43 / 53
収拾
しおりを挟む
〈加賀編〉
高橋が一人暮らしを始めておよそ半年が経過した。
意外にも一向に音を上げず、むしろ以前より早く出社するようになった。たったそれだけのことだが、ようやく年相応の大人になった気がした。
ある日弁当を持参したときには、感動で目頭が熱くなった。
弁当の中身は冷凍食品が目立ったが、便利で美味いし何も問題じゃない。あの高橋が、弁当を自作しようと思いついた時点で快挙だ。
「すげえ、ちゃんと弁当じゃん。やればできるじゃねえか」
社食で弁当を広げる高橋を、手放しで褒めた。頭を撫でてやると、目を輝かせてウインナーを突きつけてきた。
「食べます?」
「いや、いらないけど」
「そうだ、じゃあ今度、主任を僕の部屋に招待しますね」
醤油ラーメンをすすりながら、「ん?」と訊き返す。
「僕の手料理を振舞いますから。今度の土曜日にしようかな」
「有無を言わさねえな」
ラーメンを飲み込むと、呆れて肩をすくめた。
「七世君と二人でぜひ。うわー、楽しみだなあ」
そういうことになった。
指定された土曜日の午後六時。倉知を連れて、高橋のアパートに向かった。チャイムを鳴らすと「しゅにーん」と中から声が聞こえた。
「開いてます、入ってくださーい、助けてー」
高橋が喚いている。
「何か様子がおかしいですね」
倉知が言った。
「高橋の様子がおかしいのはよくあることだが、確かになんか変だな」
「入りましょう」
玄関のドアを開けると、カレーの匂いがした。手料理を振舞うと言われたときはどうしようと思ったが、カレーで助かった。
「うわー、あっ、あーっ」
奥で高橋が騒いでいる。倉知と顔を見合わせて「お邪魔します」と声をハモらせ、靴を脱ぎ、部屋に上がる。
廊下を抜けると、高橋が部屋の真ん中でこっちに背中を向けたまま、硬直していた。
「何してんの?」
「む、虫です、虫が体に止まったんですよぉ」
「げ、まさかG?」
「Gってなんです? てんとう虫です、Tですぅ」
「なんだよ、Tかよ」
「ふふ……」
倉知が俺の背後で笑いを漏らす。
「つーか、部屋、めっちゃオシャレじゃん」
一人暮らしには十分な広さのダイニングキッチンだ。床材はホワイト系で、家具がモノトーンで統一されている。真新しい匂いがするし、壁の白さが際立っている。
「新築?」
「そんなことより、Tをなんとかしてくださいよぉ」
「はいはい。どこ?」
「背中ですね。ここに」
倉知が指先でそっとてんとう虫に触れる。人差し指にてんとう虫を乗り移らせると、慈悲にあふれた天使の微笑みを浮かべた。
「可愛いですね」
「本当にな」
力強く同意する。
「今だっ、早く、そいつを外に」
高橋が窓を開けて叫んだ。てんとう虫を外に逃がすと、高橋が大きなため息をついた。
「ああ、よかったぁ……。昨日からずっといるから引っ越そうかと思いました」
「はは、本気で言ってそう」
「本気ですよぉ。七世君、助けてくれてありがとう」
高橋が倉知の手を握る。握ったままブンブン振って、倉知を見上げて言った。
「そして、今日は来てくれてありがとう」
「はい、こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」
「わあ、七世君の手、おっきいなぁ」
高橋が、倉知の手をなかなか離さない。二人の手元を黙ってジッと見ていると、倉知が視線に気づき、「あの」と言った。
「カレー、いい匂いですね」
「あっ、そうそう、カレーだよ。七世君のカレーに負けないぞぉ。ここ、座ってください。今温めるから、待っててくださいね」
ダイニングの椅子を引いて、二人で向かい合って腰を下ろす。
倉知と見つめ合う。心の中でいろいろ言ってから、ニコ、とすると、ニコ、が返ってくる。
ふ、と息をつき、改めて部屋の中を見回した。
