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8.退屈凌ぎ1
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「お、お、おまえ、なんということを…」
公爵の左手小指が、あらぬ方を向いている。執事の暴挙に、夫人が青ざめながら震える声で、執事を驚愕の表情で見る。だが、続くメルナーゼの言葉はもっと衝撃だった。
「何かご用ですの?用がないなら出て行って下さいまし。わたくし、疲れておりますの」
父親が酷い目に遭っているというのに、まったく関心を寄せない。そもそも娘は従順で、いつでも親の言うことを素直に聞き、周囲の目を気にしてばかりの臆病者だったはずだ。一体、何があったというのか。
「メ、メルナーゼ?何が…」
薄いカーテンの向こうで、メルナーゼはゆっくりと首を傾げたことがわかる。
「あら。わたくしの名前を知っていたの。驚きですこと」
「え?」
夫人はどこか間抜けな声を出した。
自分の娘だ。名を知らないはずがないではないか。
そんな夫人の困惑を、メルナーゼはからかうように言った。
「名前など、呼ばれた記憶がありませんもの」
夫人は息をのんだ。そんなはずはない、と言おうとして、確かに自身の口が、その名を呼び慣れていないことに気付いてしまった。そんな夫人の動揺は愚か、その事実にすら興味がなさそうにメルナーゼは続ける。
「これからもこれまで通り、お互い無関心でいましょう」
そう言うと、執事が立ち上がり、二人を部屋の外に放り投げた。そしてすぐに扉を閉める。何用かと尋ねてやったのに、答えずうるさくするだけなのだ。そんなものに付き合ってやる必要などない。メルナーゼを正しく理解する執事は、メルナーゼの望みのままに行動する。
「宰相。夕餉はお肉が食べたいわ」
執事は恭しく一礼すると、扉外に控えるメイドに事細かにメルナーゼの好みを伝える。
「それから、愚か者たちのせいで敷物が汚れた。毛足の長い、真っ白なものを用意しろ。姫様がお目覚めになるまでに整えるんだ。わかったな」
そう付け加えると、再び崇拝する主の眠るベッドの側に静かに控えたのだった。
「やっと来たか。何度も呼び出したというのに悉く応じないとは、貴様、何様のつもりだ?もう王族にでもなったつもりか、たかが婚約者の分際で」
本日、メルナーゼは学園に来ていた。十日ほど姿を見せていなかった彼女の姿に、周囲が心無い言葉を聞こえるように囁きあう。そんな彼女を、王太子ヤトラスが嫌味を交えて廊下で呼び止めた。
だが、メルナーゼは聞こえていないのか、反応することなくスタスタと進む。
「おいっ、聞いているのか無礼者がっ」
横を通り過ぎようとしたとき、ヤトラスがメルナーゼの手首を乱暴に掴んだ。いや、掴もうとした瞬間。ヤトラスの叫び声が響いた。その腕は、関節ではないところが曲がっていた。
静かにメルナーゼの後ろに付き従っていた壮年の男が、躊躇いもなくヤトラスの腕を叩き折ったのだ。それだけではない。あろうことか、
「切り落とされなかっただけマシと思え」
そう言って、思い切り蔑んだ目で見下ろしたのだ。
そんな謎の男の言動は誰もの思考を停止させたが、メルナーゼの言動にも言葉を失う。
「わたくしに話しかけておりましたの?」
のたうち回るヤトラスに、広げた扇で口元を隠しながら、メルナーゼは睥睨したのだ。
「用事があって来ただけですの。何故おまえなどに時間を割かねばならないのかしら」
今までの彼女からは、考えられないものだった。
諦念と悲壮を纏い、目立たぬよう隅に寄り、俯き黙って事が過ぎるのを待つ。それが彼女の常だった。貴族として生きていくことが困難なほどに。
「どこのどなたか存じませんけれど、おまえのような輩と関わりたくありませんの。さっさと消え失せなさいな」
