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8章:花の誘惑
2話:招待状
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ファウストの雑用を始めて、今日が最後。ランバートは腕を一杯に伸ばして伸びをして、気合いを入れた。
最初は少し驚いてしまった。何せ未処理の書類が多すぎた。ファウストも仕事はできるはずなのに、それを上回る状態の物があったのだ。
どこまで踏み込んでいいかを考えるよりも前にこの惨状をどうにかしなければという思考が働き、報告書の整理をし、あんまりな物を清書してまわった。それらを日報としてファイリングし、タブをつける。会議の資料として過去のファイルなどが運び込まれていたものの手つかずな状態。過去ファイルを読み、必要そうな部分を抜粋し、添える作業をしたりもした。
一番酷いのは決算だろうか。領収書が揃っていない。そもそも貰ってあるか? と疑問なものまであった。それらをかき集めての作業を多忙なファウストに押しつけるのは、酷というものだろう。
まぁ、そんな事もありつつ日々黙々と作業をしたおかげで、最終日の今日はそれらしい紙束は皆無だった。
「安息日前日の午前中に書類が何もないなんて、始めてだな」
ファウストが呆気にとられたように言うのを聞いて、ランバートは笑った。
「少しゆっくりと、安息日が過ごせますよ」
「お前は俺には過分だ」
困ったように笑いながらも頭を撫でるその仕草に、ランバートはくすぐったい気持ちになって笑った。
「わぁ、安息日前日の執務室が綺麗ですね」
「ウルバス様」
お昼前に師団長が集まっての報告会をするのは知っていた。街警のウルバスがニコニコと入ってくるのに、ランバートは深く頭を下げた。
「先日は、本当にお世話になりました」
「あぁ、いいんだよ。トレヴァーもね、とっても元気にやってるから安心して」
あの事件以降、どうにもウルバスに頭が上がらない。勿論、気のいい上官はこの事を恩に着せようとはしないけれど、それでもランバート個人としては本当に感謝してもしきれない思いがあった。
「その後、変わりないか?」
「はい、平和ですよ。ほら、急に温かくなってきたでしょ? 桜がね、とても綺麗に咲いています」
「桜か」
ふわりとファウストが笑う。春の陽気を喜ぶように、穏やかで優しく。
「丁度七分咲きくらいで、綺麗ですよ」
「ここしばらく、花見なんてしていないな」
そんな事を話していると、ぞくぞくと師団長たちが執務室に集まってくる。ランバートはお茶を入れ、予め用意しておいたお茶菓子を真ん中にそれぞれの前にカップを置いた。
「うわぁ、完璧」
「ランバートの有能さは、この執務室を見ると直ぐに分かるな」
出てきたお茶を飲みながら歓声を上げるウェインに、満足そうに室内を見渡すアシュレー。それらの言葉にほんの少しこそばゆく感じながらも、ランバートは一礼して下がろうとした。
「あれ、行ってしまうのですか?」
「え? ですが、会議ですよね? 俺がいては不都合では」
「そんな堅苦しい物ではありませんよ」
オリヴァーがにこやかに言い、他の師団長も頷いている。ファウストは溜息をついたが、特に咎めるつもりもないらしい。結局押し切られるようにその場に居残る事になった。
「第一師団はごく平和に過ごしています」
「第二師団も同じく。来週からランバートが復帰するの、楽しみに待ってるよ」
「有り難うございます、ウェイン様」
ウィンク一つのウェインに素直に頭を下げると、他の師団長も頷いた。
「第三師団、街警は滞りなく。東地区も穏やかさを取り戻したから、安心していいよ」
「はい、お心配り感謝します」
穏やかなウルバスの言葉に頭が上がらない。そしてとても、ほっとしていた。
「第四師団も変わりはありませんが、今回の事件を考えて毒薬の対処や応急処置を少し詳しく学ばせたいと思っています。あと、温かくなってきましたので二年目を対象に薬草学の実地訓練をしたいと」
「あぁ、それは報告を受けている。昇級試験の時に、訓練用の森にも思わぬ危険植物が入り込んでいたのもあって上で検討している。エリオットが同行して、実地訓練と同時に危険な植物の調査も行いたいそうだ」
「それは良い事ですね」
