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政略結婚制度に怒っています
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(1)清継①
三十歳になった。
なってしまったというのが感覚としては正しい。
久堂清継(くどうきよつぐ)はとある書類を手に、高層ビルの社屋から下界を眺めていた。
短く整えた黒髪に、気の強そうな鳶色の瞳。整った鼻筋に肉感のある大きめの唇は女性からセクシーだとよく褒められた。
莫大な親の金、受け継いだ大会社、抱えた大勢の従業員。それらを元に仕事して仕事して、遊び倒して、また仕事をしてきた。自由気ままに過ごした日々もこれで終わりだ。
鋭い眼光に鍛えられた体躯をスーツの下に隠し、商談相手には微笑みを絶やさない。しかし、一旦笑みを収めればその男らしい精悍なルックスと他を圧する存在感で、人々の中から抜きん出てる。自他共に認める自信家で野心家の男であり、そのための努力も惜しまない。
その制度は知っていた。だから通知には驚かなかった。正直この日を待ち望んでいたかもしれない。
『政略結婚通知』
その書類の一枚目にはそう書かれていた。薄い紙切れが二枚。その二枚めには自身の結婚相手の写真が貼られ、氏素性が書かれていた。
「へぇ……面白いじゃんか」
一読して唇の端を引き上げる。相手の写真の目元、泣きぼくろに指を這わせる。
こうなるなんて予想もしていなかった。だから人生は面白い。そう思わせてくれるには十分だった。
「政略結婚法」が施行されて二十余年。
それは、政治家や俳優、高額納税者などの著名人は三十歳までに結婚をしなければならないという法律だ。そういった人々が三十歳になる前日までに婚姻が認められない場合、国から政略結婚の斡旋が行われる。家族構成や性格、DNAの相性まで調べられて、国中からたった一人が選ばれる強制結婚だ。
本人の意思や思いは関係ない。即日結婚となるため、反対する人間もいなくはないが、所詮は著名人や超有名人に限った雲の上の話。国民全体の関心は薄かった。
そして清継はそのたった一握りの人間のうちの一人だ。
「今日の午後の予定は?」
「会議が二件と、夜は会食が入っておりますが」
「全てキャンセルだ」
「はい。──はい?」
「めでたくも俺の結婚の日だぞ。そんな些細な用事に構っていられるか。花嫁を迎えに行く」
「そ、そうは申されましてもっ……!」
長く務めてくれている秘書の諸岡は細かく融通が利かない。少し大雑把で派手な清継には多分合っているのだろうが、こういう時は反対ばかりで面白みがない。細身のスーツにメガネ姿の諸岡が困った顔でついて来る。
「どれも社長がおられませんと話が進みません!」
「そんな会社にした覚えはないぞ。社長がいなくても会社は動く。……俺は花嫁にとってはたった一人の代えがきかない花婿だ」
「またそんな屁理屈を!おめでたい日だとは思います。思いますが、後日、日を改めての方が……先方も準備やお気持ちの問題もあるでしょうから」
「そんなこと知ったものか。相手はこの俺だぞ。相手方に何の不満があるっていうんだ。それと、仕事に関してはそこをどうにかするのがお前の仕事だ」
そんなやり取りをしつつ大股で社内を横断すると、ロビーで反社長派の、清継には叔父にあたる副社長久堂清澄に清継らは出会った。清澄は取り巻きを引き連れて、ランチからでも戻ってきたのだろう。清継はスマートに見える体型だが、二十ほど年長の清澄は年齢よりは若く見え、男ぶりも良いものの年齢相応に腹回りには贅肉がついていた。
(面倒ごとはできるだけ避けたいが、どうかな……)
しかし、彼らへ気づかないふりをして通り過ぎようとした清継に目を留めて、清澄は声をかけてきた。
「ああ、清継君。そんなに急いでどこへ?」
社長である清継に礼もなく、ごく親しげに清澄は声をかけてきた。清継は君呼びにわずかに眉をしかめたものの、逆に丁寧に答える。
「副社長。社内では社長と呼んで下さいと何度も申し上げておりますが。いえ、ちょっとした私用ですよ」
「おやまあ。今から出かけると? この大切な時期に? 一体どんな御用です、清継君」
清澄は大げさな身振りで周囲へ同意を促す。それに清澄の取り巻き連中も隠しもしない嘲笑で返す。
(クソ面倒な。……いっそ全部晒しちまうか。そのほうが後腐れもないだろう)
心のなかで悪態は吐きつつ、清継は一歩前に出て、例の書類を清澄に向けて差し出した。
「そうですね。私の秘書にも叱られてしまいましたが……花嫁が決まったものでつい。衝動が抑えられないんですよ。奥様を同じく政略結婚法で迎えられた副社長、叔父さんにならこの気持ちの高揚が分かるでしょう? ──こちらの方です」
「ほう。そういえば君は今日で三十歳だったか。いや、それはおめでとう。して、花嫁と言うのは……──っ! 清継君、君、これは正気かね!?」
(驚いたろ。ざまぁ見やがれ)
書類を奪い返し、今までに見たことのないくらいに目を見開いて取り乱す様子の清澄に、清継はこれ以上無い笑顔で返す。痛快な気分だった。
書類を受け取り、側でハラハラとこちらを伺い見る諸岡に書類を手渡す。
「ええ、正気ですよ」
「しかし君は、これ」
「何でしょうか?」
「ん、ごほん……──ことによっては役員会で問題になると思うがね。ん?」
「いえ、会社に迷惑になるようなことでは……あくまで私個人のことですからね。ご覧の通り、お相手は派手ではないが可愛らしい……見た目も私好みで私は嬉しい限りなんですが」
「君はもはや個人では無いぞ、清継くん。会社の跡継ぎのこともある!」
「けれど、法律で定められたことですから」
両者一歩も引かずと言いたい言い合いだったが、清継がさらりと放った「法律」の言葉に清澄のほうがぐうっと押し黙った。
「……私は忠告したからな。覚えておくんだな、清継」
「ですから、社内では社長と呼んでいただきたい。副社長」
捨て台詞を放ち足音も荒く去っていく清澄に、取り巻き連中も慌てて追っていく。へっと軽く舌を見せてその後姿を見送る清継に、諸岡が慌ててその背を押した。
「やめて下さい、社長。見られでもしたらどうするんです」
「表情筋の病気だとでも言うさ」
「……その時は流石に辞めさせていただきますからね」
「お前に、ここ以上の高待遇の転職ができるものならな。さて邪魔が入ってしまったが……花嫁を迎えに行ってくる。お前は残ってさっきの件……会議に会食だっけか、を片付けてくれるか」
「分かりました。……先方に失礼の無いように、それだけは本当にお願いしますよ?」
「分かった分かった」
『本当に分かってるんだか』と顔に書いてある諸岡をエントランスに残し、社屋の外に一歩出れば、私用の車が運転手付きで待っている。ああ言いながらも諸岡が手配してくれたのだろう。仕事はできる男だ。
行き先を伝える必要もなく、車は静かに滑り出す。清継は人生で生きてきてこれ以上無いほどに心躍っていた。
車は高速を使い、都心のベッドタウンであるS県へと入った。郊外の住宅街にその家はあった。
総二階のごく普通の一軒家。大きくもなく小さくもなく、ただ経年劣化はしているようで、よく見れば雨樋にはサビが浮いている。玄関脇に前庭があり、洗濯物が干してある。門扉から見る限り庭や家の周りはこざっぱりと整えられており、一家が落ち着いた暮らしをしていることが見て取れた。
「小さい家だな……新居はデカくするべきか。少し待とう。この時間だと本人はまだ仕事だろう。会社に事務で勤めに出ているようだから」
車を路肩へと停めさせて、ひとりごちているその時だった。前方から肩を落として歩く影が見えた。ヨロヨロと歩く姿は悲惨なものだった。相当ダメージを受けているようだ。精神か肉体かに。
それを見て清継は車から飛び降りた。『彼』こそが自身の花嫁だとひと目で分かったからだ。細胞が喜んでいる。指先も幸福感で奮えていた。国が総力をかけて国中から一人を選び出す。それは伊達でなかったのかもしれない。
白い肌に小作りだが端正な顔立ち、柔らかそうな栗色の髪に反して目にはまだ力が残っていた。そしてその左目尻のホクロ。俊敏そうな体つきに、自分よりは一回り小さな背丈。目が離せない。完全に一目惚れだった。
「──迎えに来たぜ、俺の花嫁」
「……え……?」
つぶやきは相手へ届いたようだった。そして、のろりと顔を上げると目の前へ立ちはだかった清継を見て、『ひっ』と相手は悲鳴に近い声を上げた。すぐさま逃げ出そうとする。
そのスーツの襟首をひっつかむと、清継は自身の腕の中に完全に相手の男を閉じ込めてしまった。
(ああ、抱き心地も悪くない)
「『政略結婚通知』でこの顔は見ただろ? 花嫁を、お前を迎えに来たぜ?」
腕の中で小さな体がびくんと跳ねた。その様子では何もかも分かっているようだった。しかし抵抗だけはと腕を突っぱねてくる。その様も清継には可愛らしく写った。
「俺は、男で……っ! 花嫁なんかじゃ」
「じゃあ、お前が旦那で俺が嫁だ。どっちだって良い。すぐに結婚式だな。和式が良いか? 洋式が良いか?」
「一体何の話をして……!?」
「だから、式の話だろう? 遥」
混乱する男、末永遥(すえながはるか)を腕の中に捕まえたまま、首を傾げて極上の笑みで清継は答えた。遥の顎先に手をかけて上向かせ、ちょっと迷ってから目を閉じる。
「な、何!?」
「式まではこれで我慢してやるよ」
目尻のほくろを狙って、軽く触れるだけのキスをする。『ひいっ!』と声にならない悲鳴を上げる男を抱いたまま、清継は豪快に笑った。
(2)遥①
「遥、市役所かしら、なにか国の方から手紙来てるわよ」
「税金かな。滞納してる覚えはないんだけど」
末永遥は先月二十七歳になったばかりの、中小企業に勤めるごく普通の会社員だった。目立ったところも特になく、ルックスもごく普通。女性にモテる訳でもなく、卒業した大学も二流。事務職の毎日はパソコンでデータを弄っているか、書類に判子を押すだけの日々だ。
仕事は面白くもなかったが、比較的安定した企業で給料もごく標準、残業もあったがそこまでひどくなくブラック企業でもない。笑ってしまうほど普通の生活だ。
恋人がいたことももちろんあるが、現在はフリー。元彼女に新しい好きな男が出来たということで振られてからそれっきりだった。
母親から手紙を受け取り、なにも気にせず開いてみる。
薄っぺらな紙が二枚。お役所仕事らしい小難しい文章のあとに書いてあったのは『政略結婚通知』の文字。
国が作ったそのシステムの話はもちろん知っていたが、それは選ばれし上流階級や有名人に送られるものだ。
「……またかよ。遥って名前で女に間違われやすいんだよなぁ」
興味本位で職場の休憩時間にその書類を開いてみる。
国内でも有数の大企業の社長。久堂清継。雑誌のインタビュー記事や新聞でもちょくちょく目にする名前だ。添付されている写真にも見覚えがある。金持ちでイケメン、育ちが良くて一流大学卒。遥のような庶民にとっては縁のない男だ。
(どんな女と結婚するのやら)
取り敢えず重要な書類には間違いない。
上司に間違って大切な書類が送られてきたことを説明し、少し早めの早退を頼んで遥は午後の仕事をそれなりにこなしてから市役所の戸籍課に向かった。
「すみません。なんか間違いでこれ送られてきちゃったみたいなんすけど」
「あら、政略結婚通知ですね。お名前を伺ってよろしいですか?」
「末永遥です。名前が女っぽいんでこういう間違いたまにあるんですよー」
「じゃあ、ちょっとお調べしますのでお待ち下さいね」
「さーせん、よろしくですー」
「そこの椅子に座って、しばらくお待ち下さいね」
いままでにも、どこの遥ちゃんかは知らないがとんでもない金額の税金の滞納額を請求されたり、どっかの遥ちゃんに出会い系お見合いパーティーのダイレクトメールが届いたりもしていた。
「末永さん、末永遥さん」
「はいはい」
「間違いではないようですよ? 国家政略結婚委員に問い合わせしたところ問題はないということです」
「はっ? いやいやいやいや、見て分かるように俺、男ですよ? 性転換とかそういうのもないですし!」
「そう仰られてもうちの市役所では分かりかねます」
「同姓同名の遥さんのとこへ行くはずの書類じゃないんですか!?」
「本籍、氏名、年齢、現住所、勤務先……すべて確認しましたが間違いないようです」
「……えっと……あ、はい……」
そう言い切られれば返す言葉もない。
もしかしたら戸籍自体が女性で登録されているかもしれないという疑念もわくが、それならば学生時代になにかしら問題が起こっていてもおかしくない。
(……政略結婚? 俺が? 男と?)
薄っぺらい紙切れ二枚を鞄に突っ込み市役所を後にして家路に向かう。
──意味が分からなかった。
(政略結婚制度って優生思想つか、血統のいい子供を作るってコンセプトじゃねぇのかよ)
自慢ではないが、遥の家はどこからどうみても普通過ぎるほど普通の家庭だ。中小企業の係長をやっている父親と専業主婦の母親。兄弟はいないが、まだ少しローンの残っている家。先祖に特別な人間がいたというような話も聞いたことがない。
どうしてそれが久堂清継のようなサラブレットと結婚するのか。むしろ根本的に男同士で結婚することがまずおかしい。
(有給とって、この国家政略結婚委員会とやらに行ってみるしかねぇか……)
これがもし本当の話だったら国に逆らうことになる。犯罪者ということだ。
(いや、ないないない。男同士で政略結婚なんて聞いたことねぇし。まずガキなんて産めねぇし!)
テレビや雑誌で有名人が政略結婚で選ばれた相手と結ばれたというニュースは度々目にしていたが、男同士なんてものは見たことも聞いたこともなかった。間違いも甚だしい。
政略結婚委員会って確か都内にあるんだよな。有給二日は取らなきゃ駄目だよな……などと思いつつ遥は市役所を後にした。
バスに乗り、自宅付近で下りて家に向かうと、家の前あたりにピカピカに磨かれた黒い車が止まっていた。
なぜか嫌な予感がする。一瞬立ち止まってその車をまじまじと見つめる。
たぶん、地方の家なら一件は買えるだろう車種。ロールスロイス。正直言って、こんな間近でロールスロイスを見るのは初めてだった。
(なんなんだよ今日はいったい……どっかの遥ちゃん、早く出て来いよ)
ぐったりと疲れた様子で遥は家の側まで行くと、いきなりその車のドアが開き、あのペラペラの紙に添付されていた写真の男が現れた。雑誌でも見たことがあったが、実物はもっと威圧感と美丈夫、大手企業の社長のサラブレッドらしいオーラがあった。
「あー……なんか国のミスっぽくて……俺は見てのとおりの普通の男で──」
その言葉が終わらないうちに、『迎えにきた』『花嫁』という単語が織り交ぜられながら、抱きしめられて、遥の目尻にある泣きぼくろにキスをされた。
なぜか、違和感がない。それどころか身体がビクリと跳ねて清継に抱かれていることが当たり前のように思えてしまう。
だが改めて首を振ってその考えを消し去ると、ぐいぐいと逞しい彼の肩を押して離れようともがいた。
「ちょっ! えっ!? あの! なんすか……だから間違いって言ってるでしょうが!」
遥の言葉もほぼ聞かず『式までは我慢してやる』という言葉が続いた。
「マジで待てって! なにかの間違いだって言ってるだろ! おかしいと思わないのかよ! どう見たって男同士だろうが! 俺が女に見えんの? まず眼科に行けよ!」
「悪いが、視力はいいもんでね。うちの花嫁は癇癪持ちなんだな。そういう相手もいいな。俺の前では萎縮する奴が多いからな」
「なぁ、おかしいと思わねぇの? 国のこのシステムって才能や頭脳、容姿に恵まれた人間を生み出すための政策だろ」
「まあ、そうだな」
「俺のスーツ、2万ぐれぇなの。家も見たろ、三十年ローンでまだ払い終わってねーし。父親は万年係長、母親は普通の専業主婦。俺も中小企業の事務で給料は手取りで十七万程度。雑種の年寄り猫を一匹飼ってるだけで、お宝もなーんにもねぇの!」
「猫好きなのか。新居を建てたら猫を飼おうか」
「……なぁ、俺の話、ちょっとは聞けよ……」
「家のローンの残りがあるなら俺が払う。いくらぐらいあるんだ」
「話を聞けっ!」
「聞いてるよ、俺の可愛い嫁の話なら余さず聞いている」
「じゃあ、俺が男だってことも分かってんだろ!?」
「運命の相手だ。ひと目見てこいつが嫁だなって気付いたよ」
この清継というのはたぶんゲイかなにかなのだろう。だから男同士ということにも不思議さを感じないはずなのだ。
いくら国の間違いだといっても酷すぎる。遥はその場に崩れ落ちそうになりながらも、ヨロヨロとした足取りで家に戻ろうとする。こんな男とは話にならない。明日にでもすぐ政略結婚委員に出向いて紙切れを投げ付けてやりたい。
「遥、式の準備をしたいんだが日取りはいつがいい?」
「……うるせーよ。とっとと帰れ」
「俺としては遥にはタキシード……遥が望むならドレスでもいいけどな」
「着ねぇよ! 間違いだっつってんだろ!」
「男を抱いたり抱かれたりしたことはないが、遥を見たときに『俺の嫁だ』とピンときた。おもしれぇじゃないか、初の男同士の政略結婚だぞ」
「まったく笑えねぇ」
「家を建てる計画もしなきゃな。悪ぃがいまの職は辞めてもらうことになるだろうが、うちの会社で働けばいい。専業主婦でも構わないぞ。料理や掃除は家政婦を雇えばいいだけの話だ」
「……取り敢えず今日は帰ってくれないか。ちょっと疲れた……」
「マリッジブルーってやつか」
「うっせーよ! バカ!」
「あはは。うちの嫁は可愛いな。また来るから。遥のご両親にもちゃんと挨拶をしなきゃならないしな」
運転手らしき男がロールスロイスの後部座席のドアを開き、もちろんごく慣れたふうに清継がそこに乗り込み、最後に遥にひらりと手を振ってから走り去って行った。
(……金持ちってみんなあんな感じなのか!? とにかく疲れた……)
だが、遥もまた清継に抱き締められた時に違和感を覚えなかったのも事実だ。自分でもよく分からないが、目尻にキスをされた時も嫌悪感がなかった。
(いやいや、びっくりしただけだから……)
ノロノロとした足取りで家に入ると、玄関先に呆然と立っている母親と、山のように積まれた高級デパートや洋菓子店、和菓子、ブランドショップの箱があった。
「遥、あなたなにしたの。あの社長さんの命でも助けたの?」
「なにこれ」
「取り敢えずの挨拶だって……」
「えっと……俺もいまよく分かってねぇけど、あの人がなんか誤解してるみたいで。しかも命なんか助けてねぇし、財布すら拾ってねぇ」
「そうよねぇ、お母さんびっくりしちゃった」
「そこら辺に置いておいて、後で送り返すから。あと、明日東京行くから」
「なにするの。あなたなにかややこしいことに関わってるんじゃないでしょうね?」
「ちげーよ。国が間違えて俺に政略結婚の紙を送りつけてきたんだよ、あの社長との」
「あの人、女の人なの。最近そういうのあるものね」
「だからちげぇよっ! 国が間違えて男同士の用紙を送ってきたの! 確認しに行くから一泊二日ぐらになるかもだから」
「あらー、お母さん、ここの和菓子食べてみたかったのに」
「食うなよ! 絶対食うなよ!」
二階にある部屋に戻り、なにがなにか分からないまま疲れ切ってしまった身体を休めるようにベッドになだれ込む。
間違いにしても酷すぎる。それを信じ込む清継という男の神経も信じられなかった。
(これだからお役所仕事っつーのは)
どういう基準でカップリングが作られ政略結婚の相手が決まるのかは知らないが、たぶん欠陥だらけのシステムなのだろう。イケメンや美女や、金持ちやアスリートならそれでも選ばれた人間だと感じられて幸せだと思うのだろうが、遥はなんの偽りもないただの一般人だ。選ばれる意味が分からない。
取り敢えず一泊二日ぐらいにはなるだろうと、スマホで新幹線の予約と安いビジネスホテルの予約を取った。有給はまだ残ってるはずだ。上司に嫌味は言われるかもしれないが、清継のあの冗談の欠片もない行動──。
(もしかして、金持ちが貧乏人をからかって遊んでるとか?)
実はあの紙切れが間違いと知っていながら遥の驚いた姿を見て今頃は笑っているのかもしれない。
「くっそ、ムカつく! もしこれが間違いでもなんでも結婚したら二秒で離婚してやる!」
クローゼットから鞄を取り出し、明日出掛けるための服や下着を適当に詰め込む。スーツを脱いでパジャマ代わりのジャージに着替えると階下から呑気な母親の声が聞こえた。自慢じゃないがこのジャージも量販店で買った千九百八十円税込みの代物だ。
「遥ー、今日お父さん残業だって連絡あったから早めにご飯しちゃいましょうか」
「晩飯なに?」
「カレー。遥、カレー好きでしょ」
「んー、すぐ降りる」
カレーは好きだが、カレーが晩ごはんでキャッキャと喜んでいたのは小学生時代の話だ。だが母親という生き物はそんなことをずっと覚えている。しかし、階下から香ってくる美味しそうなカレーの匂いは遥を日常に戻してくれるようだった。
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、角切りの牛肉がゴロゴロと入った中辛のカレーライス。
どうでもいいようなバラエティ番組を見ながらテーブルを挟んでカレーを食べる。
「遥が女の子であんな社長さんと結婚できたらいいのにねぇ」
「性格悪いぞ、あいつ」
「そうなの? ご挨拶とか丁寧でさすが社長さんって感じだったわよ」
「そういうのだけは出来んじゃねぇの、なんせサラブレッドだから」
「ねぇ、カレー食べたら食後に和菓子の──」
「食ったらマジ怒るからな」
テレビからは政略結婚をした美形の俳優と女優が子供を授かったという話が流れていた。
(3)清継②
清継が満面の笑みで社に戻ると、第一声を上げたのは残ってくれていた秘書の諸岡だった。清継は隠し立てなどせず、全てを諸岡に話した。
「それで、状況説明もなしに、お相手を置いて帰ってきたんですか!?」
「手土産はきちんと置いてきて母君にも挨拶はしたぞ。諸岡、手配済みとはさすがだな」
「それはもうその辺は抜かりなく……ではなく、相手方に失礼がないようにとお願いしたはずですが?」
「だって俺の嫁だ。キスして何が悪い。しかも頬? 目元だ」
「いきなり現れた巨躯のイケメン社長に押し迫られる一般男性の気持ちを考えて下さい! きっと明日にでも、国家政略結婚委員会に直談判に行かれますよ」
「それは困る」
「でしょう? でしたら、明日は早々にお迎えに行って差し上げてください。話がややこしいことになる前に」
「そうだな。実際、今日は落ち着いて話もできなかった。明日早速改めて話をするのは良いかもしれん」
「お相手の気持ちに寄り添って、ですよ」
「分かってる。しかし善は急げだ。指輪くらい持っていくか」
「そういうところです、そういうところ!」
「分かった分かった。……今日はもう良いぞ、よくやってくれた。明日また俺は一日社を空けることになるから──」
「分かっております。お任せ下さい」
「ん。任せたぞ」
諸岡を下がらせて、清継はタイを緩めて社長室で一人、今日の出来事を思い返していた。初めて会った遥はちょっと元気が良すぎる気はしたが、なにせ自分の嫁になる相手だ。言い返してくるくらいの方が丁度良い。触れ合った肌も心地よかった。
何より面と向かって五月蝿いだの馬鹿だの言われたのは初めてだ。
(今までの人生も面白くなくはなかったがどこか暇で乾いていた気がする。……これからは、楽しいことになるぞ)
口元が自然と緩むのを我慢できない。清継は微笑んで、自社ビルの最上階から下界を見下ろしていた。
次の日。
『良い朝だな』と、遥の家の前で、玄関を出てきた遥へと声をかけたときの瞬間を清継は一生忘れないだろう。ぽかんとしたどこかあどけない表情、それから次第に頭を抱えて眉をしかめたかと思うと、次の瞬間には食ってかかられていた。
これこれ、と喚く遥を見ながら清継は喉奥で笑う。この元気の良さが本当に好ましかった。
「あんった、昨日の今日で一体何をしに!」
「いや、きっと困ってるだろうと思って? 迎えに来たんだが。都心まで出るんだろう。車で送る」
「いやいやいや。あんたとのことで国家政略結婚委員会まで行こうってのに、あんたと行ってどうする!?」
「話が早くなって良いじゃないか。間違いがないことがすぐ分かるって、俺の花嫁は心配性だな」
「その、花嫁ってのをやめろ……」
「じゃあ、遥」
「呼び捨てかよ……まあ、嫁よかいっか。んで、あんた、社長さんは──」
「俺のことは清継と呼べ」
「……了解」
「まあ、乗れ。お互いを知らなきゃな、夫婦になんだし」
「ならねぇし」
「なるんだって……つうか、知らないのか。まあ乗れ」
半場強引に遥の腕を引いて荷物ごと車に押し込むと、遥は広い車内に目をむいていた。それはそうだ。しようと思えばこの中でパーティーだって可能だ。車は滑るように走り出す。向かい合わせに座った遥はに乙で自分の周りにバリケードを築いていた。昨日したキスはやはり諸岡の言うように尚早だったようだ。
そんな初なところも可愛いと清継はニヤッと笑う。遥がそれに何を勘違いしたのか急ぐように会話を詰めてきた。
「それで、俺が何を知らねぇっていうんだよ」
「ああ、うん。遥、お前まだ、俺との婚姻を認めてねぇだろ」
「勿論」
「それが残念なことに、法律上は俺たちはもう結婚してんだよな」
「……はぁ?」
「いや、だから通知が来ただろ。その時点でもう、本人の意思も同意も関係なしに、行政上の手続きは終わってんの。だから『通知』なんじゃねぇか」
「お、俺の承諾なしに!? もう、俺、俺があんたの……!?」
「嫁だな。嫁が嫌なら何でも良いが、とにかく俺たちはもうすでに夫婦だ。いや夫夫(ふうふ)か」
「嘘だろ、そんな……認めねぇっ!」
怒りなのか混乱なのか、目の前の遥は拳を握りしめ青くなったり赤くなったりしている。足を組み、そんな遥の様子をゆうゆうと眺めながら、清継はこの後、用事が終わったら食事にでも遥を誘うかと呑気なことを考えていた。
委員会に着くと、運転手が扉を開けるのも待たずに、遥は飛び出していった。清継はそんな背中を見送って、ゆっくりと建物の前に降り立つ。赤レンガ調の建物は威厳ある風貌で、入り口脇には『国家政略結婚委員会』の文字がプレートに刻まれている。つい最近新設されたように思えていたが、よく考えてみればすでに二十数年も前に成立した委員会だ。自動扉を抜けて中へ入ってみれば、皆仕事には慣れているのだろう、広い静かなオフィスの手前、受付で一人、声を上げて説明をしている遥一人が目立っていた。
「って、だから、これは何かの間違いじゃ……」
「いえ、ですからお客様。ここに、このように大臣の印も入った通知が手元に届いたということはすでに、ご結婚がなされたということです」
「そんな……男同士、ですよ?」
「申し訳ございません。お力になれませんで」
「何か、何か無いんですか……そうだ! 離婚は? 結婚が強制なら離婚した人もいるはずですよね!? 離婚、できるでしょう?」
「それが実は……今までこの政略結婚システムでご成婚された中には、離婚は一組もいらっしゃいませんので……今すぐには回答できかねますが、相当難しいかと……」
「マジ、ですか……」
「はあ」
「じゃ、じゃあでも。なんで俺が選ばれたのかって根本がおかしくないっすか。うちは庶民ですよ? どこまで遡ってもど庶民なんです。ちゃんと調べてくれれば分かりますって。俺がこの結婚に向いてない男なんだって!」
「そう、言われましても……やはりこちらでは、決定事項ですとしか……」
腕組みをしてやり取りを見守っていた清継だが、そこで割って入った。
「遥、もう良いだろう? わかったろーが、俺たちは結ばれる運命なんだよ」
「ああ、久堂様ですね。この度はご成婚おめでとうございます」
「どーも。ちょっと嫁と意見が食い違ってね。時間を取って済まなかった」
「いえ、たまにあるご相談ですから。心得ております。けれど、どのご夫婦もその後仲良くされておりますよ」
「でしょうね。……だってさ、遥。諦めて嫁になれって。で、この後、デートしようぜ」
「嫁になるのもデートも何一つ承服出来かねるんだが……!?」
「頑固だな。そこが良いが。自我を持つってのは大切だ。──では、お世話になりました」
「どうぞ、お幸せに」
何度その言葉を口にしたのだろうか。受付の女性は慣れた仕草で優雅に礼をして二人を見送った。がっくりと肩を落とす遥に、清継はガシッと肩を組んだ。色気もなにもない、男友達にするような仕草だったためか、落ち込んでいる遥は振り払いもしない。それを良いことに、目の前にある遥の髪の匂いを清継はすんと嗅ぐ。とても心地よい香りだった。
「なんで、どうして……おかしいって、マジ……」
「まだ言ってんのか? 俺としちゃ、早く式の日取りや披露宴の打ち合わせなんかをしたいんだが。あ、結納はなしで良いぞ、七面倒臭い。パフォーマンスとしての結婚式や披露宴には申し訳ないが付き合ってくれ」
「……あんたは、ゲイかなんかか。俺なんかがいきなり結婚相手ですーって現れてなにも思わないのか」
「なにもってことはないが、実際お前を見て気に入ったんだから問題はないな」
「マジかー……」
車に二人して乗り込んで先程のように向かい合う。密室で運転手にも声は届かない。清継は肘をついてかすかに笑った。
「俺はずっとこの制度で結婚できるのを待ってた。俺の両親は自由恋愛で結婚してな。俺を設けたが、その後はすれ違いがずっと続いて……今も仮面夫婦だ。親父なんて次々変わる愛人のために早めに引退して俺に社長の座を譲ったくらいだ。それに比べたら、国中から相性の良いたった一人を選んでくれるこの政略結婚システムは最高だ。三十歳は少々早い気がしていたが、遥、お前となら楽しくやれそうだ」
「あ、あんたの境遇には同情するよ。けど……それとこれとは、話が」
「まあ、とりあえずは式だな。一ヶ月後と言いたいが、慣例で本当なら年単位で計画しなきゃいけないことだ。招待客皆々様、本来なら半年先までスケジュールが埋まってるからな。そこを押して、三ヶ月後に式をねじ込む。どうだ?」
「……あんたが、人の話を聞かないやつだってのはよく分かったよ」
呆れながらも、初めて、ほんの少し、遥が笑った。すぐに『けど俺は認めないからな』といつもの調子に戻ってしまったが。笑顔が見れた、それだけで、百戦錬磨の自信家で野心家と言われた清継が不覚にもときめいてしまった。
これが相性、なんだろうか。一気に自分の思う通りに推し進めたい今までの自分と、もう少し遥の話を聞いてしまいたい自分が拮抗する。不思議な感覚に酔いながら、文句を言う遥を連れて都内のレストランへ車を向かわせた。
「いや、ここぜってー無理だって俺。こんな普段着ではいるような店じゃないじゃん。てか店でもないじゃん。ホテルじゃん」
「ここの最上階でランチでも……と思ったんだが」
「無理無理無理。あんたには日常かもしんないけど、俺には無理」
「そうか? ならどこなら良いんだ」
車を降り、清継が経営するホテルの前だった。
確かに遥はトレーナーにジーンズ、コートとごく普通の格好で、清継は自前のスーツだったが、格好で入店できないようなランクのレストランではない。そこは清継も心得ていた。カジュアルなホテルレストランを選んだつもりだったが、どうも遥にとってはそこでさえ敷居が高いらしい。
憮然として、清継は遥へ聞き返す。すると先に立って遥が歩き出した。
「話するなら定食屋とかカフェで良いよ。ほら数件先にチェーン店があるじゃんか」
「定食屋?」
「……社長さんなら、社食で食べたりすることもあるだろう? そんな感じの──」
「社食は使わないな。いつも幹部連中とランチ会議だから外で食べるか弁当だ」
「へぇ、あんたでも弁当食うんだ。……ちょっと待てよその弁当って……」
「ホテルか料理屋の仕出し弁当だが?」
「まあ、うん。そうだよね。コンビニ弁当なはずは無いか、うん。俺が間違ってました」
そんな会話をしながらチェーン店の定食屋の自動ドアをくぐるとすぐに券売機があって、清継は首を捻った。目に痛いほど派手な大きなメニューは目の前にあるが情報が多すぎる。券売機のシステムも良くわからない。
「よくわからんな。なにがおすすめだ、任せる」
「ここならなに食ってもふつーに美味いけど……あんたの口に合うかは分からないからな。あんた体がデカイから、店長オススメのカツ丼セットにしとくわ。俺はホッケの定食っと」
席に着くとなにも言わずとも笑顔の男性店員が心得たようにグラスの水を置いて、発券された券を回収して去っていく。そのスマートな仕事ぶりに清継は驚いた。
更に話をといくらも喋らぬうちに、すぐに盆へ載せられた料理が届いた。ホカホカと湯気を立てる丼ものに味噌汁。漬物は食べ放題だと、遥が教えてくれた。
『とりあえず、食べながら話そうぜ』と、手を合わせてから先に食べ出す遥に合わせて、初めて食べるカツ丼にそっと箸を入れる。名前は勿論知っていた。だが食べたことはない。大きく一口を箸で掬って食べると得も言われぬ旨味が口の中に広がった。
「んっ。……美味いな、これは。これで千円以下なのか?」
「だな。庶民の味の代表格だから知っておくと良いわ。あーホッケもうめぇ」
話しながらのつもりがつい、完食してしまった。締めに茶を飲みながら、遥がこちらを伺っているのが分かった。見返すとゴホンと咳をして、遥がわずかに身を乗り出してきた。
「で、本当に俺はあんたとその……結婚?……しなきゃなんないわけ? どうして俺なんだよ。もっといるだろう。あんたに似合いの、金持ちで有名で、とりあえず女……!」
辺りを憚ってか声は小さかったが最後は強調される。清継はネクタイを少し緩めると、ふうっとため息をついた。
「だから、今日わかったようにしなきゃなんないじゃなくて、もうすでにしている、だ。選ばれる基準はそうだな……家柄、生活環境、個人の資質……色々言われているが最後はDNAの相性らしい。心配するな、それがバッチリ良かったから俺たちは晴れて夫婦になれた」
「……意味、分かんねぇ。俺と? あんたが? DNAレベルで相性抜群なの? それでも、じゃあ子供はどうすんだよ、子供は。俺たち男同士で……」
「一緒にいれば分かる。その辺りの相性は追々。とりあえず俺はお前で何の不足も無い。大満足だ。俺の嫁になれるなら、お前だって満足じゃないのか。俺は金持ちで有名で、性格も良い。夜だって満足させられる自信がある」
「……今までの話をどうまとめたら、満足に見えるんですかね」
定食屋のテーブルの上でふるふると拳を握りしめる様子の遥は可愛かった。つくづく良い嫁をもらったと清継はニッコリと笑う。遥の拳の上に己の手をかぶせると軽くその手を叩いた。
「少し考えたら良い。式や新居はこっちで少しずつ進めておくから。……な? 別にこうやって触れても嫌な気はしないだろう?」
手を重ねてギュッと握ると、されるがままになっていた遥がハッとしたように手を引いた。その目の端が少し赤いように思えるのは気のせいだろうか。清継は口端を上げて機嫌よく微笑んだ。
(4)遥②
いくら金持ちとはいえ全国にチェーン展開している定食屋に行くのが初めてだということにも遥は驚いたが、なによりもDNAレベルで自分が選ばれたという事実が衝撃的だった。育った環境や男女とは関係なく、DNAレベルだと言われてしまえば返す言葉もない。だが、政策としては優生の子供を増やすということじゃなかったのだろうか。
けれど、何気なく重ねられた清継の手の温もりに違和感を覚えなかったのは本当だった。むしろ心地よかった。
少し頭を左右に振ってその気持ちを消し飛ばし、バッグを持って立ち上がる。
「ホテルは取ってあるからこの話はまた改めてってことで。離婚の話を進めていこう」
「俺は遥と離婚なんてしねぇからな」
「どれだけややこしい手続きでも、俺は男と寝る趣味はねぇの!」
「……ま、今日のところは取り敢えず。ホテルどこ。車で送るから」
東京の地理にはあまり詳しくない遥はどこか渋々としながらもスマホを開いてマップを差し出す。
「あー、西新宿のほうな。飯田、ここの場所分かるだろ、ホテル前に付けてくれ」
運転手にそう告げ、車がゆっくりと滑り出す。
政略結婚委員会のあの短い会話のために新幹線代とホテル代を使ったと思うと馬鹿らしくなってくる。離婚となるとまだこれから何回も東京に来なければならないのだろう。派手な遊びをする訳でもない遥だったが、こんな無益なことに金を使いたくはなかったが男と結婚しなければならないということを考えると仕方がなかった。いっそ清継にこの金を請求してやりたいとすら思う。いや、違う。国が出すべきだ。
溜め息しか洩れない。なのに目前でゆうゆうと足を組んで機嫌良さそうな笑みを浮かべている男が憎たらしい。
清継にとっては小銭レベルの出費でしかないのだろうが、遥にとってはかなりの痛手だというのに。
そんなことを思っているうちに予約していた安いビジネスホテルの前にロールスロイスが横付けされる。もちろんこんなホテルにベルボーイなどいない。運転手が後部座席のドアを開き、遥の荷物を持って先に進む。
「なあ、遥。俺も部屋に行っていいか」
「嫌だ」
「なにもしないって。どんなところに泊まるのか見てみたいだけだから」
「別に普通のビジホだっつーの。そんなことも知らねぇの?」
「知らんな」
「……はぁ。見るだけだぞ」
フロントで予約した名前を告げて、お決まりの住所と氏名を紙に書いて三〇二号室の鍵を渡される。どうということのないビジネスホテルだ。この手のホテルなら遥は仕事の出張で泊まったことがある。
シングルベッド、ユニットバス、小さいテーブルと冷蔵庫、それぐらいしかない部屋。
薄暗い廊下を進んで慣れた様子で遥は部屋のドアを開くが、清継にとってはなにもかもが新鮮なようであちこちに視線を走らせていた。
「見たいなら好きなだけ見ていいから、見終わったら帰れよ」
「リビングはないのか。ベッドルームもないじゃないか」
「はっ!? ここがベッドルーム! ベッドがあるだろ!」
「いや、こんな犬小屋みたいなところに泊まるのか?」
「ちょっ、おまえ失礼過ぎんだろ」
「うちの嫁にこんなところに泊まらせらんねぇわ。他に行くぞ」
「待て、金ねぇし無理。寝るだけなんだからここで庶民は十分なんだってば」
「壁も薄い。ベッドのマットレスの質が悪い。このバスルームはなんだ、実家の犬でももっとマシな風呂に入ってる」
清継の態度は部屋を蔑む感じではなく、真正直に本気でそれを告げているようだった。遥が手にしていたバッグを奪い、腕を引いて部屋を出ると、さっき登ってきたばかりのエレベーターに乗り込み再びフロントに戻る。
「支払いを頼む」
「えっと……はい……しかし、新幹線出張パックでホテル代も込みになっておりますので」
「あー、もう、わけが分からん。金は必要ないんだな」
「は、はい」
「手違いがあったら遥が困る。なにかあったらここに連絡してくれ」
そう言って自分の名刺をフロント係に手渡すと、もう終わったとばかりにビジネスホテルを二人して出ていく羽目になった。
「あのホテルに不手際があったとは言わないが、俺の嫁があんな狭い部屋で泊まることは許せない」
「だ、だから嫁って言うなって言ったろ!」
「じゃあ、遥がもっといいホテルに泊まることを望んでるって言えばいいんだろ。飯田、いつものホテルに行ってくれ」
「だから、金が無いって言ってんだろ。庶民の暮らしのこと、もっと考えてくれ」
「……ふむ。じゃあ遥が教えてくれ。ホテル代は俺が出す。気心の知れたホテルだから緊張しなくてもいい」
清継と出会ってからもう何度ついたかもしれない溜め息を遥は零す。まったく常識が通じない。さっきのビジネスホテルも清潔感があり特に悪いところもなかった。都内で、しかもパック料金内で交通の便も良かった。
(世間知らずのお坊ちゃんの生活ってこんななのかよ……)
もう反論する気にもならない。ホテル代金を出してくれるという言葉を信じて、乗り心地のいい車の総革張りのシートに身を沈めて、遥はもう一度溜め息をついた。
車がホテルの玄関らしきところに滑り込んだのは、高層ビル的なホテルと思いきや、都内だというのに広い庭と二階建てぐらいだろうか物静かであるがいかにも高級感のある別荘のようなホテルだった。
玄関先にはすでに数人の和服の従業員が深々とお辞儀をして二人を迎える。
清継が遥のバッグ──合皮の三千円税抜──をその従業員の一人に手渡すと、従業員もまた恭しくそれを受け取った。中身は三枚千五百円のボクサーパンツと、九百八十円のTシャツ、明日の替えのシャツ程度しか入っていないものをそんなに丁寧に扱われてもむしろ困る。
「部屋の用意は出来てるか。庭のよく見える俺がいつも泊まる部屋だ」
「はい、いつもご利用ありがとうございます。いつものお部屋をご用意しております。ウエルカムシャンパンをお持ちしましょうか? ソフトドリンクや軽食もご用意出来ますが?」
「食事はしてきたからいい。遥は酒は嗜むのか?」
「あ、うん。ちょっとなら」
「じゃあシャンパンを」
「かしこまりました」
まるで自宅に帰ってきたような当然といった態度に驚かざるを得なかった。
本物の大理石の床と広く静かなロビー。どれだけ常連なのだろう、皆が清継に深々と頭を下げ、部屋を案内されるまでもなく前を歩く従業員を追い越しそうな勢いで部屋へと向かっていく。
中庭が見える総ガラス張りの窓からライトアップされた、丁寧に剪定された木々と季節の草花に見惚れて遥が足を止める。
「綺麗だろう、俺の気に入ってるホテルだ。ベッドルームからも違う角度からこの庭が見えるからな」
「つっても……清継と泊まる気はないからな……」
「ははっ、まだ会って二度目だ。そんな無粋なことはしねぇよ。初夜は新婚旅行ついでにもっと豪華なホテルで迎えようか。遥は海外ならどこがいい?」
「だから離婚するっつってんだろ! いい加減、俺の話を聞けよ!」
「DNAレベルの話だぞ。しかも国が決めた相手だ。それともいま付き合ってる恋人でもいるのか?」
「い、いねぇけど……」
「取り合いする手間がなくて安心した。ほら、部屋に向かうぞ。シャンパンぐらいは飲んでいっていいだろ」
「ま……それぐらいなら」
「カードをフロントに預けてあるから、夜中に腹が空いたらルームサービスを適当に頼めばいい。朝にまた迎えに来る。新幹線の時間があるんだろう? なんなら車で家まで送る」
「いいっ! 新幹線で帰るっ!」
「遥は頑固だな。そういうところも可愛いけどな」
豪快に笑いながら部屋に案内され、カードキーで部屋を開いて貰い、マニュアルだろう従業員が部屋の説明をしようをするのを、もう分かっているというように清継が手で制するとお辞儀をして彼女は部屋を出ていった。
二人きりになったことに戸惑いを隠せないけれど、すぐに部屋のドアがノックされシャンパンが届けられたことに僅かに遥は安堵し、取り敢えずソファに座ってグラスを持つ。乾杯などする気にはもちろんならず一口飲む。シャンパンは友人の結婚式などで飲みはしたが、これほど味が違うのかと思うぐらい美味かった。
移動や政略結婚委員会でのやり取りで疲れていたせいもあったのか、アルコールが身体の隅々に染み渡るようだった。
ソファの隣に清継が座ったが、もう文句を言う元気もほとんどない。
「ここのホテル代払うし……借り作りたくねぇから」
「払いたいなら黙って貰うけど、身体で払ってくれてもいいんだぜ?」
「……も、いま疲れてっからそういうの止めろ」
「体力ねぇのな。遥が疲れてるなら少し黙ってるよ」
二人で黙ってシャンパンのグラスを傾ける。
たった二度しか会ったことのない相手。しかも国から勝手に認定された結婚相手。よりよってそれも男。生活環境も、育ちも、なにもかもが違う。こんな高級ホテルに泊まるのも初めてだった。
ホテルに対して驚きはしたが、隣に座る清継の存在に違和感がないのはなぜだろう。
「なあ、清継。いくらDNAだとか政略結婚だからって男を抱けんの?」
「遥が俺を抱きたいの」
「そういう話じゃねぇよ。ゲイでもバイでもないんだろ。勃起すんのかよ」
「試してみるか? 初夜まで楽しみは取っておこうと思ったんだが」
「……もういい。この話は無し」
「もっと夫婦らしい話でもするか」
「どんなよ」
「子供が何人欲しいとか」
「産めるかよ! バカか!?」
「ははっ、やっぱり遥は可愛いな。じゃあもし子供が出来たらって話じゃねぇか。男がいい? 女の子がいいのか?」
「……男の子、かな。一緒にサッカーとかしてぇし」
「俺は女の子がいいねぇ、宝石みたいにいつもピカピカにして可愛がってやりたい」
なんとなくそんな口調が微笑ましく思えた。
清継の言葉は嘘ではないだろう。もし子供が男でも女でも猫可愛がりするはずだ。金銭の使い方はともかくとして、惜しみなく愛情を注ぐタイプの男だった。その大きな体躯に小さな子を抱き締めて満面の笑みで慈しむ姿が目に見えるようだった。
こんな男の許で愛されれば……。
(って、なに思ってんだ、俺。離婚しにきたんだろうが!)
グイッとシャンパンを一気に飲み干して、空になったグラスをテーブルの上に置く。
「シャワー浴びて寝る。東京の地理とかあんまわかんねぇから、駅まではフロントの人に聞くし大丈夫。早めに帰れたら仕事にも行きたいし」
「せめて車ぐらい新幹線の駅まで行けるように寄越すって」
「いい。ここのホテル代がいくらか知らないけど、清継の会社に電話して聞く」
「それはいい。ここに泊まれって言ったのは俺だ。疲れただろうからゆっくりしてくれ。窓からの庭の景色は絶品だからな」
「……ん」
「おやすみ」
清継もまたシャンパンを飲み干すと、ソファから立ち上がりどこか人懐こい笑みを浮かべて部屋を出ていった。
強引にキスをされたり抱き締められたりすれば強気に拒めるが、むしろあっさりと身を引かれると言い返す言葉も出せずに戸惑ってしまう。話を聞かない男のはずなのに、遥の身体を気遣ってくれているのが分かった。
「もうなんなんだよ……政略結婚って。こんな生活レベルの違う人間が一緒に生活出来るはずねぇっつの。いやいやいや、その前に男同士だし! あー、風呂入って寝よ……」
バスルームは自宅の自分の部屋ほどある広さだった。ジャグジーと間接照明、窓ガラスも庭に向いていてそれを眺めながら風呂を楽しめる。
(離婚する方法。法律に詳しい……あ、いるじゃん!)