だから、人を拒絶し、否定する言葉など、人を害し、眉ひとつ動かさない冷酷さなど、決して持ち合わせていない。
いなかった。
*つづく*
公爵の左手小指が、あらぬ方を向いている。執事の暴挙に、夫人が青ざめながら震える声で、執事を驚愕の表情で見る。だが、続くメルナーゼの言葉はもっと衝撃だった。
「何かご用ですの?用がないなら出て行って下さいまし。わたくし、疲れておりますの」
父親が酷い目に遭っているというのに、まったく関心を寄せない。そもそも娘は従順で、いつでも親の言うことを素直に聞き、周囲の目を気にしてばかりの臆病者だったはずだ。一体、何があったというのか。
「メ、メルナーゼ?何が…」
薄いカーテンの向こうで、メルナーゼはゆっくりと首を傾げたことがわかる。
「あら。わたくしの名前を知っていたの。驚きですこと」
「え?」
夫人はどこか間抜けな声を出した。
自分の娘だ。名を知らないはずがないではないか。
そんな夫人の困惑を、メルナーゼはからかうように言った。
「名前など、呼ばれた記憶がありませんもの」
夫人は息をのんだ。そんなはずはない、と言おうとして、確かに自身の口が、その名を呼び慣れていないことに気付いてしまった。そんな夫人の動揺は愚か、その事実にすら興味がなさそうにメルナーゼは続ける。
「これからもこれまで通り、お互い無関心でいましょう」
そう言うと、執事が立ち上がり、二人を部屋の外に放り投げた。そしてすぐに扉を閉める。何用かと尋ねてやったのに、答えずうるさくするだけなのだ。そんなものに付き合ってやる必要などない。メルナーゼを正しく理解する執事は、メルナーゼの望みのままに行動する。
「宰相。夕餉はお肉が食べたいわ」
執事は恭しく一礼すると、扉外に控えるメイドに事細かにメルナーゼの好みを伝える。
「それから、愚か者たちのせいで敷物が汚れた。毛足の長い、真っ白なものを用意しろ。姫様がお目覚めになるまでに整えるんだ。わかったな」
そう付け加えると、再び崇拝する主の眠るベッドの側に静かに控えたのだった。
「やっと来たか。何度も呼び出したというのに悉く応じないとは、貴様、何様のつもりだ?もう王族にでもなったつもりか、たかが婚約者の分際で」
本日、メルナーゼは学園に来ていた。十日ほど姿を見せていなかった彼女の姿に、周囲が心無い言葉を聞こえるように囁きあう。そんな彼女を、王太子ヤトラスが嫌味を交えて廊下で呼び止めた。
だが、メルナーゼは聞こえていないのか、反応することなくスタスタと進む。
「おいっ、聞いているのか無礼者がっ」
横を通り過ぎようとしたとき、ヤトラスがメルナーゼの手首を乱暴に掴んだ。いや、掴もうとした瞬間。ヤトラスの叫び声が響いた。その腕は、関節ではないところが曲がっていた。
静かにメルナーゼの後ろに付き従っていた壮年の男が、躊躇いもなくヤトラスの腕を叩き折ったのだ。それだけではない。あろうことか、
「切り落とされなかっただけマシと思え」
そう言って、思い切り蔑んだ目で見下ろしたのだ。
そんな謎の男の言動は誰もの思考を停止させたが、メルナーゼの言動にも言葉を失う。
「わたくしに話しかけておりましたの?」
のたうち回るヤトラスに、広げた扇で口元を隠しながら、メルナーゼは睥睨したのだ。
「用事があって来ただけですの。何故おまえなどに時間を割かねばならないのかしら」
今までの彼女からは、考えられないものだった。
諦念と悲壮を纏い、目立たぬよう隅に寄り、俯き黙って事が過ぎるのを待つ。それが彼女の常だった。貴族として生きていくことが困難なほどに。
「どこのどなたか存じませんけれど、おまえのような輩と関わりたくありませんの。さっさと消え失せなさいな」
だから、人を拒絶し、否定する言葉など、人を害し、眉ひとつ動かさない冷酷さなど、決して持ち合わせていない。
いなかった。
*つづく*
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