ニッコリとオリヴァーが返し、この案件は後日となった。
「第五師団は変わりなく。ってか、先日の訓練で火が付いたのか、やたらと鍛え始めてます」
「派手にやったそうですね、ファウスト様」
咎めるような声がアシュレーからして、ファウストは苦笑している。
「やっぱり疲れてるんだよファウスト様。のんびりしないと」
「こいつが雑用に入ってから、俺は随分楽をさせてもらったが」
不意に名を上げられて、ランバートは驚く。視線が集まるのに苦笑するが、なんと言えばいいことか。
「仕事は楽だったかもしれないけどさ。なんか、お疲れな感じがしてますよ」
「あぁ、それは俺も思うわなぁ。この間のファウスト様の訓練は、ストレス発散って感じが否めなかったからな」
グリフィスにまでそんな事を言われ、ファウストは困った顔をしている。そこに、ポンとウルバスが手を打った。
「お花見してはどうですか? ほら、今綺麗だし」
「お花見って」
「あぁ、良いですね。あっ、少し待って下さい」
「おい!」
何かを思いだしたようにオリヴァーが駆け出していく。そして数分して、何かを持って戻ってきた。
「王都近くの保養地も、今頃は桜が綺麗なんですって。これ、その保養地の温泉宿の招待券です。ペアでの招待なので、よければランバートも」
「俺ですか?」
思わぬ言葉に自身を指さして素っ頓狂な声を上げる。けれどオリヴァーはとても穏やかに「うんうん」と頷いていた。
「ほら、大変だったでしょ? ファウスト様も心配しすぎで疲れたんですよ。少し仕事を離れて、のんびり温泉にでも浸かって休んで来てくださいな。明日は安息日ですし」
「安息日だって言っても、宿だろ? 夕刻から馬で行っても、素泊まりで帰る事になるんだぞ」
渋面を作る人は、多分乗り気ではない。そんな様子が見て取れる。
少しだけ、残念な気がした。ランバートは花見なんて覚えがなかった。桜は好きだが歩きながらでも見られる。だから、これぞ花見という感じの事をしたことはなかった。
「今日これから、半日の有給を取ればのんびりとできますね」
「え?」
お茶を飲みつつ静かに言ったアシュレーは、だが大真面目な顔をしている。これにはランバートも、ファウストも目を丸くした。
「幸い急ぐような案件も書類もない。むしろとても整って、仕事らしい仕事も見受けられません。一週間でこれだけ仕事を行ったランバートにも、休息が必要です」
「アシュレー」
「シウス様から伺いましたが、有給をほとんど消化していないとか。この期を逃せばまた貯める一方ですから、使ってください。半日の業務ぐらいは私どもでも可能です」
「だが」
「ウェイン、シウス様に話し通してくれ」
「はーい!」
「こら、ウェイン!」
慌てて止めるのも聞かないふりで、ウェインが出ていってしまう。そしてものの数分でシウスが一緒に入ってきて、綺麗な執務室を見て目を丸くした。
「これは予想以上の事だなえ。お前、本当にランバートを下につけるべきぞ」
「シウス!」
「うむうむ、これなら文句なく有給の許可が出せよう。陛下からもお前の労働時間を軽減させてやれと言われておるしの。今から半日、存分に楽しむが良い」
満足そうに頷くシウスに、ファウストはもう何も言えない様子だった。
「じゃあ、宿の招待券ですね。店の名前と地図もどうぞ」
「あっ、えっと……。ファウスト様?」
招待券と地図を手渡されたが、これを受け取っていいものか。ランバートは戸惑いながらファウストを見た。落ちた黒髪を手でかきあげつつ、ファウストの黒い瞳がジッと見つめる。その後は、フッと溜息だ。
「着替えて出るぞ、ランバート」
「いいんですか?」
「お前、これだけの奴を無視できると思うか?」
言われてみれば、なんだか全員が悪い顔をして笑っている。どうにも逃がす気はない、そんな様子だ。
「まぁ、たまにはいいだろう。仕事以外での外泊なんていつぶりか知れないしな。そういうことなら、羽を伸ばすさ」
うんと伸びをしたファウストが笑う。だから安心して、ランバートも頷いた。心は子供のように浮かれている。初めての体験を楽しみにしていると自覚できた。
招待券を手に軽装に着替え、荷物には最低限の物だけを入れる。そうしていると不意に部屋の戸を叩く人がいて、出迎えるとオリヴァーが立っていた。
「どうされましたか、オリヴァー様」
「あぁ、うん。ほんの少し思い出した物があって、旅のお供にと思ってね」
そう言うと、オリヴァーは綺麗な包装のされた小さな箱を手渡してくれた。
「西地区のラセーニョ通りにある、『La lune』というショコラトリーの未発売ショコラなんです」
その店はランバートも知っている。とても美味しい高級チョコの店で、新作ともなれば男女問わず求める者が多いはずだ。
だがしかし、この人はなぜそんな高級有名店の、しかも未発売チョコなんて持っているんだ。
「実は私、とても甘党でして。パティシエやショコラティエに沢山の知り合いがいるんです。その人達からよく、発売前の商品の試食を兼ねてと物を貰うんですよ」
「ですが、こんなに色々と貰ってしまうのは心苦しいですし」
宿の招待券もそうだ。どうにも安い宿ではないように思う。そもそも招待券を出すような宿なのだから、それなりにいい場所だろう。
けれどオリヴァーは楽しげに笑って首を振る。少し悪戯っぽい光を宿す瞳で見つめ、手を取ってそれを握らせた。
「気にしないで下さい。それに、私としてはランバートに頑張ってもらいたいので」
「頑張る?」
「早くファウスト様を落としてくださいね」
まるで悪戯を囁く悪いお兄さんのような甘い声音で言われ、ランバートは困った顔をした。そんな日を想像してはいないのだから。
「あっ、チョコはウィスキーボンボンですよ。何でも少し意表を突きたかったと、ショコラティエは言っていました。チョコにスパイスの隠し味ですって。今度感想を聞かせて下さいね」
「はい」
「ちなみに、刺激的な夜の演出にってことで、名前は『Lovers』ですって」
やっぱり悪い事を吹き込むお兄さんのような声音で言って、オリヴァーは手をヒラヒラと立ち去ってしまう。呆気にとられていると、私服に着替えたファウストが近づいてくるところだった。
「どうした?」
「あぁ、いえ。オリヴァー様から、旅のお供にとチョコを頂きまして」
「あぁ、あいつはそういう知り合いが多いらしいからな。俺も何度か貰った」
「有名店の未発売物なんて、好きな人からしたらたまらないでしょうね」
「そういうものか? まぁ、確かに美味しい物だったが」
この人はランバート以上にそうした感覚がないのかもしれない。ランバートは笑って、もらったチョコを荷物の中に入れる。そして二人で宿舎を後にした。
最初は少し驚いてしまった。何せ未処理の書類が多すぎた。ファウストも仕事はできるはずなのに、それを上回る状態の物があったのだ。
どこまで踏み込んでいいかを考えるよりも前にこの惨状をどうにかしなければという思考が働き、報告書の整理をし、あんまりな物を清書してまわった。それらを日報としてファイリングし、タブをつける。会議の資料として過去のファイルなどが運び込まれていたものの手つかずな状態。過去ファイルを読み、必要そうな部分を抜粋し、添える作業をしたりもした。
一番酷いのは決算だろうか。領収書が揃っていない。そもそも貰ってあるか? と疑問なものまであった。それらをかき集めての作業を多忙なファウストに押しつけるのは、酷というものだろう。
まぁ、そんな事もありつつ日々黙々と作業をしたおかげで、最終日の今日はそれらしい紙束は皆無だった。
「安息日前日の午前中に書類が何もないなんて、始めてだな」
ファウストが呆気にとられたように言うのを聞いて、ランバートは笑った。
「少しゆっくりと、安息日が過ごせますよ」
「お前は俺には過分だ」
困ったように笑いながらも頭を撫でるその仕草に、ランバートはくすぐったい気持ちになって笑った。
「わぁ、安息日前日の執務室が綺麗ですね」
「ウルバス様」
お昼前に師団長が集まっての報告会をするのは知っていた。街警のウルバスがニコニコと入ってくるのに、ランバートは深く頭を下げた。
「先日は、本当にお世話になりました」
「あぁ、いいんだよ。トレヴァーもね、とっても元気にやってるから安心して」
あの事件以降、どうにもウルバスに頭が上がらない。勿論、気のいい上官はこの事を恩に着せようとはしないけれど、それでもランバート個人としては本当に感謝してもしきれない思いがあった。
「その後、変わりないか?」
「はい、平和ですよ。ほら、急に温かくなってきたでしょ? 桜がね、とても綺麗に咲いています」
「桜か」
ふわりとファウストが笑う。春の陽気を喜ぶように、穏やかで優しく。
「丁度七分咲きくらいで、綺麗ですよ」
「ここしばらく、花見なんてしていないな」
そんな事を話していると、ぞくぞくと師団長たちが執務室に集まってくる。ランバートはお茶を入れ、予め用意しておいたお茶菓子を真ん中にそれぞれの前にカップを置いた。
「うわぁ、完璧」
「ランバートの有能さは、この執務室を見ると直ぐに分かるな」
出てきたお茶を飲みながら歓声を上げるウェインに、満足そうに室内を見渡すアシュレー。それらの言葉にほんの少しこそばゆく感じながらも、ランバートは一礼して下がろうとした。
「あれ、行ってしまうのですか?」
「え? ですが、会議ですよね? 俺がいては不都合では」
「そんな堅苦しい物ではありませんよ」
オリヴァーがにこやかに言い、他の師団長も頷いている。ファウストは溜息をついたが、特に咎めるつもりもないらしい。結局押し切られるようにその場に居残る事になった。
「第一師団はごく平和に過ごしています」
「第二師団も同じく。来週からランバートが復帰するの、楽しみに待ってるよ」
「有り難うございます、ウェイン様」
ウィンク一つのウェインに素直に頭を下げると、他の師団長も頷いた。
「第三師団、街警は滞りなく。東地区も穏やかさを取り戻したから、安心していいよ」
「はい、お心配り感謝します」
穏やかなウルバスの言葉に頭が上がらない。そしてとても、ほっとしていた。
「第四師団も変わりはありませんが、今回の事件を考えて毒薬の対処や応急処置を少し詳しく学ばせたいと思っています。あと、温かくなってきましたので二年目を対象に薬草学の実地訓練をしたいと」
「あぁ、それは報告を受けている。昇級試験の時に、訓練用の森にも思わぬ危険植物が入り込んでいたのもあって上で検討している。エリオットが同行して、実地訓練と同時に危険な植物の調査も行いたいそうだ」
「それは良い事ですね」
ニッコリとオリヴァーが返し、この案件は後日となった。
「第五師団は変わりなく。ってか、先日の訓練で火が付いたのか、やたらと鍛え始めてます」
「派手にやったそうですね、ファウスト様」
咎めるような声がアシュレーからして、ファウストは苦笑している。
「やっぱり疲れてるんだよファウスト様。のんびりしないと」
「こいつが雑用に入ってから、俺は随分楽をさせてもらったが」
不意に名を上げられて、ランバートは驚く。視線が集まるのに苦笑するが、なんと言えばいいことか。
「仕事は楽だったかもしれないけどさ。なんか、お疲れな感じがしてますよ」
「あぁ、それは俺も思うわなぁ。この間のファウスト様の訓練は、ストレス発散って感じが否めなかったからな」
グリフィスにまでそんな事を言われ、ファウストは困った顔をしている。そこに、ポンとウルバスが手を打った。
「お花見してはどうですか? ほら、今綺麗だし」
「お花見って」
「あぁ、良いですね。あっ、少し待って下さい」
「おい!」
何かを思いだしたようにオリヴァーが駆け出していく。そして数分して、何かを持って戻ってきた。
「王都近くの保養地も、今頃は桜が綺麗なんですって。これ、その保養地の温泉宿の招待券です。ペアでの招待なので、よければランバートも」
「俺ですか?」
思わぬ言葉に自身を指さして素っ頓狂な声を上げる。けれどオリヴァーはとても穏やかに「うんうん」と頷いていた。
「ほら、大変だったでしょ? ファウスト様も心配しすぎで疲れたんですよ。少し仕事を離れて、のんびり温泉にでも浸かって休んで来てくださいな。明日は安息日ですし」
「安息日だって言っても、宿だろ? 夕刻から馬で行っても、素泊まりで帰る事になるんだぞ」
渋面を作る人は、多分乗り気ではない。そんな様子が見て取れる。
少しだけ、残念な気がした。ランバートは花見なんて覚えがなかった。桜は好きだが歩きながらでも見られる。だから、これぞ花見という感じの事をしたことはなかった。
「今日これから、半日の有給を取ればのんびりとできますね」
「え?」
お茶を飲みつつ静かに言ったアシュレーは、だが大真面目な顔をしている。これにはランバートも、ファウストも目を丸くした。
「幸い急ぐような案件も書類もない。むしろとても整って、仕事らしい仕事も見受けられません。一週間でこれだけ仕事を行ったランバートにも、休息が必要です」
「アシュレー」
「シウス様から伺いましたが、有給をほとんど消化していないとか。この期を逃せばまた貯める一方ですから、使ってください。半日の業務ぐらいは私どもでも可能です」
「だが」
「ウェイン、シウス様に話し通してくれ」
「はーい!」
「こら、ウェイン!」
慌てて止めるのも聞かないふりで、ウェインが出ていってしまう。そしてものの数分でシウスが一緒に入ってきて、綺麗な執務室を見て目を丸くした。
「これは予想以上の事だなえ。お前、本当にランバートを下につけるべきぞ」
「シウス!」
「うむうむ、これなら文句なく有給の許可が出せよう。陛下からもお前の労働時間を軽減させてやれと言われておるしの。今から半日、存分に楽しむが良い」
満足そうに頷くシウスに、ファウストはもう何も言えない様子だった。
「じゃあ、宿の招待券ですね。店の名前と地図もどうぞ」
「あっ、えっと……。ファウスト様?」
招待券と地図を手渡されたが、これを受け取っていいものか。ランバートは戸惑いながらファウストを見た。落ちた黒髪を手でかきあげつつ、ファウストの黒い瞳がジッと見つめる。その後は、フッと溜息だ。
「着替えて出るぞ、ランバート」
「いいんですか?」
「お前、これだけの奴を無視できると思うか?」
言われてみれば、なんだか全員が悪い顔をして笑っている。どうにも逃がす気はない、そんな様子だ。
「まぁ、たまにはいいだろう。仕事以外での外泊なんていつぶりか知れないしな。そういうことなら、羽を伸ばすさ」
うんと伸びをしたファウストが笑う。だから安心して、ランバートも頷いた。心は子供のように浮かれている。初めての体験を楽しみにしていると自覚できた。
招待券を手に軽装に着替え、荷物には最低限の物だけを入れる。そうしていると不意に部屋の戸を叩く人がいて、出迎えるとオリヴァーが立っていた。
「どうされましたか、オリヴァー様」
「あぁ、うん。ほんの少し思い出した物があって、旅のお供にと思ってね」
そう言うと、オリヴァーは綺麗な包装のされた小さな箱を手渡してくれた。
「西地区のラセーニョ通りにある、『La lune』というショコラトリーの未発売ショコラなんです」
その店はランバートも知っている。とても美味しい高級チョコの店で、新作ともなれば男女問わず求める者が多いはずだ。
だがしかし、この人はなぜそんな高級有名店の、しかも未発売チョコなんて持っているんだ。
「実は私、とても甘党でして。パティシエやショコラティエに沢山の知り合いがいるんです。その人達からよく、発売前の商品の試食を兼ねてと物を貰うんですよ」
「ですが、こんなに色々と貰ってしまうのは心苦しいですし」
宿の招待券もそうだ。どうにも安い宿ではないように思う。そもそも招待券を出すような宿なのだから、それなりにいい場所だろう。
けれどオリヴァーは楽しげに笑って首を振る。少し悪戯っぽい光を宿す瞳で見つめ、手を取ってそれを握らせた。
「気にしないで下さい。それに、私としてはランバートに頑張ってもらいたいので」
「頑張る?」
「早くファウスト様を落としてくださいね」
まるで悪戯を囁く悪いお兄さんのような甘い声音で言われ、ランバートは困った顔をした。そんな日を想像してはいないのだから。
「あっ、チョコはウィスキーボンボンですよ。何でも少し意表を突きたかったと、ショコラティエは言っていました。チョコにスパイスの隠し味ですって。今度感想を聞かせて下さいね」
「はい」
「ちなみに、刺激的な夜の演出にってことで、名前は『Lovers』ですって」
やっぱり悪い事を吹き込むお兄さんのような声音で言って、オリヴァーは手をヒラヒラと立ち去ってしまう。呆気にとられていると、私服に着替えたファウストが近づいてくるところだった。
「どうした?」
「あぁ、いえ。オリヴァー様から、旅のお供にとチョコを頂きまして」
「あぁ、あいつはそういう知り合いが多いらしいからな。俺も何度か貰った」
「有名店の未発売物なんて、好きな人からしたらたまらないでしょうね」
「そういうものか? まぁ、確かに美味しい物だったが」
この人はランバート以上にそうした感覚がないのかもしれない。ランバートは笑って、もらったチョコを荷物の中に入れる。そして二人で宿舎を後にした。
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