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7章:ネクロフィリアの葬送
2話:下町の友
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あの夢はあれっきり見ていない。だが、ずっと心に引っかかっている。もしかしたら、あの男が戻ってきたのかもしれない。そう思うといても立ってもいられない気分だった。
「ランバート、明日の夜空いてる?」
昼食は同期の仲間と一緒に食べる事が多くなった。その席でハリーが無邪気に誘いかけてくる。悪夢に気を取られていたランバートは、間抜けな顔で首を傾げた。
「どうしたのさ、ランバート。なんか最近思案顔」
「恋でもしたとか?」
からかうようにレイバンが言う。そんなはずはないと分かっていてこれだ。
「何か気がかりな事でもあるのか?」
ゼロスが気遣わしげに聞いてくるのに、ランバートは苦笑して首を横に振る。気にしすぎだと思えないわけじゃない。
「少し夢見が悪いだけだから、気にしないでくれ」
「寝れないの? それなら抱き枕になりに行こうか?」
「ハリー、お前はもう少し恥じらいを持てよ」
コンラッドが困った顔でたしなめる。だがハリーは気にしたふうもなく、楽しそうにしていた。
「そんな時は飲みに行くのがいいんだよ。ランバート、明日の夜に飲みに行かないか?」
笑いながら誘うボリスに、ハリーとレイバンが頷く。どうやらこのお誘いがメインだったようだ。
「いや、俺は明日下町に行こうかと思って」
思わず言って、ハッとしたけれど遅かった。三人は興味津々の顔をしてランバートを覗き込んでくる。
「下町いきたい!」
「なかなか関われない場所だから、是非」
「今更ダメなんて言わないよね、ランバート」
ニヤニヤと迫る三人は逃がすつもりがないらしい。助けを求めようにも、ゼロスもコンラッドもお手上げだ。
「いい場所じゃないんだぞ」
「だからこそ興味がある」
「……何があっても知らないからな」
何をしても付いてくるつもりの三人に肩をガックリと落として、ランバートは渋々承知するのだった。
安息日前日、門前で待ち合わせをしたランバートは、ボリスとレイバン、ハリーを連れて東地区へと向かった。時間は夕刻、一番活気のある時間だった。
「凄い人! この時間って、本当に混み合うよね」
下町のメイン通りの両サイドには食材を売る店が多い。野菜や肉や魚を売る店の活気と、それを求める客の活気。そこに陰鬱な雰囲気など何もなくて、むしろエネルギーをもらえる感じがする。
ランバートはその道をスッと入っていく。白の服にスラックスという簡単な格好のランバートは髪も一つ束ねている。その後ろを歩く三人も、縫うように道を歩いた。
「まずは飯。酒場はその後」
「美味い店知ってるの?」
「美味いかはそれぞれだけど、量はあるな」
そう言って、ランバートは表通りから一本入る。そうすると少し人の流れも落ち着いて、はぐれるような不安はなくなった。
「凄い人。ここって、細い路地が多くて道の把握ができないんだよ」
「地図がないんだ。細かな道も多いし、どこがどこに通じているのか把握しきれないって、アシュレー様も言っていた。ただ、東地区はギルドが発達して、住民達の結束が強いから何かあっても対処が速いとも言っていた」
レイバンとボリスの会話を聞きながら、ランバートは苦笑した。確かに東地区の地図はない。あえて作っていないのだ。住民は細かな路地も把握しているからそれでいい。何よりここは貴族を拒む部分もある。騎士団もここの住人にとっては貴族に属すから、年寄りなんかは特に嫌うのだ。
「東地区は自警の意識が高いからな。小さなもめ事があって俺らが駆けつけても、その頃には捕り物は終わってて引き立てるだけな事が多い」
「ここがスラムだった時代、横暴をしていたのは貴族連中だ。貴族を嫌う人間が多いのは否めないな。それに、自分たちの手に町が戻ってきたのなら絶対に手放さない。そういう思いを持っている人も多いはずだ」
「なのに、ランバートは仲良しなんだよね。貴族の中の貴族なのに」
ハリーが言うのに、みんなが「そうだ」と言って笑う。これに、ランバートも笑った。
「俺はいいんだよ、ここじゃ貴族だなんて思ってる奴いないから」
そんな事を言っている間に目的の店の前に来た。立ち止まったランバートにつられて三人も立ち止まる。そこは一見、店には見えない場所だった。
「ここ?」
看板が出ているわけでも、メニューが書いてあるわけでもない。ただ入り口は開いているし、明かりは灯っている。ランバートは迷うことなくドアを開けて、中に声をかけた。
「マックス、いるか?」
板張りの床に、簡素なテーブルと椅子が並ぶばかりの店にはまだ人の姿はない。それどころか店員の姿もない。だが、ランバートが声をかけると奥から二十代中頃の青年が顔を出し、次には目を輝かせた。
「リフ! なんだよ、来るなら事前に言ってくれよ」
「いつもそんな事しないだろうが。空いてるか?」
「勿論! 好きなところ座ってくれ。後ろの三人は友達か?」
そろそろと入ってきた三人にも視線を向けたマックスは、屈託のない笑みを浮かべる。そして適当なテーブルに大きなジョッキを置いて水を注いでいく。
「何にする? 昨日入ったばかりの牛肉があるんだけど、それでいいか?」
「あぁ、貰う。他は適当に。この後ジンの所に行くから、その前に腹に入れないとさ」
「あそこの酒は回るよな。了解、用意する」
そう言って奥へと消えていくと、また店の中はガランとする。ランバートはジョッキの置かれたテーブルに座り、三人もオズオズと同じ席に座った。
