電車の男ー社会人編ー番外編

月世

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助手席

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〈倉知編〉

 スーツの男性が、少し離れた場所からこちらを見ている。
 フェアレディZをバックで車庫入れしている間、彼は行儀よく両手を前で組み合わせ、ニコニコしていた。
「圧を感じるな」
 加賀さんがつぶやいて、エンジンを切ってから、彼に軽く会釈した。
 今日は、車の販売店にやってきた。別に、車が欲しいわけじゃない。加賀さんは今のZを廃車になるまで乗り潰すと宣言したし、俺も車を買う気はない。
「大月君いそう?」
 加賀さんが言った。目的は車じゃなく、大月君だ。仕事ぶりを見に来いと言い続けているので、重い腰を上げて見に行くことにした。
 事前に伝えず、当日いきなり顔を出して驚かせたいと加賀さんが言うのでそうしたのだが、休みの可能性もある。ぱっと見、ガラス張りのショールームには姿が見えない。
「見当たらないです。帰りますか?」
「なんでだよ」
 笑う加賀さんに、「だって」と言葉を濁す。冷やかしというのが苦手だった。買うつもりもないのに、いいのだろうかと気が引ける。
 シートベルトを外して、加賀さんが「大丈夫」と言った。
「買わなくても怒られないよ。チラッと覗いてさっさと帰ればいい」
 運転席のドアを開け、車を降りる加賀さんに続く。
「いらっしゃいませ」
 待ち構えていた販売員がすかさず頭を下げる。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
 ギクッとしたが、本当の理由を話す必要はなかった。加賀さんが簡単に返事をする。
「こんにちは。ちょっと車見に来ました」
「ありがとうございます。こちらにどうぞ」
 僕もZ乗ってたんですよ、そうなんですねー、と和やかに会話をする二人の後姿を見ながら、胸を撫で下ろした。ちょっと見に来ただけでも許されるらしい。
 ショールームに入ると、カウンターに並んだ二人の女性が「いらっしゃいませ」と頭を下げる。いらっしゃいませ、とたくさん声を掛けられたが、大月君は見当たらない。
 やっぱり事前に行くことを伝えておけばよかった。せっかく大好きな加賀さんが来たというのに、会えないのが可哀想だ。
 キョロキョロと店内を見回していると、女性のスタッフと目が合った。ニコニコして会釈されたので、ニコニコと会釈を返してから、ハッとした。加賀さんの姿が遠い。小走りで後を追う。
 白くて大きい車の運転席を開き、販売員が何か喋っている。俺はあまり車に詳しくないので、言っていることがよくわからない。七桁の値段を見て、車とはなんと高い買い物だ、としみじみとした感想を抱く。
 車のそばで店員と話し込む加賀さんを遠巻きにぼんやりと眺めていると、「いらっしゃいませ」と声を掛けられた。カウンターにいた女性スタッフだ。
「よろしければお飲み物はいかがですか?」
 明らかに車に興味がなさそうで、暇を持て余しているように見えたのかもしれない。でも俺は、加賀さんを見るのに忙しい。
「ありがとうございます」
 渡されたメニューを受け取って一瞥し、即答する。
「じゃあ、100%オレンジジュースを」
「うふっ、かしこまりました。おかけになってお待ちください」
 微妙に笑われた気がするのは気のせいだろうか。そうか、と思い至る。大人はあまりオレンジジュースを頼まないのかもしれない。
 コーヒーにすればよかった。失敗した。
 椅子に腰かけ、テーブルに両肘をついて顔を覆う。
「お待たせ」
 椅子を引く音がして、加賀さんの声が正面から聞こえた。指の隙間から窺うと、「何、どした」と加賀さんが笑った。
「倉知君、車興味ないしつまんないよな。コーヒー飲んだら帰ろっか」
「コーヒー……」
「あれ、なんか飲んでってくださいって言われたけど。言われなかった?」
「はい、あの、メニュー貰って、はい、頼みました」
 加賀さんが車のカタログを開きながら、「うん」と怪訝そうに俺を見る。
「なんで赤面?」
「いえ、別に、なんでも……、あの、加賀さんが人と喋ってるの見るの楽しいし、来てよかったです」
 店内は、それなりにざわついている。キッズコーナーで子どもが騒いでいて、近くのテーブルには夫婦らしき男女が商談をしている。それでも念には念を入れて小声で囁いたのに、加賀さんがハキハキとした声で言った。
「可愛い」
 頬が、さらに熱を帯びる。
「ちょ、ちょっと、声が大きいです」
 うろたえる俺を加賀さんがほのぼのした目で見つめてくる。
 優しい顔だ。つられて同じ表情になってしまう。
 カタログに目を落とし、しばらくしてチラ、と俺を見る。ニコ、と笑うので、笑い返す。そしてまたカタログに視線を戻す。俺を見る。笑い合う。それを何度か繰り返しているうちに、「お待たせいたしました」と背後から声が掛かった。
「あれ、大月君」
 加賀さんが言った。振り返ると、得意そうな顔の大月君が、コーヒーとオレンジジュースを乗せたトレイを持って立っていた。
「ようこそ、いらっしゃいませ、本当に、よくぞいらっしゃいました……! 加賀さん、そして、我が弟よ……!」
 トレイを持ったまま、感極まった様子で天を仰ぐ。
「いないかと思った。こんにちは」
