後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第一章 

7 動揺

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(もう、何よそれ……)
 掴んだ袖を力なく離すと、小蘭はがっくりと肩を落とした。
「ん、どうした? 休まないのか。敷藁の寝台ベッドがお嫌なら、でも構わないが……痛ッ」
 勢いよく彼の頭を叩いた小蘭だったが、次の瞬間には膝を抱えてしまった。
 
「ううん、それは平気。うちは遊牧の民だもの、馬と一緒に育ったようなもんだから」
「へえ、たくましいんだな。にしては、急に元気が無くなったような――」
「……」

 もう、相手が間男だろうが皇太子だろうが知ったことじゃない。これだけ酷い目に遭わされたんだから、愚痴のひとつでも言わせて欲しい。

 小蘭の口から、次々と泣き言が溢れ出た。

「だって、今日はもう散々よ……。皇帝の夜伽から始まって、雲流に気味の悪いことをされて」
 
 一息つくと、じろりと蒼龍を見下ろす。

「その上、よく分かんない初対面の男にファーストキスを奪われて、挙げ句『牛裂き』だなんて。そんなのってない、酷すぎるわ」
「あはは、そりゃまあ、ずいぶんと忙しい一日だったなぁ」

! その初対面の男は全く頼りにならないときてる」
 
 ヘラヘラと誤魔化し笑いを続ける蒼龍。頼りにならなさそうな様子に、小蘭の気持ちはますます急いた。

(もうダメだわ。ここにいたら、きっと私は――)
 
 言葉にならない不安が胸の奥で膨らみ、じっとしていられない。
 
「もう私、今から後宮ここを脱走するわ! 城下町に紛れ込んで町民として暮らすの。よーし、こうしちゃあいられない」
「……は?」
 蒼龍が、チラッと片目を開く。
 小蘭は勢いよく立ち上がると、着衣の裾をまくりあげた。
「ねえあんた、これだけ私に迷惑かけたんだからさ、この上着は餞別に頂戴よ。このままじゃさすがに寒いし……、売ればいくらかにはなるわ」
「お、おいっ」
 慌てて半身を起こした蒼龍に、小蘭はひらひらと手を振った。
 
「じゃあね、もう二度と会うこともないだろうけど、蒼龍も頑張って。あんまり女の子のお尻ばっかり追いかけてんじゃないわよ」
「――待てよっ」
 
 背を向けかけた小蘭の手を、蒼龍はぐっと掴んだ。
 
「な、何よ。離しなさいよ。って言うでしょ?!」
とも言うぞ。……ちょっと落ち着け」
 
 急に真顔になった蒼龍に、小蘭はパニック気味に返した。
「離してよっ、早くしないと見つかっちゃう。祖国うちのくにには、『自分の身は自分で守れ』という、ありがた~い教えがあるの。早く手を離してよ!」
 
「自分で守るにも、限度ってもんがあるだろう。いいからいったんここ座れよ」
 
「イヤよ、私に命令しないで! いーい? こっちは命がかかってんの。そもそもあんたが頼りにならないから……!」
「あー、もう! いいからこっち来いっ」

 瞬間、蒼龍は小蘭を引き寄せ、干し草の上に押し倒した。

「きゃあっ」
「静かにしろ。今は――」

 声が低く、切迫しているのが分かる。

「困ったやつだな。いいか、今一人で逃げても、君はまず、城の警備を抜けられない。万一うまく抜けられたとして」

 彼はギリッと歯軋りをした。
「城下をうろつく賊どもに、散々乱暴されるだろうよ。下手すりゃ命まで奪われる」
「……こんなに大きくて、華やかな都で?」
 
 涙目で尋ねた小蘭に、蒼龍は声を和らげた。
 
「ああ、ここは君の育った国とは違う。平和は武力で護られている。物騒だから、高い塀で囲うんだ」

 まるで童子こどもに言い含めるような柔らかな声に、小蘭はやっと落ち着きを取り戻した。
 
「悪い、怖がらせたな」
「……うん」
 蒼龍は、腕の拘束を緩めると、ふわりと小蘭の金髪を撫でた。
 
 窓から覗いた月が、自信に満ちた笑顔を照らした。
 
「まあ、俺に任せとけって。絶対に何とかして見せる。……使える手はいくつかあるんだ。――表も裏もな」
「それは……どういう」

「今はちょっと、な。……まあ、君には悪いことしたと思ってるし。ましてやそれが好きになったの命なら――」

 尻すぼみに消えた最後の声は小蘭には届かなかったが、濡れた頬を拭った彼の手がとても暖かだったから。

「うん……わかった」

 胸の奥の不安は消えないものの、東の護り神の名を持つ彼に、しばらく身を預けてもいい、と思えて――小蘭は、いつの間にか小さく微笑んでいた。
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