猫の形をした壁掛け時計、テレビボードの隅にアロマスティック、白いダイニングテーブルにネイビーのランチョンマット。これは高橋のセンスではない。
「一緒に住んでるんだっけ?」
あえて「前畑と」を抜かして訊くと、キッチンカウンターの向こう側で高橋が「まだですよ」と答えた。
「でも土日は泊まっていくので、今は一緒に住む練習中って感じです」
あっさりとそんなことを言った。一瞬冗談かなと思ったが、顔を見る限り、本気だ。
「プロポーズ、そろそろ大丈夫だと思いますか?」
高橋に訊かれ、首を傾げた。
「どうだろ。わかんねえ」
この二人に関しては、本当に読めない。
「テレビでほら、棒高跳び、二人でやりましたよね。もう一回テレビに出て、プロポーズやり直したいなあ」
「走り高跳びな」
訂正を入れると、高橋が「そうでした」と笑って、トレイを持ってこっちに来た。
「お待たせしました。これは前菜の彩りサラダです」
ランチョンマットの上にサラダが並ぶと、倉知が「すごい」と褒めた。
「お店のサラダみたいですね」
「はい、コンビニのサラダです」
「お、おう、ごまかさないんだ」
自分の手柄にしないところは潔くていいと思う。
「だって、キャベツの千切りできないんですもん。とりあえず、カレーが温まるまでサラダ食べててください」
言われるまま、もそもそと二人でサラダを食す。この状況が何かちょっとおかしくなってきた。口の端をピクピクさせていると、倉知が控えめに「あの」と言った。
「走り高跳びって?」
「うん、ハイジャン」
「加賀さんの得意技ですよね」
「いや待って、そうだっけ? 高校んときやってたってだけだからね」
「テレビに出たんですか? いつ? 高橋さんと二人で? 走り高跳びをテレビでやったってことですか? それ、どういう状況ですか?」
まずい、倉知が拗ねている。畳みかけるように質問を重ねてくる。
「あー、言ってなかったっけ。素人参加のコーナーに出てくれないかって、仕事中に声掛けられたんだよ。そしたら高橋がやるってノリノリで」
キッチンカウンターの向こうで、カレーを掻き混ぜながら高橋が天を仰ぐ。
「懐かしいなあ、随分前ですよねぇ。ジャンプに成功したらテレビで公開プロポーズしてもいいって言われて、でも僕、失敗したんですよね。そしたら主任が、リベンジしてくれて……、主任が飛ぶ姿、カッコよかったなぁ」
倉知は、一体なんのことかまったくわからないがとにかく加賀さんが走り高跳びをしているところを俺も見たかった、という顔をしている。
「加賀さんが走り高跳びしてるとこ、俺も見たかった」
静かにフォークを置いて、悲しそうな顔で倉知が言った。
「うん、でも、生放送だったからね」
「テレビということは、全国に加賀さんが、加賀さんの美しさが、見つかってしまったってことですよね……」
「いや、ローカル番組だから」
「仕事中だったんですよね? じゃあ、スーツで飛んだんですか?」
「そう、スーツと革靴」
倉知が黙った。
「七世君」
うつむいてサラダを凝視している倉知を、高橋が呼んだ。
「見たかったらあげようか」
倉知が勢いよく高橋を見る。
「何、録画してたの?」
訊くと、高橋が誇らしそうに胸を張った。
「お母さんが欠かさず観てる番組なんです。僕が出てたから咄嗟に録画してくれたんですけど、ダビングしたDVD親戚中に配ったりして大変でしたよぉ」
倉知が素早く立ち上がり、高橋に向かって深々と頭を下げた。
「いくらでも出しますので、どうか、よろしくお願いします」
「そんなそんな、いいよぉ。今度主任にDVD渡すから、受け取ってね」
「ありがとうございます……っ、なんとお礼を言っていいかわかりません……、本当に、ありがとうございます……!」
めちゃくちゃ感激している。ほとんど泣き声だ。なんだかわからないが、可愛い。必死なのが可愛い。健気で可愛い。
