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第二章 マリーハイツ公約編
第四十話 沈む順番の海図(1)
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窓の外では、まだ港がいつもの朝を演じていた。
薄い霧の上を、漁船の影がゆっくり行き交う。
荷を積む男たちの掛け声。魚箱を引きずる擦過音。
波が桟橋を叩く、小さな水音。
その全部が、二重のガラス越しに、ひとつ膜を挟んだように遠く聞こえる。
マリーハイツ役場二階の会議室は、外の賑わいとは別の空気で満ちていた。
磨かれた長机が三列。窓側には町側の人間、反対側には帝都海務院の一行。
出入口に近いところには、ヴァルム砦から来た者たちと零札たちが固まって座っている。
(今日、この部屋で――“沈む順番”が決まる)
そんな言葉が、シュアラの頭の片隅で形になった。
彼女はクラウス町長の斜め後ろ、書記役の席に座っている。
視界の端に見えるクラウスの横顔は、いつもの陽気な宿の主人とはまるで違う。
目元の皺は深く、唇は固く結ばれていた。
「……それでは、始めましょうか」
喉を一度鳴らしてから、クラウスが声を出す。
「遠いところ、ようこそおいでくださいました。帝都海務院の皆さま、ヴァルム砦の皆さま」
形式だけの挨拶に、簡素な拍手が散った。
海務院側の士官は薄く微笑み、リュシアは椅子の背にもたれたまま、退屈そうに片眉を上げる。
銀の髪。青白い顔。
年齢のわりに背の低い、厚底ブーツの少女。
帝国海務院・海洋魔導計算局の少技士――リュシア・フォン・クラウゼ。
クラウスが、遠慮がちな視線をシュアラに向ける。
「代案は言うな」と、事前に言い含められている視線だ。
(分かっていますよ、町長)
シュアラは視線で「了解」を返し、手元の帳簿を開いた。
まだ何も書かれていない頁の上で、羽ペンの先がかすかに震える。
「では――まずは帝都案のご説明を」
クラウスの促しに、海務院側の士官が立ち上がる。
髪をきっちり撫でつけた、中年の男だ。
「帝国海務院、海上航路管理局のコルネリウスです。本日は、北方海路の再編について……」
前置きは、教科書の序文のように滑らかだ。
いかに帝都が北方を重く見ているか。
いかに皇太子殿下が北方の安全を案じておられるか。
どれも正しく、耳あたりもよく、そして現場の寒さからは遠い。
ひと通りの挨拶を終えると、コルネリウスは壁際の大きな海図へと歩み寄った。
椅子が引かれる音が連鎖し、視線が海図に集まる。
北方の海を描いた羊皮紙の上で、いくつもの色線が交差していた。
帝都とヴァルム、マリーハイツ、周辺の港や村。
そこを結ぶ航路が、青や赤や黒の線で示されている。
「詳しい説明は――」
コルネリウスが一歩下がる。
「計算局の少技士、リュシア・フォン・クラウゼが担当します」
銀髪の少女が、椅子をくるりと回して立ち上がった。
「はい。では、始めますね」
小さな体に似合わない、よく通る声だった。
リュシアは、教室の子どもに話しかけるみたいな口調で言葉を継ぐ。
「まず、今の海です」
彼女は青いチョークを取り、海図に沿ってさらさらと線を引いた。
帝都から北へ伸びる太い線。そこからヴァルムとマリーハイツへ枝分かれする細い線。
「ここが主な補給線。帝都からの物資が、ヴァルム砦とマリーハイツを経由して、さらに小さな町や村へ流れていきます」
説明自体は簡潔だ。
だが、その線一本一本が、何人分の冬越しと、何人分の飢えを意味するかを知っている者には、重すぎる図でもある。
「で、問題は――」
リュシアは今度は赤いチョークを取り出し、北の方角に斜めの帯を引いた。
「ここ。これから三十年ぐらいのあいだに、嵐の通り道と、氷の張る範囲が、こう動きます」
細い指先が、赤い帯の上をなぞる。