勢いと早い流れでその存在を忘れていた。法律事務所で働いている、幼馴染の鈴木浩太郎(すずきこうたろう)のことを。
(5)清継③
遥をホテルに送り届けた清継は仕事へと帰っていた。しかし頭の中は先程までともに過ごしていた遥のことでいっぱいだ。つい、書類を捲る手が止まり、決済の印を押す場所を誤り、データを見る目がうわ滑る。
ついに諸岡が目の前へと立った。
「集中して下さい、社長」
「……お前は出来たばかりの可愛い嫁と初デートをして、その後すぐに集中できるのか」
「残念ながら嫁はおりませんので分かりかねます。しかし、今回はお相手に失礼なことは……」
「まったくない。誓うよ。手も、指さえ出してない」
「それなら結構ですが。休憩がてら、お探しだった新居の資料でもご覧になりますか? 式場もいくつかピックアップしてあります」
「さすが俺の右腕だ。やるな」
「お褒めに預かり光栄です」
ざっと目を通す限りで、式場は清継好みの、和を基調とした老舗ホテルか、シンプルな教会がピックアップされていた。新居も緑の多い地区を中心に閑静な高級住宅街から選ばれている。今日遥と一緒に食事をした風景を思い描きつつ、その中から2~3ずつ、清継は選び出して諸岡へと資料を返した。
「この中から進めておいてくれ。金ではなく、担当者とのやり取りで決めてくれて構わん。きめ細やかなフォローをしてくれる所が良い」
「分かりました。では、そのように進めさせていただきます」
「まだ遥は式や新居どころではないようだったからな。こっちである程度進めて構わんだろう。招待客のこともある。ところで諸岡はカツ丼は食ったことあるか?」
「はぁ……ありますが」
「本当か? 俺は物知らずだな。ホテルもしかりだ。なぁ諸岡。遥といると新鮮な事があって、楽しいぞ」
「早速惚気ですか」
「好いて惚気てなにが悪い。既に結婚済みだ」
「しかし、どうも……お相手はあまり気乗りでない、ご様子なんでしょう?」
「まあな。俺が相手でなにが不足かわからんが」
諸岡が軽くため息を付きながら、目の前にコーヒーを出してくれる。
「そういうところではないでしょうか」
「そういう?」
「妙に自信家なところや、一般人の方とは少々違う感覚をお持ちなところなどでは?」
「自信家で個性があってなにが悪い。そういう男だからこの歳で社長をやってられる」
「それはそうでしょうけど。私も社長の、社長としての手腕や男ぶりには信頼しかありませんが。……あとはまぁ、多分お相手も一番気にされてますでしょうけど……男同士、ですからねそもそもが」
「お前がそれを言うのか。お前はゲイだったろ確か」
「確かにゲイですが。私のこととお相手のことはまた別ですよ」
諦め顔で諸岡が首を傾げた。清継はカップをデスクへと戻しながら、眉を寄せる。なぜ自分自身が遥に受け入れられないか、微塵も分からなかった。お互い手を触れた時やふとした瞬間にあんなにも居心地が良いというのに。
「ゲイのお前から見て、俺は男としての魅力が無いか」
「十分魅力はお有りですよ。けれど、そういう話とは違うと思いますが。あとあまりしつこく聞かれるのであれば、セクハラで訴えますよ」
「じゃあ、どうすれば良い」
「まずお相手を大切に……あとはお互いを十分に知る必要があるのでは?」
「ふうん。──まあ、一理あるか」
清継はスマホを取り出すと、どこかへと電話を掛け出した。諸岡は嫌な予感がして話しかけた。
「一体どこへ?」
「しーっ。遥の自宅だ。ご母堂へ、遥の連絡先を聞こうと思ってな」
「はあ……」
『そういうところが強引で嫌われるのでは?』とは流石にもう諸岡も言えなかった。
確かにコミュニケーションは人間関係の基本だ。
仲の良いとは言えない両親を思い出すにつけ、仕事相手とのパートナーシップを思うにつけ、言われればそうだと感じた。部下とだって、友人とだって、コミュニケーション無しには付き合いはありえない。
そう、清継は真面目で情熱的だ。そこで、まずは遥の母親と頻繁に連絡を取った。のんびりとおおらかだがおしゃべり好きの遥の母親は最初こそ政略結婚に驚いていたものの、話すにつれて、清継とお互い冗談を言い合うほどになっていた。
遥の連絡先を聞き出すのも容易かった。
「あらまあ。あの子ったら、うっかり屋さんだから」
その一言で、遥の電話番号をいとも簡単に教えてくれた。そこからは遥へも清継は電話をかけまくった。モーニングコールに始まり、仕事の合間の電話、夜はお休みと囁いて、休日にはデートへ誘った。
遥の態度は一貫して冷たいものだった。電話を即来られることは当たり前、怒鳴り声や『馬鹿!』との罵り声も日常茶飯事。仕事と共有しているらしく、電話番号を軽々しく変えれないと憎々しげに呟かれたのには笑ってしまった。
「こんなに楽しい恋愛は初めてだぞ、諸岡」
昼休みに会社近くの定食屋で慣れた手付きで発券ボタンを押しつつ、清継は後ろへと話しかけた。あれから会社の周囲を探して見ればオフィス街のそこここに、チェーン店や小さなカフェを見つけることが出来た。そして清継は、遥との距離を縮めるべく最近では昼食時にそういった店に顔を出すようにしていた。今日のランチは焼き魚定食だ。何が出てくるか楽しみだった。
諸岡とともに席へと着くと、メガネを軽く押し上げて諸岡が背筋を正したままやや心配げに首を傾げた。
「お相手は……まだ少々戸惑っておられるようですが」
「時間が解決するさ。しかしやはりただの恋愛と結婚とは違うな、早くしておけば良かった。いや、早くしていたら遥に出会えてないか」
「そんなに、遥様のどこをお気に召したんですか?」
「そうだな、まず元気だ」
「はあ」
そこで料理が運ばれてきた。清継は焼きサンマの定食、諸岡は親子丼だった。
「お、そっちも美味そうだな。今度チャレンジしよう」
「はい、美味しいですよ。親子丼。私の好物です」
「そうなのか。付き合いが長いのに知らなかったな、お前の好物なんて」
「そうですね、趣味嗜好の話はやはり会社では……」
「そうなるな、どうしても。それで、遥の話だが……遥といるとこうやって、新しいことを知れる」
「例えば?」
「こういった店もそうだし、遥といると彼の視点に合わせて物事を進めなくてはいけない部分も出てくる。その中で、新しい知見を得ることができる」
「考えて、いらっしゃたんですね。戸惑っておられる遥様のことを」
「阿呆。考えていないとでも思ったのか」
そう、本当ならもっと強引に、電話などしていないで、会いに行って仕事も辞めさせ、さっさとベッドまで拐ったって良かった。けれど、清継にしては我慢強く遥との親交を深めようとしていたのだ。将来をともに過ごす相手と万が一にも仲違いなどしたくはない。もっと言えば、気に入られたいという、清継には少々受け入れがたい心情にもなりかけていた。自分が相手を手に入れるだけではなく、相手にも自分を手に入れて欲しい。
「あとはまあ、可愛いな。あの言動、お前も見ているだろう。俺を糞味噌に貶しながらも拒否はしないお人好し加減とかな。人の良さが根底にある」
「はあ、よく見てらっしゃいますね」
「なんせ俺の嫁だからな」
なぜか威張って、清継は笑った。今まではそこそこ遊びもしてきた。恋愛もしてないとは言い切れない。真面目なものもあればそうでないものもあった。ただし、結婚へ政略結婚の相手としようとずっと決めていた。国中からたった一人選ばれる相手というものに興味があったからだ。それが、自分にぴったりくる相手だろうと予想もしていた。今は当たり前だが、遥以外に付き合っている者はいない。三十歳を前にして皆手を切っていた。
『しかし』と食べ終わった諸岡が早くも食べ終えて口を拭い、清継を見つめる。
「しかし、彼を……遥様の事をよく思っていない連中……失敬、方々がいらっしゃるようでので、社長もくれぐれも社内での言動にはお気をつけ下さいね」
「ふん、叔父上か。わかっている。遥が男だというだけで、あんなにも泡を食った顔をしていたからな」
「近々の役員会で取り上げられることは必須ですよ」
「分かっている。それまでにまずは政略結婚法の事をよく調べ上げ、対応策を取っておかないとな。任せられるか?」
「勿論」
「お前は何でも勿論というな」
「それが清継様にお仕えするという意味ですから」
「そうか、任せたぞ」
二人して店を出る。車へ乗り込みがてら、いつものように清継はスマホの履歴から電話を掛ける。日課となっている遥の罵声を聞くためだ。今日はすぐ来られるだろうか、それとも少しは話ができるだろうか。嫌だと言いつつも、きちんと電話を一旦は受けてくれる遥の「遥らしさ」に、声を聞く前から清継の口元は薄っすらと笑み浮かべていた。
(6)遥③
まだ現実を受け入れられないまま自宅に戻り、慌ただしい二日間を思い出してみる。
結婚前提の書類ではなく、清継とはもう結婚しているのだ。信じられないという気持ちはまだあったが、政略結婚委員会でもそう断言された。
認めざるを得ないのだろうだが、どうしても男同士ということにどこか拒否反応を感じてしまう。ゲイ差別をするつもりはないが、自分自身がと思うと違う。
ホテルで思い出した幼馴染であり、法律事務所に勤める鈴木浩太郎へと電話を掛ける。
数コールで電話に出た聞き慣れた声に少し安堵感を覚えて、ベッドに寝転がりながら言葉を続けた。
『……久しぶり、最近どうしてしてんの、やっぱ弁護士の勉強って忙しい?』
『忙しいのは分かってたけど、勉強と同時進行ってのがな。どうした、なんだか元気なさそうだな』
『ちょっと聞きたいことがあるんだけど、忙しいなら──』
『なに他人行儀なこと言ってんだよ、揉め事か?』
『あー……えっと……政略結婚委員会ってあるよな。あれ、俺ンとこに来た』
『……え。あぁ、でもあれって、こう言ったらなんだけど選民意識系のアレだろ』
『DNAレベルで合致したらしい。しかも……男だった』
『はっ!?』
お互いにしばらくの沈黙があった。浩太郎も信じられない様子で言葉を探しているようだったが、電話の向こうでパソコンのキーボードを凄いスピードで叩く音が聞こえた。
『そんな前例はない。それにこの法律は優生な子供を産むことであって──』
『俺も何度もそう思ったし、政略結婚委員会にも行ったけど間違いじゃないって。意味わかんねぇよな』
『相手とは会ったのか』
『久堂清継って知ってるだろ、あの財閥の社長』
『……洒落になんないな』
『だからさ……法律で離婚する方法ねぇのかなって。この書類が来た時点で結婚したことになってんだって。俺が花嫁なんだってさ、笑える』
笑えると言ったもののお互いに少しも笑ってはいなかった。
『……裁判とかでなんとかなる方法があるなら探してくれよ、浩太郎』
『ん、なんとかしてみる。落ち込まなくていい。この法律自体に俺は反対だから』
『さっき帰ってきたとこだし、明日も会社だからちょっと寝て落ち着く』
『いつでも電話してきてくれていいから。焦らなくて落ち着けよ、遥』
『迷惑かけて悪ぃ。また連絡すっから。また近いうちに詳しい話もしたいし、飯でも行こうな、奢るしさ』
そう告げて短い電話を切ると、ドッと疲れが襲って来たように思えて、遥はジャージに着替えることも忘れてそのまま眠りに落ちた。
だが、朝、電話の着信音で叩き起こされ知らない番号に首を傾げながらも電話に出ると、あの聞き慣れざるを得なかった声が響いた。
『……なんで俺の電話番号知ってんだよ』
『ご母堂に聞いた。いいお母様だなぁ、羊羹も美味しいと言ってくれた』
『……やっぱり食べやがった……』
『おはよう、遥』
切断ボタンを押してノロノロとベッドから立ち上がりスーツに着替える。
こんなにいろいろなことがあるのに、仕事時間は迫ってくる。たぶんデスクには仕事が山積みになっているだろう。ここ数日で一生分の溜め息をついたような気がする。
「あら、遥、おはよう~」
「断りもなしに羊羹食って、清継に俺の電話番号教えたろ」
「お菓子の賞味期限って短いし。それにあなた結婚したんでしょう?」
「……男同士って分かってんの⁉」
「まぁ、ちょっと変だけど法律だから仕方ないんじゃないかしら」
「ちょっとで済ませるのか……」
「朝ごはんトーストと目玉焼きでいい?」
「……仕事溜まってるだろうし、早めに出勤するからいい」
朝から脱力しそうな気分だった。母親の呑気さに怒る気にもならない。
(どう考えてもおかしいだろ。男同士だぞ? なんかみんな普通に受け入れ過ぎじゃね!?)
取り敢えず東京駅で買った饅頭を手土産に会社に向かい、休んだ詫びを入れてから自分のデスクに戻る。当然の如く、雑多な仕事が山積みになっていた。
付箋紙に取引先相手からの電話があったから折返し電話が欲しいだとか、会計の承認印が欲しいだとか、次の会議の日程だとか……取り敢えずルーティーンワークでそれを順番にこなしていくしか出来ない。
デスクの上に置いた携帯電話が振動し、遥はそれを普通にとる。
『お世話になっております──』
『うちの花嫁は働き者だな。いい嫁を貰えて幸せだ、俺は』
その電話を二秒で切り、また溜め息をつく。たぶん清継の人の話の聞かなさと強引さはもう痛いほどに分かっている。しかし自分がどう動けばいいのかも分からない。法律というものがある以上、無下にしていいのだろうか、もしかしたらそれが犯罪になるのだろうか、そうなれば社会的に抹殺されたりはしないのだろうかと色々な考えが脳裏を過る。
政略結婚制度なんてものにはもちろん詳しくはない。浩太郎からの連絡を待つしかなかった。それまでは目の前の仕事をこなすだけだ。
会社の皆はまだ知らないが、淡々とキーボードを打っている地味な男があの久堂清継の花嫁なのだ。
(あ……ホテル代払わねぇと)
強引に連れて行かれたホテルだったが借りは作りたくなかった。
昼休みにコンビニで弁当を買い、自分のデスクに座り清継の会社のサイトをネットで探す。有名会社だ、それはすぐに見つかった。ペットボトルのお茶を飲んでから、その電話にダイヤルすると遥の名前を告げただけですぐに別部署に繋がれた。
『久堂の秘書をしております、諸岡と申します。この度はご成婚おめでとうございます』
『えっと……いや、まだ俺はそれ、認めてないんで……』
『戸惑われているのは当然でしょう。それに久堂は多少強引なところが御座いますので。ゆっくりと関係を築かれればよろしいかと存じます』
『と、取り敢えず先日なんか綺麗なホテルの代金を払って貰ったんで、それを返そうと思ったから振込先と代金を教えて貰えれればと思って』
『……久堂が強引にしたことでしょうしお気になさらないで下さい』
『借りを作りたくないんです。それに……離婚、考えてるんで』
電話の向こうの諸岡という男は清継とは違って理性的な雰囲気と、まともな会話が成り立つように思えた。
『メールアドレスをいただけますでしょうか。私の個人的なものですので久堂にはこのことは内密にいたします。これから心労が続かれるようでしたら、個人的にでも相談に乗らせていただきますので』
『……ありがとうございます』
やっと普通の会話が出来る人間に出会えたようで涙が浮かびそうになった。メールアドレスを交換し、何度か礼を言った後に電話を切った。
会社の上司や友人として清継と出会っていたら良かったかもしれない。だが、自分が花嫁として彼の許に嫁いで生活する──しかもセックスをする──という状況がまだ受け入れられない。悪い男ではないのは分かる。嘘をつけないタイプで、真っ直ぐな男だ。だが、遥もまた男だ。
しかし目元に受けたキスや、手を重ねられた時に違和感をまったく感じなかった。
(これがDNAっていうもんなのかよ)
本能が清継を嫌だと言っていなくても、男としての理性が清継を拒んでいる。
二時間ほどの残業を終えて家に戻ると、遥のぶんの夕食が食卓に置かれていた。父親はまだ残業なのか姿はなく、風呂場からは母親が入っているのだろう流行りより少し前の歌声が聞こえていた。
テーブルに座り、箸を持ったと同時にスマホの着信音が響く。
『お疲れさん、遥。新婚旅行先がまだ決まらなくてな』
『……離婚するって言ってんだろ』
『俺はおまえと別れる気はねぇから。この制度とは関係なしに遥のこと気に入っちまった』
『だーかーらー、なぁ、男同士ってこと分かってんの!?』
『分かってるよ、もちろん。男が男を好きになることになんか問題あんの?』
『……俺は……』
『また電話するよ、おやすみ、遥』
そしてあっさりと電話は切られる。
人を振り回す男というより、これはジャイアントスイングだ。
子会社を含めれば数百人のトップに立つ男だ。強引というレベルでは済まされないだろうし、それでなければ仕事を進めていけないだろう。そういう点では尊敬も出来る。
冷えたハンバーグをレンジで温めてから、それを口に運ぶ。
清継はカツ丼さえ食べたことがなかったようだった。
(そんなの絶対無理じゃん……なに考えてんだ、あの男……)
「けど、まず国の政略結婚制度な! 有り得ない! もし俺に恋人がいたら……いや、いねぇけど、そういう個人の意思を尊重しないってのおかしくね⁉」
思わず口に出して叫んでしまったのと同時に、今度はメールの着信音が鳴った。昼間にメアドを交換した清継の秘書だという諸岡からだった。
丁寧な挨拶から始まり、このメールは清継には伝えてないという言葉もあった。そしてあのホテルの請求金額はほぼ十万円に近かった。
「……無理」
その言葉しか出なかった。
取り敢えず目の前にあるハンバーグとごはんと味噌汁を胃に収めて、まだ母親の呑気な歌声が聞こえる風呂場の横を通り過ぎて二階の自室へ遥は向かった。
(7)清継④
「昨夜は十秒は喋れたぞ」
「ガチャ切りされなかったんですね、おめでとうございます」
そんな会話が清継と諸岡の間では朝の常になっていた。前日に決済の終えた書類をまとめ、新しい書類の束を清継の前に置きながら諸岡が切り出した。
「それで、副社長が役員会でおそらく切り出すだろう内容……遥様がしきりに気になさっている点でもあるんですが、離婚の件、お話してもよろしいでしょうか」
「ああ、なにか分かったか」
「法律上は、離婚について通常の手段と変わらないとされています。個人の意思が反映されない結婚ですからね、離婚も可能だという見解です。ただ、数年前ですが、離婚調停を起こした政略結婚カップルがいます」
「ほう」
「結局は、離婚に至らずに和解し、結婚生活を続けたようなんですが、これがおそらく鍵になるかと……」
「どんな調停内容だったんだ」
「まずは、このカップルは、夫側の浮気疑惑から半年の別居生活を送りました。そこから調停を妻側が起こし、一年かかって調停を終えています。ですので、これを基準として、離婚には半年以上の別居と一年以上の調停が必要になるのでは、と推測されます」
「なんだそれは。痴話喧嘩レベルで離婚できてしまうじゃないか」
「しかし、合計で最低でも一年半の別居状態が必要とも言えます」
「なるほどな……今のまま遥が渋り、叔父上が何を言おうとも、一年半は婚姻が維持できるというわけか」
「そうなりますね。しかも、今の所、清継様には離婚の意志は」
「全く無い」
「というわけで、早く遥様を説得なされば、何ら問題はないかと」
「よく分かった。しかしそうこういう内にも時間はすぎるな」
パソコン上で電子決済印を次々と押していた清継がふと顔を上げた。
「これはセクハラだと思わないでほしいんだが……」
「はい、何でしょうか」
「つまるところ、俺は男同士がよくわからん。遥は好きだが、男に欲情したことも、面と向かってされたこともない。実際のところ、その辺りはどうなんだ。その手の動画も参考にしたがさっぱりわからん」
「……真正面から来ましたね、流石です社長。本当ならばセクハラ案件で訴えたい所ですが……」
「本気で知りたいんだ」
「でしょうね。──どうしますか。とりあえず、雰囲気を体感してみるのが、一番かもしれませんね」
そう言うと諸岡は自身の胸の辺りを指先でトントンと叩いた。
「今夜ご案内しますよ、新宿二丁目へ」
夜も更け、新宿二丁目界隈は活気に満ち溢れていた。道を行くカップルの半数以上は男性同士で、中には女性同士とも、一見男女に見える組み合わせもチラホラとあった。数人ずつで固まって話し込んでいるグループもあれば、一人で店へと気軽に入店する男性の姿も。
『最低でもジャケットを脱いでタイを解いておいて下さいね』と言われていた意味を、清継は改めて理解した。ここでは皆格好も自由で、派手だ。
そして、横に立つ男の変身ぶりに、清継は舌を巻いた。諸岡はいつもきっちりと分けている髪を一旦崩してオールバックになでつけて、メガネを外しコンタクトへ変えていた。細身のジーンズに体のラインも顕なシャツに、カジュアルなジャケットを羽織る。社屋で見るのとは全く違う男がその場にいた。これでは街ですれ違っても諸岡だとは清継にも分からない筈だった。
「私の行きつけの店へ行きましょう。ノンケの男も、男性同伴であれば女性も入店可能なカジュアルな店ですから」
「よくわからんが、俺も入れる店とそうじゃない店があるんだな」
「そうです。けど、なかなか刺激的だと思いますよ」
連れて行かれた店はビルの二階で、入り口からは想像できなかったが広いパブのようなスペースだった。立呑用の狭いテーブルがいくつもに長いカウンター。店は混んでおり、客の大半は諸岡が言うように男性で、猥雑な雰囲気とそこここから上がる男性ばかりの笑い声や話し声に、清継は物珍しそうに目を見開いた。
「こっちです」
慣れた様子で店の奥へ進むと、ビールを2つほど頼み、諸岡がすぐに戻ってくる。グラスに口をつけると流石の清継も緊張していたのか、ビールが体に染み渡った。
「一番奥に、若い子らの集団がいるでしょう? 売り専の子らの待機場所にもなってるんですよ、大きな声では言えませんけどね」
「売り専……?」
「──男性を相手に体を売る、そういう仕事です」
「いきなりかなりヘヴィな場所に連れてきたな」
「その方が、直接的な方がお好きでしょう?」
「まあな。……あの、一番端の子なんかは、可愛いとは思うな」
「ああ、雰囲気が遥さんに似ているかもしれませんね」
遥よりは数歳は若いだろう男が元気よく店内で飛び跳ねて周囲を笑わせていた。側にいる男の肩に手を回し、ふざけている様子だ。諸岡が、周囲から声をかけられるのを断って、清継のすぐ横へ並んだ。
「どうですか? あの子を抱きたいと思いますか?」
清継はもう一度その若い男性を見た。それから、そばにいるいつもとは違う雰囲気を持つ諸岡も。男性の肉体、好みの顔、好ましい言動。喧騒の中でしばし考えた後で、清継は首を振った。
「いや、違うな。抱きたくはならない。けど、遥なら抱きたい」
「そうですか」
「ああ、遥だからだ。……あいつなら抱ける。すぐにでもこの腕に抱いてキスしたい」
「それが答えですよ。好きになる相手に男女の違いなんてありません。社長は……清継様は清継様の思うように遥さんを愛してあげれば良いんだと思いますよ」
諸岡に背を軽く押されて、店を後にする。
「少し私は遊んで帰りますが……そのご様子では社長はお帰りですか?」
「ああ、一刻も早く遥の声が聞きたい」
「一言も聞けずに電話を切られるかもですよ」
「それでも良いさ」
大きな通りで清継は車を呼んで、二人は別れた。
清継は楽しかった。こんなにも粘り強く相手へ執着したことはなかったし、粘り強く拒否られることも今までになかった。清継が度を外れた情熱家なのも幸いした。
実際、声が聞ければそれだけで嬉しい。反論してくる言葉が長くなれば、次第に会話めいたものも生まれる。
電話を始めてそろそろ一ヶ月。清継は車の中から遥へ電話をかけた。
「今晩は、俺の花嫁」
「……あんた、本当に諦めないな。今夜は何だよもう」
珍しく反論してくる声が弱かった。遥の声の強弱で体調や様子が分かるほどには連日声をかけまくっている清継だ。電話の向こうで浅く溜息をつく遥に少し待ってから言葉を続けた。
「どうした? 仕事で何かあったか」
「別にあんたに話すようなことじゃ……ちょっとな、俺の入力ミスで書類が間に合わなかったんだ。皆に、迷惑かけちまった……」
「そうか。大変だったんだな」
「──あんたなら、そういう凡ミスなんてしないんだろうな」
「いまはもう、な。ただ、失敗ならたくさんしてきた。社長になる前も後も。だから今はもう、周りの助けもあって『しない』と言い切れる」
「……格好良いよな、あんた」
遥がそんな事を言う。よっぽど落ち込んでいるようだった。本当は冗談の一つでも言って元気づけてやりたかったが、どうにもそういう気分に清継もなれなかった。らしくないと自分でも思う。けれど、好きな相手が電話の向こうで苦しんでいる。そう思うと、胸の辺りが苦しくなるのは本当だった。
「……けど、頑張って挽回して帰ってきたんだろう? お疲れさん」
「まあ、な。……変だよな。あんたとこんな話。忘れてくれよ」
「変じゃないだろ」
「いや、変だろう。俺とあんたは何にも関係……」
『ない』はひどく小さく聞こえた。遥が戸惑っている気配が伝わってくる。強くいつものように言い返せない自分が妙だと気づいたのだろう。清継は小さく声もなく笑った。こんな小さな遥の変化が嬉しかった。
「関係なくはない、よな?」
「か、関係ねーよ。馬鹿! 阿呆!」
「語彙が少ないな、照れてんのか」
「照れてねーし。何だよもう、変な、雰囲気になったじゃねぇか」
『けど』と声が続く。遥が息を飲んで、呼吸を整えるのが分かる。その囁くような声が、清継の耳をくすぐった。
「けど、助かったわ。ちょい落ち込んでたし? 助かった」
「そりゃ良かった。……おやすみ、遥。良い夢を」
「ん、……おやすみ」
静かに通話は途切れた。暗くなった画面を、暫く清継は眺めていた。たった数分の電話。数言のやり取り。けれど今の会話にはお互いに気持ちがあった。そういう気がしてならなかった。
「押せ押せの俺らしくないけどな」
独りごちる。しかし今夜は本当に良い夢が見れそうだった。
(8)遥④
少し清継に弱音を吐いてしまったことに後悔しながらも、笑い飛ばされるではなく親身に聞いてくれたことがどこか嬉しかった。清継は嘘をついたり、人を騙したりするような人間でないだろうことが分かる。
会社に大きな損害を与えるようなミスではなかったが、いろんな人に迷惑を掛けた。
清継は自分も完璧ではないと言い、いまは凡ミスを犯さないと言い放つ強さがあった。それが清継の持つ──百人単位の社員の仕事や生活を担う力なのだろう。
その忙しい合間に遥に電話をし、何度こちらが勝手に電話を切っても怒りもしない。DNAと国が勝手に決めた結婚でも、怒ってもいいはずの対応しか遥はしてこなかった。
──あいつに抱かれたら、どうなるんだろ。
ふとそんな思いが脳裏を過る。
慌てて首を振ってその思いを消そうとしたときに、タイミング良くスマホのメールの着信音が鳴った。
『政略結婚の離婚調停の前例がなかった訳じゃないみたいだ。詳しい話をするから今度会えるか?』
幼馴染の浩太郎からのメールだった。すぐに週末の夜なら会えると返信をしてホッと息をつく。
清継や制度に対しての恐怖は薄れてきていたが、次に感じたのは清継の大きな波に飲まれるような身体の奥から感じる欲望や渇望にも似た感情だった。恐怖ではないが、怖い。その波に飲み込まれそうになる。
「ねーし! 男に抱かれるとかねぇから! 浩太郎も言ってたけど頭のいいガキを産む政策なんだろ? どれだけDNAレベルで相性良くても子供なんて産めねぇしさ」
クッションを胸元に抱えてジタバタと床を転げ回る。清継は抱く方でも抱かれる方でもどちらでもいいと笑って言っていたが、体格的にも精神的にも抱かれるのは遥のほうだ。
「あー、無理、マジ無理。なんで俺なんだよ、俺のDNAなんかおかしくね? 実は女でしたーみたいなオチがあるとかねぇの!?」
清継との電話で少し癒やされたのは認めざるを得なかったが、それとこれとは話が別だ。
──家庭内別居とかセックスレスの夫婦とかあるよな。
そこまで考えてから、清継にそんなことは有り得ないだろうと思う。ワンマン社長と言われるタイプだろうが、知らないことは知らないと言え、嘘はつかず、豪快で自由奔放だが気遣いも……出来る……かもしれない。
「ぬああああああ!!!!」
ゴロンゴロンとのたうち回る遥に階下から母親の声が響いた。
「いい年してなにしてるの。お父さんが帰って来たからお茶にしましょ」
「いいよ、さっき飯食ったし」
「あらー、清継さんから美味しいお饅頭いただいたのよ。本当に気のきく人よねぇ」
「ちょっ、開けたのかよ!」
階段を駆け下りてテーブルを見つめると、上品な和菓子とお茶がすでに用意されていた。なんとなく分かる。これを送れと言いつけたのは清継だろうが、それを用意したのは秘書の諸岡だろう。まさに逆・兵糧攻めだ。
「あー、遥。おまえ結婚したんだってな」
饅頭を口にしながら普段は無口な父親がぼそりと呟く。
「し、してねぇし! いや、してるけども合意じゃねーから! つか、親父もおかしいと思うだろ? 男同士だぞ? 孫の顔とか見たくね? 男同士じゃ無理だから!」
「この饅頭美味いな。まぁ、法律なんだから仕方ないだろ。いま恋人とかいるのか、おまえ」
「いねーけど!」
「なら、問題ないだろ。またこの饅頭買ってきてくれ」
どうして皆こんな異常事態を受け入れられるのだろうか。一人息子が強制的に結婚させられようとしている上に、それが男なのだ。饅頭を食べている場合じゃないだろうと言い掛けて、たぶん自分の期待している答えが返ってくるとは思えずに遥は椅子に座った。
ほんのりとした甘さの餡と、しっとりとした皮の饅頭は確かに美味かった。会ったことはないが絶対に諸岡のセンスだと断言出来る。清継ならフレンチのシェフを家に寄越すような人間だ。
もうどうでもいいとばかりに饅頭を食い散らかしながら、早く浩太郎に会いたいと思う。
頭の良さの違いで大学は離れてしまったが、それまでは毎日ほど一緒に過ごしていた親友だ。より親身に今回の話を聞いて心配してくれる唯一の男だと思って間違いない。
湯呑の緑茶を飲みきってから、風呂に入ってくるわと遥は席を立つ。
明日は土曜日で、浩太郎といつも行く居酒屋で話をする予定だった。すぐに解決策は見つからなくとも、愚痴程度は聞いて貰えるだろう。お互いに何かと忙しかったせいか会うのも久しぶりだった。
「弁護士になる直前ぐらいの浩太郎のほうが選ばれるべきじゃねぇの。イケメンだし、身長は高いし、スポーツも出来るし。なんで俺なんだっつーの」
安っぽいジャージを脱いで、ろくに足も伸ばせない風呂に身を沈める。あのホテルのような窓から豪奢な庭が見える訳でもない家の風呂が落ち着く。母親が好きな安い入浴剤の匂い、安売りのシャンプーとコンディショナー。父親の脱毛防止の匂いのきついシャンプー。
一泊十万円のホテルなど、遥の家では想像も出来ない代物だったのだ。
浩太郎との待ち合わせは地元のいつもの安い居酒屋だった。
夜八時の待ち合わせだったが、少し先に着いた遥は狭いテーブル席に座りビール片手に枝豆を齧っていた。相手を待つだとか、乾杯をするだとか、もう二十年ほども一緒に過ごした幼馴染なのだから遠慮などない。
中ジョッキのビールを半分ほど飲んだところで店の引き戸が開かれ、浩太郎が姿を現した。
テーブルに座る遥の姿を見つけると、少し時間が遅れたことに『すまん』と一言詫びてからその前の席に座り、浩太郎もまた生ビールを注文する。
高い上背と引き締まった体躯。スーツ姿が板についていて、インテリという雰囲気を醸し出している。スポーツをさせても平均以上、顔ももちろんそれに見合っていて、バレンタインデーには両手に持てないぐらいのチョコレートを抱えていた。
「電話を貰ってからいろいろ案件を調べてみたんだが、一件だけ離婚調停までいった夫婦があったらしい。だから、それを進めれば遥の事案も無理じゃない」
「そうなのか……?」
「政略結婚ということ自体が人権を無視してる。俺はそういうのは嫌だ。同性愛者の婚姻は認めるべきだとは思うが、本人の意思がない強制的な結婚の法律などあるべきじゃない」
「だよなー! そうだよなー! うちの親とか普通に法律だから仕方ないとか言うし」
「それで、どんな男なんだ、実際の久堂清継って男は」
一瞬、遥が言葉を詰まらせた間にビールが届けられ、遥もまたジョッキのビールを飲み干してから二杯目を注文する。
「浩太郎、飯は食ったのか。俺もまだ枝豆だけしか食ってないし──」
「なにかされたか」
「いや、別に家にガンガン贈り物が届けられて、結婚式だの新婚旅行だのって電話が……ある、かな。でも清継の秘書の諸岡さんって人が、会ったことはねぇんだけどわりとちゃんと話が出来る人で……」
「……相変わらず押しに弱いな、遥は。文句も人一倍言うけど、押されると弱い」
「そ、そんなことねぇし」
「もし政略結婚の相手が俺だったらどうするんだよ」
「浩太郎が俺の夫? 嫁? どっちでもいいな。兄弟みたいなもんだろ」
テーブルに届けられた二杯目のビールを飲みながら遥は笑う。いつもの日常が戻ってきたようで嬉しかった。心配事もすべて浩太郎になら打ち明けられる。テーブルの脇にあるメニューを開いてどれを食べようかと迷う遥の姿を見つめながら、少し浩太郎は苦々しい表情でビールを口にしていた。
「とにかく、離婚調停に詳しい先輩の弁護士に話をしてみる。政略結婚制度自体が珍しいことだし手間は掛かるかもしれないけど、遥が離婚を望んでるんだろ?」
「……ん。なんかこういうの違うだろって思ってる」
「あの書類が届いたことで、もう結婚してるっていうことになってる」
「そうらしい。でもおかしくね? デキのいいガキを作るための制度だろ? いくらDNAの相性が良くても男同士で子供なんかできねぇし。しかも俺だよ、俺。なーんにも取り柄もないし、財産もないし、国の選択の間違いとしか思えないっつーの」
まだなにもされていないだろう雰囲気の遥の言葉に浩太郎は安堵の吐息を洩らすしかなかった。そのなにもない男にここ十数年片思いをしているとは言えない。
遥は幼い頃から根本的なところはなにも変わっていない。無邪気で、無防備で、正直。本人は地味だというが整った顔立ちをしていて、目尻の黒子が妙に色っぽい。なぜか目を離せない存在になってしまう。どこか危なっかしくて愛おしい子犬のような男だった。
──抱いてみたい。
浩太郎がそう思い続けて十年以上は過ぎていた。なのになぜ、たった数枚の紙切れで恋心も伝えられないまま終わってしまうかもしれないのだろう。
「刺身盛り合わせ。ウニ追加で」
「え。マジ? ちょっと待って現金そんな持ってねぇんだけど。ま、でも浩太郎には世話になるだろうしいっか……ここ、カード使えたっけかな」
「あと、吟醸酒。一番高いのいくらだっけ」
「な、なんなんだよ、待てって。なんか怒ってる?」
「怒ってるよ」
「俺が変な相談してるから……?」
「いや……この政略結婚制度に」
小さなテーブルには乗り切れないほどの酒や料理を頼み、二人でやけくそのようになってそれを食べ尽くす。
酔った勢いもあって遥は清継と過ごした二日間の愚痴を零す。初めて会った日に目尻にキスをされたこと、高級ホテルに連れて行かれたこと、カツ丼も食べたようなことのない金持ちであること。
浩太郎は黙ってそれを聞いていたが、いつもよりも酒を飲むペースが早かった。
(9)清継⑤
「なあ、諸岡」
「はい、なんでしょう」
「俺と遥は結婚してるんだよなぁ……?」
「はい、そう伺っておりますが」
「それが何故かもう一ヶ月も顔を見ていない。可愛い声は毎日聞いているが」
「そう、でしょうね。遥様はまだこの結婚に異議を唱えられておりますから。離婚も視野に入れておられるとか」
「どうしてだ。俺に何が足りないんだ。金も権力も、体も顔も何一つ欠けていないはずだ。……一回、直に会って話し合わないとってやつかな」
「そうかもしれませんね。DNAレベルで相性が良いとはいえ、以前申し上げましたようにコミニュケーションは必須かと」
「そうだな、じゃあ次の休みにデートにでも誘うか」
「それはそうと、早くこの書類の山を片付けて下さいね」
「分かってる分かってる」
この一ヶ月で、清継はいわゆる庶民の暮らしというものを沢山学んでいた。食事、休日の過ごし方、仕事の仕方。諸岡や遥の母に話を聞いたり、自分で体験したりもしてみた。そして分かったのが、遥の言う清継と遥の日常の差だ。あまりにも違う。
それを学んで差を埋めようとする情熱と遥への思いが清継にはあった。そして、今度のデートも極力遥に合わせるべく、計画を立てようとしていた。
「遥ー。電話よー」
「何、誰から?」
風呂上がりに母親が受話器を遥に差し出した。明日は日曜だ。のんびりと長風呂を楽しんできたところだった。母親はふふっと笑うと頷く。
「清継さん」
「切れよ! あいつと話す事なんて無いって」
「ご用事があるからかけてこられたんでしょ。ほらほら良いから、出て出て」
「はあ。出るだけだからな。──もしもし?」
一呼吸おいて、独特の低い声が遥の耳に届いた。
(くそ、良い声してんだよなーこれがまた……)
『よお、遥。ご母堂は元気そうだな。遥も一日元気だったか?』
『何だよ。こっちにかけてくんなよもう。今朝も電話したばかりだろ』
『スマホにかけるとすぐ切るからな、お前は。こっちなら母上の手前早々切れないだろう』
『……変な所で知恵が回るやつだな。で? 用事って?』
『明日、デートしないか』
『切るぞ』
『待て、切るな。冗談じゃない、本気だ。結婚して一ヶ月、そろそろ向き合ってくれても良いんじゃないか』
『それは……り、離婚する予定だからな俺は。別居だ別居』
『ほんの少しも俺に猶予はないのか? 俺に話したいことも? このまま会うこともなく?』
『それは……』
珍しく電話の向こうで迷う声が上がった。沈黙がそのまま遥の迷いなのだろうことは想像がついた。もうひと押しだと清継は電話の向こうへと優しく話しかける。
『俺は遥に会いたい。直に会って声が聞きたい。一回で良い、デートしてくれないか』
『そんな、あんた急に真剣に……』
『いつだって俺は真剣だったぜ。お願いだ、デートしてくれ』
返答には、相当の時間がかかった。何度も息を呑む気配が耳に当てたスマホから聞こえる。答えは相当小さく、そしていきなりだった。
『一回、なら』
『ん?』
『一回なら、良いって言ったんだよ!』
二度目はいつもの怒鳴りつける声だった。そこに照れともなんとも言えない声音が混じっていたような気がするのは清継の気のせいだろうか。清継は笑った。心の底からその返答が嬉しかった。
『ありがとう遥。じゃあ、明日の十時に迎えに行く』
『お、おう。あ、あのでかい車で来るなよ!』
『分かってる』
『おやすみ』と電話を切って、清継は緩む顔を抑えることが出来なかった。
(どうしてこうも、遥のことになると俺はこう、自分を制御できないんだ?)
そう思いつつも嬉しくてたまらない。明日のデートには自分で車を運転していこう。助手席には遥を載せて。楽しいデートになるはずだと、暗くなったスマホの画面を見つめた。
レンタルした白の軽自動車で遥の家の前に乗り付けると、遥はぽかんとした顔をしていた。遥はいつもどおりのジーンズに厚手のパーカー姿。その前に降り立った清継もスーツやオーダーメイドの服などではなく、チノパンにセーター、ジャケットというシンプルな出で立ちだった。
「なんだよあんた、そんな普通の格好して」
「勉強した」
腕を広げて、遥の前で披露してみせる。
「わざわざ?」
「この俺がわざわざだ。お前と一緒にいて、恥をかかせたくない。どうだ、並んで歩いてもおかしくはないだろう?」
「おかしくは、ねぇよ」
そっぽを向いて遥が言った。ちらりと清継を見ると『似合ってる』と付け加えてくれる。それだけで満足だった。遥の母の『いってらっしゃい』という声に見送られて二人は車に乗りこんだ。
「さあ、デートだ。臨海公園あたりか、水族館に行こうと思うんだが……遥はどっちが良い?」
「……水族館が良い」
「そう言うと思ってた」
「何だよ、ガキくさいか?」
「いや、俺も行くのは初めてだ。だから遥と行くのが楽しみだ」
「そうかよ」
会話をしつつも遥が戸惑っているのが分かる。清継にしても、すぐ横に、手の届く距離に遥がいてこうして会話しているというのが不思議だった。声だけ、しかも毎日数秒しか会話出来なかったが、その積み重ねがあったせいだろうか。きちんと会って話すのは二度めだとはとても思えなかった。
車はスムーズに水族館までの道のりを行く。間に、遥がペンギンが沢山見れるらしいだのイルカのショーがあるらしいだのとスマホで調べているのが微笑ましかった。
水族館は親子連れやカップルで賑わっていた。
駐車スペースに車を停めている間にも、遥が目を輝かせているのが分かる。じっと見つめると照れくさそうに言い訳をした。
「大人になって、仕事を始めてからさ。こういう場所って滅多に来なかったなぁって思って、だから……」
「気にするな。俺なんて初めてだ。さっぱりわからんからガイドを頼むわ」
「おう」
そこから、入館料はどっちが払うかで揉めたり、入り口で手を繋ごうとする清継を遥が押しのけたりと小さな揉め事はあったが二人は水族館を楽しんだ。イルカのショーでは水を被って笑う遥の楽しそうな表情に、清継は癒やされたりももした。
水族館の目玉は下を透明なトンネルで潜る、巨大なペンギンの水槽だった。トンネルに入り、上を見上げると、水の中を泳ぐペンギンたちの群れが優雅に空を飛ぶように見える。二人してトンネルの真ん中に立つと、無数のペンギン達に囲まれて、まるで海中を散歩しているかのように思えた。
「すげぇ……」
「ああ、凄いな」
遥につられて清継も呟く。こんなに綺麗なものを見たのはどれだけぶりだろうか。横を向くと、遥の瞳に水槽と照明の光が跳ね返ってキラキラと揺らめいていた。キスしたいと強く思った。だからそうした。
「なあ、清継……!」
遥の指先を握り自分の方へと少し引き寄せる。よろめいた遥はそのまま腕の中に倒れ込んできたので、顎先を持ち上げて、自身は首を傾けて唇を唇へと押し当てた。軽く、かすめるようなキスだ。
『え?』と目を瞬かせる遥と、周囲の客が少ないのを良いことに、もう一度引き寄せて今度は触れるだけのキスを少し長めにした。ぞくりとした快感がお互いの間を駆け抜けたような気がした。
「……──っ、清継!」
我に返った遥が顔を真っ赤にして、清継の胸板を叩こうとする。しかし、その腕が届く前に一瞬早く清継は一歩下がって、降参だというように両手を軽く上げてみせた。
「悪い。もうしない」
「おま、いきなり……っ、何するんだよ!」
「遥が可愛かったから、ついな。良いのか、周りの人間が見てるぞ」
「くそ……っ油断した」
顔を赤くしたまま、遥が小さく呟いて唇を拭う。けれど、口調や、俯いた首筋や耳まで染めたその様子を見ていると、遥も心底嫌がっていたのではないのではないかと清継は思う。
『半径一メートル以内に寄るなよ』などと子供っぽいことを言う遥の背後を追って、館内を再び二人で巡る。すぐに帰ったりはしない遥に感謝をしながら、清継も残りのデートを楽しんだ。
結局二人で館内の安いレストランで食事を取り、臨海公園まで巡って遥の家まで帰ることとなった。離婚や別れるという言葉は遥からは一度も出なかった。それが不思議でもあったが、一回きりの『デート』だというのをきちんと遂行してくれているのかもと思うと嬉しくもあった。
家の前に車を停める。『じゃあ』と車の扉に手をかけた遥がなかなかその場を動かない。清継の目の前で暫く迷った様子を見せると、いきなりパーカーのポケットへと手を入れて、何かを掴み、清継へと差し出してきた。
「これ」
「なん、だ?」
いきなりのことに清継も驚いていた。目の前に提げられたのは、ペンギンの小さなぬいぐるみが付いたキーホルダーだ。ほわほわとしたそれが、二人の間で揺れていた。遥は目線を逸しつつ、早口で言い募る。
「今日の、礼つか。その……楽しかったし。沢山、色々見て。……深い、意味はねぇからな!」
清継は目を見開いた。まさか、遥が自分へプレゼントを考えてくれているとは思いもしなかった。じわりと温かな感情が胸のうちに広がる。下を向いていた遥が動かない清継に焦れて、顔を上げる。目の縁がほんのりと赤かった。
「ほら、早く受け取れって……」
「……ありがとな」
言葉と行動は一緒に出た。腕を伸ばすと、片手でキーホルダーを受け取り、もう片腕で遥の頭を引き寄せる。ぐっと腕を寄せると自然に前傾姿勢になった遥の唇を、掬い取るように深く口づけていた。
「んっ……!」
驚いている遥の口元が緩んだのを良いことに、そのまま深く舌を捩じ込む。奥へと逃げる舌を追って絡め取ると、吸い上げて肉厚の舌を絡ませた。背筋がビリビリするような、先程の軽いキスでも感じた快感がもっと強く清継を苛む。もっともっとと体が欲しているようだった。
「っんぁ……待て、って……清、継……」
「待てない。……お前、何だこの可愛さは……っ!」
「……何怒って……んんっ……しつこ、い! 待て! ステイ!」
キスの合間にも真っ赤になった遥が清継を押しのけようとする。清継も離すまいとして、キーホルダーを握った方の手をぎゅっと握りしめていた。
キスは全力で遥が抗がってきた瞬間に終わった。扉へびたっと遥が張り付く。清継の手にはキーホルダーが残った。ふたりとも、車内で息も荒くお互いを見つめる。先に口を開いたのは遥だった。
「っていうことで、帰る、から」
「お、おう。また連絡する」
「だから、連絡はいらねー……」
「連絡はする。絶対にだ」
再度遥の手を掴み真剣に見つめると、遥は黙って否定とも肯定とも取れない風にただ横を向いた。
「……あんま、しつこくはかけてくんなよ。電話には、出るから」
「ああ、分かった」
その答えを聞いて、清次は手を離す。すぐに手を引っ込めた遥だったがそれ以上の罵詈雑言は振っては来なかった。車を降りて、『じゃあ』と玄関へと向かう遥を見送って、清継は微笑む。やはり自分の感覚は間違っていなかった。今度またデートに誘うおうと性懲りもなく次の手を考えながら車を発進させた。
(10)遥⑤
──キス、した。
水族館のデートは楽しかった。高級なスーツ姿じゃなく、敢えて量販店で買ったようなカジュアルな服装も似合っていた。なによりもあのしっかりした体躯で小さなレンタカーの軽自動車を乗っていたことに少し笑いそうにもなった。
その行動だけで遥のことを本気で想っていてくれていることが分かる。
たかが数百円のペンギンのキーホルダーに驚いた表情を浮かべ、いきなりキスをされた。本来ならば怒鳴り散らすべきなのに、背骨から震えるような快楽の感覚が走ったのは事実だ。
(ち、違ぇし……雰囲気に流されたっつーか……)
だが清継とのくちづけを思い出すだけで身体がゾクゾクとする。もっと強く押し切られたら断りきれなかったかもしれない。DNAで繋がり合うというのはこういうことなのだろうか。もしもう一度抱き締められたら──。
そう思った時にスマホの着信音が鳴り響いた。
なぜかそれが清継だと嬉しいと瞬間的に思ってしまったが、画面に記された名前は浩太郎だった。しかしどこか安心しながら着信ボタンを押す。
『この間はありがとな、浩太郎。えーっと、なんか分かった?』
『いろいろ知り合いの弁護士に聞いてみたんだけどやっぱり初めての案件だから、なかなか難しいっぽい』
『……だよな。ごめん、プロに頼むのに友達感覚で言っちゃって』
『俺がやりたいからいいんだ。今度また酒でも奢ってくれ』
『オッケー……』
『なんか元気ないな。なにかあったのか?』
『い、いや、なんにもない! どうしてこんなことになったんだろうなって』
さすがに清継とデートしたとは言えなかった。しかも楽しかった。抱き締められてキスをして感じたとは言えない。
『こんな結婚、俺が絶対認めないから。どんなことをしてでも離婚に持っていく』
『……浩太郎……ありがとな。つか、浩太郎こそ弁護士の資格取ったら可愛い彼女見つけて結婚しろな。俺が司会でもなんでもやるからさ!』
『ん。いい相手がいれば、な』
『浩太郎なら選び放題だって、イケメンのエリート弁護士予備軍だろ』
『肩書だけで着いてくるような人間は嫌だな』
『ったく、融通きかない男よな、おまえって』
それから他愛もない昔話やらを交わして電話を切る。
どこか浩太郎を騙しているような気持ちになってしまう。いまでも男同士の勝手に国が決めた婚姻を認める訳にはいかないが、真っ直ぐに嘘のない感情をぶつけてくる清継に嫌悪感は抱けなかった。
逞しい腕に抱かれ、熱い唇を重ね合わせるくちづけ。
理性でそれを拒もうとしたけれど、溺れてしまいたい自分もいた。
ギュッと下肢の中心が熱を帯びる。こんな感覚は初めてだった。もちろん性的欲求を女性に感じたことは何度もあるが、それとはまた違う。本能的に引き寄せられるようだった。
無意識にジーンズを太股辺りまでずらし、熱を持ち始めた勃起を慰めようとした瞬間に再び電話の着信音が響き、慌てて着衣を整えて画面を見つめる。
──あいつ、俺の部屋に隠しカメラでも付けてんのかよ。
あながち冗談にもならないようなことを思いながら、清継からの電話を取った。
『今日は楽しかったな、遥。ペンギン可愛いな』
『……あの水族館の名物キャラだし……』
『元気ないな、疲れさせたか?』
『……別に』
『でも俺はおまえと別れるつもりはない。国が決めようとなんだろうと、遥とどこかで出会ってたら俺はきっとおまえを好きになってた』
『その自信はどっからくるんだよ。俺の意思は!?』
『ははっ、俺と遥はお似合いの夫婦だと思わないか? 国が斡旋した見合い結婚だと思えばいいだろ』
『男同士じゃなきゃ玉の輿だろうよ。清継が守ってる会社の跡取り問題とかちゃんと考えてんのか?』
『あー、そっかそっか。そういう心配はいらねぇよ』
『はっ!? うちみたいな庶民でも孫の顔見たいとか……言ってねぇけど……なんかそういうのあるだろ!』
『新居の土地も買ったし、そろそろ工事に入る。結婚式は申し訳ないが仕事関係の人間も呼ばなくちゃいけないんで……招待状の手配もあるから遥のほうも友人知人、親類の一覧を送ってくれ』
『ちょっ、離婚するって言ったろ! 話を聞け!』
『あ、インター降りるからまた連絡する。愛してるよ、遥』
少しでも清継にときめいてしまった自分に後悔を覚えてしまう。オリンピックに出るような野球選手が小学生相手に全力でピッチングしてくるようなものだ。どうすれば勝てるのか想像もつかない。
結婚式の式場でも満面の笑みを清継は浮かべるだろう。男同士でなにが悪いと言わんばかりに。あの圧倒的な威圧感で周りがぽかんとしてる中、遥を連れて結婚式に乗り込む清継の姿がありありと脳裏に浮かんでしまう。
(……やっぱないわー……俺、そこで平気な顔してられる自信ない……)
キスを受け入れてしまったのは、清継の心遣いや水族館の楽しいデートのせいだったのかもしれない。実質は結婚している相手だが、これが初めての──。
(キスしたんだよなぁ……感じてない。勢いに流されただけだからっ! 家とか結婚式とかやる前にとにかく離婚だ、離婚!)
どこか野性味のある香水の匂い。脱ぎ捨てたパーカーに清継の香りが残っていた。
また下肢がジリジリと熱くなりそうで、ベッドの中で『明日いつもの居酒屋で会えない?』と浩太郎にメールを送る。すぐに『了解』と短い返事が来た。どこか現実に引き戻されたようで安心感が得られる。
楽しかったのは事実だ。くちづけも蕩けるような快感があった。だが、まだ受け入れられない。清継のあの強い押しに負けているだけなのだと思いながら、遥はそのまま眠りに落ちた。
いつもの安い居酒屋で、いつものビールや日本酒、つまみをつつきながら浩太郎と話す時間はリラックスできた。もうかれこれ二十年近い付き合いのある幼馴染だ。無言の時間も、お互いの愚痴も、下らない話も、昔話も、まるで空気のようにお互いの間で交わされる。
「この間言ってた離婚の案件は、男性俳優の浮気が原因らしかった。それで揉めて離婚調停までいったけど結局はいまでも仲良くやってるっていう」
「離婚調停まではちゃんと持っていけるんだ?」
「ああ、だから望みが無いわけじゃない。ましてや男性同士だ。遥が無理だと強く主張すれば……いや、男性同士がという訳じゃなく、久堂とは無理だと言えばいい」
「あ、うん。だよな。やっぱ、あの人って大企業の社長のオーラみたいなのが凄くてさ、勢いに押されるんだよな。この間も──」
「この間も?」
「……いや、電話、とか……」
さすがに水族館デートをしたとは言えなかった。ましてやキスをしたとも言えない。
訝しげな視線を向けている浩太郎の視線から逃げるように少し俯いて遥はビールを口にした。
「遥は男同士ってことに拒否感はないのか」
「それは、まあ、人それぞれだしいいんじゃねぇのって感じ……かな。今回のはいきなり結婚しましたよーって紙切れで人生決められた感じが嫌なだけで」
「俺もそう思う。それが例えどんな美女でも戸惑うよな」
「せめて美女なら考える余地もあったんだけどな」
「考える余地があるなら男でもありだったのか?」
そう浩太郎に言われてふとあのくちづけを思い出してしまう。ない、とは言い切れない。もし普通に出会って、あんなふうにデートを繰り返していたら素直に清継を受け入れてしまったかもしれないと思う自分もいた。
「……あり、かもしれない。恋愛って考えるとかじゃなくて、いつの間にかっつーか……どんな美女でも美男でも、なんつか、相性みたいのあるじゃん」
「俺もそう思う。婚姻は愛し合ってる人間が結ぶべき関係だと思ってる」
「同性婚が認められてもう何年経つっけか。うちの会社の部下にもいるわ。幸せそうで羨ましいなーとか思ったり」
政略結婚制度が出来る数年前に、同性婚の制度の確立もあった。もうそれはごく普通に社会に受け入れられていたが、政略結婚制度は雲の上のような存在の人間にしかない出来事だったのだ。
身分の差に怯えているのだろうか。ごく当たり前のように運転手付きの高級車に乗り、一泊十万円もするようなホテルに泊まり、社員を百人単位で動かしている男だ。男として尊敬はするが、玉の輿だと手放しで喜べはしない。しかもまだ幾度も会ってもいない。
「浩太郎、おまえと喋るとやっぱなんか落ち着くわー。今日も無理に呼び出したし奢る」
「いいって割り勘で。裁判になったら金も掛かるだろうしな。最高の弁護士紹介するから安心していい」
「……悪ィな、いつも。もし浩太郎が政略結婚相手だったら、ちょっと考えたかもー」
冗談のように笑いながら勘定を済ませ二人して店を出る。気持ちいい感じに酔いが回り、少しふらつく足取りで家路に向かう。浩太郎は駅裏のほうのマンションで一人暮らしをしていたが、遥が飲みすぎたせいなのを心配してか家のほうへ送ってくれる。
「……遥。別れろよ、絶対に」
「あ、うん。迷惑かけると思うけど、俺も清継が旦那だとはまだ──」
住宅地の薄暗い電灯が光る道端で、不意に浩太郎に抱き締められる。
(……え? 浩太郎、そんなに飲んでたっけ? 心配してくれてんの?)
清継のときとは違う違和感の無さはある。二十年程も幼馴染をやっていれば子供の頃から抱きついたり、くっついたり、ケンカをしたりもした。今回のことを親身に考えてくれているのだろうと遥は思い、その背に腕を廻して『大丈夫だってば』と笑った。
──だが、少し身体が離れ、遥の頬を細く端正な浩太郎の指先が包み込んで上向かせる。
なにか真剣な話があるのかと、遥はきょとんとした表情で浩太郎の顔を見つめた。だがそれと同時に唇が重ねられた。
なにが起きたのか分からずに暫く指先一つ動かすことも出来なかった。
(キス、だよな。いま、浩太郎にキスされてる⁉)
グイと浩太郎の肩を押して唇と身体を離すと、冗談もいい加減しろと言いかけた瞬間、いままで見たことのない誰よりも仲のいい幼馴染の苦しげな表情が見えた。
「……どうして、俺じゃ駄目なんだ。俺のほうがずっと遥を好きだったのに」
「こ、浩太郎……なに言ってんだよ。酔ってんのか……えっと、あの……心配してくれてんのは嬉しいけど……なんつか、あー、おまえ海外留学とかしてたしな! キスとかするんだよな! ビビったわ!」
「……バカだろ、おまえ。好きだからキスした」
「お、おう……キスな……うん……なんで、俺……」
「好きってことに理由いるか? ずっと好きだったのに紙切れだけでそれを持っていかれる気持ち、分かるか?」
言葉が出なかった。しばらく二人で立ち竦んでいた。
そんなことまったく気付かなかった。むしろ浩太郎が気付かせないようにしていたのだろう。
でも違う。嫌悪感はないが、清継にくちづけされたときのような全身の毛穴がゾクゾクとするような感覚がない。欲情を、感じない。
「……ごめん……ちょっと混乱してる、浩太郎、もう家はそこだし帰れる」
「俺のこと嫌いになったか? 軽蔑したか?」
「しねーよ、馬鹿! 何年、幼馴染してると思ってんだよ。でもビックリしてっからちょっとマジ待って。これモテ期っていうんかな、ははっ」
幼馴染であり大切な友人である浩太郎は失いたくない。だが性的な感情は覚えられない。
浩太郎は自宅マンションの方へ。遥は家に向かう。
なぜか、清継の豪快な笑い声と『気にすんな、俺の嫁はモテるな』というようなバカみたいな言葉が聞きたいと思ってしまった。
(11)清継⑥
役員会の日だった。議題は勿論、清継の結婚についてだ。
諸岡が一度抗議を叔父方へ申し入れたようだが一蹴されたらしい。それを踏まえて、諸岡は今日の資料を用意してくれていた。
役員会議室への道すがら、清継は諸岡を振り返る。
「言った通りの資料は揃ったか」
「はい。それはこちらに」
「叔父貴のやつ、遥も同席させろとか言い出したそうだな」
「ええ。それは速やかに辞退させていただきました。先方は一般市民の方ですからと」
「よくやった。しかし、やり方がせこいな。たかが結婚。それで俺を失脚させようなど……」
「このままでは自分の座が危ういと踏んでのことでしょう。何しろ、社長はお若い」
「まあ、そうだろうな。それにしてもこの間のデートな。大成功だったぞ」
「それは良うございました」
「やはりコミニュケーションだな。この一件が片付いたらまたデートに誘おう」
会議室の直前で、入室しようとしていた叔父の清澄とかち合う。清澄は一歩引くと、わざとらしく満面の笑みで会釈をし道を開けて、清継を先に入室させた。
役員会はすぐに始まった。叔父側がまず口を開いた。
「さて、この度は社長にはご機嫌麗しく……まずはご成婚おめでとうございます」
周囲から、まばらに拍手が起きる。半数近くが叔父の清澄の派閥の人間だ。それでも清継は手を上げて立ち上がり、礼を尽くして応える。
「皆様、祝福をありがとうございます。皆様ご存知のとおり、未婚のまま三十を迎えましたので……政略結婚法により、この度末永遥さんと結婚をいたしました」
「それで、その末永さんとはまず……一般の方だとか?」
清澄が進行の議長がなにかを言う前にすかさず割って入る。ざわつく周囲に、追い打ちをかけるように立ち上がり、両手を広げて声を上げる。
「しかも、皆さん。驚きべきことに、そのお相手の末永さんとは男性だとか」
ざわめきが一層大きくなる。『どういうことだ』『じゃあ跡継ぎは』『一般の人間……』など、周囲から聞こえる声の中、平然と清継は立ち尽くしていた。手を後ろで組み、冷静に周囲の反応を見渡す。清澄も同様で、しかしこちらは薄ら笑いを浮かべて、清継をじっと見ていた。
「今日はこの事をご説明いただくために、清継社長にはお出でいただきました」
「ええ。説明の用意は出来ています。諸岡、資料を」
「はい」
後ろへ控えていた諸岡が、役員へと資料を配る。その間にも、叔父はとうとうと語り、いかにこの結婚が不確かなものかと熱弁を振るっていた。
「……というわけで、一般の方という点においてだけでも、この企業のトップの配偶者にはふさわしいとは言いかねます。また、同性同士の結婚が許されるようになったとはいえ、世間では漸く馴染み始めたところであり、時期尚早感が強いかと。しかも、跡継ぎの事を考えればもうこれは、破断……離婚へとかじを切ったほうがお互いのためであると私は考えます。それでもとおっしゃられるならご結婚も良いでしょう。しかし、その際には社長の座に座ったままというのは……皆様いかがでしょうか」
こちらの言葉にもまばらにパチパチと拍手が上がった。情勢は五分五分。発言の間、黙って座って聞いていた清継は、清澄が席についたと同時に立ち上がった。
「ではまず、お手元の資料を御覧ください。こちらはコピーになりますが……私の政略結婚通知書となります。このように、国からの正式な法に則った婚姻であることはご周知の通りかと思います。その点、結婚自体に問題はないかと思われます」
「その、通知が間違っているということはないのかね?」
役員の一人が確認の声をあげる。清澄方の陣営であることは間違いなかった。
「政府機関に確認済です。間違いなく、私のお相手は末永遥さんであると。次に一般男性であるという点ですが、一般の方との結婚は数が少ないですが前例が数件ありました。しかし、どのご夫婦も問題なく過ごされていると……事業の継続や、拡大、継承なども問題なく行われているということでした」
「その、継承が問題だろうがね。君たちは男同士だよ。跡継ぎはどうする」
「今の世の中、子供が後を継ぐとは限りません。そうですよね、清澄さん。私が今失脚となれば、副社長であるあなたが私の後を継ぐということになる」
その声に満更でもなさそうに『まあ、そういうことになりますな』と清澄は頷く。それを確認して、清継は声を張り上げた。
「それでも、私の子がこの会社を継ぐこと、それを望む声が大きいことも承知しております。いわゆる血統を絶やしたくないと。しかし、皆様ご存知でしょうか。この4月に、政略結婚法が改正されたことを」
ざわめきが一斉に大きくなった。
「この改正では、子供を持てない政略結婚夫婦にまで話を拡げております。子供を望みながら授からなかった場合の、特別養子縁組の推奨です。いわば、政略養子縁組……とでも言いましょうか。全国の親のない子どもたち、親と離れて暮らさざるを得ない子どもたちの中から最良の相性を選び出し、子供のいない政略結婚夫婦のもとへと送り出すという」
「それでは、血統が途切れて……!」
「ええ、男同士のカップルである私達にはこの養子縁組しか子供を得る手段はありません。しかし皆さん、考えても下さい。最良のカップルの間に、最良の子供が養子縁組されてくるのです。家庭環境も良好でしょう、子も、安定した親の様子を見て健やかに育つでしょう。そこに何の問題があるでしょうか」
言い切った清継の言葉に、一瞬場がしんとなった。そして『確かに……』という戸惑いの、しかし肯定の声がそこここから飛び出した。清継は身を乗り出す。
「皆様方の心配はこの会社の未来だと思います。そこに、この政略結婚はなにの影も落とすものではありません。それは断言させていただきます!」
役員室のテーブルを叩き、にこりと清継は笑った。それで、役員会の流れは決まった。その後の評決でも清継の結婚に反対する票は賛成する票をわずかに下回り、無事に終わったのだった。
「見たか、叔父貴のやつ。久々にあの人のあんな悔しそうな顔を見たぞ」
「またそんな事を……口をお慎みください」
「少々良いだろう。ああ、良い気分だ。酒を飲みながら遥の声が聞きたい。いや、顔がみたいな」
「電話されると良いでしょう。テレビ電話などはされないんですか?」
「遥が頑なに拒否してな。可愛いやつだ。──今夜会いに行くか」
「喜ばれると思いますよ」
社長室へ戻りながらそんな話をする。役員会は無事終わった。もう二人を隔てるものはなにも無いと清継は思っていた。
清継が仕事終えて遥へと電話をかけると留守番電話に切り替わった。仕事を終えての会社の飲み会か、プライベートな時間を過ごしているのかもしれない。まあ、今から家へと訪ねればちょうど帰宅した遥に会えるだろうと気軽に清継は車を飛ばす。
遥の自宅前で車を停めて遥の母親に顔を出すと、手土産の和菓子を嬉しそうに受け取りつつ、遥の母は申し訳なさそうに頭を下げた。
「わざわざ清継さんに来ていただいたのに、すみません。あの子ったら今日、友人と出てるんですよ。帰りはそろそろだと思うんですけど……」
「いや、突然訪ねてきた私が悪いんです。遥さんによろしくお伝えください」
遥の母親と別れた車の中で一人、残念だなと呟く。知らずしらずのうちにこんなにも本気になってしまっている。住宅街ということもありゆっくりと車を発進させ、走らせているところだった。
薄暗い街灯が等間隔に並ぶ中、二つの影が寄り添っている。
『恋人同士か……』そう思いただ通り過ぎようとした。ちょうど横をすり抜けた時だった。
(遥……?)
背の高い男性へ抱きすくめられているのは、見間違えようのない自身の結婚相手、遥だった。一瞬のことだったが、驚いたように目を見開いてキスをされているその姿。清継は車をそのまま通り過ぎさせると、暫く進んでから路肩へと車を寄せた。二人の姿は遠すぎてここからは見えない。薄暗い車の中で清継は考える。
(付き合っている相手はいないと言っていたが……)
動揺がなかったといえば嘘になるが、遥が他人に嘘を付くタイプには思えなかった。
(誰か、事故か……? 諸岡にでも調べさせるか)
自身への問いかけと同時に、すでに手にはスマホを取り出していた。
「──ああ、夜遅くにすまない。大丈夫か? 実は……」
ことのあらましを、諸岡へと告げてから清継は電話を切った。
「遥の奴め」
不快な思いはなかった。ただ、呆然としていた遥を思い出し僅かに清継は目を伏せて唇の端を軽く上げた。
(12)遥⑥
まさか浩太郎が自分に恋心を抱いていたなんて微塵も思っていなかった。ずっとずっと仲のいい何でも話せる幼馴染のつもりだった。
酒の酔いなど一気に覚めてのろのろとした足取りで家のドアを開く。
「遥、一歩遅かったわね」
「……なにが」
「さっき清継さんがいらしてたのよ」
「はっ!?」
「遥がいないって言ったら帰ってしまわれたようだけど。ね、このお団子、お土産ですって。いつも美味しいところのを選んで下さるわねぇ」
もう団子のことなどどうでも良かった。適当にはいはいと返事をしてから自室へ戻る。
清継がなにをしに来たのかは分からなかったが、急用なら電話でも寄越すだろう。それよりもいまは浩太郎のことでちょっと頭が混乱していた。
(モテ期ってこういうんじゃないだろ……なんで男にキスされてんの、俺)
毎日の習慣のようにスーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めてから、ジャージに着替えようと思ったが頭がいっぱいでそのままベッドに腰を下ろす。
電話が鳴らないところをみると、清継には見られていないらしかった。なぜかホッと胸を撫で下ろすものの、なぜか後ろめたい気持ちが湧き上がる。
(浮気……とかじゃねぇし。むしろこの結婚自体を認めてないっつーか……)
そう自分に言い聞かしてみても、どこかムズムズする。
清継との思いの外楽しかったデート。だが、離婚調停を頼んでいる上に、遥のことを好きだと告げた浩太郎。
どこをどうすればいいのかまったく分からない。
ベッドの上にごろりと横になり、頭を抱えるしか出来なかったが、ふと思いつく。
(諸岡さん……)
唯一、まともな話が出来そうな第三者だった。
スマホのアプリを開いて、『いまお忙しくないなら電話をしていいですか』とメールを送る。取り敢えず誰かに話しを聞いて貰いたかった。すべてのことが自分の意思の関係ないところで動いているのだということを。
そして数分もしないうちに諸岡からの着信音が部屋に響いた。
『夜分にすみません、諸岡ですがどうなされましたか? また久堂がなにかご迷惑を──』
『えっと、えっと……清継も家に来たっぽいんですけど、俺が出てて団子とか貰っちゃってですね……』
『本日あった役員会議で遥様との婚姻のことを宣言されたのでそのご報告では』
『……あー……なんで勝手にそういうことするかな……つか、違うンすよ……』
『なにかありましたか?』
浩太郎とのことを言うのは少し憚れたが、実際、夫婦となっていることでこれは浮気と捉えられても間違いない。離婚するにもややこしい問題になるだろう。ただの事故だとせめて諸岡には伝えておきたかった。
『……もう二十年来の幼馴染がいて……』
『鈴木浩太郎様ですね。司法試験を受けてらっしゃるとか』
『え、そんなことも知ってるんすか』
『失礼とは存じますが久堂のお相手となるかたのご身辺の調査はさせていただいております』
『えっとですね……キスされました』
『……はい?』
『その浩太郎に』
『……おモテになられますね』
『……なぜかここ一ヶ月、男にだけに……』
『それで、遥様のお気持ちは?』
そう問われてしどろもどろながらにも、浩太郎からそんな気持ちを聞いたのは初めてでどうしたらいいのか分からないことと、離婚するつもりではあるが、清継に申し訳ない気持ちが少しあると諸岡に伝える。
遥が戸惑っている様子を察してか、諸岡は静かにその話を聞いてくれていた。
秘書という仕事の人間は、こんな奇妙な話を聞いてもこれだけ冷静でいられるのだろうかと思いつつも、誰にも言えないようなことを黙って聞いてくれていることが遥には嬉しかった。
『では、その浩太郎さんには愛情がなく、うちの久堂とは離婚を進めたいと?』
『あ……はい。男同士で……勝手に紙切れだけで結婚したとか言われても……』
『戸惑っているお気持ちは分かります。ですが、久堂のほうは最初は面白半分でしたようですが、いまは遥様に夢中のようです。それでなければ夜に一人で遥様のご自宅に向かわれるほど暇な時間はおありではありませんので』
『……ですよね』
なんとなくは気付いていたが、改めて事実を突きつけられると頷きを返すしかなかった。
安いペンギンのキーホルダーだけであれだけ嬉しそうにしてくれた。
どれだけ財産を持っていたとしても、新居を建てて、結婚式を挙げるのは相当の手間だろう。著名人の清継が会社の人間に男と結婚すると宣言するまでのことまでしている。
──本当に、愛されているのかもしれない。
そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。優しいが情熱的なあのキスを思い出す。
『遥様との結婚がお決まりになってから、それまでの女性関係もきれいに清算されましたし、お気持ちが本気なのは確かだと思われますよ』
『でも、俺は……まだ……』
『ゆっくりで結構です。久堂はあのような性格ですので強引に推し進めようとしたがりますが、嫌なことは嫌だとはっきり仰って下さっていいと思います』
『結婚式のこととか、なんか親類の住所を教えてくれとか……』
『調べようと思えばこちらでそれぐらいのことは調べられますから大丈夫です』
『……あ、はい』
『あとはその浩太郎さんのことですね。後日、私がお話を浩太郎さんとするというはどうですか? 離婚調停の話を進めておられるのも浩太郎さんですよね?』
『……はい』
『直接、話をしたほうが早いと思いますのでこちらから浩太郎さんにご連絡させて頂いてよろしいですか?』
『……はい』
もう気持ちいいぐらいに話がスムーズに進んでいく。が、どこか浩太郎の気持ちを無視しているような気もする。何年も遥を想い続けてくれていたというのに、その話を赤の他人の諸岡に任せっきりでいいのだろうかとも。
それに清継のことも気になる。諸岡の口からキスをしていたという事実を聞かされたらどう感じるのだろうか。離婚をしたいとは思っているが、こんな理不尽な形は嫌だった。
『……浩太郎のことは諸岡さんにお任せします。でも今回のことは俺から清継に直接言いたいです』
『了解いたしました。久堂はあのような性格ですのでどんな反応をするのか私も察せませんが、遥様を愛しておられるのは確かだと思います』
『あ、あ、愛して……』
『過去に何人もの女性とお付き合いはされておられましたが、これほど執着なさっているのは遥様が初めてだと思います。ご結婚にあたってすべての方とすべてお別れになられました』
『……なにげにそれプレッシャーです……』
『初めての夫婦喧嘩になられるかもですね』
あの清継の秘書を務めているだけあって、諸岡の態度は飄々としているものだった。
金も地位も名誉もあって、しかも強い野性味のある強靭な美丈夫だ。女にモテないはずはない。その女性関係をすべて切ってまで遥との結婚に挑んでいるというのだから、遥もまた真摯に向き合うべきだと思わざるを得なかった。
浩太郎のことを頼んでから電話を切り、そのまますぐに清継に電話を掛ける。
数コールのあとに、少しざわついた背後からの音が聞こえる中で清継の声が聞こえた。
『お。浮気者の嫁が初めて自分から俺に連絡してきたな』
『な、な、なんで、浮気とか……それを……』
『ファミリーレストランというところに初めて来てみたぞ。コーヒーは薄くてあまり美味くはないが、和食から洋食まで揃ってるな』
『どこにいるんだよ』
『遥の家から国道を挟んで百メートルほど行った……なんていう店だここは。黄色い看板の店だな』
それですぐに悟る。浩太郎とのキスシーンを見られていたのだと。
もう言い訳をする気にもなれなかった。しかも清継はいつもの調子で近所のファミレスにいるらしい。
『すぐそっちに行くから待っててくれ』
『二回目のデートか。浮気した嫁にはお仕置きするべきなのか』
『そういう冗談はいいからっ! 十分待ってろ!』
緩ませたネクタイはそのままで、脱いだばかりのスーツのジャケットを羽織ると、国道沿いの安っぽいファミレスへと遥は駆け出して向かった。
(13)清継⑦
宣言どおり、遥はすぐにやってきた。相当慌ててきたのだろう、着衣が少し乱れている。そういうところも可愛かった。
「よお、浮気相手はどうした。置いてきたか?」
直ぐ側までやってきた遥をニヤニヤと見上げると目尻を赤くして、きっと遥が睨みつけてきた。
「浮気じゃ、ねぇ。つか、声が大きいんだよあんた」
「なら外に出るか。車で来てる」
「……ん。ちょっと俺も話がしてぇし」
「へえ、お前から話なんて珍しいな。浮気の言い訳か?」
「だから違うって……っ、けど、まぁ、そういう感じになんのか」
『出るぞ』と続ける遥に清継は驚いていた。浮気と認めて、遥から話をしに来たということではないか。
清継からすれば浮気とは冗談で言っているだけで、実際怒ってはいない。一瞬だが見えたあの遥の驚きようから考えて、突然のことか相手が強引だった筈で、事故のようなものだと思っていた。自分も遥も良い大人だ。そういうことの一つや二つ、あってもおかしくはない。それに、万が一浮気だとして自分が負けるようなことがあろう等とは考えもしていなかった。
会計を済ませ、駐車場へと出る。ジャケット一枚の遥が寒そうに見えて足早に車まで戻ると、助手席を開けて招き入れ、車のエンジンをかけた。
遥は何か話のきっかけを考えているようで、目を伏せている。店からの明かりで、車内は目元の泣きぼくろまではっきりと見えるような明るさだった。
「で? どんな言い訳だ?」
話の水を向けてやる。敢えて深刻にならないように、清継は声音に笑みを混ぜて腕を伸ばした。すっと遥の泣きぼくろを指の背で撫でる。と、予想通り、キッと顔を上げた遥が強気な目を向けてきた。
「別に、結婚を認めたわけじゃないけどな。アレは、事故……だ!」
「アレって?」
「……っ分かってるだろ! 路上での……その、キス、だよ」
「ああ。あれな。──何か困ったことが起こってんじゃねぇのか? 大丈夫か」
「え?」
「事故なんだろ。信じる」
キョトンとした顔を遥は清継へ向けてきた。思いもよらぬ、清継からの返事だったのだろう。それからなぜか、清継と目が合うと頬を少し赤らめてほんの僅かに目を逸らした。その細かな表情の変化を一瞬でも見逃すまいと、清継は見つめていた。
「おう。信じてくれるんなら、ありがたい。その、詳しくは言えねぇけど、俺がそのボーッとしちまってて……相手にキスされた。問題はねぇよ、きちんと対応する」
「ちゃんと、断るんだよな?」
「勿論!……って、え、違ぇからな! お前とのことがあるから断るんじゃないからな! まずは相手に誠実に向き合って……」
「違うのか? 俺たち結婚してんのに」
清継はそっと遥の手を握った。手のひらの下でビクリと遥の手が跳ねた。けれど逃げはしない。ウロウロと目を彷徨わすばかりの、珍しい反応におや? と清継は思う。けれどこの瞬間を逃す手はなかった。
「ほんの少しは……俺の事考えてくれたんだよな?」
「……──考えて、ねぇってば」
「本当に?」
空いた方の手で、再度目尻の泣きぼくろに触れる。身を捩って逃げようとする遥の顎を捕まえて、清継は自分の方へと向かせた。店内から漏れ出た光のせいだけでなく、遥の瞳が揺れていたように見えるのは気のせいだろうか。
「なぁ、愛してるぜ。遥」
「──っここで、それは……ずるい」
ふっと笑って身を乗り出し、被さるようにして清継は遥にキスをした。唇と唇を触れ合わせるだけのキスを数度して、それから深く重ね合わせる。嫉妬はしないと明言したが、先程の男と重なる姿がやはりちらりと脳裏を掠めないわけでなかった。
(俺の遥に、マーキングしやがって……)
ぎゅっと、遥が清継のスーツの胸元を掴んだ。その手は清継を押しのけるでもなく細かく奮えている。舌を絡めて吸い上げてから、一度唇を離し、その瞳を見る。
「……ずりぃよ、あんた」
二回目のキスは遥からだった。濡れた唇同士が合わさって、自然と互いの腰も揺れる。車内で狭いのがもどかしかった。長くなる口づけに下肢に熱が籠もる。清継は遥の目尻に触れていた指を滑らすと、首筋から胸元をたどり、きゅっと胸の尖りを探ってシャツの上から弄った。
「んっ……ぁ……」
口づけの合間に漏れる遥の声が甘い。嫌がってはいないのを確かめると、清継はそこをゆっくりと捏ね続けた。もじっと遥が膝頭を擦り合わせている様子が分かる。反応しているのだろうことが分かって、手を下へを忍ばせる。足の隙間に手を差し入れると、途端にギュッと遥が足に力を込めた。
「そこは……っ……駄目」
「乳首は良くて下は駄目なのか」
「乳首もっ、本当は駄目!」
「弄らせてたじゃないか。気持ちよさそうに──」
「わーっ駄目、そんな事ありませんっ……! だから、駄目、あ、ダメっつったら駄目なんだって……んっ」
しーっと言いながら、清継はやや強引に足を開かせると、片手で遥の首筋引き寄せそこに顔をうずめてその匂いを嗅ぎながら、下肢の膨らみを手のひらで揺すりあげた。
手の中で衣服越しだが遥自身が跳ねるのが分かる。嫌悪など微塵もなかった。愛する相手の体に触れたい。悦ばせたい。その一心で、やや強く手のひらを押し当て、ゆすり、指先で円を描くように焦らす。
「……ここ、どうされたい……?」
「どうも、された……んっ、ぁ……く、ない」
「強情だな、俺の花嫁は。言ってみろよ、気持ちよくさせてやるから」
「ん……や、ぁ……擦るの、禁止っ!」
「禁止じゃないだろ。言ってみろって、ここを、どう、されたい……?」
清継は敢えて繰り返した。なんでも無いことのように遥の耳朶を唇で挟み、目を合わせないようにしながら耳元でささやき続ける。先に観念したのは遥だった。普段のあの元気良さは消え失せて、身を震わせて下を向いたまま懇願した。
「や……さ、さわっ……触って……」
「どこを?」
「……そこ、直接……」
「──分かった」
許可は出た。もどかしく遥のベルトを外し、ボタンも外して前を寛げる。潜らせた指先に下着が少し濡れているのを感じて、『可愛いな』と呟くと、反論を封じ込めるようにもう一度唇へとキスをした。
「は、ぁ……清継……」
「いいぜ。……大丈夫だ、そのままイケ」
直接触れた遥のペニスは熱く脈動していた。他人のものに触れた経験はないが、どこをどうすれば気持ち良いかは分かる。恥ずかしいのか、遥はなかなか顔を上げない。それを何度かキスで起こしてやりながら、手の中のペニスを扱くと、それだけで清継自身も達してしまいそうに気持ちが良かった。
勃起したペニスの根本から裏筋をたどり、先走りをこぼす先端を指の腹で擦る。開きっぱなしの唇にキスを繰り返して、舌先を引き出し、誘ってやる。これは悪いことではないんだと、気持ち良いことなんだと知らしめるように。
「……出る、んっく……イク、清継……っ!」
遥が腕を伸ばしてきて、自身から清継の唇を貪った。それはただの声を我慢するための行動だったかもしれない。けれど、狭い車内で清継も遥をきつく抱き寄せると、口内の奥にまで舌を入れてかき乱した。清継がハンカチを広げて、その中に遥のペニスを包んで強く扱くとそれはすぐだった。ビクビクと体を震わせて、遥がその中へと精を放つ。
「あぁ……っ……ん、は……」
「どうだ? 気持ちよかったか?」
「……馬鹿……そういうこと、聞くなよ……」
「浮気した嫁だからな。……ちょっとしたおしおきだ」
『阿呆』と、反論も小さく、ぽすんと思いがけず遥が清継の胸に一瞬頭を寄せかけてきた。精を放った後で気が緩んでいたのかもしれない。その小さな頭を抱いて目元を撫でてやりながら、清継は目元を和らげる。ほんのの少しだが遥との距離がまたこれで一歩近づいた。それに満足感を覚えていた。
「つうか、おい。……遥、早く一緒に住もうぜ。新居ができるまでは俺のマンションにお前が来るのでも良い」
「な、なんだよ、いきなり。俺は、まだ……」
「まだ、なんだよ。これで既成事実もできただろ?」
「既成、事実って……!」
「お前がどこで何をしようが構わんが、俺がお前を早く側に欲しい」
「……いっつも思うけど、その自信はどこからくんだよ」
「俺が俺であるから、だな」
「そうかよ」
顔を上げて反論する遥をもう一度と胸に抱き直す。胸にすっぽりと収まる遥は抱き心地が良くて、それ以上反論してこないのを良いことに暫く清継はそうしていた。
(14)遥⑦
黒塗りのいつもの運転手付きのロールスロイスではなく、清継が個人で使用しているのだろうガンメタリックのグレーのベンツだった。
車内には遥の雄の匂いが漂っていた。
手際よく下肢の乱れを整えられ、まだ吐息を荒げながらも清継に支えられた胸元から身体が離せられない。遥の首筋を撫でる温かな指先や、髪に口付けられる感触が心地良い。
「……浮気、とかじゃねぇし。なんか……好きだって言われて……」
「だろうな。遥はそういう男だ。抱かれてはねぇんだろ?」
「ないっ! ない! 浩太郎はマジで幼馴染だから!」
「あー、そいつもこんな鈍感な男に惚れて大変だっただろうな」
「ど、鈍感? 俺、鈍感か?」
「俺がこれだけ遥のことを好きなのに信じてねぇだろ」
そう言われると言葉が返せなかった。金持ちが遊びで庶民をからかっていると心のどこかで思っていた。
だが、冗談でもそんなことをして清継になんの得もない。しかも、指先で勃起を扱かれ絶頂を迎えてしまった。遥自身もそれに溺れてしまっていた。
全身が脱力してしまいそうな快感だった。思い出すだけで再び勃起してしまいそうになるが、それは理性で堪える。
だが、目の端にベンツの鍵にあの安っぽいペンギンのキーホルダーが揺らめいているのが見えた。
清継の胸元から顔を上げて、その唇の端にそっとくちづける。それがやっとだった。
「俺の嫁は本当に純情で可愛いな。このままさらってしまおうか」
「……うっせ。明日仕事」
「結婚の日取りもあるし、もう一緒に暮らしてもいいだろう。離婚調停を考えているんだってな。でも俺はおまえを手放す気はこれっぽっちもない」
「後継者とか身分の違いとかいろいろあんだろ……」
「関係ない。遥がどんな弁護士を寄越そうが、それ以上の弁護士を俺は知ってる」
「……だよな」
浩太郎がいくら秀才で出来る男でも清継の金銭的にも権力にも勝てないだろう。でも浩太郎の気持ちを無下にも出来ない。
──困ると思っていながらも、徐々に清継に惹かれていっている自分も分かる。
「遥、今日はこれで大人しく帰る」
「……ん」
「だからもう一度おまえからキスをしてくれ」
清継の胸元から顔を上げて、触れるか触れないかのようなキスをする。手で果ててしまったことの羞恥から相まって指先が震えた。
それが可愛いというように清継は満面の笑みを浮かべてそのくちづけをそっと受け止め、遥の柔らかな栗色の髪を撫でた。
心地よかった。不覚にももう少し一緒に居たいと思うぐらいには。
「……ってか、車、何台持ってんだよ……」
「社用車も含めてなら……五台ぐらい、いや、六台? 数えたことがねぇな。この車は嫌か?」
「いや、もういい」
だが生活のレベルも生きてきた価値観も違いすぎる。
いくら国が決めた政略結婚のシステムでも、困難しか待ち受けていない。まず清継の会社の人間が黙っていないだろう。清継ほどの著名人なら男同士の婚礼などいいゴシップにネタでしかない。
「家まで送って行く」
「……ん」
「またデートしようか、遥。次はどこがいい? 俺はずっと学校が終わってからも帝王学とやらで遊ばせて貰える暇なんてなかった。外食もいつも決まった店だ。友達の質も決められていた」
「自由がなかった……とか」
「まあ、そういうことだな。だからいまは遥と出会ってすべてが新鮮だ。遥が俺に、俺の知らないことを教えてくれている。この間は焼き魚定食を食べたぞ」
朗らかに笑いながら清継が車を発進させる。
なぜこの男は自分が他の男とキスしている遥を見ても怒らないのだろうか。あれは遥が望んだことではなかったが、嫉妬や怒りを感じてもおかしくないはずだ。なのにファミレスで薄いコーヒーを飲みながら遥の帰りを待っていた。
「……怒ってねぇのかよ」
「なにがだ」
「……キスしてたこと」
「俺も女と何度も寝たことがあるぞ。愛があったかどうかは別だがな」
「でも……いまは俺と結婚してんじゃん」
「それならいますぐ俺のマンションで暮らすか。同棲ってのもいいな、したことがない。遥は面白いな、婚前交渉をしたかったのか。いや、もう結婚してるんだから婚前ではないがな」
「ち、違うっつーの!」
車は滑るようにすぐに遥の家の前に辿り着き、くしゃりと髪を撫でられてからドアが開かれた。
「でも、許したわけじゃない。あの弁護士は徹底的に潰す」
「ちょっ、待て。それは止めろ!」
「いや、裁判には勝つって意味でな。俺に逆らってくる男なんて珍しい。よほど遥のことが好きなんだな」
「……浩太郎は俺の幼馴染だ。将来性もある。頼むから変なことは止めてくれ」
「その浩太郎君のことは諸岡に任せる。俺よりも諸岡のほうが怖いけどな」
「……だろうな」
「じゃあ、おやすみ、俺のハニー」
「ハニーってなんだよ」
「蜂蜜みたいな甘い声で射精を──」
すべてを聞かずに遥はベンツのドアを閉め、振り返ることもなく安っぽい建売住宅の玄関へと入って行った。
せめて浩太郎には迷惑をかけたくない。
けれど出口が見つからない。あの諸岡のほうが清継よりもっと手強い相手だというのは雰囲気で感じ取れていたからだ。諸岡は心強い理解者でもあるが、敵にすると誰よりも怖いという事が分かる。
もし離婚調停の裁判沙汰になったなら、国内でも有数の弁護士を雇ってくるだろう。それぐらいのことを出来なければ清継の秘書などやってはいけないはずだ。
自分を好きだと言ってくれた浩太郎の気持ちは戸惑いながらも嬉しくもある。だが、相手が悪すぎる。もうすでに結婚をしている上に、その男はキス程度では動揺もせず、諸岡という小姑もいる。勝てない戦いだ。
確実な将来のある浩太郎に自分のことで躓いて欲しくない。
「あら、おかえりー。お団子まだあるわよー」
「……いらねぇ」
「ごはん、あるわよ」
「食ってきたからいい」
「お風呂は?」
「……入る」
「遥が最後だから、換気窓開けておいてね。カビるから」
「はいはい」
自室に戻ってジャージと替えの下着を持って風呂場に向かう。スーツのジャケットとタイは外したが、パンツを引き落ろしたことで車内での射精を否が応でも思い出してしまった。
ペニスを扱かれながら何度もキスをした。
理性よりも本能が勝ってしまった。その快楽の波に溺れ、もっとと身体が疼いた。
「ぬあああ……ないから……男に抱かれるとかマジねぇから……」
髪をガシガシと洗いながら、そんな言葉を遥は呟く。
話を解決しようとしているのにむしろややこしいことになっているような気がする。
一ヶ月前までは笑えるぐらいの普通のサラリーマンだった。これまでも、これからも
そんな生活なのだろうと思っていた。
──あの国から届いた政略結婚通知が来るまでは。
幼馴染の浩太郎にキスをされ、結婚相手の清継にイカされた。もうなにがなんだか分からない。
なのに、明日には雑多な書類を整理し、判子を押し、届いた業務メールに返信する。
なにが正しい選択なのかが自分でも分からなくなっていた。
「どうすりゃいいんだよおおおおおおお」
「遥、お風呂で叫ぶの止めなさい、ご近所迷惑になるでしょ」
「だあああああああ」
「子どもじゃないんだから、お風呂ぐらい大人しく入りなさいっ」
足を半分折りたたむような格好で、狭い浴槽に身を沈める。
(……普通の生活って幸せだよな……)
けれど、清継に扱かれたあの快感に下半身がジンと熱くなる。唇にはあの温かな感触が残っていた。もし、もっと強引に迫られていたら抱かれてしまっていたかもしれないと思えるほどの快楽だった。
──清継が、好き?
「いやいやいやいや、ないないない。男だし、あんな唯我独尊みたいな男とか!」
本来ならもっと自由気ままな男なのだろう。なのに、遥の生活を知ろうとしてくれてもいる。オーダーメイドの高級なスーツを着て安い店でランチをしたり、ファミレスで薄いコーヒーを飲んだり、忙しい合間を縫って遥の家に訪ねて来る。
そして何よりも、そんな清継に惹かれそうな自分がいた。だが浩太郎の真摯な気持ちを無下にすることも出来ない。清継の言葉通りに、戦いを挑んでもきっと負け戦だ。浩太郎はデキる男だが、諸岡にはきっと勝てないだろう。
「政略結婚ってなんだよ! なんで俺なんだよ!」
「遥っ! 静かにしなさいっ!」
台所辺りから聞こえる母の声に声を飲み込む。けれどこれはどうしようもない事実なのだ。どうすればこの絡まった糸のような混乱から逃れられるのかが分からなかった。
(15)清継⑧
諸岡は自社の社屋の前で立ち尽くす青年を見て、おや? と足を止めた。朝も早い時間で社屋にはまだ社員は少ない。行き交う人々を気にもせずにキッとビルを見上げているその青年には見覚えがあった。
鈴木浩太郎。遥の幼馴染で弁護士事務所に勤めているという人物だ。頭の中から資料を引き出すように記憶を整理する。確か、離婚を進めたがっている遥の代わりに動いている人物の筈だった。今日は敵情視察と言ったところだろうか。勿論、清継に会わすわけにはいかない。諸岡は営業スマイルを貼り付けると、浩太郎へと足を踏み出した。
「鈴木、浩太郎さんでいらっしゃいますよね?」
いきなり声をかけられた浩太郎はばっと諸岡を振り返った。諸岡は少し見上げるようにして背の高い浩太郎を見返す。ニコリとした笑みは貼り付けたままだ。
「私、久堂清継の秘書をしております、諸岡と申します」
「私は、確かに鈴木浩太郎です。諸岡さん、遥からお名前は伺っております。今日はお話があって参りました」
見も知らぬ男から名を呼ばれ、一瞬虚を突かれたように戸惑った浩太郎だがそこは流石に、すぐに居住まいを正して名刺を差し出してきた。諸岡も軽く礼をして名刺を差し出す。
「ここでは、人の目もありますから……どうぞ、社内へご案内いたします。──お話とは、遥様と久堂との結婚についてでしょうから」
「はい。そうしていただけるとありがたいです」
「では、どうぞこちらへ」
諸岡は使われていない会議室へと浩太郎を案内した。浩太郎の敵陣だと言うのに堂々とした振る舞いは、諸岡に個人的な好感を持たせた。会議室で向かい合わせに座ると、『さて』と諸岡は両手をテーブルの上で組むと首を傾げた。
「申し訳ないのですが、久堂は忙しくしておりまして……代わりに私がお相手いたします。よろしいですか?」
「どうしても、久堂社長に面会は叶いませんか?」
「事前にアポイントメントを取っていただかないと、こればかりは……」
「そうですか。──遥の、末永の代理として今日はこの場に参りました。はっきりと申し上げます。末永は御社の久堂様との結婚を望んでおりません。すぐにでも、離婚に応じていただきたい」
浩太郎は前を向いて諸岡に言葉をぶつけた。紳士然としながらも譲らない態度に諸岡は表情には出さずに感心する。
「そうですか。そういったお話だとは思っておりましたが……はっきりと、遥様がそうおっしゃられたんですね?」
諸岡は笑みをすっと消すと、確認するように声を落とした。
「ええ、そうです。はっきりと私に、困っていると相談をもちかけました。また、離婚の手段がわからないとも」
「おかしいですね。それにしては、遥様と久堂は連日連絡を取り合い、先日も二人きりで会っていた……筈なんですが」
「それは……っ、連絡は一方的なものでしょうし、そちらの久堂様のような方に強引に誘われては、断れるものも断れないのでしょう。遥は一般の市民です。そこを考えてやって下さい」
「それはそうかもしれません。確かにうちの久堂は少々強引なところがあります。そこは否定いたしません。が、どちらにしろお二人のこと。第三者である鈴木様には関係ないのでは?」
「いいえ、末永には法律の知識がありません。それで私が代理としてきているわけですが、ご理解願えないでしょうか?」
両者一歩も引かずに睨みあう。先に声を発したのは浩太郎だった。
「……わかりました。お話に簡単に頷いて貰えるとは勿論思っておりません。こちらで末永には有能な弁護士をつけさせていただきます。離婚調停に進みたいと考えていますが、よろしいでしょうか」
「ご理解いただけなくて大変残念ですが……遥様の意志がそうであるならば、仕方ありませんね。こちらでも総力を上げて、有能な弁護士を揃えてお相手いたしましょう。久堂には離婚の意志は全くございませんので」
そこで、腿の上に手を置いていた浩太郎がぐっと強く拳を握った。眉を初めて苦しそうに寄せて、諸岡に詰め寄る。
「なぜ……末永……遥でなければならなかったんでしょうか? 御社の久堂様であるならば、遥に拘らずとも、引く手あまただと思うのですが」
そこで、諸岡は思い出した。浩太郎がただの善意や友情などではなく、遥への恋情を持ってこの場にいることを。僅かに目を伏せて、諸岡も声のトーンを落とす。思わずだろう、漏れ出た浩太郎の本音を、ないがしろにする訳にはいかなかった。
「通知のせいだけではございません。久堂は、久堂自身の手で遥様を選ばれました。遥様の明るく人を惹きつけるところなどは、ご友人である鈴木様が一番ご存知ではないですか?」
「そう、ですね……」
浩太郎はすうっとうなだれるとしばらくすると立ち上がった。その目にはもう迷いや不安などはない。
「お時間を頂いてありがとうございました」
「いえこちらこそ、またなにかあれば遠慮なく……名刺の方にある私のアドレスや電話に直接連絡頂いても構いませんので」
「わかりました」
浩太郎を見送り、諸岡はため息を吐いた。久堂から遥との進展などは逐一聞いている。今の青年が今後報われるかどうかは……。そこまで考えてらしくないと首を振る。なんだか浩太郎のことが気がかりで、胸には小さな棘が刺さったような感覚があった。
(男同士、胸に秘めたままでも辛いでしょうに……)
「そろそろ社長が出勤ですかね。会議の準備をしておかないと」
独りごちて、車内へと諸岡は足を向けた。
清継が機嫌が良かった。普段から有能な男ではあるが、機嫌が良いと更に手際が良くなる。今日などは鼻歌まじりに決済印を押し、電話やメールに返事をして、明日の新規プロジェクト発表の素案を添削している。横で次々に仕事を回す諸岡はちらりと横目に自身の主を見た。
「ご機嫌ですね、社長」
「ああ、昨夜の遥が可愛くてな。聞きたいか?」
「結構です」
「何だ、話を振っておいて。まあ、俺も詳しくは話すつもりはない。だが、あれだな。知識ばかりを求めずとも、身体は勝手に動くもんだな」
「……何か、遥様のお体に負担になるようなことはされてませんよね?」
「俺を獣か何かと思ってないか? するわけないじゃないか」
「それならば安心いたしました」
「それで? 例の鈴木とかいう男が来たんだろう」
「はい、離婚調停を起こすとおしゃっておられました」
「……遥のやつも、あれでいてどう動くかわからないところがあるからな。大丈夫だとは思うが、一応、弁護士の準備はしておいてくれ。俺は絶対に離婚しないからな」
「勿論、存じております」
「叔父上はあれからは?」
「なにも。役員会で面目を潰されたのですから、暫くはおとなしくされているかと」
「そうか。ならひとまずは安心だな。今のうちに挙式の手配と……新居はもう決まったか?」
「はい。こちらではどうでしょうか。内装には和のテイストと、木をふんだんに取り入れるとのことです」
「うん、良いな。気に入った。手続きを進めてくれ」
コンクリート打ちっぱなしの一見デザイナーズマンションにも見える三階屋、一階はガレージになっており住み家は二階以上になる構造だった。周囲には木々が植えられて、ちょっとしたオアシスのようだ。
「リノベーション物件ですが、新築同様になるとのことです」
「分かった。そちらは全て任せる。しかし挙式に披露宴が面倒だな、その後にハネムーンってのは良いが」
「そちらも滞りなく準備は進んでおります。遥様の招待客の方もこちらでピックアップしてすでに招待状を送付済みですので、ご本人にも宜しければご確認下さい」
「早いもので式までもう一ヶ月半か……苦労をかけたな」
「いえいえ、苦労だなんてとんでもございません」
珍しく殊勝な清継に諸岡も笑って応える。
「しかし、幸せだ。結婚が、こんなにも満ち足りた気持ちにさせてくれるものだとは思わなかった。諸岡、お前もそろそろ真剣に考えたらどうだ」
「そういうのは、セクハラだと以前申し上げましたが?」
「今は友人として言わせて貰っている」
「……もう少ししたら、考えますよ。清継様を無事に遥様のところへ送り出せたら」
「そうか。相手ができたら教えろよ。俺のことはお前は何もかも知っているからな。俺がお前の事を一つも知らないのはおかしいと以前から思っていたんだ」
「部下と上司ですから?」
「そう言うよな、お前なら」
ははっと清継は笑った。
「また遥をデートにでも誘うか。今度は俺の部屋で飲むのも良いな」
「早くご一緒にお住まいになれると良いですね」
そうだなと、清継はコーヒーを一口飲んだ。
(16)遥⑧
「おはよう、遥」
「ん、おはよ」
毎朝のこんな電話ももう日常になってしまった。他愛もない会話に相槌を打ちながらスーツに着替える。
取り敢えず……あの車での手淫のことは遥の中ではなかったことにしようと心の隅に追いやっていた。
「ああ、そうだ。この間、遥の幼馴染の浩太郎という男がうちの会社に来たらしい。俺は会っていないが、諸岡と話をしたらしい」
「……え⁉」
「離婚調停をするって鼻息を荒くしていたということだ。うちの嫁はモテ過ぎて心配だな」
「そ、それで……浩太郎になんて言ったんだ」
「そっちがその気なら、こちらも弁護士を立てるとだけ」
遥自身が浩太郎に相談したことであったが、最悪の自体になりそうな予感がする。
ネクタイを締めていた手を止めて、いろんな想像を頭の中で張り巡らせるが圧倒的に浩太郎が不利であり、迷惑を掛けることしか思いつかない。
それだけは嫌だった。あの冷静な諸岡という男なら手段を選ばないだろうことが予想出来る。
「……いまからそっちに行く。話、出来るか?」
「言うと思ったよ。もう遥の家の前に車が到着する頃だろう。遥が嫌いなあの車だが、俺がちょっといま手を離せないから社のほうまで来てくれ」
「……分かった」
「あの幼馴染が好きなのか?」
「そうじゃない。迷惑を掛けたくないだけだ」
「……ふむ。じゃあ、後ほど。ああ、諸岡は頭がキレる山猫みたいな男だ。引っ掻かれないように気をつけたほうがいいぞ」
言われなくとも分かっている。電話で会社の上司の嫌味に平謝りをしてまた有給を貰い、とにかくいつもの旅行用の合皮のバッグに着替えや歯ブラシを突っ込んで外に出る。
すでにあの黒のロールスロイスが自宅前に待ち受けていた。
「社長から申し付けられましたので、社の方までお送りさせていただきます」
「な、なんかいつもすみません……」
「いえ、これが私の仕事ですのでお気になさらず。なにかありましたら何でも仰って下さい、遥様」
もう自分の存在が公然の事実になっているのだということを改めて知る。清継の会社の役員会議でも公言したという話も大袈裟なものではないのだろう。
慌てて飛び出して来たのはいいものの、相変わらず冴えない紺色の安いスーツ。しかし自分で持っているまともな服は冠婚葬祭用の黒のスーツぐらいしかない。ファッションには興味がなく、今までの人生の中で高級な服を着る機会などなかった。
ロールスロイスの後部座席に乗り込み、手持ち無沙汰なぐらい広い座席に身を沈めながら浩太郎に電話でもしようかと考えるがそれは止めた。もうこれ以上、浩太郎に迷惑は掛けたくなかった。
静かに車は高速道路に入り、進んでいく。
誰かが言っていた。結婚は簡単だが、離婚はその数倍以上の労力が掛かると。
(結婚も望んでやった訳じゃねぇのに……)
だが、あの夜の甘いくちづけや愛撫、射精の快楽を思い出し遥の目尻が赤く染まった。
清継の会社であるビルは想像以上だった。
ガラス張りの外観からでは何階建てかも分からない。垢抜けたスーツ姿の男や女が絶え間なくエントランスを出入りしている。遥はただ窓からその風景をぼんやりと見ているしか出来ない。
「あの、えっとアポイントとか……いいんですか?」
「遥様は社長専用のエレベーターに乗られることになっておりますので、地下駐車場からそのまま社長室のほうへ向かって下さいませ」
「……はあ」
運転席の飯田に近寄りそう告げて返ってきた言葉がそれだ。
(専用エレベーターってなんだよ……マジもう無理。俺の仕事って一日中取引先相手のクレームに頭を下げる電話してるか、ゴム印押してるか、書類のコピーしてるか……)
改めて考えるだけでその落差を感じる。もし結婚したとしても──もうしているが──上手くいく訳がない。それにこんな結婚、こんな大会社の人間が認めるだろうか。
人当たりのいい真面目そうな飯田に案内されて、その社長専用のエレベーターに乗せられ、最上階の社長室に行くように促された。
社長専用なのだからもちろん誰も乗ってくることもなく、途中で止まることもない。
どんどん気が滅入ってくる。
こんなところで社長をしている相手に、電話をガチャ切りしたり、バカだのうるさいだのと毎日言い続けていたのだ。怯まずにはいられない。だが、これがいいチャンスなのかもしれないとも思う。身分差だ。清継の気の迷いか庶民の生活を面白がってるのかは分からないが、あまりにも落差が有りすぎる。
チン、という軽い音を立ててエレベーターが止まる。
恐る恐るシックな絨毯張りの廊下に足を踏み入れると、受付にいた女性社員が遥に向かって深々とお辞儀をしていた。
「久堂社長はすでに奥でお待ちしております。お荷物をお預かりしましょうか?」
「いや、いいです。清継……あー、えっと、ここ、入っていいんですか」
「ええ、遥様の到着を心待ちにしておられましたよ」
重そうな木の扉が不意に開き、少し神経質そうな眼鏡の男が現れた。遥の姿を見ると薄っすらと微笑んだような表情を見せたがそれは心からの笑みではなく、いわゆる営業スマイルだ。
(……諸岡さん、だな。山猫の諸岡)
名前を告げられなくてもそれが直感で分かる。あの清継の専属秘書をやっているのだ、一筋縄でどうにかなるような男ではないはずだ。しかも清継に山猫だとまで言わせる男だった。
「遥様、お会いするのは初めてでございますね。諸岡です。久堂が奥で待っておりますのでゆっくりお寛ぎ下さい。お飲み物をお持ちしますが、お好きなものはございますか?」
「え、あ、はい……じゃ、じゃあコーヒーを……」
「かしこまりました」
「メールとか電話とかありがとうございました……」
「いえ、久堂に振り回されて大変でしょう。私でお力になれることならいくらでも」
大きくドアが開かれると全面ガラス張りの壁と、一見して分かる広く豪華な木の机。遥が毎日使うスチールの机とはまるで違う。部屋の中央には革張りのソファとローテーブル。あのロールスロイスよりもふかふかとした座り心地のそれに案内される。
「遥! 嫁から会いに来てくれるとは思っていなかったぞ。諸岡、午後の予定は全部キャンセルだ。食事はしたか? なにか持ってこさせようか。それともまた食べに行くか?」
「いいから、そういうのは今日はいい。話をしに来ただけだから」
「あの幼馴染のことだろう。俺はなにもしていない。浩太郎とやらがこっちに乗り込んできて来たから諸岡がその喧嘩を買っただけだ」
なんとなくその想像は出来たが、どうすればこのややこしい状態を収めることが出来るのかと考えるだけで遥は頭が一杯だった。しかもこの社長室に居る自分のアウェイ感に圧倒されている。いつものように怒鳴ったり、清継に悪態をつくことも出来ない。
「社長、初めての場所で遥様がまだ緊張なさっております。もう少しゆっくりとお話をおすすめ下さい」
「幼馴染を引っ掻いたのはおまえだろう、諸岡。遥が怒っている」
「人聞きの悪いことを仰らないで下さい。では、社長は離婚調停で負けてもいいと思ってらっしゃるのですか?」
「それは困る。諸岡はこういう男だ、慣れてくれ、遥」
庶民をからかっている訳ではなく、清継は万事がいつもこの調子なのだということが分かる。諸岡がコーヒーのカップを二人の前に置き、一礼をして立ち去ろうとしたのを引き止めたのは遥だった。
とにかく、落ち着かなかった。高層ビルの最上階、高級家具が並んだ社長室。外に声は漏れないだろうが女性社員もいた。
「あ、あの、諸岡さん。ここじゃないどこかでゆっくり話せるところ、ありますか」
「お食事をされる雰囲気ではなさそうですね。社内の会議室か、ホテルのスイートか……」
諸岡の言葉を遮るようにして清継が立ち上がり、遥のバッグを引っ掴む。
「俺の家でいいじゃないか。俺と遥はまだ清い関係だ。なんの問題もない」
「……やれやれ。社長、余計に遥様が困ってらっしゃいますよ」
「諸岡、車を用意してくれ。遥はロールスが嫌いだからベンツでいい。それでいいな、遥」
「家?……清継の家?」
「同居前に俺の生活を知るのもいいだろう。コミュニケーションだ」
「いや、それは……」
「諸岡、遥と幼馴染と俺の話が終わるまで弁護士の件は保留だ。遥が嫌がる」
「……すでにとても嫌がってらっしゃるようにしか見えませんが了解しました」
とにかく、浩太郎の件が話し合いでどうにかなるならそれに越したことはない。それに清継は強引な男だが、二人きりになったからといっていきなり襲ってくるようなタイプでないのは知っている。清継の自宅で話がつくのなら行くしかない。
遥はソファから立ち上がると、少し心配顔の諸岡に頭を下げてから社長室を清継と共に出た。
(17)清継⑨
清継は自身が運転するベンツの助手席に遥を乗せてご満悦だった。遥は二度めだと言うのにやはり慣れないのかバッグを胸に身体を小さくしている。
「なんだ、やっぱりロールスのほうが良かったか」
「いや、そんなんじゃねぇよ」
「心配するな、すぐに着く。お前も部屋を気に入ってくれるといいが」
「……なんで」
「お前が気に入ってくれれば、そのまま住んでくれて構わないからだな。すぐにも同棲開始できるじゃないか」