たまんねえな、とうっとりしていると、玄関のほうから物音が聞こえた。ドアが開く音と、ガサガサというビニール袋の音。
「あ、カレーの匂いだ」
前畑の声だ。そういえば、今日俺たちが来ることを伝えてあったのだろうか。高橋を見ると、どうやら忘れていたらしい顔をしている。
「ちょっとー、カレー作ったの? えらーい、褒めてあげるぅ、なでなでしてあげるーぅ」
酔っているのかというほど、甘えた声が響いてくる。前畑だと思えない。いや、前畑の、高橋に対する発言だと思えない。どうやらまずいところに出くわしてしまったようだ。
「ねぇー、ハーゲンダッツ安かったから爆買いしちゃって、冷蔵庫開いてる……、あれ、これ誰の靴?」
三人で、顔を見合わせた。
俺は黙って人差し指を唇に当てると、腰を上げ、玄関に向かった。
「……ヒッ、加賀君!?」
「こんばんは。お邪魔してます」
「え、なんで、やだ、えっ、待って、うそ、今の、聞こえてた?」
「今のって? 何も?」
前畑の顔が、強張った表情からホッとした表情に変わった瞬間、背後から高橋の声が言った。
「前畑さーん、冷蔵庫開いてますよー」
「聞こえてるじゃない!」
「いや、うん、ごめん、めちゃくちゃ聞こえてた」
「やだやだ、お願い嘘でしょ、あっ、この大きい靴、もしかして七世君?」
顔面蒼白の前畑が、俺の背後を見て息を呑む。振り返ると、倉知が申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんばんは。あの、大丈夫です」
はにかむ倉知を見て、前畑が悲鳴を上げた。玄関のドアにぶつかって、ガチャガチャと慌ただしく外に飛び出していった。
バタン、とドアが閉まる。
「あれ、前畑さん、出て行っちゃった? ハーゲンダッツは?」
「ちょっと、見てくるわ」
靴を履いてドアを開けると、真横に前畑がうずくまっていた。ドアを閉めて、隣にしゃがみ込む。
「わかるよ、あいつの頭、撫でたくなるよな。ちょっとの成長が嬉しくて、褒めてやりたくなるのもわかる。俺もよくやるよ」
「下手な慰めはよして……」
ぷい、と顔を背けた前畑の声はかすれて弱々しい。
普段、前畑は高橋に手厳しい。最初からずっとブレずにそうだ。心配もあったが、二人だけのときはちゃんと甘やかしていることがわかって安心した。
でも、それを隠しておきたい気持ちもわかる。
「別に、からかわないし誰にも言わないよ」
「……加賀君はそんなことしないって、わかってる。でも、加賀君には聞かれたくなかったの」
「うん、じゃあ、忘れるから」
前畑は答えない。膝を抱え、あっちを向いたままだ。
「よし、戻るか」
腰を上げ、ドアノブに手をかける。
「一緒にカレー食おうよ。倉知君のカレーに負けないんだって。それすげえよな」
前畑が顔を上げて俺を見た。
「何それ、あいつ、バカなんだから……」
つぶやいて、立ち上がり、フン、と鼻を鳴らした。
「もう、自分でハードル上げてどうするのよ」
調子が戻った前畑を見て、ドアを開けた。玄関に入ると、カレーの匂い。
「ただいまー、腹減ったー」
おかえりなさい、と奥から二人の声が返ってくる。
「加賀君、ありがと」
背中で前畑が言った。
何が、とはあえて訊かないし、前畑も、言わない。うん、とだけ答えた。
ドアが、ゆっくりと閉まる。
〈おわり〉
高橋が一人暮らしを始めておよそ半年が経過した。
意外にも一向に音を上げず、むしろ以前より早く出社するようになった。たったそれだけのことだが、ようやく年相応の大人になった気がした。
ある日弁当を持参したときには、感動で目頭が熱くなった。
弁当の中身は冷凍食品が目立ったが、便利で美味いし何も問題じゃない。あの高橋が、弁当を自作しようと思いついた時点で快挙だ。