「海務院の記録と魔導観測から出した予測です。――嵐が少し南に降りてきて、この辺りの航路に前より強い負荷がかかる、ってことですね」
コルネリウスが、横から補足するように頷いた。
「つまり、そのままでは、いずれどこかの港が“運悪く”途絶する可能性が高い、ということです」
(端折ったわね)
シュアラは、心の中でだけ小さく息を吐く。
本当はもっと複雑な数式と余白が、その一文の裏にあるはずだ。
だが、こうやって「まとめて」しまう方が、会議では受け入れられやすい。
リュシアは、青と赤が交差する地点に白いチョークで丸を描いた。
「そこで。嵐の通り道と、氷の変動を前提にして、航路の“優先順位”を組み直します」
会議室の空気が、わずかに固くなる。
「優先順位、とな」
クラウスが、低く繰り返した。
「はい」
リュシアはあっさりと頷く。
「全部を均等に守ろうとすると、どこも守れなくなるんですよ。だから最初に決めておきます。どの道を絶対に折らないか。……そして、どの道から――折っていくかを」
最後の一言だけ、声がわずかに沈んで聞こえた。
(来た)
シュアラは、羽ペンを握り直す。
「この海図は、帝都と北方の港をつなぐための“背骨”です」
リュシアは海図の中央、太い青線を軽く叩いた。
「背骨を守るために、手足のどこまでを切り離すか。それを決めたものが――この案になります」
机の上に置かれた分厚い書類の束。
表紙には「北方航路再編案/提起」と、帝都式の整った文字が踊っている。
(背骨、ね)
シュアラは、紙の端を指で撫でた。
(背骨にも、切り離される手足にも、それぞれ心臓はついているはずなんですが)
口には出さない。
代わりに、目の前の帳簿の見出しに小さく書き込む。
『帝都案:背骨と切り離し/マリーハイツ位置 要検証』
外から見れば、ただの事務的なメモだ。
「では、“沈む順番”の話に入ります」
リュシアが、さらりと言った。
その言葉を、会議室全体が一拍遅れて飲み込む。
零札の男が一人、思わず椅子の上で姿勢を直す。
カイは、後ろの方の席で腕を組んだまま、視線だけを鋭くした。
窓の外では、港が相変わらずの朝を演じている。
この部屋の中でだけ、別の台本が広げられていた。
*
「まず、港や町ごとの“沈む順番”については――」
リュシアは、淡々と紙をめくる。
「先日お話しした通りです。大きな港はなるべく最後まで残し、小さな入り江は嵐のときに切り離す。その代わり、普段からマリーハイツのような中規模港に荷を集約しておく。……そういう役割分担ですね」
漁師たちの顔に、あからさまな不満の色が浮かんだ。
けれど、そこまではまだ「損な役回りだが、分からなくはない」話でもある。
「今日、ここで決めるのは、その次です」
リュシアは、机の上に用意された板を引き寄せた。
黒く塗られた小さな板に、白い線でいくつかの枠が描かれている。
「船の中の、沈む順番」
彼女は、板の左端に縦線を引き、枠を五つに区切った。
「一隻の船の中に、いろんな人が乗りますよね。乗客、船員、兵士、零札、刑徒……あと、積み荷も」
列席している零札たちの肩が、わずかにこわばる。
つい数日前まで奴隷に近い扱いを受けていた者も多い。
「海難が起きたとき、全員を一度に守ることはできません」
会議室の空気が、さらに冷えた。
「だから、最初から決めておきます。どこまでを『どうしても沈めたくない』枠に入れるか。どこからを、『沈んでもらうかもしれない』枠に入れるか」
リュシアは、一番上の枠に白いチョークで書き込む。
「上から順番に――」
一行目。
『貴族・高位魔導師・極めて高価な貨物』
二行目。
『通常の乗客・兵・船員』
三行目。
『零札のうち、技能持ち/重要任務従事者』
四行目。
『零札・刑徒(一般)』
最後の枠だけ、少し間を置いてから書き足す。
『想定損耗枠』
その言葉だけ、声に出さなかった。
チョークの走る音だけが、会議室にやけに大きく響く。
