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34. 救出
しおりを挟む宦官から、重華が訪ねてきたと報告を受けた時、晧月は当初勝手に持ち去った肖像画を取り返しに来たのではないかと危惧した。
しかし、用件は『渡すものがある』、つまり奪われることはなさそうだと、晧月は安堵した。
重華が持ってきたのは、はじめて作ったという点心だった。
重華自身が自分で持ってくることを思いついたとは到底思えないから、春燕か雪梅に焚きつけられたのだろうと言う事は、想像に容易かった。
ちょうど雪梅が、茶葉をきっかけに重華がお茶の淹れ方に興味を持ったらしいという話をしていたのを思い出し、晧月は重華にお茶淹れさせた。
重華がはじめて淹れたお茶を、重華がはじめて作った点心を供にして飲む、晧月は我ながら良いことを思いついたと、とても満足していた。
しかしながら、重華との時間はあっという間にすぎてしまった。
お茶もなくなり、渡すものも渡してしまえば、引き止める理由もなくなってしまう。
長居をしては晧月の政務の邪魔になってしまうから、そう言って立ち去る重華を晧月を、また来るようにと言って見送ることしかできなかった。
重華の言う通り、自身にはまだやらなければならない政務がある。
また、重華とは毎日のように会っているはずだった。
それでも、晧月は離れがたいと思う気持ちを止められなかった。
「これは……?」
重華が去って、しばし呆然としていた晧月は床に光るものを見つけて拾い上げる。
「簪についていた飾りか」
それは先ほどまで一緒にいた、重華の簪についていたはずの小さな石だった。
簪そのものを落としたわけではない、落としたのはなくとも気にならないかもしれない小さな小さな石1つ。
急いで渡してやらなくとも、重華は決して困ったりはしないだろうと晧月は思った。
「まだ、遠くには行っていないはずだ」
追いかける必要など、ないはずだ。
後で、何かのついでに渡してやれば、それでいい。
わかってはいても、追いかける理由ができた、そう思うと晧月は気づけば天藍殿を飛び出していた。
晧月は重華を追いかける途中、視界の端にきらびやかな布の一部が沈んでいく様子が映った。
それが、先ほどまで一緒にいた重華が着ていた着物の一部だと、晧月が気づくのにさして時間はかからなかった。
「どけっ」
「え?陛下?」
池の前に数名居るのが見えたが、構ってなどいられなかった。
「重華っ!!」
普段は呼ぶことのない名前を咄嗟に叫び、晧月は迷うことなく池の中へと飛び込んだ。
晧月は、皇帝なのだ、自ら飛び込む必要などない。
誰かに命じれば、誰かが池に飛び込んで晧月の代わりに重華を助け出すはずだ。
しかしながら、沈む重華の姿を見た晧月に、本来なら簡単に思い浮かぶはずのことが全く浮かばなかった。
ただ、重華を助けなければ、晧月の頭の中にはそれしかなかった。
池の中で重華は重力に従って、どんどんと沈んでいく。
水面に向けて伸ばされていただろう手も、力を失くし徐々に下降していく。
(頼む、間に合え……っ)
晧月は重華の手が、身体よりも低い位置まで落ちてしまう前に、なんとかその手を掴もうと必死に手を伸ばした。
自身の身体よりも重華の身体の方がはるかに速く沈んでいくような錯覚を覚えながらも、晧月はなんとか重華の手を掴みとる。
掴んだ手を頼りに、晧月は重華の身体を引き寄せると、重華を抱えて水面を目指した。
ばしゃんと再び池から音がして、今度は水面から晧月が重華を抱えて顔を出した。
その様子に我に返った衛兵たちは、慌てて晧月と重華を池から引き上げた。
「蔡嬪、しっかりしろ!蔡嬪っ!!」
まるで氷のようだと感じるほど、重華の身体は冷え切っていて、全く動く気配がない。
そんな重華を晧月は何度も揺すりながら、声をかけ続けた。
衛兵たちが固唾を呑んで見守る中、何度目かの呼びかけで重華はごほっと咳き込み、水を吐き出した。
同時に、酷く弱々しいものではあったが、重華の呼吸音が晧月の耳に届いた。
生きている、ようやくそう実感ができ、晧月はほっと息を吐いた。
