夫に相手にされない侯爵夫人ですが、記憶を失ったので人生やり直します。

MIRICO

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夫に相手にされない侯爵夫人ですが、記憶を失ったので人生やり直します。

記憶を失いました。

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 後頭部の痛みに目を開くと、蒼白な顔をした女性たちが覗き込んでいた。

「奥様!」
「奥様がお目覚めに!!」

 皆はようように安堵した顔を見せると、急いで医者を呼びに行ったり、動けるのか心配げに起き上がるのを手伝おうとしてくれたが、彼らは皆知らぬ顔をした者たちだった。

「あの、皆様、どちらさまですか?」
 その言葉に、周囲の人々が目を丸くしたのち、大きな声を上げた。




「記憶喪失!?」

 医師に診断されて言い渡されると、同じ服装の女性たちが医師を取り巻くようにしておうむ返しにする。見た目からメイドだろう。
 老齢の男性は声を荒げる真似はしなかったが、それでも焦りはあるとハンカチで汗を拭った。

「では、私は一体何者なのかしら」
「エラフィーネ・デル・オブライア・ハーマヒュール侯爵夫人。奥様のお名前です」

 言ったのは執事である白髪混じりの老齢の男、アルバート。
 鏡を見せてくれて自分の顔を確かめる。漆黒の髪に瞳はアンバーのように茶色のようなオレンジ色をしている。どちらかと言えば整った容姿はしているだろうか。自分で言うのも何だが、素材は良いような気がする。

「旦那様のお名前はラファエウ様です」

 うねった赤毛を後ろに結んだ女性が、うっと嗚咽を漏らす。既に涙目で赤い目をしていたが、我慢できずに涙を流した。彼女はメイドのメアリ。
 どうやら私は結婚しているらしい。その旦那様はどこにいるのだろうか。侯爵であればお仕事だとは思うが。

「旦那様はお仕事で城に滞在することが多く、お戻りの予定はありませんので、奥様が倒れられたことはまだご存知ありません」」
 そう遠慮げに言ったのは、メアリより大人びた女性、メイド長のエレーナだ。
 その言い方を見るに、「旦那様」と「わたし」の関係は決して良好ではないのだろう。

「浮気でもされているのかしら?」
 純粋に疑問に思ったので口にすると、皆の顔色が悪くなる。

「正直なところ、分かりません」
 そう答えたのはアルバートだ。アルバートは旦那様が「わたし」をパーティーなどの集まりに連れて行かないことを口にする。
「ただ、女性に花や宝飾などのプレゼントを購入されることはありません。屋敷の帳簿は奥様が確認していらっしゃるので」

 聞けば、旦那様と「わたし」は恋愛結婚ではなく政略結婚。「わたし」は名のある伯爵家の長女で、旦那様とは古くからの家同士のお付き合いがあるそうな。
 そのため、侯爵の家を強くするためにも、伯爵の後ろ盾を強くするためにも、当然のごとく家同士の結びつきで結婚が決定した。

「旦那様がお屋敷に戻られても、奥様と会話されることはほとんどありません」
 メアリは歯噛みしそうな顔で言うので、旦那様に対して恨む気持ちがあるようだ。この人は「わたし」を大切にしてくれていたのだろう。

「でも、奥様はご連絡もない旦那様を、お夕食をご一緒にされるようにと、いつもお待ちになっていたんですよ! 帰らないならば帰らないとご連絡していただければいいのに、帰られると言って待たせておきながら、お帰りにならないこともしばしばあるんです!」
 メアリの激しい物言いが、普段旦那様に何を思っているのかよく分かる。

「奥様はお屋敷の仕事をなさり、旦那様を大切にされていた方です。旦那様は確かにお屋敷にはあまり長くいらっしゃらない方ですが、お城では王太子殿下に深く信頼され重要なお仕事をされている方です」
 エレーナは一応とでも言うように旦那様のフォローをする。記憶を失った私に配慮しているのだろう。メアリの腕をぎゅっと捻っていた。

 夫が不在中屋敷内を任され仕事をこなし、夫の帰りを待つ健気な夫人。
 聞こえはいいが、随分と我慢耐性のある女性のようだ。
 それが「わたし」だとして、しかし今はそんな記憶のない、私、である。

「転ばれて頭を打たれたので、そのショックで混乱されているのかもしれません。少しお休みになってください」
 アルバートは憂えるように言ってくれたが、意識ははっきりしているし、後頭部が若干痛いだけで他は何ともない。それより、今の自分の状況を知る方が先だった。

「大丈夫よ。それより、もう少し「わたし」のことを聞きたいのだけれど…」
「失礼します。旦那様がお戻りになりました!」
 突然入ってきたメイドが叫ぶように言うと、部屋にいた者たちが騒然となる。アルバートは静まるように言うと、とにかくお迎えに上がるように他の者たちを玄関へ向かわせた。

「私もお出迎えに行った方がいいかしらね?」
「しかし、お身体が。記憶を失われていることを、旦那様にお伝えして参ります」
「大丈夫よ。記憶を失ったのも一時的かもしれないし、旦那様とは会話は少ないのでしょう?」
「左様ですが…。分かりました。旦那様にはお伝えしません。奥様は玄関前でお待ちになるだけで大丈夫です」

 アルバートは難色を示したがすぐに頷く。
 ここにいる皆は、「わたし」の心を慮ってくれていたようだ。親身になってくれる人たちが「わたし」の周囲にいてくれている。旦那様が「わたし」を蔑ろにしようとも、助けてくれる人々がいるのだ。それはとても安心できた。




「お帰りなさいませ」
 玄関前に並び皆で旦那様を迎えると、ふんわりした金髪の割と身長の高い男性が目に入った。瞳は湖のようなエメラルドグリーン。目鼻筋の通った整った顔。あれが旦那様だろう。

 どうやら旦那様は顔が良い方の部類に入るようだ。と言うより、整いすぎではないだろうか。
 これが旦那様となれば、世の女性は黙っていられないかもしれない。近付いてきた旦那様に「お帰りなさいませ」を再度言ってまじまじ見つめる。これは浮気説に信憑性があるわけだ。

 じっと見つめすぎたか、旦那様が少々落ち着かないように目を泳がせた。何か言ってくるかと思ったが、頷いて部屋への階段を上っていく。
 なるほどと納得する傍ら、他の者たちはしょんぼりと、申し訳なさそうにしてくれる。それが逆に嬉しくなるのは気のせいだろうか。

「奥様、よろしければお屋敷の説明をさせていただけませんか?」
「ええ、お願い。聞いていれば何か思い出すかもしれないものね」

 アルバートは屋敷の案内を兼ねて、「わたし」に関することを教えてくれた。
 「わたし」の仕事は帳簿の確認。屋敷内で掛かる費用は夫人が管理する。屋敷の管理も同じだ。屋敷内の働く人たちの様子を良く見ていたらしく、庭園の庭師に声を掛けたり、屋敷の者たちと軽く話をしたりするのが好きらしい。

 仕事ではないが、書庫で本を読むことが多い。旦那様の仕事を学ぶためなのか、知識を増やす努力はしていたようだ。
 それから暇に任せてレース編みなど手芸を行う。メイド長のエレーナが得意で、メイドたちとお茶をしながら編み物を行うこともあった。

 街に行って街の人々と交流を図ることもある。旦那様が帰ってこない間は行動範囲が意外に広い。
 旦那様と仲が良くない分、好きなことをやっていたように見える。結構幸せなのではないかと思ったが、アルバートの説明でそうではないと知らされる。


 ある廊下の一角に人物画がいくつか壁に掛けられている場所がある。何人もの人物画で比較的新しい人物画の中に女性が一人いた。
 女性は四十代くらい。どこか厳格な雰囲気があるのは目付きのせいか。金髪で深い海色の瞳。胸元に大きなエメラルドの宝石を飾っていた。

「大奥様でございます。つい最近お亡くなりになりました。この絵はご病気になられる前に描かれたものです」
 大奥様はご病気で亡くなったらしい。その悲しみでアルバートが残念そうに紹介してくれたと思ったのだが、アルバートはふうっ、と小さくため息をついた。

「大奥様は厳格な方で、奥様がこのお屋敷に嫁がれた際、とても厳しくお屋敷のルールをお教えになっていました。病に罹られていた大奥様が寝所から出られなくなると、奥様がそのお世話を。奥様がこのお屋敷にいらっしゃったばかりの頃は笑顔の絶えない方でしたが、少しずつその笑顔が失われていき、大奥様が亡くなられた頃はほとんど笑うことがありませんでした」

 大奥様は「わたし」に厳しく当たり、それに対し何も言わぬ旦那様は、暗くなっていく「わたし」を避けるようになっていったそうだ。

 夫婦仲は初めはそれほど悪くなかった。だがそれを悪くさせたのが大奥様だったのでは、とアルバートは切なげに言う。悪い方ではなかったのですが…。と付け足したが、結婚を強く勧めたのも大奥様だったようで、「わたし」にとっては印象が悪かったかもしれません。と言った。
 大旦那様は早くに亡くなっており、旦那様は侯爵を継ぐのが早く、大奥様は苦労されたようだ。

「「わたし」は離婚を考えたりしなかったのかしら」
「奥様には弟君がいらっしゃいますが、既にご実家を継いでいらっしゃいます。奥様がご実家に戻られるのは、難しかったのかもしれません」

 「わたし」には弟がいて、既に結婚し子供がいる。跡継ぎも決まっているので、「わたし」が帰っても居場所はない。
 だから、その厳しさにも耐えなければならなかったのだろう。と言う。

 アルバートは色々思うところがあったようだ。後ろから付いてきたメイドのメアリもしんみりとしている。
(皆にこれだけ同情されるのだもの。本当に大変だったようねえ)

 しかし、不思議に思うのは、自分はそこまで堪え性があったのか。と言うことだ。「わたし」も私である。そんなに辛ければ弟に土下座してでも実家に住まわせてもらう気がする。
 しなかったのは弟と仲が悪かったと言うことだろうか。

 貴族の女として生まれたからには、良い家に嫁ぐのが夢みたいなところがある。それを実践できた「わたし」は、旦那様からの不遇にあっても、侯爵夫人の座にいたかったのだろうか。
 謎だが、まあ、すぐに記憶も取り戻すでしょう。

 のんびりとそんなことを考えたが、その後記憶が戻ることはなかった。

 とは言え、旦那様は執務室でお仕事らしく、屋敷にいても夕食以外顔を合わせることはほとんどない。儀礼的に夕食は一緒だが、話など一言二言。本日の報告のごとく一日あったことを聞いて終わり、寝所を共にすることもなかった。冷え切った夫婦生活である。

(記憶を失ったこと言いそびれてしまったけれど、問題はなさそうね)

 先程の夕食もそうだった。

「今日は皆でお庭に行き、ピクニックをしましたわ。お昼を外でいただいたんです。温室でいただいた花を使って、押し花のしおりを作ったんですよ。皆でたくさん作りましたので、旦那様にもお渡ししますわね」
「そうか」

 会話はこれで終了である。それでも多く私が話したようなので、旦那様はいささか驚いていたとか。アルバート談だが、普段どれだけ会話が少ないのか容易に想像できる。

 旦那様は再び城へ行くと戻らない日々が続いた。その間、私はさらに自由がきく。
 サロンでゆっくりお茶をしつつ、暇に任せてレース編みを始める。レース編みが飽きれば刺繍に手を出し、庭園を眺めては草木を使い糸を染め、布を織った。
 それだけでなく、畑で種まきを手伝ったり、収穫を手伝ったり、メイドたちも巻き込み、和気藹々と畑仕事をしたのである。

「楽しかったわ。旦那様がお留守の間はこんなことばかりしていたのかしら」
 畑仕事が終われば当たり前にお風呂の用意がしてあり、泥だらけになった手や汚れた顔などをすっかり綺麗にしてくれた。

「元々奥様は屋敷の者たちにとても親切にされて、時折働く者たちの仕事を眺めたり、少しだけ手を出されたりとされておりましたから。今ほど一緒に動かれたことはありませんけれど、ずっとそうされたかったのかと思います」
「まあ、そうなの。では私は幸せなんだわ。記憶を失って思ったことを何でもやらせてもらえるんだもの」

 そんなこんなで、充実した日々を過ごしていた矢先、それは起こった。





「私と、ダンスを踊っていただけないでしょうか」

 私の前で手を差し伸べるのは見知らぬ男。間違っても旦那様ではない。直前に覚えた貴族の顔リストから名前を思い出すが、思い出せないので重要な男ではないだろう。

 派手なドレスと宝石を身に着けて慣れないダンスを踊ることになったのは、突然旦那様がパーティの同伴を頼んできたからだ。



 遡ること数日前、アルバートが慌てて部屋に入ってきた。

「奥様、パーティに出席することになりました!」

 その言葉に皆は騒然。普段パーティなど同伴させない旦那様が、突然そんなことを言い出したのだ。私の様子が普段とおかしいと気付いたのか、それともただ気まぐれに誘ったのかは分からない。
 行きたくないと断るか、当日体調を崩すか、皆は相談しあったけれど、結局同伴に頷いた。

 それは、私が旦那様に話を聞いてみたかったからである。

 「わたし」がパーティに出るのは結婚して数度あっただけ。パーティに来られる方々も「わたし」の顔はほとんど覚えていないだろう。だが旦那様と一緒に行くだけでその面が割れる。
 旦那様が知り合いと話すため一人になれば、一人で対応しなければならない。

 そんな心配を皆にされ、参加者になるであろう重要な人の名となりを勉強し、念の為ダンスとマナーを学んだ。
 概ね、問題はないと言うことになったのだが。


「お待たせしました。旦那様」

 ドレスは旦那様の瞳に合わせたエメラルドグリーンを基調にした物。金の刺繍で色を抑えて上品なものにしてある。
 旦那様の装いは自身の瞳の色よりずっと濃いグリーンを基調にしていた。金刺繍はおそろいなので、お互いに全く合わない色ではない。

 この色のセットに対し、旦那様が何か言うかと思ったが、一度まじまじこちらを見ても居心地悪そうに目線を逸らし、そのままスルー。
 その上、旦那様は一度エスコートの腕を出すのすら忘れ、馬車に乗る前の私に腕を差し出しもしなかった。

 想定内だけれども、これに苛立っても仕方がない。周囲は目を吊り上げたが、にこりと笑んだ顔をして馬車に乗り込む手前足を止めると、旦那様はやっと気付き手を取ってくれた。
 何とか馬車に乗り込めたが、馬車の中はもちろん静かだ。何を話すでもない。

(こちらを見ようともされないのだから、余程嫌われているのねえ。だったらなぜパーティの同伴を頼んだのかしら。疑問だわ)

 馬車から降りてパーティ会場に入り、こちらを見る人々の視線とひそひそ話にちらりと旦那様を見上げたが、特に何か気にしているわけでもない。どなたかに会わせたいのかと思ったのだが、その様子もない。

(旦那様の目的が分からないわね)

「ラファエウ」
 旦那様の名を気軽に呼んだのは、銀髪の男性だった。旦那様と年は同じくらいだが侯爵である旦那様を呼び捨てにする者は少ないだろう。

「殿下」
「会うのは久しぶりだな、夫人」

 旦那様の声にやはりと思う。しかも久しぶりと言うことは「わたし」はこの国の王子と顔見知りなのだ。

「お久しぶりでございます」

 他に言いようがない。冷や汗を流しそうになって挨拶をする。殿下は興味深げにこちらを眺め、にこにこと笑顔を向けてきた。

 旦那様が「わたし」をパーティに連れてきたことが気になっているのだろう。少々いたずらっ子のような顔をして旦那様をちらりと横目で見る。

「相変わらず美しいな。ラファエウには勿体ないことだ」
「殿下…」

 旦那様は気まずそうにするので、だったらなぜ連れてきたのか問いたくなる。さすがに殿下の前で内情は話せないのか、さっと私の前に出て殿下から私を隠した。

「殿下に挨拶をしたがっている者たちが待っていらっしゃいますよ」
 殿下を追い払いたいのが丸分かりだが、殿下は軽く肩をすくめるとこちらをもう一度見遣り、旦那様に向けて口角を上げた。

「しっかりやれよ」
 そう言って旦那様の肩をばんばん叩いて去っていったが、旦那様の顔はしかめっ面だ。いつも凛として澄ましているのに、子供のような顔である。
 随分と仲が良いのだろう。

 旦那様はすぐに子供のような表情をやめると、挨拶に来る人たちへ顔を向ける。
 その後も何度か重要な方として記憶している人たちに挨拶をした。夫人を連れてくるのは珍しいと言われつつも、旦那様は特に何を言うでもなく、そうですね。と相槌を打つ程度。

 何か言い訳をするわけでもない。「わたし」を連れたのはただの気まぐれなのだろう。その証拠に、会場を軽くうろついた後、重要な方に会うと一人放置された。

 それからの、どなたか存じ上げない方からのダンスのお誘いである。

(まずは旦那様からとは思っていても、既に隣にいないのだし、ダンスはお受けしても良いと思うのだけれども)

「姉上」
 その手を受けようかとしていた時、ふと赤色の髪の男から声を掛けられた。私と顔の作りが似た、「わたし」の弟である。声を掛けられたついでに、受けようとしていた手を下げた。

「申し訳ありません。ダンスは弟と踊りますので」

 アルバートから最初のダンスは「旦那様」か「弟」である方が良いとは言われていたのだ。旦那様とは早々に離れる可能性があったので、「弟」を探していたのだが、丁度よく声を掛けてくれる。

「オスカー。声を掛けてくれて助かりました」
「この様な場に本当にいらっしゃるとは思いませんでした。いらっしゃるとはお手紙に書いてありましたが」

 弟のオスカーとはそれほど仲が悪いわけではなく、むしろ良好な関係を築いていた。手紙を出すように助言をくれたのはアルバートだ。何かあれば助けてもらえるかもしれないと言われ、その提案に乗ったのである。

 実は結構なお姉さん子で、この結婚にも反対だったらしい。ならば離婚しても問題ないと思うのだが、「わたし」には何か思うことでもあったのだろうか。

「まあ、まずは踊りましょう。旦那様がいなくなってしまったのよ。ダンスを踊るのに一番手が必要なの」
「あの方は何様ですか!? 姉上を無理にここに連れながら、ダンスもせずにどこかへいなくなるなど!」

 オスカーは憤慨したように私の手を取る。なるほど、「わたし」の置かれている立場は知っていて、しかもしっかりと怒ってくれる弟らしい。
 怒っている顔が少し幼く感じて可愛らしい。伯爵を継いでいるのでしっかりしていなければならないはずだが、やはり弟だからか小さな子供を相手にしている気にさせる。

「お顔の色が良いので安心しました。前にお会いした時は随分お疲れだったようなので。どこか雰囲気が変わられたように思います。パーティに一緒に参加されたのですから、その、侯爵との仲は…」

 改善されていたらと繋げたかったのだろう。しかし、久し振りにパーティに同伴させた夫人を置いてどこかに行ってしまったのだ。そうではないだろうと口を噤む。

 ダンスホールに入り、音楽に乗って動き始めてから、私は弟に真実を告げることにした。彼から色々聞きたいことがある。

「ダンスをしながら聞いてくださいね。足を止めてはいけませんよ」
「何か、あったのですか?」
「実は、私、少し前に頭を打って記憶を失ってしまって」
「は!?」
「まあ、足は止めないでちょうだい。ステップはそのままよ」
「そ、ちょ。え? 姉上!?」

 オスカーの茶色の瞳がキョロキョロとした。顔の作りは自分に似てるようだが、髪色や瞳の色は違うらしい。そんなことを物珍しく確認して、うふふと微笑む。

「冗談ですか?」
「いいえ、本当よ。数ヶ月前に頭を打ってしまって、何も覚えていないの。お屋敷では皆が協力してくれているから元気に生活しているのだけれど、旦那様のことは覚えていないし、お伝えしていなくて」
「ええっ!?」

「少しの間様子見ましょうって言っている間にお屋敷に旦那様がお戻りになったのだけれど、仲も良くないようだし、気付かれそうにないし、内緒のままでいいわよねえ? って」
「あ、姉上…?」
「元気なのよ? ただ昔のことは何も覚えていなくて。ごめんなさいね。あなたのことも何も覚えていないの」

 ショックを受けたか、オスカーが両目を見開いて蒼白になった。かろうじてステップは踏んでいるが、足元頼りない。私はダンスを止めないように次のステップをリードする。

「い、医師には…?」
「診ていただいたけれど、分からないと言われてしまって。まあ、そのうち治るんじゃないかしら?」
「あねうええ…」

 オスカーは情けない声を出す。弟はかなり可愛らしい。うふふと笑うと、オスカーは脱力したように肩を下ろした。

「でも、何だか安心します。昔みたいにお元気で。姉上はずっと天真爛漫と言うか、笑顔の絶えない方でした。ですが、侯爵家に嫁いでから、ずっと塞いでいて」
 実家では元気な子供だったらしい。やんちゃすぎて結婚はどうかと心配されていたそうだ。

「義母との折り合いが悪いことは存じていましたが、何をできるでもなく、離縁させるべきではないかと父上と話したことも」

 オスカーは悔やむように言った。どうやら実父が倒れオスカーが伯爵家を継ぐことになり、オスカー自身の結婚もあったことで、離婚の話題は「わたし」が首を縦に振らなかったようだ。

「その離縁の話は「わたし」が出したのかしら?」
「いえ、父上です。母上も心配されてます。本日姉上の様子を見てくるように、何かあれば連れて帰ってこいと、念を押されましたから」
「まあ、そうなの?」
 実母とも仲が良いらしい。それは何だか嬉しく思う。

「侯爵夫人として頑張ろうとして、疲れてしまったのでしょう。記憶を失ったのも、そのせいでは?」
「そうねえ。確かに今は元気だから」

 記憶を失ってから気疲れをした覚えはない。毎日楽しいし、旦那様と接することがあっても、長く話すこともないので気になったことがない。

「パーティに一緒に出席なさると聞いて、驚いたのです。その、いつも別の同伴者がおり、それもその度違う方であったりしたので…」
 しどろもどろと言われるが、旦那様がどんな女性とパーティに出席してるかなど、あまり興味がない。

「一緒に行かれる方が見繕えなかったのではないの?」
 想定できる答えを口にすると、オスカーは何とも言えない顔をこちらに向けた。

(他に理由が分からないのよねえ。アルバートは元気そうにしていた私を見て決めた可能性があるとは言っていたけれど。それはつまりいつも「わたし」が暗い顔をしていたから、誘う気が起きなかったと言うことでしょう? 誘う方がいなくて、仕方なく私を連れたんじゃないかしら?)

「侯爵様はどんな方なの?」
「仕事は真面目で王からも一目置かれている方です。ただその、姉上と結婚される前も、特定の方との噂はなく、人を変えてわざと一人に絞られないようにしていたようで。今もそれを続けているのではと噂する者もおります」
「お試し期間で飽きちゃうのかしらねえ」
「ふざけた話です! そもそも、姉上に結婚の申し込みをしてきたのは侯爵自身ですよ!? 幼い頃から知り合いだったのもありますが、しつこくアプローチしてきたのはあちらです!」

 それは初めて聞いた。家同士の繋がりと聞いていたが、そのために行っていたのではないだろうか。
 しかし、身分で言えばこちらの方が低い。別の女性を連れても「わたし」が怒ることはないと前々から思っていたのだろうか。実際、「わたし」は侯爵家で静かに夫人をしていたのだから。

「幼い頃お会いした侯爵は姉上と同い年でも少々小さめで、よく姉上の後を追っていました。姉上はお転婆でしたし、私も義兄上もついていくのがやっとで。そんな縁もありましたが、アカデミーに入ってから疎遠になり、アカデミーを卒業されて結婚が決まったんです。あの頃は、姉上も嬉しそうでしたけれど」

 オスカーはしんみりと言った。あの時に止めていればと。

(幼い頃のイメージで結婚したら、思っていたのと違ったと言うところかしら。まあ仕方のないことね。貴族同士の結婚など、婚約して初めて会うことなども度々なのだし)

 しかし、「わたし」は喜んでいたようだ。では、「わたし」は旦那様を愛していたのかもしれない。

 今は違うが。

「とにかく姉上。これ以上何かあったら困りますから、戻りたいとおっしゃればすぐに迎えに参ります。ですので、戻りたいとおっしゃっていただければ」
 オスカーは二度言った。離婚したいと言えばすぐに離婚させると。

「今のところは大丈夫。何か言われても、何とも思わないのよ。だって、ほとんど会話したことがないのだもの」
「あ、姉上…」

 言わない方が良かっただろうか。本当に今は幸せなので、そんなしょんぼりしなくてもいいのだが。

 音楽も終わりダンスを終えると、オスカーは知り合いに挨拶に行った。今日は奥様が体調を崩していて一人の参加だったようだ。照れながら言うので、おそらく妊娠されているのだろう。
 微笑ましい限りである。そんな幸せ絶頂な弟を巻き込むわけにはいかない。

 先ほども言った通り、今のところ自分は別に不幸ではない。皆と楽しく生活していられるお陰で、旦那様についてはおまけのようなものと感じているくらいだ。

 なので、ああいう輩が近寄ってきても、何とも思わないのである。
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