3 / 32
【3】婚約破棄を撤回(アリシア視点)
しおりを挟む「アリシアお嬢様っ、あの、アルフレッド殿下が、いらっしゃいました! 貴賓室でお待ちいただいておりますので、お、お願いします!」
日頃は沈着冷静を絵に描いたような執事のオリバーが慌てているので何事かと思ったら、本当に驚きの来訪者の名前を口にした。
アルフレッド殿下がこの家に来た?
冷たい目で婚約破棄だと言われたのは、ほんの三時間前のこと。
殿下が来ることなど無いと言い切れるわ。
お父様に婚約破棄の件で何か伝えに来るとしても、それは殿下ではないはず。
それだって呼び出すことはあってもここには来ない。
「待って、それはどの世界のアルフレッド殿下のことなの? いやね、からかって。
私が知っているアルフレッド殿下なら、ここにいらっしゃるわけはないわ」
「どの世界ってこの世界のアルフレッドだ。……本当にあの菓子を全部持って帰ったのだな」
「え?」
キラキラした何かがそこにいる……。
アルフレッド殿下が私の部屋に入ってきたような立体感あふれる幻が見える。
私は幻が見えるくらいに婚約破棄に打ちのめされたというの?
「婚約者どの、少し邪魔をする。あ、私にも茶をくれないか。茶もなしに甘い菓子は食べられないからな」
「ほ、本物!」
「まるで幽霊にでも遭ったみたいに」
「……幽霊はこんなに眩しくないかと……」
オリバーは貴賓室に通したと言ったような気がするけれど、本物の殿下が私の部屋のソファに座り、さっき私が王宮から持ち帰った菓子をつまんで口に入れている。
キラキラ眩しいわ……夜なら灯りの節約になるのに。
ちょっと待って、今、婚約者どのと言った……?
「オ、オ、オリバー! お、茶とお菓子を、ア、アルフレッド殿下に……お、出しできる……お、菓子を……すぐに、持ってきて……」
最初は大声だったのに、最後は小さな声になって膝から崩れ落ちそうになる。
いったい何が起こっているの? どうして殿下がこの家に来ているの?
「菓子がこれだけあるのにまだ足りないのか」
「いいえ、そんな……私が適当にナプキンで包んで持ち帰ったものを、今ここでアルフレッド殿下に召し上がっていただくわけには……いかないと言いますか……。きちんとしたお菓子をお出ししなければ……」
「菓子はどうでもいいからとにかく座らないか? 話があるんだ、アリシア嬢」
私がのろのろとソファの端に浅く腰を下ろしたかどうかくらいの早すぎるタイミングで、オリバーが侍女と共にお菓子とティーセットを運んできた。
こんなに迅速に持ってきてくれたのに、ノックスビル家の紋章の入った正式なティーセットに、美しく模様切りされた果物まである。
水差しも一緒に持ってきてくれたオリバーの気遣いが嬉しい。
私は『失礼します』と殿下に声を掛け、水差しの水をグラスに二度継ぎ足して飲んだ。
本当に失礼な態度だが、ここで呼吸困難で倒れるよりはマシだと思いたい。
やっと息ができるようになった。
「急にやってきたりしてすまなかった。どうしても今日中に話をしたかったんだ」
「婚約破棄のお話でしたら、後で父に申し上げるつもりでおりました。まだ何も話せておらず、大変申し訳ございません……」
ゆっくりお菓子を食べてから父の執務室に行けばいいかなんて、悠長に構えていたことを後悔した。
でもお父様からお叱りを受ける前に、甘いものを補充しておきたかった。
お父様の小言は始まると長いのだから。
「まだ公爵には何も伝えていないのだね? 他の者には?」
「は、はい、本当に申し訳ありません。誰にも話すことができておりません。今すぐにでも父に報告に参りたく思っております」
「ああ……よかった……。実は先ほど婚約破棄と言ったのは、その……冗談だったんだ。
君を驚かせてみたくてあんなことを言ってしまった。頃合いを見て戻ったら、君はもういなかった。
それで慌てて謝りにやってきたというわけで」
「……ご冗談……だったのですか……」
婚約破棄というのは、冗談……。
信じた私が帰ってしまったから、慌てて謝りにやってきたと……。
鼻の奥がツンと痛み、涙がじわじわやってくる。
婚約破棄は冗談。
……そんな言い訳を誰が信じるというの。
あの時のアルフレッド殿下の冷たい目は、冗談を言って驚かせようというものではなかった。
面倒なものを切り捨てたい気持ちが、美しい顔にありありと浮かんでいた。
私が受け入れたら、ずいぶんあっさりしたものだと、でもここで泣いて縋られるよりはいいか冷たくと言ったことをお忘れになったというの?