「すげえ、ちゃんと弁当じゃん。やればできるじゃねえか」
社食で弁当を広げる高橋を、手放しで褒めた。頭を撫でてやると、目を輝かせてウインナーを突きつけてきた。
「食べます?」
「いや、いらないけど」
「そうだ、じゃあ今度、主任を僕の部屋に招待しますね」
醤油ラーメンをすすりながら、「ん?」と訊き返す。
「僕の手料理を振舞いますから。今度の土曜日にしようかな」
「有無を言わさねえな」
ラーメンを飲み込むと、呆れて肩をすくめた。
「七世君と二人でぜひ。うわー、楽しみだなあ」
そういうことになった。
指定された土曜日の午後六時。倉知を連れて、高橋のアパートに向かった。チャイムを鳴らすと「しゅにーん」と中から声が聞こえた。
「開いてます、入ってくださーい、助けてー」
高橋が喚いている。
「何か様子がおかしいですね」
倉知が言った。
「高橋の様子がおかしいのはよくあることだが、確かになんか変だな」
「入りましょう」
玄関のドアを開けると、カレーの匂いがした。手料理を振舞うと言われたときはどうしようと思ったが、カレーで助かった。
「うわー、あっ、あーっ」
奥で高橋が騒いでいる。倉知と顔を見合わせて「お邪魔します」と声をハモらせ、靴を脱ぎ、部屋に上がる。
廊下を抜けると、高橋が部屋の真ん中でこっちに背中を向けたまま、硬直していた。
「何してんの?」
「む、虫です、虫が体に止まったんですよぉ」
「げ、まさかG?」
「Gってなんです? てんとう虫です、Tですぅ」
「なんだよ、Tかよ」
「ふふ……」
倉知が俺の背後で笑いを漏らす。
「つーか、部屋、めっちゃオシャレじゃん」
一人暮らしには十分な広さのダイニングキッチンだ。床材はホワイト系で、家具がモノトーンで統一されている。真新しい匂いがするし、壁の白さが際立っている。
「新築?」
「そんなことより、Tをなんとかしてくださいよぉ」
「はいはい。どこ?」
「背中ですね。ここに」
倉知が指先でそっとてんとう虫に触れる。人差し指にてんとう虫を乗り移らせると、慈悲にあふれた天使の微笑みを浮かべた。
「可愛いですね」
「本当にな」
力強く同意する。
「今だっ、早く、そいつを外に」
高橋が窓を開けて叫んだ。てんとう虫を外に逃がすと、高橋が大きなため息をついた。
「ああ、よかったぁ……。昨日からずっといるから引っ越そうかと思いました」
「はは、本気で言ってそう」
「本気ですよぉ。七世君、助けてくれてありがとう」
高橋が倉知の手を握る。握ったままブンブン振って、倉知を見上げて言った。
「そして、今日は来てくれてありがとう」
「はい、こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」
「わあ、七世君の手、おっきいなぁ」
高橋が、倉知の手をなかなか離さない。二人の手元を黙ってジッと見ていると、倉知が視線に気づき、「あの」と言った。
「カレー、いい匂いですね」
「あっ、そうそう、カレーだよ。七世君のカレーに負けないぞぉ。ここ、座ってください。今温めるから、待っててくださいね」
ダイニングの椅子を引いて、二人で向かい合って腰を下ろす。
倉知と見つめ合う。心の中でいろいろ言ってから、ニコ、とすると、ニコ、が返ってくる。
ふ、と息をつき、改めて部屋の中を見回した。
猫の形をした壁掛け時計、テレビボードの隅にアロマスティック、白いダイニングテーブルにネイビーのランチョンマット。これは高橋のセンスではない。
「一緒に住んでるんだっけ?」
あえて「前畑と」を抜かして訊くと、キッチンカウンターの向こう側で高橋が「まだですよ」と答えた。
「でも土日は泊まっていくので、今は一緒に住む練習中って感じです」
あっさりとそんなことを言った。一瞬冗談かなと思ったが、顔を見る限り、本気だ。
「プロポーズ、そろそろ大丈夫だと思いますか?」
