った。
「そういう勝手なら、いくらでも歓迎する」
「団長も、勝手な人でしょう」
「お互い様だ」
カイは肩をすくめる。
「怖いのは同じだよ。海も、帝国も。だけど――」
彼は、港が遠ざかっていくのを見つめながら続けた。
「怖えからって、何もしないでいるのが一番たちが悪い。俺たちが行かなきゃ、誰か別の奴らが行って、その分だけ無駄に死ぬ」
「……そうかもしれません」
「だから、せめて今回くらいは、ゼロで帰ろうぜ」
カイは、帳面の「零札損耗数:0名」の文字を指先で軽く叩いた。
「お前のゼロと、俺のゼロ、合わせてな」
「了解しました」
シュアラは、布の下でわずかに微笑んだ。
「その約束は、帳簿にも記しておきます」
「やめろ。後で帝都の誰かに読まれたら、くすぐったくて仕方ねえ」
「では、わたしの私物の帳面にだけ、こっそりと」
「それならまあ……」
カイは言葉を濁し、海の方を見た。
港が、さらに小さくなる。
やがて、雪解けの川が流れ込むラインも見えなくなり、代わりに、果てのない灰色の海と空が広がった。
風が頬を打つ。
塩の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。
21
あなたにおすすめの小説
感情の無い聖女様は、公爵への生贄にされてしまいました
九条 雛
恋愛
「――私など、ただの〝祈り人形〟でございます。人形に感情はありませぬ……」
悪逆非道の公爵の元へと生贄として捧げられてしまった聖女は、格子の付いた窓を見上げてそう呟く。
公爵は嗜虐に満ちた笑みを浮かべ言い放つ。
「これからは、三食きちんと食べてもらおう。こうして俺のモノとなったからには、今までのような生活を送れるとは思わぬことだな」
――これは、不幸な境遇で心を閉ざしてしまった少女と、その笑顔を取り戻そうとする男の物語。
一途に愛した1周目は殺されて終わったので、2周目は王子様を嫌いたいのに、なぜか婚約者がヤンデレ化して離してくれません!
夢咲 アメ
恋愛
「君の愛が煩わしいんだ」
婚約者である王太子の冷たい言葉に、私の心は砕け散った。
それから間もなく、私は謎の襲撃者に命を奪われ死んだ――はずだった。
死の間際に見えたのは、絶望に顔を歪ませ、私の名を叫びながら駆け寄る彼の姿。
……けれど、次に目を覚ました時、私は18歳の自分に戻っていた。
「今世こそ、彼を愛するのを辞めよう」
そう決意して距離を置く私。しかし、1周目であれほど冷酷だった彼は、なぜか焦ったように私を追いかけ、甘い言葉で縛り付けようとしてきて……?
「どこへ行くつもり? 君が愛してくれるまで、僕は君を離さないよ」
不器用すぎて愛を間違えたヤンデレ王子×今世こそ静かに暮らしたい令嬢。
死から始まる、執着愛の二周目が幕を開ける!
『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています
六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。
しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。
「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!
酔っぱらい令嬢の英雄譚 ~チョコレートを食べていたら、いつの間にか第三王子を救っていたようです!~
ゆずこしょう
恋愛
婚約者と共に参加するはずだった、
夜会当日──
婚約者は「馬車の予約ができなかった」という理由で、
迎えに来ることはなかった。
そして王宮で彼女が目にしたのは、
婚約者と、見知らぬ女性が寄り添う姿。
領地存続のために婿が必要だったエヴァンジェリンは、
感情に流されることもなく、
淡々と婚約破棄の算段を立て始める。
目の前にあった美味しいチョコレートをつまみながら、
頭の中で、今後の算段を考えていると
別の修羅場が始まって──!?
その夜、ほんの少しお酒を口にしたことで、
エヴァンジェリンの評価と人生は、
思いもよらぬ方向へ転がり始める──
2月11日 第一章完結
2月15日 第二章スタート予定
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
悪役令嬢を断罪したくせに、今さら溺愛とか都合が良すぎますわ!
nacat
恋愛
侯爵令嬢リディアは、無実の罪で婚約者の王太子に断罪された。
冷笑を浮かべ、すべてを捨てて国外へ去った彼女が、数年後、驚くべき姿で帰ってくる。
誰もが羨む天才魔導師として──。
今さら後悔する王太子、ざまぁを噛みしめる貴族令嬢たち。
そして、リディアをひそかに守ってきた公爵の青年が、ようやく想いを告げる時が来た。
これは、不当な断罪を受けた少女が、自分の誇りと愛を取り戻す溺愛系ロマンス。
すべての「裏切られた少女」たちに捧ぐ、痛快で甘く切ない逆転劇。
お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました
夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。
全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。
持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……?
これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。
【短編】婚約破棄?「喜んで!」食い気味に答えたら陛下に泣きつかれたけど、知らんがな
みねバイヤーン
恋愛
「タリーシャ・オーデリンド、そなたとの婚約を破棄す」「喜んで!」
タリーシャが食い気味で答えると、あと一歩で間に合わなかった陛下が、会場の入口で「ああー」と言いながら膝から崩れ落ちた。田舎領地で育ったタリーシャ子爵令嬢が、ヴィシャール第一王子殿下の婚約者に決まったとき、王国は揺れた。王子は荒ぶった。あんな少年のように色気のない体の女はいやだと。タリーシャは密かに陛下と約束を交わした。卒業式までに王子が婚約破棄を望めば、婚約は白紙に戻すと。田舎でのびのび暮らしたいタリーシャと、タリーシャをどうしても王妃にしたい陛下との熾烈を極めた攻防が始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる