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9章:帰りたい場所
9話:帰りたい場所
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むせ返るような血の臭いは戦場のそれよりもずっと濃い。思わず口と鼻を押さえたファウストの目に映ったのは、地獄のような光景だった。
血の雨が降るその只中に、ぽつんと糸が切れたようなランバートが立っている。離れた所に、ルカが涙を流して動けないでいる。
「ランバート……」
声をかけると、ふらりと頭がこちらに向いた。冷たく暗い瞳が意志を持たずに見つめる。張り付いたような三日月の笑み。心はそこにないのだと容易に分かる表情だった。
「あ……」
小さなそれは、呻きのようだった。瞳にいつもの光が僅かに戻る。表情は変わらないのに泣きそうなのが伝わってきた。
おかしいだろうか。この地獄のような世界にあり、これを作り上げた者を前に、そいつの心まで死んでいなかったと知って安堵するなんて。
剣が滑り落ちて音を立てる。表情がふにゃりと歪むのに、口元の笑みだけが消せていない。青い瞳から涙が一つ落ちていった。
「……すみません」
そう言って脇をすり抜けたランバートを、ファウストは追えなかった。
「兄さん何してるの! 追って!!」
腹を押さえながらも叫んだルカの声に我に返り、ファウストは追おうとした。だがその前に、スキンヘッドの巨漢が立ち塞がった。
「どいてくれ」
「それは出来ない」
ここにファウストを案内してきたジン達が、怖い顔でファウストを見ている。一瞬、こいつらはここでファウストやルカも殺すのかと思って身構えた。だがそれにしては殺気がない。
「……久々に、やらかしたな」
その言葉だけで、ファウストは自分の推測が正しかったと確信した。
「リフを追わせる訳にはいかない。あいつが自分の身をどうするかは分からんが、今行かせる訳にはいかない」
「どけ!」
「リフを捕らえて罪に問わないと言うなら、どける」
ジンとその背後の傭兵達の覚悟は本物だ。殺気こそないが、全員が落ち着いた強い目をしている。嘘ではないと語るに十分な目だった。
「リフはあんたを好いている。そのあんたに捕らわれ、裁かれるなんて望まん。俺達は全力であいつを庇うし、逃がす。それが、俺達なりの恩返しだ」
「そんな事をあいつが望むのか」
「望む望まないの問題じゃない。あいつの今を守ってやる。俺達は過去、あいつにそうやって守って貰った。返せるものを返しているだけだ」
やはり思いは正しい。傭兵達はランバートの罪を被るくらいわけない。喜んで全てを背負ってしまうだろう。背負えるほどに事情を知っている。
だが、そうじゃない。それではランバートが傷つく。親しい者を犠牲にする事をランバートは喜ばない。
「どうして分からない! お前達は俺よりもあいつとの付き合いが長いだろ! あいつが親しいお前達を身代わりにしてまで逃げたいと望むのか。あいつが、それに耐えられるほど強い奴だと思うのか!」
そうだ、耐えられないかもしれない。罪を暴かれた今、あいつは追い詰められているかもしれない。案外脆い部分のある奴だ。あいつは言っていたじゃないか、騎士団に入ったのは命の価値を知りたいからだと。自らの命を軽視する傾向にある奴が、今を耐えて逃げ延びようなんて考えるのか。
そんな力は、ないんじゃないのか?