高橋に訊かれ、首を傾げた。
「どうだろ。わかんねえ」
この二人に関しては、本当に読めない。
「テレビでほら、棒高跳び、二人でやりましたよね。もう一回テレビに出て、プロポーズやり直したいなあ」
「走り高跳びな」
訂正を入れると、高橋が「そうでした」と笑って、トレイを持ってこっちに来た。
「お待たせしました。これは前菜の彩りサラダです」
ランチョンマットの上にサラダが並ぶと、倉知が「すごい」と褒めた。
「お店のサラダみたいですね」
「はい、コンビニのサラダです」
「お、おう、ごまかさないんだ」
自分の手柄にしないところは潔くていいと思う。
「だって、キャベツの千切りできないんですもん。とりあえず、カレーが温まるまでサラダ食べててください」
言われるまま、もそもそと二人でサラダを食す。この状況が何かちょっとおかしくなってきた。口の端をピクピクさせていると、倉知が控えめに「あの」と言った。
「走り高跳びって?」
「うん、ハイジャン」
「加賀さんの得意技ですよね」
「いや待って、そうだっけ? 高校んときやってたってだけだからね」
「テレビに出たんですか? いつ? 高橋さんと二人で? 走り高跳びをテレビでやったってことですか? それ、どういう状況ですか?」
まずい、倉知が拗ねている。畳みかけるように質問を重ねてくる。
「あー、言ってなかったっけ。素人参加のコーナーに出てくれないかって、仕事中に声掛けられたんだよ。そしたら高橋がやるってノリノリで」
キッチンカウンターの向こうで、カレーを掻き混ぜながら高橋が天を仰ぐ。
「懐かしいなあ、随分前ですよねぇ。ジャンプに成功したらテレビで公開プロポーズしてもいいって言われて、でも僕、失敗したんですよね。そしたら主任が、リベンジしてくれて……、主任が飛ぶ姿、カッコよかったなぁ」
倉知は、一体なんのことかまったくわからないがとにかく加賀さんが走り高跳びをしているところを俺も見たかった、という顔をしている。
「加賀さんが走り高跳びしてるとこ、俺も見たかった」
静かにフォークを置いて、悲しそうな顔で倉知が言った。
「うん、でも、生放送だったからね」
「テレビということは、全国に加賀さんが、加賀さんの美しさが、見つかってしまったってことですよね……」
「いや、ローカル番組だから」
「仕事中だったんですよね? じゃあ、スーツで飛んだんですか?」
「そう、スーツと革靴」
倉知が黙った。
「七世君」
うつむいてサラダを凝視している倉知を、高橋が呼んだ。
「見たかったらあげようか」
倉知が勢いよく高橋を見る。
「何、録画してたの?」
訊くと、高橋が誇らしそうに胸を張った。
「お母さんが欠かさず観てる番組なんです。僕が出てたから咄嗟に録画してくれたんですけど、ダビングしたDVD親戚中に配ったりして大変でしたよぉ」
倉知が素早く立ち上がり、高橋に向かって深々と頭を下げた。
「いくらでも出しますので、どうか、よろしくお願いします」
「そんなそんな、いいよぉ。今度主任にDVD渡すから、受け取ってね」
「ありがとうございます……っ、なんとお礼を言っていいかわかりません……、本当に、ありがとうございます……!」
めちゃくちゃ感激している。ほとんど泣き声だ。なんだかわからないが、可愛い。必死なのが可愛い。健気で可愛い。
たまんねえな、とうっとりしていると、玄関のほうから物音が聞こえた。ドアが開く音と、ガサガサというビニール袋の音。
「あ、カレーの匂いだ」
前畑の声だ。そういえば、今日俺たちが来ることを伝えてあったのだろうか。高橋を見ると、どうやら忘れていたらしい顔をしている。
「ちょっとー、カレー作ったの? えらーい、褒めてあげるぅ、なでなでしてあげるーぅ」