「こんにちは、ご無沙汰しております」
 二人で一緒に頭を下げると、大月君がテーブルにトレイを置いて、両手を大きく広げた。
「何してんの」
 加賀さんがのけ反って、となりに立つ大月君を見上げた。
「ハグの流れっすよね?」
「握手で勘弁して」
「加賀さんの手……っ!」
 そっと加賀さんの手を両手で包み込んで、涙ぐんでいる。この人は本当にいつまでも加賀さんが好きだ。毎度のことながらやれやれと思う。
「元気そうでよかった。五月ちゃんも元気?」
「あっ」
「あっ? 何、どした」
 加賀さんが訊き返すと、大月君が咳払いをした。
「なんでもないっす、すこぶる元気っす。また近々遊びにきてくださいよ。二人で待ってますんで」
 隠しきれないニヤニヤ顔で、加賀さんの前にコーヒーを、俺の前にオレンジジュースを置いた。
「あー、うん、なるほど。うん、今度行くわ、二人で」
 加賀さんがコーヒーカップを持ち上げて、「な」と俺を見る。
 今の意味ありげなやり取りはなんだろう、と考えるまでもなく、何かめでたい話題らしいと感づいた。自然と口角が上がる。グラスを持ち上げ、いただきます、とストローを咥えた。
「いやー、今日はいい日だなあ」
 大月君が空いている椅子に腰を下ろし、トレイを胸に抱いて加賀さんに向き直る。
「おいこら、なんで座ってんの? 仕事どうした」
「これはちゃんと接客っす。いらっしゃいませ」
「へえ?」
 疑わしそうな加賀さんの視線を受けて、大月君がスッと背筋を伸ばす。キョロキョロと店内を見回し、ネクタイを締め直しながら肩をすくめた。
「実は休憩中で裏にいたんすけど、大きくて可愛い大学生くらいのお客様がいる、オレンジジュース可愛いって盛り上がってて、あ、これ七世君だなってピンときたんすよ」
 なんでピンとくるのか。そんな馬鹿なと思ったが、加賀さんが「うんうん」と目を細め、コーヒーを一口飲むと、笑顔で俺を見た。
「オレンジジュースを所望する大きくて可愛い大学生くらいのお客様なんてこの世に倉知君だけだもんな」
「そうっすよ」
 いろいろツッコミを入れたかったが、何か言うと墓穴を掘りそうなので黙って喉を鳴らす。
「このあとどうするんすか? もしよければ試乗してってくださいよ。予約空いててすぐ乗れますし。今ならなんと、キャンペーンやっててミニカー当たります」
 テーブルの上に張り付いたラミネート貼りのチラシを指差して、大月君が言った。加賀さんが「EV車か」とつぶやいて、俺を見る。
「どうする? ミニカー欲しい?」
「えっ、ミニカー……」
 欲しくないというのも失礼だが、正直欲しくはない。
「俺は欲しい」
 返答に詰まっていると、加賀さんが言った。ミニカーを欲しがる加賀さんが可愛い。
「試乗しましょう」
 口元を緩ませ、力強くうなずいた。
 必ずスタッフが同乗しなければいけないと力説しながら助手席に乗り込んだ大月君は、上機嫌だった。キャッキャとはしゃぐ姿を後部座席から眺めていると、胸の奥でムラッと嫉妬心が疼いた。
 大月君だからというより、多分、誰にも加賀さんの助手席を譲りたくない。
 どうかしている。
 窓の外に視線を移し、小さくため息をついた。
「どうすか、乗り心地は。モーターで動いてるから静かでしょ」
「うん」
 加賀さんが短く返事をした。エンジンの音が聴きたくて、カーオーディオをつけない人だ。マニュアルじゃないと運転している気がしないと以前言っていた。
「後ろも広々でしょ?」
 後部座席を振り返って、大月君が言った。加賀さんと同じく、「うん」とだけ返事をする。
 補助金が、税金が、と説明しながら、次の信号左ですと案内をする大月君は、ちゃんとした営業マンに見えて意外だった。
 昔はチャラチャラして、落ち着きがなくて、いつも大声で騒がしい人物だった。
 大人になった、と実感した。
「大月君、ちゃんとしてたな」
 帰り道で加賀さんが言った。いつでも感想は同じだ。
「ですね。あんなに立派になって。ちょっと感慨深いです」
「はは、同い年だよね。見えないけど。あー、倉知君もいよいよおじさんかな」
「えっ、俺、おじさんですか? いよいよ?」
 思わず訊き返すと、加賀さんがブハッと吹き出した。
「違う違う、可愛いな。叔父叔母のおじさんな」
「ああ、五月」
「あれはおそらく自分で言うから黙ってろって言われてるな」
「そんな感じでしたね」
「倉知君、赤ちゃんめっちゃ可愛がりそう」
「はい、楽しみです」
 でも今は、それよりも何よりも、隣の加賀さんだ。
 美しい横顔を見つめた。
 クラッチを踏む脚、シフトレバーを操作する手。
 凝視する。
 尊くて、大好きだと思った。
「寂しかった?」
 加賀さんが前を見たまま訊いた。
「え?」
「さっき、助手席座れなくて寂しそうだったから」
「いえ、そんな、さすがにたったあれだけの時間でそんなことは……、ありますね、はい、ちょっと、加賀さんの隣を奪われたみたいで、ちょっとですよ、ほんとに」
 必死で言い訳を並べた。頬が熱い。
「俺はめっちゃ寂しかった」
 加賀さんが言った。
 優しい横顔を見て、ぐっと喉が詰まる。加賀さんは俺への感情を、いつでもごまかさない。
「倉知君」
「はい」
 返事をする俺の声は、震えている。
 加賀さんの声は温かく、おだやかだ。
「ずっと俺の隣にいてね」

〈おわり〉
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