窓の外で、ちょうど波が桟橋を強く叩いた。
シュアラは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(やっぱり、そういう形にしたのね)
帝都で見た書類を思い出す。
数字だけで書かれた「許容損耗率」。
そこには、「誰」が沈むのかは、一文字も書かれていなかった。
「……上の二段は、『できるだけ沈めたくない』枠です」
リュシアが、わざと軽い調子で説明を続けた。
「ここに入っている人たちが沈むと、帝都も現場も困ります。大きな損失になりますからね」
数人の目が、ちらりとこちらを見る。
「貴族」という言葉で、シュアラを連想したのだろう。
彼女は、銀の半仮面の下で表情を動かさないようにした。
「三段目は、零札だけど、いなくなると作業が止まる人たち。魔導の維持とか、船の操舵とか。そういう人たちは、なるべく守った方がいいです」
「なるべく、ねえ」
誰かが、低く呟いた。
「四段目と、最後の枠が――」
リュシアが一瞬だけ言葉を選ぶように黙る。
「……“切り離す候補”です」
会議室のどこかで、椅子がきしむ音がした。
「ふざけるなよ」
最初に声を上げたのは、窓際に座っていた漁師の男だった。
日焼けした腕に、魚の血の跡がまだうっすら残っている。
「切り離す候補ってのは、要するに、真っ先に海に落とす連中って意味じゃねえか」
「落とす、とは言っていません」
リュシアは、きっぱりと言い返す。
「優先順位を決めるだけです。どこまで助けて、どこから諦めるかの線を、あらかじめ引いておく」
「同じだろうが!」
漁師の拳が、机を叩いた。
インク壺がかすかに揺れ、シュアラはとっさに手帳を押さえる。
「沈むときに、誰から手を離すか、最初から紙に書いておく。そんなもん、ただの“海に捨てる順番”だ!」
怒鳴り声に、零札たちの視線が一斉に床に落ちた。
自分たちの名前がどの枠に入っているか、言われなくても分かっている。
「親方、落ち着けよ」
零札の男が一人、苦笑いを浮かべて漁師をなだめようとする。
「まあまあ。俺たちゃ、最初から“数に入らねえ分”だ。今さら枠が一つ増えたところで、大して変わりゃしませんって」
笑いながら言う。
だが、その笑いは喉の奥でからからと空回りするだけだ。
(変わりますよ)
シュアラは、心の中でだけ反論する。
(あなたたちを“想定損耗”と書いた瞬間、その分は『失ってもいい数字』に変わる。それは、まったく違う)
けれど今、それを口に出せば、会議が壊れる。
壊れた会議のあとで、帝都案だけが一方的に通る未来が見える。
「怒るのは、分かります」
リュシアが、真正面から漁師を見た。
銀の瞳が、まっすぐだ。
「でも、決めておかないと、もっとひどくなります」
「もっと、だと?」
「沈むとき、人は、順番なんて考えません」
彼女の声が、少しだけ小さくなる。
「掴めるものを掴んで、押せるものを押して、近くにいる誰かを踏んででも、上に上がろうとする。そのたびに、誰かが恨みを抱いて、誰かが『自分だけ切り捨てられた』って思う」
リュシアは、板の最後の枠を指先で叩いた。
「最初から、『ここまで守って、ここからは守れません』って決めておけば――少なくとも、『助かったのに、助けなかった』って争いは減ります」
「減らすために、人を捨てるのか」
漁師の声は、もう怒鳴りではなかった。
長い冬と長い潮をくぐってきた、大人の声だ。
「はい」
リュシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それでも頷いた。
「その方が、全体としての損失は、少なくなりますから」
その言葉は、教科書通りの正しさを持っていた。
海務院で何度も叩き込まれたロジック。
でも――。
(それで、あなた自身は本当に納得しているんですか)
シュアラは、銀の瞳の奥を覗き込むように見つめる。
リュシアの口元が、少しだけ歪んだ。
「……本当は、誰も沈めたくないですけどね」
ぽつり、と。
聞こえるかどうかの声で、彼女は付け足した。
薄い霧の上を、漁船の影がゆっくり行き交う。
荷を積む男たちの掛け声。魚箱を引きずる擦過音。
波が桟橋を叩く、小さな水音。
その全部が、二重のガラス越しに、ひとつ膜を挟んだように遠く聞こえる。
マリーハイツ役場二階の会議室は、外の賑わいとは別の空気で満ちていた。
磨かれた長机が三列。窓側には町側の人間、反対側には帝都海務院の一行。
出入口に近いところには、ヴァルム砦から来た者たちと零札たちが固まって座っている。
(今日、この部屋で――“沈む順番”が決まる)
そんな言葉が、シュアラの頭の片隅で形になった。
彼女はクラウス町長の斜め後ろ、書記役の席に座っている。
視界の端に見えるクラウスの横顔は、いつもの陽気な宿の主人とはまるで違う。
目元の皺は深く、唇は固く結ばれていた。
「……それでは、始めましょうか」
喉を一度鳴らしてから、クラウスが声を出す。
「遠いところ、ようこそおいでくださいました。帝都海務院の皆さま、ヴァルム砦の皆さま」
形式だけの挨拶に、簡素な拍手が散った。
海務院側の士官は薄く微笑み、リュシアは椅子の背にもたれたまま、退屈そうに片眉を上げる。
銀の髪。青白い顔。
年齢のわりに背の低い、厚底ブーツの少女。
帝国海務院・海洋魔導計算局の少技士――リュシア・フォン・クラウゼ。
クラウスが、遠慮がちな視線をシュアラに向ける。
「代案は言うな」と、事前に言い含められている視線だ。
(分かっていますよ、町長)
シュアラは視線で「了解」を返し、手元の帳簿を開いた。
まだ何も書かれていない頁の上で、羽ペンの先がかすかに震える。
「では――まずは帝都案のご説明を」
クラウスの促しに、海務院側の士官が立ち上がる。
髪をきっちり撫でつけた、中年の男だ。
「帝国海務院、海上航路管理局のコルネリウスです。本日は、北方海路の再編について……」
前置きは、教科書の序文のように滑らかだ。
いかに帝都が北方を重く見ているか。
いかに皇太子殿下が北方の安全を案じておられるか。
どれも正しく、耳あたりもよく、そして現場の寒さからは遠い。
ひと通りの挨拶を終えると、コルネリウスは壁際の大きな海図へと歩み寄った。
椅子が引かれる音が連鎖し、視線が海図に集まる。
北方の海を描いた羊皮紙の上で、いくつもの色線が交差していた。
帝都とヴァルム、マリーハイツ、周辺の港や村。
そこを結ぶ航路が、青や赤や黒の線で示されている。
「詳しい説明は――」
コルネリウスが一歩下がる。
「計算局の少技士、リュシア・フォン・クラウゼが担当します」
銀髪の少女が、椅子をくるりと回して立ち上がった。
「はい。では、始めますね」
小さな体に似合わない、よく通る声だった。
リュシアは、教室の子どもに話しかけるみたいな口調で言葉を継ぐ。
「まず、今の海です」
彼女は青いチョークを取り、海図に沿ってさらさらと線を引いた。
帝都から北へ伸びる太い線。そこからヴァルムとマリーハイツへ枝分かれする細い線。
「ここが主な補給線。帝都からの物資が、ヴァルム砦とマリーハイツを経由して、さらに小さな町や村へ流れていきます」
説明自体は簡潔だ。
だが、その線一本一本が、何人分の冬越しと、何人分の飢えを意味するかを知っている者には、重すぎる図でもある。
「で、問題は――」
リュシアは今度は赤いチョークを取り出し、北の方角に斜めの帯を引いた。
「ここ。これから三十年ぐらいのあいだに、嵐の通り道と、氷の張る範囲が、こう動きます」
細い指先が、赤い帯の上をなぞる。
「海務院の記録と魔導観測から出した予測です。――嵐が少し南に降りてきて、この辺りの航路に前より強い負荷がかかる、ってことですね」
コルネリウスが、横から補足するように頷いた。
「つまり、そのままでは、いずれどこかの港が“運悪く”途絶する可能性が高い、ということです」