「いや、俺、仕事が!」
「なんだ、仕事がネックか。それならこっちに移ってくればいい。仕事なんて辞めてもらっても構わんし、諸岡の下について働いてくれても問題ない」
「そうじゃなく!」
あー!と遥は頭を抱えている。自分でもどう言って良いかわからない様子だ。清継は清継で感動していた。遥とは、なぜか婚姻は会った瞬間に拒否され、電話はガチャ切りからスタートしていた。それが今は曲がりなりにも会話が成立している。隣りに座っている相手は自分の嫁で、今から自分の部屋へと向かおうとしているのだ。
「……あんたって、なんですぐそう物事を早めに決めつけるんだ?」
「なんだ、不満か?」
「いや、そうじゃなくてん……いや、不安になんねぇのかなって。だって結婚相手が俺だぜ? 繰り返しになるけどさあ」
「ふうん。遥に関しては直感で気に入ったからなぁ……そうしたら、すぐにでも自分のものにしたいと考えるのが本当じゃないか?」
「そこに不安や迷いはないのかよって話」
「ないな。俺は俺の決断に自信を持っているし、間違ってもいないと思っている」
「あ、そう……」
遥は呆気にとられた様子で肩を落とした。
「自信家は嫌いか?」
「結婚相手に自信家の男がまさか決まるなんて思ったことはなかったよ」
「はは、それなら今からどんどん好きになってくれれば良い」
「……本当、あんたのそういうところな」
遥は呆れたように、けれど小さく笑った。それだけで清継は温かい気持ちになるのだった。
車はマンションの一階部分へと滑り込んだ。見上げるようなタワーマンションの最上階が清継の部屋だ。マンションの敷地から入り口までは和風庭園が続き、滝まで流れている。きらめくエントランスホールにはコンシェルジュが常駐していた。
顔認証の玄関を抜けて、上階への直通エレベーターで最上階へと向かう間、遥は圧倒されたように黙り込んでいた。そして、玄関前にたどり着くとその豪奢な玄関目のスペースに清継の袖を引いて何故か小声で聞いてきた。
「マジ、あんたここに住んでんの?」
「勿論。会社にいる時間が長いから、寝に帰るだけの家だが」
部屋の玄関に鍵はかけていない。扉を引き開けて軽く遥の背を押すと、おずおずと遥が『おじゃましまーす』とこれまたなぜか小声で言いながら部屋へと漸く入ってきた。
黒と白を基調に、大理石を模した床。全室床暖房なので、靴を脱ぎ一歩踏み出した遥が『温かい……』と感動したように足の裏を見ていたのが面白かった。一人暮らしには広すぎるリビングに、ダイニングキッチン。主寝室に客室は二部屋だが、どれもに十分な広さが取ってあった。
「さあ、座ってくれ。何かケータリングでも頼むか? 酒は少々あるが……」
「いや、いい、です。うん、大丈夫」
敬語でこわばった表情の遥がそっとソファに座り、物珍しそうに周囲を見渡す。清継自身掃除も洗濯もしたことはないが毎日入ってもらっているハウスクリーニングのサービスのおかげで、艶のある床には埃一つ落ちていなかった。
清継は上着を脱いでタイを緩めると、遥の横にドカリと腰を下ろした。遥は今はそれもあまり気にならない様子で、まだキョロキョロとあたりを見渡している。
「どうだ、気に入ったか」
「うん、すげーな。俺の家がここと玄関だけですっぽり入りそうだ」
「──越してこないか?」
「それとこれとは、話が別……ってか、近っ。少し離れろよ!」
手を伸ばして肩を抱こうとすると、漸くいつもの遥が戻ってきたようだった。両手で思い切り突き放される。
「怒っている遥はやっぱり可愛いな」
「何だよ。いつも成人男子捕まえて可愛い可愛いって」
「可愛いんだから仕方ない」
「馬鹿……」
二人の間に僅かな沈黙が落ちる。この沈黙が清継は嫌いではなかった。遥の声の間を感じられて、またじっくり遥を観察できる。呼吸がほんの少し荒い様子だとか、照れているのだとろうかとか、考えるだけで楽しかった。
「……浩太郎、のことだけど」
「ああ、訪ねてきたっていう? 遥はどうしたいんだ。俺と離婚するために調停を起こしたいのか?」
「そこは、今は……置いとけよ。とりあえず、浩太郎に迷惑はかけたくないんだ。勿論俺から相談は持ちかけたんだけど……」
「そう言われてもな。遥が一言、その浩太郎とやらに『離婚は止める』っていえば丸く収まることだろう? 追いかけてまで諸岡も引っ掻いたりなんてしない」
「それは! そう、なん……だけど。その……なんっていうか」
「なんだ?」
やや頬を赤くして、怒ったように遥が顔を上げた。目元までが朱に染まって色っぽい。
「俺だって、よくわかんねんだよ! 結婚は、しちまってるけど……このままにしたくは、無い。俺とあんたは男同士だし、生きてる世界が違いすぎる。けど……でも、じゃあ、浩太郎を巻き込んでまで離婚したいのかって、言われたら……なんか、違うかなって。最初に比べたら、あんたが良いやつだってのも……その、分かってるし」
「ほう」
「だってあんたは、俺に付き合ってやっすい飯も食うしさ。似合わないのに、ベンツの鍵にあのペンギンのキーホルダーだってつけてる。そんなの、見せられたら、俺だって……」
「お前だって?」
顔を一層赤くして、ギュッと拳を握りしめると下を向いたまま半場叫ぶように言った。
「あんたに情が湧くよ。良い奴なのかなって……この間の、触られたのもそう嫌じゃなかったなって……そう思うじゃんかよ!」
清継は思わず腕を持ち上げてゆっくりと、遥の目元に指の背で触れていた。ビクッと震えた遥は、それでも逃げようとはしない。不思議な感覚だった。清継が確かめるように口にした。
「今のは、告白って思っちまうけどいいのか」
「こ、告白なんかじゃ……」
「俺にこうされるの、嫌じゃないってことだろう?」
「うっ……」
すりっと手のひらで熱くなった遥の頬を撫でる。遥は逃げずに、なにかを耐えるように目を伏せていた。
「もう少し、試してみるか。そうすりゃ、嫌かそうじゃないかが分かる」
「試すって、なにを」
「──こういうこと」
遥の顎先を捉えて上向かせ、清継は目を閉じて唇同士を押し当てるだけのキスをした。目を開くと目の前に、目を見開いた遥の顔がある。その表情が可愛くて面白くて清継は笑ってしまう。もう一度、今度はチュッと音を立てて、唇へキスをすると遥が漸く身を引いて両手で自身の唇を押さえた。その耳元へ、清継は低く囁く。
「ベッドへ行こうぜ。最高に気持ちよくさせてやっから」
遥が信じられないものを見る目でこちらを見てくる。けれど嫌がりはしない。逃げもしない。腕を取るとノロリと立ち上がった。腕の中に囲い込んで抱きすくめる。遥が恐る恐るという感じで背へと腕を回してきた。
「……俺……男となんて、経験……」
「任せろ。俺もない」
「え!?」
「だが準備は万端だ。まあまずはやってみようぜ」
「ちょ、やっぱ、俺……」
「さっきのキスは嫌だったか?」
「……っ嫌じゃ、なかったけど……」
途端に戸惑いを見せる遥の腕を引くと、清継は遥の膝裏に腕をとおして担ぎ上げた。
「ちょ、清継!」
「ふむ。できるもんだな、男相手でも。軽い軽い」
清継は落ちないようにとしがみついてくる遥を抱いて、そのまま寝室へと足を向けた。
(18)遥⑨
抱きかかえ上げられたままリビングの続きにあるベッドルームに運ばれる。
白と黒と灰色を基調としたシンプルな色彩の部屋の中央にあるキングサイズのベッド。黒の光沢がある滑らかなシルクのシーツの上に横たわらされる、その清継の仕草ががひどく優しくて自分がいかに大切にされているのかが分かった。
「ス、スーツ……皺になる……これしか持ってきてない……」
「遥の服なら用意してある。好みがよく分からなかったから好きなのを着ればいい」
「……え?」
ベッドルームの側にあるクローゼットを清継が開くと、スーツからカジュアルなシャツやセーター、新品の靴の箱までぎっしりと詰められていた。ひと目で分かる高級なブランド品だ。
「いつ一緒に暮らしてもいいように、遥がここに来てもいいように揃えておいた」
「無駄遣い……止めろ……」
「嫁を大切にしたくない旦那なんていないだろ」
「……セックス……出来なかったら?」
「そこまでは考えてなかったな。コミュニケーションをゆっくりすればいいと諸岡も言っていたしな。それにさっきのキスで生きていてこれ以上無いほど感じた。遥はどうだった?」
「そ、そんなこと聞くな……」
感じた、とは言えなかった。でも下半身が熱く疼いているのは事実だ。
激しく抵抗することも、このまま逃げ出す事もできるのに、自分の目の前でスーツを脱ぎ落としていく清継の姿に見入ってしまう。シーツから香る、あの野性味を感じる匂いに溺れてしまいたくなる。
ボクサーパンツだけの姿になった鍛えられた筋肉の逞しい姿の清継が、ベッドに無言で横たわる遥の側に寄り添い、その服を脱がせていく。
ジャケット、ネクタイ、シャツ、ズボン。大丈夫かというように丁寧で優しい手つきだった。そして最後のパンツまで剥ぎ取り、羞恥に少し身を捩らせた遥の姿を暫く見つめていた。
「男同士のセックスは動画やDVDで研究はしたが、少しも欲情しなかった。新宿二丁目というところも行った。だが、遥がそこにいるだけで感じてしまうのはどうしてなんだろうな。遥も感じているんだな、ペニスが勃起している」
「こ、これは……違う……おまえがやけに優しいから……」
「触ってみろ。俺はとても感じている」
下着を脱ぎ落とした清継が腹を打ちそうなほど堅く勃起したペニスを遥に触らせる。体格に見合った巨根で、カリは張り詰め、竿は脈動した血管を浮かばせていた。
「ちょ、デカい……無理無理無理、こんなの挿入されたら死ぬ!」
「遥と比べたら少し太いだろうが、ローションというのも買った。それで解せばいいらしい。遥が痛いのなら途中で止めてもいい」
「そういう問題じゃなくって、俺の孔は出す孔であって挿入される孔じゃねぇし! やっぱ帰る! 俺のパンツ、パンツどこ⁉」
「まあ、そう言わず試してみよう、遥。こんなつまらない俺の部屋で初夜を迎えるつもりはなかったが、おまえのそんな色香に酔ってしまった」
だが、遥も同じだった。清継の太いペニスを受け入れる怖さもあったが、その先に根拠はないが堪らない快感が待っているような気がした。無意識のうちに触れている清継の亀頭を指先でなぞり、呼吸が荒くなっていく。
清継は遥を怖がらせないように、遥のするがままに任せていた。拙い指の動きや、まじまじと見つめる表情に勃起が自然にヒクリと震えるが遥は掌にペニスを握り込んで離そうとはしない。
「遥……少し足を広げられるか? ローションで孔を濡らそう。指が三本ほど入れば挿入も可能らしい」
「あ……うん……で、でも、もし出来なかったら……離婚するから」
「嫌ならば、口や手で射精してもいい。離婚はしたくない」
「……男同士で出来るかどうか……試して……考える」
清継に促されるように少し足を広げる。いつものような強引さで襲われたのならきつく言い返すことも、逃げることも出来たのだろうが、清継は壊れ物を扱うような優しさで遥の身体を愛しげに触れていた。
滴るほどのローションを遥の股間に塗り込め、ペニスをゆっくりと擦る。大きな掌に扱かれる感覚にジンと身体の奥が熱くなるようだった。
なぜか分からないが、もっと清継を求めるように身体が弛緩し、自分からくちづけを求めてその背中に両腕を絡めて『もっと』と囁いてしまっていた。
もちろんその遥の言葉を清継が聞き逃すはずもなく、唇を重ね合わせながら、ぬるつく指先を後孔にそっと宛てがった。
「んっ……ぁ、挿ってくる……清継、怖い……なに、これ、はっ……ぁ」
「まだ中指だけだ、遥。すごい締りだな……しかも熱くて俺の指に食いついてくる。大丈夫だ、怖がらなくていい……痛いならそこで止める」
「はっ、ぁあ……ど、して、気持ちいいんだよ……っ、もう少し、奥……んぁ!」
お互いの体温でローションが温まり、ゆっくりと抜き差しされる清継の指の動きに腰が自然と揺れてしまう。喘ぐ声が恥ずかしくて自ら清継にキスをしたり、首筋に噛み付いたり、背に爪を立てたりした。
グッとアナルに圧迫感があったが痛みはなかった。むしろ先程まで触れていた清継のあの太い勃起が欲しい。アレで内部を擦られて、熱い射精を受けたらどれだけの快感を得られるのだろうか。
怖かったのは痛みじゃない。この快感の波に溺れてしまうことだ。
二本の指で執拗に内部を探られ、足を大きく開いた姿のままその愛撫を受け止める。
だが、その指が内壁の肉にしこりに触れた瞬間、全身に走る初めての快感に呼吸をするのも忘れた。
「ひ、ぁ、なに……清継、なに……んぁ、はっ、あああっ……っ!」
「ここが前立腺というところか。遥の乳首もペニスも、この孔もピンク色で可愛いな。ここが気持ちいいんだな……そんなに俺の背に爪を立てるな、子猫のようだ」
「んんっ! 駄目、無理……イク、出る……いや、もっと、んぁ、はぁあ、あ、擦って……清継、そこ好き……あっ、あ、好き……!」
「……俺の嫁は感度が良すぎる。まだ指だけなのに。俺はおまえのそんな蕩けた顔を見ているだけでイキそうになるがな」
「イカせて……そこ、擦りながら、ペニス扱いて……んくっ、は、ぁあ……! イカせてくれたら挿入していいから……とにかく、一度イカせて……おかしく、なる……ひっ、ん!」
「本当だな? 約束だぞ?」
「いいからっ! なにしてもいいから……このままじゃ、おかしくなるっ!」
前立腺をグリグリと指の腹で擦られながら、先走りを迸らせた勃起を上下に扱かれる。これまで味わったことのないような快感だった。
清継の身体を抱き締め、その野性味のある香りを味わいながら自らも腰を揺らして快感の波に飲まれていく。
自分の痴態を清継が見つめているのが分かるが止められない。
男にアナルを弄られ、ペニスを扱かれ、キスをされている。
そんなことも頭の片隅にあったが、快感が押し寄せる。
ローションの濡れた音が静かな部屋に響き渡っていた。清継が舌を伸ばしてキスをしてくるのを受け止め、唾液を啜る。全身が快楽で溶けてしまいそうだった。もっともっと欲しいのに射精の瞬間が間近に迫っていた。
「清継……イク……イクッ、イキたくないのに……っ」
「どうしてイキたくない?」
「まだ、清継に挿入してもらってないっ! あぁ、んくッ! ふ、イク……出る、イク──ッ!」
その叫びにも似た喘ぎ声と同時に清継の掌の中に白濁を吐き出して、遥は全身の力が抜けたように広いベッドの上で荒い呼吸を繰り返していた。
後孔から一旦指が引き抜かれると、その喪失感に『あっ』と声を上げてしまった。
遥の放った精で濡れた手を拭う清継をぼんやりと見つめながらも、欲望を放ったばかりのペニスは堅さを失わない。むしろ、もっと快楽を求めていた。
「うちの嫁は絶倫か? 可愛いな。達するときは泣きそうな顔をするんだな。だが、さっきの約束は覚えてるだろうな?」
「……なんでもするっていう……」
「そうだな、俺も我慢出来そうにない。なんならもう一度指だけでイクか? 嫁の希望には応えなきゃいけないだろうしな」
「……いい」
「ん?」
「清継が欲しい……中に、挿入して、いい」
「俺のはデカいらしい。こんな締まった孔で受け止められるのか心配だな」
「……DNAレベルで相性がいいんだろ。出来るに決まってる」
「ははっ、明日は休みにしようってお互いに会社に連絡しないとな」
当然のようにそう告げると清継は遥の身体に覆いかぶさり、もう何度目かも分からないくちづけを交わした。
密着した身体に清継の太く逞しい勃起を感じる。
もう一度そっと手を伸ばしてそれに触れてみる。清継も感じていたのだろう、亀頭の先端から先走りが滲んでいた。少し上下に扱いてみると、清継の色気のある唇から『んっ』と小さな吐息が洩れたのがなぜか嬉しかった。
「悪戯な嫁にまたおしおきをしなきゃな。次は指を三本に増やそう。それから……」
「……これ、挿入すんだろ。下手くそだったら、即離婚だからな……」
もう怖さはなかった。ただ本能が清継を求めているだけだった。
清継が欲しくて堪らない。キスをしながら、その太い勃起を受け入れるために遥は足をゆっくりと開いて、十分に寛いだ孔を晒した。
(19)清継⑩
清継は髪をかきあげて、ベッド上でぎしりと遥の方へとにじり寄った。
目の前にはあられもない格好をした、遥がいる。自身で足を持ち、解れた孔を晒す姿が愛しい。その様子を見ているだけで、下半身は痛い程張り詰めていた。
中指を再度挿入すると、熱い中が蠕動して吸い付いてくる。『……あっ……』と小さい声を上げて腰を揺する遥が壮絶に色っぽい。すぐに二本めを挿入して、中をかき混ぜるようにゆっくりと動かした。
「二本目も、入ったぞ。……楽々だな」
「うっせ……んっん……そこ、イイ……」
「ここか? ああ、奥まで熱いな……根本まで咥えこんで、可愛いな遥のここは」
「……っんその、実況……いらねぇって…ぁ、馬鹿……そこ、ダメっ」
背を反らして、膝を閉じようとする遥の足の間に割って入って、清継は無理矢理に指を奥まで進めて遥へキスをする。そうすると、駄目だと言いつつも遥は、清継を受け入れて、中を締め付けつつ清継の肩を掻き抱いた。
不思議な感覚だった。今までに誰を相手にも感じたことのない、温かく、柔らかな……けれど激しい欲情だった。自身を抑えるのに何度息を吐いたか分からない。本当は今すぐにでも遥を抱きたかったが、一方でゆっくりと遥の痴態を味わっていたい自分もいた。
キスを解き、首筋に鼻先で触れてから舌で鎖骨を舐め、そのままピンと立ち上がっていた乳首を唇に挟む。指の動きに合わせて、強く弱く吸い付くと、遥が腰を捻って喘ぎ声を上げた。
「だからっ、ぁあっ……ん、もう、三本目……? 挿入、して……って言って」
「……良いのか?」
「ん、うん、良い。早く、太いの、欲し……い」
「おねだり上手だな、俺の嫁は」
指に指を沿わせて、広げた後孔へと指三本をぬっと押し込む。シーツの上で緩く頭を振った遥が、根本まで指を埋めると満足そうに長く息を吐くのが分かった。流石に中は狭くきつい。けれど、ゆっくりと抜き差しを始めると、じわじわと緩んでくるのが分かった。
「飲み込むのが上手だな、遥。……辛くないか?」
「んっなんか、すげ……圧迫感があっけど……平気……っ」
健気な返答に下肢がじんと熱くなる。腰を遥の太ももの裏側に押し当てていると、時折遥が確かめるように触れてきた。
「これが、挿んだよな……」
「嫌か?」
「……嫌じゃ、ない……」
顔を腕で隠しながら言う様子がいじらしい。腕をどかせると、やや強引にその唇を割り、キスをした。指をぐっと押し付けて中を探り、引き抜く。喘ぐその声を唇で封じて、唾液を遥の口中へと注ぎ込んだ。
「我慢の、限界だ。挿入して、良いか」
「……ん。けど、ゆっくりな!」
「分かってる」
目の前にある潤んだ瞳を見つめ返し、泣きぼくろにキスを一つ落としてから、清継は顔を上げた。遥が自身でも足を持ち上げるのに、更にぐっと指で孔を拡げる。そこへ先程から完全に勃起していた自身のペニスの切っ先を充てがうと、解れて柔らかな襞が吸い付くようだった。
「……ああ、あっ、んん……っはいって、くる……清、継……」
腰を進めると、太い亀頭部分が襞を広げてゆっくりと飲み込まれていった。予想よりも抵抗は少なく、奥へ奥へと誘いこまれるような感覚だった。快感に漏れ出そうになる声を清継も堪える。一番太い部分を飲み込ませると、後は体全体で押し上げるようにして遥を抱きしめ、少し強引に揺すりあげた。
「んぁっ、あ、いきなり……は、っあぁ……! 無理……それ、ダメ……っ」
抱きしめた耳元で高く遥が喘ぐ、ぎゅっと背中を抱きしめられて、足が腰へと絡みついてくる。声に反して身体は素直に反応し、中で清継を締め上げてきた。
「どこが、ダメだって……?」
「ん、意地悪、言うなよ……あ、あ、感じる、そこの、浅い所もっと……擦って」
「後でな。まずは、奥までお前を味合わせろ」
「……や、本当、あんた、いじわ……んっ!」
少し身体を離すと、遥の腰を掴んで清継は自身の腰を大きく前後させた。奥へ奥へと進めて、最奥まで大きく身体を揺する。遥は髪を乱して、シーツを掴みその激しい動きに耐えようとしている様子だった。汗がお互いの肌の上を流れて、結合部からはローションの泡立ついやらしい水音が寝室に響いていた。
「凄くっ、締まるな……遥。そんなに、気持ち良いか……?」
「んっんっ、は、あぁ……イイ……、くやしいけど、ナカ……感じる……ん、ぁ」
「はは、じゃぁ、離婚は回避だな……俺もめちゃくちゃに感じてる……好きだぜ、遥」
そのいつもの告白に、遥の中がきつく締まった。遥を覗き込んで見れば、怒りとも取れるようななにかを堪える表情でこちらを睨んでいる。それが可愛くて、清継は笑った。
「今更、照れてるのか」
「俺、……俺、は……っ」
「可愛いな遥……愛してる。お前といると飽きない、ずっと側にいろ」
「そんな、だから……そういう事を……っ!?」
深く沈めていた腰を勢いよく引いて、切っ先で肉壁を擦りながら清継は遥が良いと言った前立腺あたりを突き上げ始めた。『ひっ』と身体を反らせた遥を抱きすくめて、全身でそこを愛撫する。揺すりあげると、目尻に涙を浮かべた遥が我慢できないように『ンっ──……』と唇を噛むのが壮絶に色っぽかった。清継もそれに煽られて、律動を早くする。
「……んっや、ぁあ、あっん……清継ー……は、無理、もう……イク、イクっ」
「早く、ないか? っけど、俺も……お前の声腰に来るわ。可愛い、遥」
「なんっでも、いいから……ぁあん、んっ、イカセてっ……持たな、い……っ」
「……分かった、分かった。そら、前も、擦ってやっから……イケよ、ほら」
二人の間で揺れる遥の勃起したペニスを清継はその手に握った。先走りにヌルヌルのそれは手の中でも勢いよく跳ねて、今にも破裂寸前だった。指先で先端の割れ目をくすぐり、そのまま手の中で上下に扱き上げる。腰は容赦なく奥まで遥の中を突き上げて、追い上げるようにペニスを何度も秘肉を割って中へと押し込む。
「あぁ、んっ、イク……やっ、イっちゃう……駄目…っんぁ、ひぁ、イクっんっ──……!」
体を大きく震わせて、腕の中で遥が達した。放出は長く、勢いよく精液が飛び出すたびに中も締り、清継を責め苛んだ。
「俺もイク……中で、出していいか? 遥、はるか……──っ!」
締め付ける中を無理矢理に何度も抜き差しして、最後は最奥に亀頭部を擦り付ける。グリグリと先端を刺激してやると、絞られたペニスが遥のまだヒクヒクと震えている中へとどっと大量の精液を吐き出した。
腰を押し付けて全てを遥の中へと出し切ると、漏れ出た精液が互いの間を流れるのが分かった。
「あ、お前……ナカ、っ馬鹿……んっ」
気づいた遥がぐったりとしながらも、清継の腕の中で身じろごうとする。そんな遥を抑え込むと、清継は遥の額にかかった髪を掻き上げて、その額にキスをした。そのまま目尻のホクロを指でたどって、唇を開かせる。逃げようとする遥の顎先を捉えて、唇を開かせ長いキスをした。
「まだ出すなよ、暫く俺を味わえって」
「……阿呆、早く……ん、抜けって……んんっン」
舌を絡ませ、お互いの唾液を交換し、飲み下す。ほうっと息を吐く遥の中でまだ収まらない自身を感じながら、清継は笑み混じりに遥に問うた。
「で、離婚は?」
「うっ……」
遥が言葉に詰まり、目を泳がせる。
『離婚はしない』、そう遥が口にするまで今夜は遥を寝かせないと清継は誓い、実際声が枯れるほど泣かされることに遥はなったのだった。
(20)遥⑩
もう何度イカされたのかも覚えてなかった。絶倫というのは本当にあるのだとシーツを掴み、後孔を幾度も穿つペニスを感じながら遥は最後に意識を飛ばした。
温かな腕に抱き締められ目を覚まし、ぬるつく下半身を気にしながら身体を起こそうとしても腰がガクガクと震えて起き上がる事もできない。快楽の波というよりも、津波だった。
離婚はしないと何度も言わされ、自分でも清継を求めた。
「ちょっ、どけ。風呂入りてぇ」
清継の胸元をぐいぐいと押しながら掠れた声で告げる。下半身に力を込めていないと、たっぷりと吐き出された清継の精が溢れ出しそうだった。それ以前に遥が放った精液がシーツやお互いの身体を汚してはいたが。
いま何時だろう。時間の感覚もない。薄く明るい。早朝なのだろうか、夕方なのだろうか。
「……遥、起きたのか。どうした。もう一回……」
「やらねぇよ! 風呂! 後ろ……ぐちゃぐちゃで……」
羞恥のせいでそれ以上の言葉は続けられなかった。しかも身体が動かない。
髪を撫でられ、強く抱き締められながら額にキスをされる。清継の胸元に顔を寄せて『風呂、入りたい』と遥がもう一度呟いた。
抱き上げられて二人でバスルームに向かう。ガラス張りの向こうはきらびやかな景色が一望出来た。たぶん夕方なのだろう。ほぼ半日をベッドで過ごした。
(もう……いい。清継が俺の旦那なんだろ……)
支えるように抱かれ、シャワーで丁寧に後孔の残滓を掻き出して貰いながら、敏感になり過ぎている身体の反応を遥は堪えた。ゆったりと寝そべられそうな広い風呂に二人で入り、清継をソファにするように背後から抱き締められると、心地よさを感じずにはいられなかった。
「こんなセックスは初めてだった。俺の嫁は思った以上にいやらしくて感度がいい」
「……うっせぇ。おまえが絶倫なだけだろ」
「身体、大丈夫か? つい、やりすぎた。遥が射精せずにイッてから意識無くしたもんだから、心配になって諸岡に電話した」
「はっ⁉」
「なにかあったのかと思って。俺も男を抱くのは初めてだったしな」
「そ、それで諸岡さんは……」
「大丈夫だから起きたら丁寧にアナルの洗浄をすればいいって。あいつはゲイだからそこらへんは詳しい。傷がないかと少し怒っていたが」
「だからって普通そういうこと聞くか⁉ ってか、諸岡さんゲイなんだ⁉」
「遥の身体になにかあったら大変だろう。救急車を呼ぼうかと思ったんだが、セックスしてたら嫁が意識を失いましたっていうのもおかしいかなと」
もう、返事をする気力もない。清継に悪気がないのは分かっている。逞しい腕で背後から抱き締められて、首筋にキスをされる感覚が恥ずかしくも気持ちいい。
だが、諸岡にも事細やかにすべてを伝えたのだろう。『イキ過ぎた嫁が意識を失ったんだが』とかなんとか。次はどんな顔をして諸岡に会えばいいのだろうと遥は半ばやけくその状態で身体を清継に任せるようにもたれかかった。
「腹が減ったならなにか食べに行こうか。ケータリングを頼んでもいい。遥はなにが好きだ? 最初に食事に行ったときにはホッケというものを食べていたな。ホッケがいいか?」
「……飯を食う気分じゃねぇ。近くにコンビニ、あるか。それならそこでいい」
「コンビニ。なくはないが立って歩けるか?」
返す言葉もなかった。少々腹は減っていたが、まだ腰が震えて足の先に力が入らなかった。だらりと清継に抱かれて浴槽に身を伸ばしているしか出来ない。
耳朶や首筋にキスをされ、大きな掌で身体を撫でられても払い落とす力もなく身を預ける。不思議にそれが心地良い。『好きだ、遥』と低い声で囁かれるとなぜか身体の奥がキュンと痺れるように疼いた。
「……ケータリングで。なんでもいい」
「じゃあ適当にコンシェルジュに選ばせよう。あとはシーツの替えも頼まないとな」
「……えっ……あのシーツ?」
「遥がイキ過ぎて、汚れただろう」
「いや……あの……」
「ハウスキーパーに頼めばすぐだ。いいワインも頼もうか、ワインは好きか? ワインが飲めるならチーズやバケットも頼もう。思いがけず早い初夜を迎えたが、こんな幸せで満ち足りたセックスは初めてだ」
「初夜とか言うな! これは……なんだ……勢いっていうか……」
「愛してる、遥」
人の言葉を聞かない清継の行動はいつものことだったが、離婚はしないと何度も誓わされた。DNAの相性というのは本当なのかもしれない。常識的に男同士だの、生活水準の違いなどを考えても遥を抱き締めてくれている清継が愛しい。
「ひょっとしたら……DNAレベルで……好きになるかもしれねぇ、かも」
少し清継に顔を向け、遥はそう囁いてから唇の端にキスを落とした。
その時の驚いたような、嬉しそうな清継の表情を忘れることはないだろう。ギュッと強く抱き締められ、何度も愛してると囁かれた。遥もまた無言のままその囁きに頷いた。
恥ずかしさで居たたまれなかったが、ふかふかのバスローブに身を包み、リビングで座っている間にハウスクリーニングの人間が手早く寝室を清掃し、寿司や中華やパスタ、ワイン、シャンパン、フルーツやスイーツが届けられてテーブルに並べられていく。
(なんのパーティだよ……)
もうこんな異次元な空間に突っ込む気にもなれなかった。始終ご機嫌な清継が『ホッケはないのか』とコンシェルジュに電話で言いつけていた。
「いや、そこまでホッケが好きなわけじゃねぇし、いいから」
「うちの嫁の好みがまだ分からんから、いろいろ頼んでみた。まだ疲れてるだろうけど取り敢えず好きなものを教えてくれ。今後の参考にする」
「あー……えっと……マグロの刺身は好き」
「よし、じゃあ刺身の追加を──」
「いいから! そこの皿のだけでいいから!」
「まあ、初夜だしな。二人きりの時間を俺も持ちたい」
清継の雰囲気ならこの部屋でマグロの解体ショーでもさせようとしていた。遥はそれを遮って、スマホを取り上げる。
ソファの隣に座る清継の肩に頭を預け、首筋にキスをした。
「少しゆっくりさせてくれ。俺はおまえほどタフじゃない」
「俺の嫁は本当に可愛いな。俺も少し浮かれていた。食事をしてから──」
「セックスはもうしねぇからな」
「もっとしてってねだったの遥のほうだろう」
「……言ってねぇし」
「言った。離婚もしないからもっと奥にいっぱい出してって」
「ぬああああああああ!!」
その記憶がなかったとは言わないが、改めて口に出される羞恥に遥の目元が赤らむ。少し恥ずかしげに顔を伏せた遥の目尻の黒子に清継がキスを落とした。
そんな場所が性感帯であるはずがないのに、清継にくちづけされると感じてしまう。ベージュのガウンの下はもちろんなにも着ていない。数時間前にあれほど射精したというのに、清継のくちづけだけで下半身に熱がこもっていく。
「……清継、飯、しよ」
「食事のあとは?」
「……寝る」
「寝かさないって言ったら?」
「セクハラで訴える」
「俺はその言葉をよく言われるが、夫婦なんだし、遥がもっとってねだるからなぁ」
「ねだってない!」
「じゃあ試しにもう一回してみるか?」
「……飯、食ったら……寝るし」
「遥、いっぱい食べろ。おまえは細すぎる。毎日抱いても壊れない身体になれ」
「だ、抱かれねーし! 取り敢えず腹が減っただけだし! 絶倫バカ!」
「ははっ、うちの嫁はやんちゃだなぁ。ほら、喉が乾いたろう。なにが飲みたい?」
「……ビール」
「ん。缶ビールしか用意出来なかったが、生ビールがいいならコンシェルジュに頼んで──」
「缶ビールでいいからっ!」
言葉だけなら反論出来るが遥はまだ身体が脱力したままだった。
あの太いペニスを掌が覚えている。本能的に夢中になってそれに触れ、亀頭を指先で弄った。挿入された瞬間、痛みや圧迫よりも快感が先行してそれだけで果ててしまいそうだったことも覚えている。
性的な欲望に導く清継の指使い。何度も精を放たれた内部を洗う優しい指。
大切にされているのだと思わずにはいられない。
そして、まだ身体が清継を欲していた。
「……あと、一回ぐらいなら……」
「うん?」
「……離婚しないって言ったから。取り敢えず、お試し期間ぐらいはいい」
「うちの嫁もなかなかの絶倫だな。とにかく、ビールと食事。寝室も綺麗になっただろうし、お試しとやらをやってみよう」
缶ビールを手にした清継がそれを一口飲み、二口目は口腔に含んで口移しで遥の喉に流し込む。強引な行為ではあったけれど嫌だとは感じなかった。もっと欲しいとねだるように自ら清継の口内に舌を差し入れ、苦味のある舌を絡ませた。
「まだビールが足りないのか、遥」
「喉、乾いてる」
「じゃあ、もう一口」
苦いビールが甘く感じられ、喉を鳴らして口移しのそれを飲み込む。もっと欲しいと言わんばかりにわざと強く清継の首筋に爪を立てて、おかわりをねだる。清継は嬉しそうに微笑みながら何度も何度もビール混じりのキスを繰り返した。
豪華な食事が揃っていたが、清継の背に両手を伸ばしてビールのキスを受け止めるしか出来ない。明日もまた立ち上がることも出来ないだろう予測が出来る。くちづけられながら、バスローブの前を開いてすでに勃起した股間を清継に撫でられることになんの違和感もなかった。
(21)清継⑪
冬の近くなった空は晴天で空気は乾いていた。
程よく加湿された最上階の社長室で、清継はいつものように下界を見下ろしていた。そこにやや呆れ声がかけられた。
「いつまでそうなさっているおつもりですか」
「待て諸岡。昨夜の遥の可愛さを反芻しているんだ。もう暫くはかかるな」
「そう言ってもう小一時間ですよ。仕事とプライベートは分ける質だと思っていましたが」
「俺も昨夜まではそう思っていた。だが違った」
「……遥様はお元気ですか?」
「ああ、俺の腕の中で何度も跳ねていたぞ。その後、飯もよく食っていた」
「そういう惚気を聞きたいわけでは……」
「少しは語らせろ。男同士は初めてだったが、凄かったぞ。政略結婚した相手となかなか離婚に至らないって話はそういう意味もあるんだろうな。あまりの相性の良さに、俺の方がもたないかと思ったほどだ」
「それですと、遥様は溜まったもんじゃなかったでしょうね」
「嫌味か? なんとでも言え。あの遥が、離婚を撤回したぞ」
「本当ですか?」
その報告には、諸岡も眼鏡の奥で僅かに目を見開いた。それからほんの少し目元を和らげて、微笑む。
「それは、おめでとうございます。これで、弁護士の準備はいらなくなりましたね」
「ああ、そうだ。あの訪ねてきた男には悪いが……俺の腕の中で何度も確認したからな。後は挙式まで一直線だ」
「期間も後一ヶ月と少し。十分、間に合います。……教会での挙式でよろしかったでしょうか?」
「ああ、俺も遥もタキシードで良いだろう。遥にはきっと白が似合う」
「わかりました。……遥様には衣装合わせや打ち合わせに何度かこちらへ来てもらわなければなりませんね」
「そこも抜かりはない」
「はい?」
「遥には結婚までの週末を、うちで過ごすよう提案した。相当渋っていたが……最後はコミュニケーションだと言い含めて頷かせたぞ」
「悩まれる遥様が目に浮かぶようです」
お労しい、と諸岡は目を伏せる。
「では、式の件は週末を中心に。弁護士の件は取りやめにして……鈴木浩太郎様の件は私に一任していただけますか?」
「ああ。それで任せる。……しかし珍しいな、お前自身が出張るのか?」
「一応は、遥様のご友人のことですから……」
「そうか、なら、好きにしろ」
「はい、そうさせていただきます」
一礼して、諸岡は書類を清継のデスクへ置くと社長室を退室した。はあっと諸岡は静かに溜息をつく。
「あれでは午前中いっぱい使い物になるまい……しかし、社長のあんなに嬉しそうな様子は初めて見るな」
清継の嬉しそうな笑顔は今までに何度も見てきた。仕事でもプライベートでも。しかし、それはどこか尖った、荒々しさを持った笑顔だった。しかし今日の笑顔は違った。満ち足りた、優しみや慈しみさえ感じるようなそんな笑顔だった。
「それに反して……」
数日前に、相対した浩太郎のことを思い出す。一見スマートな若者だったが、手負いの獣のように怒り、傷ついた目をしていた。
(遥様も罪作りな……)
一見しただけで、浩太郎が遥を好きなのは分かった。ただの幼馴染にしては、遥への思いが強すぎる。普段は冷静なのだろうが、ここにまで一人で乗り込んで来るという暴挙までしでかしている。ああいう、若者を見ると放っておけなかった。
しかも、結婚式の招待者リストには、浩太郎の名前も入っている。
幸せそうに愛を誓い合う二人を浩太郎はどう見るだろうか。そして、自分は……どうしてこうも彼が気になってしまうのだろうか。
「ミイラ取りがミイラになる……じゃないですよね」
諸岡は苦く笑った。だが一度浩太郎とゆっくり話がしてみたい、そう思った。
「誰、かと思いました……」
オールバックの髪に着崩したシャツ、身体のラインの顕なパンツ姿の諸岡を前にして、浩太郎が目を見開いていた。
「休みの日ですからね。ちょうど個人的な話もしたかったもので……座りましょう」
「は、はい」
二人は休日日中に新宿二丁目に近いカフェで待ち合わせをしていた。私服の諸岡に対して、浩太郎は前回と同じくスーツをきっちりと着こなしてきていた。幾分の緊張が見て取れる。二人してコーヒーを注文すると、それが届くまでに二人してお互いの様子を探るように沈黙が落ちた。ウェイターがホットコーヒーを二人の前へと置く。声は同時に出た。
「それで」
「今回は」
どうぞ、と諸岡が促した。浩太郎が眉を少し寄せつつ、目を逸らした。
「今回は、実は……なんとなくお話っていうのは分かっているんです。まだ、遥からは聞いていませんが……。離婚が取りやめになった、んですよね?」
「そうですね」
諸岡は冷酷に告げるしかなかった。カップをそっと持ち上げて口に運ぶ。そろりと伺うと、一見浩太郎は冷静に見えた。なので、諸岡も決定打を口にする。
「遥様は、離婚を撤回されました。なので、もうこちらとそちらが争うことはないとお知らせするために来ていただきました」
「やはり、そう、ですか……」
ぐっと身体に力を込めた浩太郎が、その力を抜くことはない。なにかに耐えるように諸岡からは目を離したまま、自分の中の感情をどうにか整理しようとしているようだった。ほんの数分のできごとだったかもしれないが、諸岡には妙に長く感じられた。小さく、息をついた浩太郎が、真っ直ぐに諸岡を見つめ返してきた。その声は静かで、葛藤を微塵も感じさせないものだった。
「末永が、遥がそう言うのでしたら、仕方ありません。政略結婚制度自体には、私は今も反対ですが……この結婚に関しては、彼の友人として祝福することにします」
「そうですか」
「ええ。……少し思うところはありますが、遥の幸せが一番です」
目を伏せた浩太郎が、それではと立ち上がる気配がする。なぜそうなったかは分からない。気づけば、諸岡はその手を取って引き止めていた。
「本当に、それでよろしいんですか? あなたは、これ以上なにも遥様に告げずに?」
「え?」
瞬間的に手を振り払おうとした浩太郎だったが、諸岡の思いもかけない言葉に動揺したようだった。眉を寄せ、唇を噛み締めた後、小さく笑った。
「そんなに駄々漏れですか、私の恋情は」
「いえ、誰も。私以外には、久堂も気づいていないかと」
「それなら安心しました。……良いんです、告白はしました。離婚も勧めました。けれど、遥が選んだのは俺じゃなかった。それだけの話なんです」
『どこにでもある失恋話のひとつです』と、浩太郎ははにかんで笑った。諸岡は掴んだ手をゆっくりと離して、自分より二つ年下の青年を見つめた。浩太郎の素の表情を初めて見たと思った。
「宜しければ、また……会いませんか?」
諸岡の口から自然とその言葉は出ていた。どうしてそういったのか分からない。いや、予感はする。このまま、どこか自分と似ている不器用な青年に気持ちが傾く予感だ。
諸岡は、訝しげに首をかしげる浩太郎へ少し困ったような笑顔を向けた。
(22)遥⑪
ごく平凡な日常と、週末のタワーマンションでの清継との非日常的な二日間。
社内メールを作りながら、明日はまた清継の部屋に行くのだと思うと下肢が疼いてしまう。好きだと思うことにもう躊躇はなかった。あの唯我独尊な清継が、たまに心配そうに『俺のことが好きか』と聞いてくる表情が愛しい。
(……好きだって何回言わせんだよ……)
あの太いペニスを体内に受け入れることにも慣れてきていた。むしろグッと腸壁を穿つその瞬間に射精を堪えるのが大変だった。早くイッてしまうと清継がからかう。そして何度も遥の奥を突き上げた。いつも遥からキスを送ると清継は満面の笑みを浮かべ、その逞しい腕で抱き締める。そしてそれから何度も愛される。
『離婚調停の話したいから、浩太郎の暇な時間があったらいつもの居酒屋で会いたい』
そのメールを浩太郎に送るとすぐに返事がきた。『今晩、八時ぐらいなら』。そのメールに了解の短い返事を返し、遥はいつもの退屈な仕事に戻った。
居酒屋のドアを開くと浩太郎の姿がそこにあった。いつものようにビールのジョッキを片手にすでにカレイの唐揚げをつついていた。
「俺もビール。あと筑前煮お願いしまーす。待たせたかな、浩太郎」
「さっき来たところだから大丈夫……遥がしようとしてる話の内容も分かってる」
「……え?」
「諸岡さんに会って、おおよその話は聞いたから」
その言葉で耳まで赤くなると同時に、遥は俯き頷いた。もう清継に抱かれたことを浩太郎は知ってしまったのだろう。しばらく沈黙が続いていたが、ビールが運ばれてきたことで息を吐いて遥はそれを喉に流し込む。
上目遣いにチラリと浩太郎の表情を伺ってみるが、笑みも怒りも感じない。
「あー……うん。離婚、取り敢えずは止めようかなって」
「俺は遥が幸せならそれでいい。諸岡さんと話をして、離婚調停は進めない方向にした」
「……なんか、ごめん」
「いい人なのか、久堂って男は」
「まだわかんねぇけど……正直な男。大きな波みたいで強引でわがままだけど、嘘はつかない真っ直ぐな感じ」
「……そっか。遥、ヤバいぐらい色気出てる」
「えっ!? なにそれ、ないない、なんか清継に振り回されてるだけっつーか──」
「おまえのこと何年見続けてると思ってんだよ」
「は、はい……すみません……」
筑前煮が運ばれてきたことで会話が一瞬止まったが、浩太郎がスッと背筋を伸ばして遥の髪をくしゃりと撫でた。その顔には薄っすらと泣き出しそうにも見える笑みが浮かんでいた。
「俺を振ったんだから幸せになれよな。あと今日はおまえの奢り」
「お、おう! 奢る。なんでも頼め。マジごめん。俺、俺……浩太郎のこと好きだけど──」
「もういいから。俺のことが好きなら遥が幸せになれ。あと、今日は朝まで飲む。幼馴染の結婚を楽しもう……あ、もう結婚はしてるんだっけか」
それから二人でビールや日本酒や焼酎を次々に頼み、昔話に笑いあった。
浩太郎のことは好きだけれど、やはり恋愛対象にはならない。抱き締められてキスをされてもただ驚くだけだったことを思い出す。だが浩太郎は遥を性的な対象として何年も見ていたのだろう。遠回しな言い方だっただろうが清継と遥がセックスをしたということも分かっている。なのにこんなにも優しい。
「……浩太郎……なんだろうな、この制度って」
「政略結婚制度? 俺はまだ完全に認めた訳じゃないけどな」
「……俺が結婚したら……祝ってくれるか……?」
「遥を幸せにしてくれる相手となら祝う」
「……ごめんな……ありがとな」
「絶対に幸せになれよ」
「がんばる」
「よし、じゃあ飲むか。俺も遥に振られたことだし、またいい相手見つける」
少し泣きそうだった。こんなにも自分を好いてくれている相手が隣にいてくれたのに、まったく気付かなかった。そして浩太郎は遥の幸せを願ってくれている。
国が勝手に決めた政略結婚。たった二枚程度の紙切れで決められた人生。
筑前煮のこんにゃくを頬張りながら、遥は何度も頷く。浩太郎には幸せになって貰いたかった。浩太郎ならきっと自分よりも素敵な相手が居るだろうと思いながら。
「ねぇ、結婚式はどういう服装で行ったらいいのかしら。教会でしょ? 和服じゃちょっとねぇ。遥はどう思う?」
「いいよ、なんでも」
「お父さんはスーツにするっていうから、私も新しいスーツ作ろうかしら。あ、清継さんから落雁が送られてきたからお茶でもしましょう。一人息子の嫁入りですものねぇ、あらあら困っちゃうわぁ」
(だから息子の嫁入りとかいう不自然なワードどうにかしろ)
二階の自室に上り、いつもの量販店のジャージに着替える。週末に清継の部屋で着ているバスローブやパジャマは数万円以上のものだ。この落差にはため息しか出ない。
けれど清継のあの強引さで結婚式の日取りや、新居、新婚旅行の話が毎日のように告げられる。あまりの勢いに遥が怯むと、今度は冷静な口調で諸岡が謝罪を含めた電話を掛けてきた。
そしてスマホの着信音が鳴り響く。もう見慣れた清継からの電話だった。
『遥、愛してる』
『切るぞ』
『大切な話だから切るな』
『……大切って?』
『寝室のシーツの色はどうする?』
『マジで切るぞ』
『じゃあ諸岡に任せるか。明日、こっちに来るのか?』
『……行かないと十秒ごとに清継から電話が鳴るからな』
『一緒に暮らせば電話の必要がなくなっていいじゃないか』
(ポジティブ。超ポジティブ。相手のことなどお構いなしにポジティブ過ぎる)
『寿退社だな』
『あ、え……うん……』
『仕事をしたいなら俺の下で働けばいい。しばらくゆっくりしたいなら専業主婦でもいい。その前に新婚旅行だがな』
『あー……えっと、昨日、浩太郎と飲んでた』
『あの幼馴染か。また浮気でもしたか』
『してねぇよ。離婚調停はなしにするって話をしただけ』
『どうも諸岡が幼馴染ちゃんを気に入ったみたいだぞ』
『……へっ!?』
『また明日話す。諸岡に気に入られるとか幼馴染ちゃんも大変だろうな』
いかにも楽しげに盛大に笑いながら電話が切られた。
もう思考停止するしかない。
「遥、お茶にしましょー」
「はいはい」
「お母さん、今日奮発して美味しい緑茶買ってきたの。落雁に合うわよ」
階下から聞こえる母親の声が現実に引き戻してくれるようでなんとなく嬉しかった。
式まであと数週間。いまだに現実味がない。
週末に清継のマンションや会社に行けば、新居の話や、式で着るタキシードの寸法を測る店に連れていかれる。そして夜は、嫌というほど抱かれた。
平日は地味に会議に参加したり、封筒にゴム印を押したりしているのに、週末は数万円もするシャンパンを飲みながらタワーマンションで夜景を見ていた。出世する見込みなんてほぼない平社員が、こんな週末を送っているとは誰も思わないだろう。
結婚相手は久堂清継だ。日本でも五本の指に入る財閥の社長。国が勝手に決めた相手とは言いながらも、二人の夜はこれ以上はないほどの相性だった。男と寝るということ自体考えたこともなかったが、求め、求められ、時間を忘れて貪り合う。
量販店の二万円のスーツから、週末はオーダーメイドの高級ブランドのスーツになる。
「結婚式って……マジかよ。マジなんだよな、もう結婚してるけど、式まですんのかよ。こんな地味な俺と? みんな引くよな絶対」
改めて考えると手放しで楽しがる気分にはなれなかった。だが、毎日を清継と過ごす空気感にはどこかときめいてしまう。文句を言いながらも清継のことは愛している。抱き締められてキスをされるだけで、身体の奥が疼く。まだしたことはなかったが、あの太い勃起を舐めてしゃぶりたいと思ってしまう自分がいた。
「遥っ! 早く下りてきなさい、お茶が冷めるわよ」
「……あー、うん。すぐ行く」
熱を持ち始めた下半身を深呼吸でなんとか収め、ドアを開いてリビングに向かう。
お洒落やセンスとは縁遠い母親の手作りの微妙なぬいぐるみや雑貨。あまり喋らない父親はお茶を飲みながらどうでもいいようなテレビを見ている。母親はまだ式に着ていく服はどうしたらいいのかと早口で喋りながら落雁を摘んでいた。
ここに清継が居たらどんな顔をするのだろう。リビングといっても清継のマンションの玄関先と変わらない広さしかない。奮発したという緑茶もセールのものだろう。
温かいお茶を飲みながら、もちろん諸岡のセレクトだろう落雁を口にする。
「なぁ。俺が結婚してここの家を出たら、部屋どうすんの」
「そうねぇ、遥は鈍感だしいつ離婚されるかもわかんないからしばらくおいておくわ」
「……え、俺ってそんな鈍感?」
「そういうところお父さんに似てるわよねぇ」
なぜか納得しそうな、反論したいような微妙な気持ちになりつつも、遥はグイッとお茶を飲み、上品な甘さの落雁を齧った。
(23)清継&遥
その日が来た。
晴れ渡った空に雲ひとつ無い晴天。少し肌寒くはあったが風もなく穏やかな小春日和だった。
場所は丘の上に立つ、真っ白な教会。
遥は本来なら花嫁が待つ教会の扉の前で一人、白いタキシード姿で深呼吸をしていた。
教会の中には列席者全員が揃って、俺の入場を待っている。
清継は最初『花嫁入場』と進行役に言わせようとしていたが、遥はそれを断固拒否して『花婿入場』にして貰っていた。入場も付き添いはいらない。自分と清継の結婚式だ。貰われていく花嫁なんじゃなく、自分で清継を選んだんだと、自分の足だけで清継その横に立ちたかった。
静かに、厳かに木製の扉が開かれる。
真っ直ぐに、同じく白いタキシード姿の清継へ向けて赤い絨毯が足元から伸びていた。
左右には参列者がびっしりと並んでいる。
ほんの少しの緊張と、予想以上に……誇らしいような、照れくさい気落ちを抱えながら遥は真っ直ぐに清継の元へと歩いていった。
清継側には、少し離れた位置に諸岡の姿が見えた。
少し視線をずらすと苦笑する様子の浩太郎が拍手を送ってくれている。
なんと、母親は泣いている様子でハンカチで目頭を押さえ、父親がその背に手を当てて、同じく涙ぐんだ様子だった。
長く感じた道程の先、遥からすれば悔しいほどにオーダーメイドのタキシードが似合う清継が満面の笑みで遥へと手を差し出していた。
「漸く俺のものになるな、俺の花嫁」
「……馬鹿、花嫁じゃねぇっつの」
祭壇の前で、小声でやり取りをする。
遥の脳裏を慌ただしく、長かったようで短かったこの3ヶ月が過る。最初は男同士で政略っ結婚なんて間違いだと思っていた。それから、清継が現れて冗談じゃないと思った。本人の意志を無視しやがって……と何度思ったが知れない。
だが、俺様で人の話を聞かない強引な清継は知れば知るほど、可愛い……素直な人間だった。庶民の事をなにも知らなくて、けど大企業のトップに立っていて。何より、真っ直ぐに遥へ愛情をぶつけてくれる。
指先を重ねた手の先が、手袋越しにチリチリするように熱い。
ステンドグラスから降り注ぐ光が周囲をキラキラと輝かせて、何故か遥は泣きたくなった。
神父から声をかけられて、二人して祭壇へと身体を向ける。
「新郎、久堂清継。貴方は新郎、末永遥をお互いを夫とし、病めるときも健やかなるときも共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
神父の静かな問いかけに、清継が当然のように笑んで力強く答えた。
「はい、誓います」
声は教会内に静かに響いた。遥は深呼吸してそんな清継の横顔をちらりと見、そして神父へと向き直る。
「新郎、末永遥。貴方は新郎、久堂清継をお互いを夫とし、病めるときも健やかなるときも共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「──はい、誓います」
遥の迷いもない声も静かに響いた。
「皆さん、お二人の上に神の祝福を願い……」
神父の言葉は続く。
「それでは、指輪の交換をお願いします」
そこで式で初めて、遥と清継はお互いに向き合った。遥が手を差し出すと、一歩遥へ近づいた清継が穏やかな笑顔を見せて首を傾げた。指輪をお互いの指へと嵌める。
「綺麗だぜ、俺の花嫁」
「そこは格好良いだろ。……あんたも、格好良いぜ」
「そうだろう。世界中の男の中で、お前にとって一番格好良い男になる予定だからな、俺は。覚悟しろよ」
「馬鹿言ってろ」
遥の中に不思議と緊張はもうなかった。おそらくこうやって言い合いをしながら今後も過ごしていくのだ、この男と。晴れやかな気分で、目の前の清継を見つめ返す。
「それでは、誓いのキスを」
(きたきた、流石にこれはなぁ……照れるよなぁ……。いらねーんじゃないかって何度も俺が言ったのに、絶対いるって、清継は譲らねぇし)
遥は参列者の方へは出来るだけ顔を向けないように、更に一歩前へと進んだ。
(まあ、すぐに終わるだろ、チュってして……っ!?)
「だから、誰の手もつかねぇように、しっかりマーキングしとかなきゃだな」
その声とともに、腰にぐっと腕を回されて遥は目を見開いた。そこまでする必要はないはずだ。しかし、清継の方へ強引に引き寄せられて腕も引かれた。二人の身体が段上で密着する。ざわっと列席者からざわめきが上がるのを無視して、清継は腰を抱いた遥に深々とキスをした。
「阿呆! 清継っ……ん……!」
驚きで開いたままの遥の口腔に清継の厚みのある舌が差し入れられる。逃げようとする手を封じられて、口内を自由に動き回る舌に蹂躙された。水音がする長い口づけに、参列客が呆気にとられているのが分かる。けれど、キスが長引くほどに遥の身体から力が抜けて行くのも事実だった。
(……もう、どうにでもなれ……!)
遥は抵抗を止めて、がっと清継の首筋へ自分からも腕を回した。ぎゅっと腕に力を込めて、清継の身体を抱きしめる。今日から……ずっと前から自分の夫だった、男の身体に縋り付く。
呼吸で、清継が笑ったのが分かった。悔しいが仕方ない。好きになってしまった。恋してしまった。もう……愛しているのかもしれない。
差し入れられた舌に応えて、自らも舌を絡める。一生離さないというように背伸びして、抱きしめた。噛み付くように至近距離で見つめ合った。
「……こんなに、したんだから……っ責任、取れよ」
「勿論。死が二人を分かつまで、だ」
キスの合間に囁き開い、またキスをする。
「あらあら、仲良しな夫婦ねぇ。うちの遥もあんなに嬉しそうな顔しちゃって、ねぇ、お父さん」
「……ふむ。遥も大人になったな」
少し遠い席で二人の姿を見ていた浩太郎が僅かにその二人の姿に視線を反らしていた。だが、その隣に諸岡が座り『やけ酒にお付き合いしますよ』とそっと囁いた。
最初は政略結婚だった。まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかった。けれど後悔はない。自分の横にはこれからずっと清継がいる。わがままで強引な、愛しい王様。一生こうして楽しく言い合いを続けながらともに生きていくのだ。
「──清継、愛してる」
「俺も世界一可愛いお前を愛してる」
三十歳になった。
なってしまったというのが感覚としては正しい。
久堂清継(くどうきよつぐ)はとある書類を手に、高層ビルの社屋から下界を眺めていた。
短く整えた黒髪に、気の強そうな鳶色の瞳。整った鼻筋に肉感のある大きめの唇は女性からセクシーだとよく褒められた。
莫大な親の金、受け継いだ大会社、抱えた大勢の従業員。それらを元に仕事して仕事して、遊び倒して、また仕事をしてきた。自由気ままに過ごした日々もこれで終わりだ。
鋭い眼光に鍛えられた体躯をスーツの下に隠し、商談相手には微笑みを絶やさない。しかし、一旦笑みを収めればその男らしい精悍なルックスと他を圧する存在感で、人々の中から抜きん出てる。自他共に認める自信家で野心家の男であり、そのための努力も惜しまない。
その制度は知っていた。だから通知には驚かなかった。正直この日を待ち望んでいたかもしれない。
『政略結婚通知』
その書類の一枚目にはそう書かれていた。薄い紙切れが二枚。その二枚めには自身の結婚相手の写真が貼られ、氏素性が書かれていた。
「へぇ……面白いじゃんか」
一読して唇の端を引き上げる。相手の写真の目元、泣きぼくろに指を這わせる。
こうなるなんて予想もしていなかった。だから人生は面白い。そう思わせてくれるには十分だった。
「政略結婚法」が施行されて二十余年。
それは、政治家や俳優、高額納税者などの著名人は三十歳までに結婚をしなければならないという法律だ。そういった人々が三十歳になる前日までに婚姻が認められない場合、国から政略結婚の斡旋が行われる。家族構成や性格、DNAの相性まで調べられて、国中からたった一人が選ばれる強制結婚だ。
本人の意思や思いは関係ない。即日結婚となるため、反対する人間もいなくはないが、所詮は著名人や超有名人に限った雲の上の話。国民全体の関心は薄かった。
そして清継はそのたった一握りの人間のうちの一人だ。
「今日の午後の予定は?」
「会議が二件と、夜は会食が入っておりますが」
「全てキャンセルだ」
「はい。──はい?」
「めでたくも俺の結婚の日だぞ。そんな些細な用事に構っていられるか。花嫁を迎えに行く」
「そ、そうは申されましてもっ……!」
長く務めてくれている秘書の諸岡は細かく融通が利かない。少し大雑把で派手な清継には多分合っているのだろうが、こういう時は反対ばかりで面白みがない。細身のスーツにメガネ姿の諸岡が困った顔でついて来る。
「どれも社長がおられませんと話が進みません!」
「そんな会社にした覚えはないぞ。社長がいなくても会社は動く。……俺は花嫁にとってはたった一人の代えがきかない花婿だ」
「またそんな屁理屈を!おめでたい日だとは思います。思いますが、後日、日を改めての方が……先方も準備やお気持ちの問題もあるでしょうから」
「そんなこと知ったものか。相手はこの俺だぞ。相手方に何の不満があるっていうんだ。それと、仕事に関してはそこをどうにかするのがお前の仕事だ」
そんなやり取りをしつつ大股で社内を横断すると、ロビーで反社長派の、清継には叔父にあたる副社長久堂清澄に清継らは出会った。清澄は取り巻きを引き連れて、ランチからでも戻ってきたのだろう。清継はスマートに見える体型だが、二十ほど年長の清澄は年齢よりは若く見え、男ぶりも良いものの年齢相応に腹回りには贅肉がついていた。
(面倒ごとはできるだけ避けたいが、どうかな……)
しかし、彼らへ気づかないふりをして通り過ぎようとした清継に目を留めて、清澄は声をかけてきた。
「ああ、清継君。そんなに急いでどこへ?」
社長である清継に礼もなく、ごく親しげに清澄は声をかけてきた。清継は君呼びにわずかに眉をしかめたものの、逆に丁寧に答える。
「副社長。社内では社長と呼んで下さいと何度も申し上げておりますが。いえ、ちょっとした私用ですよ」
「おやまあ。今から出かけると? この大切な時期に? 一体どんな御用です、清継君」
清澄は大げさな身振りで周囲へ同意を促す。それに清澄の取り巻き連中も隠しもしない嘲笑で返す。
(クソ面倒な。……いっそ全部晒しちまうか。そのほうが後腐れもないだろう)
心のなかで悪態は吐きつつ、清継は一歩前に出て、例の書類を清澄に向けて差し出した。
「そうですね。私の秘書にも叱られてしまいましたが……花嫁が決まったものでつい。衝動が抑えられないんですよ。奥様を同じく政略結婚法で迎えられた副社長、叔父さんにならこの気持ちの高揚が分かるでしょう? ──こちらの方です」
「ほう。そういえば君は今日で三十歳だったか。いや、それはおめでとう。して、花嫁と言うのは……──っ! 清継君、君、これは正気かね!?」
(驚いたろ。ざまぁ見やがれ)
書類を奪い返し、今までに見たことのないくらいに目を見開いて取り乱す様子の清澄に、清継はこれ以上無い笑顔で返す。痛快な気分だった。
書類を受け取り、側でハラハラとこちらを伺い見る諸岡に書類を手渡す。
「ええ、正気ですよ」
「しかし君は、これ」
「何でしょうか?」
「ん、ごほん……──ことによっては役員会で問題になると思うがね。ん?」
「いえ、会社に迷惑になるようなことでは……あくまで私個人のことですからね。ご覧の通り、お相手は派手ではないが可愛らしい……見た目も私好みで私は嬉しい限りなんですが」
「君はもはや個人では無いぞ、清継くん。会社の跡継ぎのこともある!」
「けれど、法律で定められたことですから」
両者一歩も引かずと言いたい言い合いだったが、清継がさらりと放った「法律」の言葉に清澄のほうがぐうっと押し黙った。
「……私は忠告したからな。覚えておくんだな、清継」
「ですから、社内では社長と呼んでいただきたい。副社長」
捨て台詞を放ち足音も荒く去っていく清澄に、取り巻き連中も慌てて追っていく。へっと軽く舌を見せてその後姿を見送る清継に、諸岡が慌ててその背を押した。
「やめて下さい、社長。見られでもしたらどうするんです」
「表情筋の病気だとでも言うさ」
「……その時は流石に辞めさせていただきますからね」
「お前に、ここ以上の高待遇の転職ができるものならな。さて邪魔が入ってしまったが……花嫁を迎えに行ってくる。お前は残ってさっきの件……会議に会食だっけか、を片付けてくれるか」
「分かりました。……先方に失礼の無いように、それだけは本当にお願いしますよ?」
「分かった分かった」
『本当に分かってるんだか』と顔に書いてある諸岡をエントランスに残し、社屋の外に一歩出れば、私用の車が運転手付きで待っている。ああ言いながらも諸岡が手配してくれたのだろう。仕事はできる男だ。
行き先を伝える必要もなく、車は静かに滑り出す。清継は人生で生きてきてこれ以上無いほどに心躍っていた。
車は高速を使い、都心のベッドタウンであるS県へと入った。郊外の住宅街にその家はあった。
総二階のごく普通の一軒家。大きくもなく小さくもなく、ただ経年劣化はしているようで、よく見れば雨樋にはサビが浮いている。玄関脇に前庭があり、洗濯物が干してある。門扉から見る限り庭や家の周りはこざっぱりと整えられており、一家が落ち着いた暮らしをしていることが見て取れた。
「小さい家だな……新居はデカくするべきか。少し待とう。この時間だと本人はまだ仕事だろう。会社に事務で勤めに出ているようだから」
車を路肩へと停めさせて、ひとりごちているその時だった。前方から肩を落として歩く影が見えた。ヨロヨロと歩く姿は悲惨なものだった。相当ダメージを受けているようだ。精神か肉体かに。
それを見て清継は車から飛び降りた。『彼』こそが自身の花嫁だとひと目で分かったからだ。細胞が喜んでいる。指先も幸福感で奮えていた。国が総力をかけて国中から一人を選び出す。それは伊達でなかったのかもしれない。
白い肌に小作りだが端正な顔立ち、柔らかそうな栗色の髪に反して目にはまだ力が残っていた。そしてその左目尻のホクロ。俊敏そうな体つきに、自分よりは一回り小さな背丈。目が離せない。完全に一目惚れだった。
「──迎えに来たぜ、俺の花嫁」
「……え……?」
つぶやきは相手へ届いたようだった。そして、のろりと顔を上げると目の前へ立ちはだかった清継を見て、『ひっ』と相手は悲鳴に近い声を上げた。すぐさま逃げ出そうとする。
そのスーツの襟首をひっつかむと、清継は自身の腕の中に完全に相手の男を閉じ込めてしまった。
(ああ、抱き心地も悪くない)
「『政略結婚通知』でこの顔は見ただろ? 花嫁を、お前を迎えに来たぜ?」
腕の中で小さな体がびくんと跳ねた。その様子では何もかも分かっているようだった。しかし抵抗だけはと腕を突っぱねてくる。その様も清継には可愛らしく写った。
「俺は、男で……っ! 花嫁なんかじゃ」
「じゃあ、お前が旦那で俺が嫁だ。どっちだって良い。すぐに結婚式だな。和式が良いか? 洋式が良いか?」
「一体何の話をして……!?」
「だから、式の話だろう? 遥」
混乱する男、末永遥(すえながはるか)を腕の中に捕まえたまま、首を傾げて極上の笑みで清継は答えた。遥の顎先に手をかけて上向かせ、ちょっと迷ってから目を閉じる。
「な、何!?」
「式まではこれで我慢してやるよ」
目尻のほくろを狙って、軽く触れるだけのキスをする。『ひいっ!』と声にならない悲鳴を上げる男を抱いたまま、清継は豪快に笑った。
(2)遥①
「遥、市役所かしら、なにか国の方から手紙来てるわよ」
「税金かな。滞納してる覚えはないんだけど」
末永遥は先月二十七歳になったばかりの、中小企業に勤めるごく普通の会社員だった。目立ったところも特になく、ルックスもごく普通。女性にモテる訳でもなく、卒業した大学も二流。事務職の毎日はパソコンでデータを弄っているか、書類に判子を押すだけの日々だ。
仕事は面白くもなかったが、比較的安定した企業で給料もごく標準、残業もあったがそこまでひどくなくブラック企業でもない。笑ってしまうほど普通の生活だ。
恋人がいたことももちろんあるが、現在はフリー。元彼女に新しい好きな男が出来たということで振られてからそれっきりだった。
母親から手紙を受け取り、なにも気にせず開いてみる。
薄っぺらな紙が二枚。お役所仕事らしい小難しい文章のあとに書いてあったのは『政略結婚通知』の文字。
国が作ったそのシステムの話はもちろん知っていたが、それは選ばれし上流階級や有名人に送られるものだ。
「……またかよ。遥って名前で女に間違われやすいんだよなぁ」
興味本位で職場の休憩時間にその書類を開いてみる。
国内でも有数の大企業の社長。久堂清継。雑誌のインタビュー記事や新聞でもちょくちょく目にする名前だ。添付されている写真にも見覚えがある。金持ちでイケメン、育ちが良くて一流大学卒。遥のような庶民にとっては縁のない男だ。
(どんな女と結婚するのやら)
取り敢えず重要な書類には間違いない。
上司に間違って大切な書類が送られてきたことを説明し、少し早めの早退を頼んで遥は午後の仕事をそれなりにこなしてから市役所の戸籍課に向かった。
「すみません。なんか間違いでこれ送られてきちゃったみたいなんすけど」
「あら、政略結婚通知ですね。お名前を伺ってよろしいですか?」
「末永遥です。名前が女っぽいんでこういう間違いたまにあるんですよー」
「じゃあ、ちょっとお調べしますのでお待ち下さいね」
「さーせん、よろしくですー」
「そこの椅子に座って、しばらくお待ち下さいね」
いままでにも、どこの遥ちゃんかは知らないがとんでもない金額の税金の滞納額を請求されたり、どっかの遥ちゃんに出会い系お見合いパーティーのダイレクトメールが届いたりもしていた。
「末永さん、末永遥さん」
「はいはい」
「間違いではないようですよ? 国家政略結婚委員に問い合わせしたところ問題はないということです」
「はっ? いやいやいやいや、見て分かるように俺、男ですよ? 性転換とかそういうのもないですし!」
「そう仰られてもうちの市役所では分かりかねます」
「同姓同名の遥さんのとこへ行くはずの書類じゃないんですか!?」
「本籍、氏名、年齢、現住所、勤務先……すべて確認しましたが間違いないようです」
「……えっと……あ、はい……」
そう言い切られれば返す言葉もない。
もしかしたら戸籍自体が女性で登録されているかもしれないという疑念もわくが、それならば学生時代になにかしら問題が起こっていてもおかしくない。
(……政略結婚? 俺が? 男と?)
薄っぺらい紙切れ二枚を鞄に突っ込み市役所を後にして家路に向かう。
──意味が分からなかった。
(政略結婚制度って優生思想つか、血統のいい子供を作るってコンセプトじゃねぇのかよ)
自慢ではないが、遥の家はどこからどうみても普通過ぎるほど普通の家庭だ。中小企業の係長をやっている父親と専業主婦の母親。兄弟はいないが、まだ少しローンの残っている家。先祖に特別な人間がいたというような話も聞いたことがない。
どうしてそれが久堂清継のようなサラブレットと結婚するのか。むしろ根本的に男同士で結婚することがまずおかしい。
(有給とって、この国家政略結婚委員会とやらに行ってみるしかねぇか……)
これがもし本当の話だったら国に逆らうことになる。犯罪者ということだ。
(いや、ないないない。男同士で政略結婚なんて聞いたことねぇし。まずガキなんて産めねぇし!)
テレビや雑誌で有名人が政略結婚で選ばれた相手と結ばれたというニュースは度々目にしていたが、男同士なんてものは見たことも聞いたこともなかった。間違いも甚だしい。
政略結婚委員会って確か都内にあるんだよな。有給二日は取らなきゃ駄目だよな……などと思いつつ遥は市役所を後にした。
バスに乗り、自宅付近で下りて家に向かうと、家の前あたりにピカピカに磨かれた黒い車が止まっていた。
なぜか嫌な予感がする。一瞬立ち止まってその車をまじまじと見つめる。
たぶん、地方の家なら一件は買えるだろう車種。ロールスロイス。正直言って、こんな間近でロールスロイスを見るのは初めてだった。
(なんなんだよ今日はいったい……どっかの遥ちゃん、早く出て来いよ)
ぐったりと疲れた様子で遥は家の側まで行くと、いきなりその車のドアが開き、あのペラペラの紙に添付されていた写真の男が現れた。雑誌でも見たことがあったが、実物はもっと威圧感と美丈夫、大手企業の社長のサラブレッドらしいオーラがあった。
「あー……なんか国のミスっぽくて……俺は見てのとおりの普通の男で──」
その言葉が終わらないうちに、『迎えにきた』『花嫁』という単語が織り交ぜられながら、抱きしめられて、遥の目尻にある泣きぼくろにキスをされた。
なぜか、違和感がない。それどころか身体がビクリと跳ねて清継に抱かれていることが当たり前のように思えてしまう。
だが改めて首を振ってその考えを消し去ると、ぐいぐいと逞しい彼の肩を押して離れようともがいた。
「ちょっ! えっ!? あの! なんすか……だから間違いって言ってるでしょうが!」
遥の言葉もほぼ聞かず『式までは我慢してやる』という言葉が続いた。
「マジで待てって! なにかの間違いだって言ってるだろ! おかしいと思わないのかよ! どう見たって男同士だろうが! 俺が女に見えんの? まず眼科に行けよ!」
「悪いが、視力はいいもんでね。うちの花嫁は癇癪持ちなんだな。そういう相手もいいな。俺の前では萎縮する奴が多いからな」
「なぁ、おかしいと思わねぇの? 国のこのシステムって才能や頭脳、容姿に恵まれた人間を生み出すための政策だろ」
「まあ、そうだな」
「俺のスーツ、2万ぐれぇなの。家も見たろ、三十年ローンでまだ払い終わってねーし。父親は万年係長、母親は普通の専業主婦。俺も中小企業の事務で給料は手取りで十七万程度。雑種の年寄り猫を一匹飼ってるだけで、お宝もなーんにもねぇの!」
「猫好きなのか。新居を建てたら猫を飼おうか」
「……なぁ、俺の話、ちょっとは聞けよ……」
「家のローンの残りがあるなら俺が払う。いくらぐらいあるんだ」
「話を聞けっ!」
「聞いてるよ、俺の可愛い嫁の話なら余さず聞いている」
「じゃあ、俺が男だってことも分かってんだろ!?」
「運命の相手だ。ひと目見てこいつが嫁だなって気付いたよ」
この清継というのはたぶんゲイかなにかなのだろう。だから男同士ということにも不思議さを感じないはずなのだ。
いくら国の間違いだといっても酷すぎる。遥はその場に崩れ落ちそうになりながらも、ヨロヨロとした足取りで家に戻ろうとする。こんな男とは話にならない。明日にでもすぐ政略結婚委員に出向いて紙切れを投げ付けてやりたい。
「遥、式の準備をしたいんだが日取りはいつがいい?」
「……うるせーよ。とっとと帰れ」
「俺としては遥にはタキシード……遥が望むならドレスでもいいけどな」
「着ねぇよ! 間違いだっつってんだろ!」
「男を抱いたり抱かれたりしたことはないが、遥を見たときに『俺の嫁だ』とピンときた。おもしれぇじゃないか、初の男同士の政略結婚だぞ」
「まったく笑えねぇ」
「家を建てる計画もしなきゃな。悪ぃがいまの職は辞めてもらうことになるだろうが、うちの会社で働けばいい。専業主婦でも構わないぞ。料理や掃除は家政婦を雇えばいいだけの話だ」
「……取り敢えず今日は帰ってくれないか。ちょっと疲れた……」
「マリッジブルーってやつか」
「うっせーよ! バカ!」
「あはは。うちの嫁は可愛いな。また来るから。遥のご両親にもちゃんと挨拶をしなきゃならないしな」
運転手らしき男がロールスロイスの後部座席のドアを開き、もちろんごく慣れたふうに清継がそこに乗り込み、最後に遥にひらりと手を振ってから走り去って行った。
(……金持ちってみんなあんな感じなのか!? とにかく疲れた……)
だが、遥もまた清継に抱き締められた時に違和感を覚えなかったのも事実だ。自分でもよく分からないが、目尻にキスをされた時も嫌悪感がなかった。
(いやいや、びっくりしただけだから……)
ノロノロとした足取りで家に入ると、玄関先に呆然と立っている母親と、山のように積まれた高級デパートや洋菓子店、和菓子、ブランドショップの箱があった。
「遥、あなたなにしたの。あの社長さんの命でも助けたの?」
「なにこれ」
「取り敢えずの挨拶だって……」
「えっと……俺もいまよく分かってねぇけど、あの人がなんか誤解してるみたいで。しかも命なんか助けてねぇし、財布すら拾ってねぇ」
「そうよねぇ、お母さんびっくりしちゃった」
「そこら辺に置いておいて、後で送り返すから。あと、明日東京行くから」
「なにするの。あなたなにかややこしいことに関わってるんじゃないでしょうね?」
「ちげーよ。国が間違えて俺に政略結婚の紙を送りつけてきたんだよ、あの社長との」
「あの人、女の人なの。最近そういうのあるものね」
「だからちげぇよっ! 国が間違えて男同士の用紙を送ってきたの! 確認しに行くから一泊二日ぐらになるかもだから」
「あらー、お母さん、ここの和菓子食べてみたかったのに」
「食うなよ! 絶対食うなよ!」
二階にある部屋に戻り、なにがなにか分からないまま疲れ切ってしまった身体を休めるようにベッドになだれ込む。
間違いにしても酷すぎる。それを信じ込む清継という男の神経も信じられなかった。
(これだからお役所仕事っつーのは)
どういう基準でカップリングが作られ政略結婚の相手が決まるのかは知らないが、たぶん欠陥だらけのシステムなのだろう。イケメンや美女や、金持ちやアスリートならそれでも選ばれた人間だと感じられて幸せだと思うのだろうが、遥はなんの偽りもないただの一般人だ。選ばれる意味が分からない。
取り敢えず一泊二日ぐらいにはなるだろうと、スマホで新幹線の予約と安いビジネスホテルの予約を取った。有給はまだ残ってるはずだ。上司に嫌味は言われるかもしれないが、清継のあの冗談の欠片もない行動──。
(もしかして、金持ちが貧乏人をからかって遊んでるとか?)
実はあの紙切れが間違いと知っていながら遥の驚いた姿を見て今頃は笑っているのかもしれない。
「くっそ、ムカつく! もしこれが間違いでもなんでも結婚したら二秒で離婚してやる!」
クローゼットから鞄を取り出し、明日出掛けるための服や下着を適当に詰め込む。スーツを脱いでパジャマ代わりのジャージに着替えると階下から呑気な母親の声が聞こえた。自慢じゃないがこのジャージも量販店で買った千九百八十円税込みの代物だ。
「遥ー、今日お父さん残業だって連絡あったから早めにご飯しちゃいましょうか」
「晩飯なに?」
「カレー。遥、カレー好きでしょ」
「んー、すぐ降りる」
カレーは好きだが、カレーが晩ごはんでキャッキャと喜んでいたのは小学生時代の話だ。だが母親という生き物はそんなことをずっと覚えている。しかし、階下から香ってくる美味しそうなカレーの匂いは遥を日常に戻してくれるようだった。
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、角切りの牛肉がゴロゴロと入った中辛のカレーライス。
どうでもいいようなバラエティ番組を見ながらテーブルを挟んでカレーを食べる。
「遥が女の子であんな社長さんと結婚できたらいいのにねぇ」
「性格悪いぞ、あいつ」
「そうなの? ご挨拶とか丁寧でさすが社長さんって感じだったわよ」
「そういうのだけは出来んじゃねぇの、なんせサラブレッドだから」
「ねぇ、カレー食べたら食後に和菓子の──」
「食ったらマジ怒るからな」
テレビからは政略結婚をした美形の俳優と女優が子供を授かったという話が流れていた。
(3)清継②
清継が満面の笑みで社に戻ると、第一声を上げたのは残ってくれていた秘書の諸岡だった。清継は隠し立てなどせず、全てを諸岡に話した。
「それで、状況説明もなしに、お相手を置いて帰ってきたんですか!?」
「手土産はきちんと置いてきて母君にも挨拶はしたぞ。諸岡、手配済みとはさすがだな」
「それはもうその辺は抜かりなく……ではなく、相手方に失礼がないようにとお願いしたはずですが?」
「だって俺の嫁だ。キスして何が悪い。しかも頬? 目元だ」
「いきなり現れた巨躯のイケメン社長に押し迫られる一般男性の気持ちを考えて下さい! きっと明日にでも、国家政略結婚委員会に直談判に行かれますよ」
「それは困る」
「でしょう? でしたら、明日は早々にお迎えに行って差し上げてください。話がややこしいことになる前に」
「そうだな。実際、今日は落ち着いて話もできなかった。明日早速改めて話をするのは良いかもしれん」
「お相手の気持ちに寄り添って、ですよ」
「分かってる。しかし善は急げだ。指輪くらい持っていくか」
「そういうところです、そういうところ!」
「分かった分かった。……今日はもう良いぞ、よくやってくれた。明日また俺は一日社を空けることになるから──」
「分かっております。お任せ下さい」
「ん。任せたぞ」
諸岡を下がらせて、清継はタイを緩めて社長室で一人、今日の出来事を思い返していた。初めて会った遥はちょっと元気が良すぎる気はしたが、なにせ自分の嫁になる相手だ。言い返してくるくらいの方が丁度良い。触れ合った肌も心地よかった。
何より面と向かって五月蝿いだの馬鹿だの言われたのは初めてだ。
(今までの人生も面白くなくはなかったがどこか暇で乾いていた気がする。……これからは、楽しいことになるぞ)
口元が自然と緩むのを我慢できない。清継は微笑んで、自社ビルの最上階から下界を見下ろしていた。
次の日。
『良い朝だな』と、遥の家の前で、玄関を出てきた遥へと声をかけたときの瞬間を清継は一生忘れないだろう。ぽかんとしたどこかあどけない表情、それから次第に頭を抱えて眉をしかめたかと思うと、次の瞬間には食ってかかられていた。
これこれ、と喚く遥を見ながら清継は喉奥で笑う。この元気の良さが本当に好ましかった。
「あんった、昨日の今日で一体何をしに!」
「いや、きっと困ってるだろうと思って? 迎えに来たんだが。都心まで出るんだろう。車で送る」
「いやいやいや。あんたとのことで国家政略結婚委員会まで行こうってのに、あんたと行ってどうする!?」
「話が早くなって良いじゃないか。間違いがないことがすぐ分かるって、俺の花嫁は心配性だな」
「その、花嫁ってのをやめろ……」
「じゃあ、遥」
「呼び捨てかよ……まあ、嫁よかいっか。んで、あんた、社長さんは──」
「俺のことは清継と呼べ」
「……了解」
「まあ、乗れ。お互いを知らなきゃな、夫婦になんだし」
「ならねぇし」
「なるんだって……つうか、知らないのか。まあ乗れ」
半場強引に遥の腕を引いて荷物ごと車に押し込むと、遥は広い車内に目をむいていた。それはそうだ。しようと思えばこの中でパーティーだって可能だ。車は滑るように走り出す。向かい合わせに座った遥はに乙で自分の周りにバリケードを築いていた。昨日したキスはやはり諸岡の言うように尚早だったようだ。
そんな初なところも可愛いと清継はニヤッと笑う。遥がそれに何を勘違いしたのか急ぐように会話を詰めてきた。
「それで、俺が何を知らねぇっていうんだよ」
「ああ、うん。遥、お前まだ、俺との婚姻を認めてねぇだろ」
「勿論」
「それが残念なことに、法律上は俺たちはもう結婚してんだよな」
「……はぁ?」
「いや、だから通知が来ただろ。その時点でもう、本人の意思も同意も関係なしに、行政上の手続きは終わってんの。だから『通知』なんじゃねぇか」
「お、俺の承諾なしに!? もう、俺、俺があんたの……!?」
「嫁だな。嫁が嫌なら何でも良いが、とにかく俺たちはもうすでに夫婦だ。いや夫夫(ふうふ)か」
「嘘だろ、そんな……認めねぇっ!」
怒りなのか混乱なのか、目の前の遥は拳を握りしめ青くなったり赤くなったりしている。足を組み、そんな遥の様子をゆうゆうと眺めながら、清継はこの後、用事が終わったら食事にでも遥を誘うかと呑気なことを考えていた。
委員会に着くと、運転手が扉を開けるのも待たずに、遥は飛び出していった。清継はそんな背中を見送って、ゆっくりと建物の前に降り立つ。赤レンガ調の建物は威厳ある風貌で、入り口脇には『国家政略結婚委員会』の文字がプレートに刻まれている。つい最近新設されたように思えていたが、よく考えてみればすでに二十数年も前に成立した委員会だ。自動扉を抜けて中へ入ってみれば、皆仕事には慣れているのだろう、広い静かなオフィスの手前、受付で一人、声を上げて説明をしている遥一人が目立っていた。
「って、だから、これは何かの間違いじゃ……」
「いえ、ですからお客様。ここに、このように大臣の印も入った通知が手元に届いたということはすでに、ご結婚がなされたということです」
「そんな……男同士、ですよ?」
「申し訳ございません。お力になれませんで」
「何か、何か無いんですか……そうだ! 離婚は? 結婚が強制なら離婚した人もいるはずですよね!? 離婚、できるでしょう?」
「それが実は……今までこの政略結婚システムでご成婚された中には、離婚は一組もいらっしゃいませんので……今すぐには回答できかねますが、相当難しいかと……」
「マジ、ですか……」
「はあ」
「じゃ、じゃあでも。なんで俺が選ばれたのかって根本がおかしくないっすか。うちは庶民ですよ? どこまで遡ってもど庶民なんです。ちゃんと調べてくれれば分かりますって。俺がこの結婚に向いてない男なんだって!」
「そう、言われましても……やはりこちらでは、決定事項ですとしか……」
腕組みをしてやり取りを見守っていた清継だが、そこで割って入った。
「遥、もう良いだろう? わかったろーが、俺たちは結ばれる運命なんだよ」
「ああ、久堂様ですね。この度はご成婚おめでとうございます」
「どーも。ちょっと嫁と意見が食い違ってね。時間を取って済まなかった」
「いえ、たまにあるご相談ですから。心得ております。けれど、どのご夫婦もその後仲良くされておりますよ」
「でしょうね。……だってさ、遥。諦めて嫁になれって。で、この後、デートしようぜ」
「嫁になるのもデートも何一つ承服出来かねるんだが……!?」
「頑固だな。そこが良いが。自我を持つってのは大切だ。──では、お世話になりました」
「どうぞ、お幸せに」
何度その言葉を口にしたのだろうか。受付の女性は慣れた仕草で優雅に礼をして二人を見送った。がっくりと肩を落とす遥に、清継はガシッと肩を組んだ。色気もなにもない、男友達にするような仕草だったためか、落ち込んでいる遥は振り払いもしない。それを良いことに、目の前にある遥の髪の匂いを清継はすんと嗅ぐ。とても心地よい香りだった。
「なんで、どうして……おかしいって、マジ……」
「まだ言ってんのか? 俺としちゃ、早く式の日取りや披露宴の打ち合わせなんかをしたいんだが。あ、結納はなしで良いぞ、七面倒臭い。パフォーマンスとしての結婚式や披露宴には申し訳ないが付き合ってくれ」
「……あんたは、ゲイかなんかか。俺なんかがいきなり結婚相手ですーって現れてなにも思わないのか」
「なにもってことはないが、実際お前を見て気に入ったんだから問題はないな」
「マジかー……」
車に二人して乗り込んで先程のように向かい合う。密室で運転手にも声は届かない。清継は肘をついてかすかに笑った。
「俺はずっとこの制度で結婚できるのを待ってた。俺の両親は自由恋愛で結婚してな。俺を設けたが、その後はすれ違いがずっと続いて……今も仮面夫婦だ。親父なんて次々変わる愛人のために早めに引退して俺に社長の座を譲ったくらいだ。それに比べたら、国中から相性の良いたった一人を選んでくれるこの政略結婚システムは最高だ。三十歳は少々早い気がしていたが、遥、お前となら楽しくやれそうだ」
「あ、あんたの境遇には同情するよ。けど……それとこれとは、話が」
「まあ、とりあえずは式だな。一ヶ月後と言いたいが、慣例で本当なら年単位で計画しなきゃいけないことだ。招待客皆々様、本来なら半年先までスケジュールが埋まってるからな。そこを押して、三ヶ月後に式をねじ込む。どうだ?」
「……あんたが、人の話を聞かないやつだってのはよく分かったよ」
呆れながらも、初めて、ほんの少し、遥が笑った。すぐに『けど俺は認めないからな』といつもの調子に戻ってしまったが。笑顔が見れた、それだけで、百戦錬磨の自信家で野心家と言われた清継が不覚にもときめいてしまった。
これが相性、なんだろうか。一気に自分の思う通りに推し進めたい今までの自分と、もう少し遥の話を聞いてしまいたい自分が拮抗する。不思議な感覚に酔いながら、文句を言う遥を連れて都内のレストランへ車を向かわせた。
「いや、ここぜってー無理だって俺。こんな普段着ではいるような店じゃないじゃん。てか店でもないじゃん。ホテルじゃん」
「ここの最上階でランチでも……と思ったんだが」
「無理無理無理。あんたには日常かもしんないけど、俺には無理」
「そうか? ならどこなら良いんだ」
車を降り、清継が経営するホテルの前だった。
確かに遥はトレーナーにジーンズ、コートとごく普通の格好で、清継は自前のスーツだったが、格好で入店できないようなランクのレストランではない。そこは清継も心得ていた。カジュアルなホテルレストランを選んだつもりだったが、どうも遥にとってはそこでさえ敷居が高いらしい。
憮然として、清継は遥へ聞き返す。すると先に立って遥が歩き出した。
「話するなら定食屋とかカフェで良いよ。ほら数件先にチェーン店があるじゃんか」
「定食屋?」
「……社長さんなら、社食で食べたりすることもあるだろう? そんな感じの──」
「社食は使わないな。いつも幹部連中とランチ会議だから外で食べるか弁当だ」
「へぇ、あんたでも弁当食うんだ。……ちょっと待てよその弁当って……」
「ホテルか料理屋の仕出し弁当だが?」
「まあ、うん。そうだよね。コンビニ弁当なはずは無いか、うん。俺が間違ってました」
そんな会話をしながらチェーン店の定食屋の自動ドアをくぐるとすぐに券売機があって、清継は首を捻った。目に痛いほど派手な大きなメニューは目の前にあるが情報が多すぎる。券売機のシステムも良くわからない。
「よくわからんな。なにがおすすめだ、任せる」
「ここならなに食ってもふつーに美味いけど……あんたの口に合うかは分からないからな。あんた体がデカイから、店長オススメのカツ丼セットにしとくわ。俺はホッケの定食っと」
席に着くとなにも言わずとも笑顔の男性店員が心得たようにグラスの水を置いて、発券された券を回収して去っていく。そのスマートな仕事ぶりに清継は驚いた。
更に話をといくらも喋らぬうちに、すぐに盆へ載せられた料理が届いた。ホカホカと湯気を立てる丼ものに味噌汁。漬物は食べ放題だと、遥が教えてくれた。
『とりあえず、食べながら話そうぜ』と、手を合わせてから先に食べ出す遥に合わせて、初めて食べるカツ丼にそっと箸を入れる。名前は勿論知っていた。だが食べたことはない。大きく一口を箸で掬って食べると得も言われぬ旨味が口の中に広がった。
「んっ。……美味いな、これは。これで千円以下なのか?」
「だな。庶民の味の代表格だから知っておくと良いわ。あーホッケもうめぇ」
話しながらのつもりがつい、完食してしまった。締めに茶を飲みながら、遥がこちらを伺っているのが分かった。見返すとゴホンと咳をして、遥がわずかに身を乗り出してきた。
「で、本当に俺はあんたとその……結婚?……しなきゃなんないわけ? どうして俺なんだよ。もっといるだろう。あんたに似合いの、金持ちで有名で、とりあえず女……!」
辺りを憚ってか声は小さかったが最後は強調される。清継はネクタイを少し緩めると、ふうっとため息をついた。
「だから、今日わかったようにしなきゃなんないじゃなくて、もうすでにしている、だ。選ばれる基準はそうだな……家柄、生活環境、個人の資質……色々言われているが最後はDNAの相性らしい。心配するな、それがバッチリ良かったから俺たちは晴れて夫婦になれた」
「……意味、分かんねぇ。俺と? あんたが? DNAレベルで相性抜群なの? それでも、じゃあ子供はどうすんだよ、子供は。俺たち男同士で……」
「一緒にいれば分かる。その辺りの相性は追々。とりあえず俺はお前で何の不足も無い。大満足だ。俺の嫁になれるなら、お前だって満足じゃないのか。俺は金持ちで有名で、性格も良い。夜だって満足させられる自信がある」
「……今までの話をどうまとめたら、満足に見えるんですかね」
定食屋のテーブルの上でふるふると拳を握りしめる様子の遥は可愛かった。つくづく良い嫁をもらったと清継はニッコリと笑う。遥の拳の上に己の手をかぶせると軽くその手を叩いた。
「少し考えたら良い。式や新居はこっちで少しずつ進めておくから。……な? 別にこうやって触れても嫌な気はしないだろう?」
手を重ねてギュッと握ると、されるがままになっていた遥がハッとしたように手を引いた。その目の端が少し赤いように思えるのは気のせいだろうか。清継は口端を上げて機嫌よく微笑んだ。
(4)遥②
いくら金持ちとはいえ全国にチェーン展開している定食屋に行くのが初めてだということにも遥は驚いたが、なによりもDNAレベルで自分が選ばれたという事実が衝撃的だった。育った環境や男女とは関係なく、DNAレベルだと言われてしまえば返す言葉もない。だが、政策としては優生の子供を増やすということじゃなかったのだろうか。
けれど、何気なく重ねられた清継の手の温もりに違和感を覚えなかったのは本当だった。むしろ心地よかった。
少し頭を左右に振ってその気持ちを消し飛ばし、バッグを持って立ち上がる。
「ホテルは取ってあるからこの話はまた改めてってことで。離婚の話を進めていこう」
「俺は遥と離婚なんてしねぇからな」
「どれだけややこしい手続きでも、俺は男と寝る趣味はねぇの!」
「……ま、今日のところは取り敢えず。ホテルどこ。車で送るから」
東京の地理にはあまり詳しくない遥はどこか渋々としながらもスマホを開いてマップを差し出す。
「あー、西新宿のほうな。飯田、ここの場所分かるだろ、ホテル前に付けてくれ」
運転手にそう告げ、車がゆっくりと滑り出す。
政略結婚委員会のあの短い会話のために新幹線代とホテル代を使ったと思うと馬鹿らしくなってくる。離婚となるとまだこれから何回も東京に来なければならないのだろう。派手な遊びをする訳でもない遥だったが、こんな無益なことに金を使いたくはなかったが男と結婚しなければならないということを考えると仕方がなかった。いっそ清継にこの金を請求してやりたいとすら思う。いや、違う。国が出すべきだ。
溜め息しか洩れない。なのに目前でゆうゆうと足を組んで機嫌良さそうな笑みを浮かべている男が憎たらしい。
清継にとっては小銭レベルの出費でしかないのだろうが、遥にとってはかなりの痛手だというのに。
そんなことを思っているうちに予約していた安いビジネスホテルの前にロールスロイスが横付けされる。もちろんこんなホテルにベルボーイなどいない。運転手が後部座席のドアを開き、遥の荷物を持って先に進む。
「なあ、遥。俺も部屋に行っていいか」
「嫌だ」
「なにもしないって。どんなところに泊まるのか見てみたいだけだから」
「別に普通のビジホだっつーの。そんなことも知らねぇの?」
「知らんな」
「……はぁ。見るだけだぞ」
フロントで予約した名前を告げて、お決まりの住所と氏名を紙に書いて三〇二号室の鍵を渡される。どうということのないビジネスホテルだ。この手のホテルなら遥は仕事の出張で泊まったことがある。
シングルベッド、ユニットバス、小さいテーブルと冷蔵庫、それぐらいしかない部屋。
薄暗い廊下を進んで慣れた様子で遥は部屋のドアを開くが、清継にとってはなにもかもが新鮮なようであちこちに視線を走らせていた。
「見たいなら好きなだけ見ていいから、見終わったら帰れよ」
「リビングはないのか。ベッドルームもないじゃないか」
「はっ!? ここがベッドルーム! ベッドがあるだろ!」
「いや、こんな犬小屋みたいなところに泊まるのか?」
「ちょっ、おまえ失礼過ぎんだろ」
「うちの嫁にこんなところに泊まらせらんねぇわ。他に行くぞ」
「待て、金ねぇし無理。寝るだけなんだからここで庶民は十分なんだってば」
「壁も薄い。ベッドのマットレスの質が悪い。このバスルームはなんだ、実家の犬でももっとマシな風呂に入ってる」
清継の態度は部屋を蔑む感じではなく、真正直に本気でそれを告げているようだった。遥が手にしていたバッグを奪い、腕を引いて部屋を出ると、さっき登ってきたばかりのエレベーターに乗り込み再びフロントに戻る。
「支払いを頼む」
「えっと……はい……しかし、新幹線出張パックでホテル代も込みになっておりますので」
「あー、もう、わけが分からん。金は必要ないんだな」
「は、はい」
「手違いがあったら遥が困る。なにかあったらここに連絡してくれ」
そう言って自分の名刺をフロント係に手渡すと、もう終わったとばかりにビジネスホテルを二人して出ていく羽目になった。
「あのホテルに不手際があったとは言わないが、俺の嫁があんな狭い部屋で泊まることは許せない」
「だ、だから嫁って言うなって言ったろ!」
「じゃあ、遥がもっといいホテルに泊まることを望んでるって言えばいいんだろ。飯田、いつものホテルに行ってくれ」
「だから、金が無いって言ってんだろ。庶民の暮らしのこと、もっと考えてくれ」
「……ふむ。じゃあ遥が教えてくれ。ホテル代は俺が出す。気心の知れたホテルだから緊張しなくてもいい」
清継と出会ってからもう何度ついたかもしれない溜め息を遥は零す。まったく常識が通じない。さっきのビジネスホテルも清潔感があり特に悪いところもなかった。都内で、しかもパック料金内で交通の便も良かった。
(世間知らずのお坊ちゃんの生活ってこんななのかよ……)
もう反論する気にもならない。ホテル代金を出してくれるという言葉を信じて、乗り心地のいい車の総革張りのシートに身を沈めて、遥はもう一度溜め息をついた。
車がホテルの玄関らしきところに滑り込んだのは、高層ビル的なホテルと思いきや、都内だというのに広い庭と二階建てぐらいだろうか物静かであるがいかにも高級感のある別荘のようなホテルだった。
玄関先にはすでに数人の和服の従業員が深々とお辞儀をして二人を迎える。
清継が遥のバッグ──合皮の三千円税抜──をその従業員の一人に手渡すと、従業員もまた恭しくそれを受け取った。中身は三枚千五百円のボクサーパンツと、九百八十円のTシャツ、明日の替えのシャツ程度しか入っていないものをそんなに丁寧に扱われてもむしろ困る。
「部屋の用意は出来てるか。庭のよく見える俺がいつも泊まる部屋だ」
「はい、いつもご利用ありがとうございます。いつものお部屋をご用意しております。ウエルカムシャンパンをお持ちしましょうか? ソフトドリンクや軽食もご用意出来ますが?」
「食事はしてきたからいい。遥は酒は嗜むのか?」
「あ、うん。ちょっとなら」
「じゃあシャンパンを」
「かしこまりました」
まるで自宅に帰ってきたような当然といった態度に驚かざるを得なかった。
本物の大理石の床と広く静かなロビー。どれだけ常連なのだろう、皆が清継に深々と頭を下げ、部屋を案内されるまでもなく前を歩く従業員を追い越しそうな勢いで部屋へと向かっていく。
中庭が見える総ガラス張りの窓からライトアップされた、丁寧に剪定された木々と季節の草花に見惚れて遥が足を止める。
「綺麗だろう、俺の気に入ってるホテルだ。ベッドルームからも違う角度からこの庭が見えるからな」
「つっても……清継と泊まる気はないからな……」
「ははっ、まだ会って二度目だ。そんな無粋なことはしねぇよ。初夜は新婚旅行ついでにもっと豪華なホテルで迎えようか。遥は海外ならどこがいい?」
「だから離婚するっつってんだろ! いい加減、俺の話を聞けよ!」
「DNAレベルの話だぞ。しかも国が決めた相手だ。それともいま付き合ってる恋人でもいるのか?」
「い、いねぇけど……」
「取り合いする手間がなくて安心した。ほら、部屋に向かうぞ。シャンパンぐらいは飲んでいっていいだろ」
「ま……それぐらいなら」
「カードをフロントに預けてあるから、夜中に腹が空いたらルームサービスを適当に頼めばいい。朝にまた迎えに来る。新幹線の時間があるんだろう? なんなら車で家まで送る」
「いいっ! 新幹線で帰るっ!」
「遥は頑固だな。そういうところも可愛いけどな」
豪快に笑いながら部屋に案内され、カードキーで部屋を開いて貰い、マニュアルだろう従業員が部屋の説明をしようをするのを、もう分かっているというように清継が手で制するとお辞儀をして彼女は部屋を出ていった。
二人きりになったことに戸惑いを隠せないけれど、すぐに部屋のドアがノックされシャンパンが届けられたことに僅かに遥は安堵し、取り敢えずソファに座ってグラスを持つ。乾杯などする気にはもちろんならず一口飲む。シャンパンは友人の結婚式などで飲みはしたが、これほど味が違うのかと思うぐらい美味かった。
移動や政略結婚委員会でのやり取りで疲れていたせいもあったのか、アルコールが身体の隅々に染み渡るようだった。
ソファの隣に清継が座ったが、もう文句を言う元気もほとんどない。
「ここのホテル代払うし……借り作りたくねぇから」
「払いたいなら黙って貰うけど、身体で払ってくれてもいいんだぜ?」
「……も、いま疲れてっからそういうの止めろ」
「体力ねぇのな。遥が疲れてるなら少し黙ってるよ」
二人で黙ってシャンパンのグラスを傾ける。
たった二度しか会ったことのない相手。しかも国から勝手に認定された結婚相手。よりよってそれも男。生活環境も、育ちも、なにもかもが違う。こんな高級ホテルに泊まるのも初めてだった。
ホテルに対して驚きはしたが、隣に座る清継の存在に違和感がないのはなぜだろう。
「なあ、清継。いくらDNAだとか政略結婚だからって男を抱けんの?」
「遥が俺を抱きたいの」
「そういう話じゃねぇよ。ゲイでもバイでもないんだろ。勃起すんのかよ」
「試してみるか? 初夜まで楽しみは取っておこうと思ったんだが」
「……もういい。この話は無し」
「もっと夫婦らしい話でもするか」
「どんなよ」
「子供が何人欲しいとか」
「産めるかよ! バカか!?」
「ははっ、やっぱり遥は可愛いな。じゃあもし子供が出来たらって話じゃねぇか。男がいい? 女の子がいいのか?」
「……男の子、かな。一緒にサッカーとかしてぇし」
「俺は女の子がいいねぇ、宝石みたいにいつもピカピカにして可愛がってやりたい」
なんとなくそんな口調が微笑ましく思えた。
清継の言葉は嘘ではないだろう。もし子供が男でも女でも猫可愛がりするはずだ。金銭の使い方はともかくとして、惜しみなく愛情を注ぐタイプの男だった。その大きな体躯に小さな子を抱き締めて満面の笑みで慈しむ姿が目に見えるようだった。
こんな男の許で愛されれば……。
(って、なに思ってんだ、俺。離婚しにきたんだろうが!)
グイッとシャンパンを一気に飲み干して、空になったグラスをテーブルの上に置く。
「シャワー浴びて寝る。東京の地理とかあんまわかんねぇから、駅まではフロントの人に聞くし大丈夫。早めに帰れたら仕事にも行きたいし」
「せめて車ぐらい新幹線の駅まで行けるように寄越すって」
「いい。ここのホテル代がいくらか知らないけど、清継の会社に電話して聞く」
「それはいい。ここに泊まれって言ったのは俺だ。疲れただろうからゆっくりしてくれ。窓からの庭の景色は絶品だからな」
「……ん」
「おやすみ」
清継もまたシャンパンを飲み干すと、ソファから立ち上がりどこか人懐こい笑みを浮かべて部屋を出ていった。
強引にキスをされたり抱き締められたりすれば強気に拒めるが、むしろあっさりと身を引かれると言い返す言葉も出せずに戸惑ってしまう。話を聞かない男のはずなのに、遥の身体を気遣ってくれているのが分かった。
「もうなんなんだよ……政略結婚って。こんな生活レベルの違う人間が一緒に生活出来るはずねぇっつの。いやいやいや、その前に男同士だし! あー、風呂入って寝よ……」
バスルームは自宅の自分の部屋ほどある広さだった。ジャグジーと間接照明、窓ガラスも庭に向いていてそれを眺めながら風呂を楽しめる。
(離婚する方法。法律に詳しい……あ、いるじゃん!)
勢いと早い流れでその存在を忘れていた。法律事務所で働いている、幼馴染の鈴木浩太郎(すずきこうたろう)のことを。
(5)清継③
遥をホテルに送り届けた清継は仕事へと帰っていた。しかし頭の中は先程までともに過ごしていた遥のことでいっぱいだ。つい、書類を捲る手が止まり、決済の印を押す場所を誤り、データを見る目がうわ滑る。
ついに諸岡が目の前へと立った。
「集中して下さい、社長」
「……お前は出来たばかりの可愛い嫁と初デートをして、その後すぐに集中できるのか」
「残念ながら嫁はおりませんので分かりかねます。しかし、今回はお相手に失礼なことは……」
「まったくない。誓うよ。手も、指さえ出してない」
「それなら結構ですが。休憩がてら、お探しだった新居の資料でもご覧になりますか? 式場もいくつかピックアップしてあります」
「さすが俺の右腕だ。やるな」
「お褒めに預かり光栄です」
ざっと目を通す限りで、式場は清継好みの、和を基調とした老舗ホテルか、シンプルな教会がピックアップされていた。新居も緑の多い地区を中心に閑静な高級住宅街から選ばれている。今日遥と一緒に食事をした風景を思い描きつつ、その中から2~3ずつ、清継は選び出して諸岡へと資料を返した。
「この中から進めておいてくれ。金ではなく、担当者とのやり取りで決めてくれて構わん。きめ細やかなフォローをしてくれる所が良い」
「分かりました。では、そのように進めさせていただきます」
「まだ遥は式や新居どころではないようだったからな。こっちである程度進めて構わんだろう。招待客のこともある。ところで諸岡はカツ丼は食ったことあるか?」
「はぁ……ありますが」
「本当か? 俺は物知らずだな。ホテルもしかりだ。なぁ諸岡。遥といると新鮮な事があって、楽しいぞ」
「早速惚気ですか」
「好いて惚気てなにが悪い。既に結婚済みだ」
「しかし、どうも……お相手はあまり気乗りでない、ご様子なんでしょう?」
「まあな。俺が相手でなにが不足かわからんが」
諸岡が軽くため息を付きながら、目の前にコーヒーを出してくれる。
「そういうところではないでしょうか」
「そういう?」
「妙に自信家なところや、一般人の方とは少々違う感覚をお持ちなところなどでは?」
「自信家で個性があってなにが悪い。そういう男だからこの歳で社長をやってられる」
「それはそうでしょうけど。私も社長の、社長としての手腕や男ぶりには信頼しかありませんが。……あとはまぁ、多分お相手も一番気にされてますでしょうけど……男同士、ですからねそもそもが」
「お前がそれを言うのか。お前はゲイだったろ確か」
「確かにゲイですが。私のこととお相手のことはまた別ですよ」
諦め顔で諸岡が首を傾げた。清継はカップをデスクへと戻しながら、眉を寄せる。なぜ自分自身が遥に受け入れられないか、微塵も分からなかった。お互い手を触れた時やふとした瞬間にあんなにも居心地が良いというのに。
「ゲイのお前から見て、俺は男としての魅力が無いか」
「十分魅力はお有りですよ。けれど、そういう話とは違うと思いますが。あとあまりしつこく聞かれるのであれば、セクハラで訴えますよ」
「じゃあ、どうすれば良い」
「まずお相手を大切に……あとはお互いを十分に知る必要があるのでは?」
「ふうん。──まあ、一理あるか」
清継はスマホを取り出すと、どこかへと電話を掛け出した。諸岡は嫌な予感がして話しかけた。
「一体どこへ?」
「しーっ。遥の自宅だ。ご母堂へ、遥の連絡先を聞こうと思ってな」
「はあ……」
『そういうところが強引で嫌われるのでは?』とは流石にもう諸岡も言えなかった。
確かにコミュニケーションは人間関係の基本だ。
仲の良いとは言えない両親を思い出すにつけ、仕事相手とのパートナーシップを思うにつけ、言われればそうだと感じた。部下とだって、友人とだって、コミュニケーション無しには付き合いはありえない。
そう、清継は真面目で情熱的だ。そこで、まずは遥の母親と頻繁に連絡を取った。のんびりとおおらかだがおしゃべり好きの遥の母親は最初こそ政略結婚に驚いていたものの、話すにつれて、清継とお互い冗談を言い合うほどになっていた。
遥の連絡先を聞き出すのも容易かった。
「あらまあ。あの子ったら、うっかり屋さんだから」
その一言で、遥の電話番号をいとも簡単に教えてくれた。そこからは遥へも清継は電話をかけまくった。モーニングコールに始まり、仕事の合間の電話、夜はお休みと囁いて、休日にはデートへ誘った。
遥の態度は一貫して冷たいものだった。電話を即来られることは当たり前、怒鳴り声や『馬鹿!』との罵り声も日常茶飯事。仕事と共有しているらしく、電話番号を軽々しく変えれないと憎々しげに呟かれたのには笑ってしまった。
「こんなに楽しい恋愛は初めてだぞ、諸岡」
昼休みに会社近くの定食屋で慣れた手付きで発券ボタンを押しつつ、清継は後ろへと話しかけた。あれから会社の周囲を探して見ればオフィス街のそこここに、チェーン店や小さなカフェを見つけることが出来た。そして清継は、遥との距離を縮めるべく最近では昼食時にそういった店に顔を出すようにしていた。今日のランチは焼き魚定食だ。何が出てくるか楽しみだった。
諸岡とともに席へと着くと、メガネを軽く押し上げて諸岡が背筋を正したままやや心配げに首を傾げた。
「お相手は……まだ少々戸惑っておられるようですが」
「時間が解決するさ。しかしやはりただの恋愛と結婚とは違うな、早くしておけば良かった。いや、早くしていたら遥に出会えてないか」
「そんなに、遥様のどこをお気に召したんですか?」
「そうだな、まず元気だ」
「はあ」
そこで料理が運ばれてきた。清継は焼きサンマの定食、諸岡は親子丼だった。
「お、そっちも美味そうだな。今度チャレンジしよう」
「はい、美味しいですよ。親子丼。私の好物です」
「そうなのか。付き合いが長いのに知らなかったな、お前の好物なんて」
「そうですね、趣味嗜好の話はやはり会社では……」
「そうなるな、どうしても。それで、遥の話だが……遥といるとこうやって、新しいことを知れる」
「例えば?」
「こういった店もそうだし、遥といると彼の視点に合わせて物事を進めなくてはいけない部分も出てくる。その中で、新しい知見を得ることができる」
「考えて、いらっしゃたんですね。戸惑っておられる遥様のことを」
「阿呆。考えていないとでも思ったのか」
そう、本当ならもっと強引に、電話などしていないで、会いに行って仕事も辞めさせ、さっさとベッドまで拐ったって良かった。けれど、清継にしては我慢強く遥との親交を深めようとしていたのだ。将来をともに過ごす相手と万が一にも仲違いなどしたくはない。もっと言えば、気に入られたいという、清継には少々受け入れがたい心情にもなりかけていた。自分が相手を手に入れるだけではなく、相手にも自分を手に入れて欲しい。
「あとはまあ、可愛いな。あの言動、お前も見ているだろう。俺を糞味噌に貶しながらも拒否はしないお人好し加減とかな。人の良さが根底にある」
「はあ、よく見てらっしゃいますね」
「なんせ俺の嫁だからな」
なぜか威張って、清継は笑った。今まではそこそこ遊びもしてきた。恋愛もしてないとは言い切れない。真面目なものもあればそうでないものもあった。ただし、結婚へ政略結婚の相手としようとずっと決めていた。国中からたった一人選ばれる相手というものに興味があったからだ。それが、自分にぴったりくる相手だろうと予想もしていた。今は当たり前だが、遥以外に付き合っている者はいない。三十歳を前にして皆手を切っていた。
『しかし』と食べ終わった諸岡が早くも食べ終えて口を拭い、清継を見つめる。
「しかし、彼を……遥様の事をよく思っていない連中……失敬、方々がいらっしゃるようでので、社長もくれぐれも社内での言動にはお気をつけ下さいね」
「ふん、叔父上か。わかっている。遥が男だというだけで、あんなにも泡を食った顔をしていたからな」
「近々の役員会で取り上げられることは必須ですよ」
「分かっている。それまでにまずは政略結婚法の事をよく調べ上げ、対応策を取っておかないとな。任せられるか?」
「勿論」
「お前は何でも勿論というな」
「それが清継様にお仕えするという意味ですから」
「そうか、任せたぞ」
二人して店を出る。車へ乗り込みがてら、いつものように清継はスマホの履歴から電話を掛ける。日課となっている遥の罵声を聞くためだ。今日はすぐ来られるだろうか、それとも少しは話ができるだろうか。嫌だと言いつつも、きちんと電話を一旦は受けてくれる遥の「遥らしさ」に、声を聞く前から清継の口元は薄っすらと笑み浮かべていた。
(6)遥③
まだ現実を受け入れられないまま自宅に戻り、慌ただしい二日間を思い出してみる。
結婚前提の書類ではなく、清継とはもう結婚しているのだ。信じられないという気持ちはまだあったが、政略結婚委員会でもそう断言された。
認めざるを得ないのだろうだが、どうしても男同士ということにどこか拒否反応を感じてしまう。ゲイ差別をするつもりはないが、自分自身がと思うと違う。
ホテルで思い出した幼馴染であり、法律事務所に勤める鈴木浩太郎へと電話を掛ける。
数コールで電話に出た聞き慣れた声に少し安堵感を覚えて、ベッドに寝転がりながら言葉を続けた。
『……久しぶり、最近どうしてしてんの、やっぱ弁護士の勉強って忙しい?』
『忙しいのは分かってたけど、勉強と同時進行ってのがな。どうした、なんだか元気なさそうだな』
『ちょっと聞きたいことがあるんだけど、忙しいなら──』
『なに他人行儀なこと言ってんだよ、揉め事か?』
『あー……えっと……政略結婚委員会ってあるよな。あれ、俺ンとこに来た』
『……え。あぁ、でもあれって、こう言ったらなんだけど選民意識系のアレだろ』
『DNAレベルで合致したらしい。しかも……男だった』
『はっ!?』
お互いにしばらくの沈黙があった。浩太郎も信じられない様子で言葉を探しているようだったが、電話の向こうでパソコンのキーボードを凄いスピードで叩く音が聞こえた。
『そんな前例はない。それにこの法律は優生な子供を産むことであって──』
『俺も何度もそう思ったし、政略結婚委員会にも行ったけど間違いじゃないって。意味わかんねぇよな』
『相手とは会ったのか』
『久堂清継って知ってるだろ、あの財閥の社長』
『……洒落になんないな』
『だからさ……法律で離婚する方法ねぇのかなって。この書類が来た時点で結婚したことになってんだって。俺が花嫁なんだってさ、笑える』
笑えると言ったもののお互いに少しも笑ってはいなかった。
『……裁判とかでなんとかなる方法があるなら探してくれよ、浩太郎』
『ん、なんとかしてみる。落ち込まなくていい。この法律自体に俺は反対だから』
『さっき帰ってきたとこだし、明日も会社だからちょっと寝て落ち着く』
『いつでも電話してきてくれていいから。焦らなくて落ち着けよ、遥』
『迷惑かけて悪ぃ。また連絡すっから。また近いうちに詳しい話もしたいし、飯でも行こうな、奢るしさ』
そう告げて短い電話を切ると、ドッと疲れが襲って来たように思えて、遥はジャージに着替えることも忘れてそのまま眠りに落ちた。
だが、朝、電話の着信音で叩き起こされ知らない番号に首を傾げながらも電話に出ると、あの聞き慣れざるを得なかった声が響いた。
『……なんで俺の電話番号知ってんだよ』
『ご母堂に聞いた。いいお母様だなぁ、羊羹も美味しいと言ってくれた』
『……やっぱり食べやがった……』
『おはよう、遥』
切断ボタンを押してノロノロとベッドから立ち上がりスーツに着替える。
こんなにいろいろなことがあるのに、仕事時間は迫ってくる。たぶんデスクには仕事が山積みになっているだろう。ここ数日で一生分の溜め息をついたような気がする。
「あら、遥、おはよう~」
「断りもなしに羊羹食って、清継に俺の電話番号教えたろ」
「お菓子の賞味期限って短いし。それにあなた結婚したんでしょう?」
「……男同士って分かってんの⁉」
「まぁ、ちょっと変だけど法律だから仕方ないんじゃないかしら」
「ちょっとで済ませるのか……」
「朝ごはんトーストと目玉焼きでいい?」
「……仕事溜まってるだろうし、早めに出勤するからいい」
朝から脱力しそうな気分だった。母親の呑気さに怒る気にもならない。
(どう考えてもおかしいだろ。男同士だぞ? なんかみんな普通に受け入れ過ぎじゃね!?)
取り敢えず東京駅で買った饅頭を手土産に会社に向かい、休んだ詫びを入れてから自分のデスクに戻る。当然の如く、雑多な仕事が山積みになっていた。
付箋紙に取引先相手からの電話があったから折返し電話が欲しいだとか、会計の承認印が欲しいだとか、次の会議の日程だとか……取り敢えずルーティーンワークでそれを順番にこなしていくしか出来ない。
デスクの上に置いた携帯電話が振動し、遥はそれを普通にとる。
『お世話になっております──』
『うちの花嫁は働き者だな。いい嫁を貰えて幸せだ、俺は』
その電話を二秒で切り、また溜め息をつく。たぶん清継の人の話の聞かなさと強引さはもう痛いほどに分かっている。しかし自分がどう動けばいいのかも分からない。法律というものがある以上、無下にしていいのだろうか、もしかしたらそれが犯罪になるのだろうか、そうなれば社会的に抹殺されたりはしないのだろうかと色々な考えが脳裏を過る。
政略結婚制度なんてものにはもちろん詳しくはない。浩太郎からの連絡を待つしかなかった。それまでは目の前の仕事をこなすだけだ。
会社の皆はまだ知らないが、淡々とキーボードを打っている地味な男があの久堂清継の花嫁なのだ。
(あ……ホテル代払わねぇと)
強引に連れて行かれたホテルだったが借りは作りたくなかった。
昼休みにコンビニで弁当を買い、自分のデスクに座り清継の会社のサイトをネットで探す。有名会社だ、それはすぐに見つかった。ペットボトルのお茶を飲んでから、その電話にダイヤルすると遥の名前を告げただけですぐに別部署に繋がれた。
『久堂の秘書をしております、諸岡と申します。この度はご成婚おめでとうございます』
『えっと……いや、まだ俺はそれ、認めてないんで……』
『戸惑われているのは当然でしょう。それに久堂は多少強引なところが御座いますので。ゆっくりと関係を築かれればよろしいかと存じます』
『と、取り敢えず先日なんか綺麗なホテルの代金を払って貰ったんで、それを返そうと思ったから振込先と代金を教えて貰えれればと思って』
『……久堂が強引にしたことでしょうしお気になさらないで下さい』
『借りを作りたくないんです。それに……離婚、考えてるんで』
電話の向こうの諸岡という男は清継とは違って理性的な雰囲気と、まともな会話が成り立つように思えた。
『メールアドレスをいただけますでしょうか。私の個人的なものですので久堂にはこのことは内密にいたします。これから心労が続かれるようでしたら、個人的にでも相談に乗らせていただきますので』
『……ありがとうございます』
やっと普通の会話が出来る人間に出会えたようで涙が浮かびそうになった。メールアドレスを交換し、何度か礼を言った後に電話を切った。
会社の上司や友人として清継と出会っていたら良かったかもしれない。だが、自分が花嫁として彼の許に嫁いで生活する──しかもセックスをする──という状況がまだ受け入れられない。悪い男ではないのは分かる。嘘をつけないタイプで、真っ直ぐな男だ。だが、遥もまた男だ。
しかし目元に受けたキスや、手を重ねられた時に違和感をまったく感じなかった。
(これがDNAっていうもんなのかよ)
本能が清継を嫌だと言っていなくても、男としての理性が清継を拒んでいる。
二時間ほどの残業を終えて家に戻ると、遥のぶんの夕食が食卓に置かれていた。父親はまだ残業なのか姿はなく、風呂場からは母親が入っているのだろう流行りより少し前の歌声が聞こえていた。
テーブルに座り、箸を持ったと同時にスマホの着信音が響く。
『お疲れさん、遥。新婚旅行先がまだ決まらなくてな』
『……離婚するって言ってんだろ』
『俺はおまえと別れる気はねぇから。この制度とは関係なしに遥のこと気に入っちまった』
『だーかーらー、なぁ、男同士ってこと分かってんの!?』
『分かってるよ、もちろん。男が男を好きになることになんか問題あんの?』
『……俺は……』
『また電話するよ、おやすみ、遥』
そしてあっさりと電話は切られる。
人を振り回す男というより、これはジャイアントスイングだ。
子会社を含めれば数百人のトップに立つ男だ。強引というレベルでは済まされないだろうし、それでなければ仕事を進めていけないだろう。そういう点では尊敬も出来る。
冷えたハンバーグをレンジで温めてから、それを口に運ぶ。
清継はカツ丼さえ食べたことがなかったようだった。
(そんなの絶対無理じゃん……なに考えてんだ、あの男……)
「けど、まず国の政略結婚制度な! 有り得ない! もし俺に恋人がいたら……いや、いねぇけど、そういう個人の意思を尊重しないってのおかしくね⁉」
思わず口に出して叫んでしまったのと同時に、今度はメールの着信音が鳴った。昼間にメアドを交換した清継の秘書だという諸岡からだった。
丁寧な挨拶から始まり、このメールは清継には伝えてないという言葉もあった。そしてあのホテルの請求金額はほぼ十万円に近かった。
「……無理」
その言葉しか出なかった。
取り敢えず目の前にあるハンバーグとごはんと味噌汁を胃に収めて、まだ母親の呑気な歌声が聞こえる風呂場の横を通り過ぎて二階の自室へ遥は向かった。
(7)清継④
「昨夜は十秒は喋れたぞ」
「ガチャ切りされなかったんですね、おめでとうございます」
そんな会話が清継と諸岡の間では朝の常になっていた。前日に決済の終えた書類をまとめ、新しい書類の束を清継の前に置きながら諸岡が切り出した。
「それで、副社長が役員会でおそらく切り出すだろう内容……遥様がしきりに気になさっている点でもあるんですが、離婚の件、お話してもよろしいでしょうか」
「ああ、なにか分かったか」
「法律上は、離婚について通常の手段と変わらないとされています。個人の意思が反映されない結婚ですからね、離婚も可能だという見解です。ただ、数年前ですが、離婚調停を起こした政略結婚カップルがいます」
「ほう」
「結局は、離婚に至らずに和解し、結婚生活を続けたようなんですが、これがおそらく鍵になるかと……」
「どんな調停内容だったんだ」
「まずは、このカップルは、夫側の浮気疑惑から半年の別居生活を送りました。そこから調停を妻側が起こし、一年かかって調停を終えています。ですので、これを基準として、離婚には半年以上の別居と一年以上の調停が必要になるのでは、と推測されます」
「なんだそれは。痴話喧嘩レベルで離婚できてしまうじゃないか」
「しかし、合計で最低でも一年半の別居状態が必要とも言えます」
「なるほどな……今のまま遥が渋り、叔父上が何を言おうとも、一年半は婚姻が維持できるというわけか」
「そうなりますね。しかも、今の所、清継様には離婚の意志は」
「全く無い」
「というわけで、早く遥様を説得なされば、何ら問題はないかと」
「よく分かった。しかしそうこういう内にも時間はすぎるな」
パソコン上で電子決済印を次々と押していた清継がふと顔を上げた。
「これはセクハラだと思わないでほしいんだが……」
「はい、何でしょうか」
「つまるところ、俺は男同士がよくわからん。遥は好きだが、男に欲情したことも、面と向かってされたこともない。実際のところ、その辺りはどうなんだ。その手の動画も参考にしたがさっぱりわからん」
「……真正面から来ましたね、流石です社長。本当ならばセクハラ案件で訴えたい所ですが……」
「本気で知りたいんだ」
「でしょうね。──どうしますか。とりあえず、雰囲気を体感してみるのが、一番かもしれませんね」
そう言うと諸岡は自身の胸の辺りを指先でトントンと叩いた。
「今夜ご案内しますよ、新宿二丁目へ」
夜も更け、新宿二丁目界隈は活気に満ち溢れていた。道を行くカップルの半数以上は男性同士で、中には女性同士とも、一見男女に見える組み合わせもチラホラとあった。数人ずつで固まって話し込んでいるグループもあれば、一人で店へと気軽に入店する男性の姿も。
『最低でもジャケットを脱いでタイを解いておいて下さいね』と言われていた意味を、清継は改めて理解した。ここでは皆格好も自由で、派手だ。
そして、横に立つ男の変身ぶりに、清継は舌を巻いた。諸岡はいつもきっちりと分けている髪を一旦崩してオールバックになでつけて、メガネを外しコンタクトへ変えていた。細身のジーンズに体のラインも顕なシャツに、カジュアルなジャケットを羽織る。社屋で見るのとは全く違う男がその場にいた。これでは街ですれ違っても諸岡だとは清継にも分からない筈だった。
「私の行きつけの店へ行きましょう。ノンケの男も、男性同伴であれば女性も入店可能なカジュアルな店ですから」
「よくわからんが、俺も入れる店とそうじゃない店があるんだな」
「そうです。けど、なかなか刺激的だと思いますよ」
連れて行かれた店はビルの二階で、入り口からは想像できなかったが広いパブのようなスペースだった。立呑用の狭いテーブルがいくつもに長いカウンター。店は混んでおり、客の大半は諸岡が言うように男性で、猥雑な雰囲気とそこここから上がる男性ばかりの笑い声や話し声に、清継は物珍しそうに目を見開いた。
「こっちです」
慣れた様子で店の奥へ進むと、ビールを2つほど頼み、諸岡がすぐに戻ってくる。グラスに口をつけると流石の清継も緊張していたのか、ビールが体に染み渡った。
「一番奥に、若い子らの集団がいるでしょう? 売り専の子らの待機場所にもなってるんですよ、大きな声では言えませんけどね」
「売り専……?」
「──男性を相手に体を売る、そういう仕事です」
「いきなりかなりヘヴィな場所に連れてきたな」
「その方が、直接的な方がお好きでしょう?」
「まあな。……あの、一番端の子なんかは、可愛いとは思うな」
「ああ、雰囲気が遥さんに似ているかもしれませんね」
遥よりは数歳は若いだろう男が元気よく店内で飛び跳ねて周囲を笑わせていた。側にいる男の肩に手を回し、ふざけている様子だ。諸岡が、周囲から声をかけられるのを断って、清継のすぐ横へ並んだ。
「どうですか? あの子を抱きたいと思いますか?」
清継はもう一度その若い男性を見た。それから、そばにいるいつもとは違う雰囲気を持つ諸岡も。男性の肉体、好みの顔、好ましい言動。喧騒の中でしばし考えた後で、清継は首を振った。
「いや、違うな。抱きたくはならない。けど、遥なら抱きたい」
「そうですか」
「ああ、遥だからだ。……あいつなら抱ける。すぐにでもこの腕に抱いてキスしたい」
「それが答えですよ。好きになる相手に男女の違いなんてありません。社長は……清継様は清継様の思うように遥さんを愛してあげれば良いんだと思いますよ」
諸岡に背を軽く押されて、店を後にする。
「少し私は遊んで帰りますが……そのご様子では社長はお帰りですか?」
「ああ、一刻も早く遥の声が聞きたい」
「一言も聞けずに電話を切られるかもですよ」
「それでも良いさ」
大きな通りで清継は車を呼んで、二人は別れた。
清継は楽しかった。こんなにも粘り強く相手へ執着したことはなかったし、粘り強く拒否られることも今までになかった。清継が度を外れた情熱家なのも幸いした。
実際、声が聞ければそれだけで嬉しい。反論してくる言葉が長くなれば、次第に会話めいたものも生まれる。
電話を始めてそろそろ一ヶ月。清継は車の中から遥へ電話をかけた。
「今晩は、俺の花嫁」
「……あんた、本当に諦めないな。今夜は何だよもう」
珍しく反論してくる声が弱かった。遥の声の強弱で体調や様子が分かるほどには連日声をかけまくっている清継だ。電話の向こうで浅く溜息をつく遥に少し待ってから言葉を続けた。
「どうした? 仕事で何かあったか」
「別にあんたに話すようなことじゃ……ちょっとな、俺の入力ミスで書類が間に合わなかったんだ。皆に、迷惑かけちまった……」
「そうか。大変だったんだな」
「──あんたなら、そういう凡ミスなんてしないんだろうな」
「いまはもう、な。ただ、失敗ならたくさんしてきた。社長になる前も後も。だから今はもう、周りの助けもあって『しない』と言い切れる」
「……格好良いよな、あんた」
遥がそんな事を言う。よっぽど落ち込んでいるようだった。本当は冗談の一つでも言って元気づけてやりたかったが、どうにもそういう気分に清継もなれなかった。らしくないと自分でも思う。けれど、好きな相手が電話の向こうで苦しんでいる。そう思うと、胸の辺りが苦しくなるのは本当だった。
「……けど、頑張って挽回して帰ってきたんだろう? お疲れさん」
「まあ、な。……変だよな。あんたとこんな話。忘れてくれよ」
「変じゃないだろ」
「いや、変だろう。俺とあんたは何にも関係……」
『ない』はひどく小さく聞こえた。遥が戸惑っている気配が伝わってくる。強くいつものように言い返せない自分が妙だと気づいたのだろう。清継は小さく声もなく笑った。こんな小さな遥の変化が嬉しかった。
「関係なくはない、よな?」
「か、関係ねーよ。馬鹿! 阿呆!」
「語彙が少ないな、照れてんのか」
「照れてねーし。何だよもう、変な、雰囲気になったじゃねぇか」
『けど』と声が続く。遥が息を飲んで、呼吸を整えるのが分かる。その囁くような声が、清継の耳をくすぐった。
「けど、助かったわ。ちょい落ち込んでたし? 助かった」
「そりゃ良かった。……おやすみ、遥。良い夢を」
「ん、……おやすみ」
静かに通話は途切れた。暗くなった画面を、暫く清継は眺めていた。たった数分の電話。数言のやり取り。けれど今の会話にはお互いに気持ちがあった。そういう気がしてならなかった。
「押せ押せの俺らしくないけどな」
独りごちる。しかし今夜は本当に良い夢が見れそうだった。
(8)遥④
少し清継に弱音を吐いてしまったことに後悔しながらも、笑い飛ばされるではなく親身に聞いてくれたことがどこか嬉しかった。清継は嘘をついたり、人を騙したりするような人間でないだろうことが分かる。
会社に大きな損害を与えるようなミスではなかったが、いろんな人に迷惑を掛けた。
清継は自分も完璧ではないと言い、いまは凡ミスを犯さないと言い放つ強さがあった。それが清継の持つ──百人単位の社員の仕事や生活を担う力なのだろう。
その忙しい合間に遥に電話をし、何度こちらが勝手に電話を切っても怒りもしない。DNAと国が勝手に決めた結婚でも、怒ってもいいはずの対応しか遥はしてこなかった。
──あいつに抱かれたら、どうなるんだろ。
ふとそんな思いが脳裏を過る。
慌てて首を振ってその思いを消そうとしたときに、タイミング良くスマホのメールの着信音が鳴った。
『政略結婚の離婚調停の前例がなかった訳じゃないみたいだ。詳しい話をするから今度会えるか?』
幼馴染の浩太郎からのメールだった。すぐに週末の夜なら会えると返信をしてホッと息をつく。
清継や制度に対しての恐怖は薄れてきていたが、次に感じたのは清継の大きな波に飲まれるような身体の奥から感じる欲望や渇望にも似た感情だった。恐怖ではないが、怖い。その波に飲み込まれそうになる。
「ねーし! 男に抱かれるとかねぇから! 浩太郎も言ってたけど頭のいいガキを産む政策なんだろ? どれだけDNAレベルで相性良くても子供なんて産めねぇしさ」
クッションを胸元に抱えてジタバタと床を転げ回る。清継は抱く方でも抱かれる方でもどちらでもいいと笑って言っていたが、体格的にも精神的にも抱かれるのは遥のほうだ。
「あー、無理、マジ無理。なんで俺なんだよ、俺のDNAなんかおかしくね? 実は女でしたーみたいなオチがあるとかねぇの!?」
清継との電話で少し癒やされたのは認めざるを得なかったが、それとこれとは話が別だ。
──家庭内別居とかセックスレスの夫婦とかあるよな。
そこまで考えてから、清継にそんなことは有り得ないだろうと思う。ワンマン社長と言われるタイプだろうが、知らないことは知らないと言え、嘘はつかず、豪快で自由奔放だが気遣いも……出来る……かもしれない。
「ぬああああああ!!!!」
ゴロンゴロンとのたうち回る遥に階下から母親の声が響いた。
「いい年してなにしてるの。お父さんが帰って来たからお茶にしましょ」
「いいよ、さっき飯食ったし」
「あらー、清継さんから美味しいお饅頭いただいたのよ。本当に気のきく人よねぇ」
「ちょっ、開けたのかよ!」
階段を駆け下りてテーブルを見つめると、上品な和菓子とお茶がすでに用意されていた。なんとなく分かる。これを送れと言いつけたのは清継だろうが、それを用意したのは秘書の諸岡だろう。まさに逆・兵糧攻めだ。
「あー、遥。おまえ結婚したんだってな」
饅頭を口にしながら普段は無口な父親がぼそりと呟く。
「し、してねぇし! いや、してるけども合意じゃねーから! つか、親父もおかしいと思うだろ? 男同士だぞ? 孫の顔とか見たくね? 男同士じゃ無理だから!」
「この饅頭美味いな。まぁ、法律なんだから仕方ないだろ。いま恋人とかいるのか、おまえ」
「いねーけど!」
「なら、問題ないだろ。またこの饅頭買ってきてくれ」
どうして皆こんな異常事態を受け入れられるのだろうか。一人息子が強制的に結婚させられようとしている上に、それが男なのだ。饅頭を食べている場合じゃないだろうと言い掛けて、たぶん自分の期待している答えが返ってくるとは思えずに遥は椅子に座った。
ほんのりとした甘さの餡と、しっとりとした皮の饅頭は確かに美味かった。会ったことはないが絶対に諸岡のセンスだと断言出来る。清継ならフレンチのシェフを家に寄越すような人間だ。
もうどうでもいいとばかりに饅頭を食い散らかしながら、早く浩太郎に会いたいと思う。
頭の良さの違いで大学は離れてしまったが、それまでは毎日ほど一緒に過ごしていた親友だ。より親身に今回の話を聞いて心配してくれる唯一の男だと思って間違いない。
湯呑の緑茶を飲みきってから、風呂に入ってくるわと遥は席を立つ。
明日は土曜日で、浩太郎といつも行く居酒屋で話をする予定だった。すぐに解決策は見つからなくとも、愚痴程度は聞いて貰えるだろう。お互いに何かと忙しかったせいか会うのも久しぶりだった。
「弁護士になる直前ぐらいの浩太郎のほうが選ばれるべきじゃねぇの。イケメンだし、身長は高いし、スポーツも出来るし。なんで俺なんだっつーの」
安っぽいジャージを脱いで、ろくに足も伸ばせない風呂に身を沈める。あのホテルのような窓から豪奢な庭が見える訳でもない家の風呂が落ち着く。母親が好きな安い入浴剤の匂い、安売りのシャンプーとコンディショナー。父親の脱毛防止の匂いのきついシャンプー。
一泊十万円のホテルなど、遥の家では想像も出来ない代物だったのだ。
浩太郎との待ち合わせは地元のいつもの安い居酒屋だった。
夜八時の待ち合わせだったが、少し先に着いた遥は狭いテーブル席に座りビール片手に枝豆を齧っていた。相手を待つだとか、乾杯をするだとか、もう二十年ほども一緒に過ごした幼馴染なのだから遠慮などない。
中ジョッキのビールを半分ほど飲んだところで店の引き戸が開かれ、浩太郎が姿を現した。
テーブルに座る遥の姿を見つけると、少し時間が遅れたことに『すまん』と一言詫びてからその前の席に座り、浩太郎もまた生ビールを注文する。
高い上背と引き締まった体躯。スーツ姿が板についていて、インテリという雰囲気を醸し出している。スポーツをさせても平均以上、顔ももちろんそれに見合っていて、バレンタインデーには両手に持てないぐらいのチョコレートを抱えていた。
「電話を貰ってからいろいろ案件を調べてみたんだが、一件だけ離婚調停までいった夫婦があったらしい。だから、それを進めれば遥の事案も無理じゃない」
「そうなのか……?」
「政略結婚ということ自体が人権を無視してる。俺はそういうのは嫌だ。同性愛者の婚姻は認めるべきだとは思うが、本人の意思がない強制的な結婚の法律などあるべきじゃない」
「だよなー! そうだよなー! うちの親とか普通に法律だから仕方ないとか言うし」
「それで、どんな男なんだ、実際の久堂清継って男は」
一瞬、遥が言葉を詰まらせた間にビールが届けられ、遥もまたジョッキのビールを飲み干してから二杯目を注文する。
「浩太郎、飯は食ったのか。俺もまだ枝豆だけしか食ってないし──」
「なにかされたか」
「いや、別に家にガンガン贈り物が届けられて、結婚式だの新婚旅行だのって電話が……ある、かな。でも清継の秘書の諸岡さんって人が、会ったことはねぇんだけどわりとちゃんと話が出来る人で……」
「……相変わらず押しに弱いな、遥は。文句も人一倍言うけど、押されると弱い」
「そ、そんなことねぇし」
「もし政略結婚の相手が俺だったらどうするんだよ」
「浩太郎が俺の夫? 嫁? どっちでもいいな。兄弟みたいなもんだろ」
テーブルに届けられた二杯目のビールを飲みながら遥は笑う。いつもの日常が戻ってきたようで嬉しかった。心配事もすべて浩太郎になら打ち明けられる。テーブルの脇にあるメニューを開いてどれを食べようかと迷う遥の姿を見つめながら、少し浩太郎は苦々しい表情でビールを口にしていた。
「とにかく、離婚調停に詳しい先輩の弁護士に話をしてみる。政略結婚制度自体が珍しいことだし手間は掛かるかもしれないけど、遥が離婚を望んでるんだろ?」
「……ん。なんかこういうの違うだろって思ってる」
「あの書類が届いたことで、もう結婚してるっていうことになってる」
「そうらしい。でもおかしくね? デキのいいガキを作るための制度だろ? いくらDNAの相性が良くても男同士で子供なんかできねぇし。しかも俺だよ、俺。なーんにも取り柄もないし、財産もないし、国の選択の間違いとしか思えないっつーの」
まだなにもされていないだろう雰囲気の遥の言葉に浩太郎は安堵の吐息を洩らすしかなかった。そのなにもない男にここ十数年片思いをしているとは言えない。
遥は幼い頃から根本的なところはなにも変わっていない。無邪気で、無防備で、正直。本人は地味だというが整った顔立ちをしていて、目尻の黒子が妙に色っぽい。なぜか目を離せない存在になってしまう。どこか危なっかしくて愛おしい子犬のような男だった。
──抱いてみたい。
浩太郎がそう思い続けて十年以上は過ぎていた。なのになぜ、たった数枚の紙切れで恋心も伝えられないまま終わってしまうかもしれないのだろう。
「刺身盛り合わせ。ウニ追加で」
「え。マジ? ちょっと待って現金そんな持ってねぇんだけど。ま、でも浩太郎には世話になるだろうしいっか……ここ、カード使えたっけかな」
「あと、吟醸酒。一番高いのいくらだっけ」
「な、なんなんだよ、待てって。なんか怒ってる?」
「怒ってるよ」
「俺が変な相談してるから……?」
「いや……この政略結婚制度に」
小さなテーブルには乗り切れないほどの酒や料理を頼み、二人でやけくそのようになってそれを食べ尽くす。
酔った勢いもあって遥は清継と過ごした二日間の愚痴を零す。初めて会った日に目尻にキスをされたこと、高級ホテルに連れて行かれたこと、カツ丼も食べたようなことのない金持ちであること。
浩太郎は黙ってそれを聞いていたが、いつもよりも酒を飲むペースが早かった。
(9)清継⑤
「なあ、諸岡」
「はい、なんでしょう」
「俺と遥は結婚してるんだよなぁ……?」
「はい、そう伺っておりますが」
「それが何故かもう一ヶ月も顔を見ていない。可愛い声は毎日聞いているが」
「そう、でしょうね。遥様はまだこの結婚に異議を唱えられておりますから。離婚も視野に入れておられるとか」
「どうしてだ。俺に何が足りないんだ。金も権力も、体も顔も何一つ欠けていないはずだ。……一回、直に会って話し合わないとってやつかな」
「そうかもしれませんね。DNAレベルで相性が良いとはいえ、以前申し上げましたようにコミニュケーションは必須かと」
「そうだな、じゃあ次の休みにデートにでも誘うか」
「それはそうと、早くこの書類の山を片付けて下さいね」
「分かってる分かってる」
この一ヶ月で、清継はいわゆる庶民の暮らしというものを沢山学んでいた。食事、休日の過ごし方、仕事の仕方。諸岡や遥の母に話を聞いたり、自分で体験したりもしてみた。そして分かったのが、遥の言う清継と遥の日常の差だ。あまりにも違う。
それを学んで差を埋めようとする情熱と遥への思いが清継にはあった。そして、今度のデートも極力遥に合わせるべく、計画を立てようとしていた。
「遥ー。電話よー」
「何、誰から?」
風呂上がりに母親が受話器を遥に差し出した。明日は日曜だ。のんびりと長風呂を楽しんできたところだった。母親はふふっと笑うと頷く。
「清継さん」
「切れよ! あいつと話す事なんて無いって」
「ご用事があるからかけてこられたんでしょ。ほらほら良いから、出て出て」
「はあ。出るだけだからな。──もしもし?」
一呼吸おいて、独特の低い声が遥の耳に届いた。
(くそ、良い声してんだよなーこれがまた……)
『よお、遥。ご母堂は元気そうだな。遥も一日元気だったか?』
『何だよ。こっちにかけてくんなよもう。今朝も電話したばかりだろ』
『スマホにかけるとすぐ切るからな、お前は。こっちなら母上の手前早々切れないだろう』
『……変な所で知恵が回るやつだな。で? 用事って?』
『明日、デートしないか』
『切るぞ』
『待て、切るな。冗談じゃない、本気だ。結婚して一ヶ月、そろそろ向き合ってくれても良いんじゃないか』
『それは……り、離婚する予定だからな俺は。別居だ別居』
『ほんの少しも俺に猶予はないのか? 俺に話したいことも? このまま会うこともなく?』
『それは……』
珍しく電話の向こうで迷う声が上がった。沈黙がそのまま遥の迷いなのだろうことは想像がついた。もうひと押しだと清継は電話の向こうへと優しく話しかける。
『俺は遥に会いたい。直に会って声が聞きたい。一回で良い、デートしてくれないか』
『そんな、あんた急に真剣に……』
『いつだって俺は真剣だったぜ。お願いだ、デートしてくれ』
返答には、相当の時間がかかった。何度も息を呑む気配が耳に当てたスマホから聞こえる。答えは相当小さく、そしていきなりだった。
『一回、なら』
『ん?』
『一回なら、良いって言ったんだよ!』
二度目はいつもの怒鳴りつける声だった。そこに照れともなんとも言えない声音が混じっていたような気がするのは清継の気のせいだろうか。清継は笑った。心の底からその返答が嬉しかった。
『ありがとう遥。じゃあ、明日の十時に迎えに行く』
『お、おう。あ、あのでかい車で来るなよ!』
『分かってる』
『おやすみ』と電話を切って、清継は緩む顔を抑えることが出来なかった。
(どうしてこうも、遥のことになると俺はこう、自分を制御できないんだ?)
そう思いつつも嬉しくてたまらない。明日のデートには自分で車を運転していこう。助手席には遥を載せて。楽しいデートになるはずだと、暗くなったスマホの画面を見つめた。
レンタルした白の軽自動車で遥の家の前に乗り付けると、遥はぽかんとした顔をしていた。遥はいつもどおりのジーンズに厚手のパーカー姿。その前に降り立った清継もスーツやオーダーメイドの服などではなく、チノパンにセーター、ジャケットというシンプルな出で立ちだった。
「なんだよあんた、そんな普通の格好して」
「勉強した」
腕を広げて、遥の前で披露してみせる。
「わざわざ?」
「この俺がわざわざだ。お前と一緒にいて、恥をかかせたくない。どうだ、並んで歩いてもおかしくはないだろう?」
「おかしくは、ねぇよ」
そっぽを向いて遥が言った。ちらりと清継を見ると『似合ってる』と付け加えてくれる。それだけで満足だった。遥の母の『いってらっしゃい』という声に見送られて二人は車に乗りこんだ。
「さあ、デートだ。臨海公園あたりか、水族館に行こうと思うんだが……遥はどっちが良い?」
「……水族館が良い」
「そう言うと思ってた」
「何だよ、ガキくさいか?」
「いや、俺も行くのは初めてだ。だから遥と行くのが楽しみだ」
「そうかよ」
会話をしつつも遥が戸惑っているのが分かる。清継にしても、すぐ横に、手の届く距離に遥がいてこうして会話しているというのが不思議だった。声だけ、しかも毎日数秒しか会話出来なかったが、その積み重ねがあったせいだろうか。きちんと会って話すのは二度めだとはとても思えなかった。
車はスムーズに水族館までの道のりを行く。間に、遥がペンギンが沢山見れるらしいだのイルカのショーがあるらしいだのとスマホで調べているのが微笑ましかった。
水族館は親子連れやカップルで賑わっていた。
駐車スペースに車を停めている間にも、遥が目を輝かせているのが分かる。じっと見つめると照れくさそうに言い訳をした。
「大人になって、仕事を始めてからさ。こういう場所って滅多に来なかったなぁって思って、だから……」
「気にするな。俺なんて初めてだ。さっぱりわからんからガイドを頼むわ」
「おう」
そこから、入館料はどっちが払うかで揉めたり、入り口で手を繋ごうとする清継を遥が押しのけたりと小さな揉め事はあったが二人は水族館を楽しんだ。イルカのショーでは水を被って笑う遥の楽しそうな表情に、清継は癒やされたりももした。
水族館の目玉は下を透明なトンネルで潜る、巨大なペンギンの水槽だった。トンネルに入り、上を見上げると、水の中を泳ぐペンギンたちの群れが優雅に空を飛ぶように見える。二人してトンネルの真ん中に立つと、無数のペンギン達に囲まれて、まるで海中を散歩しているかのように思えた。
「すげぇ……」
「ああ、凄いな」
遥につられて清継も呟く。こんなに綺麗なものを見たのはどれだけぶりだろうか。横を向くと、遥の瞳に水槽と照明の光が跳ね返ってキラキラと揺らめいていた。キスしたいと強く思った。だからそうした。
「なあ、清継……!」
遥の指先を握り自分の方へと少し引き寄せる。よろめいた遥はそのまま腕の中に倒れ込んできたので、顎先を持ち上げて、自身は首を傾けて唇を唇へと押し当てた。軽く、かすめるようなキスだ。
『え?』と目を瞬かせる遥と、周囲の客が少ないのを良いことに、もう一度引き寄せて今度は触れるだけのキスを少し長めにした。ぞくりとした快感がお互いの間を駆け抜けたような気がした。
「……──っ、清継!」
我に返った遥が顔を真っ赤にして、清継の胸板を叩こうとする。しかし、その腕が届く前に一瞬早く清継は一歩下がって、降参だというように両手を軽く上げてみせた。
「悪い。もうしない」
「おま、いきなり……っ、何するんだよ!」
「遥が可愛かったから、ついな。良いのか、周りの人間が見てるぞ」
「くそ……っ油断した」
顔を赤くしたまま、遥が小さく呟いて唇を拭う。けれど、口調や、俯いた首筋や耳まで染めたその様子を見ていると、遥も心底嫌がっていたのではないのではないかと清継は思う。
『半径一メートル以内に寄るなよ』などと子供っぽいことを言う遥の背後を追って、館内を再び二人で巡る。すぐに帰ったりはしない遥に感謝をしながら、清継も残りのデートを楽しんだ。
結局二人で館内の安いレストランで食事を取り、臨海公園まで巡って遥の家まで帰ることとなった。離婚や別れるという言葉は遥からは一度も出なかった。それが不思議でもあったが、一回きりの『デート』だというのをきちんと遂行してくれているのかもと思うと嬉しくもあった。
家の前に車を停める。『じゃあ』と車の扉に手をかけた遥がなかなかその場を動かない。清継の目の前で暫く迷った様子を見せると、いきなりパーカーのポケットへと手を入れて、何かを掴み、清継へと差し出してきた。
「これ」
「なん、だ?」
いきなりのことに清継も驚いていた。目の前に提げられたのは、ペンギンの小さなぬいぐるみが付いたキーホルダーだ。ほわほわとしたそれが、二人の間で揺れていた。遥は目線を逸しつつ、早口で言い募る。
「今日の、礼つか。その……楽しかったし。沢山、色々見て。……深い、意味はねぇからな!」
清継は目を見開いた。まさか、遥が自分へプレゼントを考えてくれているとは思いもしなかった。じわりと温かな感情が胸のうちに広がる。下を向いていた遥が動かない清継に焦れて、顔を上げる。目の縁がほんのりと赤かった。
「ほら、早く受け取れって……」
「……ありがとな」
言葉と行動は一緒に出た。腕を伸ばすと、片手でキーホルダーを受け取り、もう片腕で遥の頭を引き寄せる。ぐっと腕を寄せると自然に前傾姿勢になった遥の唇を、掬い取るように深く口づけていた。
「んっ……!」
驚いている遥の口元が緩んだのを良いことに、そのまま深く舌を捩じ込む。奥へと逃げる舌を追って絡め取ると、吸い上げて肉厚の舌を絡ませた。背筋がビリビリするような、先程の軽いキスでも感じた快感がもっと強く清継を苛む。もっともっとと体が欲しているようだった。
「っんぁ……待て、って……清、継……」
「待てない。……お前、何だこの可愛さは……っ!」
「……何怒って……んんっ……しつこ、い! 待て! ステイ!」
キスの合間にも真っ赤になった遥が清継を押しのけようとする。清継も離すまいとして、キーホルダーを握った方の手をぎゅっと握りしめていた。
キスは全力で遥が抗がってきた瞬間に終わった。扉へびたっと遥が張り付く。清継の手にはキーホルダーが残った。ふたりとも、車内で息も荒くお互いを見つめる。先に口を開いたのは遥だった。
「っていうことで、帰る、から」
「お、おう。また連絡する」
「だから、連絡はいらねー……」
「連絡はする。絶対にだ」
再度遥の手を掴み真剣に見つめると、遥は黙って否定とも肯定とも取れない風にただ横を向いた。
「……あんま、しつこくはかけてくんなよ。電話には、出るから」
「ああ、分かった」
その答えを聞いて、清次は手を離す。すぐに手を引っ込めた遥だったがそれ以上の罵詈雑言は振っては来なかった。車を降りて、『じゃあ』と玄関へと向かう遥を見送って、清継は微笑む。やはり自分の感覚は間違っていなかった。今度またデートに誘うおうと性懲りもなく次の手を考えながら車を発進させた。
(10)遥⑤
──キス、した。
水族館のデートは楽しかった。高級なスーツ姿じゃなく、敢えて量販店で買ったようなカジュアルな服装も似合っていた。なによりもあのしっかりした体躯で小さなレンタカーの軽自動車を乗っていたことに少し笑いそうにもなった。
その行動だけで遥のことを本気で想っていてくれていることが分かる。
たかが数百円のペンギンのキーホルダーに驚いた表情を浮かべ、いきなりキスをされた。本来ならば怒鳴り散らすべきなのに、背骨から震えるような快楽の感覚が走ったのは事実だ。
(ち、違ぇし……雰囲気に流されたっつーか……)
だが清継とのくちづけを思い出すだけで身体がゾクゾクとする。もっと強く押し切られたら断りきれなかったかもしれない。DNAで繋がり合うというのはこういうことなのだろうか。もしもう一度抱き締められたら──。
そう思った時にスマホの着信音が鳴り響いた。
なぜかそれが清継だと嬉しいと瞬間的に思ってしまったが、画面に記された名前は浩太郎だった。しかしどこか安心しながら着信ボタンを押す。
『この間はありがとな、浩太郎。えーっと、なんか分かった?』
『いろいろ知り合いの弁護士に聞いてみたんだけどやっぱり初めての案件だから、なかなか難しいっぽい』
『……だよな。ごめん、プロに頼むのに友達感覚で言っちゃって』
『俺がやりたいからいいんだ。今度また酒でも奢ってくれ』
『オッケー……』
『なんか元気ないな。なにかあったのか?』
『い、いや、なんにもない! どうしてこんなことになったんだろうなって』
さすがに清継とデートしたとは言えなかった。しかも楽しかった。抱き締められてキスをして感じたとは言えない。
『こんな結婚、俺が絶対認めないから。どんなことをしてでも離婚に持っていく』
『……浩太郎……ありがとな。つか、浩太郎こそ弁護士の資格取ったら可愛い彼女見つけて結婚しろな。俺が司会でもなんでもやるからさ!』
『ん。いい相手がいれば、な』
『浩太郎なら選び放題だって、イケメンのエリート弁護士予備軍だろ』
『肩書だけで着いてくるような人間は嫌だな』
『ったく、融通きかない男よな、おまえって』
それから他愛もない昔話やらを交わして電話を切る。
どこか浩太郎を騙しているような気持ちになってしまう。いまでも男同士の勝手に国が決めた婚姻を認める訳にはいかないが、真っ直ぐに嘘のない感情をぶつけてくる清継に嫌悪感は抱けなかった。
逞しい腕に抱かれ、熱い唇を重ね合わせるくちづけ。
理性でそれを拒もうとしたけれど、溺れてしまいたい自分もいた。
ギュッと下肢の中心が熱を帯びる。こんな感覚は初めてだった。もちろん性的欲求を女性に感じたことは何度もあるが、それとはまた違う。本能的に引き寄せられるようだった。
無意識にジーンズを太股辺りまでずらし、熱を持ち始めた勃起を慰めようとした瞬間に再び電話の着信音が響き、慌てて着衣を整えて画面を見つめる。
──あいつ、俺の部屋に隠しカメラでも付けてんのかよ。
あながち冗談にもならないようなことを思いながら、清継からの電話を取った。
『今日は楽しかったな、遥。ペンギン可愛いな』
『……あの水族館の名物キャラだし……』
『元気ないな、疲れさせたか?』
『……別に』
『でも俺はおまえと別れるつもりはない。国が決めようとなんだろうと、遥とどこかで出会ってたら俺はきっとおまえを好きになってた』
『その自信はどっからくるんだよ。俺の意思は!?』
『ははっ、俺と遥はお似合いの夫婦だと思わないか? 国が斡旋した見合い結婚だと思えばいいだろ』
『男同士じゃなきゃ玉の輿だろうよ。清継が守ってる会社の跡取り問題とかちゃんと考えてんのか?』
『あー、そっかそっか。そういう心配はいらねぇよ』
『はっ!? うちみたいな庶民でも孫の顔見たいとか……言ってねぇけど……なんかそういうのあるだろ!』
『新居の土地も買ったし、そろそろ工事に入る。結婚式は申し訳ないが仕事関係の人間も呼ばなくちゃいけないんで……招待状の手配もあるから遥のほうも友人知人、親類の一覧を送ってくれ』
『ちょっ、離婚するって言ったろ! 話を聞け!』
『あ、インター降りるからまた連絡する。愛してるよ、遥』
少しでも清継にときめいてしまった自分に後悔を覚えてしまう。オリンピックに出るような野球選手が小学生相手に全力でピッチングしてくるようなものだ。どうすれば勝てるのか想像もつかない。
結婚式の式場でも満面の笑みを清継は浮かべるだろう。男同士でなにが悪いと言わんばかりに。あの圧倒的な威圧感で周りがぽかんとしてる中、遥を連れて結婚式に乗り込む清継の姿がありありと脳裏に浮かんでしまう。
(……やっぱないわー……俺、そこで平気な顔してられる自信ない……)
キスを受け入れてしまったのは、清継の心遣いや水族館の楽しいデートのせいだったのかもしれない。実質は結婚している相手だが、これが初めての──。
(キスしたんだよなぁ……感じてない。勢いに流されただけだからっ! 家とか結婚式とかやる前にとにかく離婚だ、離婚!)
どこか野性味のある香水の匂い。脱ぎ捨てたパーカーに清継の香りが残っていた。
また下肢がジリジリと熱くなりそうで、ベッドの中で『明日いつもの居酒屋で会えない?』と浩太郎にメールを送る。すぐに『了解』と短い返事が来た。どこか現実に引き戻されたようで安心感が得られる。
楽しかったのは事実だ。くちづけも蕩けるような快感があった。だが、まだ受け入れられない。清継のあの強い押しに負けているだけなのだと思いながら、遥はそのまま眠りに落ちた。
いつもの安い居酒屋で、いつものビールや日本酒、つまみをつつきながら浩太郎と話す時間はリラックスできた。もうかれこれ二十年近い付き合いのある幼馴染だ。無言の時間も、お互いの愚痴も、下らない話も、昔話も、まるで空気のようにお互いの間で交わされる。
「この間言ってた離婚の案件は、男性俳優の浮気が原因らしかった。それで揉めて離婚調停までいったけど結局はいまでも仲良くやってるっていう」
「離婚調停まではちゃんと持っていけるんだ?」
「ああ、だから望みが無いわけじゃない。ましてや男性同士だ。遥が無理だと強く主張すれば……いや、男性同士がという訳じゃなく、久堂とは無理だと言えばいい」
「あ、うん。だよな。やっぱ、あの人って大企業の社長のオーラみたいなのが凄くてさ、勢いに押されるんだよな。この間も──」
「この間も?」
「……いや、電話、とか……」
さすがに水族館デートをしたとは言えなかった。ましてやキスをしたとも言えない。
訝しげな視線を向けている浩太郎の視線から逃げるように少し俯いて遥はビールを口にした。
「遥は男同士ってことに拒否感はないのか」
「それは、まあ、人それぞれだしいいんじゃねぇのって感じ……かな。今回のはいきなり結婚しましたよーって紙切れで人生決められた感じが嫌なだけで」
「俺もそう思う。それが例えどんな美女でも戸惑うよな」
「せめて美女なら考える余地もあったんだけどな」
「考える余地があるなら男でもありだったのか?」
そう浩太郎に言われてふとあのくちづけを思い出してしまう。ない、とは言い切れない。もし普通に出会って、あんなふうにデートを繰り返していたら素直に清継を受け入れてしまったかもしれないと思う自分もいた。
「……あり、かもしれない。恋愛って考えるとかじゃなくて、いつの間にかっつーか……どんな美女でも美男でも、なんつか、相性みたいのあるじゃん」
「俺もそう思う。婚姻は愛し合ってる人間が結ぶべき関係だと思ってる」
「同性婚が認められてもう何年経つっけか。うちの会社の部下にもいるわ。幸せそうで羨ましいなーとか思ったり」
政略結婚制度が出来る数年前に、同性婚の制度の確立もあった。もうそれはごく普通に社会に受け入れられていたが、政略結婚制度は雲の上のような存在の人間にしかない出来事だったのだ。
身分の差に怯えているのだろうか。ごく当たり前のように運転手付きの高級車に乗り、一泊十万円もするようなホテルに泊まり、社員を百人単位で動かしている男だ。男として尊敬はするが、玉の輿だと手放しで喜べはしない。しかもまだ幾度も会ってもいない。
「浩太郎、おまえと喋るとやっぱなんか落ち着くわー。今日も無理に呼び出したし奢る」
「いいって割り勘で。裁判になったら金も掛かるだろうしな。最高の弁護士紹介するから安心していい」
「……悪ィな、いつも。もし浩太郎が政略結婚相手だったら、ちょっと考えたかもー」
冗談のように笑いながら勘定を済ませ二人して店を出る。気持ちいい感じに酔いが回り、少しふらつく足取りで家路に向かう。浩太郎は駅裏のほうのマンションで一人暮らしをしていたが、遥が飲みすぎたせいなのを心配してか家のほうへ送ってくれる。
「……遥。別れろよ、絶対に」
「あ、うん。迷惑かけると思うけど、俺も清継が旦那だとはまだ──」
住宅地の薄暗い電灯が光る道端で、不意に浩太郎に抱き締められる。
(……え? 浩太郎、そんなに飲んでたっけ? 心配してくれてんの?)
