死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第二章 マリーハイツ公約編

第三十九話 悪ガキと白い器

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 宿の食堂は、同じ部屋のはずなのに、別の場所になっていた。

 昼間は漁師や旅人でごった返していた長机に、今夜は白い布が掛けられている。
 油じみを全部は隠しきれていないが、それでも布一枚あるだけで、木の節や傷が柔らかくぼやけて見えた。壁際には、いつもより多くのランプが吊るされ、炎の数に比例するように、空気に混じる緊張も増えている。

 窓の外には、坂を下った先の港の明かりが、点々と揺れていた。
 マストに巻きついた灯りの列。その中に、ひときわ高い位置で、帝国旗の影が黒く揺れる。

「……すげえな」

 先に座っていたカイが、白布の端を指でつまんだ。

「この宿で、こんなよそ行きな格好見られるとはな」

「あなたの鎧も、だいぶよそ行きですよ」

 向かいに座るシュアラが、布の下から肩口を見やる。

「普段は、もう少し傷だらけでした」

「磨いたんだよ。こっちも『視察団』とやらに笑われちゃたまらねえからな」

 カイは肩を鳴らし、ちらりと長机の端に視線をやった。そこには零札たちが固まって座っている。

 いつもの擦り切れた作業服ではなく、砦から借りてきたまだましな服。着慣れない襟と袖に、誰もが落ち着かない手つきをしていた。

「縁起でもねえ」

 誰かが小さく呟き、乾いた笑いが起きる。その笑いにも、どこか硬さが残っていた。

 テーブルの反対側には、町側の人々が並んでいた。
 クラウスを先頭に、港の網元や魚商人、役所の書記官。皆、普段より固い表情で、自分の手の置き場を探している。

(今日は、三つの視線が一つの机に押し込まれている)

 砦の兵と零札。
 港町の大人たち。
 帝都から来た海務院の一行。

 シュアラは、卓上に置かれた空の器を眺めながら、心の中で駒の配置を確認するように、ゆっくりと視線を巡らせた。

 開け放たれた扉から、外のざわめきが流れ込んでくる。
 坂の上まで響いていた子どもたちの声は消え、今は押し殺した囁きと、革靴が石畳を踏む硬い音だけが近づいてきていた。

 やがて、そのざわめきが一つの気配にまとまり、食堂の入口でぴたりと止まる。

「海務院視察団、ご到着です」

 宿の主人の声が響き、全員が一斉に立ち上がった。

 最初に入ってきたのは、黒い軍服の男だった。

 金糸で縁取られた肩章。きっちりと締められた襟。海で鍛えられたのか、壁のように厚い胸板をしている。彼の後ろに、同じような黒衣の技官たちが列をなし、その列の中ほどに、小さな影が混じっていた。

 銀鼠色の髪。
 片方ずつ色の違う瞳。
 黒いミニコートの裾からのぞく細い脚。

 その少女が一歩踏み出すたび、厚底のブーツの底が、板張りの床を小さく鳴らした。

「帝国海務院 海洋魔導計算局・少技士――」

 先頭の士官が振り返り、少し芝居掛かった調子で声を張る。

「リュシア・フォン・クラウゼ少技士。北方海路再編計画の計算担当官である」

「少技士で構いません」

 少女が、軽く手を振った。

 にこりと笑った顔は、年相応の子どものようでもあり、どこか人形めいてもいる。

「私、リュシア・フォン・クラウゼと言います。十三歳です。船の位置と数、人と物の流れ、港の深さと潮の癖。そういうものを全部まとめて、『この町と、この冬にとって一番ましな海路はどれか』を計算するのが、今の仕事です」

 簡潔で、無駄のない自己紹介だった。
 その中に、「十三歳」と「仕事」という二つの単語が、きっちり詰め込まれている。

「十三……?」

 零札の一人が、思わず声を漏らした。

「俺の娘と、そう変わらねえ歳じゃねえか」

「歳は勝手に増えるだけですから」

 リュシアは、さらりと言った。

「役に立つ頭があるかどうかは、放っておいても増えません。十三の頭が一つあるだけで船が十隻助かるなら、大人の頭が十人分集まるより安上がりですよ」

 口調は明るく、説明はわかりやすい。
 内容は、ひどく冷たい。

(やはり、この子が)

 シュアラは、布の下で眉をわずかに上げた。

(沈む順番の紙を書いてきた子)