「これは、いったい、どういうことだっ!?」
重華の無事がひとまず確認できたところで、晧月は重華を未だその腕に抱きしめたまま、周囲の衛兵を睨みつけた。
「衛兵がこれだけいて、どうして誰も蔡嬪を助けない!?」
問われた衛兵たちは、英妃をちらちらと見ながら俯くだけだった。
その視線を追って、晧月はようやくその場に英妃も居たということに気づく。
(英妃がなぜ、こんなところに……)
皇宮の中に妃嬪が居ることは、おかしいことでは決してない。
けれど、重華が居る場所に英妃もいるということに、晧月は妙に引っかかりを覚えたのだ。
「へ、陛下、恐れながら申し上げます……」
それは、先ほど、英妃に声をあげた衛兵であった。
英妃からその衛兵に対し、すぐに鋭い視線が向けられる。
それでも、衛兵はそれを振り払うように、晧月の前へと出た。
「なんだ?」
「我々は、すぐにお助けしようといたしました。しかし、英妃様が、助けてはならぬ、と……」
「なん、だと……!?」
英妃のそれとは比べものにならないほどの、鋭く冷たい視線が晧月から英妃へと向けられる。
宴会の時とは比べものにならないほどの、怒気と敵意を剥き出しにした視線に、英妃は身体が震え上がるのを止められなかった。
「英妃、どういうことだ?」
「ご、誤解、ですわ、陛下……助けるなとは、言っておりません。ただ、蔡嬪に、少しばかり水中で反省をさせてから、と……」
「反省、だとっ!?いったい蔡嬪が何をすれば、このように冷たい水の中で反省させられることになるのだっ!?」
晧月は、池の中へと沈んで行く重華を思い起こす。
もし、晧月が重華の飾りが落ちていることに気づかなければ、すぐに重華を追いかけるという選択をしていなければ、重華はさらに奥深くまで沈んでいたかもしれない。
そうなれば、助かっていたかもわからない。
晧月は、そう考えるだけでぞっとした。
(くそっ、体温が戻らない……っ)
英妃はどのように答えるべきか悩んでいるのか、返答らしい返答は何も返って来なくなった。
一方で、晧月が池に飛び込んだことを誰かが知らせたのか、あるいは聞きつけたのか、宦官や侍女たちが晧月を温めようと手ぬぐいや毛布を抱えて走り込んでくる。
晧月は自身のことは完全に後回しで、その全てを重華のために使ったが、重華の身体は氷のように冷たいままだった。
「今は蔡嬪が優先だ。英妃の件については、後ほど改めて話を聞く」
まずは、一刻も早く重華の身体を温めなければ、晧月の頭にはそれしかなかった。
「衛兵は英妃を捕らえ、水晶宮へ連れて行け。英妃への罰は追って下す。それまで、朕の許可なく宮を出ることは許さん。衛兵はしっかりと見張れ、よいな」
「お、お待ちください、陛下、わたくしは……っ」
罰、と聞いて英妃は青ざめる。
なんとか話を聞いてもらい、誤解を解かなければと、英妃は晧月に近づこうとした。
しかし、衛兵たちの手によって、阻まれてしまう。
「は、放しなさいっ!陛下、誤解です、どうか話を……っ」
いくら呼びかけても、晧月の視線が英妃に向けられることはなかった。
晧月はただただ、心配そうに重華を見つめている。
英妃の脳裏に、『重華』と呼んで、迷うことなく池の中へ飛び込んだ晧月の姿が蘇る。
(2人は、普段名前で呼び合っているの……?)
そう考えると、ますます怒りと悔しさが募った。
けれど、英妃には衛兵たちを振り払うことなどできるはずもなく、ただおとなしく水晶宮へと連れて行かれることしかできなかった。
「誰か、すぐに柳太医に琥珀宮に来るように伝えろっ!」
その言葉に答えるように、最も足に自信のある衛兵がすぐに駆け出した。
それを確認する間も惜しいというように、晧月は重華を抱えて立ち上がった。
「陛下、私が……」
代わりに重華を運ぼうと差し出された衛兵の手を、無言で制す。
(もう少しだけ、がんばってくれ)
未だ目を開けることのない重華に、晧月は心の中で声をかける。
少しでも身体が温まるようにと、重華を抱える腕に力を込めながら、晧月は琥珀宮への道を急いだ。
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