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第1章
小さな反乱
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私と宿禰様は運命共同体。そう決意を固めたあの日から、またひと月が過ぎていた。
とにかく色々試してみようということで、あれからすぐに私達は動き出していた。
宿禰様は、外へ出られない代わりに、金に糸目をつけず書物を与えてもらえる。その特権を利用して、私たちは古今東西の書を集め、答えを探し求めていた。
ついでに言うと、猫っかぶりもやめた。
これは、ある朝の出来事。
「ええっ。今、何と仰いました?」
「はい、ですから、少し外を歩きませんかと」
声を高くして驚く宿禰様に、私はにこりと微笑んだ。
「この間、読んだ本にあったのです。日光には、悪しき力を浄化する力があるんですって。ね、試してみましょうよ」
「で、でも、この姿で外に出るのは……ちょっと」
実は、その書を読んだ時にはもう決めていた。
知られれば、きっとお義母様に叱られる。
――それでもこれは、誰に許されなくても、やらなければならないことだと。
「ふふ、ご安心ください。そう仰ると思い、いいものを準備して参りました。ほら!」
私は、今朝来る時に袖に隠していたそれを、宿禰様の前に差し出した。
「え、それって子どもの」
「そう、お面です。先日村の祭りのために里帰りをしていたタミちゃんがね、お土産に貰ってきてくれたの」
「ぷっ、しかもそれ、蛙の面じゃないですか」
「ふふっ、こうして見るとなかなか愛らしいお顔でしょう。夕暮れ時にこれを着けて頭巾を被れば、意外に目立ちませんわ。気分転換にもなりますし。何より……楽しいでしょう、ね?」
「確かにそれは楽しそうですが、しかし……」
もじもじと下を向いて躊躇う宿禰様に、私はさらに膝を詰めた。
「以前、宿禰様は仰いましたわ。『僕は日光は平気なのです』と。こんな真っ暗なところに引きこもっていれば、直るものも直りません。お姿を元に戻す前に、本物の病にかかってしまいます」
「むむ……。しかし、父や母が何というか。もし面が外れたら? きっと世間を驚かせるし、僕は見せ物になりたくはない。そうなれば、権藤家の恥だと母はきっと――」
「宿禰様」
「わわっ」
私は彼の鼻先まで顔を寄せ、ぐいっと膝元まで詰め寄った。焦って仰け反った彼は、勢いで尻もちを付きながら、そのまま後ろにずり下がる。
逃げ腰の彼に、私はさらに詰め寄った。
「いいですか? そんな弱気ではこの呪いには勝てませんわ。今に身体を動かす力もなくなって、本物の〝痩せ蛙〟になってしまいましてよ」
「やだなあ、陽毬さんったら上手いこと言って。そんなことで僕を乗せようったって、そうは問屋が卸さない――」
「宿禰様っ」
「はいっ」
つい大きな声を上げ、迫る私に、宿禰様はぴんと背を伸ばした。
「は、お話は分かりましたから……少し離れてください」
「ダメ。〝参ります〟というまで離れませんっ」
詰将棋のように隅に追い詰め、さらににじり寄った私に、宿禰様はとうとう大声を上げて降参した。
「もうっ、分かりました! 参ります、参りますからあ!」
「うふふっ、ありがとうございます」
約束どおりに離れてやると、宿禰様はほっと息を吐きながら急いで体勢を直す。
立ち上がるのに手を差し出すと、遠慮がちに手を取った。
ひんやりと滑らかな肌の感覚は、慣れてくると案外心地よい。
「そうと決まれば早速。今日の夕刻、水浴びの前に参りましょう。幸い、お天気は雨。人通りも少ないですし、初日にはちょうどいいですわ、ね?」
「うう……性急なんだから」
「何ですって?」
「な、何でもありません!」
悪口とあらば、聞き逃す私ではない。
彼はたまらず、ぎゅっと目を閉じながら、高い声を上げた。
夫婦になってから初めての外出。ふたりで街を歩けるだなんて夢みたい。せっかくだから、いつも着ている紺の作務衣では味気ない。
すっかり嬉しくなった私は、ウキウキしながら宿禰様の箪笥を探り、羽織や着物を見繕っていた。
さすが、見栄っ張りのお義母様の見立てだろうか。加賀友禅に竺仙の江戸小紋、箪笥の中はどれもこれも一流品だ。
ふと横を見ると、私にすっかりしてやられた宿禰様が、文机に向かいつつも、何やらぶつぶつ言っている。
「全く……いくらこの身体だからって。仮にも男女がふたりきり、僕だって一応、若い男子なんですよ? 陽毬さんには、少し警戒心が足らなさすぎる……」
「何か仰いました?」
「わわわっ、な、何でもありませんっ」
二、三の衣装を手にして後ろに立つと、宿禰様は慌ててしまって文字を書き損じた。紙の上を墨汁が斜めに走る。
「……あの、僕がさっき言ったこと、心配しないでくださいね。ありがたいことにこの身体になって以来、僕は異性に疾しい気持ちを感じたことがなく。だから――」
「はい? あ、あら大変。宿禰様、書きものが真っ黒になってますわ!」
「え? わ、わわわわっ」
その後は、ふたりそろって大慌てとなってしまった。
昼餉を終え、宿禰様は、いつもと変わらずお客様を迎えている。
私もまた、いつもと同じに隣の部屋に控えて書を開く。
でも今日は、夕刻が近づくたびに、胸がそわそわ、どきどきする。