酔っているのかというほど、甘えた声が響いてくる。前畑だと思えない。いや、前畑の、高橋に対する発言だと思えない。どうやらまずいところに出くわしてしまったようだ。
「ねぇー、ハーゲンダッツ安かったから爆買いしちゃって、冷蔵庫開いてる……、あれ、これ誰の靴?」
三人で、顔を見合わせた。
俺は黙って人差し指を唇に当てると、腰を上げ、玄関に向かった。
「……ヒッ、加賀君!?」
「こんばんは。お邪魔してます」
「え、なんで、やだ、えっ、待って、うそ、今の、聞こえてた?」
「今のって? 何も?」
前畑の顔が、強張った表情からホッとした表情に変わった瞬間、背後から高橋の声が言った。
「前畑さーん、冷蔵庫開いてますよー」
「聞こえてるじゃない!」
「いや、うん、ごめん、めちゃくちゃ聞こえてた」
「やだやだ、お願い嘘でしょ、あっ、この大きい靴、もしかして七世君?」
顔面蒼白の前畑が、俺の背後を見て息を呑む。振り返ると、倉知が申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんばんは。あの、大丈夫です」
はにかむ倉知を見て、前畑が悲鳴を上げた。玄関のドアにぶつかって、ガチャガチャと慌ただしく外に飛び出していった。
バタン、とドアが閉まる。
「あれ、前畑さん、出て行っちゃった? ハーゲンダッツは?」
「ちょっと、見てくるわ」
靴を履いてドアを開けると、真横に前畑がうずくまっていた。ドアを閉めて、隣にしゃがみ込む。
「わかるよ、あいつの頭、撫でたくなるよな。ちょっとの成長が嬉しくて、褒めてやりたくなるのもわかる。俺もよくやるよ」
「下手な慰めはよして……」
ぷい、と顔を背けた前畑の声はかすれて弱々しい。
普段、前畑は高橋に手厳しい。最初からずっとブレずにそうだ。心配もあったが、二人だけのときはちゃんと甘やかしていることがわかって安心した。
でも、それを隠しておきたい気持ちもわかる。
「別に、からかわないし誰にも言わないよ」
「……加賀君はそんなことしないって、わかってる。でも、加賀君には聞かれたくなかったの」
「うん、じゃあ、忘れるから」
前畑は答えない。膝を抱え、あっちを向いたままだ。
「よし、戻るか」
腰を上げ、ドアノブに手をかける。
「一緒にカレー食おうよ。倉知君のカレーに負けないんだって。それすげえよな」
前畑が顔を上げて俺を見た。
「何それ、あいつ、バカなんだから……」
つぶやいて、立ち上がり、フン、と鼻を鳴らした。
「もう、自分でハードル上げてどうするのよ」
調子が戻った前畑を見て、ドアを開けた。玄関に入ると、カレーの匂い。
「ただいまー、腹減ったー」
おかえりなさい、と奥から二人の声が返ってくる。
「加賀君、ありがと」
背中で前畑が言った。
何が、とはあえて訊かないし、前畑も、言わない。うん、とだけ答えた。
ドアが、ゆっくりと閉まる。
〈おわり〉
50
あなたにおすすめの小説
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
有能課長のあり得ない秘密
みなみ ゆうき
BL
地方の支社から本社の有能課長のプロジェクトチームに配属された男は、ある日ミーティングルームで課長のとんでもない姿を目撃してしまう。
しかもそれを見てしまったことが課長にバレて、何故か男のほうが弱味を握られたかのようにいいなりになるはめに……。
死ぬほど嫌いな上司と付き合いました
三宅スズ
BL
社会人3年目の皆川涼介(みながわりょうすけ)25歳。
皆川涼介の上司、瀧本樹(たきもといつき)28歳。
涼介はとにかく樹のことが苦手だし、嫌いだし、話すのも嫌だし、絶対に自分とは釣り合わないと思っていたが‥‥
上司×部下BL
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる