ジルの身の丈

ひづき

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 ジルはこれと言って特筆すべき長所も外見もしていない平凡な少女だ。7歳の頃から貴族の屋敷で下働きをしている。

 働き始めて最初に徹底して教育されたのは、下賎な生まれの人間はお貴族様のお目汚しにならぬよう行動することだ。ようは、絶対に屋敷の主である貴族の前に姿を現さず、影で働けと。玉の輿に憧れなかったといえば嘘になるが、貴族に姿を視認されただけで上司から叱責が飛ぶのに、一体どうやったら恋に落ちる瞬間など来るのか。無理じゃん。

 淡々と仕事さえしていれば、雨風が凌げて、食事にも困らない。これが自分に見合った、相応の幸せというものなのだと、ジルは納得していたし、満たされていた。



 ところが、だ。

 同僚が屋敷の旦那様と恋に落ちた。



 え、いつ?どうやって?どうしてそうなった?

 しかも2人の年齢差、およそ20歳。恐らく親より年上。しかも既婚者。繰り返すが、相手は既婚者。他人の手垢がみっちりついた男になどジルは微塵も興味が湧かないし、むしろ無理、気持ち悪いって思う。

 そりゃ、奥様、大激怒で。怒った拍子に倒れたらしい。騒ぎを聞いたところでジルに何もできることはなかったため、夜勤に備えて自室で寝て、起きたら訃報。信じられない!怒った拍子に奥様は頭の血管が切れて亡くなったそうだ。お陰で葬儀の準備で忙殺されるはめになった。

 旦那様は妻の葬儀が終わるなり、喪が明けぬうちに同僚を後妻に迎えた。最低な野郎だと思うし、それで喜んでホイホイと後妻に収まる女も気味が悪い。とはいえ、ジルは普段通り仕事をこなすだけだ。それはもう淡々と。今まで通り衣食住が保証されて、ジルに危害を加えないなら構わない。興味もない。

 ところがどっこい。使用人の采配とか、待遇の決定とかは内助の功、つまり奥様に決定権があって。今の奥様は元同僚、浮気相手だった下女なわけで。最初は良かったが、玉の輿に乗った彼女は次第におかしくなった。自分と浮気していた時のように、他の下女やメイドと夫が浮気するのではと気が気でなくなり。

 ジルを含めた年頃の娘たちは、ある日突然一斉に解雇されて屋敷を追い出された。

 これには途方に暮れるしかない。

 ジルは困り果てた。

 長年貴族の屋敷に勤めていた経歴があるからこそ、紹介状もなしに次の勤め先を探せば何らかのワケあり───例えば窃盗などの軽犯罪を犯したが事を荒立てたくないために解雇された───などと解釈され、まともな職場では雇って貰えない。誰だって爆弾は抱えたくないものだ。

 大きな荷物を抱え、諦めて散り散りになっていく元同僚を尻目に、ジルは呆然と屋敷の裏口に立ち尽くしていた。門番は気の毒そうな顔をしつつも、決してジルを見ようとはしない。

 やはり、玉の輿なんて身の丈に合わない幸運は、不安と疑心暗鬼という化け物を連れて来るのだ。己の価値観を裏打ちする証拠を得られたという意味では大変良い教訓になった。

「そこの君」

 顔と体つきを隠すように、シルクハットとコートを身につけた男に声をかけられ、ジルは振り向いた。不審者か、人身売買斡旋業者かと身構えたのは一瞬で。その男性の口元には見覚えがあった。

 亡き奥様の、年の離れた末の弟君だ。昔からよく奥様を訪ねてきていた。葬儀の準備中、旦那様と口論する姿を何度か見かけた。

「私の屋敷に来ないか」

 何故私なのだろう。不審に思い、周囲を見回せば、ジルしかその場に残っていなかった。今回ジルと共に解雇された人間は20人以上いたはずだが、それぞれ何だかんだいって頼れる実家や行く宛てがあったのかもしれない。ジルだけが動かぬまま立ち尽くしていた。

 ジルに行く宛などない。幼い頃に家出した実家など覚えてもいない。当時のジルが欲したのは、最低限の食事、凍えずに済む寝床。それは今も変わらない。最低限の衣食住さえあれば、ジルの願いは叶う。求めているのは身の丈に合った幸福。

「解雇理由は知っている。私の屋敷なら紹介状など不要だ」

 話を聞くと今回解雇された人間たちに就職先を斡旋するつもりで待ち構えていたらしい。思いのほか、皆が迷いなく散っていったので要らぬ心配だったかと思いきや、取り残されたジルが目に入ったと彼は説明する。

 姉の後釜に収まった、姉の死の要因ともいうべき女の尻拭いを、何故彼がするのか。腑に落ちず、ジルは訝るばかり。

 上手い話には裏があるというではないか。これほど怪しい勧誘もない。

「亡き姉から、自分に万が一のことがあれば屋敷の従業員達を頼むと生前から言われていた。あの旦那は従業員を労る姉を見下し、バカにしていたからな。遅かれ早かれ従業員が大量に解雇されるだろうことは予想がついていたんだよ。クズな元旦那の所業であれ、他人の亭主を盗む尻軽女の所業であれ、姉が大事にしてきた人達を助けるのは当たり前のことだ」

 偽善ではなく、弔いの一種だということか。約束を破ったところで死者にそれを知る術はない。誰も責めやしない。それどころか、嫁いだ姉が亡くなった時点で、かの家とは縁が切れたも同然だろう。律儀な人だ。


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