「ジン、そこをどけ! ランバートは自分を終わらせようと考えているかもしれない! あいつは脆いんだ、躊躇いもせずに死ねる奴かもしれないんだぞ! 時間が過ぎればそれだけ」
「それがあいつの選択なら……」
「どこまでバカなんだお前は!」
イライラする。どう言えばこいつはここをどける。殴り倒すにもこの人数は時間がかかる。私服に着替えて剣も持っていない今は拳だけが武器だ。
いや、たとえ剣を持っていてもこいつらに向けられるか。結局はダメだろう。
「……俺が、あいつを見逃すと言えばそこをどけるか」
絞り出すように、ファウストは睨み付ける。それに、ジンだけではなく後ろの奴も驚いたようだった。
「俺は今、腕章も剣も持っていない。俺が全てを見なかった事にすると言えば、お前はそこをどけてランバートを追わせてくれるのか」
「本気で」
「そのかわり、ここを綺麗にしておけ。天井も、床も、そこに転がってる奴も含めてだ。全て無かったことにできるなら、俺は目をつむる。誰にも見られるな」
低く唸るような声に、ジンは僅かに肩を引いた。その隙をファウストは走り抜けた。外は夕刻を過ぎて降り出した雨の名残がある。既に小雨で空は雲が切れかけている。
「ファウスト様!」
ルカを心配して傭兵の一人に担がれていたレオが側にくる。焦るファウストの袖を引いて走りだした。
「リフはルノン川の端、シャンデール橋の下にいる」
「シャンデール橋?」
この場所からそう離れていない場所だが、さっきまでの雨で川の水量は増しているだろう。そんな状況なのに、橋の下になんているのか。
「確かなのか」
「間違いない。リフは辛い事や苦しい事があると必ずそこに行く。だから絶対だよ」
どこに行けばいいかも分からない。悩んでいる時間も惜しい。ファウストはひたすらにシャンデール橋の土手を目指して走っていった。
◆◇◆
橋の下に僅かにある土手。そこに、ランバートは蹲っていた。足の先を、雨で増水した川が過ぎていく。
「俺、バカだな……」
呟くような言葉に誰が返すわけでもない。否、ランバートはここにいる人に話しかけている。ここにいると信じている人に。
「よりにもよって、どうしてファウスト様に」
あの人にだけは見られちゃいけなかったはずだ。優しい人は同時に、裁かねばならない人なのに。
『だからお前はバカなんだよ、リフ』
「分かってるよ」
『分かってないから繰り返すんだろ? こんな場所で。これで何回目だ?』
「分かってるよ!」
聞こえるような声に反論する。姿などない。分かっている、ここに彼はいない。この声は、自分にしか聞こえない自分だけの幻聴だと。
「デュオ、どうしていないんだよ……」
今は亡い友が、溜息をついたような気がした。
「騎士団には、もう戻れない」
知られちゃいけない相手に知られた。過去の罪を、あの人は知っただろう。五年前、血の雨が降った時にあの人は騎士だったはずだ。関わっている。ならば、あの光景を見て過去の罪も知った。
何より、ファウストはジン達とも少し近くなった。ランバートが深く下町に関わっていたのを知っている。殺人鬼が何に怒りを感じていたのかも、直ぐに思い当たる。
「ジンの所もダメだ」
迷惑かけられない。追っ手をかけられたら完全に巻き込む。あいつらは過去の事件でも手を貸してくれた。証拠の隠滅と死体の処分。これでランバートを匿えば、どうなるか分からない。
「家……」
呟いて、凍り付く。『家』という言葉を呟いた瞬間に浮かんだものは、既に実家ではない。
気のいい友人が笑いながら他愛ない話をする。腕を組んで、肩を組んで、笑っている。明るく可愛い同室者が、人懐っこい笑みを浮かべて名を呼んでいる。優しくも厳しい上官が、ひまわりみたいな笑みを浮かべる。個性的な人々が、手を差し伸べて受け入れてくれる。
夜のように静かに穏やかに、時に鋭い表情を見せる優しい人が困ったように笑いかけ、柔らかく頭を撫でている。その人の隣に並び、気兼ねない言葉を述べ、冗談をまじえ笑っている。
「はっ……はははっ」
あそこが、『家』になっていたんだ。
俺は帰りたい場所を失ったんだ。
そうしたのは、自分自身だ。
「ほんと、救いようがない」
今更気づいたのかよ。遅すぎる。分かっていたはずなのに、どうして大事なものを掴んでいなかったんだ。
そう、知っていただろ。イーノックに攫われ、死にかけた時にも帰りたいと思った場所はファウストの側だった。騎士団の中だった。これは大事な事だったはずだ。なのに、手放したのだ。
「もう、いいかな」
帰る場所はない。それなら、もういいだろ?
ファウストに罪が知れてしまったのなら、騎士団に戻る事はできない。あの人の手で裁かれる事だけはさせられない。優しい人で、情があって、弱い部分もある人だ。きっととても悲しむ、苦しむ。そんな事をさせたくない。死刑でも何でもいいけれど、それをあの人に見せる事はできない。
ジンの所にもいけない。あいつは罪を被ると言うかもしれない。恩があると言って。あいつらの言う恩なんて、もうとっくの昔に返して貰っている。町が復興して、沢山の人が笑っていて、活気があって、慎ましくても幸せそうに暮らしている。それを見る事ができただけで十分だ。
実家にも戻らない。戻れば匿ってくれるかもしれない。けれど、二度と外には出られないだろう。捕らわれて息をしているだけの生活なら死と何が違う。
ランバートは立ち上がって、増水した川の側へと進む。濁った水は流れが速い。
「剣、持ってきたら良かった」
そうしたら楽だった。
「体、浮いてこないかな?」
後で死体が浮いてきたら、結局あの人に手間をかけてしまう。経歴に傷もつくだろうし、辛そうな顔もしてもらいたくない。
「石……ないか」
町を出れば気づかれてしまうから、遠くでなんて無理だ。探されたら見つからずになんていられない。結局川に沈んで浮いてこないのが理想だ。ずっと行方不明でいられる。
足が前に出る。もうすぐそこに暗い世界がある。目を閉じて、息を一つ吸って、吐いた。後は簡単だ。体を前に倒せばいい。
前に倒れるように体が傾くのが分かる。あまり躊躇いもない。心残りは色々あるけれど、化けて出るほどじゃないだろう。そう、思っていた。
「!」
強い腕が腰を引き寄せ、抱き留められる。倒れていた体は容易に引き留められた。息を切らす音、触れた髪から香る匂い。その全てを、体が覚えている。
「お前はバカか! 本当に、何を考えているんだ」
低く耳元でする怒声はそのくせ優しい。涙がこみ上げた。色のある世界は、肩に触れる温かさを知っている。
「だって……」
だって、困るでしょ。人を守る騎士団に、殺人鬼なんて。
困るでしょ、それを貴方が裁くなんて。
「だっても何もあるか」
「だって、気づいてるでしょ? 見たでしょ? 俺が何をしてきたか、知ってるんじゃないですか?」
ブラッドレイン。血の雨を降らせる者。あの光景が何より全てじゃないのか。
「見なかった事にする」
「!」
低く耳元だけで囁かれる言葉に息が詰まる。ランバートは緩く首を横に振った。そんな事をこの人にさせられない。この人は正義の人のはずだ。曲がったことを嫌う人だ。そんな人に、全ての罪を黙認させるのか。
「そんな……だって!」
「俺は今、剣も腕章も持たない。騎兵府の軍神ではない。何も見なかった」
押し殺すような声に、緩くランバートは首を振る。そんな事、させていいはずがない。巻き込んじゃいけない、この人を。
「俺の事に貴方を巻き込むわけにはいきません!」
「俺がお前を巻き込んだんだ。俺がお前に話をしなければ、お前は関わらずに済んだ。俺に責任がないわけがないだろ」
「そんな事! あれをやったのは俺です。過去の事も俺です! 貴方の責任なんて」
抱き留める手に手を重ねた。温かな腕を離せない自分がいる。面倒を掛けたくないと思う理性と裏腹に、心はここにいたいと思ってしまう。
「これっきりだ」
「え?」
「これ一度だけ、目を瞑る。過去の事はお前が何かを言ったからといって、それを証明できる証拠は何も残っていない。この事件は、起こった事すら誰も知らないまま終わる」
「それ、どういう意味です」
「ジン達が今、全てを消している。天井まで綺麗に水浸しだ。お前がやった証拠は残らない。これは、内務と騎士団に捕まるのを恐れた奴の失踪事件だ」
そんな強引な。だって、探すでしょ。犯罪者が失踪すればそれを探すのは騎士団の役目で、逃がしたとなれば信用がなくなるでしょ。
「ランバート、お前のいる場所は騎士団だ。お前が何を言ってもお前は俺の部下で、仲間だ。過去はもう問わない。だから、帰ってこい。自殺なんて許さない」
一際強く腕が締め付けるように抱き留める。その腕は震えていた。
「貴方にも、罪の片棒を担がせる事になります」
「構わない」
「俺は、貴方に背負わせたくない」
「だから死のうと言うのか。全部一人で抱えて消えて、それでいいと思っているのか」
「俺は……」
「あんな奴らの為にお前が死ぬ事はない。ルカを苦しめ、傷つけただけで俺の中では万死に値する。公人だという理性がなければ、お前と同じ事をした。俺はお前を責められない」
残りたい。死にたくない。今はもうその思いが強い。迷惑をかけてしまうと思う反面、死のうという気持ちは薄れる。この腕の中はあまりに温かくて優しくて心地いい。ダメだと思いながら、彼の気持ちに甘えてしまう。
「帰ろう、ランバート」
腕を引かれ、土手を上る。雨は止んで星の見える空に、この日月は見えなかった。
血の雨が降るその只中に、ぽつんと糸が切れたようなランバートが立っている。離れた所に、ルカが涙を流して動けないでいる。
「ランバート……」
声をかけると、ふらりと頭がこちらに向いた。冷たく暗い瞳が意志を持たずに見つめる。張り付いたような三日月の笑み。心はそこにないのだと容易に分かる表情だった。
「あ……」
小さなそれは、呻きのようだった。瞳にいつもの光が僅かに戻る。表情は変わらないのに泣きそうなのが伝わってきた。
おかしいだろうか。この地獄のような世界にあり、これを作り上げた者を前に、そいつの心まで死んでいなかったと知って安堵するなんて。
剣が滑り落ちて音を立てる。表情がふにゃりと歪むのに、口元の笑みだけが消せていない。青い瞳から涙が一つ落ちていった。
「……すみません」
そう言って脇をすり抜けたランバートを、ファウストは追えなかった。
「兄さん何してるの! 追って!!」
腹を押さえながらも叫んだルカの声に我に返り、ファウストは追おうとした。だがその前に、スキンヘッドの巨漢が立ち塞がった。
「どいてくれ」
「それは出来ない」
ここにファウストを案内してきたジン達が、怖い顔でファウストを見ている。一瞬、こいつらはここでファウストやルカも殺すのかと思って身構えた。だがそれにしては殺気がない。
「……久々に、やらかしたな」
その言葉だけで、ファウストは自分の推測が正しかったと確信した。
「リフを追わせる訳にはいかない。あいつが自分の身をどうするかは分からんが、今行かせる訳にはいかない」
「どけ!」
「リフを捕らえて罪に問わないと言うなら、どける」
ジンとその背後の傭兵達の覚悟は本物だ。殺気こそないが、全員が落ち着いた強い目をしている。嘘ではないと語るに十分な目だった。
「リフはあんたを好いている。そのあんたに捕らわれ、裁かれるなんて望まん。俺達は全力であいつを庇うし、逃がす。それが、俺達なりの恩返しだ」
「そんな事をあいつが望むのか」
「望む望まないの問題じゃない。あいつの今を守ってやる。俺達は過去、あいつにそうやって守って貰った。返せるものを返しているだけだ」
やはり思いは正しい。傭兵達はランバートの罪を被るくらいわけない。喜んで全てを背負ってしまうだろう。背負えるほどに事情を知っている。
だが、そうじゃない。それではランバートが傷つく。親しい者を犠牲にする事をランバートは喜ばない。
「どうして分からない! お前達は俺よりもあいつとの付き合いが長いだろ! あいつが親しいお前達を身代わりにしてまで逃げたいと望むのか。あいつが、それに耐えられるほど強い奴だと思うのか!」
そうだ、耐えられないかもしれない。罪を暴かれた今、あいつは追い詰められているかもしれない。案外脆い部分のある奴だ。あいつは言っていたじゃないか、騎士団に入ったのは命の価値を知りたいからだと。自らの命を軽視する傾向にある奴が、今を耐えて逃げ延びようなんて考えるのか。
そんな力は、ないんじゃないのか?
「ジン、そこをどけ! ランバートは自分を終わらせようと考えているかもしれない! あいつは脆いんだ、躊躇いもせずに死ねる奴かもしれないんだぞ! 時間が過ぎればそれだけ」
「それがあいつの選択なら……」
「どこまでバカなんだお前は!」
イライラする。どう言えばこいつはここをどける。殴り倒すにもこの人数は時間がかかる。私服に着替えて剣も持っていない今は拳だけが武器だ。
いや、たとえ剣を持っていてもこいつらに向けられるか。結局はダメだろう。
「……俺が、あいつを見逃すと言えばそこをどけるか」
絞り出すように、ファウストは睨み付ける。それに、ジンだけではなく後ろの奴も驚いたようだった。
「俺は今、腕章も剣も持っていない。俺が全てを見なかった事にすると言えば、お前はそこをどけてランバートを追わせてくれるのか」
「本気で」
「そのかわり、ここを綺麗にしておけ。天井も、床も、そこに転がってる奴も含めてだ。全て無かったことにできるなら、俺は目をつむる。誰にも見られるな」
低く唸るような声に、ジンは僅かに肩を引いた。その隙をファウストは走り抜けた。外は夕刻を過ぎて降り出した雨の名残がある。既に小雨で空は雲が切れかけている。
「ファウスト様!」
ルカを心配して傭兵の一人に担がれていたレオが側にくる。焦るファウストの袖を引いて走りだした。
「リフはルノン川の端、シャンデール橋の下にいる」
「シャンデール橋?」
この場所からそう離れていない場所だが、さっきまでの雨で川の水量は増しているだろう。そんな状況なのに、橋の下になんているのか。
「確かなのか」
「間違いない。リフは辛い事や苦しい事があると必ずそこに行く。だから絶対だよ」
どこに行けばいいかも分からない。悩んでいる時間も惜しい。ファウストはひたすらにシャンデール橋の土手を目指して走っていった。
◆◇◆
橋の下に僅かにある土手。そこに、ランバートは蹲っていた。足の先を、雨で増水した川が過ぎていく。
「俺、バカだな……」
呟くような言葉に誰が返すわけでもない。否、ランバートはここにいる人に話しかけている。ここにいると信じている人に。
「よりにもよって、どうしてファウスト様に」
あの人にだけは見られちゃいけなかったはずだ。優しい人は同時に、裁かねばならない人なのに。
『だからお前はバカなんだよ、リフ』
「分かってるよ」
『分かってないから繰り返すんだろ? こんな場所で。これで何回目だ?』
「分かってるよ!」
聞こえるような声に反論する。姿などない。分かっている、ここに彼はいない。この声は、自分にしか聞こえない自分だけの幻聴だと。
「デュオ、どうしていないんだよ……」
今は亡い友が、溜息をついたような気がした。
「騎士団には、もう戻れない」
知られちゃいけない相手に知られた。過去の罪を、あの人は知っただろう。五年前、血の雨が降った時にあの人は騎士だったはずだ。関わっている。ならば、あの光景を見て過去の罪も知った。
何より、ファウストはジン達とも少し近くなった。ランバートが深く下町に関わっていたのを知っている。殺人鬼が何に怒りを感じていたのかも、直ぐに思い当たる。
「ジンの所もダメだ」
迷惑かけられない。追っ手をかけられたら完全に巻き込む。あいつらは過去の事件でも手を貸してくれた。証拠の隠滅と死体の処分。これでランバートを匿えば、どうなるか分からない。
「家……」
呟いて、凍り付く。『家』という言葉を呟いた瞬間に浮かんだものは、既に実家ではない。
気のいい友人が笑いながら他愛ない話をする。腕を組んで、肩を組んで、笑っている。明るく可愛い同室者が、人懐っこい笑みを浮かべて名を呼んでいる。優しくも厳しい上官が、ひまわりみたいな笑みを浮かべる。個性的な人々が、手を差し伸べて受け入れてくれる。
夜のように静かに穏やかに、時に鋭い表情を見せる優しい人が困ったように笑いかけ、柔らかく頭を撫でている。その人の隣に並び、気兼ねない言葉を述べ、冗談をまじえ笑っている。
「はっ……はははっ」
あそこが、『家』になっていたんだ。
俺は帰りたい場所を失ったんだ。
そうしたのは、自分自身だ。
「ほんと、救いようがない」
今更気づいたのかよ。遅すぎる。分かっていたはずなのに、どうして大事なものを掴んでいなかったんだ。
そう、知っていただろ。イーノックに攫われ、死にかけた時にも帰りたいと思った場所はファウストの側だった。騎士団の中だった。これは大事な事だったはずだ。なのに、手放したのだ。
「もう、いいかな」
帰る場所はない。それなら、もういいだろ?
ファウストに罪が知れてしまったのなら、騎士団に戻る事はできない。あの人の手で裁かれる事だけはさせられない。優しい人で、情があって、弱い部分もある人だ。きっととても悲しむ、苦しむ。そんな事をさせたくない。死刑でも何でもいいけれど、それをあの人に見せる事はできない。
ジンの所にもいけない。あいつは罪を被ると言うかもしれない。恩があると言って。あいつらの言う恩なんて、もうとっくの昔に返して貰っている。町が復興して、沢山の人が笑っていて、活気があって、慎ましくても幸せそうに暮らしている。それを見る事ができただけで十分だ。
実家にも戻らない。戻れば匿ってくれるかもしれない。けれど、二度と外には出られないだろう。捕らわれて息をしているだけの生活なら死と何が違う。
ランバートは立ち上がって、増水した川の側へと進む。濁った水は流れが速い。
「剣、持ってきたら良かった」
そうしたら楽だった。
「体、浮いてこないかな?」
後で死体が浮いてきたら、結局あの人に手間をかけてしまう。経歴に傷もつくだろうし、辛そうな顔もしてもらいたくない。
「石……ないか」
町を出れば気づかれてしまうから、遠くでなんて無理だ。探されたら見つからずになんていられない。結局川に沈んで浮いてこないのが理想だ。ずっと行方不明でいられる。
足が前に出る。もうすぐそこに暗い世界がある。目を閉じて、息を一つ吸って、吐いた。後は簡単だ。体を前に倒せばいい。
前に倒れるように体が傾くのが分かる。あまり躊躇いもない。心残りは色々あるけれど、化けて出るほどじゃないだろう。そう、思っていた。
「!」
強い腕が腰を引き寄せ、抱き留められる。倒れていた体は容易に引き留められた。息を切らす音、触れた髪から香る匂い。その全てを、体が覚えている。
「お前はバカか! 本当に、何を考えているんだ」
低く耳元でする怒声はそのくせ優しい。涙がこみ上げた。色のある世界は、肩に触れる温かさを知っている。
「だって……」
だって、困るでしょ。人を守る騎士団に、殺人鬼なんて。
困るでしょ、それを貴方が裁くなんて。
「だっても何もあるか」
「だって、気づいてるでしょ? 見たでしょ? 俺が何をしてきたか、知ってるんじゃないですか?」
ブラッドレイン。血の雨を降らせる者。あの光景が何より全てじゃないのか。
「見なかった事にする」
「!」
低く耳元だけで囁かれる言葉に息が詰まる。ランバートは緩く首を横に振った。そんな事をこの人にさせられない。この人は正義の人のはずだ。曲がったことを嫌う人だ。そんな人に、全ての罪を黙認させるのか。
「そんな……だって!」
「俺は今、剣も腕章も持たない。騎兵府の軍神ではない。何も見なかった」
押し殺すような声に、緩くランバートは首を振る。そんな事、させていいはずがない。巻き込んじゃいけない、この人を。
「俺の事に貴方を巻き込むわけにはいきません!」
「俺がお前を巻き込んだんだ。俺がお前に話をしなければ、お前は関わらずに済んだ。俺に責任がないわけがないだろ」
「そんな事! あれをやったのは俺です。過去の事も俺です! 貴方の責任なんて」
抱き留める手に手を重ねた。温かな腕を離せない自分がいる。面倒を掛けたくないと思う理性と裏腹に、心はここにいたいと思ってしまう。
「これっきりだ」
「え?」
「これ一度だけ、目を瞑る。過去の事はお前が何かを言ったからといって、それを証明できる証拠は何も残っていない。この事件は、起こった事すら誰も知らないまま終わる」
「それ、どういう意味です」
「ジン達が今、全てを消している。天井まで綺麗に水浸しだ。お前がやった証拠は残らない。これは、内務と騎士団に捕まるのを恐れた奴の失踪事件だ」
そんな強引な。だって、探すでしょ。犯罪者が失踪すればそれを探すのは騎士団の役目で、逃がしたとなれば信用がなくなるでしょ。
「ランバート、お前のいる場所は騎士団だ。お前が何を言ってもお前は俺の部下で、仲間だ。過去はもう問わない。だから、帰ってこい。自殺なんて許さない」
一際強く腕が締め付けるように抱き留める。その腕は震えていた。
「貴方にも、罪の片棒を担がせる事になります」
「構わない」
「俺は、貴方に背負わせたくない」
「だから死のうと言うのか。全部一人で抱えて消えて、それでいいと思っているのか」
「俺は……」
「あんな奴らの為にお前が死ぬ事はない。ルカを苦しめ、傷つけただけで俺の中では万死に値する。公人だという理性がなければ、お前と同じ事をした。俺はお前を責められない」
残りたい。死にたくない。今はもうその思いが強い。迷惑をかけてしまうと思う反面、死のうという気持ちは薄れる。この腕の中はあまりに温かくて優しくて心地いい。ダメだと思いながら、彼の気持ちに甘えてしまう。
「帰ろう、ランバート」
腕を引かれ、土手を上る。雨は止んで星の見える空に、この日月は見えなかった。
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結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!
めがねあざらし
BL
婚約者に見向きもされないまま誘拐され、殺されたΩ・イライアス。
目覚めた彼は、侯爵家と婚約する“あの”直前に戻っていた。
二度と同じ運命はたどりたくない。
家族のために婚約は受け入れるが、なんとか相手に嫌われて破談を狙うことに決める。
だが目の前に現れた侯爵・アルバートは、前世とはまるで別人のように優しく、異様に距離が近くて――。
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