清継のときとは違う違和感の無さはある。二十年程も幼馴染をやっていれば子供の頃から抱きついたり、くっついたり、ケンカをしたりもした。今回のことを親身に考えてくれているのだろうと遥は思い、その背に腕を廻して『大丈夫だってば』と笑った。
──だが、少し身体が離れ、遥の頬を細く端正な浩太郎の指先が包み込んで上向かせる。
なにか真剣な話があるのかと、遥はきょとんとした表情で浩太郎の顔を見つめた。だがそれと同時に唇が重ねられた。
なにが起きたのか分からずに暫く指先一つ動かすことも出来なかった。
(キス、だよな。いま、浩太郎にキスされてる⁉)
グイと浩太郎の肩を押して唇と身体を離すと、冗談もいい加減しろと言いかけた瞬間、いままで見たことのない誰よりも仲のいい幼馴染の苦しげな表情が見えた。
「……どうして、俺じゃ駄目なんだ。俺のほうがずっと遥を好きだったのに」
「こ、浩太郎……なに言ってんだよ。酔ってんのか……えっと、あの……心配してくれてんのは嬉しいけど……なんつか、あー、おまえ海外留学とかしてたしな! キスとかするんだよな! ビビったわ!」
「……バカだろ、おまえ。好きだからキスした」
「お、おう……キスな……うん……なんで、俺……」
「好きってことに理由いるか? ずっと好きだったのに紙切れだけでそれを持っていかれる気持ち、分かるか?」
言葉が出なかった。しばらく二人で立ち竦んでいた。
そんなことまったく気付かなかった。むしろ浩太郎が気付かせないようにしていたのだろう。
でも違う。嫌悪感はないが、清継にくちづけされたときのような全身の毛穴がゾクゾクとするような感覚がない。欲情を、感じない。
「……ごめん……ちょっと混乱してる、浩太郎、もう家はそこだし帰れる」
「俺のこと嫌いになったか? 軽蔑したか?」
「しねーよ、馬鹿! 何年、幼馴染してると思ってんだよ。でもビックリしてっからちょっとマジ待って。これモテ期っていうんかな、ははっ」
幼馴染であり大切な友人である浩太郎は失いたくない。だが性的な感情は覚えられない。
浩太郎は自宅マンションの方へ。遥は家に向かう。
なぜか、清継の豪快な笑い声と『気にすんな、俺の嫁はモテるな』というようなバカみたいな言葉が聞きたいと思ってしまった。
(11)清継⑥
役員会の日だった。議題は勿論、清継の結婚についてだ。
諸岡が一度抗議を叔父方へ申し入れたようだが一蹴されたらしい。それを踏まえて、諸岡は今日の資料を用意してくれていた。
役員会議室への道すがら、清継は諸岡を振り返る。
「言った通りの資料は揃ったか」
「はい。それはこちらに」
「叔父貴のやつ、遥も同席させろとか言い出したそうだな」
「ええ。それは速やかに辞退させていただきました。先方は一般市民の方ですからと」
「よくやった。しかし、やり方がせこいな。たかが結婚。それで俺を失脚させようなど……」
「このままでは自分の座が危ういと踏んでのことでしょう。何しろ、社長はお若い」
「まあ、そうだろうな。それにしてもこの間のデートな。大成功だったぞ」
「それは良うございました」
「やはりコミニュケーションだな。この一件が片付いたらまたデートに誘おう」
会議室の直前で、入室しようとしていた叔父の清澄とかち合う。清澄は一歩引くと、わざとらしく満面の笑みで会釈をし道を開けて、清継を先に入室させた。
役員会はすぐに始まった。叔父側がまず口を開いた。
「さて、この度は社長にはご機嫌麗しく……まずはご成婚おめでとうございます」
周囲から、まばらに拍手が起きる。半数近くが叔父の清澄の派閥の人間だ。それでも清継は手を上げて立ち上がり、礼を尽くして応える。
「皆様、祝福をありがとうございます。皆様ご存知のとおり、未婚のまま三十を迎えましたので……政略結婚法により、この度末永遥さんと結婚をいたしました」
「それで、その末永さんとはまず……一般の方だとか?」
清澄が進行の議長がなにかを言う前にすかさず割って入る。ざわつく周囲に、追い打ちをかけるように立ち上がり、両手を広げて声を上げる。
「しかも、皆さん。驚きべきことに、そのお相手の末永さんとは男性だとか」
ざわめきが一層大きくなる。『どういうことだ』『じゃあ跡継ぎは』『一般の人間……』など、周囲から聞こえる声の中、平然と清継は立ち尽くしていた。手を後ろで組み、冷静に周囲の反応を見渡す。清澄も同様で、しかしこちらは薄ら笑いを浮かべて、清継をじっと見ていた。
「今日はこの事をご説明いただくために、清継社長にはお出でいただきました」
「ええ。説明の用意は出来ています。諸岡、資料を」
「はい」
後ろへ控えていた諸岡が、役員へと資料を配る。その間にも、叔父はとうとうと語り、いかにこの結婚が不確かなものかと熱弁を振るっていた。
「……というわけで、一般の方という点においてだけでも、この企業のトップの配偶者にはふさわしいとは言いかねます。また、同性同士の結婚が許されるようになったとはいえ、世間では漸く馴染み始めたところであり、時期尚早感が強いかと。しかも、跡継ぎの事を考えればもうこれは、破断……離婚へとかじを切ったほうがお互いのためであると私は考えます。それでもとおっしゃられるならご結婚も良いでしょう。しかし、その際には社長の座に座ったままというのは……皆様いかがでしょうか」
こちらの言葉にもまばらにパチパチと拍手が上がった。情勢は五分五分。発言の間、黙って座って聞いていた清継は、清澄が席についたと同時に立ち上がった。
「ではまず、お手元の資料を御覧ください。こちらはコピーになりますが……私の政略結婚通知書となります。このように、国からの正式な法に則った婚姻であることはご周知の通りかと思います。その点、結婚自体に問題はないかと思われます」
「その、通知が間違っているということはないのかね?」
役員の一人が確認の声をあげる。清澄方の陣営であることは間違いなかった。
「政府機関に確認済です。間違いなく、私のお相手は末永遥さんであると。次に一般男性であるという点ですが、一般の方との結婚は数が少ないですが前例が数件ありました。しかし、どのご夫婦も問題なく過ごされていると……事業の継続や、拡大、継承なども問題なく行われているということでした」
「その、継承が問題だろうがね。君たちは男同士だよ。跡継ぎはどうする」
「今の世の中、子供が後を継ぐとは限りません。そうですよね、清澄さん。私が今失脚となれば、副社長であるあなたが私の後を継ぐということになる」
その声に満更でもなさそうに『まあ、そういうことになりますな』と清澄は頷く。それを確認して、清継は声を張り上げた。
「それでも、私の子がこの会社を継ぐこと、それを望む声が大きいことも承知しております。いわゆる血統を絶やしたくないと。しかし、皆様ご存知でしょうか。この4月に、政略結婚法が改正されたことを」
ざわめきが一斉に大きくなった。
「この改正では、子供を持てない政略結婚夫婦にまで話を拡げております。子供を望みながら授からなかった場合の、特別養子縁組の推奨です。いわば、政略養子縁組……とでも言いましょうか。全国の親のない子どもたち、親と離れて暮らさざるを得ない子どもたちの中から最良の相性を選び出し、子供のいない政略結婚夫婦のもとへと送り出すという」
「それでは、血統が途切れて……!」
「ええ、男同士のカップルである私達にはこの養子縁組しか子供を得る手段はありません。しかし皆さん、考えても下さい。最良のカップルの間に、最良の子供が養子縁組されてくるのです。家庭環境も良好でしょう、子も、安定した親の様子を見て健やかに育つでしょう。そこに何の問題があるでしょうか」
言い切った清継の言葉に、一瞬場がしんとなった。そして『確かに……』という戸惑いの、しかし肯定の声がそこここから飛び出した。清継は身を乗り出す。
「皆様方の心配はこの会社の未来だと思います。そこに、この政略結婚はなにの影も落とすものではありません。それは断言させていただきます!」
役員室のテーブルを叩き、にこりと清継は笑った。それで、役員会の流れは決まった。その後の評決でも清継の結婚に反対する票は賛成する票をわずかに下回り、無事に終わったのだった。
「見たか、叔父貴のやつ。久々にあの人のあんな悔しそうな顔を見たぞ」
「またそんな事を……口をお慎みください」
「少々良いだろう。ああ、良い気分だ。酒を飲みながら遥の声が聞きたい。いや、顔がみたいな」
「電話されると良いでしょう。テレビ電話などはされないんですか?」
「遥が頑なに拒否してな。可愛いやつだ。──今夜会いに行くか」
「喜ばれると思いますよ」
社長室へ戻りながらそんな話をする。役員会は無事終わった。もう二人を隔てるものはなにも無いと清継は思っていた。
清継が仕事終えて遥へと電話をかけると留守番電話に切り替わった。仕事を終えての会社の飲み会か、プライベートな時間を過ごしているのかもしれない。まあ、今から家へと訪ねればちょうど帰宅した遥に会えるだろうと気軽に清継は車を飛ばす。
遥の自宅前で車を停めて遥の母親に顔を出すと、手土産の和菓子を嬉しそうに受け取りつつ、遥の母は申し訳なさそうに頭を下げた。
「わざわざ清継さんに来ていただいたのに、すみません。あの子ったら今日、友人と出てるんですよ。帰りはそろそろだと思うんですけど……」
「いや、突然訪ねてきた私が悪いんです。遥さんによろしくお伝えください」
遥の母親と別れた車の中で一人、残念だなと呟く。知らずしらずのうちにこんなにも本気になってしまっている。住宅街ということもありゆっくりと車を発進させ、走らせているところだった。
薄暗い街灯が等間隔に並ぶ中、二つの影が寄り添っている。
『恋人同士か……』そう思いただ通り過ぎようとした。ちょうど横をすり抜けた時だった。
(遥……?)
背の高い男性へ抱きすくめられているのは、見間違えようのない自身の結婚相手、遥だった。一瞬のことだったが、驚いたように目を見開いてキスをされているその姿。清継は車をそのまま通り過ぎさせると、暫く進んでから路肩へと車を寄せた。二人の姿は遠すぎてここからは見えない。薄暗い車の中で清継は考える。
(付き合っている相手はいないと言っていたが……)
動揺がなかったといえば嘘になるが、遥が他人に嘘を付くタイプには思えなかった。
(誰か、事故か……? 諸岡にでも調べさせるか)
自身への問いかけと同時に、すでに手にはスマホを取り出していた。
「──ああ、夜遅くにすまない。大丈夫か? 実は……」
ことのあらましを、諸岡へと告げてから清継は電話を切った。
「遥の奴め」
不快な思いはなかった。ただ、呆然としていた遥を思い出し僅かに清継は目を伏せて唇の端を軽く上げた。
(12)遥⑥
まさか浩太郎が自分に恋心を抱いていたなんて微塵も思っていなかった。ずっとずっと仲のいい何でも話せる幼馴染のつもりだった。
酒の酔いなど一気に覚めてのろのろとした足取りで家のドアを開く。
「遥、一歩遅かったわね」
「……なにが」
「さっき清継さんがいらしてたのよ」
「はっ!?」
「遥がいないって言ったら帰ってしまわれたようだけど。ね、このお団子、お土産ですって。いつも美味しいところのを選んで下さるわねぇ」
もう団子のことなどどうでも良かった。適当にはいはいと返事をしてから自室へ戻る。
清継がなにをしに来たのかは分からなかったが、急用なら電話でも寄越すだろう。それよりもいまは浩太郎のことでちょっと頭が混乱していた。
(モテ期ってこういうんじゃないだろ……なんで男にキスされてんの、俺)
毎日の習慣のようにスーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めてから、ジャージに着替えようと思ったが頭がいっぱいでそのままベッドに腰を下ろす。
電話が鳴らないところをみると、清継には見られていないらしかった。なぜかホッと胸を撫で下ろすものの、なぜか後ろめたい気持ちが湧き上がる。
(浮気……とかじゃねぇし。むしろこの結婚自体を認めてないっつーか……)
そう自分に言い聞かしてみても、どこかムズムズする。
清継との思いの外楽しかったデート。だが、離婚調停を頼んでいる上に、遥のことを好きだと告げた浩太郎。
どこをどうすればいいのかまったく分からない。
ベッドの上にごろりと横になり、頭を抱えるしか出来なかったが、ふと思いつく。
(諸岡さん……)
唯一、まともな話が出来そうな第三者だった。
スマホのアプリを開いて、『いまお忙しくないなら電話をしていいですか』とメールを送る。取り敢えず誰かに話しを聞いて貰いたかった。すべてのことが自分の意思の関係ないところで動いているのだということを。
そして数分もしないうちに諸岡からの着信音が部屋に響いた。
『夜分にすみません、諸岡ですがどうなされましたか? また久堂がなにかご迷惑を──』
『えっと、えっと……清継も家に来たっぽいんですけど、俺が出てて団子とか貰っちゃってですね……』
『本日あった役員会議で遥様との婚姻のことを宣言されたのでそのご報告では』
『……あー……なんで勝手にそういうことするかな……つか、違うンすよ……』
『なにかありましたか?』
浩太郎とのことを言うのは少し憚れたが、実際、夫婦となっていることでこれは浮気と捉えられても間違いない。離婚するにもややこしい問題になるだろう。ただの事故だとせめて諸岡には伝えておきたかった。
『……もう二十年来の幼馴染がいて……』
『鈴木浩太郎様ですね。司法試験を受けてらっしゃるとか』
『え、そんなことも知ってるんすか』
『失礼とは存じますが久堂のお相手となるかたのご身辺の調査はさせていただいております』
『えっとですね……キスされました』
『……はい?』
『その浩太郎に』
『……おモテになられますね』
『……なぜかここ一ヶ月、男にだけに……』
『それで、遥様のお気持ちは?』
そう問われてしどろもどろながらにも、浩太郎からそんな気持ちを聞いたのは初めてでどうしたらいいのか分からないことと、離婚するつもりではあるが、清継に申し訳ない気持ちが少しあると諸岡に伝える。
遥が戸惑っている様子を察してか、諸岡は静かにその話を聞いてくれていた。
秘書という仕事の人間は、こんな奇妙な話を聞いてもこれだけ冷静でいられるのだろうかと思いつつも、誰にも言えないようなことを黙って聞いてくれていることが遥には嬉しかった。
『では、その浩太郎さんには愛情がなく、うちの久堂とは離婚を進めたいと?』
『あ……はい。男同士で……勝手に紙切れだけで結婚したとか言われても……』
『戸惑っているお気持ちは分かります。ですが、久堂のほうは最初は面白半分でしたようですが、いまは遥様に夢中のようです。それでなければ夜に一人で遥様のご自宅に向かわれるほど暇な時間はおありではありませんので』
『……ですよね』
なんとなくは気付いていたが、改めて事実を突きつけられると頷きを返すしかなかった。
安いペンギンのキーホルダーだけであれだけ嬉しそうにしてくれた。
どれだけ財産を持っていたとしても、新居を建てて、結婚式を挙げるのは相当の手間だろう。著名人の清継が会社の人間に男と結婚すると宣言するまでのことまでしている。
──本当に、愛されているのかもしれない。
そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。優しいが情熱的なあのキスを思い出す。
『遥様との結婚がお決まりになってから、それまでの女性関係もきれいに清算されましたし、お気持ちが本気なのは確かだと思われますよ』
『でも、俺は……まだ……』
『ゆっくりで結構です。久堂はあのような性格ですので強引に推し進めようとしたがりますが、嫌なことは嫌だとはっきり仰って下さっていいと思います』
『結婚式のこととか、なんか親類の住所を教えてくれとか……』
『調べようと思えばこちらでそれぐらいのことは調べられますから大丈夫です』
『……あ、はい』
『あとはその浩太郎さんのことですね。後日、私がお話を浩太郎さんとするというはどうですか? 離婚調停の話を進めておられるのも浩太郎さんですよね?』
『……はい』
『直接、話をしたほうが早いと思いますのでこちらから浩太郎さんにご連絡させて頂いてよろしいですか?』
『……はい』
もう気持ちいいぐらいに話がスムーズに進んでいく。が、どこか浩太郎の気持ちを無視しているような気もする。何年も遥を想い続けてくれていたというのに、その話を赤の他人の諸岡に任せっきりでいいのだろうかとも。
それに清継のことも気になる。諸岡の口からキスをしていたという事実を聞かされたらどう感じるのだろうか。離婚をしたいとは思っているが、こんな理不尽な形は嫌だった。
『……浩太郎のことは諸岡さんにお任せします。でも今回のことは俺から清継に直接言いたいです』
『了解いたしました。久堂はあのような性格ですのでどんな反応をするのか私も察せませんが、遥様を愛しておられるのは確かだと思います』
『あ、あ、愛して……』
『過去に何人もの女性とお付き合いはされておられましたが、これほど執着なさっているのは遥様が初めてだと思います。ご結婚にあたってすべての方とすべてお別れになられました』
『……なにげにそれプレッシャーです……』
『初めての夫婦喧嘩になられるかもですね』
あの清継の秘書を務めているだけあって、諸岡の態度は飄々としているものだった。
金も地位も名誉もあって、しかも強い野性味のある強靭な美丈夫だ。女にモテないはずはない。その女性関係をすべて切ってまで遥との結婚に挑んでいるというのだから、遥もまた真摯に向き合うべきだと思わざるを得なかった。
浩太郎のことを頼んでから電話を切り、そのまますぐに清継に電話を掛ける。
数コールのあとに、少しざわついた背後からの音が聞こえる中で清継の声が聞こえた。
『お。浮気者の嫁が初めて自分から俺に連絡してきたな』
『な、な、なんで、浮気とか……それを……』
『ファミリーレストランというところに初めて来てみたぞ。コーヒーは薄くてあまり美味くはないが、和食から洋食まで揃ってるな』
『どこにいるんだよ』
『遥の家から国道を挟んで百メートルほど行った……なんていう店だここは。黄色い看板の店だな』
それですぐに悟る。浩太郎とのキスシーンを見られていたのだと。
もう言い訳をする気にもなれなかった。しかも清継はいつもの調子で近所のファミレスにいるらしい。
『すぐそっちに行くから待っててくれ』
『二回目のデートか。浮気した嫁にはお仕置きするべきなのか』
『そういう冗談はいいからっ! 十分待ってろ!』
緩ませたネクタイはそのままで、脱いだばかりのスーツのジャケットを羽織ると、国道沿いの安っぽいファミレスへと遥は駆け出して向かった。
(13)清継⑦
宣言どおり、遥はすぐにやってきた。相当慌ててきたのだろう、着衣が少し乱れている。そういうところも可愛かった。
「よお、浮気相手はどうした。置いてきたか?」
直ぐ側までやってきた遥をニヤニヤと見上げると目尻を赤くして、きっと遥が睨みつけてきた。
「浮気じゃ、ねぇ。つか、声が大きいんだよあんた」
「なら外に出るか。車で来てる」
「……ん。ちょっと俺も話がしてぇし」
「へえ、お前から話なんて珍しいな。浮気の言い訳か?」
「だから違うって……っ、けど、まぁ、そういう感じになんのか」
『出るぞ』と続ける遥に清継は驚いていた。浮気と認めて、遥から話をしに来たということではないか。
清継からすれば浮気とは冗談で言っているだけで、実際怒ってはいない。一瞬だが見えたあの遥の驚きようから考えて、突然のことか相手が強引だった筈で、事故のようなものだと思っていた。自分も遥も良い大人だ。そういうことの一つや二つ、あってもおかしくはない。それに、万が一浮気だとして自分が負けるようなことがあろう等とは考えもしていなかった。
会計を済ませ、駐車場へと出る。ジャケット一枚の遥が寒そうに見えて足早に車まで戻ると、助手席を開けて招き入れ、車のエンジンをかけた。
遥は何か話のきっかけを考えているようで、目を伏せている。店からの明かりで、車内は目元の泣きぼくろまではっきりと見えるような明るさだった。
「で? どんな言い訳だ?」
話の水を向けてやる。敢えて深刻にならないように、清継は声音に笑みを混ぜて腕を伸ばした。すっと遥の泣きぼくろを指の背で撫でる。と、予想通り、キッと顔を上げた遥が強気な目を向けてきた。
「別に、結婚を認めたわけじゃないけどな。アレは、事故……だ!」
「アレって?」
「……っ分かってるだろ! 路上での……その、キス、だよ」
「ああ。あれな。──何か困ったことが起こってんじゃねぇのか? 大丈夫か」
「え?」
「事故なんだろ。信じる」
キョトンとした顔を遥は清継へ向けてきた。思いもよらぬ、清継からの返事だったのだろう。それからなぜか、清継と目が合うと頬を少し赤らめてほんの僅かに目を逸らした。その細かな表情の変化を一瞬でも見逃すまいと、清継は見つめていた。
「おう。信じてくれるんなら、ありがたい。その、詳しくは言えねぇけど、俺がそのボーッとしちまってて……相手にキスされた。問題はねぇよ、きちんと対応する」
「ちゃんと、断るんだよな?」
「勿論!……って、え、違ぇからな! お前とのことがあるから断るんじゃないからな! まずは相手に誠実に向き合って……」
「違うのか? 俺たち結婚してんのに」
清継はそっと遥の手を握った。手のひらの下でビクリと遥の手が跳ねた。けれど逃げはしない。ウロウロと目を彷徨わすばかりの、珍しい反応におや? と清継は思う。けれどこの瞬間を逃す手はなかった。
「ほんの少しは……俺の事考えてくれたんだよな?」
「……──考えて、ねぇってば」
「本当に?」
空いた方の手で、再度目尻の泣きぼくろに触れる。身を捩って逃げようとする遥の顎を捕まえて、清継は自分の方へと向かせた。店内から漏れ出た光のせいだけでなく、遥の瞳が揺れていたように見えるのは気のせいだろうか。
「なぁ、愛してるぜ。遥」
「──っここで、それは……ずるい」
ふっと笑って身を乗り出し、被さるようにして清継は遥にキスをした。唇と唇を触れ合わせるだけのキスを数度して、それから深く重ね合わせる。嫉妬はしないと明言したが、先程の男と重なる姿がやはりちらりと脳裏を掠めないわけでなかった。
(俺の遥に、マーキングしやがって……)
ぎゅっと、遥が清継のスーツの胸元を掴んだ。その手は清継を押しのけるでもなく細かく奮えている。舌を絡めて吸い上げてから、一度唇を離し、その瞳を見る。
「……ずりぃよ、あんた」
二回目のキスは遥からだった。濡れた唇同士が合わさって、自然と互いの腰も揺れる。車内で狭いのがもどかしかった。長くなる口づけに下肢に熱が籠もる。清継は遥の目尻に触れていた指を滑らすと、首筋から胸元をたどり、きゅっと胸の尖りを探ってシャツの上から弄った。
「んっ……ぁ……」
口づけの合間に漏れる遥の声が甘い。嫌がってはいないのを確かめると、清継はそこをゆっくりと捏ね続けた。もじっと遥が膝頭を擦り合わせている様子が分かる。反応しているのだろうことが分かって、手を下へを忍ばせる。足の隙間に手を差し入れると、途端にギュッと遥が足に力を込めた。
「そこは……っ……駄目」
「乳首は良くて下は駄目なのか」
「乳首もっ、本当は駄目!」
「弄らせてたじゃないか。気持ちよさそうに──」
「わーっ駄目、そんな事ありませんっ……! だから、駄目、あ、ダメっつったら駄目なんだって……んっ」
しーっと言いながら、清継はやや強引に足を開かせると、片手で遥の首筋引き寄せそこに顔をうずめてその匂いを嗅ぎながら、下肢の膨らみを手のひらで揺すりあげた。
手の中で衣服越しだが遥自身が跳ねるのが分かる。嫌悪など微塵もなかった。愛する相手の体に触れたい。悦ばせたい。その一心で、やや強く手のひらを押し当て、ゆすり、指先で円を描くように焦らす。
「……ここ、どうされたい……?」
「どうも、された……んっ、ぁ……く、ない」
「強情だな、俺の花嫁は。言ってみろよ、気持ちよくさせてやるから」
「ん……や、ぁ……擦るの、禁止っ!」
「禁止じゃないだろ。言ってみろって、ここを、どう、されたい……?」
清継は敢えて繰り返した。なんでも無いことのように遥の耳朶を唇で挟み、目を合わせないようにしながら耳元でささやき続ける。先に観念したのは遥だった。普段のあの元気良さは消え失せて、身を震わせて下を向いたまま懇願した。
「や……さ、さわっ……触って……」
「どこを?」
「……そこ、直接……」
「──分かった」
許可は出た。もどかしく遥のベルトを外し、ボタンも外して前を寛げる。潜らせた指先に下着が少し濡れているのを感じて、『可愛いな』と呟くと、反論を封じ込めるようにもう一度唇へとキスをした。
「は、ぁ……清継……」
「いいぜ。……大丈夫だ、そのままイケ」
直接触れた遥のペニスは熱く脈動していた。他人のものに触れた経験はないが、どこをどうすれば気持ち良いかは分かる。恥ずかしいのか、遥はなかなか顔を上げない。それを何度かキスで起こしてやりながら、手の中のペニスを扱くと、それだけで清継自身も達してしまいそうに気持ちが良かった。
勃起したペニスの根本から裏筋をたどり、先走りをこぼす先端を指の腹で擦る。開きっぱなしの唇にキスを繰り返して、舌先を引き出し、誘ってやる。これは悪いことではないんだと、気持ち良いことなんだと知らしめるように。
「……出る、んっく……イク、清継……っ!」
遥が腕を伸ばしてきて、自身から清継の唇を貪った。それはただの声を我慢するための行動だったかもしれない。けれど、狭い車内で清継も遥をきつく抱き寄せると、口内の奥にまで舌を入れてかき乱した。清継がハンカチを広げて、その中に遥のペニスを包んで強く扱くとそれはすぐだった。ビクビクと体を震わせて、遥がその中へと精を放つ。
「あぁ……っ……ん、は……」
「どうだ? 気持ちよかったか?」
「……馬鹿……そういうこと、聞くなよ……」
「浮気した嫁だからな。……ちょっとしたおしおきだ」
『阿呆』と、反論も小さく、ぽすんと思いがけず遥が清継の胸に一瞬頭を寄せかけてきた。精を放った後で気が緩んでいたのかもしれない。その小さな頭を抱いて目元を撫でてやりながら、清継は目元を和らげる。ほんのの少しだが遥との距離がまたこれで一歩近づいた。それに満足感を覚えていた。
「つうか、おい。……遥、早く一緒に住もうぜ。新居ができるまでは俺のマンションにお前が来るのでも良い」
「な、なんだよ、いきなり。俺は、まだ……」
「まだ、なんだよ。これで既成事実もできただろ?」
「既成、事実って……!」
「お前がどこで何をしようが構わんが、俺がお前を早く側に欲しい」
「……いっつも思うけど、その自信はどこからくんだよ」
「俺が俺であるから、だな」
「そうかよ」
顔を上げて反論する遥をもう一度と胸に抱き直す。胸にすっぽりと収まる遥は抱き心地が良くて、それ以上反論してこないのを良いことに暫く清継はそうしていた。
(14)遥⑦
黒塗りのいつもの運転手付きのロールスロイスではなく、清継が個人で使用しているのだろうガンメタリックのグレーのベンツだった。
車内には遥の雄の匂いが漂っていた。
手際よく下肢の乱れを整えられ、まだ吐息を荒げながらも清継に支えられた胸元から身体が離せられない。遥の首筋を撫でる温かな指先や、髪に口付けられる感触が心地良い。
「……浮気、とかじゃねぇし。なんか……好きだって言われて……」
「だろうな。遥はそういう男だ。抱かれてはねぇんだろ?」
「ないっ! ない! 浩太郎はマジで幼馴染だから!」
「あー、そいつもこんな鈍感な男に惚れて大変だっただろうな」
「ど、鈍感? 俺、鈍感か?」
「俺がこれだけ遥のことを好きなのに信じてねぇだろ」
そう言われると言葉が返せなかった。金持ちが遊びで庶民をからかっていると心のどこかで思っていた。
だが、冗談でもそんなことをして清継になんの得もない。しかも、指先で勃起を扱かれ絶頂を迎えてしまった。遥自身もそれに溺れてしまっていた。
全身が脱力してしまいそうな快感だった。思い出すだけで再び勃起してしまいそうになるが、それは理性で堪える。
だが、目の端にベンツの鍵にあの安っぽいペンギンのキーホルダーが揺らめいているのが見えた。
清継の胸元から顔を上げて、その唇の端にそっとくちづける。それがやっとだった。
「俺の嫁は本当に純情で可愛いな。このままさらってしまおうか」
「……うっせ。明日仕事」
「結婚の日取りもあるし、もう一緒に暮らしてもいいだろう。離婚調停を考えているんだってな。でも俺はおまえを手放す気はこれっぽっちもない」
「後継者とか身分の違いとかいろいろあんだろ……」
「関係ない。遥がどんな弁護士を寄越そうが、それ以上の弁護士を俺は知ってる」
「……だよな」
浩太郎がいくら秀才で出来る男でも清継の金銭的にも権力にも勝てないだろう。でも浩太郎の気持ちを無下にも出来ない。
──困ると思っていながらも、徐々に清継に惹かれていっている自分も分かる。
「遥、今日はこれで大人しく帰る」
「……ん」
「だからもう一度おまえからキスをしてくれ」
清継の胸元から顔を上げて、触れるか触れないかのようなキスをする。手で果ててしまったことの羞恥から相まって指先が震えた。
それが可愛いというように清継は満面の笑みを浮かべてそのくちづけをそっと受け止め、遥の柔らかな栗色の髪を撫でた。
心地よかった。不覚にももう少し一緒に居たいと思うぐらいには。
「……ってか、車、何台持ってんだよ……」
「社用車も含めてなら……五台ぐらい、いや、六台? 数えたことがねぇな。この車は嫌か?」
「いや、もういい」
だが生活のレベルも生きてきた価値観も違いすぎる。
いくら国が決めた政略結婚のシステムでも、困難しか待ち受けていない。まず清継の会社の人間が黙っていないだろう。清継ほどの著名人なら男同士の婚礼などいいゴシップにネタでしかない。
「家まで送って行く」
「……ん」
「またデートしようか、遥。次はどこがいい? 俺はずっと学校が終わってからも帝王学とやらで遊ばせて貰える暇なんてなかった。外食もいつも決まった店だ。友達の質も決められていた」
「自由がなかった……とか」
「まあ、そういうことだな。だからいまは遥と出会ってすべてが新鮮だ。遥が俺に、俺の知らないことを教えてくれている。この間は焼き魚定食を食べたぞ」
朗らかに笑いながら清継が車を発進させる。
なぜこの男は自分が他の男とキスしている遥を見ても怒らないのだろうか。あれは遥が望んだことではなかったが、嫉妬や怒りを感じてもおかしくないはずだ。なのにファミレスで薄いコーヒーを飲みながら遥の帰りを待っていた。
「……怒ってねぇのかよ」
「なにがだ」
「……キスしてたこと」
「俺も女と何度も寝たことがあるぞ。愛があったかどうかは別だがな」
「でも……いまは俺と結婚してんじゃん」
「それならいますぐ俺のマンションで暮らすか。同棲ってのもいいな、したことがない。遥は面白いな、婚前交渉をしたかったのか。いや、もう結婚してるんだから婚前ではないがな」
「ち、違うっつーの!」
車は滑るようにすぐに遥の家の前に辿り着き、くしゃりと髪を撫でられてからドアが開かれた。
「でも、許したわけじゃない。あの弁護士は徹底的に潰す」
「ちょっ、待て。それは止めろ!」
「いや、裁判には勝つって意味でな。俺に逆らってくる男なんて珍しい。よほど遥のことが好きなんだな」
「……浩太郎は俺の幼馴染だ。将来性もある。頼むから変なことは止めてくれ」
「その浩太郎君のことは諸岡に任せる。俺よりも諸岡のほうが怖いけどな」
「……だろうな」
「じゃあ、おやすみ、俺のハニー」
「ハニーってなんだよ」
「蜂蜜みたいな甘い声で射精を──」
すべてを聞かずに遥はベンツのドアを閉め、振り返ることもなく安っぽい建売住宅の玄関へと入って行った。
せめて浩太郎には迷惑をかけたくない。
けれど出口が見つからない。あの諸岡のほうが清継よりもっと手強い相手だというのは雰囲気で感じ取れていたからだ。諸岡は心強い理解者でもあるが、敵にすると誰よりも怖いという事が分かる。
もし離婚調停の裁判沙汰になったなら、国内でも有数の弁護士を雇ってくるだろう。それぐらいのことを出来なければ清継の秘書などやってはいけないはずだ。
自分を好きだと言ってくれた浩太郎の気持ちは戸惑いながらも嬉しくもある。だが、相手が悪すぎる。もうすでに結婚をしている上に、その男はキス程度では動揺もせず、諸岡という小姑もいる。勝てない戦いだ。
確実な将来のある浩太郎に自分のことで躓いて欲しくない。
「あら、おかえりー。お団子まだあるわよー」
「……いらねぇ」
「ごはん、あるわよ」
「食ってきたからいい」
「お風呂は?」
「……入る」
「遥が最後だから、換気窓開けておいてね。カビるから」
「はいはい」
自室に戻ってジャージと替えの下着を持って風呂場に向かう。スーツのジャケットとタイは外したが、パンツを引き落ろしたことで車内での射精を否が応でも思い出してしまった。
ペニスを扱かれながら何度もキスをした。
理性よりも本能が勝ってしまった。その快楽の波に溺れ、もっとと身体が疼いた。
「ぬあああ……ないから……男に抱かれるとかマジねぇから……」
髪をガシガシと洗いながら、そんな言葉を遥は呟く。
話を解決しようとしているのにむしろややこしいことになっているような気がする。
一ヶ月前までは笑えるぐらいの普通のサラリーマンだった。これまでも、これからも
そんな生活なのだろうと思っていた。
──あの国から届いた政略結婚通知が来るまでは。
幼馴染の浩太郎にキスをされ、結婚相手の清継にイカされた。もうなにがなんだか分からない。
なのに、明日には雑多な書類を整理し、判子を押し、届いた業務メールに返信する。
なにが正しい選択なのかが自分でも分からなくなっていた。
「どうすりゃいいんだよおおおおおおお」
「遥、お風呂で叫ぶの止めなさい、ご近所迷惑になるでしょ」
「だあああああああ」
「子どもじゃないんだから、お風呂ぐらい大人しく入りなさいっ」
足を半分折りたたむような格好で、狭い浴槽に身を沈める。
(……普通の生活って幸せだよな……)
けれど、清継に扱かれたあの快感に下半身がジンと熱くなる。唇にはあの温かな感触が残っていた。もし、もっと強引に迫られていたら抱かれてしまっていたかもしれないと思えるほどの快楽だった。
──清継が、好き?
「いやいやいやいや、ないないない。男だし、あんな唯我独尊みたいな男とか!」
本来ならもっと自由気ままな男なのだろう。なのに、遥の生活を知ろうとしてくれてもいる。オーダーメイドの高級なスーツを着て安い店でランチをしたり、ファミレスで薄いコーヒーを飲んだり、忙しい合間を縫って遥の家に訪ねて来る。
そして何よりも、そんな清継に惹かれそうな自分がいた。だが浩太郎の真摯な気持ちを無下にすることも出来ない。清継の言葉通りに、戦いを挑んでもきっと負け戦だ。浩太郎はデキる男だが、諸岡にはきっと勝てないだろう。
「政略結婚ってなんだよ! なんで俺なんだよ!」
「遥っ! 静かにしなさいっ!」
台所辺りから聞こえる母の声に声を飲み込む。けれどこれはどうしようもない事実なのだ。どうすればこの絡まった糸のような混乱から逃れられるのかが分からなかった。
(15)清継⑧
諸岡は自社の社屋の前で立ち尽くす青年を見て、おや? と足を止めた。朝も早い時間で社屋にはまだ社員は少ない。行き交う人々を気にもせずにキッとビルを見上げているその青年には見覚えがあった。
鈴木浩太郎。遥の幼馴染で弁護士事務所に勤めているという人物だ。頭の中から資料を引き出すように記憶を整理する。確か、離婚を進めたがっている遥の代わりに動いている人物の筈だった。今日は敵情視察と言ったところだろうか。勿論、清継に会わすわけにはいかない。諸岡は営業スマイルを貼り付けると、浩太郎へと足を踏み出した。
「鈴木、浩太郎さんでいらっしゃいますよね?」
いきなり声をかけられた浩太郎はばっと諸岡を振り返った。諸岡は少し見上げるようにして背の高い浩太郎を見返す。ニコリとした笑みは貼り付けたままだ。
「私、久堂清継の秘書をしております、諸岡と申します」
「私は、確かに鈴木浩太郎です。諸岡さん、遥からお名前は伺っております。今日はお話があって参りました」
見も知らぬ男から名を呼ばれ、一瞬虚を突かれたように戸惑った浩太郎だがそこは流石に、すぐに居住まいを正して名刺を差し出してきた。諸岡も軽く礼をして名刺を差し出す。
「ここでは、人の目もありますから……どうぞ、社内へご案内いたします。──お話とは、遥様と久堂との結婚についてでしょうから」
「はい。そうしていただけるとありがたいです」
「では、どうぞこちらへ」
諸岡は使われていない会議室へと浩太郎を案内した。浩太郎の敵陣だと言うのに堂々とした振る舞いは、諸岡に個人的な好感を持たせた。会議室で向かい合わせに座ると、『さて』と諸岡は両手をテーブルの上で組むと首を傾げた。
「申し訳ないのですが、久堂は忙しくしておりまして……代わりに私がお相手いたします。よろしいですか?」
「どうしても、久堂社長に面会は叶いませんか?」
「事前にアポイントメントを取っていただかないと、こればかりは……」
「そうですか。──遥の、末永の代理として今日はこの場に参りました。はっきりと申し上げます。末永は御社の久堂様との結婚を望んでおりません。すぐにでも、離婚に応じていただきたい」
浩太郎は前を向いて諸岡に言葉をぶつけた。紳士然としながらも譲らない態度に諸岡は表情には出さずに感心する。
「そうですか。そういったお話だとは思っておりましたが……はっきりと、遥様がそうおっしゃられたんですね?」
諸岡は笑みをすっと消すと、確認するように声を落とした。
「ええ、そうです。はっきりと私に、困っていると相談をもちかけました。また、離婚の手段がわからないとも」
「おかしいですね。それにしては、遥様と久堂は連日連絡を取り合い、先日も二人きりで会っていた……筈なんですが」
「それは……っ、連絡は一方的なものでしょうし、そちらの久堂様のような方に強引に誘われては、断れるものも断れないのでしょう。遥は一般の市民です。そこを考えてやって下さい」
「それはそうかもしれません。確かにうちの久堂は少々強引なところがあります。そこは否定いたしません。が、どちらにしろお二人のこと。第三者である鈴木様には関係ないのでは?」
「いいえ、末永には法律の知識がありません。それで私が代理としてきているわけですが、ご理解願えないでしょうか?」
両者一歩も引かずに睨みあう。先に声を発したのは浩太郎だった。
「……わかりました。お話に簡単に頷いて貰えるとは勿論思っておりません。こちらで末永には有能な弁護士をつけさせていただきます。離婚調停に進みたいと考えていますが、よろしいでしょうか」
「ご理解いただけなくて大変残念ですが……遥様の意志がそうであるならば、仕方ありませんね。こちらでも総力を上げて、有能な弁護士を揃えてお相手いたしましょう。久堂には離婚の意志は全くございませんので」
そこで、腿の上に手を置いていた浩太郎がぐっと強く拳を握った。眉を初めて苦しそうに寄せて、諸岡に詰め寄る。
「なぜ……末永……遥でなければならなかったんでしょうか? 御社の久堂様であるならば、遥に拘らずとも、引く手あまただと思うのですが」
そこで、諸岡は思い出した。浩太郎がただの善意や友情などではなく、遥への恋情を持ってこの場にいることを。僅かに目を伏せて、諸岡も声のトーンを落とす。思わずだろう、漏れ出た浩太郎の本音を、ないがしろにする訳にはいかなかった。
「通知のせいだけではございません。久堂は、久堂自身の手で遥様を選ばれました。遥様の明るく人を惹きつけるところなどは、ご友人である鈴木様が一番ご存知ではないですか?」
「そう、ですね……」
浩太郎はすうっとうなだれるとしばらくすると立ち上がった。その目にはもう迷いや不安などはない。
「お時間を頂いてありがとうございました」
「いえこちらこそ、またなにかあれば遠慮なく……名刺の方にある私のアドレスや電話に直接連絡頂いても構いませんので」
「わかりました」
浩太郎を見送り、諸岡はため息を吐いた。久堂から遥との進展などは逐一聞いている。今の青年が今後報われるかどうかは……。そこまで考えてらしくないと首を振る。なんだか浩太郎のことが気がかりで、胸には小さな棘が刺さったような感覚があった。
(男同士、胸に秘めたままでも辛いでしょうに……)
「そろそろ社長が出勤ですかね。会議の準備をしておかないと」
独りごちて、車内へと諸岡は足を向けた。
清継が機嫌が良かった。普段から有能な男ではあるが、機嫌が良いと更に手際が良くなる。今日などは鼻歌まじりに決済印を押し、電話やメールに返事をして、明日の新規プロジェクト発表の素案を添削している。横で次々に仕事を回す諸岡はちらりと横目に自身の主を見た。
「ご機嫌ですね、社長」
「ああ、昨夜の遥が可愛くてな。聞きたいか?」
「結構です」
「何だ、話を振っておいて。まあ、俺も詳しくは話すつもりはない。だが、あれだな。知識ばかりを求めずとも、身体は勝手に動くもんだな」
「……何か、遥様のお体に負担になるようなことはされてませんよね?」
「俺を獣か何かと思ってないか? するわけないじゃないか」
「それならば安心いたしました」
「それで? 例の鈴木とかいう男が来たんだろう」
「はい、離婚調停を起こすとおしゃっておられました」
「……遥のやつも、あれでいてどう動くかわからないところがあるからな。大丈夫だとは思うが、一応、弁護士の準備はしておいてくれ。俺は絶対に離婚しないからな」
「勿論、存じております」
「叔父上はあれからは?」
「なにも。役員会で面目を潰されたのですから、暫くはおとなしくされているかと」
「そうか。ならひとまずは安心だな。今のうちに挙式の手配と……新居はもう決まったか?」
「はい。こちらではどうでしょうか。内装には和のテイストと、木をふんだんに取り入れるとのことです」
「うん、良いな。気に入った。手続きを進めてくれ」
コンクリート打ちっぱなしの一見デザイナーズマンションにも見える三階屋、一階はガレージになっており住み家は二階以上になる構造だった。周囲には木々が植えられて、ちょっとしたオアシスのようだ。
「リノベーション物件ですが、新築同様になるとのことです」
「分かった。そちらは全て任せる。しかし挙式に披露宴が面倒だな、その後にハネムーンってのは良いが」
「そちらも滞りなく準備は進んでおります。遥様の招待客の方もこちらでピックアップしてすでに招待状を送付済みですので、ご本人にも宜しければご確認下さい」
「早いもので式までもう一ヶ月半か……苦労をかけたな」
「いえいえ、苦労だなんてとんでもございません」
珍しく殊勝な清継に諸岡も笑って応える。
「しかし、幸せだ。結婚が、こんなにも満ち足りた気持ちにさせてくれるものだとは思わなかった。諸岡、お前もそろそろ真剣に考えたらどうだ」
「そういうのは、セクハラだと以前申し上げましたが?」
「今は友人として言わせて貰っている」
「……もう少ししたら、考えますよ。清継様を無事に遥様のところへ送り出せたら」
「そうか。相手ができたら教えろよ。俺のことはお前は何もかも知っているからな。俺がお前の事を一つも知らないのはおかしいと以前から思っていたんだ」
「部下と上司ですから?」
「そう言うよな、お前なら」
ははっと清継は笑った。
「また遥をデートにでも誘うか。今度は俺の部屋で飲むのも良いな」
「早くご一緒にお住まいになれると良いですね」
そうだなと、清継はコーヒーを一口飲んだ。
(16)遥⑧
「おはよう、遥」
「ん、おはよ」
毎朝のこんな電話ももう日常になってしまった。他愛もない会話に相槌を打ちながらスーツに着替える。
取り敢えず……あの車での手淫のことは遥の中ではなかったことにしようと心の隅に追いやっていた。
「ああ、そうだ。この間、遥の幼馴染の浩太郎という男がうちの会社に来たらしい。俺は会っていないが、諸岡と話をしたらしい」
「……え⁉」
「離婚調停をするって鼻息を荒くしていたということだ。うちの嫁はモテ過ぎて心配だな」
「そ、それで……浩太郎になんて言ったんだ」
「そっちがその気なら、こちらも弁護士を立てるとだけ」
遥自身が浩太郎に相談したことであったが、最悪の自体になりそうな予感がする。
ネクタイを締めていた手を止めて、いろんな想像を頭の中で張り巡らせるが圧倒的に浩太郎が不利であり、迷惑を掛けることしか思いつかない。
それだけは嫌だった。あの冷静な諸岡という男なら手段を選ばないだろうことが予想出来る。
「……いまからそっちに行く。話、出来るか?」
「言うと思ったよ。もう遥の家の前に車が到着する頃だろう。遥が嫌いなあの車だが、俺がちょっといま手を離せないから社のほうまで来てくれ」
「……分かった」
「あの幼馴染が好きなのか?」
「そうじゃない。迷惑を掛けたくないだけだ」
「……ふむ。じゃあ、後ほど。ああ、諸岡は頭がキレる山猫みたいな男だ。引っ掻かれないように気をつけたほうがいいぞ」
言われなくとも分かっている。電話で会社の上司の嫌味に平謝りをしてまた有給を貰い、とにかくいつもの旅行用の合皮のバッグに着替えや歯ブラシを突っ込んで外に出る。
すでにあの黒のロールスロイスが自宅前に待ち受けていた。
「社長から申し付けられましたので、社の方までお送りさせていただきます」
「な、なんかいつもすみません……」
「いえ、これが私の仕事ですのでお気になさらず。なにかありましたら何でも仰って下さい、遥様」
もう自分の存在が公然の事実になっているのだということを改めて知る。清継の会社の役員会議でも公言したという話も大袈裟なものではないのだろう。
慌てて飛び出して来たのはいいものの、相変わらず冴えない紺色の安いスーツ。しかし自分で持っているまともな服は冠婚葬祭用の黒のスーツぐらいしかない。ファッションには興味がなく、今までの人生の中で高級な服を着る機会などなかった。
ロールスロイスの後部座席に乗り込み、手持ち無沙汰なぐらい広い座席に身を沈めながら浩太郎に電話でもしようかと考えるがそれは止めた。もうこれ以上、浩太郎に迷惑は掛けたくなかった。
静かに車は高速道路に入り、進んでいく。
誰かが言っていた。結婚は簡単だが、離婚はその数倍以上の労力が掛かると。
(結婚も望んでやった訳じゃねぇのに……)
だが、あの夜の甘いくちづけや愛撫、射精の快楽を思い出し遥の目尻が赤く染まった。
清継の会社であるビルは想像以上だった。
ガラス張りの外観からでは何階建てかも分からない。垢抜けたスーツ姿の男や女が絶え間なくエントランスを出入りしている。遥はただ窓からその風景をぼんやりと見ているしか出来ない。
「あの、えっとアポイントとか……いいんですか?」
「遥様は社長専用のエレベーターに乗られることになっておりますので、地下駐車場からそのまま社長室のほうへ向かって下さいませ」
「……はあ」
運転席の飯田に近寄りそう告げて返ってきた言葉がそれだ。
(専用エレベーターってなんだよ……マジもう無理。俺の仕事って一日中取引先相手のクレームに頭を下げる電話してるか、ゴム印押してるか、書類のコピーしてるか……)
改めて考えるだけでその落差を感じる。もし結婚したとしても──もうしているが──上手くいく訳がない。それにこんな結婚、こんな大会社の人間が認めるだろうか。
人当たりのいい真面目そうな飯田に案内されて、その社長専用のエレベーターに乗せられ、最上階の社長室に行くように促された。
社長専用なのだからもちろん誰も乗ってくることもなく、途中で止まることもない。
どんどん気が滅入ってくる。
こんなところで社長をしている相手に、電話をガチャ切りしたり、バカだのうるさいだのと毎日言い続けていたのだ。怯まずにはいられない。だが、これがいいチャンスなのかもしれないとも思う。身分差だ。清継の気の迷いか庶民の生活を面白がってるのかは分からないが、あまりにも落差が有りすぎる。
チン、という軽い音を立ててエレベーターが止まる。
恐る恐るシックな絨毯張りの廊下に足を踏み入れると、受付にいた女性社員が遥に向かって深々とお辞儀をしていた。
「久堂社長はすでに奥でお待ちしております。お荷物をお預かりしましょうか?」
「いや、いいです。清継……あー、えっと、ここ、入っていいんですか」
「ええ、遥様の到着を心待ちにしておられましたよ」
重そうな木の扉が不意に開き、少し神経質そうな眼鏡の男が現れた。遥の姿を見ると薄っすらと微笑んだような表情を見せたがそれは心からの笑みではなく、いわゆる営業スマイルだ。
(……諸岡さん、だな。山猫の諸岡)
名前を告げられなくてもそれが直感で分かる。あの清継の専属秘書をやっているのだ、一筋縄でどうにかなるような男ではないはずだ。しかも清継に山猫だとまで言わせる男だった。
「遥様、お会いするのは初めてでございますね。諸岡です。久堂が奥で待っておりますのでゆっくりお寛ぎ下さい。お飲み物をお持ちしますが、お好きなものはございますか?」
「え、あ、はい……じゃ、じゃあコーヒーを……」
「かしこまりました」
「メールとか電話とかありがとうございました……」
「いえ、久堂に振り回されて大変でしょう。私でお力になれることならいくらでも」
大きくドアが開かれると全面ガラス張りの壁と、一見して分かる広く豪華な木の机。遥が毎日使うスチールの机とはまるで違う。部屋の中央には革張りのソファとローテーブル。あのロールスロイスよりもふかふかとした座り心地のそれに案内される。
「遥! 嫁から会いに来てくれるとは思っていなかったぞ。諸岡、午後の予定は全部キャンセルだ。食事はしたか? なにか持ってこさせようか。それともまた食べに行くか?」
「いいから、そういうのは今日はいい。話をしに来ただけだから」
「あの幼馴染のことだろう。俺はなにもしていない。浩太郎とやらがこっちに乗り込んできて来たから諸岡がその喧嘩を買っただけだ」
なんとなくその想像は出来たが、どうすればこのややこしい状態を収めることが出来るのかと考えるだけで遥は頭が一杯だった。しかもこの社長室に居る自分のアウェイ感に圧倒されている。いつものように怒鳴ったり、清継に悪態をつくことも出来ない。
「社長、初めての場所で遥様がまだ緊張なさっております。もう少しゆっくりとお話をおすすめ下さい」
「幼馴染を引っ掻いたのはおまえだろう、諸岡。遥が怒っている」
「人聞きの悪いことを仰らないで下さい。では、社長は離婚調停で負けてもいいと思ってらっしゃるのですか?」
「それは困る。諸岡はこういう男だ、慣れてくれ、遥」
庶民をからかっている訳ではなく、清継は万事がいつもこの調子なのだということが分かる。諸岡がコーヒーのカップを二人の前に置き、一礼をして立ち去ろうとしたのを引き止めたのは遥だった。
とにかく、落ち着かなかった。高層ビルの最上階、高級家具が並んだ社長室。外に声は漏れないだろうが女性社員もいた。
「あ、あの、諸岡さん。ここじゃないどこかでゆっくり話せるところ、ありますか」
「お食事をされる雰囲気ではなさそうですね。社内の会議室か、ホテルのスイートか……」
諸岡の言葉を遮るようにして清継が立ち上がり、遥のバッグを引っ掴む。
「俺の家でいいじゃないか。俺と遥はまだ清い関係だ。なんの問題もない」
「……やれやれ。社長、余計に遥様が困ってらっしゃいますよ」
「諸岡、車を用意してくれ。遥はロールスが嫌いだからベンツでいい。それでいいな、遥」
「家?……清継の家?」
「同居前に俺の生活を知るのもいいだろう。コミュニケーションだ」
「いや、それは……」
「諸岡、遥と幼馴染と俺の話が終わるまで弁護士の件は保留だ。遥が嫌がる」
「……すでにとても嫌がってらっしゃるようにしか見えませんが了解しました」
とにかく、浩太郎の件が話し合いでどうにかなるならそれに越したことはない。それに清継は強引な男だが、二人きりになったからといっていきなり襲ってくるようなタイプでないのは知っている。清継の自宅で話がつくのなら行くしかない。
遥はソファから立ち上がると、少し心配顔の諸岡に頭を下げてから社長室を清継と共に出た。
(17)清継⑨
清継は自身が運転するベンツの助手席に遥を乗せてご満悦だった。遥は二度めだと言うのにやはり慣れないのかバッグを胸に身体を小さくしている。
「なんだ、やっぱりロールスのほうが良かったか」
「いや、そんなんじゃねぇよ」
「心配するな、すぐに着く。お前も部屋を気に入ってくれるといいが」
「……なんで」
「お前が気に入ってくれれば、そのまま住んでくれて構わないからだな。すぐにも同棲開始できるじゃないか」
「いや、俺、仕事が!」
「なんだ、仕事がネックか。それならこっちに移ってくればいい。仕事なんて辞めてもらっても構わんし、諸岡の下について働いてくれても問題ない」
「そうじゃなく!」
あー!と遥は頭を抱えている。自分でもどう言って良いかわからない様子だ。清継は清継で感動していた。遥とは、なぜか婚姻は会った瞬間に拒否され、電話はガチャ切りからスタートしていた。それが今は曲がりなりにも会話が成立している。隣りに座っている相手は自分の嫁で、今から自分の部屋へと向かおうとしているのだ。
「……あんたって、なんですぐそう物事を早めに決めつけるんだ?」
「なんだ、不満か?」
「いや、そうじゃなくてん……いや、不安になんねぇのかなって。だって結婚相手が俺だぜ? 繰り返しになるけどさあ」
