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35. 温
しおりを挟む「春燕、雪梅、すぐに火鉢を持って来いっ!それから、湯も沸かせっ!」
琥珀宮に入るや否や、晧月はすぐに叫んだ。
けれど、びしょ濡れの状態で重華を抱え、突然現れた晧月の姿に、春燕も雪梅も狼狽えた。
「へ、陛下、そのお姿は、いったい……」
「いいから、早くしろっ!」
「は、はいっ、すぐに……っ」
珍しく2人に対して語気を強める晧月は、どことなく余裕がなく、切羽詰まった様子だった。
それほど急いでいるのだと察し、2人はそれ以上何も言わず、急いで晧月の指示に従った。
「陛下、陛下のお身体もしっかりと拭いてください」
晧月は春燕が用意した火鉢の傍に、重華を抱えたまま座った。
だが、自身を温めようとする気配はなく、ただ重華が少しでも早く温まるように、それだけに一生懸命だった。
雪梅が見かねて晧月に手ぬぐいを差し出したが、晧月はそれもまた濡れてしまっている重華を拭くためだけに使っている。
それを見た春燕と雪梅は新たな手ぬぐいを用意すると、今度はそれを晧月に渡すことはせず、晧月の濡れた身体を拭くために使った。
「俺のことはいいから、蔡嬪を……っ」
「そうはいきません」
晧月はすぐに2人を振り払い、自身よりも重華を優先させようとした。
けれど、2人はそれを見越していたかのように、さらりとかわす。
「陛下が風邪でも引かれましたら、蔡嬪様が悲しみます」
「ええ、それに、ご自分を責めてしまうかもしれませんよ」
2人の言葉も一理ある、そう考えた晧月はおとなしく2人にされるがままとなった。
「蔡嬪、気がついたのかっ!?」
ようやく少し体温が戻ってきた、晧月がそう感じ始めた頃、重華の目がゆっくりと開かれた。
「へい、か……?」
どこかまだぼんやりとしている重華は、状況が全く読み込めていない。
しかし、自身を呼ぶ重華の声が聞けたことで、晧月は酷く安堵した。
「よかった……っ」
晧月の腕が、強く強く重華の身体を抱きしめる。
「陛下、お召し物が濡れて……」
「ああ、すまない、冷たかったか?」
「い、いえ……」
「そうか」
晧月は冷たいと言われたら、せっかく温まった重華の身体を冷やしてしまいそうだったので、すぐに離れようと思っていた。
しかしながら、冷たいとは言われなかったため、しばらくの間はただ強く重華を抱きしめたままだった。
「蔡嬪様、お湯の準備ができました、湯浴みをいたしましょう」
雪梅がそう声をかけると、晧月はようやく重華から離れた。
重華は未だに状況が飲み込めていないものの、自身の着物も濡れていることだけはわかったので、こくんと頷いた。
「陛下もすぐに着替えられた方がよいかと」
「ああ、蔡嬪のことはそなたたちに任せて、一度月長宮に戻る」
そう言うと、晧月は抱えていた重華の身体を、雪梅へと任せた。
「すぐに柳太医も来るはずだ、きちんと診てもらえ」
晧月は重華にそう声をかけて、月長宮へと戻って行った。
重華は寝台に腰掛けて、ただぼんやりとしていた。
春燕と雪梅に湯浴みをさせてもらって、着物も着替えさせてもらって、冷えてしまった身体はすっかり温まった。
また、湯浴みを終えると、柳太医が待機していて、すぐに診察もしてもらった。
重華の意識はその辺りから、ようやく少しずつはっきりしてきて、現状を把握し始めた。
(私、池に落ちたのよね……)
柳太医が診察を終え、寝室に1人になってから、重華は自身の身に起きたことを振り返った。
正確には落とされたというのが正しいのかもしれない。
きちんと確認する余裕もないくらい一瞬のことだったけれど、重華は確かに強い力に押されるのを感じた。
それを思い起こすだけで、ふるりと身体が震え、重華は思わず自身の身体を抱きしめる。
「まだ、寒いのか?」
「え……?」
するはずのない声がして、重華は顔をあげる。
「へ、陛下っ!?」
「すまない、声はかけたんだが、返答がなくてな」
突然現れた晧月の姿に、重華は驚きを隠せなかった。
慌てて立ち上がろうとする重華を晧月は手で制し、そのまま室内に入ると重華の横に腰を掛けた。
「すみません。ぼーっとしていて、陛下のお声に気づかなくて」
「それはいい。それより、まだ寒いのか?」
「い、いえ、湯浴みをしましたし、もう大丈夫です」
重華はもう、寒さなど感じていない。
それよりも、目の前の晧月の方が、重華には寒そうに見えた。
「陛下は大丈夫ですか?御髪が濡れておられます」
晧月も月長宮へと戻り、重華同様に湯浴みもしたし、着替えもした。
だが、重華の事が心配で急いで戻って来たため、髪は乾ききってはいなかったのだ。
「じきに乾くだろう、気にするな」
「ですが……」
重華はやはり心配だった。
このままにしておくと、晧月が風邪を引いてしまいそうな気がして。
「何か拭くものを持って参ります、少々お待ちを……きゃっ」
慌てて立ち上がろうとした重華の手を、晧月が強く引っ張った。
重華はその力に逆らえず、小さな悲鳴をあげて、再度晧月の隣に腰掛けることになる。
「陛下……?」
「そういうのは、自ら動かずともよいだろう。そなたはここにいろ」
そう言うと、晧月は雪梅を呼び、あっさりと手ぬぐいを手に入れた。
「ほら」
「え……?」
晧月が使うための手ぬぐい、だったはずなのに、なぜか晧月は重華に手ぬぐいを差し出した。
重華はわけがわからず、ぱちぱちと瞬きをする。
「そなたが拭いてくれるのではないのか?」
「あ……えっと、お、お拭きします」
そんなつもりは全くなかったけれど、重華は慌てて晧月から手ぬぐいを受け取ると、ぽつりぽつりと雫を落とす晧月の髪を拭いていった。
「もう、それくらいでよい」
ある程度拭いたところで、重華は晧月に手を掴まれてその動作を止められる。
手に持っていた手ぬぐいもまた、あっという間に晧月に奪い取られてしまった。
「怖い思いをさせたな」
「い、いえ、陛下のせいでは……」
怖くなった、とは重華は言えなかった。
川や池で泳いだ経験などない重華は、あんな風に水の中に入ったのも生まれてはじめてだ。
水の中で足がつかないというのは、自分の身体がどんどん沈んでいくという感覚は、正直ものすごく怖かった。
けれども、それは決して晧月のせいではないので、晧月に気にして欲しくはなかった。
「思い出したくないかもしれないが、少しだけ聞かせてくれ」
「はい?」
「そなたを池に突き落としたのは、英妃か?」
「え……?えっと……」
そもそも重華が1人で落ちたのか、もしくは誰かに突き落とされたか、最初に確認するべきはそこではないのだろうか。
突き落とされたことが前提ということは、晧月は全て見ていたのだろうか。
英妃に突き落とされたと言うことで、告げ口をしたと悪い印象を持たれたりはしないのだろうか。
そもそも、あれは本当に突き落とされたのだろうか。
いろんな思いが重華の頭の中で交錯し、重華は返答を返せない。
「嘘もごまかしも不要だ。どうせそなたが今ごまかして英妃を庇ったとて、他の衛兵たちも見ていたのだ。すぐに真実が明らかになる」
重華は何も言っていない。
なのに、晧月の言葉は重華の心の中まで見透かしたかのように的確だった。
だが、それ以上に重華が気になったのは別のことだった。
(まるで、英妃様がやったと確信していらっしゃるみたい……)
他の可能性はありえないと、そう言われているような気がしたのだ。
「たぶん、英妃様に押されたんだと思います……。あと、隣にいらした方も……」
「英妃の侍女か」
やはりな、と晧月は小さく呟いた。
あの状況と英妃自身から発せられた言葉から考慮するに、晧月はそれしか考えられないと思っていた。
重華に対しては、念のために確認したにすぎない。
後ほど衛兵からも聴取はするつもりだが、それで事実が晧月の考えているものから大きくかけ離れるようなことは無いと確信している。
「安心しろ、二度とこのようなことが起きないためにも、英妃は厳罰に処す」
「厳罰、ですか……?」
「ああ。封号を剥奪し、降格させ、冷宮に送るのが妥当なところだろう」
「冷宮……?」
「罪を侵した妃嬪たちを幽閉するための場所で……まぁ、あまり環境のいい場所ではないな」
晧月とてめったに訪れる場所ではないが、夏は暑さを凌ぐことが叶わず、冬は寒さを凌ぐことが叶わない。
煌びやかな後宮とは正反対ともいえるような、あまりにも何もない寂しい場所である。
「そんな……っ!それは、厳しすぎます、陛下っ」
「厳しすぎるだと!?むしろ足りないくらいだ」
「で、ですが、私を池に落としたくらいで……っ」
「くらい!?もし……、もしも、朕が間に合っていなかったら、そなたは今頃……っ」
晧月は重華の身体を引き寄せて、強く抱きしめる。
もし、少しでも自身が遅れていれば、このぬくもりを失っていたのかもしれない。
そう考えるだけで、晧月は恐怖に震えた。
「へ、陛下、あ、あのっ」
突然のことに、重華は酷く動揺した。
とにかく心臓が非常に煩く鳴り続けるので、なんとか離れようとしたけれど、晧月の力があまりにも強くびくともしない。
「だが、そなたはこの先ずっと気にするのだろうな」
「え?陛下?今、なんて……?」
小さく呟かれた晧月の言葉は、残念ながら重華には届かなかった。
「いや、なんでもない。まったく、朕に意見するとはな」
「あ……っ、申し訳、ありません……」
本来であれば、皇帝が決めた処罰に対して、妃嬪の意見を聞くことなどない。
しかし、このまま進めれば、おそらく重華は自分の所為にするだろう。
結局、晧月は重華の意見を汲み取ることを選んだ。
「冷宮送りはやめる。だが、封号は剥奪するし、降格もする。後、そなたとは二度と会えぬようにする。譲歩するのはここまでだ」
「あ、ありがとうございますっ!」
処罰を免れたのは、他でもない重華を池に突き落とした英妃だというのに、重華はまるで自分のことのように喜んでお礼を言う。
晧月は、その光景に、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
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