断罪されていたはずなのですが、成り行きで辺境伯様に連れ去られた結果……。

水上

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第38話:暴徒の正義と扁桃体のハイジャック

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 ローズ伯爵邸の正門前は、異様な轟音に包まれていた。

 それは風の音ではない。
 松明と農具を手にした数百人の領民たちが、怒号を上げながら屋敷を取り囲んでいる音だった。

「ローズ伯爵を出せ!」

「俺たちの金を返せ! 隠し持っていた食料をよこせ!」

「魔女イザベラを引き渡せ!」

 これまでの圧政と飢餓、そして今日暴かれた不正の数々。
 限界を超えた民衆の怒りは、もはや近衛騎士たちの制止も振り切り、暴動寸前の状態にあった。

 屋敷の玄関ホール。
 騎士たちに両脇を抱えられ、連行されようとしていたイザベラは、外の騒ぎを聞いて足を止めた。
 その瞳に、狂気じみた光が宿る。

「……あは。みんな、私を呼んでいるわ」

「イザベラ! 大人しくしろ!」

 騎士が叱責するが、イザベラは突然、隠し持っていたヘアピンで騎士の手を突き刺した。

「ぐあっ!?」

「どきなさいよ! 私はまだ終わっていない!」

 拘束を解いたイザベラは、なんと自ら玄関の扉を押し開け、暴徒たちの前へと躍り出た。
 ボロボロのドレス、乱れた髪。
 その姿を見た領民たちが、一瞬どよめく。

「イザベラだ!」

「あいつが俺たちを騙して……!」

 殺気立つ群衆。
 石が投げられようとしたその瞬間、イザベラは絶叫した。

「助けて! 殺されるわ! この王都の人間たちに、私と父様は殺されるのよ!」

 彼女は涙を流し、屋敷の中にいるアルヴィスや騎士たちを指差した。

「聞いて! 横領なんて嘘よ! あれは全部、王家がこの領地を乗っ取るために仕組んだ罠なの! 彼らは私たち貴族だけでなく、あなたたちの土地も、家も、全て奪い尽くすつもりよ!」

 荒唐無稽な嘘だった。
 だが、彼女の声には死に物狂いの悲壮感があった。

「私は抵抗したわ! だから魔女扱いされたの! 彼らは『汚い領民ごと焼き払え』と言っていたわ! ねえ、このまま殺されていいの!? よそ者に全てを奪われていいの!?」

 群衆の空気が凍りついた。

 領主への怒りが、外部からの侵略者への恐怖へとすり替えられる。
 飢えと不安で極限状態にある彼らの脳は、複雑な真実よりも、単純で刺激的な敵を求めていた。

「……焼き払うだと?」

「ふざけるな! 俺たちの村だぞ!」

「王都の騎士を殺せ! 辺境伯を殺せ!」

 怒りの矛先が、イザベラから屋敷全体、そしてアルヴィスたちへと向き直る。
 イザベラは歪んだ笑みを浮かべた。

 (ええ、そうよ。私が地獄に落ちるなら、全員道連れよ。混沌の中でなら、私だけ逃げられるかもしれない)

 屋敷の中からその光景を見ていたリリアは、震え上がった。

「あ、アルヴィス様……! 民衆が、こちらへ向かってきます!」

 バリケードが破られ、暴徒たちが雪崩れ込んでくる。
 アルヴィスは舌打ちをし、リリアを自分の背後に庇った。

「……最悪の展開だ。イザベラめ、最後の最後にトドメの毒を撒いたか」

「ど、どうしましょう。彼らに真実を説明しないと……!」

「無駄だ、リリア。今の彼らに言葉は通じない」

 アルヴィスは、殺意に満ちた群衆の目を冷徹に観察した。

「彼らの脳は今、完全に扁桃体のハイジャックを起こしている」

「へんとうたい……?」

「脳の大脳辺縁系にある扁桃体は、闘争か逃走か、という原始的な感情を司る部位だ。強烈な怒りや恐怖を感じると、この扁桃体が暴走し、理性を司る前頭葉(司令塔)の機能を乗っ取ってしまう。これを情動のショートと呼ぶ」

 アルヴィスは、松明を振り回して叫ぶ男を指差した。

「見ろ。あの男の目は焦点が合っていない。IQが一時的に著しく低下し、論理的思考が停止している状態だ。今の彼らは人間ではない。外部刺激(イザベラの扇動)に反応して破壊衝動を撒き散らす、巨大な一つのアメーバ(単細胞生物)だ」

 近衛騎士たちが剣を抜く。

「暴徒鎮圧! 構えろ!」

「待て! 抜刀するな!」

 アルヴィスが鋭く制止した。

「血を見せれば、さらに扁桃体を刺激するだけだ! 興奮の連鎖が起きて、虐殺になるぞ!」

 しかし、遅かった。
 興奮した一人の暴徒が、騎士に殴りかかったのだ。  
 それをきっかけに、屋敷の玄関ホールは修羅場と化した。

「殺せぇぇ!」

「貴族を皆殺しにしろ!」

 群衆の波が押し寄せる。
 リリアは足がすくんで動けない。
 目の前に、鍬を振り上げた男が迫る。

「リリア!」

 アルヴィスがリリアを抱きかかえ、横へと転がった。
 床板が砕ける音がする。

「はぁ、はぁ……。アルヴィス様、お怪我は!?」

「……白衣が汚れただけだ」

 アルヴィスはすぐに立ち上がり、リリアを守るように仁王立ちになった。
 しかし、その額には脂汗が滲んでいる。

 多勢に無勢。
 論理の通じない数百人の暴徒を前に、彼も防戦一方だった。

 イザベラは混乱に乗じて、裏口の方へと逃げようとしている。

「あはは! 馬鹿な人たち! 潰し合いなさい!」

 このままでは全滅する。

「そろそろ、来るはずなんだが……」

「え?」

「扁桃体の暴走を止めるには、強烈な物理的ショックで脳をリセット(冷却)するしかない」

 アルヴィスの眼鏡が、冷たく光った。

 暴徒の正義という名の集団狂気。
 それを止めるため、アルヴィスはあるものを待ち続けていた。
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