「なんか、いいのか?」
「不思議だよね、この感じ。人がいない」
「まぁ、まだ時間が早いからな。でも、ここの肉は美味いから」
直ぐに奥から肉を焼く音と香ばしい香りが漂い始める。それを嗅いだ面々の腹の虫が鳴いたのには笑った。そして出された特大のステーキと山盛りのサラダを口に運び、降りて来た妹がちょこんと挨拶をして出してくれたパンをかじりながら心ゆくまで食べていく。
ひとしきり腹が満ちると満足な顔をして、全員がナイフを置いた。そこに果物を切った皿が置かれる。
「美味しかった」
「ほんと、満足」
「食べ過ぎじゃないのか、ハリー」
「ランバートほどじゃないよ」
名を上げられたが、食べ過ぎたとは思っていない。ここに来るとステーキ一皿にパンを数個、野菜もたっぷり食べる。これでもまだ入るくらいだ。
「細い体してるのに、どこにあの量が入るんだろうね」
「胃袋が異次元に繋がってるとか?」
「しっかり腹におさまってるよ。運動して減らして体重キープしてるんだ」
「努力家だよね、ランバート。俺はだらけたい」
溶けそうな声で言うハリーを軽くこづいて果物を食べ始める。その頃には店内も賑わっていた。
「リフ、この後ジンの店に行くの?」
愛らしい顔をした少女が問いかけてくる。十七くらいの愛くるしい少女で、赤に近い茶の髪を束ね、頬にほんのりとそばかすが浮かぶ。それが逆に少女らしく、愛くるしいのだ。
「行くけど、用事?」
「うん。果物届けて欲しいの」
バスケットに入った果物はどれも新鮮だ。それを受けとったランバートはニッコリ笑って頷く。奥からマックスも出てきて「悪いな」と声をかけてくる。
それぞれ店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。その夜道を案内して辿り着いたのは、賑やかな酒場だ。二階建てで、一階が酒場になっている。
「ここが、傭兵ギルド」
ランバート以外の三人がそれぞれちょっとビビる。それを尻目に、ランバートは慣れたようにドアを開けた。
カウンターの中では相変わらずむさ苦しいスキンヘッドの筋肉男が、律儀にグラスを磨いている。側のテーブルでは三人程度の男が話しながら飲んでいる。どいつも体が大きく声も大きい。その迫力に、後ろの三人は気圧されたようだった。
「リフ!」
「よう、ジン。相変わらず熊が芸してるみたいだな」
笑って言うとスキンヘッドの男、ジンは嫌な顔をする。でもどう見ても、大柄な熊がグラスを磨く芸を披露しているように見えるのだ。
これに他の客も声を上げて大いに笑う。どれも筋骨隆々な男ばかりで、背が高い。顔に傷のある男、でかい斧を背負った男、見目のいい男と三人だ。
「リフ、久しぶりだな!」
「フリッツ、久しぶり。北に行ってたんだって?」
顔に傷のある男が親しげに近づいてきて、肩をドンと叩く。それに笑いながら、ランバートが話しかけるのに男は頷いた。
「北の国境に行ってたんだ。国境越えの手伝いにな」
「正規の仕事なんだろうな?」
「勿論だって。商隊を渡してたんだ。ちゃんと国境越える許可を持ってる奴らだ」
「俺は海賊討伐よ!」
そう言って近づいてきたのは大きな斧を担いだ男だ。腕が既にランバートの太ももくらいありそうだ。
「ボブは海が好きだな」
「おうよ。商船の護衛が俺には性に合ってるからな」
「俺は南に行っていたんだ。貴族のお嬢さんの護衛でね」
そう言ったのは一番見目のいい男だった。金髪に緑色の瞳をした、穏やかな表情をする男だ。
「メイは女性人気が高いからな。流石に貴族のお嬢さんとなると、こんな熊みたいなの連れて行けないか」
「熊はないだろう、リフ!」
「どっからどう見たって熊だろうが。お前ら、鏡見たか?」
そんな冗談みたいな話をして、笑っている。その袖を遠慮がちに、クイクイと引く手があった。
「ランバート、俺たち忘れてないか?」
「あっ! ごめん」
素直に謝って、とりあえず店内に。直ぐにジンが人数分のジョッキにエールを注いでもってくる。それを一口飲んだ騎士団メンバーは、思いっきり咳き込んだ。
「そっちは、今の仲間か?」
「あぁ。右から、ボリス、レイバン、ハリー。ここに興味があったんだってさ」
「へぇ、珍しい」
対面に座る三人が、それぞれ面白そうにしている。それを見る三人は完全に萎縮していた。
「こっちは傭兵で、右からフリッツ、ボブ、メイだ。全員腕の立つ傭兵だ」
「そして俺が、このギルドのマスターでジン。いつもこいつが世話になってるな」
後ろから来たジンがガシリとランバートの頭を掴んでグリグリと撫で繰り回す。それに抵抗するランバートを見て、騎士団メンバーは呆然としながらも笑った。
「興味があったって、傭兵希望か?」
「いや、単に興味。ってか、強い相手は見てみたい?」
「あぁ、なるほどな。そいつは分からんでもねぇな」
意外と速い柔軟性を見せて、ボリスが話し始める。他も少しずつ話をしている。なんというか、ぎこちなくはあったが。
「リフ、なんかあったか?」
ランバートの隣に腰を下ろしたジンが、真っ先に聞いてきた。やはり様子のおかしさを悟られたんだろう。苦笑して、ランバートは頷いた。
「最近、ヒュドラの噂を聞かないか?」
問いかけると、途端に場が静かになった。騎士団メンバーというよりは、傭兵メンバーの表情が凍った。
「何かあったのか?」
途端に不安になって問いかける。嫌な予感が現実になるんじゃないかと、背が寒くなった。
「いや、明確な話は聞いてない。ただ、少し前から浮浪者の死体が出てる」
「なんだよ、それ」
