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第一章
2 春明先生
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婆やはやたらと張り切って、小蘭を着せ替え人形に仕立て上げた。
「いいですか小蘭様、絶対に気に入られて戻ってくるのですよ。ああ、これで我が国はますます安泰。お国のお父上様も鼻高々というものです」
(果たして……そんなものかしら)
絢爛な模様の絹の衣装、精緻な銀の重たげな髪飾り。念入りに着飾らされた小蘭は、夕刻になると宦官達に引き渡された。
「ああ、我が姫様のなんと美しいことか」
別れ際、感極まって泣き出した婆やには「じゃあ、ちょっといってきま~す」と手を振り、空元気で出てきたものの。
「……ここは本当に閨なのですか」
連れてこられた部屋を見、ぎゅっと眉間にしわを寄せた。そこは、壁にヒビの入った真っ白い部屋だった。
真ん中に、白い布の掛けられた寝台がぽつんと置かれた、あまりに無駄のない息苦しい部屋。
迎えに来たのは雲流という宦官だ。意地が悪くて皆からは蛇蠍のように嫌われている。
ふたりきりで部屋に入ると、雲流は薄気味悪い笑いを浮かべている。
「いいや違う、ここは検品室さね。小娘が我らの皇帝に献上するのに相応しいかを確かめるための部屋さ。この俺が! ヒヒヒッ」
「!」
言うや否や雲流は、常ならぬ速さで小蘭の後ろを取ると、羽交いにした。
「ちょっと何するの?! せっかくの着付けが崩れちゃうじゃない!」
「暴れるんじゃないクソガキが。いいんだよ、こんなもの。どうせ着ていけやしないんだ」
「嘘ばっかり! 皆にやってもらったのよ? あんた、こんな事してただで済むと思ってるの?」
しかし雲流は、小蘭をいっこうに腕を緩めない。
「なあんだお前、何も分かっちゃねえんだなあ。その皇帝から頼まれてやってんだよ、俺は」
(――嘘よ、そんなわけ、ない!)
「この……!」
小蘭は、首に巻きつく嗄れた手に、思いっきり噛みついた。
「うあっ、い、痛えぇーっ」
堪えられず小蘭を突き飛ばす雲流。
「ごほっ、……ごほっ」
咳き込みながら体勢を戻そうとしている小蘭を、雲流は歪んだ顔で睨みつけ、杖を強く握りしめた。
――刹那。
「止めなさい」
静かだが、しかし厳しい声が響き渡った。
ギクリとして、雲流が手を止める。
「春明先生!」
その隙に小蘭は彼の腕を振り払い、戸口に立っているその男性に駆け寄った。
「雲流、何をしていた?」
「あ、アタシはその娘を帝にお連れするように言われて……その……準備をお手伝いしようかと」
「へえ……、そうかい、私にはそんな風には見えなかったが」
卑屈に笑い、手を擦り合わせている雲流に近づくと、春明は腰をかがめて雲流の耳に囁いた。
「さあ、ここからそっと出てお行き。次にまた妃に同じことをしたら――皇后様にご報告しなくてはならないよ?」
春明は体勢を戻すと、雲流の背を軽く押した。
「さあ雲流」
雲流は、ちらちらと春明を振り返りながら、部屋の戸口から出ていった。
「さあ、もう大丈夫。怖かったでしょう」
「ありがとう、先生」
「いいや、当然のことだよ」
春明は寝台に小蘭を座らせ、その隣に腰かけた。
春明先生は雲流と同じ宦官だが、全然違っている。背が高く、いつも綺麗に背中を伸ばして美しい姿勢を保っている。腰まで垂らした薄茶の髪に色白の細面は、どこか女性のような柔らかさを帯びている。
後宮で医者は春明先生ひとりしかいない。
だから皆、自然と「先生」と呼ぶ――小蘭には、それが少し誇らしかった。
それから、春明は詩歌の講義もしてくれる。その澄んだ声を聞くのが、小蘭は大好きだった。
雲流が言ってたことは、残念ながら半分本当だった。
皇帝の相手に選ばれた妃は、健康の状態や伝染する病気を持っていないかなど、あれこれ検査された末に、ようやく差し出されるのだという。
せめてもの救いは、そのお役目は、春明先生が担っているということだ。もし、雲流のようなヤツだったら、吐いてしまう。
婆やたちが着せてくれた一張羅は、やはり脱がされてしまった。
「あの御方は敵が多いから。妃達が、きらびやかな衣装の中に懐剣でも忍ばせてやしないかと、不安なのだよ」
――私は人質の妃。それくらい、分かってはいたつもりだった。でも……。
「ねえ、先生」
「なに?」
「私、本当はとても怖いの。今の皇帝は、たくさんの命を戦で奪った恐ろしい人だと聞いているわ」
「……」
「先生、教えて。私、これからどうなるの?」
「小蘭」
春明は、静かな声で名を呼ぶと、小蘭の片手を優しく握った。
「小蘭、よく聞いて。お前は、勉強は嫌いだが賢い娘だ。故郷の民たちのことをきちんと考えることができる。いいかい? あのお方に何をされようとも、逆らってはいけないよ。……すまないね。私の立場では、それくらいしか言えない」
小さな溜め息をひとつ。
春明先生は、いつだって優しい。
いつしか小蘭は、小さな嗚咽とともに、声を出して泣いていた。
「ねえ先生、いつも先生が聞かせてくれた物語みたいな……恋や、愛っていうの。そういうの、私もしてみたかった」
「……」
それからは押し黙ったまま、診察を終えた春明は、小蘭の着衣を元に戻し、薄布を丁寧に畳んだ。
白く細い手を差し伸べ、小蘭をそっと引き起こす。
「あの御方も罪なことをなさる。まだ蕾にもならぬ花を、わざわざ手折ることもあるまいに」
(でも――助けてくれるわけでは、ないのだわ)
小蘭が流した一筋の涙を、春明はそっと拭った。
「いいですか小蘭様、絶対に気に入られて戻ってくるのですよ。ああ、これで我が国はますます安泰。お国のお父上様も鼻高々というものです」
(果たして……そんなものかしら)
絢爛な模様の絹の衣装、精緻な銀の重たげな髪飾り。念入りに着飾らされた小蘭は、夕刻になると宦官達に引き渡された。
「ああ、我が姫様のなんと美しいことか」
別れ際、感極まって泣き出した婆やには「じゃあ、ちょっといってきま~す」と手を振り、空元気で出てきたものの。
「……ここは本当に閨なのですか」
連れてこられた部屋を見、ぎゅっと眉間にしわを寄せた。そこは、壁にヒビの入った真っ白い部屋だった。
真ん中に、白い布の掛けられた寝台がぽつんと置かれた、あまりに無駄のない息苦しい部屋。
迎えに来たのは雲流という宦官だ。意地が悪くて皆からは蛇蠍のように嫌われている。
ふたりきりで部屋に入ると、雲流は薄気味悪い笑いを浮かべている。
「いいや違う、ここは検品室さね。小娘が我らの皇帝に献上するのに相応しいかを確かめるための部屋さ。この俺が! ヒヒヒッ」
「!」
言うや否や雲流は、常ならぬ速さで小蘭の後ろを取ると、羽交いにした。
「ちょっと何するの?! せっかくの着付けが崩れちゃうじゃない!」
「暴れるんじゃないクソガキが。いいんだよ、こんなもの。どうせ着ていけやしないんだ」
「嘘ばっかり! 皆にやってもらったのよ? あんた、こんな事してただで済むと思ってるの?」
しかし雲流は、小蘭をいっこうに腕を緩めない。
「なあんだお前、何も分かっちゃねえんだなあ。その皇帝から頼まれてやってんだよ、俺は」
(――嘘よ、そんなわけ、ない!)
