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73. 焦燥
しおりを挟む月長宮で重華が目にしたのは、顔が赤く荒い呼吸を繰り返す晧月の姿だった。
「疲れが溜まって、体調を崩されたのでしょう。熱は高いですが、すぐに目は覚まされると思いますよ」
柔らかな笑みを浮かべ、安心させるように重華にそう説明してくれたのは、重華もいつもお世話になっている柳太医だった。
「安静にして、しっかりお休みになられれば、すぐに熱も下がるかと」
「よか、ったぁ……」
熱があるので決して何事もなく、というわけではない。
それでも、何か大きな病気ではなかったことに、重華はほっと胸を撫でおろした。
春燕は晧月の容態を聞くと、すぐに重華に冷たい水が入った桶と手ぬぐいを用意してくれた。
重華は病人の看病など経験がなかったけれど、自身が春燕と雪梅にしてもらったことを思い出しながら、冷たい水に濡らした手ぬぐいを固く絞って晧月の額にのせた。
晧月の熱のせいで、すぐに冷たさを失ってしまうそれを、また冷たい水で濡らしては晧月の額へと戻す。
そんな行為を何度か繰り返したところで、晧月はようやく目を覚ました。
「重華……?」
「陛下っ!よかった、お目覚めになられて……って、えっ!?」
ゆるゆると開いた晧月の目が重華を捉え、重華の名前を呼んだ。
それだけのことで重華はほっと胸を撫でおろしたが、それもほんの束の間のことであった。
晧月は先ほど重華が額にのせたばかりの手ぬぐいを手に取り、あっという間に起き上がってしまったのだ。
「あ、あの、陛下、まだ横になっていらした方が……」
「俺は、なぜここに?」
周囲を見渡した晧月は、そこが自室であることはすぐに気づいた。
しかし、当然ながら自ら自室に入った覚えもなければ、寝台に横たわった覚えもない。
「陛下は、政務の最中に倒れられたのです。お疲れのようですから、とりあえず今日はゆっくり……って、駄目ですよ、陛下っ!!」
重華の説明が終わらないうちに、晧月は寝台から降りようとしている。
それをなんとか阻止したくて、重華は慌てながらも必死に晧月の腕にしがみついた。
「放せ。悪いが、政務が溜まっているんだ。用があるなら、後で話を聞いてやるから」
「駄目ですってば、まだ、安静にしていないと」
「これくらい、たいしたことない。大丈夫だ」
「大丈夫じゃありませんっ!」
重華は必至に、晧月を再度寝台に寝かせようとする。
しかし、熱が出ている状態であっても、やはり晧月の方が力が強いのか、寝台から降りるのを引き留めるのが精一杯だった。
ほんの少しでも力を抜けば、晧月はあっという間にこの場を立ち去ってしまいそうで、重華は必死に両腕に力をいれて晧月の腕にしがみつき続ける。
「重華、いいかげんに……っ」
「陛下が教えてくださったんですよ、熱が出ているのは、大丈夫じゃないって」
「それは……」
「陛下がこのまま、政務に向かわれるのであれば、私だって、もう熱が出ても休んだりしませんからっ!!」
これが晧月を引き留めるための、正しい言葉なのか重華はわからなかった。
ただ、優しくて、重華の体調をいつも気遣ってくれる晧月なら、もしかしたら思いとどまってくれるかもしれない、そんな淡い期待を込めた言葉だった。
そして、それは重華の予想以上に効力を発揮してくれたようで、晧月の動きがぴたりと止まり、重華に反発するような力もなくなった。
おかげで、重華は今にも立ち上がろうとする晧月を、寝台に落ち着かせることに成功した。
(まったく、とんでもない脅し文句だな)
そんなことを思われているとは知らない重華は、おとなしくなった晧月を見てほっと息を吐いた。
「今日だけだぞ。明日は政務に向かうからな」
「熱が下がるまでは、駄目ですよ」
「今日休めば、明日には下がってるだろ」
晧月は、珍しく溜まりに溜まって遅れてしまっている山積みの政務を思い、深いため息をつく。
重華の一言さえなければ、今すぐに天藍殿に戻って続きを進めたいところだった。
最近はそれほどやってもやっても追いつかない状況が続いており、わずかな時間も惜しいと思うほどなのだ。
(意地でも今日中に熱を下げないとな)
熱が下がらなければ、重華は明日も政務へは向かわせてくれないだろう。
無理矢理にでもそれを振り切ることはできなくはないが、そうすれば本当に重華も熱が出た時に仕事でもしそうで、晧月はとてもできないと思った。
晧月は再度深いため息をつくと、一刻も早く熱を下げようと自ら寝台に横たわった。
「あ、そうだ。陛下、陛下の看病をする人、私が決めていいそうなんです」
「まぁ、そうなるだろうな」
皇太后の性格を思い返してみても、晧月はこういったことにいちいち口出ししてくるとは思えなかった。
「でも、私、他の方のことはよくわからなくて、陛下はどなたかご希望の方がいらっしゃいますか?」
問われて、晧月はまたため息をついた。
「俺が、他の妃嬪の看病を求めると思うか?おまえ以外は不要だ」
重華はその一言にはっとする。
(そ、そうだった……私以外の方は、皆……)
かつて晧月に聞いた話を、重華は今更ながらに思い出した。
重華以外は、晧月にとって敵対する勢力に属する娘ということになる。
わざわざ体調を崩した時に傍においては、より一層落ち着かないだろうと思った。
同時にそんなことも思い至らないほど、自身は慌てていたのだと思い知る。
(柳太医がいなかったら、今もこんな風には落ち着いていられなかったかも)
馴染みの太医は、いろいろと説明や助言をしながら、重華を気遣って何度も安心させてくれたのだ。
重華がそのことを思い起こしていると、横になっている晧月が強く重華の腕の引いた。
「えっ?」
「勘違いしていそうだから、はっきりと言うが、理由はおまえが俺にとって唯一の寵妃だからだぞ」
その一言で重華の顔は一瞬で朱に染まった。
どうしていいのかわからないとでもいうように、わたわたと慌てふためく様子が、晧月にはかわいらしく映った。
「え、あ、あのっ」
「やはり、先ほどまでは違う想像をしていたようだ」
理由を告げる前と後では、あまりにもその反応が違いすぎた。
今度はしっかりと伝わったのだと確信し、晧月は満足そうな笑みを浮かべる。
「もっとも、おまえも面倒なら戻ってもかまわないぞ。俺は一人でも問題ない」
「そんなことをしたら、きっと陛下は政務に戻ってしまうので、できません」
重華は先ほどまでの、どこか落ち着かないような雰囲気から一転、きっぱりとそう言った。
(よく、わかっているじゃないか)
重華の居ないところでなら、多少は政務を行えるかもしれないという晧月の目論見は外れてしまった。
この様子なら、重華は晧月に張り付くようにずっと傍にいることになるだろうと晧月は思う。
「心配しなくても、今日はおとなしく寝ているさ」
「あ、そうだ、お薬……あ、でも、先に何か召し上がった方が……」
重華は柳太医から預かった薬の存在を思い出した。
そして、すぐに飲ませようとして、柔らかな笑みとともに言われた言葉を思い出す。
『食後に、陛下にお飲みいただいてください』
つまり、先に何か食べてもらわないことには、晧月に薬を飲んでもらうことはできないのだ。
「春燕さんか雪梅さんに、何か食事を……っ」
二人にお願いをすべく立ち上がろうとしたところで、重華はまたしても晧月に強く手を引かれる。
「せっかくだ、おまえが作ってくれないか?」
「へっ!?」
「駄目か?」
「わ、私、その、おやつくらいしか、作ったことないですし……」
重華が作ったことがあるのは、点心と寒天のどちらもお茶のお供にするようなお菓子だけ。
まともな食事を作った経験など、全くないのだ。
けれど、いつもよりもどこか弱々しい晧月に見つめられると、なんとか要望を叶えたいという気持ちが重華の中に湧き上がってくる。
「お二人に、その……私でも作れるものがあるか、聞いてきます……っ」
ぱたぱたと音を立てて走り去った重華の後ろ姿を見て、晧月は満足そうに笑った。
だが、それもほんのわずかのことだった。
晧月はすぐさま、宦官は中へと呼び入れとある指示を出す。
今度は足早に立ち去った宦官を見送って、ふっと息を吐いた。
突如、つきんと頭に痛みを感じ、晧月は顔を顰めながら自身の頭に手をあてる。
(倒れている場合では、ないんだがな……)
自身の身体も、政務も、なかなか思うようにいかないことに、晧月中にただただ焦りと苛立ちが募っていた。
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