突然過ぎて、息もうまく吐けなかったあの瞬間が冗談だった?
いったい殿下の真意はどこにあるの。
ここまで馬鹿にされるほど、私が何かやってしまった記憶はない。
婚約破棄と告げられた時と同じ悔しさがこみ上げ、こらえていた涙が落ちた。
「アリシア嬢、泣かないでくれ……。本当に悪かった」
そう私を覗き込むアルフレッド殿下の目は、確かに困っているように見える。
悪かったという言葉どおりの気持ちが、美しい青い瞳に浮かんでいる。
殿下が何を考えているのか真意がまったく分からないけれど、ここはとにかく殿下の望むストーリーに流されておくのがいいように思えた。
本当のことはいずれ分かる日がくるはずだから。
「アルフレッド殿下……私は婚約破棄と言われて目の前が真っ暗になりました……。ご冗談でしたなら、本当によかった……」
「いくらなんでも戯れが過ぎたと心から反省している。どうか許してほしい」
「分かりました、殿下。もうこのような冗談はおやめになってくださいね」
「ああ、約束する。このような戯れは二度と口にしない」
「ホッとしたら喉が渇きましたわ。殿下もどうぞお茶をお召し上がりください」
アルフレッド殿下こそが、誰が見ても分かるくらいにホッとした顔でお茶を飲み始めた。
ここがどこなのか思い出したように、部屋の中を遠慮なく見回している。
「明日の妃教育にもこれまでどおりに」
「かしこまりました。いつもの時間に参ります」
殿下がお茶を飲んでいるその姿は、なんとも言えず美しい。
昼間に見た時は煽るように一気に飲み、作法も何もあったものではなかった。
今は茶器を大切に扱いカチャリと音もたてず、お茶をすするようなこともしない。
オリバーが持ってきたお菓子をきれいに食べる姿は、思わず見惚れてしまうほどに優雅だ。
でも私はこの美しい顔にはもう騙されないわ。
いつもとは違うことが起きたとき、たいていそこには誰かの手や誰かの考えが存在するもの。
婚約が決まってからも、一度もこの家に足を向けたことのない殿下がわざわざやってくるだけの『理由』が必ずあるはずだった。
この美しい婚約者のために悔し涙をこぼすことはこれで終わりにしようと私は決めた。
***
「ノックスビル公爵殿、突然やってきて驚かせてしまった。アリシア嬢にちょっとした急ぎの用事があったのだが、よくよく考えれば明日でもよかった」
「いえ、きちんと応対できず申し訳ございません。どうぞまたお越しください、いつでも殿下を歓迎いたします」
アルフレッド殿下が帰っていき、私は玄関までお見送りをしたあとそのままお父様の執務室へ連れて行かれた。
途中で弟のハーヴェイが絡んできた。
「アルフレッド殿下がやってくるなんて、姉上は何かヘマでもしたのですか?」
「な、なんでそうなるのかしら。たいした理由はないわ」
「たいした理由もなく殿下は王室の馬車で来られたのですね、たいした理由もなく」
「そうよ、殿下といえどもそんな気持ちになることもあると思うわ、たぶん」
そういうことにしておきましょうと言いながら、ハーヴェイは自室のあるほうへと歩いて行った。
同じことをお父様にも繰り返し言うのかと思うと、こめかみのあたりがズキズキしてくる。
そして確実にお父様は、ハーヴェイみたいに途中で切り上げたりはしないわ……。
納得のいく理由がみつかるまでとことん追求されそうだった。
「アリシア、アルフレッド殿下といったい何があったのだ? 突然王室の馬車がやってきたと、あのオリバーが走ってこの部屋まで来たのだ。私も椅子から転がり落ちそうになった。
走りながらオリバーはあちこちに指示を出し、すぐに料理人がとりあえずのフルーツを切り始め、庭師は殿下を迎えるためのバラを切ったがこれは間に合わなかった。屋敷中が養蜂箱をひっくり返したような騒ぎになった」
「……お騒がせして申し訳ありません。アルフレッド殿下は、私がお妃教育の時に忘れてきたものを通りがかりに届けてくださったのです。明日私が王宮に向かった時でもよかったのですが、殿下のお気遣いをいただいてしまいました」
これまで一度も婚約者の家にやってきたことがないアルフレッド殿下が、護衛をひとり付けただけで王室の馬車でやってきたのだから、それは騒ぎになるわ。
そんなことを想像できない殿下ではないでしょうに、そうなることを分かった上で今日のこの時に『婚約破棄は冗談だった』と言う必要があったということ。
その理由が分からない以上、婚約破棄のあたりをお父様に言わないでおいたほうがよさそうだと判断した。
ただ、忘れ物を届けてくれたなどというへたくそな言い訳を、お父様が果たして信じるかどうか。
「特に殿下との間で、何か問題があったわけではないのだな?」
「はい。何の問題もありません。明日も普通にお妃教育に参ります」
「それでは殿下はただ単に、おまえの忘れ物に乗じておまえの顔を見に馬車を飛ばしてやって来たと、そういうことでいいのだな?」
「……はい……私が……今のお父様のお言葉に対して、そうですと言うのもどうかとは思いますが……」
殿下が私の顔を見に馬車を飛ばしてやって来た、そんなふうに言われて顔が熱くなる。
全然そんなロマンティックな話ではないのに、殿下の端整な顔を思い出したらこれだから、私は馬鹿みたいに単純だわ。
そっと父様の顔を窺う。
私の顔がたぶん赤くなったのを見逃さなかったのか、やっと警戒を解いた表情になったから、これはこれでよかったのかもしれない。
美しい顔の正しい使い道だった……ということにしておきましょう。
私室に戻ってソファに座ると、今日の疲れがどっと出て布地に染みこんでしまいそうだ。
じっくりと考えなければならないことがあるのに、今は何もしたくない。
とりあえず明日のお妃教育に出向いてから考えることにして、残っていたフルーツとお菓子を平らげる。
平らげてから、もしかしてアルフレッド殿下が手をつけたものまで食べてしまった? そう気づいて転がり回りたくなるほど恥ずかしくなる。
ついさっきまでここにアルフレッド殿下がいたのね……。
婚約破棄をたった三時間で撤回された。
そもそもどういう理由で婚約破棄だと言われたのかも分かっていないのに、それを撤回した理由なんて更に分かるわけがないわ。
あの美しい顔に騙されないようにと思いながらも、ひとまず婚約が継続されることになって安心する自分もいた。
そして頭の中のノートに『婚約破棄の撤回理由は?』と書き込んだ。
262
あなたにおすすめの小説
婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~
ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」
義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。
父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。
けれど――
公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。
王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。
さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。
そして下されたのは――家ごとの褫奪。
一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
継いだのは責任。
正統は叫びません。
ただ、残るだけ。
これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
“本当に継がれるべきもの”を証明する物語。
政略結婚だからと諦めていましたが、離縁を決めさせていただきました
あおくん
恋愛
父が決めた結婚。
顔を会わせたこともない相手との結婚を言い渡された私は、反論することもせず政略結婚を受け入れた。
これから私の家となるディオダ侯爵で働く使用人たちとの関係も良好で、旦那様となる義両親ともいい関係を築けた私は今後上手くいくことを悟った。
だが婚姻後、初めての初夜で旦那様から言い渡されたのは「白い結婚」だった。
政略結婚だから最悪愛を求めることは考えてはいなかったけれど、旦那様がそのつもりなら私にも考えがあります。
どうか最後まで、その強気な態度を変えることがないことを、祈っておりますわ。
※いつものゆるふわ設定です。拙い文章がちりばめられています。
最後はハッピーエンドで終えます。
婚約破棄したその場から、ざまぁは始まっていました
ふわふわ
恋愛
王国随一の名門、アルファルド公爵家の令嬢シャウラは、
ある日、第一王子アセルスから一方的に婚約を破棄される。
理由はただ一つ――
「平民出身の聖女と婚約するため」。
だが、その“婚約破棄したその場”で、ざまぁはすでに始まっていた。
シャウラは泣かず、怒らず、抗議もしない。
ただ静かに席を立っただけ。
それだけで――
王国最大派閥アルファルド派は王子への支持を撤回し、
王国最大の商会は資金提供を打ち切り、
王太子候補だったアセルスは、政治と経済の両方を失っていく。
一方シャウラは、何もしていない。
復讐もしない。断罪もしない。
平穏な日常を送りながら、無自覚のまま派閥の結束を保ち続ける。
そして王国は、
“王太子を立てない”という前代未聞の選択をし、
聡明な第一王女マリーが女王として即位する――。
誰かを裁くことなく、
誰かを蹴落とすことなく、
ただ「席を立った」者だけが、最後まで穏やかでいられた。
これは、
婚約破棄から始まる――
静かで、上品で、取り返しのつかないざまぁの物語。
「私は何もしていませんわ」
それが、最強の勝利だった。
悪役令嬢は自称親友の令嬢に婚約者を取られ、予定どおり無事に婚約破棄されることに成功しましたが、そのあとのことは考えてませんでした
みゅー
恋愛
婚約者のエーリクと共に招待された舞踏会、公の場に二人で参加するのは初めてだったオルヘルスは、緊張しながらその場へ臨んだ。
会場に入ると前方にいた幼馴染みのアリネアと目が合った。すると、彼女は突然泣き出しそんな彼女にあろうことか婚約者のエーリクが駆け寄る。
そんな二人に注目が集まるなか、エーリクは突然オルヘルスに婚約破棄を言い渡す……。
【完結】氷の令嬢は愛を請わない - 捨て子の『義妹』に愛も家族も奪われたマリーローズの逆襲
恋せよ恋
恋愛
銀髪紫眼の美貌の侯爵令嬢、マリーローズ。
完璧な淑女に育った彼女だったが、母は捨て子ジュリエットを寵愛。
婚約者の公爵家嫡男アレックスも、友人も、次々に奪われる――。
家族に裏切られ、すべてを失った彼女が下した決断は、
家族を見かぎり、国を捨て、自らの人生を取り戻すこと。
理不尽な悲恋を力に変え、運命をひっくり返す令嬢の逆転劇!
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
【完結】断罪された悪役令嬢は、本気で生きることにした
きゅちゃん
ファンタジー
帝国随一の名門、ロゼンクロイツ家の令嬢ベルティア・フォン・ロゼンクロイツは、突如として公の場で婚約者であるクレイン王太子から一方的に婚約破棄を宣告される。その理由は、彼女が平民出身の少女エリーゼをいじめていたという濡れ衣。真実はエリーゼこそが王太子の心を奪うために画策した罠だったにも関わらず、ベルティアは悪役令嬢として断罪され、社交界からの追放と学院退学の処分を受ける。
全てを失ったベルティアだが、彼女は諦めない。これまで家の期待に応えるため「完璧な令嬢」として生きてきた彼女だが、今度は自分自身のために生きると決意する。軍事貴族の嫡男ヴァルター・フォン・クリムゾンをはじめとする協力者たちと共に、彼女は自らの名誉回復と真実の解明に挑む。
その過程で、ベルティアは王太子の裏の顔や、エリーゼの正体、そして帝国に忍び寄る陰謀に気づいていく。かつては社交界のスキルだけを磨いてきた彼女だが、今度は魔法や剣術など実戦的な力も身につけながら、自らの道を切り開いていく。
失われた名誉、隠された真実、そして予期せぬ恋。断罪された「悪役令嬢」が、自分の物語を自らの手で紡いでいく、爽快復讐ファンタジー。
婚約破棄されたその後は、何も起きない日々でした
ふわふわ
恋愛
婚約破棄――
それは、多くの令嬢にとって人生を揺るがす一大事件。
けれど彼女は、泣き叫ぶことも、復讐に走ることもなかった。
「……では、私は日常に戻ります」
派手なざまぁも、劇的な逆転劇もない。
彼女が選んだのは、線を引き、基準を守り、同じ判断を繰り返すこと。
王宮では改革が進み、領地では生活が整えられていく。
誰かが声高に称えられることもなく、
誰かが悪役として裁かれることもない。
それでも――
混乱は起きず、争いは減り、
人々は「明日も今日と同じである」ことを疑わなくなっていく。
選ばない勇気。
変えない決断。
名を残さず、英雄にならない覚悟。
これは、
婚約破棄をきっかけに
静かに日常を守り続けた一人の令嬢と、
その周囲が“当たり前”を取り戻していく物語。
派手ではない。
けれど、確かに強い。
――それでも、日常は続く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる