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第二章 マリーハイツ公約編
第三十九話 悪ガキと白い器
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宿の食堂は、同じ部屋のはずなのに、別の場所になっていた。
昼間は漁師や旅人でごった返していた長机に、今夜は白い布が掛けられている。
油じみを全部は隠しきれていないが、それでも布一枚あるだけで、木の節や傷が柔らかくぼやけて見えた。壁際には、いつもより多くのランプが吊るされ、炎の数に比例するように、空気に混じる緊張も増えている。
窓の外には、坂を下った先の港の明かりが、点々と揺れていた。
マストに巻きついた灯りの列。その中に、ひときわ高い位置で、帝国旗の影が黒く揺れる。
「……すげえな」
先に座っていたカイが、白布の端を指でつまんだ。
「この宿で、こんなよそ行きな格好見られるとはな」
「あなたの鎧も、だいぶよそ行きですよ」
向かいに座るシュアラが、布の下から肩口を見やる。
「普段は、もう少し傷だらけでした」
「磨いたんだよ。こっちも『視察団』とやらに笑われちゃたまらねえからな」
カイは肩を鳴らし、ちらりと長机の端に視線をやった。そこには零札たちが固まって座っている。
いつもの擦り切れた作業服ではなく、砦から借りてきたまだましな服。着慣れない襟と袖に、誰もが落ち着かない手つきをしていた。
「縁起でもねえ」
誰かが小さく呟き、乾いた笑いが起きる。その笑いにも、どこか硬さが残っていた。
テーブルの反対側には、町側の人々が並んでいた。
クラウスを先頭に、港の網元や魚商人、役所の書記官。皆、普段より固い表情で、自分の手の置き場を探している。
(今日は、三つの視線が一つの机に押し込まれている)
砦の兵と零札。
港町の大人たち。
帝都から来た海務院の一行。
シュアラは、卓上に置かれた空の器を眺めながら、心の中で駒の配置を確認するように、ゆっくりと視線を巡らせた。
開け放たれた扉から、外のざわめきが流れ込んでくる。
坂の上まで響いていた子どもたちの声は消え、今は押し殺した囁きと、革靴が石畳を踏む硬い音だけが近づいてきていた。
やがて、そのざわめきが一つの気配にまとまり、食堂の入口でぴたりと止まる。
「海務院視察団、ご到着です」
宿の主人の声が響き、全員が一斉に立ち上がった。
最初に入ってきたのは、黒い軍服の男だった。
金糸で縁取られた肩章。きっちりと締められた襟。海で鍛えられたのか、壁のように厚い胸板をしている。彼の後ろに、同じような黒衣の技官たちが列をなし、その列の中ほどに、小さな影が混じっていた。
銀鼠色の髪。
片方ずつ色の違う瞳。
黒いミニコートの裾からのぞく細い脚。
その少女が一歩踏み出すたび、厚底のブーツの底が、板張りの床を小さく鳴らした。
「帝国海務院 海洋魔導計算局・少技士――」
先頭の士官が振り返り、少し芝居掛かった調子で声を張る。
「リュシア・フォン・クラウゼ少技士。北方海路再編計画の計算担当官である」
「少技士で構いません」
少女が、軽く手を振った。
にこりと笑った顔は、年相応の子どものようでもあり、どこか人形めいてもいる。
「私、リュシア・フォン・クラウゼと言います。十三歳です。船の位置と数、人と物の流れ、港の深さと潮の癖。そういうものを全部まとめて、『この町と、この冬にとって一番ましな海路はどれか』を計算するのが、今の仕事です」
簡潔で、無駄のない自己紹介だった。
その中に、「十三歳」と「仕事」という二つの単語が、きっちり詰め込まれている。
「十三……?」
零札の一人が、思わず声を漏らした。
「俺の娘と、そう変わらねえ歳じゃねえか」
「歳は勝手に増えるだけですから」
リュシアは、さらりと言った。
「役に立つ頭があるかどうかは、放っておいても増えません。十三の頭が一つあるだけで船が十隻助かるなら、大人の頭が十人分集まるより安上がりですよ」
口調は明るく、説明はわかりやすい。
内容は、ひどく冷たい。
(やはり、この子が)
シュアラは、布の下で眉をわずかに上げた。
(沈む順番の紙を書いてきた子)
「そして、深海契約の器――」
士官の声色が、ほんのわずかに硬くなる。
白いドレスの裾が、静かに揺れた。
長い髪をきちんと結い上げられ、首筋には淡い光を帯びた刻印。
リリーシアは、港で見たときと同じ顔で、同じ姿勢で立っていた。十年前から一歩も進んでいない時間を、その身に貼り付けているかのように。
「リリーシア・アルスリス。帝国海務院 零海域観測隊所属。深海契約者」
士官が代わりに名を告げるあいだも、彼女は口を開かなかった。
宿の空気が、港と同じように固くなる。
厨房から顔を出していた女将が、慌てて頭を下げる音だけが、妙に大きく響いた。
「では、お掛けください」
クラウスの声を合図に、全員がようやく椅子に戻る。
長机の上座に、海務院の士官とクラウス。
その横に、リュシアとリリーシア。
向かい側の列には、シュアラ、カイ、零札たち。
端の方には、網元や魚商人が固まって座り、フィンは給仕の邪魔にならない位置に、さりげなく立っていた。
宿の主人夫婦が、慣れない手つきで皿を配って回る。
今夜の料理は、砦のごった煮とは違って、見た目にも華やかだった。大皿に盛られた焼き魚。貝の身がたっぷり入ったスープ。薄く切られた野菜のマリネに、焼きたての白いパン。
「こりゃまた……」
カイが、目の前に置かれた皿を眺めて感嘆の息を漏らした。
「砦の連中に見せたら、泣くぞ」
「泣く前に、輸送経費を計算します」
シュアラは、軽く返す。
「ここで一度しか食べられない御馳走なのか、それともヴァルムでも再現可能なのか。そこが問題です」
「この状況で、まず金勘定かよ」
カイが呆れたように笑うと、その笑いが周囲の強張りを少しだけ和らげた。
「金勘定、大事ですよ」
向こう側から、ひょいと声が飛んできた。
リュシアは、すでにスープにスプーンを突っ込んでいた。小柄な体には似合わない勢いで、ぱくぱくと口に運びながら、さらりと言う。
「海路の数字を任せておいて、その頭の寿命をあまり大事にしてない感じです」
「それは……」
クラウスが困ったように笑う。
「帝都にも、いろいろ事情があるのでしょう」
「あるでしょうね」
リュシアは、スープを一口飲み込んでから、さらりと付け加えた。
「でも、私が“史上最年少”の少技士だ、という事情もあります。数字ひとつで船と町の行き先を変えられる頭なんですから、もう少し栄養を積んでおいた方が、帝都のためにもいいと思いません?」
誰も頼んでいないのに、自分からきちんと口にする「史上最年少」。
その肩書きの出し方に、シュアラは「盾」として掲げ慣れたものの匂いを感じた。
料理が二品目、三品目と運ばれていくうちに、食堂のざわめきは少しずつほぐれていった。
零札の男たちも、最初は居心地悪そうにしていたが、やがて皿の中身に目を奪われ始める。砦では見たことのない白い魚の切り身。貝から外されたばかりの柔らかな身。
「……ここなら、本当に住めそうだな」
零札の一人が、つい本音を漏らした。
「海が見えて、腹いっぱい食えてよ。砦の雪かきより、よほどましだ」
「勝手に引っ越し先決めんな」
カイが、パンを齧りながら軽く小突く。
「お前らの引っ越し先は、まだ保留中だ。沈むかどうかも、これから決めるんだからな」
「沈む、ねえ」
その言葉に、リュシアがぴくりと反応した。
スプーンの動きが、一瞬だけ止まる。
そして、彼女はわざとらしく首を傾げ、零札の一団を眺めた。
「……いいですねえ」
無邪気な感想のような声だった。
「よく食べて、よく笑って。ちゃんと健康そうで」
零札の何人かが、手を止めた。
「……なんだ、その言い方」
「褒めてるんですよ?」
リュシアは、にっこりと笑った。
「これから海の上で沈めてもいい“予備”としては、すごく状態がいいってことです。零札の方々って、みんなそういう立場ですから」
笑顔のまま、さらりと言う。
「船って、大事なところには、同じ部品をいくつか付けておくんですよ。どれか一つ壊れても、船が止まらないように」
言いながら、指で机の上に並ぶ皿を、とん、とん、と軽く叩く。
「零札も、それと同じです。誰か一人いなくなっても、計画が止まらないように。そういう人たちは、現場からすると、とてもありがたいんです」
誰にでも分かる比喩だった。
その分だけ、容赦がない。
「てめえ、今なんて――」
「やめとけ」
シュアラが、短く遮った。
声を荒げはしないが、その一言には、砦の冬を共に越えた者にだけ伝わる重みがある。
リュシアは、カイとシュアラの顔を交互に見て、楽しそうに目を細めた。
どちらの反応が、どこまで届いたか。値踏みするような視線だと、シュアラは感じる。
「今ので、ちゃんと伝わったみたいですね」
「伝わって嬉しい話じゃねえ」
カイが唸るように言う。
「人を部品扱いするような話がよ」
「でも、実際そうしてきたから、ヴァルム砦は冬を越せたんでしょう?」
リュシアは、少しも悪びれない。
「零札の方々を使って、砦を守って、誰も死なせなかった。そういう報告でした。帝都で聞いたとき、皆、驚いてましたよ。『どうせすぐ潰れる砦だと思ってたのに』って」
カイの指が、無意識に拳を作る。
木のテーブルが、わずかに軋む。
「誰がそんなこと――」
「帝都の“上の人たち”ですよ」
リュシアは、さらりと答えた。
「私は数字しか見ませんから。この冬、ヴァルムで死んだ人がゼロ。零札が三百人。そのうち、今年沈んでもいい人が八十人。計画書には、そう書いてありました」
その数字は、シュアラが帝都からの手紙で見たものと同じだった。
(計画書の数字を、あの子はそのまま口にしている)
シュアラは、スプーンを静かに置いた。
「三百のうち、八十」
布の内側で、かすかに呟く。
「太っ腹なのか、雑なのか、判断に困りますね」
「船は、沈む前提で作っておいた方が安全ですから」
リュシアが即答する。
「先に誰が落ちてもいいように、順番を決めておく。そうすれば、海の上で慌てなくて済みます。零札は、そういう人たちです」
「……人たち、ねえ」
カイの声には、笑いも皮肉もなくなっていた。
「お前にとっちゃ、ほんとに部品なんだな」
「私にとって、ですか?」
リュシアは、首をかしげる。
「違いますよ。私にとっては、数字です。部品だって思ってるのは――」
一瞬だけ、視線が上座の士官たちの方をかすめた。
それから、彼女はわざとらしく肩をすくめる。
「……紙の上で決めた人たち、でしょうね」
淡々とした言い方だったが、その端に、針のようなものがかすかに光った。
リリーシアは、その間中、一度も会話に入らなかった。
白いドレスの少女は、テーブルの端に座り、窓の外の闇を静かに見つめている。
目の前の皿に乗った魚には、ほとんど手を付けていなかった。
給仕の若い娘が、水の入ったピッチャーを持って近づく。
彼女の手は、柄を握ったまま、わずかに震えていた。
「あ、あの……」
言葉にならない囁きが漏れる。十年前に名前を呼んだことのある誰かでも、おかしくない、とシュアラは思った。
リリーシアは、すぐには顔を向けなかった。
窓の外に固定していた視線が、水面に揺れる灯りからほんの少し外れて、ガラスに映る室内の影をなぞる。まつ毛が一度だけ微かに震え、それからようやく、小さく頷いた。
その頷きに、首筋の刻印が淡く光る。
海からの見えない潮気が反応しているのか、光は波のように一度、皮膚の下を流れた。
それを見た瞬間、給仕の娘は、慌ててピッチャーを置き、後ずさるようにその場を離れた。
零札の男が、小さく息を呑む。
「……やっぱり、あれが『深海の魔女』か」
「魔女って呼ぶな」
カイが、低く制した。
「あれは――」
言葉を選ぶように、シュアラが口を挟む。
「帝都と、この町と、十年前の嵐が、三つ巴で作った“結果”です」
砦で聞いた話。
アルスリス家で見た、古い家族台帳。
深海契約の仕組み。
その全てが、今、白い器として椅子に座っている。
(帝都の帳簿に『資源』として書き込まれた器と)
(その帳簿の欄外に追いやられた死人と)
(ただ、潮と明日の飯の心配だけしたい普通の町と)
三つの視線が、一本のテーブルの上で交錯していた。
食事の終盤、クラウスが立ち上がった。
「本日は、ご足労いただきありがとうございました」
ぎこちないながらも、腹の底から絞り出した声だった。
「明日、役所にて、海路のこと、公約のことを、改めてご相談したく存じます。ヴァルム砦とマリーハイツ、そして帝都にとって、少しでもましな道を探すために」
「承りました」
海務院の士官が応じる。
「我々も、帝都の計画書をお持ちしました。明日、その中身をお見せしましょう。誰がどこで沈むか――いえ、どこでどれだけの負担をお願いするか、という話になりますが」
その言い換えに、食堂の空気がまた少し冷えた。
(沈む順番の海図)
明日の会議室に広げられるであろう紙を、シュアラは思い描く。
(向こう側が用意してきた表を、どう書き換えるか)
その前夜としては、今夜の食堂は十分すぎるほど情報が詰まっていた。
宴がお開きになり、椅子が引かれる音と共に人々が立ち上がる。
クラウスたちは港の方へ下りていき、零札たちは坂を上る砦への帰り道を気にしている。海務院の一行は、宿の別棟に用意された客室へと向かうことになっていた。
笑い声と食器の触れ合う音が、扉の向こうでゆっくり薄れていく。
残されたランプの炎が、静まった空気の中で小さく揺れ、魚と酒と油の匂いだけが、温度を失って漂っていた。
シュアラも、帳面を抱えて立ち上がる。
食堂を出て廊下に出ると、足音が板を踏む乾いた音だけになった。
その静けさの中で、背後から軽い足音が追い付いてきた。
「死人文官さん」
振り返る前に、呼び止める声。
そこには、さっきまでスープを食べていた少女が立っていた。
リュシアは、先ほどと変わらない笑顔を浮かべている。
ただ、瞳の奥の光が、さっきよりも冷たく研がれているように見えた。
「帝都の紙の上だと、あなた、一度沈んだことになってるんですよ」
挨拶も前置きもなく、そう言った。
「壊れた部品として、箱にしまわれたはずなんです。でも、こうして歩いてる」
彼女は、シュアラの全身を、上から下まで一度眺める。
「……計算しづらいですね」
淡々とした一言だった。
「紙の上では『捨てました』って印をつけたものが、現場でまだ動いてる。そういうの、計算するとき一番嫌いなんです」
「それは、失礼しました」
シュアラは、穏やかに頭を下げた。
「廃棄予定品が勝手に動き出すのは、帳簿係にとっても悪夢でしょうから」
「そういう話じゃなくて」
リュシアは、少しだけ唇を尖らせる。
「死人文官さんは、自分のこと、何だと思ってるんですか?」
廊下に、ランプの火が一本だけ揺れている。
その光の中で、少女のオッドアイが、色の違う光を宿した。
「“もう捨てた部品”ですか。それとも、“まだ捨てられてない部品”ですか」
問いは、単純だった。
誰にでも分かる言葉で、誰にでも答えづらいことを聞いてくる。
シュアラは、一拍置いてから答えた。
「そうですね」
自分の胸の内にある引き出しを、一つずつなぞるように言葉を選ぶ。
「“もう捨てた”と書いてあるなら、勝手に使っても、誰も文句は言えません」
リュシアの眉が、わずかに動いた。
「壊れた部品だと思っているなら、それで構いません。ただ、その壊れた部品を、どこにどう押し込むと一番得なのかを考えるのが、今の私の仕事ですから」
リュシアは、じっとシュアラの顔を見た。
笑っているようにも見えるし、怒っているようにも見える。
そのどちらにも見えない、静かな表情。
やがて、彼女はふっと息を吐いた。
「……やっぱり、気持ち悪いです」
虫を観察したあとに感想を言う子どものような声だと、シュアラは感じた。
「壊れた部品のくせに、勝手に別の表を作ろうとしてる。報告には、そう書いておきます」
「ご丁寧にどうも」
シュアラは、それ以上なにも言わなかった。
リュシアは、くるりと踵を返し、廊下の奥へと歩いていった。
遠ざかる足音を聞きながら、シュアラは、腕の中の帳面の重さを確かめる。
(壊れた部品が書く表が、どこまで通用するか)
明日の会議室で、それが試される。
昼間は漁師や旅人でごった返していた長机に、今夜は白い布が掛けられている。
油じみを全部は隠しきれていないが、それでも布一枚あるだけで、木の節や傷が柔らかくぼやけて見えた。壁際には、いつもより多くのランプが吊るされ、炎の数に比例するように、空気に混じる緊張も増えている。
窓の外には、坂を下った先の港の明かりが、点々と揺れていた。
マストに巻きついた灯りの列。その中に、ひときわ高い位置で、帝国旗の影が黒く揺れる。
「……すげえな」
先に座っていたカイが、白布の端を指でつまんだ。
「この宿で、こんなよそ行きな格好見られるとはな」
「あなたの鎧も、だいぶよそ行きですよ」
向かいに座るシュアラが、布の下から肩口を見やる。
「普段は、もう少し傷だらけでした」
「磨いたんだよ。こっちも『視察団』とやらに笑われちゃたまらねえからな」
カイは肩を鳴らし、ちらりと長机の端に視線をやった。そこには零札たちが固まって座っている。
いつもの擦り切れた作業服ではなく、砦から借りてきたまだましな服。着慣れない襟と袖に、誰もが落ち着かない手つきをしていた。
「縁起でもねえ」
誰かが小さく呟き、乾いた笑いが起きる。その笑いにも、どこか硬さが残っていた。
テーブルの反対側には、町側の人々が並んでいた。
クラウスを先頭に、港の網元や魚商人、役所の書記官。皆、普段より固い表情で、自分の手の置き場を探している。
(今日は、三つの視線が一つの机に押し込まれている)
砦の兵と零札。
港町の大人たち。
帝都から来た海務院の一行。
シュアラは、卓上に置かれた空の器を眺めながら、心の中で駒の配置を確認するように、ゆっくりと視線を巡らせた。
開け放たれた扉から、外のざわめきが流れ込んでくる。
坂の上まで響いていた子どもたちの声は消え、今は押し殺した囁きと、革靴が石畳を踏む硬い音だけが近づいてきていた。
やがて、そのざわめきが一つの気配にまとまり、食堂の入口でぴたりと止まる。
「海務院視察団、ご到着です」
宿の主人の声が響き、全員が一斉に立ち上がった。
最初に入ってきたのは、黒い軍服の男だった。
金糸で縁取られた肩章。きっちりと締められた襟。海で鍛えられたのか、壁のように厚い胸板をしている。彼の後ろに、同じような黒衣の技官たちが列をなし、その列の中ほどに、小さな影が混じっていた。
銀鼠色の髪。
片方ずつ色の違う瞳。
黒いミニコートの裾からのぞく細い脚。
その少女が一歩踏み出すたび、厚底のブーツの底が、板張りの床を小さく鳴らした。
「帝国海務院 海洋魔導計算局・少技士――」
先頭の士官が振り返り、少し芝居掛かった調子で声を張る。
「リュシア・フォン・クラウゼ少技士。北方海路再編計画の計算担当官である」
「少技士で構いません」
少女が、軽く手を振った。
にこりと笑った顔は、年相応の子どものようでもあり、どこか人形めいてもいる。
「私、リュシア・フォン・クラウゼと言います。十三歳です。船の位置と数、人と物の流れ、港の深さと潮の癖。そういうものを全部まとめて、『この町と、この冬にとって一番ましな海路はどれか』を計算するのが、今の仕事です」
簡潔で、無駄のない自己紹介だった。
その中に、「十三歳」と「仕事」という二つの単語が、きっちり詰め込まれている。
「十三……?」
零札の一人が、思わず声を漏らした。
「俺の娘と、そう変わらねえ歳じゃねえか」
「歳は勝手に増えるだけですから」
リュシアは、さらりと言った。
「役に立つ頭があるかどうかは、放っておいても増えません。十三の頭が一つあるだけで船が十隻助かるなら、大人の頭が十人分集まるより安上がりですよ」
口調は明るく、説明はわかりやすい。
内容は、ひどく冷たい。
(やはり、この子が)
シュアラは、布の下で眉をわずかに上げた。
(沈む順番の紙を書いてきた子)
「そして、深海契約の器――」
士官の声色が、ほんのわずかに硬くなる。
