「冷酷で理屈っぽい」と捨てられましたが、この国を影から支えていたの、実は私なんです

水上

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第1話:そのドレスの破れ目は、物理的に必然です

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 パーティー会場は、まるで加熱によって分子運動が激化した気体のようだった。

 この世のあらゆる現象は、流動と変形、すなわちレオロジーで説明がつく。
 人の感情という不安定な流体を除けば、世界は完璧な物理法則によって支配されているのだ。

「ヴィオラ・マクスウェル! 貴様との婚約を、今ここで破棄する!」

 その法則を乱すヒステリックな衝撃波が、会場の空気を震わせた。

 音楽が止まる。
 視線という名の圧力ベクトルが、一点に集中する。

 声の主は、壇上に立つ金髪の青年――私の婚約者であり、この国の王太子であるフレデリック殿下だった。

 その隣には、ブロンドの巻き髪をした小柄な令嬢、アリス・メルヴィル男爵令嬢が涙ながらに寄り添っている。

 私はため息を一つ、層流のように静かに吐き出した。
 中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。

 予測されていた事態だ。
 最近の殿下の行動パターン、アリス嬢への接触頻度、そして私への冷淡な態度。

「……理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」

 私は冷静に、壇上の前へと進み出た。

「理由だと? よくもぬけぬけと! アリスのこの姿を見ても、しらばっくれるつもりか!」

 殿下がアリス嬢の肩を抱き寄せる。

 彼女が着ているのは、流行のパステルブルーのドレスだ。
 しかし、その背中の部分が大きく裂け、無残に肌が露出していた。

「ひどいです、ヴィオラ様……。私が殿下と親しくしているのが気に入らないからって、すれ違いざまにドレスを引っ張って引き裂くなんて……」

 会場から非難のざわめきが起こる。

「嫉妬に狂ったのか」

「やはりマクスウェル家の氷の令嬢は恐ろしい」
 
 といった声が、ノイズのように耳障りに響く。

「アリスは心優しい女性だ。それを貴様は……、公衆の面前でこのような恥をかかせるとは!」

 殿下の演説は熱を帯びていく。

 私は静かに移動して、アリス嬢の背中――その裂けたドレスの断面へと視線を固定した。

「失礼ですが、訂正させていただいてもよろしいでしょうか」

「なんだ? 見苦しい言い訳など聞きたくもないが」

「言い訳ではありません。事実の確認、すなわち物理現象の検証です」

 私はアリス嬢に一歩近づいた。

「アリス様。貴女は、私が『すれ違いざまに引っ張った』と仰いましたね?」

「そ、そうよ! いきなり強い力でグイッて……!」

「なるほど。瞬間的な外力による脆性破壊と主張されるわけですね」

 私は眼鏡の位置を直し、淡々と告げた。

「ですが、その裂け目の断面を見る限り、それは物理的に不可能です」

 会場が静まり返る。

「もし私が手で引き裂いたのなら、繊維の断面は不揃いに毛羽立ち、瞬間的な力による変形の痕跡が残るはずです。しかし、貴女のドレスの裂け目はどうでしょう? 繊維の一本一本が引き伸ばされ、細くなってから切れています」

 私は周囲の貴族たちにも聞こえるよう、少しだけ声を張った。

「これはクリープ現象による破断です」

 アリス嬢がポカンと口を開ける。

「一定の温度と荷重のもとで、物体が時間の経過とともに変形していく現象のことです。つまり、そのドレスは一瞬の力で破れたのではありません。長時間、許容限界を超える張力がかかり続けた結果、繊維が徐々に伸びて、ついには耐えきれずに弾けたのです」

 私はアリス嬢の、少しふっくらとした腹部と二の腕に視線を滑らせた。

「結論を申し上げますと、そのドレスは貴女の体型に対してサイズが小さすぎました。無理やり体を押し込んで長時間着用していたために、内側からの圧力に生地が負けた。……端的に言えば、お太りになられたのでは?」

「ぶっ……!」

 会場のどこかから、吹き出すような音が聞こえた。
 アリス嬢の顔が、真っ赤に染まっていく。

「ち、違っ……、私は、そんな……!」

「嘘だと思うなら、その生地を顕微鏡で解析しましょうか? 応力緩和のデータと照らし合わせれば、私の無実は証明できますが」

 そこまで言うと、アリス嬢は「ひどいっ!」と叫んで泣き崩れた。

「き、貴様ッ……!」

 フレデリック殿下が顔を歪め、私を睨みつけた。

「アリスを侮辱するのか! 理屈を並べ立てて、女性を泣かせて楽しいか! なんて可愛げがないんだ!」

 殿下はさらに続ける。

「君のような冷酷で理屈っぽい女は、王太子の妻にはふさわしくない! 婚約は破棄だ! そして、追放処分とする!」

 殿下の宣言が響き渡る。
 それは本来、絶望的な宣告のはずだった。

 しかし不思議なことに、私の心に広がったのは、粘度の低い水がさらさらと流れるような、清々しい解放感だった。

 これまで、王太子の婚約者としてどれだけの時間を浪費してきただろう。
 それら全てから、解放される?

「……承知いたしました」

 私は深々とカーテシーをした。

「謹んで、その処分をお受けいたします」

 私は踵を返した。
 会場を後にする私の足取りは軽かった。

 これからは、自由なのだから。

     *

 騒動から数時間後、フレデリック殿下は、苛立ちを隠せずにいた。

「あの女……、最後まで偉そうに!」

 怒りに任せて、近くにあった執務用の予備デスクから羽ペンを乱暴に掴み取る。
 事務仕事を片付けようとした、その時だった。

 ペン先から、黒いインクが大きな雫となって垂れた。
 それは彼の真っ白な手袋に染み込み、さらに書きかけの書類を汚く塗りつぶした。

「なっ……、なんだこれは!?」

 インク壺を確認すると、中のインクは普段よりも粘度が低く、シャバシャバになっていた。

「おい、誰だ! インクの管理はどうなっている! こんな不良品をよこして!」

 彼は知らなかった。

 この国の気候は湿度の変動が激しく、季節や天候に合わせてインクの増粘剤を微調整しなければ、すぐに使い物にならなくなることを。

 そしてそれを、毎朝の公務が始まる前に、ヴィオラが人知れず調整していたことを。

 インクは不快な染みとなって殿下の手を汚していた。
 それはまるで、これから彼に降りかかる、ドロドロとした崩壊の序章のようだった。
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