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72. 不穏
しおりを挟む絵を描きに出たはずの重華が、思いのほか早く戻ってきた。
何かを描いてきたような様子はなく、今は自室に籠ってしまっている。
晧月は琥珀宮を訪れるや否や、雪梅からそんな報告を受けた。
「何かあったのか?」
そう問いかけてみても、重華から返答は得られない。
「どこか、具合でも悪いのか?」
心なしか顔色が悪いような気もして、そう問いかけてみれば緩く首を振った。
うつろな目をしているものの、声は届いているようだ、それだけが晧月が得ることができたものだった。
「茶は、飲まないのか?」
重華と晧月の目の前には、雪梅が用意したお茶が置かれている。
晧月は先にそれを手にしながら、重華にも薦めるように声をかけたが、重華はやはり無反応だった。
「何か、甘いものでも、用意させるか?」
やはり、反応は全くない。
晧月はふぅっとため息をついた。
「俺とは今、話したくないのか?」
できれば頷いて欲しくない、そんな思いを抱えながら晧月は問うた。
すると重華はぴくりと肩を揺らした。
だが、頷かれるようなことはなかった。
(さて、どうするか)
頷かれなかったことで、会話は続けてもよいと晧月は判断した。
とはいえ、こうも無反応が続くと、いったい何があったのか察するに至るのは至難の業かもしれない。
晧月がそんなことを考え始めた時だった。
「わ、私っ、陛下以外の方の妃になりたくありませんっ」
「あ、ああ……心配しなくとも、そんな予定は、まったくないが」
すごい剣幕と勢いに、晧月は押されるかのように思わず少し身を引いた。
(いったい、何がどうなってそんな話が出てくるんだ?)
晧月は確かに重華を皇后にしたいと告げたはずである。
そう考えている妃を、他の者へと下賜することなどありえない。
そもそも、下賜することができるということを、重華が知っているとも思えなかった。
「また、舜永か?今度は何を聞いた?」
春燕と雪梅がこういった話をするとは思えないし、2人からの話であれば重華が晧月以外の者の妃となる可能性を考えるような話が出るはずもない。
そこで、真っ先に浮かんだのが、今日呼び出していた舜永だった。
(やはり、重華とこれ以上は接触するなと、釘を刺しておくべきか)
こうも次から次へと重華を落ち込ませるようなことばかりされては、たまったものではない。
どう伝えれば舜永が諦めるか、そんなことに晧月が考えを巡らせる一方で、重華はようやくぽつりぽつりと言葉を発し始めた。
「舜永様に、舜永様の妃になるように、と……」
「あいつ、何を考えて……っ」
晧月もまた、重華がその言葉を舜永から聞いた時と同様に、怒りに震えた。
(重華を使って、丞相を取り込もうとしているのか?)
重華はおそらく、舜永が当初予想していただろう寵妃の姿と、かけ離れていただろう。
ならば、思っていたよりも取り込みやすそうな娘だ、そう舜永が考えた可能性は十分にある、晧月はそう思った。
「安心しろ、舜永にはしっかりと罰を与えて……」
「だめ、です……」
重華は嫌だ、とでも言うように首を振る。
まるで舜永を庇っているかのような態度に思えて、晧月の機嫌は急下降した。
「なぜ、止める?」
先ほどよりも低くなった声に震えながらも、重華は必至に先ほど舜永が話していたことを伝えた。
舜永が言ったことを、証明できる方法がないこと。
重華と舜永が違うことを言えば、誰もが舜永を信じるだろうこと。
「俺は、舜永よりも、重華を信じる」
重華は目を見開いた。
その言葉はもちろん、重華にとって喜ばしい言葉だった。
けれども、今の重華はそれを手放しで喜ぶことなどできない。
(でも、それだと駄目……)
何が駄目なのか、重華ははっきりと理解できていない。
けれど、舜永の言葉を思い返すと、とてもよくないことが起きるような気がしてならなかったのだ。
「それだと、駄目なんです……」
「大丈夫だ。何も心配はいらない。あとは俺が対処する」
「で、でもっ」
「俺はおまえを信じる。だから、おまえも俺を信じて待っていろ」
そう言われてしまえば、重華には晧月を信じるという選択肢しかなくなってしまう。
正直、舜永のことを思い出せば不安は尽きなかったけれど、結局重華は晧月の言葉に頷いた。
よく話してくれたと満足そうな笑みを浮かべると、晧月はその日は早々に立ち去ってしまった。
それから何か起きるのではないか、と重華は毎日ただただ心配だったけれど、数日のうちは何事もなく、舜永の姿を見ることもない、ただ穏やかな日々が続いた。
だが、それもほんの数日のことでしかなく、数日が過ぎればその穏やかな日々が徐々に崩れていった。
最初に変化があったのは、晧月の訪れだった。
「へ、陛下!?」
基本的にいつも日中に訪れていた晧月が、連日、夜遅くに訪れた。
その様子は、非常に疲れ切っていて、顔色もよくなかった。
「中で、お休みになりますか?」
「いや、いい。どうしても、顔が見たかっただけなんだ」
もう寝ていてもおかしくないような時間に訪れ、ほんのわずかな時間、重華の顔を見ては、すぐに立ち去ってしまう。
春燕と雪梅の話によれば、最近は非常に政務が忙しいようだ、とのことであったが詳細は二人でさえも把握していないのだという。
疲れているのならば、無理して来なくてよい、重華は何度も訴えてみたが聞き入れてもらえなかった。
一目でいいから、顔が見たい、そう言われてしまうと、重華はそれ以上何も言えなくなってしまったのだ。
そんな日々が数日ほど続いた後、次に変化があったのは、晧月の体調だった。
連日の様子から、重華も今にも倒れてしまうのではないかと心配はしていた。
そして、その心配が現実となってしまったのだ。
「陛下が、お倒れに!?」
それを重華の元へと告げに来たのは、皇帝付きの宦官であった。
「陛下の意識は、まだ戻っておりません。どなたが付き添い看病なさるか、お決めになる権限は、皇太后陛下、もしくは後宮指南役である珠妃様にあります」
「へっ!?」
晧月の体調を心配する一方で、自身にそんな権限があるとは思いもよらなかった重華は驚きを隠せない。
正直他の妃嬪と交流のない重華が、誰がよいかなんてわかるはずもない。
「こ、皇太后陛下は、何と……?」
「珠妃様に全て一任すると」
全て決めてくれたらよかったのに、重華はそう思わずにはいられなかった。
「と、とりあえず、私が伺います。他の方については、その、陛下がお目覚めになられたら、陛下の御意見をお聞きしてからに……」
きっとすぐに目を覚ましてくれるはず。
そうしたら、晧月が最も望む人にお願いしよう、重華はそう考えた。
「かしこまりました。では、ご案内します」
宦官はそう言うと、一礼をする。
それを聞いて、重華はすぐに後ろを振り返った。
「お二人も一緒に、来てもらえますか?」
重華一人では、正直何をしていいかわからずおろおろとして終わってしまいそうだった。
一方で、重華が体調を崩すたびに看病してくれている春燕と雪梅がいれば、非常に心強い。
2人とも、とも二つ返事で応じてくれて、重華はほっと胸を撫でおろす。
(陛下、どうかご無事でありますように)
倒れたということ以外、何も聞かされていない。
不安は尽きなかったけれど、晧月ならきっと大丈夫だと重華は何度もそう自分に言い聞かせながら、春燕と雪梅ともに、晧月のいる月長宮へと急いだ。
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