(端折ったわね)
シュアラは、心の中でだけ小さく息を吐く。
本当はもっと複雑な数式と余白が、その一文の裏にあるはずだ。
だが、こうやって「まとめて」しまう方が、会議では受け入れられやすい。
リュシアは、青と赤が交差する地点に白いチョークで丸を描いた。
「そこで。嵐の通り道と、氷の変動を前提にして、航路の“優先順位”を組み直します」
会議室の空気が、わずかに固くなる。
「優先順位、とな」
クラウスが、低く繰り返した。
「はい」
リュシアはあっさりと頷く。
「全部を均等に守ろうとすると、どこも守れなくなるんですよ。だから最初に決めておきます。どの道を絶対に折らないか。……そして、どの道から――折っていくかを」
最後の一言だけ、声がわずかに沈んで聞こえた。
(来た)
シュアラは、羽ペンを握り直す。
「この海図は、帝都と北方の港をつなぐための“背骨”です」
リュシアは海図の中央、太い青線を軽く叩いた。
「背骨を守るために、手足のどこまでを切り離すか。それを決めたものが――この案になります」
机の上に置かれた分厚い書類の束。
表紙には「北方航路再編案/提起」と、帝都式の整った文字が踊っている。
(背骨、ね)
シュアラは、紙の端を指で撫でた。
(背骨にも、切り離される手足にも、それぞれ心臓はついているはずなんですが)
口には出さない。
代わりに、目の前の帳簿の見出しに小さく書き込む。
『帝都案:背骨と切り離し/マリーハイツ位置 要検証』
外から見れば、ただの事務的なメモだ。
「では、“沈む順番”の話に入ります」
リュシアが、さらりと言った。
その言葉を、会議室全体が一拍遅れて飲み込む。
零札の男が一人、思わず椅子の上で姿勢を直す。
カイは、後ろの方の席で腕を組んだまま、視線だけを鋭くした。
窓の外では、港が相変わらずの朝を演じている。
この部屋の中でだけ、別の台本が広げられていた。
*
「まず、港や町ごとの“沈む順番”については――」
リュシアは、淡々と紙をめくる。
「先日お話しした通りです。大きな港はなるべく最後まで残し、小さな入り江は嵐のときに切り離す。その代わり、普段からマリーハイツのような中規模港に荷を集約しておく。……そういう役割分担ですね」
漁師たちの顔に、あからさまな不満の色が浮かんだ。
けれど、そこまではまだ「損な役回りだが、分からなくはない」話でもある。
「今日、ここで決めるのは、その次です」
リュシアは、机の上に用意された板を引き寄せた。
黒く塗られた小さな板に、白い線でいくつかの枠が描かれている。
「船の中の、沈む順番」
彼女は、板の左端に縦線を引き、枠を五つに区切った。
「一隻の船の中に、いろんな人が乗りますよね。乗客、船員、兵士、零札、刑徒……あと、積み荷も」
列席している零札たちの肩が、わずかにこわばる。
つい数日前まで奴隷に近い扱いを受けていた者も多い。
「海難が起きたとき、全員を一度に守ることはできません」
会議室の空気が、さらに冷えた。
「だから、最初から決めておきます。どこまでを『どうしても沈めたくない』枠に入れるか。どこからを、『沈んでもらうかもしれない』枠に入れるか」
リュシアは、一番上の枠に白いチョークで書き込む。
「上から順番に――」
一行目。
『貴族・高位魔導師・極めて高価な貨物』
二行目。
『通常の乗客・兵・船員』
三行目。
『零札のうち、技能持ち/重要任務従事者』
四行目。
『零札・刑徒(一般)』
最後の枠だけ、少し間を置いてから書き足す。
『想定損耗枠』
その言葉だけ、声に出さなかった。
チョークの走る音だけが、会議室にやけに大きく響く。
窓の外で、ちょうど波が桟橋を強く叩いた。
シュアラは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(やっぱり、そういう形にしたのね)
帝都で見た書類を思い出す。