「この……!」
小蘭は、首に巻きつく嗄れた手に、思いっきり噛みついた。
「うあっ、い、痛えぇーっ」
堪えられず小蘭を突き飛ばす雲流。
「ごほっ、……ごほっ」
咳き込みながら体勢を戻そうとしている小蘭を、雲流は歪んだ顔で睨みつけ、杖を強く握りしめた。
――刹那。
「止めなさい」
静かだが、しかし厳しい声が響き渡った。
ギクリとして、雲流が手を止める。
「春明先生!」
その隙に小蘭は彼の腕を振り払い、戸口に立っているその男性に駆け寄った。
「雲流、何をしていた?」
「あ、アタシはその娘を帝にお連れするように言われて……その……準備をお手伝いしようかと」
「へえ……、そうかい、私にはそんな風には見えなかったが」
卑屈に笑い、手を擦り合わせている雲流に近づくと、春明は腰をかがめて雲流の耳に囁いた。
「さあ、ここからそっと出てお行き。次にまた妃に同じことをしたら――皇后様にご報告しなくてはならないよ?」
春明は体勢を戻すと、雲流の背を軽く押した。
「さあ雲流」
雲流は、ちらちらと春明を振り返りながら、部屋の戸口から出ていった。
「さあ、もう大丈夫。怖かったでしょう」
「ありがとう、先生」
「いいや、当然のことだよ」
春明は寝台に小蘭を座らせ、その隣に腰かけた。
春明先生は雲流と同じ宦官だが、全然違っている。背が高く、いつも綺麗に背中を伸ばして美しい姿勢を保っている。腰まで垂らした薄茶の髪に色白の細面は、どこか女性のような柔らかさを帯びている。
後宮で医者は春明先生ひとりしかいない。
だから皆、自然と「先生」と呼ぶ――小蘭には、それが少し誇らしかった。
それから、春明は詩歌の講義もしてくれる。その澄んだ声を聞くのが、小蘭は大好きだった。
雲流が言ってたことは、残念ながら半分本当だった。
皇帝の相手に選ばれた妃は、健康の状態や伝染する病気を持っていないかなど、あれこれ検査された末に、ようやく差し出されるのだという。
せめてもの救いは、そのお役目は、春明先生が担っているということだ。もし、雲流のようなヤツだったら、吐いてしまう。
婆やたちが着せてくれた一張羅は、やはり脱がされてしまった。
「あの御方は敵が多いから。妃達が、きらびやかな衣装の中に懐剣でも忍ばせてやしないかと、不安なのだよ」
――私は人質の妃。それくらい、分かってはいたつもりだった。でも……。
「ねえ、先生」
「なに?」
「私、本当はとても怖いの。今の皇帝は、たくさんの命を戦で奪った恐ろしい人だと聞いているわ」
「……」
「先生、教えて。私、これからどうなるの?」
「小蘭」
春明は、静かな声で名を呼ぶと、小蘭の片手を優しく握った。
「小蘭、よく聞いて。お前は、勉強は嫌いだが賢い娘だ。故郷の民たちのことをきちんと考えることができる。いいかい? あのお方に何をされようとも、逆らってはいけないよ。……すまないね。私の立場では、それくらいしか言えない」
小さな溜め息をひとつ。
春明先生は、いつだって優しい。
いつしか小蘭は、小さな嗚咽とともに、声を出して泣いていた。
「ねえ先生、いつも先生が聞かせてくれた物語みたいな……恋や、愛っていうの。そういうの、私もしてみたかった」
「……」
それからは押し黙ったまま、診察を終えた春明は、小蘭の着衣を元に戻し、薄布を丁寧に畳んだ。
白く細い手を差し伸べ、小蘭をそっと引き起こす。
「あの御方も罪なことをなさる。まだ蕾にもならぬ花を、わざわざ手折ることもあるまいに」
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