表情を沈めたジンを睨み付けて、ランバートは怖い顔をした。東地区の奥は未だにスラムの名残のような場所がある。そこには浮浪者もいて、名も家も分からないような人が多い。それは現実なのだが、死体というのが気がかりだ。
「死因とかはわかんないけどな。でも、噂じゃ死神が連れて行くってよ」
「死神?」
事の不穏さにボリスが嫌な顔をする。レイバンも酔いが覚めた顔だ。
「骸骨みたいな奴が声をかけてるって話だ。死体に外傷がないから、変な病気かもしれないってんで町の外で火葬にしてるが」
「正しいけれど、嫌な話だね」
ハリーがジョッキの酒を飲みながら言う。それに、ランバートは表情を沈ませた。
「これでも、ましになってきたんだよ」
「だな。一時期は町全体がこんなだったからな」
フリッツが口にして、酒を飲み干す。
「ヒュドラの名は聞いてないけれど、死体が出ているのは確かだよ。リフ、あまりこの辺に来ない方がいい」
「でも」
「そうだぞ、リフ。あいつは変態だからな。今度目をつけられたら、何をするか分からないぞ」
メイやボブにまでそんな事を言われると返す言葉がない。ランバートは苦笑して頷いた。
「まぁ、なんか情報が入ったら入れるようにはする。けど、本当に近づくな。あいつは何を考えているか分からないからな」
ジンの警告を受けて、ランバートも素直に頷く。それでも、やっぱり素直に全てを受け入れる事は難しかった。
その日は飲んで騒いだ。しばらくすると傭兵仲間がまた集まってきて、どんちゃん騒ぎが始まった。ボリスやハリーもそこに加わって、実に楽しそうにしている。
いい加減夜も遅くなって酒場を後にした騎士団メンバーは、ほろ酔い状態で人のいない夜道を歩いていた。
「すっごく楽しかったぁ!」
酔っ払い状態のハリーがランバートの腕に絡みつきながら歩いている。その隣では腰に手を添えたレイバンが、こちらも上機嫌な様子だった。
「また来いって言われたね」
「連れてくけど、一人で行くなよ」
「分かってる。ランバートは、下町でリフって呼ばれてるんだね」
「あぁ、そうだよ。ここだけの名前」
気のいい奴らが貴族のランバートにつけてくれた、下町の名前。とても大事な仲間の証だ。
「ランバートは好かれてるね。それにしても、ちょっと面食らったよ。ドゥーガルドみたいなのがあんなにいるんだから」
ボリスは少し疲れた感じで言う。案外好かれてしまって、肩を組んでの大合唱をしていたから痛むようだ。
「みんなも好かれたよ」
「だと嬉しいな」
そんな事を話しながら進む夜道のその中に、みんなは影を見た。東地区から東砦へと続く道の途中、明かりのないそこに黒い物が蹲っている。それは小さな動物か何かにも見えた。
「なに、あれ?」
ハリーが目をこらす。ランバートも目をこらした。その影は本当に僅かだが、動いている。
「人だ!!」
倒れている人だと分かった途端、ハリーは飛び出していた。酔いも覚めたのか一気に近づいたハリーを見て、ランバートは妙な胸騒ぎがした。
こんな夜中に、倒れている人影。浮浪者の死体が多いと今日聞いた事。そして、この胸騒ぎ。
「ハリー待て! 触るな!」
叫んだ時には遅かった。助け起こしたハリーめがけて何かが飛ぶ。それはハリーの腕に噛みついて牙を立てている。
「っ!」
月夜にも見えるその姿を凝視したランバートは恐怖に体がすくんだ。体長三十センチくらいの蛇がハリーの腕に噛みついている。その周囲がほんの僅か色を変えているように見えた。
直ぐに蛇の尻尾と頭を捕まえたランバートは、そっと牙を外す。腕を押さえて動けないハリーの側にレイバンがつき、ボリスが砦に走って行った。
「ランバート、そいつは?」
レイバンが地面に転がったものを見て言うが、明らかにダメだろう。首を横に振る。今はとにかくこの蛇を逃がさない事が先決だった。
知らせを受けて直ぐに砦から街警の第三師団がきてくれた。更に知らせを聞いたエリオットがかけつけてきて、ハリーの容態を診て、宿舎へと運んだ。
「幸い、ランバートが彼を噛んだ蛇を捕獲してくれていたので、直ぐに血清を用意できました。容態も落ち着いていますので、明日一日は様子を見て、変化がないようでしたら戻れます」
治療を終えたエリオットの言葉に、ようやくランバートは息ができる思いだった。側にいたレイバンが、気遣わしげに背中を叩いてくれる。
そこに知らせを聞いたファウストも来て、詳しい話をする事になった。
「謀られた感じはあるな。東地区で浮浪者の死体が出ているという事件に、関係がありそうだ」
「俺もそうは思いますが、全然正体が掴めないし、目的が分からないですよ」
レイバンが反論する。だがランバートには分かっていた。あいつが戻ってきて、思い出したように自分を狙っていると。
「狙いはランバートかもしれないが、他にも目的があるだろうな。浮浪者の死因は蛇じゃない。毒殺の疑いが高いが、注射によるものだ」
ファウストの黒い瞳がランバートを見る。ビクリと震えたランバートは、頼りない瞳をファウストに向けた。
「何かしらの実験をしている感じがあると、検死をした医者が言っていた。他の死体を調べたわけじゃないが、薬物実験の後で死体を捨てたと考えるのが今の所の見方だ」
「嫌な事するな。あの蛇は、逃げてきたのか故意なのか」
「逃げてきた、と考えたいな。実際、あの死体に触れるのがこいつらであった保証はない」
その通りだ、全ては偶然だ。だが、偶然じゃなかったら? どこかで見ていて、あそこを通ると予想して興味を引くように仕向けた。そこに蛇を忍ばせていたら? 見ていたからこそ、全てを仕込めたんだとしたら?
