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しおりを挟む新しいお屋敷には下女という役職はないのだと言う。数代前の女性当主が撤廃したのだとか。侍女、メイド、メイド見習い、メイド補佐があり、手腕が認められれば身分に関係なく昇格できる。当然給料も上がる。
その説明にジルは驚いて口を半開きにした。前の屋敷では何年働いても賃金が上がることなどなかった。役職が上がることなど夢のまた夢。
どんな人間も基本的に生まれ持った身分相応の価値しかなく、その壁を飛び越えられるのは幸運を手にしたひと握り。そのひと握りでさえ、得たものを抱えきれずに潰れてしまう。そういうものなのだと、それが絶対的な法則なのだとジルは疑いもしなかった。
「一度に大量に得るから重さに耐えられなくなるのだ」
つい数時間前までジルが働いてた屋敷の亡き奥様の弟君───ジルの新たな主は嘆息した。
「勉強であれ、仕事であれ、初めから難易度の高いものを一気に教わったりしないだろう。難易度の低いものから始め、成長に合わせて難易度を段階的に上げていく。賃金も役職も同じだ。出来ることが増えるのに合わせて適切に上がっていくのは当然のこと」
玉の輿に乗った誰かさんが不安で押し潰されたのは当然なのだ。それに見合った成長をしていない、ただそれだけ。
「生まれが尊くても中身が伴わなくては、どのみち破滅する」
淡々と吐かれた言葉は予言だったのかもしれない。一年後、ジルが以前働いていた屋敷は無人となっていた。後妻が見える形での愛を求め、夫は求められるまま資金を湯水のように使い果たし破産したらしい。それまで決して多くない家の資金をやり繰りし、貴族らしい生活が出来るように苦心していたのは一体誰だったのか。内助の功の重要性を説く見本のようだ。
「私の姉は、あの男には勿体無い妻だった」
裏で手を回さなくても、遅かれ早かれ自滅する運命だったと、ジルの主は仄暗い笑みを浮かべていた。
身の丈というものは、身の状態に合わせて良くも悪くも変化するものである。ジルはそのように学びを得た気分で手元の新聞を読んでいた。あれから半年、いや、一年程経っただろうか。例の没落貴族夫妻が、収入もないのに生活水準を下げることもできず、借金で首が回らなくなった挙句、違法取引に加担して逮捕されたというニュースを新聞で目にした。
一方のジルは18歳。目の前のことをコツコツとこなしているうちに、何故かメイド補佐から主の執務補佐になっていた。解せぬ。計算が早いことと、整理整頓が得意なことを主に知られた結果とはいえ、他に適任者がいただろうと大声で叫びたい。これが現在の身の丈に合った仕事なのだろうか。自身を客観的に見ることが不得手なジルにはわからない。わからないが、困ったことに仕事は楽しい。
他に困っていることと言えば、庭師の男性に求婚されたことだろう。庭師はジルに恋をしているのだという。返事を保留にしているのにも関わらず、毎日花を贈られ、屋敷内でかなり話題になっている。
花は嬉しい。ただ、いい加減飾る場所に困るのでやめて欲しいとはお願いしているが、聞き届けて貰えない。
彼が平民だとか貴族だとかは関係ない。彼の明るい人柄には好感がもてる。
ただ、ジルは恋というものがわからない。
玉の輿に乗った元同僚は恋をしていたのだろうか。それとも打算だったのだろうか。
恋は燃え上がる炎のようだと聞いたことがある。最高潮まで燃え盛ったら、後は勢いを失うだけ。消えずに火種が残るか、一瞬にして消えるか。灰だけが残ったら、その時2人はどうなるのだろう。
打算は欲だ。身の丈に合った欲だったとしても、身の丈が変われば状況も変わり、過去の打算など意味をなさなくなる。恋よりもわかりやすく一過性ではないだろうか。
国の定める国教では、離縁というものは基本的に認められていない。特に女性側からの離縁などとんでもないという風潮が強い。だからこそ慎重になるのは当然なのだが、基本的に余程の理由がない限り、女性が求婚を断るのは非常識だと非難を浴びる。───困ったところでジルには最初から逃げ場などない。潮時であり、これがジルの生き方相応の墓場なのかもしれない。
「執務室に贈り物の花を飾るとは。とうとう話す気になったか?───庭師のハロルドと結婚するんだろう?」
主の言葉に、ジルは明確な拒絶を覚え、唇を引き結んだ。
結婚後も屋敷勤めはして構わないと、求婚者は言う。しかし、今のように執務補佐は出来ないだろう。パートナー同伴必須のパーティがある時には、他ならぬジルが同伴者として主と参加していた。もちろん仕事の一環として、ドレスなどは主からの支給品だった。名前を聞かれても、ただの補佐官ですとだけ答え、主に付き従っていただけだが…。本来は恋人や夫人を同伴するものであり、ジルが既婚者となれば不貞を疑う声は必ず挙がる。
まだ、今の仕事を満足にやり遂げていない。領地の治水工事の件も気になる、主が手がける新規店舗の行く末も気になる。他にもまだ見届けたい案件がたくさんある。
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