腐男子♥異世界転生

よしの と こひな

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72話 イバラ王 -1-

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 その夜から三週間ほどが過ぎ、季節は夏休みの入口に差し掛かっていた。その日、午前中の学院は、いつも通りの静けさに包まれている――のだが、どこか妙な気配があった。

 あちこちの空気が落ち着かない。
 視界の端で職員たちがひそひそと短い言葉を交わしてすぐに姿を消す。
 何かがおかしい。
 そんな中、ボンシャン寮監が、教室の窓からでも分かるほど血相を変えて回廊を走っていくのが見えた。向かっている先は、ガルディアンたちの詰めている管理室のほう。
 普段冷静沈着なあの人が、あそこまで慌てるなんて。リュドヴィック・シルヴァン・オベール警備官の義足が壊れたとき以来だ。
 これはただ事ではない。
 胸の奥で、嫌なざわつきが小さく生まれる。生まれたそれは、昼前ころには手に負えないほど大きく育っていた。

 そこへ――休み時間、次の教室へと移動している最中、奇石が明滅し胸元にかすかな温もりを伝えて来る。
 ネージュからの通信だ。
レシピオ・ヴォカ受信
 風を切る羽音とともに声が届いた。
《おい、セレス。なんか大変なことが起きたらしい。一年だけじゃなく、学生の伝書使クーリエ全員が一旦、帰されることになった。今から戻る。とにかく、寮の中庭か屋上に俺はいるから》

 帰される?

「……ネージュ、何があった?」
《分からないが……、どこかの部隊にけが人が出ているんじゃないのか? ボンシャンの伝書使クーリエオレリアンが呼ばれていたから。ルシアン・ボンシャンって学院で教鞭をとっているが、医者だろ?》
「俺も、ボンシャン寮監の姿を教室の窓から見た。どこかへ行こうと急いでいるようすだったが……、妙だな。何を隠しているんだろう」
《それなんだよ。嫌な感じがすんだよな……》
「……俺もだ――」

 通信が途切れたあとも、不安の残り香が消えない。
 教室に入った瞬間、いつもの気配がないことに気づいた。水属性のおきな(おきな)の姿が、どこにもなかったのだ。
 黒板の前には、代わりに職員が一人立っていて、ざわつく学生たちを手振りで静めると、簡潔に告げる。

「本日の午前中の授業は中止です。皆さん、昼食までは寮室から出ず、各々の部屋で待機してください。昼食は通常通り。決まった時間に取って構いません。午後の授業については、今のところ予定通りです」

 理由は言わない。
 言わない、というより――言えない、のほうが近い気がした。
 オレリアンの呼び出し、ボンシャン、翁の不在。
 胸のざわつきはもう警鐘に変わっていた。

 そして昼食。
 食堂に集まった四人の間にも、言葉にできない緊張が流れる。

「……なにが起きているのか、全く情報が降りてこない」
 リシャールが静かに呟く。
「シャーにも伝わっていないのですか?」
 ナタンは眉を寄せ、スープをくるくると、しかし落ち着かない手つきでかき混ぜていた。
「いくら鈍い王太子殿下でも、まったく情報が入らないのはおかしいです。学院は、シャーが心配して動き回る前に、まずシャーにだけは裏でこっそり伝えておくべきではないでしょうか。下手に動くと邪魔にしかなりかねないシャーをおとなしくさせるためにも」
「……おい、ナタン。そろそろギロチンにかけるぞ?」リシャールがじろりと睨む。「ギロチンより、アイアンメイデンのほうが静かでいいか? それとも逆に賑やかにしたほうが楽しいか? 青銅の雄牛ファラリスの雄牛にでも入ってみるか?」
「シャー、真実は痛いと申します。図星を突かれると人は反発する生き物です」
 ナタンは涼しい顔で答え、スープを混ぜ続ける。

 ――……益々、仲がいいな、この二人。
 言い合いながらも、呼吸の合わせ方が絶妙だ。

 その間、アルチュールはずっと俺の様子を横目で見ていた。
 テーブルの下では、彼の指先がこっそり俺の手に絡められているが、たぶん、俺自身が落ち着かないことを分かっているのだろう。
「セレス、大丈夫か?」
「……ああ。でも……なんか、胸騒ぎがする」
 俺の答えに、アルチュールは唇を結び、リシャールは考え込む素振りを見せた。
 空気が一瞬、重く沈むように感じられる。

 そして、俺たちが食事を終えて午後の授業に向かおうとしていた、そのときだった――。
 食堂の入口に、デュボアが姿を現す。髪が少し乱れ呼吸も浅い。走って来たのだろう。
 ただならぬ様子で、まっすぐこちらに向かってくる。

「コルベール──来てくれ」

 名指し。
 しかも、即座に従えという声音。
 アルチュールも、殿下も、ナタンも立ち上がった。

「ヴィクター・デュボア寮監、何が起きたのですか?」
 リシャールが問うと、デュボアは目を伏せて一言だけ答えた。
「……ボンシャン先生に呼ばれたのはセレスタン・ギレヌ・コルベールだけだ。君たちは午後の授業に出席しなさい。さあ、コルベール、急げ」

 その表情に、血の気が引く。
 胸騒ぎは、確信へと変わった。
 ──良くないことが起きている。

「セレス、食器は返却しておく」
 アルチュールの声に、ふと我に返る。
「……行ってくる」

 デュボアに先導されながら、俺は足早に食堂を後にした。行き先は告げられず、胸のざわつきだけが歩調を早める。
 どこへ向かっているのか分からなかったが、無言のままついていくと学院の敷地を横切り、やがて鼻先に草と獣の匂いが混じる気配が漂い始めた。
 ──ガルディアンの馬が常駐している厩舎だ。

 門をくぐると既にカナードが使い魔の風蛇ふうじゃザイロンを従えて待っていた。
「セレス、乗って下さい」
 低く静かな声に、背筋がひやりとする。
 ザイロンの鱗は陽光を受けて水面のようにきらめき、どこか不吉なほど美しい。
 飛び乗って手綱を握ったカナードがそっと手を差し伸べてきて、俺はそれに触れ軽く握り返した。さらに、落ちないようにと、彼は自分の前に座らせて支えてくれる。胸と腕に背を預ける形で、俺は鞍に跨った――と同時に風蛇ふうじゃザイロンは翼を大きく羽ばたかせ、滑らかに空へと飛び上がる。
 地面が瞬く間に遠ざかっていく。
 翼の震動が背中越しに伝わり、強い風圧が全身を削ぐ。日の光は初夏らしく眩いのに、胸の奥は重く沈むばかりだ。

 しばらく沈黙のまま飛翔が続いた。
 けれど堪えきれず、俺の喉の奥からかすれた声が漏れた。
「……なにが、あったんですか……?」
 カナードがわずかに息を整えた気配がした。
 言葉を選んでいる──そんな間があった。
「……あなたも……、関係していることですので……」
 胸がざわりと波立つ。
 カナードは続けた。
「ルクレールが……重体です」
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