「そして、深海契約の器――」

 士官の声色が、ほんのわずかに硬くなる。

 白いドレスの裾が、静かに揺れた。

 長い髪をきちんと結い上げられ、首筋には淡い光を帯びた刻印。
 リリーシアは、港で見たときと同じ顔で、同じ姿勢で立っていた。十年前から一歩も進んでいない時間を、その身に貼り付けているかのように。

「リリーシア・アルスリス。帝国海務院 零海域観測隊所属。深海契約者」

 士官が代わりに名を告げるあいだも、彼女は口を開かなかった。

 宿の空気が、港と同じように固くなる。
 厨房から顔を出していた女将が、慌てて頭を下げる音だけが、妙に大きく響いた。

「では、お掛けください」

 クラウスの声を合図に、全員がようやく椅子に戻る。

 長机の上座に、海務院の士官とクラウス。
 その横に、リュシアとリリーシア。
 向かい側の列には、シュアラ、カイ、零札たち。

 端の方には、網元や魚商人が固まって座り、フィンは給仕の邪魔にならない位置に、さりげなく立っていた。

 宿の主人夫婦が、慣れない手つきで皿を配って回る。
 今夜の料理は、砦のごった煮とは違って、見た目にも華やかだった。大皿に盛られた焼き魚。貝の身がたっぷり入ったスープ。薄く切られた野菜のマリネに、焼きたての白いパン。

「こりゃまた……」

 カイが、目の前に置かれた皿を眺めて感嘆の息を漏らした。

「砦の連中に見せたら、泣くぞ」

「泣く前に、輸送経費を計算します」

 シュアラは、軽く返す。

「ここで一度しか食べられない御馳走なのか、それともヴァルムでも再現可能なのか。そこが問題です」

「この状況で、まず金勘定かよ」

 カイが呆れたように笑うと、その笑いが周囲の強張りを少しだけ和らげた。

「金勘定、大事ですよ」

 向こう側から、ひょいと声が飛んできた。

 リュシアは、すでにスープにスプーンを突っ込んでいた。小柄な体には似合わない勢いで、ぱくぱくと口に運びながら、さらりと言う。

「海路の数字を任せておいて、その頭の寿命をあまり大事にしてない感じです」

「それは……」

 クラウスが困ったように笑う。

「帝都にも、いろいろ事情があるのでしょう」

「あるでしょうね」

 リュシアは、スープを一口飲み込んでから、さらりと付け加えた。

「でも、私が“史上最年少”の少技士だ、という事情もあります。数字ひとつで船と町の行き先を変えられる頭なんですから、もう少し栄養を積んでおいた方が、帝都のためにもいいと思いません?」