「ふうん。遥に関しては直感で気に入ったからなぁ……そうしたら、すぐにでも自分のものにしたいと考えるのが本当じゃないか?」
「そこに不安や迷いはないのかよって話」
「ないな。俺は俺の決断に自信を持っているし、間違ってもいないと思っている」
「あ、そう……」
遥は呆気にとられた様子で肩を落とした。
「自信家は嫌いか?」
「結婚相手に自信家の男がまさか決まるなんて思ったことはなかったよ」
「はは、それなら今からどんどん好きになってくれれば良い」
「……本当、あんたのそういうところな」
遥は呆れたように、けれど小さく笑った。それだけで清継は温かい気持ちになるのだった。
車はマンションの一階部分へと滑り込んだ。見上げるようなタワーマンションの最上階が清継の部屋だ。マンションの敷地から入り口までは和風庭園が続き、滝まで流れている。きらめくエントランスホールにはコンシェルジュが常駐していた。
顔認証の玄関を抜けて、上階への直通エレベーターで最上階へと向かう間、遥は圧倒されたように黙り込んでいた。そして、玄関前にたどり着くとその豪奢な玄関目のスペースに清継の袖を引いて何故か小声で聞いてきた。
「マジ、あんたここに住んでんの?」
「勿論。会社にいる時間が長いから、寝に帰るだけの家だが」
部屋の玄関に鍵はかけていない。扉を引き開けて軽く遥の背を押すと、おずおずと遥が『おじゃましまーす』とこれまたなぜか小声で言いながら部屋へと漸く入ってきた。
黒と白を基調に、大理石を模した床。全室床暖房なので、靴を脱ぎ一歩踏み出した遥が『温かい……』と感動したように足の裏を見ていたのが面白かった。一人暮らしには広すぎるリビングに、ダイニングキッチン。主寝室に客室は二部屋だが、どれもに十分な広さが取ってあった。
「さあ、座ってくれ。何かケータリングでも頼むか? 酒は少々あるが……」
「いや、いい、です。うん、大丈夫」
敬語でこわばった表情の遥がそっとソファに座り、物珍しそうに周囲を見渡す。清継自身掃除も洗濯もしたことはないが毎日入ってもらっているハウスクリーニングのサービスのおかげで、艶のある床には埃一つ落ちていなかった。
清継は上着を脱いでタイを緩めると、遥の横にドカリと腰を下ろした。遥は今はそれもあまり気にならない様子で、まだキョロキョロとあたりを見渡している。
「どうだ、気に入ったか」
「うん、すげーな。俺の家がここと玄関だけですっぽり入りそうだ」
「──越してこないか?」
「それとこれとは、話が別……ってか、近っ。少し離れろよ!」
手を伸ばして肩を抱こうとすると、漸くいつもの遥が戻ってきたようだった。両手で思い切り突き放される。
「怒っている遥はやっぱり可愛いな」
「何だよ。いつも成人男子捕まえて可愛い可愛いって」
「可愛いんだから仕方ない」
「馬鹿……」
二人の間に僅かな沈黙が落ちる。この沈黙が清継は嫌いではなかった。遥の声の間を感じられて、またじっくり遥を観察できる。呼吸がほんの少し荒い様子だとか、照れているのだとろうかとか、考えるだけで楽しかった。
「……浩太郎、のことだけど」
「ああ、訪ねてきたっていう? 遥はどうしたいんだ。俺と離婚するために調停を起こしたいのか?」
「そこは、今は……置いとけよ。とりあえず、浩太郎に迷惑はかけたくないんだ。勿論俺から相談は持ちかけたんだけど……」
「そう言われてもな。遥が一言、その浩太郎とやらに『離婚は止める』っていえば丸く収まることだろう? 追いかけてまで諸岡も引っ掻いたりなんてしない」
「それは! そう、なん……だけど。その……なんっていうか」
「なんだ?」
やや頬を赤くして、怒ったように遥が顔を上げた。目元までが朱に染まって色っぽい。
「俺だって、よくわかんねんだよ! 結婚は、しちまってるけど……このままにしたくは、無い。俺とあんたは男同士だし、生きてる世界が違いすぎる。けど……でも、じゃあ、浩太郎を巻き込んでまで離婚したいのかって、言われたら……なんか、違うかなって。最初に比べたら、あんたが良いやつだってのも……その、分かってるし」
「ほう」
「だってあんたは、俺に付き合ってやっすい飯も食うしさ。似合わないのに、ベンツの鍵にあのペンギンのキーホルダーだってつけてる。そんなの、見せられたら、俺だって……」
「お前だって?」
顔を一層赤くして、ギュッと拳を握りしめると下を向いたまま半場叫ぶように言った。
「あんたに情が湧くよ。良い奴なのかなって……この間の、触られたのもそう嫌じゃなかったなって……そう思うじゃんかよ!」
清継は思わず腕を持ち上げてゆっくりと、遥の目元に指の背で触れていた。ビクッと震えた遥は、それでも逃げようとはしない。不思議な感覚だった。清継が確かめるように口にした。
「今のは、告白って思っちまうけどいいのか」
「こ、告白なんかじゃ……」
「俺にこうされるの、嫌じゃないってことだろう?」
「うっ……」
すりっと手のひらで熱くなった遥の頬を撫でる。遥は逃げずに、なにかを耐えるように目を伏せていた。
「もう少し、試してみるか。そうすりゃ、嫌かそうじゃないかが分かる」
「試すって、なにを」
「──こういうこと」
遥の顎先を捉えて上向かせ、清継は目を閉じて唇同士を押し当てるだけのキスをした。目を開くと目の前に、目を見開いた遥の顔がある。その表情が可愛くて面白くて清継は笑ってしまう。もう一度、今度はチュッと音を立てて、唇へキスをすると遥が漸く身を引いて両手で自身の唇を押さえた。その耳元へ、清継は低く囁く。
「ベッドへ行こうぜ。最高に気持ちよくさせてやっから」
遥が信じられないものを見る目でこちらを見てくる。けれど嫌がりはしない。逃げもしない。腕を取るとノロリと立ち上がった。腕の中に囲い込んで抱きすくめる。遥が恐る恐るという感じで背へと腕を回してきた。
「……俺……男となんて、経験……」
「任せろ。俺もない」
「え!?」
「だが準備は万端だ。まあまずはやってみようぜ」
「ちょ、やっぱ、俺……」
「さっきのキスは嫌だったか?」
「……っ嫌じゃ、なかったけど……」
途端に戸惑いを見せる遥の腕を引くと、清継は遥の膝裏に腕をとおして担ぎ上げた。
「ちょ、清継!」
「ふむ。できるもんだな、男相手でも。軽い軽い」
清継は落ちないようにとしがみついてくる遥を抱いて、そのまま寝室へと足を向けた。
(18)遥⑨
抱きかかえ上げられたままリビングの続きにあるベッドルームに運ばれる。
白と黒と灰色を基調としたシンプルな色彩の部屋の中央にあるキングサイズのベッド。黒の光沢がある滑らかなシルクのシーツの上に横たわらされる、その清継の仕草ががひどく優しくて自分がいかに大切にされているのかが分かった。
「ス、スーツ……皺になる……これしか持ってきてない……」
「遥の服なら用意してある。好みがよく分からなかったから好きなのを着ればいい」
「……え?」
ベッドルームの側にあるクローゼットを清継が開くと、スーツからカジュアルなシャツやセーター、新品の靴の箱までぎっしりと詰められていた。ひと目で分かる高級なブランド品だ。
「いつ一緒に暮らしてもいいように、遥がここに来てもいいように揃えておいた」
「無駄遣い……止めろ……」
「嫁を大切にしたくない旦那なんていないだろ」
「……セックス……出来なかったら?」
「そこまでは考えてなかったな。コミュニケーションをゆっくりすればいいと諸岡も言っていたしな。それにさっきのキスで生きていてこれ以上無いほど感じた。遥はどうだった?」
「そ、そんなこと聞くな……」
感じた、とは言えなかった。でも下半身が熱く疼いているのは事実だ。
激しく抵抗することも、このまま逃げ出す事もできるのに、自分の目の前でスーツを脱ぎ落としていく清継の姿に見入ってしまう。シーツから香る、あの野性味を感じる匂いに溺れてしまいたくなる。
ボクサーパンツだけの姿になった鍛えられた筋肉の逞しい姿の清継が、ベッドに無言で横たわる遥の側に寄り添い、その服を脱がせていく。
ジャケット、ネクタイ、シャツ、ズボン。大丈夫かというように丁寧で優しい手つきだった。そして最後のパンツまで剥ぎ取り、羞恥に少し身を捩らせた遥の姿を暫く見つめていた。
「男同士のセックスは動画やDVDで研究はしたが、少しも欲情しなかった。新宿二丁目というところも行った。だが、遥がそこにいるだけで感じてしまうのはどうしてなんだろうな。遥も感じているんだな、ペニスが勃起している」
「こ、これは……違う……おまえがやけに優しいから……」
「触ってみろ。俺はとても感じている」
下着を脱ぎ落とした清継が腹を打ちそうなほど堅く勃起したペニスを遥に触らせる。体格に見合った巨根で、カリは張り詰め、竿は脈動した血管を浮かばせていた。
「ちょ、デカい……無理無理無理、こんなの挿入されたら死ぬ!」
「遥と比べたら少し太いだろうが、ローションというのも買った。それで解せばいいらしい。遥が痛いのなら途中で止めてもいい」
「そういう問題じゃなくって、俺の孔は出す孔であって挿入される孔じゃねぇし! やっぱ帰る! 俺のパンツ、パンツどこ⁉」
「まあ、そう言わず試してみよう、遥。こんなつまらない俺の部屋で初夜を迎えるつもりはなかったが、おまえのそんな色香に酔ってしまった」
だが、遥も同じだった。清継の太いペニスを受け入れる怖さもあったが、その先に根拠はないが堪らない快感が待っているような気がした。無意識のうちに触れている清継の亀頭を指先でなぞり、呼吸が荒くなっていく。
清継は遥を怖がらせないように、遥のするがままに任せていた。拙い指の動きや、まじまじと見つめる表情に勃起が自然にヒクリと震えるが遥は掌にペニスを握り込んで離そうとはしない。
「遥……少し足を広げられるか? ローションで孔を濡らそう。指が三本ほど入れば挿入も可能らしい」
「あ……うん……で、でも、もし出来なかったら……離婚するから」
「嫌ならば、口や手で射精してもいい。離婚はしたくない」
「……男同士で出来るかどうか……試して……考える」
清継に促されるように少し足を広げる。いつものような強引さで襲われたのならきつく言い返すことも、逃げることも出来たのだろうが、清継は壊れ物を扱うような優しさで遥の身体を愛しげに触れていた。
滴るほどのローションを遥の股間に塗り込め、ペニスをゆっくりと擦る。大きな掌に扱かれる感覚にジンと身体の奥が熱くなるようだった。
なぜか分からないが、もっと清継を求めるように身体が弛緩し、自分からくちづけを求めてその背中に両腕を絡めて『もっと』と囁いてしまっていた。
もちろんその遥の言葉を清継が聞き逃すはずもなく、唇を重ね合わせながら、ぬるつく指先を後孔にそっと宛てがった。
「んっ……ぁ、挿ってくる……清継、怖い……なに、これ、はっ……ぁ」
「まだ中指だけだ、遥。すごい締りだな……しかも熱くて俺の指に食いついてくる。大丈夫だ、怖がらなくていい……痛いならそこで止める」
「はっ、ぁあ……ど、して、気持ちいいんだよ……っ、もう少し、奥……んぁ!」
お互いの体温でローションが温まり、ゆっくりと抜き差しされる清継の指の動きに腰が自然と揺れてしまう。喘ぐ声が恥ずかしくて自ら清継にキスをしたり、首筋に噛み付いたり、背に爪を立てたりした。
グッとアナルに圧迫感があったが痛みはなかった。むしろ先程まで触れていた清継のあの太い勃起が欲しい。アレで内部を擦られて、熱い射精を受けたらどれだけの快感を得られるのだろうか。
怖かったのは痛みじゃない。この快感の波に溺れてしまうことだ。
二本の指で執拗に内部を探られ、足を大きく開いた姿のままその愛撫を受け止める。
だが、その指が内壁の肉にしこりに触れた瞬間、全身に走る初めての快感に呼吸をするのも忘れた。
「ひ、ぁ、なに……清継、なに……んぁ、はっ、あああっ……っ!」
「ここが前立腺というところか。遥の乳首もペニスも、この孔もピンク色で可愛いな。ここが気持ちいいんだな……そんなに俺の背に爪を立てるな、子猫のようだ」
「んんっ! 駄目、無理……イク、出る……いや、もっと、んぁ、はぁあ、あ、擦って……清継、そこ好き……あっ、あ、好き……!」
「……俺の嫁は感度が良すぎる。まだ指だけなのに。俺はおまえのそんな蕩けた顔を見ているだけでイキそうになるがな」
「イカせて……そこ、擦りながら、ペニス扱いて……んくっ、は、ぁあ……! イカせてくれたら挿入していいから……とにかく、一度イカせて……おかしく、なる……ひっ、ん!」
「本当だな? 約束だぞ?」
「いいからっ! なにしてもいいから……このままじゃ、おかしくなるっ!」
前立腺をグリグリと指の腹で擦られながら、先走りを迸らせた勃起を上下に扱かれる。これまで味わったことのないような快感だった。
清継の身体を抱き締め、その野性味のある香りを味わいながら自らも腰を揺らして快感の波に飲まれていく。
自分の痴態を清継が見つめているのが分かるが止められない。
男にアナルを弄られ、ペニスを扱かれ、キスをされている。
そんなことも頭の片隅にあったが、快感が押し寄せる。
ローションの濡れた音が静かな部屋に響き渡っていた。清継が舌を伸ばしてキスをしてくるのを受け止め、唾液を啜る。全身が快楽で溶けてしまいそうだった。もっともっと欲しいのに射精の瞬間が間近に迫っていた。
「清継……イク……イクッ、イキたくないのに……っ」
「どうしてイキたくない?」
「まだ、清継に挿入してもらってないっ! あぁ、んくッ! ふ、イク……出る、イク──ッ!」
その叫びにも似た喘ぎ声と同時に清継の掌の中に白濁を吐き出して、遥は全身の力が抜けたように広いベッドの上で荒い呼吸を繰り返していた。
後孔から一旦指が引き抜かれると、その喪失感に『あっ』と声を上げてしまった。
遥の放った精で濡れた手を拭う清継をぼんやりと見つめながらも、欲望を放ったばかりのペニスは堅さを失わない。むしろ、もっと快楽を求めていた。
「うちの嫁は絶倫か? 可愛いな。達するときは泣きそうな顔をするんだな。だが、さっきの約束は覚えてるだろうな?」
「……なんでもするっていう……」
「そうだな、俺も我慢出来そうにない。なんならもう一度指だけでイクか? 嫁の希望には応えなきゃいけないだろうしな」
「……いい」
「ん?」
「清継が欲しい……中に、挿入して、いい」
「俺のはデカいらしい。こんな締まった孔で受け止められるのか心配だな」
「……DNAレベルで相性がいいんだろ。出来るに決まってる」
「ははっ、明日は休みにしようってお互いに会社に連絡しないとな」
当然のようにそう告げると清継は遥の身体に覆いかぶさり、もう何度目かも分からないくちづけを交わした。
密着した身体に清継の太く逞しい勃起を感じる。
もう一度そっと手を伸ばしてそれに触れてみる。清継も感じていたのだろう、亀頭の先端から先走りが滲んでいた。少し上下に扱いてみると、清継の色気のある唇から『んっ』と小さな吐息が洩れたのがなぜか嬉しかった。
「悪戯な嫁にまたおしおきをしなきゃな。次は指を三本に増やそう。それから……」
「……これ、挿入すんだろ。下手くそだったら、即離婚だからな……」
もう怖さはなかった。ただ本能が清継を求めているだけだった。
清継が欲しくて堪らない。キスをしながら、その太い勃起を受け入れるために遥は足をゆっくりと開いて、十分に寛いだ孔を晒した。
(19)清継⑩
清継は髪をかきあげて、ベッド上でぎしりと遥の方へとにじり寄った。
目の前にはあられもない格好をした、遥がいる。自身で足を持ち、解れた孔を晒す姿が愛しい。その様子を見ているだけで、下半身は痛い程張り詰めていた。
中指を再度挿入すると、熱い中が蠕動して吸い付いてくる。『……あっ……』と小さい声を上げて腰を揺する遥が壮絶に色っぽい。すぐに二本めを挿入して、中をかき混ぜるようにゆっくりと動かした。
「二本目も、入ったぞ。……楽々だな」
「うっせ……んっん……そこ、イイ……」
「ここか? ああ、奥まで熱いな……根本まで咥えこんで、可愛いな遥のここは」
「……っんその、実況……いらねぇって…ぁ、馬鹿……そこ、ダメっ」
背を反らして、膝を閉じようとする遥の足の間に割って入って、清継は無理矢理に指を奥まで進めて遥へキスをする。そうすると、駄目だと言いつつも遥は、清継を受け入れて、中を締め付けつつ清継の肩を掻き抱いた。
不思議な感覚だった。今までに誰を相手にも感じたことのない、温かく、柔らかな……けれど激しい欲情だった。自身を抑えるのに何度息を吐いたか分からない。本当は今すぐにでも遥を抱きたかったが、一方でゆっくりと遥の痴態を味わっていたい自分もいた。
キスを解き、首筋に鼻先で触れてから舌で鎖骨を舐め、そのままピンと立ち上がっていた乳首を唇に挟む。指の動きに合わせて、強く弱く吸い付くと、遥が腰を捻って喘ぎ声を上げた。
「だからっ、ぁあっ……ん、もう、三本目……? 挿入、して……って言って」
「……良いのか?」
「ん、うん、良い。早く、太いの、欲し……い」
「おねだり上手だな、俺の嫁は」
指に指を沿わせて、広げた後孔へと指三本をぬっと押し込む。シーツの上で緩く頭を振った遥が、根本まで指を埋めると満足そうに長く息を吐くのが分かった。流石に中は狭くきつい。けれど、ゆっくりと抜き差しを始めると、じわじわと緩んでくるのが分かった。
「飲み込むのが上手だな、遥。……辛くないか?」
「んっなんか、すげ……圧迫感があっけど……平気……っ」
健気な返答に下肢がじんと熱くなる。腰を遥の太ももの裏側に押し当てていると、時折遥が確かめるように触れてきた。
「これが、挿んだよな……」
「嫌か?」
「……嫌じゃ、ない……」
顔を腕で隠しながら言う様子がいじらしい。腕をどかせると、やや強引にその唇を割り、キスをした。指をぐっと押し付けて中を探り、引き抜く。喘ぐその声を唇で封じて、唾液を遥の口中へと注ぎ込んだ。
「我慢の、限界だ。挿入して、良いか」
「……ん。けど、ゆっくりな!」
「分かってる」
目の前にある潤んだ瞳を見つめ返し、泣きぼくろにキスを一つ落としてから、清継は顔を上げた。遥が自身でも足を持ち上げるのに、更にぐっと指で孔を拡げる。そこへ先程から完全に勃起していた自身のペニスの切っ先を充てがうと、解れて柔らかな襞が吸い付くようだった。
「……ああ、あっ、んん……っはいって、くる……清、継……」
腰を進めると、太い亀頭部分が襞を広げてゆっくりと飲み込まれていった。予想よりも抵抗は少なく、奥へ奥へと誘いこまれるような感覚だった。快感に漏れ出そうになる声を清継も堪える。一番太い部分を飲み込ませると、後は体全体で押し上げるようにして遥を抱きしめ、少し強引に揺すりあげた。
「んぁっ、あ、いきなり……は、っあぁ……! 無理……それ、ダメ……っ」
抱きしめた耳元で高く遥が喘ぐ、ぎゅっと背中を抱きしめられて、足が腰へと絡みついてくる。声に反して身体は素直に反応し、中で清継を締め上げてきた。
「どこが、ダメだって……?」
「ん、意地悪、言うなよ……あ、あ、感じる、そこの、浅い所もっと……擦って」
「後でな。まずは、奥までお前を味合わせろ」
「……や、本当、あんた、いじわ……んっ!」
少し身体を離すと、遥の腰を掴んで清継は自身の腰を大きく前後させた。奥へ奥へと進めて、最奥まで大きく身体を揺する。遥は髪を乱して、シーツを掴みその激しい動きに耐えようとしている様子だった。汗がお互いの肌の上を流れて、結合部からはローションの泡立ついやらしい水音が寝室に響いていた。
「凄くっ、締まるな……遥。そんなに、気持ち良いか……?」
「んっんっ、は、あぁ……イイ……、くやしいけど、ナカ……感じる……ん、ぁ」
「はは、じゃぁ、離婚は回避だな……俺もめちゃくちゃに感じてる……好きだぜ、遥」
そのいつもの告白に、遥の中がきつく締まった。遥を覗き込んで見れば、怒りとも取れるようななにかを堪える表情でこちらを睨んでいる。それが可愛くて、清継は笑った。
「今更、照れてるのか」
「俺、……俺、は……っ」
「可愛いな遥……愛してる。お前といると飽きない、ずっと側にいろ」
「そんな、だから……そういう事を……っ!?」
深く沈めていた腰を勢いよく引いて、切っ先で肉壁を擦りながら清継は遥が良いと言った前立腺あたりを突き上げ始めた。『ひっ』と身体を反らせた遥を抱きすくめて、全身でそこを愛撫する。揺すりあげると、目尻に涙を浮かべた遥が我慢できないように『ンっ──……』と唇を噛むのが壮絶に色っぽかった。清継もそれに煽られて、律動を早くする。
「……んっや、ぁあ、あっん……清継ー……は、無理、もう……イク、イクっ」
「早く、ないか? っけど、俺も……お前の声腰に来るわ。可愛い、遥」
「なんっでも、いいから……ぁあん、んっ、イカセてっ……持たな、い……っ」
「……分かった、分かった。そら、前も、擦ってやっから……イケよ、ほら」
二人の間で揺れる遥の勃起したペニスを清継はその手に握った。先走りにヌルヌルのそれは手の中でも勢いよく跳ねて、今にも破裂寸前だった。指先で先端の割れ目をくすぐり、そのまま手の中で上下に扱き上げる。腰は容赦なく奥まで遥の中を突き上げて、追い上げるようにペニスを何度も秘肉を割って中へと押し込む。
「あぁ、んっ、イク……やっ、イっちゃう……駄目…っんぁ、ひぁ、イクっんっ──……!」
体を大きく震わせて、腕の中で遥が達した。放出は長く、勢いよく精液が飛び出すたびに中も締り、清継を責め苛んだ。
「俺もイク……中で、出していいか? 遥、はるか……──っ!」
締め付ける中を無理矢理に何度も抜き差しして、最後は最奥に亀頭部を擦り付ける。グリグリと先端を刺激してやると、絞られたペニスが遥のまだヒクヒクと震えている中へとどっと大量の精液を吐き出した。
腰を押し付けて全てを遥の中へと出し切ると、漏れ出た精液が互いの間を流れるのが分かった。
「あ、お前……ナカ、っ馬鹿……んっ」
気づいた遥がぐったりとしながらも、清継の腕の中で身じろごうとする。そんな遥を抑え込むと、清継は遥の額にかかった髪を掻き上げて、その額にキスをした。そのまま目尻のホクロを指でたどって、唇を開かせる。逃げようとする遥の顎先を捉えて、唇を開かせ長いキスをした。
「まだ出すなよ、暫く俺を味わえって」
「……阿呆、早く……ん、抜けって……んんっン」
舌を絡ませ、お互いの唾液を交換し、飲み下す。ほうっと息を吐く遥の中でまだ収まらない自身を感じながら、清継は笑み混じりに遥に問うた。
「で、離婚は?」
「うっ……」
遥が言葉に詰まり、目を泳がせる。
『離婚はしない』、そう遥が口にするまで今夜は遥を寝かせないと清継は誓い、実際声が枯れるほど泣かされることに遥はなったのだった。
(20)遥⑩
もう何度イカされたのかも覚えてなかった。絶倫というのは本当にあるのだとシーツを掴み、後孔を幾度も穿つペニスを感じながら遥は最後に意識を飛ばした。
温かな腕に抱き締められ目を覚まし、ぬるつく下半身を気にしながら身体を起こそうとしても腰がガクガクと震えて起き上がる事もできない。快楽の波というよりも、津波だった。
離婚はしないと何度も言わされ、自分でも清継を求めた。
「ちょっ、どけ。風呂入りてぇ」
清継の胸元をぐいぐいと押しながら掠れた声で告げる。下半身に力を込めていないと、たっぷりと吐き出された清継の精が溢れ出しそうだった。それ以前に遥が放った精液がシーツやお互いの身体を汚してはいたが。
いま何時だろう。時間の感覚もない。薄く明るい。早朝なのだろうか、夕方なのだろうか。
「……遥、起きたのか。どうした。もう一回……」
「やらねぇよ! 風呂! 後ろ……ぐちゃぐちゃで……」
羞恥のせいでそれ以上の言葉は続けられなかった。しかも身体が動かない。
髪を撫でられ、強く抱き締められながら額にキスをされる。清継の胸元に顔を寄せて『風呂、入りたい』と遥がもう一度呟いた。
抱き上げられて二人でバスルームに向かう。ガラス張りの向こうはきらびやかな景色が一望出来た。たぶん夕方なのだろう。ほぼ半日をベッドで過ごした。
(もう……いい。清継が俺の旦那なんだろ……)
支えるように抱かれ、シャワーで丁寧に後孔の残滓を掻き出して貰いながら、敏感になり過ぎている身体の反応を遥は堪えた。ゆったりと寝そべられそうな広い風呂に二人で入り、清継をソファにするように背後から抱き締められると、心地よさを感じずにはいられなかった。
「こんなセックスは初めてだった。俺の嫁は思った以上にいやらしくて感度がいい」
「……うっせぇ。おまえが絶倫なだけだろ」
「身体、大丈夫か? つい、やりすぎた。遥が射精せずにイッてから意識無くしたもんだから、心配になって諸岡に電話した」
「はっ⁉」
「なにかあったのかと思って。俺も男を抱くのは初めてだったしな」
「そ、それで諸岡さんは……」
「大丈夫だから起きたら丁寧にアナルの洗浄をすればいいって。あいつはゲイだからそこらへんは詳しい。傷がないかと少し怒っていたが」
「だからって普通そういうこと聞くか⁉ ってか、諸岡さんゲイなんだ⁉」
「遥の身体になにかあったら大変だろう。救急車を呼ぼうかと思ったんだが、セックスしてたら嫁が意識を失いましたっていうのもおかしいかなと」
もう、返事をする気力もない。清継に悪気がないのは分かっている。逞しい腕で背後から抱き締められて、首筋にキスをされる感覚が恥ずかしくも気持ちいい。
だが、諸岡にも事細やかにすべてを伝えたのだろう。『イキ過ぎた嫁が意識を失ったんだが』とかなんとか。次はどんな顔をして諸岡に会えばいいのだろうと遥は半ばやけくその状態で身体を清継に任せるようにもたれかかった。
「腹が減ったならなにか食べに行こうか。ケータリングを頼んでもいい。遥はなにが好きだ? 最初に食事に行ったときにはホッケというものを食べていたな。ホッケがいいか?」
「……飯を食う気分じゃねぇ。近くにコンビニ、あるか。それならそこでいい」
「コンビニ。なくはないが立って歩けるか?」
返す言葉もなかった。少々腹は減っていたが、まだ腰が震えて足の先に力が入らなかった。だらりと清継に抱かれて浴槽に身を伸ばしているしか出来ない。
耳朶や首筋にキスをされ、大きな掌で身体を撫でられても払い落とす力もなく身を預ける。不思議にそれが心地良い。『好きだ、遥』と低い声で囁かれるとなぜか身体の奥がキュンと痺れるように疼いた。
「……ケータリングで。なんでもいい」
「じゃあ適当にコンシェルジュに選ばせよう。あとはシーツの替えも頼まないとな」
「……えっ……あのシーツ?」
「遥がイキ過ぎて、汚れただろう」
「いや……あの……」
「ハウスキーパーに頼めばすぐだ。いいワインも頼もうか、ワインは好きか? ワインが飲めるならチーズやバケットも頼もう。思いがけず早い初夜を迎えたが、こんな幸せで満ち足りたセックスは初めてだ」
「初夜とか言うな! これは……なんだ……勢いっていうか……」
「愛してる、遥」
人の言葉を聞かない清継の行動はいつものことだったが、離婚はしないと何度も誓わされた。DNAの相性というのは本当なのかもしれない。常識的に男同士だの、生活水準の違いなどを考えても遥を抱き締めてくれている清継が愛しい。
「ひょっとしたら……DNAレベルで……好きになるかもしれねぇ、かも」
少し清継に顔を向け、遥はそう囁いてから唇の端にキスを落とした。
その時の驚いたような、嬉しそうな清継の表情を忘れることはないだろう。ギュッと強く抱き締められ、何度も愛してると囁かれた。遥もまた無言のままその囁きに頷いた。
恥ずかしさで居たたまれなかったが、ふかふかのバスローブに身を包み、リビングで座っている間にハウスクリーニングの人間が手早く寝室を清掃し、寿司や中華やパスタ、ワイン、シャンパン、フルーツやスイーツが届けられてテーブルに並べられていく。
(なんのパーティだよ……)
もうこんな異次元な空間に突っ込む気にもなれなかった。始終ご機嫌な清継が『ホッケはないのか』とコンシェルジュに電話で言いつけていた。
「いや、そこまでホッケが好きなわけじゃねぇし、いいから」
「うちの嫁の好みがまだ分からんから、いろいろ頼んでみた。まだ疲れてるだろうけど取り敢えず好きなものを教えてくれ。今後の参考にする」
「あー……えっと……マグロの刺身は好き」
「よし、じゃあ刺身の追加を──」
「いいから! そこの皿のだけでいいから!」
「まあ、初夜だしな。二人きりの時間を俺も持ちたい」
清継の雰囲気ならこの部屋でマグロの解体ショーでもさせようとしていた。遥はそれを遮って、スマホを取り上げる。
ソファの隣に座る清継の肩に頭を預け、首筋にキスをした。
「少しゆっくりさせてくれ。俺はおまえほどタフじゃない」
「俺の嫁は本当に可愛いな。俺も少し浮かれていた。食事をしてから──」
「セックスはもうしねぇからな」
「もっとしてってねだったの遥のほうだろう」
「……言ってねぇし」
「言った。離婚もしないからもっと奥にいっぱい出してって」
「ぬああああああああ!!」
その記憶がなかったとは言わないが、改めて口に出される羞恥に遥の目元が赤らむ。少し恥ずかしげに顔を伏せた遥の目尻の黒子に清継がキスを落とした。
そんな場所が性感帯であるはずがないのに、清継にくちづけされると感じてしまう。ベージュのガウンの下はもちろんなにも着ていない。数時間前にあれほど射精したというのに、清継のくちづけだけで下半身に熱がこもっていく。
「……清継、飯、しよ」
「食事のあとは?」
「……寝る」
「寝かさないって言ったら?」
「セクハラで訴える」
「俺はその言葉をよく言われるが、夫婦なんだし、遥がもっとってねだるからなぁ」
「ねだってない!」
「じゃあ試しにもう一回してみるか?」
「……飯、食ったら……寝るし」
「遥、いっぱい食べろ。おまえは細すぎる。毎日抱いても壊れない身体になれ」
「だ、抱かれねーし! 取り敢えず腹が減っただけだし! 絶倫バカ!」
「ははっ、うちの嫁はやんちゃだなぁ。ほら、喉が乾いたろう。なにが飲みたい?」
「……ビール」
「ん。缶ビールしか用意出来なかったが、生ビールがいいならコンシェルジュに頼んで──」
「缶ビールでいいからっ!」
言葉だけなら反論出来るが遥はまだ身体が脱力したままだった。
あの太いペニスを掌が覚えている。本能的に夢中になってそれに触れ、亀頭を指先で弄った。挿入された瞬間、痛みや圧迫よりも快感が先行してそれだけで果ててしまいそうだったことも覚えている。
性的な欲望に導く清継の指使い。何度も精を放たれた内部を洗う優しい指。
大切にされているのだと思わずにはいられない。
そして、まだ身体が清継を欲していた。
「……あと、一回ぐらいなら……」
「うん?」
「……離婚しないって言ったから。取り敢えず、お試し期間ぐらいはいい」
「うちの嫁もなかなかの絶倫だな。とにかく、ビールと食事。寝室も綺麗になっただろうし、お試しとやらをやってみよう」
缶ビールを手にした清継がそれを一口飲み、二口目は口腔に含んで口移しで遥の喉に流し込む。強引な行為ではあったけれど嫌だとは感じなかった。もっと欲しいとねだるように自ら清継の口内に舌を差し入れ、苦味のある舌を絡ませた。
「まだビールが足りないのか、遥」
「喉、乾いてる」
「じゃあ、もう一口」
苦いビールが甘く感じられ、喉を鳴らして口移しのそれを飲み込む。もっと欲しいと言わんばかりにわざと強く清継の首筋に爪を立てて、おかわりをねだる。清継は嬉しそうに微笑みながら何度も何度もビール混じりのキスを繰り返した。
豪華な食事が揃っていたが、清継の背に両手を伸ばしてビールのキスを受け止めるしか出来ない。明日もまた立ち上がることも出来ないだろう予測が出来る。くちづけられながら、バスローブの前を開いてすでに勃起した股間を清継に撫でられることになんの違和感もなかった。
(21)清継⑪
冬の近くなった空は晴天で空気は乾いていた。
程よく加湿された最上階の社長室で、清継はいつものように下界を見下ろしていた。そこにやや呆れ声がかけられた。
「いつまでそうなさっているおつもりですか」
「待て諸岡。昨夜の遥の可愛さを反芻しているんだ。もう暫くはかかるな」
「そう言ってもう小一時間ですよ。仕事とプライベートは分ける質だと思っていましたが」
「俺も昨夜まではそう思っていた。だが違った」
「……遥様はお元気ですか?」
「ああ、俺の腕の中で何度も跳ねていたぞ。その後、飯もよく食っていた」
「そういう惚気を聞きたいわけでは……」
「少しは語らせろ。男同士は初めてだったが、凄かったぞ。政略結婚した相手となかなか離婚に至らないって話はそういう意味もあるんだろうな。あまりの相性の良さに、俺の方がもたないかと思ったほどだ」
「それですと、遥様は溜まったもんじゃなかったでしょうね」
「嫌味か? なんとでも言え。あの遥が、離婚を撤回したぞ」
「本当ですか?」
その報告には、諸岡も眼鏡の奥で僅かに目を見開いた。それからほんの少し目元を和らげて、微笑む。
「それは、おめでとうございます。これで、弁護士の準備はいらなくなりましたね」
「ああ、そうだ。あの訪ねてきた男には悪いが……俺の腕の中で何度も確認したからな。後は挙式まで一直線だ」
「期間も後一ヶ月と少し。十分、間に合います。……教会での挙式でよろしかったでしょうか?」
「ああ、俺も遥もタキシードで良いだろう。遥にはきっと白が似合う」
「わかりました。……遥様には衣装合わせや打ち合わせに何度かこちらへ来てもらわなければなりませんね」
「そこも抜かりはない」
「はい?」
「遥には結婚までの週末を、うちで過ごすよう提案した。相当渋っていたが……最後はコミュニケーションだと言い含めて頷かせたぞ」
「悩まれる遥様が目に浮かぶようです」
お労しい、と諸岡は目を伏せる。
「では、式の件は週末を中心に。弁護士の件は取りやめにして……鈴木浩太郎様の件は私に一任していただけますか?」
「ああ。それで任せる。……しかし珍しいな、お前自身が出張るのか?」
「一応は、遥様のご友人のことですから……」
「そうか、なら、好きにしろ」
「はい、そうさせていただきます」
一礼して、諸岡は書類を清継のデスクへ置くと社長室を退室した。はあっと諸岡は静かに溜息をつく。
「あれでは午前中いっぱい使い物になるまい……しかし、社長のあんなに嬉しそうな様子は初めて見るな」
清継の嬉しそうな笑顔は今までに何度も見てきた。仕事でもプライベートでも。しかし、それはどこか尖った、荒々しさを持った笑顔だった。しかし今日の笑顔は違った。満ち足りた、優しみや慈しみさえ感じるようなそんな笑顔だった。
「それに反して……」
数日前に、相対した浩太郎のことを思い出す。一見スマートな若者だったが、手負いの獣のように怒り、傷ついた目をしていた。
(遥様も罪作りな……)
一見しただけで、浩太郎が遥を好きなのは分かった。ただの幼馴染にしては、遥への思いが強すぎる。普段は冷静なのだろうが、ここにまで一人で乗り込んで来るという暴挙までしでかしている。ああいう、若者を見ると放っておけなかった。
しかも、結婚式の招待者リストには、浩太郎の名前も入っている。
幸せそうに愛を誓い合う二人を浩太郎はどう見るだろうか。そして、自分は……どうしてこうも彼が気になってしまうのだろうか。
「ミイラ取りがミイラになる……じゃないですよね」
諸岡は苦く笑った。だが一度浩太郎とゆっくり話がしてみたい、そう思った。
「誰、かと思いました……」
オールバックの髪に着崩したシャツ、身体のラインの顕なパンツ姿の諸岡を前にして、浩太郎が目を見開いていた。
「休みの日ですからね。ちょうど個人的な話もしたかったもので……座りましょう」
「は、はい」
二人は休日日中に新宿二丁目に近いカフェで待ち合わせをしていた。私服の諸岡に対して、浩太郎は前回と同じくスーツをきっちりと着こなしてきていた。幾分の緊張が見て取れる。二人してコーヒーを注文すると、それが届くまでに二人してお互いの様子を探るように沈黙が落ちた。ウェイターがホットコーヒーを二人の前へと置く。声は同時に出た。
「それで」
「今回は」
どうぞ、と諸岡が促した。浩太郎が眉を少し寄せつつ、目を逸らした。
「今回は、実は……なんとなくお話っていうのは分かっているんです。まだ、遥からは聞いていませんが……。離婚が取りやめになった、んですよね?」
「そうですね」
諸岡は冷酷に告げるしかなかった。カップをそっと持ち上げて口に運ぶ。そろりと伺うと、一見浩太郎は冷静に見えた。なので、諸岡も決定打を口にする。
「遥様は、離婚を撤回されました。なので、もうこちらとそちらが争うことはないとお知らせするために来ていただきました」
「やはり、そう、ですか……」
ぐっと身体に力を込めた浩太郎が、その力を抜くことはない。なにかに耐えるように諸岡からは目を離したまま、自分の中の感情をどうにか整理しようとしているようだった。ほんの数分のできごとだったかもしれないが、諸岡には妙に長く感じられた。小さく、息をついた浩太郎が、真っ直ぐに諸岡を見つめ返してきた。その声は静かで、葛藤を微塵も感じさせないものだった。
「末永が、遥がそう言うのでしたら、仕方ありません。政略結婚制度自体には、私は今も反対ですが……この結婚に関しては、彼の友人として祝福することにします」
「そうですか」
「ええ。……少し思うところはありますが、遥の幸せが一番です」
目を伏せた浩太郎が、それではと立ち上がる気配がする。なぜそうなったかは分からない。気づけば、諸岡はその手を取って引き止めていた。
「本当に、それでよろしいんですか? あなたは、これ以上なにも遥様に告げずに?」
「え?」
瞬間的に手を振り払おうとした浩太郎だったが、諸岡の思いもかけない言葉に動揺したようだった。眉を寄せ、唇を噛み締めた後、小さく笑った。
「そんなに駄々漏れですか、私の恋情は」
「いえ、誰も。私以外には、久堂も気づいていないかと」
「それなら安心しました。……良いんです、告白はしました。離婚も勧めました。けれど、遥が選んだのは俺じゃなかった。それだけの話なんです」
『どこにでもある失恋話のひとつです』と、浩太郎ははにかんで笑った。諸岡は掴んだ手をゆっくりと離して、自分より二つ年下の青年を見つめた。浩太郎の素の表情を初めて見たと思った。
「宜しければ、また……会いませんか?」
諸岡の口から自然とその言葉は出ていた。どうしてそういったのか分からない。いや、予感はする。このまま、どこか自分と似ている不器用な青年に気持ちが傾く予感だ。
諸岡は、訝しげに首をかしげる浩太郎へ少し困ったような笑顔を向けた。
(22)遥⑪
ごく平凡な日常と、週末のタワーマンションでの清継との非日常的な二日間。
社内メールを作りながら、明日はまた清継の部屋に行くのだと思うと下肢が疼いてしまう。好きだと思うことにもう躊躇はなかった。あの唯我独尊な清継が、たまに心配そうに『俺のことが好きか』と聞いてくる表情が愛しい。
(……好きだって何回言わせんだよ……)
あの太いペニスを体内に受け入れることにも慣れてきていた。むしろグッと腸壁を穿つその瞬間に射精を堪えるのが大変だった。早くイッてしまうと清継がからかう。そして何度も遥の奥を突き上げた。いつも遥からキスを送ると清継は満面の笑みを浮かべ、その逞しい腕で抱き締める。そしてそれから何度も愛される。
『離婚調停の話したいから、浩太郎の暇な時間があったらいつもの居酒屋で会いたい』
そのメールを浩太郎に送るとすぐに返事がきた。『今晩、八時ぐらいなら』。そのメールに了解の短い返事を返し、遥はいつもの退屈な仕事に戻った。
居酒屋のドアを開くと浩太郎の姿がそこにあった。いつものようにビールのジョッキを片手にすでにカレイの唐揚げをつついていた。
「俺もビール。あと筑前煮お願いしまーす。待たせたかな、浩太郎」
「さっき来たところだから大丈夫……遥がしようとしてる話の内容も分かってる」
「……え?」
「諸岡さんに会って、おおよその話は聞いたから」
その言葉で耳まで赤くなると同時に、遥は俯き頷いた。もう清継に抱かれたことを浩太郎は知ってしまったのだろう。しばらく沈黙が続いていたが、ビールが運ばれてきたことで息を吐いて遥はそれを喉に流し込む。
上目遣いにチラリと浩太郎の表情を伺ってみるが、笑みも怒りも感じない。
「あー……うん。離婚、取り敢えずは止めようかなって」
「俺は遥が幸せならそれでいい。諸岡さんと話をして、離婚調停は進めない方向にした」
「……なんか、ごめん」
「いい人なのか、久堂って男は」
「まだわかんねぇけど……正直な男。大きな波みたいで強引でわがままだけど、嘘はつかない真っ直ぐな感じ」
「……そっか。遥、ヤバいぐらい色気出てる」
「えっ!? なにそれ、ないない、なんか清継に振り回されてるだけっつーか──」
「おまえのこと何年見続けてると思ってんだよ」
「は、はい……すみません……」
筑前煮が運ばれてきたことで会話が一瞬止まったが、浩太郎がスッと背筋を伸ばして遥の髪をくしゃりと撫でた。その顔には薄っすらと泣き出しそうにも見える笑みが浮かんでいた。
「俺を振ったんだから幸せになれよな。あと今日はおまえの奢り」
「お、おう! 奢る。なんでも頼め。マジごめん。俺、俺……浩太郎のこと好きだけど──」
「もういいから。俺のことが好きなら遥が幸せになれ。あと、今日は朝まで飲む。幼馴染の結婚を楽しもう……あ、もう結婚はしてるんだっけか」
それから二人でビールや日本酒や焼酎を次々に頼み、昔話に笑いあった。
浩太郎のことは好きだけれど、やはり恋愛対象にはならない。抱き締められてキスをされてもただ驚くだけだったことを思い出す。だが浩太郎は遥を性的な対象として何年も見ていたのだろう。遠回しな言い方だっただろうが清継と遥がセックスをしたということも分かっている。なのにこんなにも優しい。
「……浩太郎……なんだろうな、この制度って」
「政略結婚制度? 俺はまだ完全に認めた訳じゃないけどな」
「……俺が結婚したら……祝ってくれるか……?」
「遥を幸せにしてくれる相手となら祝う」
「……ごめんな……ありがとな」
「絶対に幸せになれよ」
「がんばる」
「よし、じゃあ飲むか。俺も遥に振られたことだし、またいい相手見つける」
少し泣きそうだった。こんなにも自分を好いてくれている相手が隣にいてくれたのに、まったく気付かなかった。そして浩太郎は遥の幸せを願ってくれている。
国が勝手に決めた政略結婚。たった二枚程度の紙切れで決められた人生。
筑前煮のこんにゃくを頬張りながら、遥は何度も頷く。浩太郎には幸せになって貰いたかった。浩太郎ならきっと自分よりも素敵な相手が居るだろうと思いながら。
「ねぇ、結婚式はどういう服装で行ったらいいのかしら。教会でしょ? 和服じゃちょっとねぇ。遥はどう思う?」
「いいよ、なんでも」
「お父さんはスーツにするっていうから、私も新しいスーツ作ろうかしら。あ、清継さんから落雁が送られてきたからお茶でもしましょう。一人息子の嫁入りですものねぇ、あらあら困っちゃうわぁ」
(だから息子の嫁入りとかいう不自然なワードどうにかしろ)
二階の自室に上り、いつもの量販店のジャージに着替える。週末に清継の部屋で着ているバスローブやパジャマは数万円以上のものだ。この落差にはため息しか出ない。
けれど清継のあの強引さで結婚式の日取りや、新居、新婚旅行の話が毎日のように告げられる。あまりの勢いに遥が怯むと、今度は冷静な口調で諸岡が謝罪を含めた電話を掛けてきた。
そしてスマホの着信音が鳴り響く。もう見慣れた清継からの電話だった。
『遥、愛してる』
『切るぞ』
『大切な話だから切るな』
『……大切って?』
『寝室のシーツの色はどうする?』
『マジで切るぞ』
『じゃあ諸岡に任せるか。明日、こっちに来るのか?』
『……行かないと十秒ごとに清継から電話が鳴るからな』
『一緒に暮らせば電話の必要がなくなっていいじゃないか』
(ポジティブ。超ポジティブ。相手のことなどお構いなしにポジティブ過ぎる)
『寿退社だな』
『あ、え……うん……』
『仕事をしたいなら俺の下で働けばいい。しばらくゆっくりしたいなら専業主婦でもいい。その前に新婚旅行だがな』
『あー……えっと、昨日、浩太郎と飲んでた』
『あの幼馴染か。また浮気でもしたか』
『してねぇよ。離婚調停はなしにするって話をしただけ』
『どうも諸岡が幼馴染ちゃんを気に入ったみたいだぞ』
『……へっ!?』
『また明日話す。諸岡に気に入られるとか幼馴染ちゃんも大変だろうな』
いかにも楽しげに盛大に笑いながら電話が切られた。
もう思考停止するしかない。
「遥、お茶にしましょー」
「はいはい」
「お母さん、今日奮発して美味しい緑茶買ってきたの。落雁に合うわよ」
階下から聞こえる母親の声が現実に引き戻してくれるようでなんとなく嬉しかった。
式まであと数週間。いまだに現実味がない。
週末に清継のマンションや会社に行けば、新居の話や、式で着るタキシードの寸法を測る店に連れていかれる。そして夜は、嫌というほど抱かれた。
平日は地味に会議に参加したり、封筒にゴム印を押したりしているのに、週末は数万円もするシャンパンを飲みながらタワーマンションで夜景を見ていた。出世する見込みなんてほぼない平社員が、こんな週末を送っているとは誰も思わないだろう。
結婚相手は久堂清継だ。日本でも五本の指に入る財閥の社長。国が勝手に決めた相手とは言いながらも、二人の夜はこれ以上はないほどの相性だった。男と寝るということ自体考えたこともなかったが、求め、求められ、時間を忘れて貪り合う。
量販店の二万円のスーツから、週末はオーダーメイドの高級ブランドのスーツになる。
「結婚式って……マジかよ。マジなんだよな、もう結婚してるけど、式まですんのかよ。こんな地味な俺と? みんな引くよな絶対」
改めて考えると手放しで楽しがる気分にはなれなかった。だが、毎日を清継と過ごす空気感にはどこかときめいてしまう。文句を言いながらも清継のことは愛している。抱き締められてキスをされるだけで、身体の奥が疼く。まだしたことはなかったが、あの太い勃起を舐めてしゃぶりたいと思ってしまう自分がいた。
「遥っ! 早く下りてきなさい、お茶が冷めるわよ」
「……あー、うん。すぐ行く」
熱を持ち始めた下半身を深呼吸でなんとか収め、ドアを開いてリビングに向かう。
お洒落やセンスとは縁遠い母親の手作りの微妙なぬいぐるみや雑貨。あまり喋らない父親はお茶を飲みながらどうでもいいようなテレビを見ている。母親はまだ式に着ていく服はどうしたらいいのかと早口で喋りながら落雁を摘んでいた。
ここに清継が居たらどんな顔をするのだろう。リビングといっても清継のマンションの玄関先と変わらない広さしかない。奮発したという緑茶もセールのものだろう。
温かいお茶を飲みながら、もちろん諸岡のセレクトだろう落雁を口にする。
「なぁ。俺が結婚してここの家を出たら、部屋どうすんの」
「そうねぇ、遥は鈍感だしいつ離婚されるかもわかんないからしばらくおいておくわ」
「……え、俺ってそんな鈍感?」
「そういうところお父さんに似てるわよねぇ」
なぜか納得しそうな、反論したいような微妙な気持ちになりつつも、遥はグイッとお茶を飲み、上品な甘さの落雁を齧った。
(23)清継&遥
その日が来た。
晴れ渡った空に雲ひとつ無い晴天。少し肌寒くはあったが風もなく穏やかな小春日和だった。
場所は丘の上に立つ、真っ白な教会。
遥は本来なら花嫁が待つ教会の扉の前で一人、白いタキシード姿で深呼吸をしていた。
教会の中には列席者全員が揃って、俺の入場を待っている。
清継は最初『花嫁入場』と進行役に言わせようとしていたが、遥はそれを断固拒否して『花婿入場』にして貰っていた。入場も付き添いはいらない。自分と清継の結婚式だ。貰われていく花嫁なんじゃなく、自分で清継を選んだんだと、自分の足だけで清継その横に立ちたかった。
静かに、厳かに木製の扉が開かれる。
真っ直ぐに、同じく白いタキシード姿の清継へ向けて赤い絨毯が足元から伸びていた。
左右には参列者がびっしりと並んでいる。
ほんの少しの緊張と、予想以上に……誇らしいような、照れくさい気落ちを抱えながら遥は真っ直ぐに清継の元へと歩いていった。
清継側には、少し離れた位置に諸岡の姿が見えた。
少し視線をずらすと苦笑する様子の浩太郎が拍手を送ってくれている。
なんと、母親は泣いている様子でハンカチで目頭を押さえ、父親がその背に手を当てて、同じく涙ぐんだ様子だった。
長く感じた道程の先、遥からすれば悔しいほどにオーダーメイドのタキシードが似合う清継が満面の笑みで遥へと手を差し出していた。
「漸く俺のものになるな、俺の花嫁」
「……馬鹿、花嫁じゃねぇっつの」
祭壇の前で、小声でやり取りをする。
遥の脳裏を慌ただしく、長かったようで短かったこの3ヶ月が過る。最初は男同士で政略っ結婚なんて間違いだと思っていた。それから、清継が現れて冗談じゃないと思った。本人の意志を無視しやがって……と何度思ったが知れない。
だが、俺様で人の話を聞かない強引な清継は知れば知るほど、可愛い……素直な人間だった。庶民の事をなにも知らなくて、けど大企業のトップに立っていて。何より、真っ直ぐに遥へ愛情をぶつけてくれる。
指先を重ねた手の先が、手袋越しにチリチリするように熱い。
ステンドグラスから降り注ぐ光が周囲をキラキラと輝かせて、何故か遥は泣きたくなった。
神父から声をかけられて、二人して祭壇へと身体を向ける。
「新郎、久堂清継。貴方は新郎、末永遥をお互いを夫とし、病めるときも健やかなるときも共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
神父の静かな問いかけに、清継が当然のように笑んで力強く答えた。
「はい、誓います」
声は教会内に静かに響いた。遥は深呼吸してそんな清継の横顔をちらりと見、そして神父へと向き直る。
「新郎、末永遥。貴方は新郎、久堂清継をお互いを夫とし、病めるときも健やかなるときも共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「──はい、誓います」
遥の迷いもない声も静かに響いた。
「皆さん、お二人の上に神の祝福を願い……」
神父の言葉は続く。
「それでは、指輪の交換をお願いします」
そこで式で初めて、遥と清継はお互いに向き合った。遥が手を差し出すと、一歩遥へ近づいた清継が穏やかな笑顔を見せて首を傾げた。指輪をお互いの指へと嵌める。
「綺麗だぜ、俺の花嫁」
「そこは格好良いだろ。……あんたも、格好良いぜ」
「そうだろう。世界中の男の中で、お前にとって一番格好良い男になる予定だからな、俺は。覚悟しろよ」
「馬鹿言ってろ」
遥の中に不思議と緊張はもうなかった。おそらくこうやって言い合いをしながら今後も過ごしていくのだ、この男と。晴れやかな気分で、目の前の清継を見つめ返す。
「それでは、誓いのキスを」
(きたきた、流石にこれはなぁ……照れるよなぁ……。いらねーんじゃないかって何度も俺が言ったのに、絶対いるって、清継は譲らねぇし)
遥は参列者の方へは出来るだけ顔を向けないように、更に一歩前へと進んだ。
(まあ、すぐに終わるだろ、チュってして……っ!?)
「だから、誰の手もつかねぇように、しっかりマーキングしとかなきゃだな」
その声とともに、腰にぐっと腕を回されて遥は目を見開いた。そこまでする必要はないはずだ。しかし、清継の方へ強引に引き寄せられて腕も引かれた。二人の身体が段上で密着する。ざわっと列席者からざわめきが上がるのを無視して、清継は腰を抱いた遥に深々とキスをした。
「阿呆! 清継っ……ん……!」
驚きで開いたままの遥の口腔に清継の厚みのある舌が差し入れられる。逃げようとする手を封じられて、口内を自由に動き回る舌に蹂躙された。水音がする長い口づけに、参列客が呆気にとられているのが分かる。けれど、キスが長引くほどに遥の身体から力が抜けて行くのも事実だった。
(……もう、どうにでもなれ……!)
遥は抵抗を止めて、がっと清継の首筋へ自分からも腕を回した。ぎゅっと腕に力を込めて、清継の身体を抱きしめる。今日から……ずっと前から自分の夫だった、男の身体に縋り付く。
呼吸で、清継が笑ったのが分かった。悔しいが仕方ない。好きになってしまった。恋してしまった。もう……愛しているのかもしれない。
差し入れられた舌に応えて、自らも舌を絡める。一生離さないというように背伸びして、抱きしめた。噛み付くように至近距離で見つめ合った。
「……こんなに、したんだから……っ責任、取れよ」
「勿論。死が二人を分かつまで、だ」
キスの合間に囁き開い、またキスをする。
「あらあら、仲良しな夫婦ねぇ。うちの遥もあんなに嬉しそうな顔しちゃって、ねぇ、お父さん」
「……ふむ。遥も大人になったな」
少し遠い席で二人の姿を見ていた浩太郎が僅かにその二人の姿に視線を反らしていた。だが、その隣に諸岡が座り『やけ酒にお付き合いしますよ』とそっと囁いた。
最初は政略結婚だった。まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかった。けれど後悔はない。自分の横にはこれからずっと清継がいる。わがままで強引な、愛しい王様。一生こうして楽しく言い合いを続けながらともに生きていくのだ。
「──清継、愛してる」
「俺も世界一可愛いお前を愛してる」
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