和箪笥の上をちらりと見れば、朝に選んだ加賀友禅の着物、その上には、蛙の面。
胸の奥が少しだけ震えているのを、私は見ないふりをした。
とにかく色々試してみようということで、あれからすぐに私達は動き出していた。
宿禰様は、外へ出られない代わりに、金に糸目をつけず書物を与えてもらえる。その特権を利用して、私たちは古今東西の書を集め、答えを探し求めていた。
ついでに言うと、猫っかぶりもやめた。
これは、ある朝の出来事。
「ええっ。今、何と仰いました?」
「はい、ですから、少し外を歩きませんかと」
声を高くして驚く宿禰様に、私はにこりと微笑んだ。
「この間、読んだ本にあったのです。日光には、悪しき力を浄化する力があるんですって。ね、試してみましょうよ」
「で、でも、この姿で外に出るのは……ちょっと」
実は、その書を読んだ時にはもう決めていた。
知られれば、きっとお義母様に叱られる。
――それでもこれは、誰に許されなくても、やらなければならないことだと。
「ふふ、ご安心ください。そう仰ると思い、いいものを準備して参りました。ほら!」
私は、今朝来る時に袖に隠していたそれを、宿禰様の前に差し出した。
「え、それって子どもの」
「そう、お面です。先日村の祭りのために里帰りをしていたタミちゃんがね、お土産に貰ってきてくれたの」
「ぷっ、しかもそれ、蛙の面じゃないですか」
「ふふっ、こうして見るとなかなか愛らしいお顔でしょう。夕暮れ時にこれを着けて頭巾を被れば、意外に目立ちませんわ。気分転換にもなりますし。何より……楽しいでしょう、ね?」
「確かにそれは楽しそうですが、しかし……」
もじもじと下を向いて躊躇う宿禰様に、私はさらに膝を詰めた。
「以前、宿禰様は仰いましたわ。『僕は日光は平気なのです』と。こんな真っ暗なところに引きこもっていれば、直るものも直りません。お姿を元に戻す前に、本物の病にかかってしまいます」
「むむ……。しかし、父や母が何というか。もし面が外れたら? きっと世間を驚かせるし、僕は見せ物になりたくはない。そうなれば、権藤家の恥だと母はきっと――」
「宿禰様」
「わわっ」
私は彼の鼻先まで顔を寄せ、ぐいっと膝元まで詰め寄った。焦って仰け反った彼は、勢いで尻もちを付きながら、そのまま後ろにずり下がる。
逃げ腰の彼に、私はさらに詰め寄った。
「いいですか? そんな弱気ではこの呪いには勝てませんわ。今に身体を動かす力もなくなって、本物の〝痩せ蛙〟になってしまいましてよ」
「やだなあ、陽毬さんったら上手いこと言って。そんなことで僕を乗せようったって、そうは問屋が卸さない――」
「宿禰様っ」
「はいっ」
つい大きな声を上げ、迫る私に、宿禰様はぴんと背を伸ばした。
「は、お話は分かりましたから……少し離れてください」
「ダメ。〝参ります〟というまで離れませんっ」
詰将棋のように隅に追い詰め、さらににじり寄った私に、宿禰様はとうとう大声を上げて降参した。
「もうっ、分かりました! 参ります、参りますからあ!」
「うふふっ、ありがとうございます」
約束どおりに離れてやると、宿禰様はほっと息を吐きながら急いで体勢を直す。
立ち上がるのに手を差し出すと、遠慮がちに手を取った。
ひんやりと滑らかな肌の感覚は、慣れてくると案外心地よい。
「そうと決まれば早速。今日の夕刻、水浴びの前に参りましょう。幸い、お天気は雨。人通りも少ないですし、初日にはちょうどいいですわ、ね?」
「うう……性急なんだから」
「何ですって?」
「な、何でもありません!」
悪口とあらば、聞き逃す私ではない。
彼はたまらず、ぎゅっと目を閉じながら、高い声を上げた。
夫婦になってから初めての外出。ふたりで街を歩けるだなんて夢みたい。せっかくだから、いつも着ている紺の作務衣では味気ない。
すっかり嬉しくなった私は、ウキウキしながら宿禰様の箪笥を探り、羽織や着物を見繕っていた。
さすが、見栄っ張りのお義母様の見立てだろうか。加賀友禅に竺仙の江戸小紋、箪笥の中はどれもこれも一流品だ。
ふと横を見ると、私にすっかりしてやられた宿禰様が、文机に向かいつつも、何やらぶつぶつ言っている。
「全く……いくらこの身体だからって。仮にも男女がふたりきり、僕だって一応、若い男子なんですよ? 陽毬さんには、少し警戒心が足らなさすぎる……」
「何か仰いました?」
「わわわっ、な、何でもありませんっ」
二、三の衣装を手にして後ろに立つと、宿禰様は慌ててしまって文字を書き損じた。紙の上を墨汁が斜めに走る。
「……あの、僕がさっき言ったこと、心配しないでくださいね。ありがたいことにこの身体になって以来、僕は異性に疾しい気持ちを感じたことがなく。だから――」
「はい? あ、あら大変。宿禰様、書きものが真っ黒になってますわ!」
「え? わ、わわわわっ」
その後は、ふたりそろって大慌てとなってしまった。
昼餉を終え、宿禰様は、いつもと変わらずお客様を迎えている。
私もまた、いつもと同じに隣の部屋に控えて書を開く。
でも今日は、夕刻が近づくたびに、胸がそわそわ、どきどきする。
和箪笥の上をちらりと見れば、朝に選んだ加賀友禅の着物、その上には、蛙の面。
胸の奥が少しだけ震えているのを、私は見ないふりをした。
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