 誰も頼んでいないのに、自分からきちんと口にする「史上最年少」。
 その肩書きの出し方に、シュアラは「盾」として掲げ慣れたものの匂いを感じた。

 料理が二品目、三品目と運ばれていくうちに、食堂のざわめきは少しずつほぐれていった。

 零札の男たちも、最初は居心地悪そうにしていたが、やがて皿の中身に目を奪われ始める。砦では見たことのない白い魚の切り身。貝から外されたばかりの柔らかな身。

「……ここなら、本当に住めそうだな」

 零札の一人が、つい本音を漏らした。

「海が見えて、腹いっぱい食えてよ。砦の雪かきより、よほどましだ」

「勝手に引っ越し先決めんな」

 カイが、パンを齧りながら軽く小突く。

「お前らの引っ越し先は、まだ保留中だ。沈むかどうかも、これから決めるんだからな」

「沈む、ねえ」

 その言葉に、リュシアがぴくりと反応した。

 スプーンの動きが、一瞬だけ止まる。
 そして、彼女はわざとらしく首を傾げ、零札の一団を眺めた。

「……いいですねえ」

 無邪気な感想のような声だった。

「よく食べて、よく笑って。ちゃんと健康そうで」

 零札の何人かが、手を止めた。

「……なんだ、その言い方」

「褒めてるんですよ?」

 リュシアは、にっこりと笑った。

「これから海の上で沈めてもいい“予備”としては、すごく状態がいいってことです。零札の方々って、みんなそういう立場ですから」

 笑顔のまま、さらりと言う。

「船って、大事なところには、同じ部品をいくつか付けておくんですよ。どれか一つ壊れても、船が止まらないように」

 言いながら、指で机の上に並ぶ皿を、とん、とん、と軽く叩く。

「零札も、それと同じです。誰か一人いなくなっても、計画が止まらないように。そういう人たちは、現場からすると、とてもありがたいんです」

 誰にでも分かる比喩だった。
 その分だけ、容赦がない。

「てめえ、今なんて――」

「やめとけ」

 シュアラが、短く遮った。
 声を荒げはしないが、その一言には、砦の冬を共に越えた者にだけ伝わる重みがある。

 リュシアは、カイとシュアラの顔を交互に見て、楽しそうに目を細めた。
 どちらの反応が、どこまで届いたか。値踏みするような視線だと、シュアラは感じる。

「今ので、ちゃんと伝わったみたいですね」

「伝わって嬉しい話じゃねえ」

 カイが唸るように言う。

「人を部品扱いするような話がよ」

「でも、実際そうしてきたから、ヴァルム砦は冬を越せたんでしょう?」

 リュシアは、少しも悪びれない。

「零札の方々を使って、砦を守って、誰も死なせなかった。そういう報告でした。帝都で聞いたとき、皆、驚いてましたよ。『どうせすぐ潰れる砦だと思ってたのに』って」

 カイの指が、無意識に拳を作る。
 木のテーブルが、わずかに軋む。

「誰がそんなこと――」

「帝都の“上の人たち”ですよ」

 リュシアは、さらりと答えた。

「私は数字しか見ませんから。この冬、ヴァルムで死んだ人がゼロ。零札が三百人。そのうち、今年沈んでもいい人が八十人。計画書には、そう書いてありました」

 その数字は、シュアラが帝都からの手紙で見たものと同じだった。

(計画書の数字を、あの子はそのまま口にしている)

 シュアラは、スプーンを静かに置いた。

「三百のうち、八十」

 布の内側で、かすかに呟く。

「太っ腹なのか、雑なのか、判断に困りますね」

「船は、沈む前提で作っておいた方が安全ですから」

 リュシアが即答する。

「先に誰が落ちてもいいように、順番を決めておく。そうすれば、海の上で慌てなくて済みます。零札は、そういう人たちです」

「……人たち、ねえ」

 カイの声には、笑いも皮肉もなくなっていた。

「お前にとっちゃ、ほんとに部品なんだな」

「私にとって、ですか?」

 リュシアは、首をかしげる。

「違いますよ。私にとっては、数字です。部品だって思ってるのは――」

 一瞬だけ、視線が上座の士官たちの方をかすめた。
 それから、彼女はわざとらしく肩をすくめる。

「……紙の上で決めた人たち、でしょうね」

 淡々とした言い方だったが、その端に、針のようなものがかすかに光った。

 リリーシアは、その間中、一度も会話に入らなかった。

 白いドレスの少女は、テーブルの端に座り、窓の外の闇を静かに見つめている。
 目の前の皿に乗った魚には、ほとんど手を付けていなかった。

 給仕の若い娘が、水の入ったピッチャーを持って近づく。
 彼女の手は、柄を握ったまま、わずかに震えていた。

「あ、あの……」

 言葉にならない囁きが漏れる。十年前に名前を呼んだことのある誰かでも、おかしくない、とシュアラは思った。

 リリーシアは、すぐには顔を向けなかった。
 窓の外に固定していた視線が、水面に揺れる灯りからほんの少し外れて、ガラスに映る室内の影をなぞる。まつ毛が一度だけ微かに震え、それからようやく、小さく頷いた。

 その頷きに、首筋の刻印が淡く光る。
 海からの見えない潮気が反応しているのか、光は波のように一度、皮膚の下を流れた。

 それを見た瞬間、給仕の娘は、慌ててピッチャーを置き、後ずさるようにその場を離れた。

 零札の男が、小さく息を呑む。

「……やっぱり、あれが『深海の魔女』か」

「魔女って呼ぶな」

 カイが、低く制した。

「あれは――」

 言葉を選ぶように、シュアラが口を挟む。

「帝都と、この町と、十年前の嵐が、三つ巴で作った“結果”です」

 砦で聞いた話。
 アルスリス家で見た、古い家族台帳。
 深海契約の仕組み。

 その全てが、今、白い器として椅子に座っている。

(帝都の帳簿に『資源』として書き込まれた器と)

(その帳簿の欄外に追いやられた死人と)

(ただ、潮と明日の飯の心配だけしたい普通の町と)

 三つの視線が、一本のテーブルの上で交錯していた。

 食事の終盤、クラウスが立ち上がった。

「本日は、ご足労いただきありがとうございました」

 ぎこちないながらも、腹の底から絞り出した声だった。

「明日、役所にて、海路のこと、公約のことを、改めてご相談したく存じます。ヴァルム砦とマリーハイツ、そして帝都にとって、少しでもましな道を探すために」

「承りました」

 海務院の士官が応じる。

「我々も、帝都の計画書をお持ちしました。明日、その中身をお見せしましょう。誰がどこで沈むか――いえ、どこでどれだけの負担をお願いするか、という話になりますが」

 その言い換えに、食堂の空気がまた少し冷えた。

(沈む順番の海図)

 明日の会議室に広げられるであろう紙を、シュアラは思い描く。

(向こう側が用意してきた表を、どう書き換えるか)

 その前夜としては、今夜の食堂は十分すぎるほど情報が詰まっていた。

 宴がお開きになり、椅子が引かれる音と共に人々が立ち上がる。
 クラウスたちは港の方へ下りていき、零札たちは坂を上る砦への帰り道を気にしている。海務院の一行は、宿の別棟に用意された客室へと向かうことになっていた。

 笑い声と食器の触れ合う音が、扉の向こうでゆっくり薄れていく。
 残されたランプの炎が、静まった空気の中で小さく揺れ、魚と酒と油の匂いだけが、温度を失って漂っていた。

 シュアラも、帳面を抱えて立ち上がる。
 食堂を出て廊下に出ると、足音が板を踏む乾いた音だけになった。

 その静けさの中で、背後から軽い足音が追い付いてきた。

「死人文官さん」

 振り返る前に、呼び止める声。
 そこには、さっきまでスープを食べていた少女が立っていた。

 リュシアは、先ほどと変わらない笑顔を浮かべている。
 ただ、瞳の奥の光が、さっきよりも冷たく研がれているように見えた。

「帝都の紙の上だと、あなた、一度沈んだことになってるんですよ」

 挨拶も前置きもなく、そう言った。

「壊れた部品として、箱にしまわれたはずなんです。でも、こうして歩いてる」

 彼女は、シュアラの全身を、上から下まで一度眺める。

「……計算しづらいですね」

 淡々とした一言だった。

「紙の上では『捨てました』って印をつけたものが、現場でまだ動いてる。そういうの、計算するとき一番嫌いなんです」

「それは、失礼しました」

 シュアラは、穏やかに頭を下げた。

「廃棄予定品が勝手に動き出すのは、帳簿係にとっても悪夢でしょうから」

「そういう話じゃなくて」

 リュシアは、少しだけ唇を尖らせる。

「死人文官さんは、自分のこと、何だと思ってるんですか?」

 廊下に、ランプの火が一本だけ揺れている。
 その光の中で、少女のオッドアイが、色の違う光を宿した。

「“もう捨てた部品”ですか。それとも、“まだ捨てられてない部品”ですか」

 問いは、単純だった。
 誰にでも分かる言葉で、誰にでも答えづらいことを聞いてくる。

 シュアラは、一拍置いてから答えた。

「そうですね」

 自分の胸の内にある引き出しを、一つずつなぞるように言葉を選ぶ。

「“もう捨てた”と書いてあるなら、勝手に使っても、誰も文句は言えません」

 リュシアの眉が、わずかに動いた。

「壊れた部品だと思っているなら、それで構いません。ただ、その壊れた部品を、どこにどう押し込むと一番得なのかを考えるのが、今の私の仕事ですから」

 リュシアは、じっとシュアラの顔を見た。

 笑っているようにも見えるし、怒っているようにも見える。
 そのどちらにも見えない、静かな表情。

 やがて、彼女はふっと息を吐いた。

「……やっぱり、気持ち悪いです」

 虫を観察したあとに感想を言う子どものような声だと、シュアラは感じた。

「壊れた部品のくせに、勝手に別の表を作ろうとしてる。報告には、そう書いておきます」

「ご丁寧にどうも」

 シュアラは、それ以上なにも言わなかった。

 リュシアは、くるりと踵を返し、廊下の奥へと歩いていった。

 遠ざかる足音を聞きながら、シュアラは、腕の中の帳面の重さを確かめる。

(壊れた部品が書く表が、どこまで通用するか)

 明日の会議室で、それが試される。
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