「ランバート?」
嫌悪と恐怖で頭がおかしくなりそうだ。全てを疑ってしまいそうだ。今もどこかで見ているような気がしてくる。息ができないくらい苦しくなる。こんな風に、仲間にまた危害を加えられたら。今回は咄嗟に蛇を捕まえて、正しい治療ができた。でも、蛇を取り逃がしていたらハリーの命はどうなった? 蛇の毒は種類が分からないと血清が分からない。治療が遅れれば死ぬことだって。
「ランバート!」
とても近くで声がした。驚いて顔を上げると、黒い瞳が見つめている。
「今日は疲れただろう。レイバン、ご苦労だった。ランバート、少しこい」
そう言うと、ファウストは強い力でランバートを引っ張っていく。そうして連れてきたのは、彼の部屋だった。
「あの……」
なんて言えばいいんだろう。何を言えばいいんだろうか。体が震えている。息が乱れる。まだ目の前にあの光景が広がっている。動けない。
ふわりと、温かな腕が背に回った。強い力が側にある。それに身を委ねるのは、とても心地よかった。
「落ち着くまでだ」
「あ……」
息ができて、ゆっくりと落ち着いていく。あの光景が消えていって、現実が映り始めた。
「平気か?」
「はい。お気遣い頂いて、有り難うございます」
「青い顔をしている奴を前にして、放り投げてはおけないからな」
背を押されてソファーに座り、お茶を出される。決して美味しいとは言えないものだが、なんだか妙に安心した。
「お前、顔に出ているぞ」
「ファウスト様はお茶を入れるのが苦手ですね」
睨まれて、それが嬉しくて笑う。そして出されたお茶を最後まで飲み干した。
「今日は、下町の友人を訪ねたんだろ? 何が言っていたか?」
ファウストの問いに、ランバートはなんとも言えず俯いて首を横に振る。本当にたいした成果を得られなかったのだから。
「東地区で浮浪者の死体が出ているのは確かです。外傷もないから、皆で運び出して火葬にして合葬しているそうです」
「まぁ、賢いか。伝染病の可能性を考えれば直ぐに焼くのが一番だからな」
頷いて、それでも早く知っていればと悔やまれる。調べていればあいつに繋がる痕跡を見つけられたかもしれない。
「浮浪者に近づく死神のような人物を見たという情報もありますが、顔を見たわけではないようです。どうやら顔を隠すようにフードを目深に被っていたようです。浮浪者は見ているでしょうが、あそこの者はそもそも言葉が通じませんから」
学も家もない人々のたまり場。そんな暗い場所だ。
「ランバート、お前はこの件に深く関わるな」
低い声で命じるように、ファウストが言う。それにランバートは目を見開いて、次には首を横に振った。
「東地区で被害が多く出ているんです! 俺が」
「だからだ。お前は仲間の事になると視界が狭くなる」
「でも!」
強い声が飛ぶのを、久々に聞いた。強い目が見ている。それでも今はこの人の命令に逆らいたい。今の仲間も、昔の仲間も大事なんだ。
「少し冷静に見なければならない。今はまだ、起こっている事が掴めない。浮浪者の事も、一件は明らかな不審死だが他は自然死の可能性もある。犯人がいるとして、それも実体が掴めない。この状況で人を動かせない。第三師団には気をつけて警備に当たるように言ったが、今はこれが精々だ」
「俺が調べます」
「許可できない。万が一お前を狙っている奴が仕掛けたのだとしたら、奴の前に餌を無防備に置くことになる。それはできない」
平行線だ。でも、ファウストの言うことが正しい。感情がそれに追いつかないだけなんだと、理解はできた。
ポンと、肩に手が触れる。次には真剣な目が覗き込んだ。
「信じろ。お前の仲間は簡単に屈したりはしない。せめてもう少し事件が明確になるまで動かないでくれ」
「……分かりました」
この人にこれ以上の苦労をかけるのは忍びない。何より本当に心配してくれている。だから、今だけは大人しく命令に従おう。
ようやく頷いて、ランバートは飲み込んだ。そして一礼をして、退室していった。
「ランバート、明日の夜空いてる?」
昼食は同期の仲間と一緒に食べる事が多くなった。その席でハリーが無邪気に誘いかけてくる。悪夢に気を取られていたランバートは、間抜けな顔で首を傾げた。
「どうしたのさ、ランバート。なんか最近思案顔」
「恋でもしたとか?」
からかうようにレイバンが言う。そんなはずはないと分かっていてこれだ。
「何か気がかりな事でもあるのか?」
ゼロスが気遣わしげに聞いてくるのに、ランバートは苦笑して首を横に振る。気にしすぎだと思えないわけじゃない。
「少し夢見が悪いだけだから、気にしないでくれ」
「寝れないの? それなら抱き枕になりに行こうか?」
「ハリー、お前はもう少し恥じらいを持てよ」
コンラッドが困った顔でたしなめる。だがハリーは気にしたふうもなく、楽しそうにしていた。
「そんな時は飲みに行くのがいいんだよ。ランバート、明日の夜に飲みに行かないか?」
笑いながら誘うボリスに、ハリーとレイバンが頷く。どうやらこのお誘いがメインだったようだ。
「いや、俺は明日下町に行こうかと思って」
思わず言って、ハッとしたけれど遅かった。三人は興味津々の顔をしてランバートを覗き込んでくる。
「下町いきたい!」
「なかなか関われない場所だから、是非」
「今更ダメなんて言わないよね、ランバート」
ニヤニヤと迫る三人は逃がすつもりがないらしい。助けを求めようにも、ゼロスもコンラッドもお手上げだ。
「いい場所じゃないんだぞ」
「だからこそ興味がある」
「……何があっても知らないからな」
何をしても付いてくるつもりの三人に肩をガックリと落として、ランバートは渋々承知するのだった。
安息日前日、門前で待ち合わせをしたランバートは、ボリスとレイバン、ハリーを連れて東地区へと向かった。時間は夕刻、一番活気のある時間だった。
「凄い人! この時間って、本当に混み合うよね」
下町のメイン通りの両サイドには食材を売る店が多い。野菜や肉や魚を売る店の活気と、それを求める客の活気。そこに陰鬱な雰囲気など何もなくて、むしろエネルギーをもらえる感じがする。
ランバートはその道をスッと入っていく。白の服にスラックスという簡単な格好のランバートは髪も一つ束ねている。その後ろを歩く三人も、縫うように道を歩いた。
「まずは飯。酒場はその後」
「美味い店知ってるの?」
「美味いかはそれぞれだけど、量はあるな」
そう言って、ランバートは表通りから一本入る。そうすると少し人の流れも落ち着いて、はぐれるような不安はなくなった。
「凄い人。ここって、細い路地が多くて道の把握ができないんだよ」
「地図がないんだ。細かな道も多いし、どこがどこに通じているのか把握しきれないって、アシュレー様も言っていた。ただ、東地区はギルドが発達して、住民達の結束が強いから何かあっても対処が速いとも言っていた」
レイバンとボリスの会話を聞きながら、ランバートは苦笑した。確かに東地区の地図はない。あえて作っていないのだ。住民は細かな路地も把握しているからそれでいい。何よりここは貴族を拒む部分もある。騎士団もここの住人にとっては貴族に属すから、年寄りなんかは特に嫌うのだ。
「東地区は自警の意識が高いからな。小さなもめ事があって俺らが駆けつけても、その頃には捕り物は終わってて引き立てるだけな事が多い」
「ここがスラムだった時代、横暴をしていたのは貴族連中だ。貴族を嫌う人間が多いのは否めないな。それに、自分たちの手に町が戻ってきたのなら絶対に手放さない。そういう思いを持っている人も多いはずだ」
「なのに、ランバートは仲良しなんだよね。貴族の中の貴族なのに」
ハリーが言うのに、みんなが「そうだ」と言って笑う。これに、ランバートも笑った。
「俺はいいんだよ、ここじゃ貴族だなんて思ってる奴いないから」
そんな事を言っている間に目的の店の前に来た。立ち止まったランバートにつられて三人も立ち止まる。そこは一見、店には見えない場所だった。
「ここ?」
看板が出ているわけでも、メニューが書いてあるわけでもない。ただ入り口は開いているし、明かりは灯っている。ランバートは迷うことなくドアを開けて、中に声をかけた。
「マックス、いるか?」
板張りの床に、簡素なテーブルと椅子が並ぶばかりの店にはまだ人の姿はない。それどころか店員の姿もない。だが、ランバートが声をかけると奥から二十代中頃の青年が顔を出し、次には目を輝かせた。
「リフ! なんだよ、来るなら事前に言ってくれよ」
「いつもそんな事しないだろうが。空いてるか?」
「勿論! 好きなところ座ってくれ。後ろの三人は友達か?」
そろそろと入ってきた三人にも視線を向けたマックスは、屈託のない笑みを浮かべる。そして適当なテーブルに大きなジョッキを置いて水を注いでいく。
「何にする? 昨日入ったばかりの牛肉があるんだけど、それでいいか?」
「あぁ、貰う。他は適当に。この後ジンの所に行くから、その前に腹に入れないとさ」
「あそこの酒は回るよな。了解、用意する」
そう言って奥へと消えていくと、また店の中はガランとする。ランバートはジョッキの置かれたテーブルに座り、三人もオズオズと同じ席に座った。
「なんか、いいのか?」
「不思議だよね、この感じ。人がいない」
「まぁ、まだ時間が早いからな。でも、ここの肉は美味いから」
直ぐに奥から肉を焼く音と香ばしい香りが漂い始める。それを嗅いだ面々の腹の虫が鳴いたのには笑った。そして出された特大のステーキと山盛りのサラダを口に運び、降りて来た妹がちょこんと挨拶をして出してくれたパンをかじりながら心ゆくまで食べていく。
ひとしきり腹が満ちると満足な顔をして、全員がナイフを置いた。そこに果物を切った皿が置かれる。
「美味しかった」
「ほんと、満足」
「食べ過ぎじゃないのか、ハリー」
「ランバートほどじゃないよ」
名を上げられたが、食べ過ぎたとは思っていない。ここに来るとステーキ一皿にパンを数個、野菜もたっぷり食べる。これでもまだ入るくらいだ。
「細い体してるのに、どこにあの量が入るんだろうね」
「胃袋が異次元に繋がってるとか?」
「しっかり腹におさまってるよ。運動して減らして体重キープしてるんだ」
「努力家だよね、ランバート。俺はだらけたい」
溶けそうな声で言うハリーを軽くこづいて果物を食べ始める。その頃には店内も賑わっていた。
「リフ、この後ジンの店に行くの?」
愛らしい顔をした少女が問いかけてくる。十七くらいの愛くるしい少女で、赤に近い茶の髪を束ね、頬にほんのりとそばかすが浮かぶ。それが逆に少女らしく、愛くるしいのだ。
「行くけど、用事?」
「うん。果物届けて欲しいの」
バスケットに入った果物はどれも新鮮だ。それを受けとったランバートはニッコリ笑って頷く。奥からマックスも出てきて「悪いな」と声をかけてくる。
それぞれ店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。その夜道を案内して辿り着いたのは、賑やかな酒場だ。二階建てで、一階が酒場になっている。
「ここが、傭兵ギルド」
ランバート以外の三人がそれぞれちょっとビビる。それを尻目に、ランバートは慣れたようにドアを開けた。
カウンターの中では相変わらずむさ苦しいスキンヘッドの筋肉男が、律儀にグラスを磨いている。側のテーブルでは三人程度の男が話しながら飲んでいる。どいつも体が大きく声も大きい。その迫力に、後ろの三人は気圧されたようだった。
「リフ!」
「よう、ジン。相変わらず熊が芸してるみたいだな」
笑って言うとスキンヘッドの男、ジンは嫌な顔をする。でもどう見ても、大柄な熊がグラスを磨く芸を披露しているように見えるのだ。
これに他の客も声を上げて大いに笑う。どれも筋骨隆々な男ばかりで、背が高い。顔に傷のある男、でかい斧を背負った男、見目のいい男と三人だ。
「リフ、久しぶりだな!」
「フリッツ、久しぶり。北に行ってたんだって?」
顔に傷のある男が親しげに近づいてきて、肩をドンと叩く。それに笑いながら、ランバートが話しかけるのに男は頷いた。
「北の国境に行ってたんだ。国境越えの手伝いにな」
「正規の仕事なんだろうな?」
「勿論だって。商隊を渡してたんだ。ちゃんと国境越える許可を持ってる奴らだ」
「俺は海賊討伐よ!」
そう言って近づいてきたのは大きな斧を担いだ男だ。腕が既にランバートの太ももくらいありそうだ。
「ボブは海が好きだな」
「おうよ。商船の護衛が俺には性に合ってるからな」
「俺は南に行っていたんだ。貴族のお嬢さんの護衛でね」
そう言ったのは一番見目のいい男だった。金髪に緑色の瞳をした、穏やかな表情をする男だ。
「メイは女性人気が高いからな。流石に貴族のお嬢さんとなると、こんな熊みたいなの連れて行けないか」
「熊はないだろう、リフ!」
「どっからどう見たって熊だろうが。お前ら、鏡見たか?」
そんな冗談みたいな話をして、笑っている。その袖を遠慮がちに、クイクイと引く手があった。
「ランバート、俺たち忘れてないか?」
「あっ! ごめん」
素直に謝って、とりあえず店内に。直ぐにジンが人数分のジョッキにエールを注いでもってくる。それを一口飲んだ騎士団メンバーは、思いっきり咳き込んだ。
「そっちは、今の仲間か?」
「あぁ。右から、ボリス、レイバン、ハリー。ここに興味があったんだってさ」
「へぇ、珍しい」
対面に座る三人が、それぞれ面白そうにしている。それを見る三人は完全に萎縮していた。
「こっちは傭兵で、右からフリッツ、ボブ、メイだ。全員腕の立つ傭兵だ」
「そして俺が、このギルドのマスターでジン。いつもこいつが世話になってるな」
後ろから来たジンがガシリとランバートの頭を掴んでグリグリと撫で繰り回す。それに抵抗するランバートを見て、騎士団メンバーは呆然としながらも笑った。
「興味があったって、傭兵希望か?」
「いや、単に興味。ってか、強い相手は見てみたい?」
「あぁ、なるほどな。そいつは分からんでもねぇな」
意外と速い柔軟性を見せて、ボリスが話し始める。他も少しずつ話をしている。なんというか、ぎこちなくはあったが。
「リフ、なんかあったか?」
ランバートの隣に腰を下ろしたジンが、真っ先に聞いてきた。やはり様子のおかしさを悟られたんだろう。苦笑して、ランバートは頷いた。
「最近、ヒュドラの噂を聞かないか?」
問いかけると、途端に場が静かになった。騎士団メンバーというよりは、傭兵メンバーの表情が凍った。
「何かあったのか?」
途端に不安になって問いかける。嫌な予感が現実になるんじゃないかと、背が寒くなった。
「いや、明確な話は聞いてない。ただ、少し前から浮浪者の死体が出てる」
「なんだよ、それ」
表情を沈めたジンを睨み付けて、ランバートは怖い顔をした。東地区の奥は未だにスラムの名残のような場所がある。そこには浮浪者もいて、名も家も分からないような人が多い。それは現実なのだが、死体というのが気がかりだ。
「死因とかはわかんないけどな。でも、噂じゃ死神が連れて行くってよ」
「死神?」
事の不穏さにボリスが嫌な顔をする。レイバンも酔いが覚めた顔だ。
「骸骨みたいな奴が声をかけてるって話だ。死体に外傷がないから、変な病気かもしれないってんで町の外で火葬にしてるが」
「正しいけれど、嫌な話だね」
ハリーがジョッキの酒を飲みながら言う。それに、ランバートは表情を沈ませた。
「これでも、ましになってきたんだよ」
「だな。一時期は町全体がこんなだったからな」
フリッツが口にして、酒を飲み干す。
「ヒュドラの名は聞いてないけれど、死体が出ているのは確かだよ。リフ、あまりこの辺に来ない方がいい」
「でも」
「そうだぞ、リフ。あいつは変態だからな。今度目をつけられたら、何をするか分からないぞ」
メイやボブにまでそんな事を言われると返す言葉がない。ランバートは苦笑して頷いた。
「まぁ、なんか情報が入ったら入れるようにはする。けど、本当に近づくな。あいつは何を考えているか分からないからな」
ジンの警告を受けて、ランバートも素直に頷く。それでも、やっぱり素直に全てを受け入れる事は難しかった。
その日は飲んで騒いだ。しばらくすると傭兵仲間がまた集まってきて、どんちゃん騒ぎが始まった。ボリスやハリーもそこに加わって、実に楽しそうにしている。
いい加減夜も遅くなって酒場を後にした騎士団メンバーは、ほろ酔い状態で人のいない夜道を歩いていた。
「すっごく楽しかったぁ!」
酔っ払い状態のハリーがランバートの腕に絡みつきながら歩いている。その隣では腰に手を添えたレイバンが、こちらも上機嫌な様子だった。
「また来いって言われたね」
「連れてくけど、一人で行くなよ」
「分かってる。ランバートは、下町でリフって呼ばれてるんだね」
「あぁ、そうだよ。ここだけの名前」
気のいい奴らが貴族のランバートにつけてくれた、下町の名前。とても大事な仲間の証だ。
「ランバートは好かれてるね。それにしても、ちょっと面食らったよ。ドゥーガルドみたいなのがあんなにいるんだから」
ボリスは少し疲れた感じで言う。案外好かれてしまって、肩を組んでの大合唱をしていたから痛むようだ。
「みんなも好かれたよ」
「だと嬉しいな」
そんな事を話しながら進む夜道のその中に、みんなは影を見た。東地区から東砦へと続く道の途中、明かりのないそこに黒い物が蹲っている。それは小さな動物か何かにも見えた。
「なに、あれ?」
ハリーが目をこらす。ランバートも目をこらした。その影は本当に僅かだが、動いている。
「人だ!!」
倒れている人だと分かった途端、ハリーは飛び出していた。酔いも覚めたのか一気に近づいたハリーを見て、ランバートは妙な胸騒ぎがした。
こんな夜中に、倒れている人影。浮浪者の死体が多いと今日聞いた事。そして、この胸騒ぎ。
「ハリー待て! 触るな!」
叫んだ時には遅かった。助け起こしたハリーめがけて何かが飛ぶ。それはハリーの腕に噛みついて牙を立てている。
「っ!」
月夜にも見えるその姿を凝視したランバートは恐怖に体がすくんだ。体長三十センチくらいの蛇がハリーの腕に噛みついている。その周囲がほんの僅か色を変えているように見えた。
直ぐに蛇の尻尾と頭を捕まえたランバートは、そっと牙を外す。腕を押さえて動けないハリーの側にレイバンがつき、ボリスが砦に走って行った。
「ランバート、そいつは?」
レイバンが地面に転がったものを見て言うが、明らかにダメだろう。首を横に振る。今はとにかくこの蛇を逃がさない事が先決だった。
知らせを受けて直ぐに砦から街警の第三師団がきてくれた。更に知らせを聞いたエリオットがかけつけてきて、ハリーの容態を診て、宿舎へと運んだ。
「幸い、ランバートが彼を噛んだ蛇を捕獲してくれていたので、直ぐに血清を用意できました。容態も落ち着いていますので、明日一日は様子を見て、変化がないようでしたら戻れます」
治療を終えたエリオットの言葉に、ようやくランバートは息ができる思いだった。側にいたレイバンが、気遣わしげに背中を叩いてくれる。
そこに知らせを聞いたファウストも来て、詳しい話をする事になった。
「謀られた感じはあるな。東地区で浮浪者の死体が出ているという事件に、関係がありそうだ」
「俺もそうは思いますが、全然正体が掴めないし、目的が分からないですよ」
レイバンが反論する。だがランバートには分かっていた。あいつが戻ってきて、思い出したように自分を狙っていると。
「狙いはランバートかもしれないが、他にも目的があるだろうな。浮浪者の死因は蛇じゃない。毒殺の疑いが高いが、注射によるものだ」
ファウストの黒い瞳がランバートを見る。ビクリと震えたランバートは、頼りない瞳をファウストに向けた。
「何かしらの実験をしている感じがあると、検死をした医者が言っていた。他の死体を調べたわけじゃないが、薬物実験の後で死体を捨てたと考えるのが今の所の見方だ」
「嫌な事するな。あの蛇は、逃げてきたのか故意なのか」
「逃げてきた、と考えたいな。実際、あの死体に触れるのがこいつらであった保証はない」
その通りだ、全ては偶然だ。だが、偶然じゃなかったら? どこかで見ていて、あそこを通ると予想して興味を引くように仕向けた。そこに蛇を忍ばせていたら? 見ていたからこそ、全てを仕込めたんだとしたら?
「ランバート?」
嫌悪と恐怖で頭がおかしくなりそうだ。全てを疑ってしまいそうだ。今もどこかで見ているような気がしてくる。息ができないくらい苦しくなる。こんな風に、仲間にまた危害を加えられたら。今回は咄嗟に蛇を捕まえて、正しい治療ができた。でも、蛇を取り逃がしていたらハリーの命はどうなった? 蛇の毒は種類が分からないと血清が分からない。治療が遅れれば死ぬことだって。
「ランバート!」
とても近くで声がした。驚いて顔を上げると、黒い瞳が見つめている。
「今日は疲れただろう。レイバン、ご苦労だった。ランバート、少しこい」
そう言うと、ファウストは強い力でランバートを引っ張っていく。そうして連れてきたのは、彼の部屋だった。
「あの……」
なんて言えばいいんだろう。何を言えばいいんだろうか。体が震えている。息が乱れる。まだ目の前にあの光景が広がっている。動けない。
ふわりと、温かな腕が背に回った。強い力が側にある。それに身を委ねるのは、とても心地よかった。
「落ち着くまでだ」
「あ……」
息ができて、ゆっくりと落ち着いていく。あの光景が消えていって、現実が映り始めた。
「平気か?」
「はい。お気遣い頂いて、有り難うございます」
「青い顔をしている奴を前にして、放り投げてはおけないからな」
背を押されてソファーに座り、お茶を出される。決して美味しいとは言えないものだが、なんだか妙に安心した。
「お前、顔に出ているぞ」
「ファウスト様はお茶を入れるのが苦手ですね」
睨まれて、それが嬉しくて笑う。そして出されたお茶を最後まで飲み干した。
「今日は、下町の友人を訪ねたんだろ? 何が言っていたか?」
ファウストの問いに、ランバートはなんとも言えず俯いて首を横に振る。本当にたいした成果を得られなかったのだから。
「東地区で浮浪者の死体が出ているのは確かです。外傷もないから、皆で運び出して火葬にして合葬しているそうです」
「まぁ、賢いか。伝染病の可能性を考えれば直ぐに焼くのが一番だからな」
頷いて、それでも早く知っていればと悔やまれる。調べていればあいつに繋がる痕跡を見つけられたかもしれない。
「浮浪者に近づく死神のような人物を見たという情報もありますが、顔を見たわけではないようです。どうやら顔を隠すようにフードを目深に被っていたようです。浮浪者は見ているでしょうが、あそこの者はそもそも言葉が通じませんから」
学も家もない人々のたまり場。そんな暗い場所だ。
「ランバート、お前はこの件に深く関わるな」
低い声で命じるように、ファウストが言う。それにランバートは目を見開いて、次には首を横に振った。
「東地区で被害が多く出ているんです! 俺が」
「だからだ。お前は仲間の事になると視界が狭くなる」
「でも!」
強い声が飛ぶのを、久々に聞いた。強い目が見ている。それでも今はこの人の命令に逆らいたい。今の仲間も、昔の仲間も大事なんだ。
「少し冷静に見なければならない。今はまだ、起こっている事が掴めない。浮浪者の事も、一件は明らかな不審死だが他は自然死の可能性もある。犯人がいるとして、それも実体が掴めない。この状況で人を動かせない。第三師団には気をつけて警備に当たるように言ったが、今はこれが精々だ」
「俺が調べます」
「許可できない。万が一お前を狙っている奴が仕掛けたのだとしたら、奴の前に餌を無防備に置くことになる。それはできない」
平行線だ。でも、ファウストの言うことが正しい。感情がそれに追いつかないだけなんだと、理解はできた。
ポンと、肩に手が触れる。次には真剣な目が覗き込んだ。
「信じろ。お前の仲間は簡単に屈したりはしない。せめてもう少し事件が明確になるまで動かないでくれ」
「……分かりました」
この人にこれ以上の苦労をかけるのは忍びない。何より本当に心配してくれている。だから、今だけは大人しく命令に従おう。
ようやく頷いて、ランバートは飲み込んだ。そして一礼をして、退室していった。
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