白いドレスの裾が、静かに揺れた。
長い髪をきちんと結い上げられ、首筋には淡い光を帯びた刻印。
リリーシアは、港で見たときと同じ顔で、同じ姿勢で立っていた。十年前から一歩も進んでいない時間を、その身に貼り付けているかのように。
「リリーシア・アルスリス。帝国海務院 零海域観測隊所属。深海契約者」
士官が代わりに名を告げるあいだも、彼女は口を開かなかった。
宿の空気が、港と同じように固くなる。
厨房から顔を出していた女将が、慌てて頭を下げる音だけが、妙に大きく響いた。
「では、お掛けください」
クラウスの声を合図に、全員がようやく椅子に戻る。
長机の上座に、海務院の士官とクラウス。
その横に、リュシアとリリーシア。
向かい側の列には、シュアラ、カイ、零札たち。
端の方には、網元や魚商人が固まって座り、フィンは給仕の邪魔にならない位置に、さりげなく立っていた。
宿の主人夫婦が、慣れない手つきで皿を配って回る。
今夜の料理は、砦のごった煮とは違って、見た目にも華やかだった。大皿に盛られた焼き魚。貝の身がたっぷり入ったスープ。薄く切られた野菜のマリネに、焼きたての白いパン。
「こりゃまた……」
カイが、目の前に置かれた皿を眺めて感嘆の息を漏らした。
「砦の連中に見せたら、泣くぞ」
「泣く前に、輸送経費を計算します」
シュアラは、軽く返す。
「ここで一度しか食べられない御馳走なのか、それともヴァルムでも再現可能なのか。そこが問題です」
「この状況で、まず金勘定かよ」
カイが呆れたように笑うと、その笑いが周囲の強張りを少しだけ和らげた。
「金勘定、大事ですよ」
向こう側から、ひょいと声が飛んできた。
リュシアは、すでにスープにスプーンを突っ込んでいた。小柄な体には似合わない勢いで、ぱくぱくと口に運びながら、さらりと言う。
「海路の数字を任せておいて、その頭の寿命をあまり大事にしてない感じです」
「それは……」
クラウスが困ったように笑う。
「帝都にも、いろいろ事情があるのでしょう」
「あるでしょうね」
リュシアは、スープを一口飲み込んでから、さらりと付け加えた。
「でも、私が“史上最年少”の少技士だ、という事情もあります。数字ひとつで船と町の行き先を変えられる頭なんですから、もう少し栄養を積んでおいた方が、帝都のためにもいいと思いません?」
誰も頼んでいないのに、自分からきちんと口にする「史上最年少」。
その肩書きの出し方に、シュアラは「盾」として掲げ慣れたものの匂いを感じた。
料理が二品目、三品目と運ばれていくうちに、食堂のざわめきは少しずつほぐれていった。
零札の男たちも、最初は居心地悪そうにしていたが、やがて皿の中身に目を奪われ始める。砦では見たことのない白い魚の切り身。貝から外されたばかりの柔らかな身。
「……ここなら、本当に住めそうだな」
零札の一人が、つい本音を漏らした。
「海が見えて、腹いっぱい食えてよ。砦の雪かきより、よほどましだ」
「勝手に引っ越し先決めんな」
カイが、パンを齧りながら軽く小突く。
「お前らの引っ越し先は、まだ保留中だ。沈むかどうかも、これから決めるんだからな」
「沈む、ねえ」
その言葉に、リュシアがぴくりと反応した。
スプーンの動きが、一瞬だけ止まる。
そして、彼女はわざとらしく首を傾げ、零札の一団を眺めた。
「……いいですねえ」
無邪気な感想のような声だった。
「よく食べて、よく笑って。ちゃんと健康そうで」
零札の何人かが、手を止めた。
「……なんだ、その言い方」
「褒めてるんですよ?」
リュシアは、にっこりと笑った。
「これから海の上で沈めてもいい“予備”としては、すごく状態がいいってことです。零札の方々って、みんなそういう立場ですから」
笑顔のまま、さらりと言う。
「船って、大事なところには、同じ部品をいくつか付けておくんですよ。どれか一つ壊れても、船が止まらないように」
言いながら、指で机の上に並ぶ皿を、とん、とん、と軽く叩く。
「零札も、それと同じです。誰か一人いなくなっても、計画が止まらないように。そういう人たちは、現場からすると、とてもありがたいんです」
誰にでも分かる比喩だった。
その分だけ、容赦がない。
「てめえ、今なんて――」
「やめとけ」
シュアラが、短く遮った。
声を荒げはしないが、その一言には、砦の冬を共に越えた者にだけ伝わる重みがある。
リュシアは、カイとシュアラの顔を交互に見て、楽しそうに目を細めた。
どちらの反応が、どこまで届いたか。値踏みするような視線だと、シュアラは感じる。
「今ので、ちゃんと伝わったみたいですね」
「伝わって嬉しい話じゃねえ」
カイが唸るように言う。
「人を部品扱いするような話がよ」
「でも、実際そうしてきたから、ヴァルム砦は冬を越せたんでしょう?」
リュシアは、少しも悪びれない。
「零札の方々を使って、砦を守って、誰も死なせなかった。そういう報告でした。帝都で聞いたとき、皆、驚いてましたよ。『どうせすぐ潰れる砦だと思ってたのに』って」
カイの指が、無意識に拳を作る。
木のテーブルが、わずかに軋む。
「誰がそんなこと――」
「帝都の“上の人たち”ですよ」
リュシアは、さらりと答えた。
「私は数字しか見ませんから。この冬、ヴァルムで死んだ人がゼロ。零札が三百人。そのうち、今年沈んでもいい人が八十人。計画書には、そう書いてありました」
その数字は、シュアラが帝都からの手紙で見たものと同じだった。
(計画書の数字を、あの子はそのまま口にしている)
シュアラは、スプーンを静かに置いた。
「三百のうち、八十」
布の内側で、かすかに呟く。
「太っ腹なのか、雑なのか、判断に困りますね」
「船は、沈む前提で作っておいた方が安全ですから」
リュシアが即答する。
「先に誰が落ちてもいいように、順番を決めておく。そうすれば、海の上で慌てなくて済みます。零札は、そういう人たちです」
「……人たち、ねえ」
カイの声には、笑いも皮肉もなくなっていた。
「お前にとっちゃ、ほんとに部品なんだな」
「私にとって、ですか?」
リュシアは、首をかしげる。
「違いますよ。私にとっては、数字です。部品だって思ってるのは――」
一瞬だけ、視線が上座の士官たちの方をかすめた。
それから、彼女はわざとらしく肩をすくめる。
「……紙の上で決めた人たち、でしょうね」
淡々とした言い方だったが、その端に、針のようなものがかすかに光った。
リリーシアは、その間中、一度も会話に入らなかった。
白いドレスの少女は、テーブルの端に座り、窓の外の闇を静かに見つめている。
目の前の皿に乗った魚には、ほとんど手を付けていなかった。
給仕の若い娘が、水の入ったピッチャーを持って近づく。
彼女の手は、柄を握ったまま、わずかに震えていた。
「あ、あの……」
言葉にならない囁きが漏れる。十年前に名前を呼んだことのある誰かでも、おかしくない、とシュアラは思った。
リリーシアは、すぐには顔を向けなかった。
窓の外に固定していた視線が、水面に揺れる灯りからほんの少し外れて、ガラスに映る室内の影をなぞる。まつ毛が一度だけ微かに震え、それからようやく、小さく頷いた。
その頷きに、首筋の刻印が淡く光る。
海からの見えない潮気が反応しているのか、光は波のように一度、皮膚の下を流れた。
それを見た瞬間、給仕の娘は、慌ててピッチャーを置き、後ずさるようにその場を離れた。
零札の男が、小さく息を呑む。
「……やっぱり、あれが『深海の魔女』か」
「魔女って呼ぶな」
カイが、低く制した。
「あれは――」
言葉を選ぶように、シュアラが口を挟む。
「帝都と、この町と、十年前の嵐が、三つ巴で作った“結果”です」
砦で聞いた話。
アルスリス家で見た、古い家族台帳。
深海契約の仕組み。
その全てが、今、白い器として椅子に座っている。
(帝都の帳簿に『資源』として書き込まれた器と)
(その帳簿の欄外に追いやられた死人と)
(ただ、潮と明日の飯の心配だけしたい普通の町と)
三つの視線が、一本のテーブルの上で交錯していた。
食事の終盤、クラウスが立ち上がった。
「本日は、ご足労いただきありがとうございました」
ぎこちないながらも、腹の底から絞り出した声だった。
「明日、役所にて、海路のこと、公約のことを、改めてご相談したく存じます。ヴァルム砦とマリーハイツ、そして帝都にとって、少しでもましな道を探すために」
「承りました」
海務院の士官が応じる。
「我々も、帝都の計画書をお持ちしました。明日、その中身をお見せしましょう。誰がどこで沈むか――いえ、どこでどれだけの負担をお願いするか、という話になりますが」
その言い換えに、食堂の空気がまた少し冷えた。
(沈む順番の海図)
明日の会議室に広げられるであろう紙を、シュアラは思い描く。
(向こう側が用意してきた表を、どう書き換えるか)
その前夜としては、今夜の食堂は十分すぎるほど情報が詰まっていた。
宴がお開きになり、椅子が引かれる音と共に人々が立ち上がる。
クラウスたちは港の方へ下りていき、零札たちは坂を上る砦への帰り道を気にしている。海務院の一行は、宿の別棟に用意された客室へと向かうことになっていた。
笑い声と食器の触れ合う音が、扉の向こうでゆっくり薄れていく。
残されたランプの炎が、静まった空気の中で小さく揺れ、魚と酒と油の匂いだけが、温度を失って漂っていた。
シュアラも、帳面を抱えて立ち上がる。
食堂を出て廊下に出ると、足音が板を踏む乾いた音だけになった。
その静けさの中で、背後から軽い足音が追い付いてきた。
「死人文官さん」
振り返る前に、呼び止める声。
そこには、さっきまでスープを食べていた少女が立っていた。
リュシアは、先ほどと変わらない笑顔を浮かべている。
ただ、瞳の奥の光が、さっきよりも冷たく研がれているように見えた。
「帝都の紙の上だと、あなた、一度沈んだことになってるんですよ」
挨拶も前置きもなく、そう言った。
「壊れた部品として、箱にしまわれたはずなんです。でも、こうして歩いてる」
彼女は、シュアラの全身を、上から下まで一度眺める。
「……計算しづらいですね」
淡々とした一言だった。
「紙の上では『捨てました』って印をつけたものが、現場でまだ動いてる。そういうの、計算するとき一番嫌いなんです」
「それは、失礼しました」
シュアラは、穏やかに頭を下げた。
「廃棄予定品が勝手に動き出すのは、帳簿係にとっても悪夢でしょうから」
「そういう話じゃなくて」
リュシアは、少しだけ唇を尖らせる。
「死人文官さんは、自分のこと、何だと思ってるんですか?」
廊下に、ランプの火が一本だけ揺れている。
その光の中で、少女のオッドアイが、色の違う光を宿した。
「“もう捨てた部品”ですか。それとも、“まだ捨てられてない部品”ですか」
問いは、単純だった。
誰にでも分かる言葉で、誰にでも答えづらいことを聞いてくる。
シュアラは、一拍置いてから答えた。
「そうですね」
自分の胸の内にある引き出しを、一つずつなぞるように言葉を選ぶ。
「“もう捨てた”と書いてあるなら、勝手に使っても、誰も文句は言えません」
リュシアの眉が、わずかに動いた。
「壊れた部品だと思っているなら、それで構いません。ただ、その壊れた部品を、どこにどう押し込むと一番得なのかを考えるのが、今の私の仕事ですから」
リュシアは、じっとシュアラの顔を見た。
笑っているようにも見えるし、怒っているようにも見える。
そのどちらにも見えない、静かな表情。
やがて、彼女はふっと息を吐いた。
「……やっぱり、気持ち悪いです」
虫を観察したあとに感想を言う子どものような声だと、シュアラは感じた。
「壊れた部品のくせに、勝手に別の表を作ろうとしてる。報告には、そう書いておきます」
「ご丁寧にどうも」
シュアラは、それ以上なにも言わなかった。
リュシアは、くるりと踵を返し、廊下の奥へと歩いていった。
遠ざかる足音を聞きながら、シュアラは、腕の中の帳面の重さを確かめる。
(壊れた部品が書く表が、どこまで通用するか)
明日の会議室で、それが試される。
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