数字だけで書かれた「許容損耗率」。
そこには、「誰」が沈むのかは、一文字も書かれていなかった。
「……上の二段は、『できるだけ沈めたくない』枠です」
リュシアが、わざと軽い調子で説明を続けた。
「ここに入っている人たちが沈むと、帝都も現場も困ります。大きな損失になりますからね」
数人の目が、ちらりとこちらを見る。
「貴族」という言葉で、シュアラを連想したのだろう。
彼女は、銀の半仮面の下で表情を動かさないようにした。
「三段目は、零札だけど、いなくなると作業が止まる人たち。魔導の維持とか、船の操舵とか。そういう人たちは、なるべく守った方がいいです」
「なるべく、ねえ」
誰かが、低く呟いた。
「四段目と、最後の枠が――」
リュシアが一瞬だけ言葉を選ぶように黙る。
「……“切り離す候補”です」
会議室のどこかで、椅子がきしむ音がした。
「ふざけるなよ」
最初に声を上げたのは、窓際に座っていた漁師の男だった。
日焼けした腕に、魚の血の跡がまだうっすら残っている。
「切り離す候補ってのは、要するに、真っ先に海に落とす連中って意味じゃねえか」
「落とす、とは言っていません」
リュシアは、きっぱりと言い返す。
「優先順位を決めるだけです。どこまで助けて、どこから諦めるかの線を、あらかじめ引いておく」
「同じだろうが!」
漁師の拳が、机を叩いた。
インク壺がかすかに揺れ、シュアラはとっさに手帳を押さえる。
「沈むときに、誰から手を離すか、最初から紙に書いておく。そんなもん、ただの“海に捨てる順番”だ!」
怒鳴り声に、零札たちの視線が一斉に床に落ちた。
自分たちの名前がどの枠に入っているか、言われなくても分かっている。
「親方、落ち着けよ」
零札の男が一人、苦笑いを浮かべて漁師をなだめようとする。
「まあまあ。俺たちゃ、最初から“数に入らねえ分”だ。今さら枠が一つ増えたところで、大して変わりゃしませんって」
笑いながら言う。
だが、その笑いは喉の奥でからからと空回りするだけだ。
(変わりますよ)
シュアラは、心の中でだけ反論する。
(あなたたちを“想定損耗”と書いた瞬間、その分は『失ってもいい数字』に変わる。それは、まったく違う)
けれど今、それを口に出せば、会議が壊れる。
壊れた会議のあとで、帝都案だけが一方的に通る未来が見える。
「怒るのは、分かります」
リュシアが、真正面から漁師を見た。
銀の瞳が、まっすぐだ。
「でも、決めておかないと、もっとひどくなります」
「もっと、だと?」
「沈むとき、人は、順番なんて考えません」
彼女の声が、少しだけ小さくなる。
「掴めるものを掴んで、押せるものを押して、近くにいる誰かを踏んででも、上に上がろうとする。そのたびに、誰かが恨みを抱いて、誰かが『自分だけ切り捨てられた』って思う」
リュシアは、板の最後の枠を指先で叩いた。
「最初から、『ここまで守って、ここからは守れません』って決めておけば――少なくとも、『助かったのに、助けなかった』って争いは減ります」
「減らすために、人を捨てるのか」
漁師の声は、もう怒鳴りではなかった。
長い冬と長い潮をくぐってきた、大人の声だ。
「はい」
リュシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それでも頷いた。
「その方が、全体としての損失は、少なくなりますから」
その言葉は、教科書通りの正しさを持っていた。
海務院で何度も叩き込まれたロジック。
でも――。
(それで、あなた自身は本当に納得しているんですか)
シュアラは、銀の瞳の奥を覗き込むように見つめる。
リュシアの口元が、少しだけ歪んだ。
「……本当は、誰も沈めたくないですけどね」
ぽつり、と。
聞こえるかどうかの声で、彼女は付け足した。
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